「お前たちの居場所は、もうここにはない」…

「お前たちの居場所は、もうここにはない」...

夕暮れ、風が強く吹きつける中、川口屋の門前に、幼い娘を二人連れた女が立っていた。腕には生まれたばかりの赤子を抱き、裾には四つになる娘がしがみついていた。女、お春は、息を整えながらも、門の内側に目をやった。そこには、男の子を産んだばかりの妾、お蓮が、赤子を抱き、使用人たちに囲まれていた。

慎介は妻を見ようとせず、目を伏せたまま言った。「お前たちの居場所は、もうここにはない。」

お春は何も答えなかった。ただ、四つのおすずが母の袖を引いて、小さな声で尋ねた。「おばあ様のお道具も、置いていくのか?」

泣く泣く、家も、住み慣れた土地も、手元の銭も、すべてを残して出ていかねばならなかった。しかし、誰も知らなかった。この日、何ひとつ持たずに追い出された女の指先にだけは、川口屋がやがて失うことになる、ある大切な技が残されていたことを。そして、針箱の底には、亡き姑が残したほんのわずかな赤い糸が、誰にも気づかれぬまま、ひっそりと残されていた。

七年前、お春は十七で川口屋に嫁いだ。貧しい生まれだったが、幼い頃から機織りを手伝い、人より器用な指先を持っていた。姑のお金は、お春の手を取って「良い手だ」と褒めた。慎介も、初めのうちはお春の織る布を誰よりも褒めてくれる夫だった。

お春は二十歳でおすずを産み、二十三でおみよを産んだが、二人目を産んでから体は目に見えて弱くなった。それでも、その指先だけは誰よりも確かだった。ある時、機織りの職人が仕立てた機の調子がおかしいのに、誰も原因を見つけられずにいた。お春が遠くから音を聞いただけで「右の三筋だけ張りが強い」と呟くと、職人は若い嫁に何が分かるかと馬鹿にした。しかし、お金が確かめてみると、お春の言う通りだった。その夜、お金はお春を自室に呼び、「明日から機の傍らに座れ」とだけ告げた。それからお金は、糸の選び方、機にかける段取り、針の持ち方まで、すべてを手取り足取り教え込んだ。お春がおみよを身ごもっていた頃、顔色の優れぬまま働き続けるお春から、お金はある日黙って機を取り上げた。「布は折り直せる。だが、人の体は折り直せぬ」と、静かにしかし言い聞かせるように言った。お春が納得できないでいると、お金は珍しく声を荒げた。「布のために己の命を粗末にしてどうする。収めが遅れれば頭を下げれば済むこと。お前の命はそうはいかぬ。」そう言って、自ら貝を炊き、湯の椀を差し出した。お春は、その言葉を生涯忘れることはなかった。

お金には決まりがあった。仕上げた布には、必ず小さな赤い糸を結ぶのだ。それは単なる飾りではなかった。「この糸を結ぶということは、もしこの布が客の手元で痛んだなら、己がその責任を負うという証だ。」お金はそう教えた。お春は、その手つきを息を詰めて見つめたものだった。

お金が亡くなったのは、おみよを産んだ頃だった。お春は、これからどうやって機に向かえば良いのかと心細さに震えた。お金という杖を失った家の均衡は、それを境に少しずつ崩れていった。お蓮が、台所や銭の管理に口を出し始めたのだ。そして、お春が伏せるたびに「また寝ているのか」と皮肉を言い、やがて「女二人では川口屋は持ちませぬ」と繰り返すようになった。後継ぎの男子がいない家がどれほど心細いか、と慎介の不安を煽り続けた。

均衡が完全に崩れたのは、お蓮が男子を産んだ日だった。家中が祝いの声に湧き、近隣からも祝いの品が届いた。台所の隅では、お春と娘たち三人だけが、冷めた粥を静かにすすっていた。おすずは「自分たちは呼ばれないのか」と小さく呟いたが、お春はただ娘の頭を撫でるだけだった。この子たちには、せめて今日の惨めさだけは覚えていてほしくない、と静かに願いながら。

