「学歴もない高卒が、よく2年もここに居座れたわね。神経が太すぎるのよ」
5月の朝、渋谷区の三坂テクノロジー株式会社。社長室の窓から差し込む朝日の中で、三坂カナは書類にサインしながら、立たされた少女を見ようともしなかった。
「論理的思考がゼロの高卒がIQ200だなんて自称してるの、笑えるわ。身の程を知りなさい。今日付けで解雇。学歴のない底辺には、うちの仕事は無理よ。とっとと消えてちょうだい」
白いブラウスに薄いメガネ。高校を卒業したばかりの小柄な少女、宮下ほのかは18歳。確かに高卒だった。しかし、その目は恐怖でも怒りでもなく、静かな光を宿していた。
秘書が口元に薄い笑みを浮かべて呟いた。「当然ですよね。学歴も経歴もない方がいつまでも居座れるはずが」
ほのかは最後まで言葉を聞かなかった。静かに顔を上げ、深く一礼した。
「分かりました。失礼します」
怒りも涙も言い訳も一切なかった。廊下で社員たちが息を飲んで見送る。誰かが小さく呟いた。「大丈夫なのか…」
あの静かな「分かりました」の裏に何が隠されていたのか——そして、翌朝この会社に何が起こるのか。誰も知らなかった。
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2年前の秋。高校2年生の宮下ほのかが初めて三坂テクノロジーの会議室に現れた。手さげバッグに薄いノートPCを1台だけ入れた制服姿の少女。そのPCは5年使い込まれた安物だった。
迎えたのは創業者の三坂俊之会長。「君が見やしたほのかさんか。特許庁の審査官から前代未聞の発明があると連絡があってね。是非直接会いたかった。まさか高校生とは思っていなかったけれど」と、年齢を感じさせない温かい笑顔で迎えた。
ほのかが16歳で開発したAIチップアーキテクチャ「炎アーク」。半導体業界の常識を根底から覆すものだった。海外の研究機関からも引き合いが殺到していた。特許を担当した弁理士でさえ、高校生がこの発明をしたと絶賛した。
「特許はあなたのものです。うちの会社で独占ライセンスをさせてほしい。毎月の報酬に加えて、特別技術顧問として在籍してほしいんです」
「分かりました。でも、一つだけ条件があります」
「何でしょう?」
「ライセンスは私が顧問職にある間のみ有効とする条項を加えてください。それだけです」
俊之はその場で顧問弁護士に連絡を取り、契約書の修正を指示した。ほのかは淡々と署名した。こうして炎アークの使用権は、宮下ほのかの在籍にのみ連動する形となった。俊之は深く考えなかった。念のため程度に受け取っていた。しかし後に、この一文が会社の命運を握ることになる。
ほのかには複雑な事情があった。シングルマザーの母と東京の古いアパートで二人暮らし。母は清掃のパートで生計を立てていた。ほのかは幼い頃から数学とプログラミングの才能を発揮していたが、家庭の事情で大学進学は諦めざるを得なかった。高校卒業後、すぐに働かなければならなかったのだ。
顧問職に就いてからも、ほのかは決して目立たなかった。毎朝9時に出社し、自分のデスクで黙々と研究を続けた。会議では必要なことだけを簡潔に話した。社員たちの間では「謎の少女」「化け物」と囁かれたが、ほのかは気にしなかった。ただ、静かに仕事を続けた。
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「なんであんな高卒が特別技術顧問なんだよ」「会長のコネじゃないの?」「給料、いくらもらってるんだろうな」
社員たちの噂話は絶えなかった。三坂カナがその噂を聞きつけたのは、ほのかが入社して1年が過ぎた頃だった。カナは慶應大学を卒業し、親である俊之から会社を引き継いだばかりだった。自身の経歴に絶対的な自信を持っていた。高卒の少女が特別な待遇を受けているのが、我慢ならなかった。
「お父様、あの高卒を特別技術顧問なんて地位に置くのはおかしいですわ。会社の信用に関わります」
「カナ、彼女の才能は本物だ。あなたが思っている以上に」
「才能? 高卒のくせに何が才能ですの。所詮、綺麗ごとですわよ」
俊之はため息をついた。「カナ、彼女の開発した技術がうちの会社を支えている。それを忘れてはいけない」
しかしカナは聞く耳を持たなかった。父の言葉が自分よりもあの少女を評価しているように感じた。嫉妬が心の中で燃え上がった。
半年後、カナは父の隠居に伴い、完全に社長の座を継いだ。そして最初の人事異動で、ほのかの処遇を決めることになった。
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解雇を言い渡された翌朝。ほのかは朝早くから研究室にいた。机の上には、自分が開発した最新の回路設計図が置いてあった。それを静かにバッグにしまい、辞表を置いた。誰にも知られず、最後の仕事を終えた。
