「おばあちゃん、3億円全部お父さんとお母さんに渡すの?」
孫のゆとが、今まで見たことのない真剣な表情でそう尋ねてきました。
ええ、みんなの将来のためにね、と私は答えたけれど、ゆとは少し黙り込み、視線を落としました。
「そのお金はおばあちゃんが使った方がいいと思う。」
どうして?と聞くと、ゆとは何かを言いたそうで、でも言えないような複雑な顔をしていました。
夫の遺産と自分の貯金を合わせて3億円。
夫が教師として勤め上げた退職金や生命保険、そして堅実な投資の結果です。
私自身も長年働いて貯めてきました。
自分では使いきれないし、家族のためになるならそれでいい。
そう思って、生前贈与をするつもりだったのです。
でも、その夜、ゆとの言葉が胸に引っかかって離れませんでした。
息子たちは何かを隠している……いえ、そんなはずはありません。
でも、もしかしたらという小さな不安が、静かに芽生え始めていました。
数日後、私は息子の琢磨とその妻のリカを自宅に呼びました。
リビングのテーブルには、税理士に作ってもらった生前贈与の資料を並べています。
琢磨は仕事帰りのスーツ姿、リカは上品なワンピース姿で、2人とも笑顔で挨拶をしてくれました。
「母さん、わざわざ呼んでくれてありがとう。生前贈与の話、進めてくれるんだね。」
「お母さん、私たちも色々と準備を始めているんです。」
その言葉に、私は少し違和感を覚えました。
まだ具体的な話をしていないのに、もう準備?
「ええ、税理士さんに相談したの。相続税のことを考えると、早めに対応した方がいいって言われて。」
「そうだよね。僕たちもそう思ってた。お母さん、本当にありがとうございます。」
声のトーンが明るくなっています。
でも、その明るさが妙に気になりました。
「実は、夫の遺産と私の貯金を合わせて、総額で3億円ほどあるの。」
次の瞬間、2人の空気が変わりました。
リカが息を飲む音が聞こえ、琢磨も目を見開いてリカと顔を見合わせます。
「3億……そんなに。母さん、すごいな。」
「3億円も……想像以上です。」
2人の表情が、明らかに興奮しています。
私は資料を2人の前に置きました。
「年間110万円までなら贈与税がかからないから、数年かけて少しずつ進めようと思うの。」
リカの笑顔が、少し硬くなりました。
「数年ですか?」
「ええ、税理士さんからも急ぐ必要はないって言われたから。」
リカは琢磨の方を見ます。琢磨も少し戸惑った表情を見せましたが、すぐに笑顔を作りました。
「そうだね。確かに焦る必要はないか。」
でも、リカはまだ何か言いたそうでした。
「あの、お母さん。3億円もあるなら、もう少し早めに進めることはできませんか?」
「早めに?」
「実は家のローンもありますし、ゆとの大学進学も控えているんです。3億円もあれば、もっと余裕を持って計画できるかと。」
私の中で、ゆとの顔が浮かびました。
あの真剣な表情。何か言いたげだった目。
私の中で少しずつ芽生えていた不安が、大きくなっていくのを感じます。
「もちろん、お母さんのペースで構いません。でも、私たちも生活設計がありまして。」
「リカ、母さんが決めることだから。」
「分かってます。でも、せっかく3億円もあるんですから、正直にお話した方がいいかと思って。」
私は2人の顔を見つめました。
そこにあったのは、感謝というよりも期待。
いえ、もしかしたら計算かもしれません。
「そうね。少し考えさせて。」
「是非、前向きにご検討ください。3億円もあれば、私たち本当に助かります。」
「リカ、そういう言い方は。」
「だって、本当のことでしょ?ローン返済もあるし、教育費だって。」
2人の会話を聞きながら、胸の奥が重くなっていきます。
お金の話をしている時の顔が違う。
3億円という金額を知ってから、特に。
ゆとの言葉が、頭の中で繰り返されます。
その後、お茶を出して少し雑談をしましたが、話題はすぐにお金のことに戻りました。
「お母さん、3億円もあれば、老後も十分安心ですよ。」
リカの言葉に、私は何も答えられませんでした。
2人が帰った後、私はゆとの顔を思い浮かべながら、資料を眺めていました。
そして、私はある決心をしました。
この3億円を、本当にこの2人に渡していいのか。
今すぐ答えを出すのではなく、一度、自分自身と向き合ってみよう。
家族のためと思っていたお金が、もしかしたら家族を壊すことになるのかもしれない。
私はゆとに、もう一度話を聞いてみることにしました。
数日後、ゆとを自宅に呼びました。
「ゆと、この前の話だけど、もう少し詳しく聞かせてくれる?」
ゆとは少し迷った後、静かに話し始めました。
「おばあちゃん、お父さんとお母さん、最近ずっとお金の話ばかりしているんだ。」
「家を買い替えたいとか、新しい車が欲しいとか。」
「それに、僕が大学に行くって決まったら、学費も全部出してもらえるって喜んでいたけど、なんか悲しかった。」
「だって、おばあちゃんが頑張って貯めたお金でしょ?」
「おばあちゃんが、自分のために使ってもいいんだよ。」
私は涙が出そうになりました。
この子は、私のことを本当に思ってくれているのです。
そして、私は決めました。
生前贈与をやめることにした、と息子たちに伝えるために、もう一度、2人を呼ぶことにしました。
その日の夜、私は電話をかけました。
「琢磨、明日また話があるの。リカも連れて来てくれないか?」
「ああ、いいけど。何かあったのか?」
「うん、大切な話だから。」
翌日、2人がやってきました。
リビングに並べたのは、生前贈与の資料ではなく、私がこれから使うための老後設計書でした。
「実はね、贈与の話をやり直したいの。」
2人の表情が、一瞬で固まりました。
「やり直すって……どういうことですか?」
「3億円を、いきなり全部渡すのはやめることにしたの。」
「老後のことを考えて、必要分を自分で残すことにした。」
「それから、ゆとの教育費は、私が直接、口座に振り込むことにする。」
しばらく沈黙が続きました。
リカの顔が、みるみるうちに強張っていきます。
「お母さん、それはちょっと……考え直していただけませんか?」
「私たち、もうローンの借り換えも進めてたんです。」
「リカ、母さんが決めたことだ。」
琢磨はそう言いましたが、声には苛立ちが混じっていました。
「でも、3億円もあるのに、どうして自分だけのために使うんですか?」
「私たちだって、家族ですよ。」
その言葉に、私は静かに首を振りました。
「家族だからこそ、ちゃんと考えたいの。」
「お金をあげることが、必ずしも家族の幸せじゃないって気づいたのよ。」
「それに、ゆとはこう言ったの。おばあちゃんが自分のためにお金を使うべきだってね。」
2人は何も言い返せませんでした。
その日から、家族の距離は少し変わりました。
琢磨もリカも、連絡はしてきますが、以前のような明るさはありません。
でも、私は後悔していません。
ゆとが教えてくれたこと。
お金は、幸せのために使うもの。
誰かにあげたからといって、本当の幸せになるわけじゃない。
私はその年、ゆとのために、大学の入学祝いを別に用意しました。
そして、自分自身のために、長年行きたかった夫の故郷を訪れる旅に出ることにしました。
いつか、ゆとが大人になった時、この話をしてあげたいと思います。
「あなたが言ってくれたあの一言で、私は自分の人生を生きることを選んだんだよ。」
ゆとは、きっと笑顔でうなずいてくれるでしょう。



