父の前で「結婚するかもしれない」と話した瞬間、父は珍しく目の色を変えて食いついてきた。10年待っていたと嬉しそうにまくし立てる父をよそに、プロポーズしたばかりの恋人は突然「結婚できない」と告げて姿を消した。行き先も理由もわからず追った先は病院。そこには憔悴した恋人の母と、見知らぬ男がいた。そして聞こえた言葉は「渡さなければ誰も知らないはずだった」。俺の結婚と恋人の失踪、そして両親の秘密が、今…

父の前で「結婚するかもしれない」と話した瞬間、父は珍しく目の色を変えて食いついてきた。10年待っていたと嬉しそうにまくし立てる父をよそに、プロポーズしたばかりの恋人は突然「結婚できない」と告げて姿を消した。行き先も理由もわからず追った先は病院。そこには憔悴した恋人の母と、見知らぬ男がいた。そして聞こえた言葉は「渡さなければ誰も知らないはずだった」。俺の結婚と恋人の失踪、そして両親の秘密が、今...

父さん、俺結婚するかもしれない。俺の突然の報告に父は目を輝かせて俺に迫ってくる。

「え、本当か?どんな子だ?ようやくか!」

「いや、ちょっと待って。落ち着いて父さん」

なんとか父を落ち着かせようとするが、父は興奮していて俺の話は聞いてくれない。

「俺が落ち着いていられるか!町に待った瞬間だよ。いつ連れてきてくれるんだ?もう10年くらい待ってるんだからな」

父の勢いに俺は少し呆れながらも申し訳ない気持ちになった。

俺の名前は淳。今年で33歳だ。母は俺が中学生の頃に事故で亡くなり、あまりに突然のことで俺たち家族はただただ呆然とした。それでも生活をしていかなくてはならない。俺は5歳年上で当時大学生だった姉から全ての家事を叩き込まれた。正直、俺は母が亡くなるまで家事をほとんどしたことがなくて、洗濯機の使い方すら分からなかった。料理なんて授業で調理実習をやる程度だ。母に任せておけばいいとどこかで思っていたのが、こんなことになるなんて思ってもいなかった。やらなきゃいけない状況になって俺は初めて家事をすることになり、姉のスパルタ教育のもと半年ほどで大抵の家事をこなすようになる。父は仕事が忙しかったし、姉は勉強やアルバイトで家にいる時間は俺が一番長かったから、俺が家事をするのが効率が良かったんだ。そんな生活をしながら俺は高校を卒業し、大学にも合格。10年前に姉が結婚して家を出て行ってからは父と2人で暮らしている。父とは昔から仲が良かったし、男2人気楽な生活だ。30歳で結婚した姉はそこから子供を3人育てるパワフルな母親に変貌。姉は俺に常々「ねえ、子供を作るなら早く結婚した方がいいよ」と言っていた。若い頃とは体力が違うから、若いうちの方が子育ては楽だということらしい。言われてみればそうだろうけど、当時の俺にはあまりピンと来ていなかった。しかしそれを聞いた父も一緒になって「早く結婚相手を見つけろ!」と言ってきていた。とはいえ、当時は付き合っている人もいなかった俺に結婚相手が降って湧いてくるはずもない。度々父に疲れながらも、なかなか結婚したいという相手もできず、のらりくらりとかわしているうちに父は35歳になっていた。

そんな俺に結婚したいと思う人ができたのは1年前。経営しているバーに飲みに行った時、酔っ払いに絡まれている女性を助けたのが始まりだ。なかなか華奢な女性のようだったけど、酔っ払いがしつこいことを見かねて、俺は声をかけ、彼女を連れ出した。彼女はとても美人だったけど、ここで声をかけようものなら俺も酔っ払いと同じ部類になってしまう。他愛のない話をしながら近くの駅まで送って電車に乗るのを見送った。名刺くらい渡しておけばよかったなんて後悔したのは言うまでもない。しかし後日、バーを経営している友人から連絡があり、彼女が俺を探して連絡先を置いて行ったという。そして俺たちの付き合いが始まった。彼女の名前はレナ。俺より5つ年下の28歳で、仕事は受付だという。彼女と話すのはとても楽しくて、「馬が合うというのはこういうことなのか」と思った。俺たちは意気投合。3ヶ月後には付き合いだし、半年後には結婚も視野に入れていた。そして俺はついにプロポーズ。それが1ヶ月前のことだった。初めは喜んでくれたレナだけど、返事をする前になんだか浮かない顔をしていることが増えた。俺はその理由を聞こうとしたが、彼女は「何でもない」と笑うだけだった。