同日の朝9時。三坂テクノロジーのメインシステムが突然停止した。次に、社内の全てのパソコンが起動しなくなり、続いて生産ラインが止まり、そして特許管理システムへのアクセスが遮断された。社内は混乱に包まれた。
カナは慌てて技術部門に連絡した。「何が起きてるの!早く復旧させなさい!」
技術部長が青ざめて答えた。「社長、システムのロックを解除できる鍵は、宮下ほのかさんが持っていたものです。しかも…」
「しかも何ですの!?」
「炎アークのライセンス契約、あれは宮下さんの在籍が条件でした。昨日、解雇した時点で契約は失効しています。つまり…今、うちの会社は彼女の技術を一切使う権利がない状態です」
カナの顔が真っ青になった。机に手をつき、部下の前で震えた。「どうして…どうしてそんな契約に…!」
「当時の会長が2年前に結んだ契約です。社長が引き継がれた際、この条項をご確認いただけなかったのでしょうか」
カナの頭の中が真っ白になった。父は確かに言っていた。「彼女を解雇してはいけない」と。しかし自分は父の忠告を聞き入れなかった。実力もない高卒が、会社の基幹技術を握っていたなんて。自分が怒りに任せて解雇した少女が、会社の命脈を握っていたのだ。
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その日の夕方、カナはほのかのアパートを訪れた。古い木造アパートの2階。ドアを叩くと、ほのかが静かに出てきた。薄いメガネの奥の目は、あの日の何もかもを許したような落ち着きを保っていた。
「社長。いえ、もう社長ではなくなりましたから、三坂さん。何か御用でしょうか」
カナは唇を噛んだ。プライドが邪魔をした。しかし会社を潰すわけにはいかない。父から受け継いだものを失うわけにはいかない。深呼吸して口を開いた。
「……戻ってきてほしいの。条件は、あなたが言う通りで構わない。給与も倍額にする。顧問ではなく、役員待遇でもいい」
ほのかは少しの間黙っていた。そして、静かに言った。
「私は、三坂さんが思うような理由で会社を辞めたわけではありません。ただ、あなたは私を『学歴のない底辺』と呼んだ。でも私は、この会社で働きたいと思っていたんです。研究を続けたかった。それは本当です」
カナは何も言えなかった。
「条件を一つだけ。私を解雇した理由を、社内で正式に撤回してください。私が『学歴がないから能力がない』と決めつけたことは、間違いだったと。それが条件です」
カナは歯を食いしばった。目の前の少女に土下座を要求されているも同然だった。しかし、会社のために。自分が犯した過ちを認めるしかなかった。
「……分かったわ。撤回する。正式な文書で」
ほのかは静かに頷いた。「では、明日から出社させていただきます」
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翌日、三坂テクノロジーで臨時社員総会が開かれた。カナは社員の前で声明を読み上げた。
「先日、私が宮下ほのか氏を解雇した件について。これは私の誤った判断でした。彼女の能力を、学歴だけで判断したことは、私の非礼であり、会社としても大きな損失を生みかねないものでした。正式に撤回し、謝罪いたします」
社員たちは息を飲んだ。高圧的なカナが頭を下げる姿。それは異例のことだった。ほのかは一礼して、静かに自分の席に戻った。そして、その日のうちにシステムは復旧し、生産ラインも再開した。
社内の空気は変わった。以前はほのかを軽んじていた社員たちも、彼女の技術が会社を支えていることを目の当たりにして、態度を改めた。カナはそれからも時々、ほのかに対して冷たい視線を送ることがあったが、敢えて何か言うことはなかった。
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しかし、それから半年後のことだった。ほのかは再び、三坂カナの個人事務所に呼び出された。
「宮下さん。今回は、お願いがあって呼んだの」
カナの声は、以前より落ち着いていた。しかし、どこか焦りが混じっていた。
「会社の未来を左右する大型プロジェクトが動き出しています。海外の大手企業との提携案件です。相手方は炎アークの独占使用権を求めてきました。条件次第では、うちの会社の将来が決まるわ」
ほのかは黙って話を聞いていた。
「相手方は、技術提供者であるあなたと直接話したいと言ってきているの。あなたに、その席に立ってほしい」
「分かりました。ただし、私は技術者です。交渉事は三坂さんの仕事です。私は技術的な質問に答えるだけです」