それから幾ばくも経たぬうちに、慎介はついにお春と二人の娘を家から出す決心をした。おみよは微熱にうなされていた。おすずは、妹を懸命に抱きしめ「大丈夫だよ」と幼いながらに慰めていた。女中が持ってきたのは、着替えを包んだ小さな包み一つだけだった。お春はせめて、亡き姑の形見である古い針だけは持たせてほしいと願い出た。お蓮はそれを一瞥すると、「川口屋のものは何ひとつ持ち出すな」と冷たく言い放った。着物の襟裏まで念入りに探られる間、お春はただ黙って屈辱に耐えた。針箱の底にわずかに残った赤い糸の切れ端にだけは、誰も気づかなかった。

おすずは振り返り、「せめておばあ様の御遺品だけは」と尋ねようとしたが、母の手がそっと肩に置かれ、口をつぐんだ。お春は最後に夫に向き直り、こう告げた。「せめて、この子たちだけは、あなたの子であったことを忘れないでください。」慎介はしばらく黙り込んだ後、「ああ」とだけ絞り出すように言った。怒鳴られるよりも、その弱々しい一言の方が、お春の胸には深く突き刺さった。かつて誰よりも自分を褒めてくれた男が、今は目を合わせることすらできない。お春は、その姿を悲しみよりもむしろ静かな諦めと共に受け止めた。門を出る時、お春は一度だけ振り返ったが、慎介はついに顔を上げることはなかった。

風の吹く道をお春は幼い子を連れて歩き出した。まず頼ったのは、かつて世話になった仲間の家だった。しかし、川口屋の名を出すと、「すまないが」と言って戸は静かに閉じられた。次に訪ねた家も、遠い親戚の家も、皆同じだった。川口屋を敵に回すことを、誰もが恐れていた。

日が落ち、おみよの熱はますます上がっていった。お春は道端に何度も崩れ落ちた。それでも四つのおすずは、自分の小さな袖を精一杯広げて、風から妹の顔を守り続けた。「おみよは死なないか」と震える声で尋ねる娘に、お春は「死なせはしない」と、己れに言い聞かせるように答えた。その言葉を言い終えると同時に、お春の膝は力なく折れ、その場に崩れ落ちた。

そこへ通りかかったのは、六十を過ぎた音世という老女だった。かつて整線を立てていた女で、今は古びた機を一台持つだけの一人暮らしだった。音世は、倒れた母親とその傍らで必死に妹を守る幼い姉の姿を一目見るなり、何も聞かず、何も問わず、三人をそのまま家に連れ帰った。その夜、音世は自分の布団を子どもたちに並べ、自らは板の間に薄い敷物一枚で横になった。「せめて自分だけは辛抱できる。子には温かい方から寝かせるものだ」とだけ答え、明かりを消した。暗闇の中、お春がなぜここまでしてくれるのかと尋ねると、音世はしばらく黙っていたが、「放っておけば、寝覚めが悪いだけだ」とぶっきらぼうに答えた。その声には、隠しきれぬ優しさが滲んでいた。

幾日かして、おみよの熱がようやく下がった朝、音世はお春の手を取ってしげしげと眺め、「機の使い方を知っているか」と尋ねた。お春がこれまでの技を語ると、音世は何も言わず、部屋の隅に置かれた古い機の埃を払い始めた。「糸さえあれば食っていける。それだけでも上等だ」と、独り言のように呟きながら。

それから二人は、その一台の古い機で布を織り始めた。おすずは、初めのうちは部屋の隅に固まっていたが、機の周りに散らばった糸端を見つけると、それを一つ一つ拾い集めて束ねる仕事を自ら見つけ出した。音世はその手つきを見て「この子も母譲りだ」と目を細めた。

ある日、おすずが母に「なぜ機のことをそんなに大事にするのか」と尋ねた。お春は少し考えた後、こう答えた。「これはただの布ではない。困った時に己を助けてくれる腕そのものだ。お金も、家も、誰かの情けも、いつかは尽きることがある。しかし、指先に染み込んだ技だけは、誰にも奪うことができない。」おすずは、その言葉の意味をすべては分からなかったが、母の真剣な眼差しだけは、いつまでも胸に残った。

音世は若い頃、糸績と機織りの両方を渡り歩いた女だった。ある日、音世はお春に「良い糸は、よりの強さがちょうど良いところにある。強すぎれば固く絡まり、弱すぎればすぐに綻びる」と語って聞かせた。お金から糸の段階の知恵を教わっていなかったお春は、この時初めて、自分の知恵と音世の知恵が噛み合うことに気づいた。「私は布のことしか見てこなかった」「私は糸までしか見てこなかった」――二人は、この日を境に、糸から布まで一貫して見通せるようになった。

