葬儀の席で、長谷川龍一は妻の写真を何度も見つめていた。妻が死んでから十日。突然の脳出血で倒れ、三十時間も持たなかった。遺体の準備も役所の手続きも、すべて一人でこなした。息子の大輝は電話を折り返すのに六時間かかり、甥の柴田直人は「すぐ行きます」と言いながら翌日の夕方に現れた。
式が終わり、骨を拾い、家に帰った夜、龍一は焼酎を三本飲んで何も食べずに眠った。そして今日、初七日の後の食事会が開かれた。誰かが「せっかくだからちゃんとした席を」と言い出し、最上の隣の小料理屋に場所が決まった。
八人用の個室に、兄弟の克巳が上座を取った。七十歳で定年退職した兄は、細身で背が低く、鼻の下に細い口髭を生やしている。その妻の節子が徳利を傾けながら「隆一さん、もう少し召し上がれ」と勧めた。隣には甥の直人が座っていた。三十五歳で、オーダーメイドのスーツに細いネクタイピン。電子機器の卸会社で営業部長を務め、「去年新型のアルファードを買った」と何かにつけて話が出る。その妻の七子も、大人しそうな見た目だが話し方に遠慮がない。
龍一の正面には息子の大輝がいた。直人と同じ三十五歳だが、スーツは持っていない。皺のついた黒いジャケットに、首元は緩く、ネクタイもない。
酒が回り始めると、直人が話題を切り出した。
「叔父さん、今後のことですけど。土地や家の名義、ちゃんと整理しておかないと、後で面倒ですよ」
節子が相槌を打つ。「そうよ、隆一さん。一人だと何かと大変でしょうから」
龍一は手元の弁当を見つめたまま答えなかった。妻の遺影が、額縁の中から静かにこちらを見ている。
「親父」と大輝が口を開いた。「俺は別に何も要らないから。でも、ちゃんと手続きだけはしておいてくれよ」
直人が頷いた。「そうそう。財産っていうほどのものじゃなくても、揉める原因になるからね。特に叔父さん、あの家は古いけど土地はそこそこ値が付くでしょ」
龍一は焼酎のグラスを手に取った。「……まだ、そんな話をする気はない」
直人は笑みを浮かべたまま続けた。「気持ちは分かりますよ。でも、奥さんが亡くなった今、叔父さんが何かあったら誰が面倒を見るんですか。やっぱり家のことはきちんと決めておかないと」
節子が小さく頷く。「直人さんの言う通りよ。隆一さん、私たちがいるんだから、遠慮しなくていいのよ」
龍一は黙って酒を一口飲んだ。妻の写真では、彼女がわずかに微笑んでいる。五年前の写真だ。この女は、こんな笑い方をする女だったか──と今更のように思った。
その夜、龍一は自宅に戻ると、押し入れの奥から妻の遺品の箱を出した。中には古い通帳と、見たことのない封筒が入っていた。封筒には妻の字で「もしもの時に」と書かれている。中を開けると、不動産の権利書と、妻が書いた短い手紙があった。
「隆一さん。あなたが一人で抱え込むのが分かっているから、これを書いておきます」
手紙の最後には、財産はすべて大輝に、とあった。龍一は手紙を読み終え、しばらくその場に座り込んだ。
翌朝、直人から電話があった。
「叔父さん、昨日の話、どうなりました? いい機会ですから、役所に行って手続きの下調べでもしましょうか」
龍一は黙って電話を切った。そして、通帳を開いた。残高は、想像していたよりはるかに多かった。妻は何年間も、家計から少しずつ貯めていたのだ。
龍一は妻の手紙を読み返した。「大輝に」とある。しかし大輝は昨日、何も要らないと言った。直人は欲しそうだった。
龍一は窓の外を見た。梅雨の雨が、静かに降り続いている。