「それで結構。では、来週の火曜日。都内のホテルで、相手方の重役と会談があるわ」
会談当日。ほのかは、これまでと違う背広姿で会場に現れた。薄いメガネも、コンタクトレンズに変えていた。自分を技術者として見せるためだった。
相手方の重役は、海外の大手半導体企業の副社長、ロバート・クライン。60歳を過ぎた、白髪の紳士だった。クラインはほのかを見て、まず驚いた。
「あなたが、あの炎アークの開発者でいらっしゃるのですか?まさか、こんなに若い方だとは」
「宮下ほのかです。技術的な質問であれば、お受けします」
クラインは細かい技術的な質問を何度も投げかけた。ほのかは一つ一つ丁寧に答えた。クラインの表情は次第に驚きから称賛へと変わっていった。
「素晴らしい。あなたの頭脳は、確かに我々が探していたものです。私は提案があります。炎アークのライセンスに加えて、あなた個人に対するスカウトをさせていただけませんか。我が社に来てください。最高の研究環境と、あなたの才能に見合った報酬を用意します」
ほのかは静かに首を振った。「申し訳ございませんが、私は三坂テクノロジーで働き続けたいと思っています」
「なぜですか?待遇に不満があるなら、いくらでも条件は…」
「不満はありません。ただ、私はあの会社で作られたい技術があるんです。完成させたいものが、まだあるんです」
クラインは微笑み、名刺を差し出した。「あなたの意思を尊重します。ただし、われわれのオファーはいつでも有効です。気が変わったら、いつでも連絡してください」
その場は無事に進み、三坂テクノロジーは海外企業との提携に成功した。カナはほのかを見て、初めて敬意のこもった視線を向けた。それでもプライドが邪魔をして、素直に礼を言えずにいた。
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その夜。ほのかのアパートに、母から電話がかかってきた。
「ほのか、今日も遅くまで仕事だったの?」
「うん、大したことじゃないよ」
「お母さん、ずっと思ってたんだけど……あの会社、ほんとに大丈夫なの? あの女社長、また何か言ってきたりしない?」
「大丈夫だよ。今はちゃんとやってるから」
母の声には、心配と安堵が混ざっていた。ほのかは微笑み、電話を切った。窓の外には東京の夜景が広がっていた。自分が作った技術が、この街のどこかで動いている。その実感が何よりも嬉しかった。
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それから1年。三坂テクノロジーは、海外企業との提携も軌道に乗り、順調に業績を伸ばしていた。カナも次第に、ほのかの存在を認めざるを得なくなっていた。しかし、最近のカナには別の問題があった。
社内で若手のホープと目されていた新入社員、田辺翔太。26歳。東大出身で、誰もが認める実力派だった。しかし、翔太はほのかの存在を快く思っていなかった。ある研究発表の際、翔太は堂々とほのかに言い放った。
「宮下さんの言ってることは、机上の空論にすぎません。現場を知らない人間の理論なんて、意味がないでしょう」
会場がざわついた。ほのかは一瞬も動じず、静かに答えた。
「理論が現場を支えているんだとしたら、その理論が間違っていたら現場も間違っていることになる。私はそう信じています」
翔太は鼻で笑った。「綺麗事ですね」
しかし、この言葉がカナに火をつけた。カナは立ち上がり、翔太を見据えた。
「田辺さん。宮下さんは、この会社の基幹技術を作り上げたお方です。あなたがその上に立って研究できるのは、彼女の成果があってのことです。それは忘れないでください」
翔太は顔を赤くして、沈黙した。社員たちの視線が、カナと翔太に集中した。ほのかはカナを見た。カナもほのかを見た。二人の間に、初めて言葉にならない信頼が生まれた瞬間だった。
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しかし、その安堵も長くは続かなかった。ある日、ほのかは取引先の書類に目を通しながら、違和感を覚えた。契約書の中に、丸アークとは別の技術名が記載されている。「流凪」という名前。それは、ほのかが知らない技術だった。
週明け、ほのかはデータ室にある使用履歴を確認した。すると、自分の研究データにアクセスした痕跡があった。しかも、その日時は自分が席を外していた時間だった。何者かが、彼女の研究データを閲覧していたのだ。
データを見たことを誰にも言わないまま、ほのかは静かに調査を始めた。アクセス記録を辿ると、その端末の使用者は、田辺翔太だった。
翔太は自分の研究テーマとして「流凪」を発表していた。それはほのかの研究データから発想を得た、ほぼそのままの技術だった。