布が半分ほど織り進んだ頃、糸が残り四十五日分しかないことに気づいた。おみよにはそろそろ薬も必要な頃で、夜になると小さく咳き込むことがあった。この布さえ売れれば当座はしのげる。しかし、お春が水に浸して確かめた時、目の地の乱れにはっきりと気づいてしまった。「売れば今日の米にはなるが、次の客を失うことになる」とお春は言った。音世は「次の客よりも、明日の米がないのだ」と声を荒げた。お春は長いこと黙り込んでいたが、やがて絞り出すように言った。「それでも、これには赤い糸を結べない。」この一言こそ、赤い糸が初めて、自らの選択として使われた瞬間だった。音世は深いため息をついた後、しばらく天井を見上げて何かを考えていたが、やがて「お前がそこまで言うなら」と、糸のより分けに取りかかった。その夜、二人は明かりを絶やさぬまま、朝まで糸と向き合い続けた。

織り直した一反が仕上がったのは、大市の前夜だった。お春は最後にもう一度水に浸し、日の下で布端を隅々まで確かめた。歪みはどこにもなかった。翌朝、二人は夜明け前から大市へ向かった。背負ったお春の足取りは重く、音世が黙って重い方を引き受けてくれた。並ぶ店の中で、二人の品はいかにも小さく心細いものだった。しかし、通りかかった客の一人が何気なく布に触れ、その手触りの違いに気づいて足を止めた。一枚、また一枚と、少しずつ客がついた。「これほど丁寧な仕事をする者は初めて見た」と、わざわざ声をかけてくれる客もいた。日が傾く頃には、東の米は元より、次の糸を仕入れるだけの銭も手元に残った。音世は帰り道、何も言わずにお春の手を握った。おすずは、その日の夜、久しぶりに白い飯が出たことを、いつまでも覚えていた。

それから幾星霜、大きな波風もなく過ぎた。折り場の布は「傷みが長持ちする」と評判が立ち始め、遠方の村からわざわざ求めに来る者も現れるようになった。春のお彼岸には、お春はおすずの手を引き、遠く離れた母の寺まで足を運び、お金の墓に手を合わせた。おすずは「おばあ様に、糸の績み方を覚えたと報告した」と得意げに言った。お春はその横顔を見ながら、お金の教えは血の繋がりを超えて確かに次の世代に受け継がれているのだと感じた。この一年ほどは、四人にとって初めて心安らかに過ごせる日々だった。音世は市場で買い求めた小さな駒を娘たちに与え、喜ばせた。お春は少しずつ体力を取り戻し、咳き込むことも目に見えて減っていった。おすずは音世から糸績みを教わり始め、拙いながらも小さな巾着を縫い上げては、皆に見せて回った。

しかし、この静かな日々は長くは続かなかった。お春を追い出した後も、お蓮の危機感は緩まなかった。お春が惨めなままでいれば、追い出したことも一言で片付けられる。しかし、立て直しつつあると知れば、心ある者は必ず「なぜあれほどの腕を持つ女が、二人の子と共に表に放り出されたのか」と問うようになる。お蓮は、その一点を何よりも恐れていた。

お蓮はまず、川口の名前を使って糸屋を回らせ、良質の糸を先買いさせた。糸屋の主人たちは、困った顔をしながらも、大旦那である川口の意向には逆らえず、お春には買い叩きの糸しか卸さなくなった。お春の手元に残るのは、色も太さもまちまちな糸ばかりとなった。仕上がりは遅くなり、無駄になる糸も増え、儲けは目に見えて減った。しかし、お春と音世は、より強く、より緻密な糸のより分けの仕組みを、この苦しい時期にこそ作り上げるのだった。指先だけで糸の強さを見分けられるようになるまでには幾月もの月日を要したが、これが後に、この折り場ならではの強みとなっていった。

次に、川口は近隣の小間物屋を一件ずつ回らせ、お春の布を店先に置く者には卸値を上げると申し渡させた。小間物屋の主人たちは、目に見えて質の良いお春の布を惜しみながらも、日々の商いを守るために折れざるを得なかった。ある店の主などは、お春の元にわざわざ足を運び、「長年世話になった川口屋に逆らうことはできぬ」と涙ながらに詫び、「店先には置けぬが、裏口からなら求めたい。これまで通り仕入れさせてくれ」と頭を下げるほどだった。お春はその主人を責めることなく、「事情はよく分かる。無理はしてくれるな」と答えた。

