「これが五つ星ホテルですって。私の夫が誰だかご存じ、山本健二。このホテルの営業担当役員よ。茶色のコーヒーが床に飛び散り、従業員の手先はかかに震えていました。そしてその日、全てが変わり始めました。」
山本健二は人事室の前に立ち、息を整えていた。48歳という年齢にもかかわらず、相変わらずきちんとした背筋で、靴は朝日を浴びて光っていた。しかし、今彼の手はかかに震えていた。突然の呼び出しだった。早朝、総務室からかかってきた一本の電話。「山本役員、本日午前10時に人事室へお越しいただけますでしょうか?」その声はいつもより一層冷たいものだった。
扉を開けて足を踏み入れた瞬間、冷房が効きすぎた部屋の冷たい空気が彼の顔を打った。人事部長が机の後ろに座っていた。50代前半の無表情な顔。その前には書類が数枚、きちんと置かれていた。健二は椅子に座りながら無理に微笑んだ。「何かご用でしょうか?」彼の声は思ったよりも震えていた。
人事部長は答えの代わりに書類1枚を彼の前へと押し出した。白い紙の上にびっしりと書かれた文字が見えた。山本健二は視線を落としたが、文字は目に入ってこなかった。「山本役員」人事部長の声が響いた。「本社の名誉を著しく失わせる事件がございました。」山本健二の心臓がドクンと落ちるような感覚だった。名誉毀損。自分は15年間このホテルで一度も問題を起こしたことはなかった。営業成績は常にトップクラスで、顧客満足度も最高水準だった。それなのに、何の事件だというのか。
人事部長は手元の端末を回し、画面を見せた。再生ボタンを押すと監視カメラの映像が流れ始めた。画面の中にはホテル1階の喫茶室が映っていた。明るい照明の下、大理石の床が輝き、何人かの客がゆったりと座っていた。その時だった。画面の左から一人の女性が入ってきた。高級な鞄を持った40代の女性。派手な服装に濃い化粧。山本健二の目が見開かれた。その女性はまさしく自分の妻、山本秋子だったのだ。
映像の中の秋子は会計の前で何かを叫んでいた。声は聞こえなかったが、彼女の口の動きと激しい身振りが全てを物語っていた。隣に立つ制服姿の従業員は頭を下げたまま、何も言わなかった。周りの客たちは嫌そうな表情で振り返り、ある者は席を立って避けていった。画面は続いた。秋子がコーヒーカップを手に取ると、そのまま床に叩きつける場面。茶色い液体が大理石の床に広がり、従業員は慌てた表情で雑巾を取り出した。しかし秋子は止まらなかった。さらに大きな声で何かを叫びながら、指で従業員を指差した。映像の下には字幕が表示されていた。「お得意様への身体に関する苦情及び暴言事件」。日付は3日前だった。
山本健二の唇がカラカラに乾いた。手のひらには冷や汗が滲み出ていた。彼はぼんやりと画面を見つめ、震える声で尋ねた。「これは一体、会長のご命令ですか。」人事部長は冷たく言い放った。「本日を持って懲戒解雇処分とします。」解雇。その言葉が耳元でこだました。15年。彼がこのホテルに捧げた時間だった。新入社員の頃から昼夜を問わず働き、週末も返上して営業に打ち込んだ。数えきれないほどの契約を勝ち取り、何度もホテルの危機を救ってきた。そのすべてが、たった一日の出来事で消え去ろうとしていた。いや、正確には、妻の行動によって。
健二はゆっくりと立ち上がった。膝に力が入らず、よろめきながらも何とか体を支えた。それから彼は言った。「分かりました。」それだけだった。彼は何の弁解もせず、抗議もせず、ただ静かに頭を下げると、人事室を後にした。廊下に出た瞬間、壁にもたれかかり、深く息を吐いた。目頭が熱くなったが、涙はこぼさなかった。彼は職場の人間に見られないよう、速足でエレベーターへと向かった。