ほのかは翔太を呼び出した。「田辺さん。このデータ、覚えていますか」
翔太は顔を逸らした。「何のことですか」
「流凪の設計思想。それ、私の研究ノートから取ったものですよね」
翔太はしばらく沈黙した後、開き直ったように笑った。「宮下さん。あなたの研究データを参考にしたのは認めます。でも、技術とはそうやって発展していくものでしょう? あなたの一歩先を行っただけです」
ほのかは静かに言った。「参考ではなく、コピーです。流凪の核心部は、私の設計図そのもの」
翔太の顔色が変わった。「証拠あるんですか?」
「あります。あなたがアクセスした日時と、データのファイル名。そして、あなたの発表資料の設計図と、私のオリジナルを比較すれば、完全に一致する部分があるはずです」
翔太は青ざめた。ほのかは続けた。「三坂さんに言うつもりはありません。ただ、この研究データを流用されては困ります。流凪の開発を中止してください」
「……分かりました」
その日、翔太は何も言い返せずに去っていった。しかし、その目には、見えない怒りが渦巻いていた。
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数日後、社内で不正の噂が広がった。翔太の上司を名乗る人物が、ほのかのデータ管理の杜撰さを問題視しているという内容だった。「あの程度のセキュリティで技術者を名乗るな」と、ほのかの評判を落とす噂だった。
カナはすぐにほのかを呼んだ。「宮下さん。社内で言われてる件について、心当たりはありますか?」
「田辺さんの件ですね。私が彼の研究データの流用を指摘したことへの反発でしょう」
カナは目を細めた。「田辺が?」
「ええ。ただし、私はこれ以上詮索するつもりはありません。あの技術は、彼が作ったことにしてもいい。私は元々、競争のために研究しているわけではありませんから」
カナは一瞬、何かを考えた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「宮下さん。今回の件、私が処理します。あなたは、あなたの研究に集中してください」
それは、カナが初めてほのかを守ろうとした瞬間だった。
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社内の騒動は、カナの介入によって静かに終息した。翔太は自主的に辞職した。辞表には「環境を理解するには、まだ自分が幼かった」と書かれていた。カナはそれ以上追及しなかった。
しかし、翔太が去った後に、新たな影が忍び寄りつつあった。それは、ほのかの実力を快く思わない、外部の人間からの圧力だった。他社からの引き抜き工作が、再び動き始めたのだ。しかも今回は、単なるスカウトではない。技術ごと奪うための計画だった。
ある夜、ほのかのアパートのドアに、見知らぬ男が現れた。スーツ姿の男は、静かに名刺を差し出した。
「宮下様。私は、みずほ産業の技術開発部の者です。突然の訪問、失礼いたします」
みずほ産業。それは、三坂テクノロジーの最大の競合企業だった。
「何の用ですか」
男は微笑んだ。「あなたと、直接お話しさせていただきたいというのが、本社からの依頼です。ぜひ、お伺いしたく」
ほのかは応じなかった。「お断りします。私は、三坂テクノロジーの技術者です」
「そうおっしゃらずに。あなたの才能を潰してしまうわけにはいきません。わが社は、あなたの研究環境を完全に保証します。年俸は、三坂テクノロジーの5倍でどうです?」
ほのかの目は、静かなまま動かなかった。「何度言われても、答えは同じです」
男は一枚の書類を差し出した。「こちらを、お目通しください。今日の日付で、わが社からの内定承諾書です。月曜日に正式な契約を結んでいただければ、即着任でも構いません」
ほのかは、その書類を見向きもせずに言った。「帰ってください」
男の表情が変わった。「そうおっしゃらずに。もし応じていただけないと、こちらも考えますよ」
「考えます?」
男は薄い笑みを浮かべた。「ええ。あなたの大切なものを、何とかしてしまうかもしれません」
言葉を残して、男は去っていった。ほのかは、しばらく閉めたドアの前で立ち尽くしていた。
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翌朝、ほのかが事務所に着くと、自分のデスクの上に一通の封筒があった。中には、親友の名前が書かれた証券取引所の株券が入っていた。その裏には、一言。『次は母です』と。
ほのかは顔色を変えることなく、その株券を封筒に戻し、机の引き出しにしまった。誰にも言わなかった。
その日の午後、三坂カナのオフィスに、みずほ産業からの使者が訪れた。談判の内容は「炎アークの技術公開、もしくは宮下ほのかの引き渡し」だった。