もはや古い売先には頼れず、お春と音世は客を一人一人直に尋ね、井戸端で言葉を交わし、信用を一から積み上げねばならなくなった。初めのうちは、見知らぬ女が物を抱えて訪ねてくることを怪しみ、遠ざける家も少なくなかった。音世はそんなお春に「客の心は一度で開くものではない。同じ道を三度歩けば、向こうも顔を覚えるものだ」と教えた。お春はその教えを胸に刻み、断られても恨みがましい顔を一つ見せず、また日を改めて訪ねることを繰り返した。時には「追い出された女の布など縁起が悪い」と、嘲られることさえあった。ある日、おすずが母について行った時、ある家の女から「川口屋を追われた者の子か」と嫌な顔をされた。おすずは俯いたまま何も言い返せなかったが、家に帰る道すがら、母の袖をぎゅっと握りしめていた。お春はその手の強さから娘の胸の内を察し、何も言わずにただ静かに娘の手を握り返した。

それでも、ある貧しい母親が、哀れみからか、それとも本当に良いものを求めてか、泣けなしの銭で小さな布切れを一枚買い求めた。数月後、その母親は再び店を訪れ、「幾度洗っても崩れなかった」と目を輝かせて告げた。口コミの評判は、こうして少しずつ、しかし確かに広がり始めた。やがて、市の日には、お春の折り場の赤い糸印を目当てに、朝早くから並ぶ客の姿さえ見られるようになった。

そして、最後に、お蓮は最も大きな一手を打った。これまでの二つの策が思うような効き目をあげなかったことに苛立ちを募らせたお蓮は、見た目だけの安値の布を一反密かに作らせ、そこに赤い糸を似せて結ばせ、間に人を挟んで市に流させた。その布が客の手元で無惨に解けた時、「これはお春の機に違いない」という噂がまたたく間に広まった。

この偽物が世に出る少し前、お春には己自身の真の失敗があった。良質の糸を買い占められていたお春は、やむなく糸売りが持ち込んだ在庫の糸を買い求める他なかった。音世と共に何日もかけて一本一本よりの弱いものを取り除いたが、それでもほつれ易すぎる糸が紛れ込んでいた。織り上げた布は、水につけた途端、一部が無惨に解けてしまった。客が布を持ち帰り、洗い張りをしたところが綻びたと、大きな声をあげた。近隣の女たちが何事かと顔を出す中、お春はただ深く頭を下げ、「これは確かに己が織った布でございます」と言い訳一つせず認めた。金を返し、代わりの品を渡し、深く頭を下げて詫びた。その一部始終を、おすずは柱の影からじっと見つめていた。母がこれほどまでに頭を下げる姿を見るのは、初めてのことだった。

その夜、お春は久しぶりに声をあげて泣いた。「悪い糸でも、なんとかできると思っていた」と打ち明けると、音世は「人の腕にも救えぬ時はあるのだ」と静かに答えた。「それでも、謝りに行った己は間違っていたか」と尋ねるお春に、音世は首を振り、「間違えたことを間違えたと言えるなら、それはもう間違いではないのだ」と答えた。お春はその言葉を胸の奥深くにしまい込んだ。隣の部屋で、おすずもまた眠れぬまま、母の泣き声にじっと耳を澄ませていた。この日を境に、お春は「地の悪すぎる糸は、材料が足りずとも捨てる」という定めを己に課すようになった。それは、己の技を過信せぬための、痛みを伴う戒めだった。

そして、ことの山場にあって、大きな呉服屋が婚礼具に使う大量の布を求めているという話が舞い込んだ。これほどの数を一度に納められれば、折り場の先行きも大きく開けるはずだった。音世は珍しく前のめりになった。お春も心を動かされないわけではなかった。しかし、呉服屋を尋ねてみると、店先にはすでに川口屋の使いの者が来ており、同じ話を持ちかけていた。お春は半分の数しか揃えられず、幾度も水試しを省こうとはしなかった。「これほどの数を、一反ずつ水につけるつもりか」と呉服屋の主人が呆れたように問うと、「赤い糸を結ぶ以上、それだけは省けませぬ」とお春は答えた。呉服屋は首を振り、「それでは間に合わぬ」と言った。「数は揃わずとも、日に恥ずかしくない品だけはお約束いたします」とお春は食い下がったが、呉服屋の心は動かなかった。結局、呉服屋は速さと安さを取る方を選んだ。