そんなある日、父と2人で暮らす家に一本の電話が入る。相手はレナからだった。しかしその声は、いつもの甘い声ではなく、震えていた。

「淳さん、話があるの。今から会えない?」

俺は嫌な予感がした。しかしその予感は、実際に会ったレナの口から出た言葉によって、さらに悪い方向へと確信に変わる。

「ごめん、淳さん。私、結婚できない」

「どういうことだ?プロポーズは受け入れてくれただろ?」

「あれは…その時の感情だったの。ごめん。やっぱり無理」

レナの目は泳いでいた。何かを隠しているのは明らかだった。俺は問い詰めた。何が理由なのか、誰か他に好きな人ができたのか。しかしレナははっきりと理由を言わないまま、立ち去ろうとする。俺はその場で呆然と立ち尽くすしかなかった。納得がいかない。翌日、俺はレナの家を訪ねた。しかしレナは出てこなかった。何度もチャイムを押したが、応答はない。仕方なくアパートの前で待っていると、見知らぬ男がレナの部屋から出てくるのが見えた。俺は思わずその男に声をかけた。レナとの関係を問いただすと、男は驚いた顔をした後、何かを言いかけたが、やめて「彼女から聞いてくれ」とだけ言い残して去って行った。レナはどこに行ったのか。何が彼女を変えてしまったのか。俺は彼女の勤め先であるオフィスビルへ向かった。受付でレナの名前を伝え、面会を求めたが、受付の女性は申し訳なさそうな顔をして「レナは先週で退職しました」と告げた。連絡先も分からず、行き先も分からない。手がかりを求めて、俺たちが出会ったバーへ向かった。バーのマスターである友人にレナのことを尋ねると、友人は難しい顔をしてこう言った。

「淳、お前、何か心当たりないのか?レナが辞める前、誰かと電話で話してるのを見たんだ。『あなたには渡せない』って、すごく泣きそうな声でさ」

誰かに何かを渡せない?それは金か、それとも…。その時、俺のスマホが鳴った。見知らぬ番号からだ。恐る恐る出てみると、電話の向こうから思いもよらない人物の声が聞こえた。

「もしもし…淳さん?私、レナの母です。娘が…娘が今、病院に運ばれたんです。あなたに話しておきたいことがあると言って」

レナが病院に?俺は慌てて病院へと向かった。病室の前まで来ると、中から聞き覚えのある声が聞こえてくる。レナの母の声だ。そして、もう一人、男の声もする。俺は足を止めて、音を立てないように中を覗き込んだ。すると、レナの母が、ベッドで横たわるレナに向かってこう言った。

「だから言ったでしょ。あの人には言っちゃダメって。あなたが渡さなければ、誰も知らないはずだったんだから」

男の声が低く響く。

「そうだ。これで終わりだ。レナ、あの男にはもう近づくな。いいな?」

その言葉の意味を理解した瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。レナは何を渡さなかったのか。そして、なぜ病院に運ばれたのか。混乱する俺の耳に、かすかなレナの声が聞こえた。

「…で…淳さん…に…謝らなきゃ…」

俺は扉を開けようとした。しかし、その手は震えていて、なかなかドアノブを回せない。中では、レナの母と男が何か書類のようなものを広げている。それは遺言書のように見えた。一体、何が起きているんだ。俺は深く息を吸い込むと、力強くドアを開けた。

「…レナ」

その瞬間、病室の中の全員がこちらを向いた。レナの母の顔が、驚きから一瞬で強張っていく。そして、ベッドに横たわるレナは、俺の姿を見ると、ボロボロと涙を流し始めた。

「淳さん…ごめん…なさい…」

レナの母が、とっさにレナの手を握り、何かをささやく。男は冷めた目で俺を見つめていた。ここに答えがある。長年の謎が、今解けようとしている。俺は震える声で、ゆっくりと口を開いた。これが俺とレナ、そして家族の運命を変えた瞬間だった。

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