その日の夕方、健二は家に帰った。玄関を開けると、秋子がリビングのソファに座り、テレビを見ていた。何食わぬ顔で。「おかえりなさい、今日は早いのね。」健二は黙って彼女の前に立った。「解雇された。」その一言に、秋子の顔が強張った。「何ですって?何を言ってるの?」「お前のせいだ。」健二の声は震えていた。「3日前、ホテルの喫茶室で騒ぎを起こしたんだろう。監視カメラに写っていた。」秋子は一瞬固まったが、すぐに鼻で笑った。「ああ、あの日のこと?あの従業員が私の態度が悪いって言いやがったのよ。こっちは上客なのに、あんな奴に侮辱されて黙ってられるわけないでしょ。」健二は拳を握りしめた。「お前が騒いだせいで、私は15年のキャリアを失ったんだぞ。」秋子はテレビの画面に視線を戻した。「そんなの健二が甘いからでしょ。ちゃんと会社と交渉すればいいじゃない。それに、あんなホテル、いくらでも働けるところはあるでしょ。」健二はその場で立ち尽くした。妻は自分の非を一切認めようとしなかった。それどころか、彼の落ち度のように言い放ったのだ。
その夜、健二は一睡もできなかった。翌朝、彼はこっそりと家を出て、弁護士事務所を訪ねた。「離婚したい。財産分与も養育費も、できる限りの条件で。」弁護士は黙って書類をめくった。「奥様が原因で解雇された…という証拠はお持ちですか?」健二はスマートフォンの画面を差し出した。人事部長から送られてきた監視カメラの映像。しかし、弁護士は眉をひそめた。「これはかなり不利ですね。奥様が騒いだ場面は写っていますが、あなたの勤務態度に問題があったかどうかは分かりません。むしろ、あなたが家庭の問題を職場に持ち込んだと解釈される可能性もあります。」健二の顔色が曇った。「では、どうすれば…。」弁護士は少し間を置いた。「まずは奥様に、この映像が存在することを伝えてください。そして、離婚を切り出す前に、奥様の反応を見ることをお勧めします。」
その夜、健二は秋子を食卓に座らせた。テーブルの上に、印刷した監視カメラの映像を置いた。「これが何だか分かるか。」秋子の顔色が一瞬で変わった。彼女は写真を手に取り、震える声で言った。「な、何よこれ、どうして…。」「人事部から送られてきたんだ。こっちにはコピーがある。」健二は冷静な声を装った。「離婚する。お前と一緒に暮らすことはできない。」秋子は突然、椅子を倒して立ち上がった。「そんなの認めない!私が何をしたっていうのよ!あの従業員が悪いんでしょ!」健二は黙ったまま立ち上がった。それから、こう言った。「お前の行為は、私の人生を壊した。それを認めないなら、こちらにも考えがある。」秋子は一瞬、言葉を失った。そして、小さな声で言った。「…脅すつもり?」健二は振り返らずに言った。「脅す?違うよ。ただ事実を伝えただけだ。」
その翌週、健二は秋子に離婚届を突きつけた。秋子は泣き喚き、床に座り込んで騒いだ。「そんなの絶対に嫌!あなた一人で幸せになる気?」健二は静かに言った。「幸せになるとは言っていない。ただ、ここでこのまま終わりたくないだけだ。」その夜、彼は自分が入社した年からの日記を取り出し、読み返した。15年間の記録。そこには、成功した契約の数々、支えてくれた同僚たちの名前、そして、自分の夢が綴られていた。彼は深く息を吸い込み、日記の最後のページにこう書き加えた。「今日、私は自由になった。これから何が起こるかは分からない。でも、もう二度と誰かのせいで自分の人生を諦めるのはやめよう。」
翌朝、健二は新しく買ったスーツに袖を通し、ハローワークへと向かった。そこで受付の女性が彼の経歴を見て、目を丸くした。「あの、山本様…このホテルチェーンの営業トップだった方ですよね?」健二は微笑んだ。「ええ、まあ。少し、肩の荷が下りたところです。」受付の女性は彼に、とある老舗旅館の求人票を差し出した。「こちら、ご覧になってみますか?『事業再生に挑む方を求めます』…。」健二はその紙を受け取り、目を細めた。新しい章が、始まろうとしていた。