まさにこの時、折り場にあの偽の赤い糸印の布が客の手元で完全に解けたという知らせが届いた。大きな注文を失うのと、信用が根底から揺らぐのと、二つの打撃がほぼ同時に襲いかかった。赤い糸のついた布が次々と突き返され、他の客も足踏みをするようになった。それまで通ってくれていた客の一人も、しばらく足を運ばなくなった。折り場で働く女たちの間には、給金が払えなくなるのではという不安が広がり、朝の挨拶にも曇りがなくなっていった。おすずはそうした女たちの不安げな様子に気づき、「母は必ず何とかしてくれる」と、努めて明るく声をかけて回った。

お春はこの窮地に、再び病に伏った。伏せった床の中で、何度も己の判断は本当に正しかったのかと自問した。もしここで折り場が潰れれば、年老いた音世の晩年まで巻き添えにしてしまう、という恐れがお春の胸を締めつけた。音世は枕元に座り、お春の額に手を当てながら「案じるな。まだ何も終わってはいない」と静かに言い聞かせた。その声は、かつてお金が病の床にあった時、お春にかけてくれた言葉と、どこか重なるものだった。

ある日、おすずは井戸端で「やはり川口屋を追い出された女だ」という声を耳にした。話している女たちは、お春の顔を知らぬ様子で、その噂を面白おかしく語っていた。おすずは俯いたまま、逃げるように家へ駆け戻った。恥ずかしさのあまり、おすずは密かに、仕上がった品から赤い糸を一本抜き取ってしまった。「この印さえなければ、川口のことを言われずに済むのでは」という幼い考えからだった。お春はそれを見つけたが、娘を叱ることはしなかった。傍らに座らせ、静かに言った。「その糸は、上手に織れた印ではないのだ。」「では、何の印なのか。」と尋ねるおすずに、お春は「間違えた時に、逃げないという印なのだ」と答えた。おすずはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。抜き取った糸を返そうとするおすずに、お春は「それはお前が持っていて良い。困った時にこそ、思い出せるように」と言って、娘の手にそっとその糸を握らせた。おすずはその糸を、しばらくの間懐に忍ばせていた。

お春は、この窮地を大市の場で決着させることに決めた。音世は「これ以上目立てば、川口屋を刺激するだけではないか」と案じたが、お春は「黙っていては、噂だけが一人歩きしてしまう」と答えた。前夜、お春は幾度も反物を並べ直し、話す順序を頭の中で確かめた。眠る前、おすずは母に「明日は怖くないか」と尋ねた。お春はしばし考えた後、「怖くないと言えば嘘になる。それでもやらねばならぬのだ」と正直に答えた。

大市の日、お春は折り場の前に四つの布を並べた。川口屋の布、己が過去に失敗した本物、糸から機まで手をかけ直した新しい布、そして世間を騒がせている問題の赤い糸の布。人々が少しずつ集まり出し、何が始まるのかと囃し立てた。中には川口屋の肩を持つ者もいれば、お春の噂を面白がって見に来ただけの者もいた。

お春はまず、「己の失敗からお見せします」と告げ、集まった人々を驚かせた。声はわずかに震えていたが、目はまっすぐに人々を見据えていた。かつて失敗した布を水につけると、案の上、綻びが広がった。「これは己が織ったもの。これは己の失敗でございます」と、お春は隠さず認めた。「なぜ失敗作をわざわざ晒すのか」という非難の声も聞こえたが、お春は構わず続けた。「まずこれをご覧いただかねば、この先の話に真実味を込めていただけぬからでございます。」