カナはあえて冷静を装いながら言った。「宮下さんの引き渡しだと? 笑わせないでください。彼女は私が守ります。会社ごと敵に回す覚悟がおありなら、どうぞ」
使者は鼻で笑った。「三坂さん。あなたの会社は、もう斜陽です。炎アークがなくなれば、何も残らない。そんな会社に、あなたが抱え込むしかないのでしょう?」
カナは立ち上がった。「あなたがそういう気なら、こちらにも考えがあります。うちの会社は、あなたが思っているよりもずっと深い地盤で動いています。思い知らせてやりましょうか?」
その日、三坂テクノロジーはみずほ産業に対して、特許侵権の訴訟を起こすと発表した。調査の結果、みずほ産業がほのかの技術を無断で使用していたことが判明したのだ。カナは持てる全ての時間を費やし、証拠を集めていた。
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法廷闘争は長期化するかに見えた。しかし、2か月後、みずほ産業側が突然、和解を申し出てきた。炎アークのライセンス料には見合わないと判断したのだ。
カナは和解の席で言った。「これっきりです。二度と、うちの技術に手を出さないでください」
和解は成立した。しかし、カナはあることに気づいていた。みずほ産業が、ほのかの研究データの一部を、すでに自社の特許として申請していたのだ。それを知った時、カナは激怒するよりも先に、恐怖を覚えた。
「どうして、こんなことになったの?」
ほのかは静かに答えた。「彼らが、私の技術の一部を理解していたからです。ただし、核心部分は私の中にあります。それを手に入れない限り、彼らの特許は使い物になりません」
カナは何か言いかけて、やめた。ほのかを見つめながら、これほど強い人間はいないと思った。
—
和解から3か月後。カナは緊急の会議を招集した。
「みなさん。今日は、この会社の未来について、話し合いたいと思います」
投影された画面には、三坂テクノロジーの会社概要が映し出されていた。
「今、私は思っています。この会社は、私ひとりのものではないと。宮下ほのかさんがいてくれたから、今の我々があります。私は、彼女に代表取締役の座を譲りたいと思います」
会議室がどよめいた。あまりにも突然の発表だった。
「私、三坂カナは、会長職に退きます。代表取締役社長は、宮下ほのかさんに就任していただきます」
ほのかは立ち上がり、静かに言った。「お断りします」
会議室の空気が凍りついた。カナも言葉を失った。
「私が社長になる必要はありません。私は技術者です。研究を続けたい。あの日、私がここで働きたいと思ったのは、技術を作るためであって、会社を仕切るためじゃないからです」
カナは顔を上げた。ほのかの目は真っ直ぐで、迷いがなかった。
「分かりました。ならば、私は社長に留まります。ですが、あなたの意思は、会社として尊重します。あなたの研究は、私が全力で守ります」
その場に居合わせた者たちは、何が起きたのか理解できず、ただ二人の会話を聞いていた。しかし、その日から三坂テクノロジーの在り方は、確かに変わった。
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そして、今日。5月の朝。三坂テクノロジーの社長室に、朝日が差し込んでいる。三坂カナは53歳。もう10年、社長を続けている。10年前、ほのかを解雇した日から、同じ机で働いている。
机の上には、宮下ほのかが提出した一枚の書類が置かれていた。それは、10年間の功績を称えた表彰状と、彼女が生涯現役で研究を続ける意思を表明した誓約書だった。
カナはその書類を見つめ、ふと、あの日のことを思い出していた。その日、カナはなぜあんなにもほのかを嫌っていたのだろう。学歴がなかったから? いや、本当の理由は、自分が彼女のように才能がなかったからかもしれない。それに気づくまでに、10年かかった。
電話が鳴った。受付からの内線だ。「社長、宮下さんがお見えです」
カナは立ち上がり、ドアを開けた。そこには、薄いメガネをかけた40歳の女性が立っていた。穏やかな笑みを浮かべている。
「おはようございます。今日も研究をさせてください」
「ええ、もちろん。あなたの研究室は、いつもあなたのものです」
宮下ほのかは一礼し、いつものように自分の研究室へと歩いて行った。カナはその背中を見送りながら、心の中で思った。
(あの日、あなたを解雇しなくてよかった)
そう、知らず知らずのうちに、この会社は、二人の女性によって作られていたのだ。
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