続いて、川口屋の布を試すと、歪みがはっきりと現れた。誰もが息を飲んで見守った。最後に、問題の布を試すと、ひどく解けてしまった。「それでも、赤い糸があるではないか」という声が人々の中から上がった。周りの者たちも「そうだ、そうだ」と頷き合った。お春はその布を静かに手に取り、はっきりとした声で告げた。「赤い糸は、ただ結べば印になるものではございません。」布端を丁寧に裏返し、本物は「身の縁に通した二重の結びで、糸の端が裏に隠れている」こと、この布は「ただの波の結びに過ぎない」ことを、一つ一つ差し示した。集まった人々は、お春の指先の動きを食い入るように見つめた。この糸の結び方を知る者は、亡きお金以外には、お春しかいなかったからである。「なるほど、確かに」という声が漏れ始め、次第にざわめきへと変わっていった。見物していた老人が、杖をつきながら「己の失敗まで並べる商人を初めて見た。これほど見事な商いを初めて見た」と、周りの者にも聞こえるように繰り返した。その場の空気は、ゆっくりと、しかし確かに変わっていった。

人々の中に、かつて「縁起が悪い」と嘲ったあの女もいた。女はしばらく黙って立ち尽くしていたが、やがてお春の傍らに歩み寄り、「あの時は余計なことを言った」と罰が悪そうに詫びた。お春はただ首を振り、「あの時言われたからこそ、考えをしっかりと持つことができた」と答えた。

最後に、お春は新しく織った布を試した。それは完璧ではなかった。「この布もいつかは痛みます。布である以上、永遠ではございません。ただ、売る前に、私たちはできる限り確かめております」とお春は告げ、「決して壊れぬ」とは決して言わなかった。その正直さこそが、却って人の心を強く動かした。傍らに立っていた音世の目にも、涙が滲んでいた。長年連れ添った技が、こうして人々の前で認められる日が来るとは、音世自身思ってもみなかったことだった。

大市の帰り道、おすずは母に「なぜ川口屋の布と偽物の布と、二つも並べて見せる必要があったのか」と尋ねた。お春は少し考えた後、こう答えた。「一つだけでは、たまたま運が悪かっただけだと思われてしまう。いくつも並べて初めて、人はそこに筋道を見い出すものなのだ。」おすずは、その答えに深く感じ入った様子で頷いた。

問題の布を扱った仲買人を一人ずつ辿っていくと、その仕入れ元はやがて川口屋へと行き着いた。さらに、布端に赤い印を似せて結ぶよう頼まれた職人の話とも食い違いなく重なり、偽物がどこから流れたものかは、少しずつ明らかになっていった。誰か一人の告白によって暴かれたのではない。いくつもの小さな事実が、一本の糸のように繋がったのである。

慎介がこのことを知ったのは、噂がすっかり広まった後だった。得意先の一人から「川口屋がお春の印を偲んでいる噂は誠か」と問い詰められ、慎介は初めてことの全貌を知った。血の気が引く思いで、慎介はその足でお蓮の部屋へと向かった。「店の名前を使って、何をしているのだ」と厳しく問い詰めた。お蓮は初め目をそらしたが、やがてまっすぐに慎介を見返し、「この子のためでございます」と答えた。その声には、悪びれた様子はひとかけらもなかった。慎介は「この子に残そうとした店を、お前自身が壊しているのだ」と静かに、しかし言葉を返した。お蓮は何も言い返せなかった。二人はしばらく黙って向き合っていたが、やがてお蓮は眠る我が子の方へ顔を向け、何も言わずに部屋を出ていった。

その後、川口屋の品は次々と突き返され、古くからの客は次第に去り、店は少しずつ傾いていった。慎介は帳場に座り、日に日に薄くなっていく帳面をめくりながら、母がこの様子を見たら何と言うだろうか、と幾度も考えるようになった。かつて忙しく立ち働いていた奉公人の数も減り、店先は日毎に寂しくなっていった。かつて祝いの膳が並んだ座敷も、今では埃をかぶった道具が積まれるだけの部屋になっていた。売れ残った安値の布が積まれる中、お蓮は幼い我が子の傍らに黙って座っていた。子が無邪気に「なぜ店に人が来なくなったのか」と尋ねた時、お蓮は答える言葉を持たなかった。この子のために全てをやってきたはずが、己のやり方こそが、店の命を己の手で失わせていた。それは誰かに下された罰というより、自ずと巡ってきた報いだった。

幾月か過ぎたある日、慎介はお春の折り場を訪ねた。噂を頼りに辿り着いたその場所には、いく台もの機が並び、女たちが忙しく手を動かしていた。おすずは新入りの女に糸のより分けを教え、おみよは機に向かい、音世は縁側で日向ぼっこをしていた。誰もが実の家族のように呼び合い、笑い声さえ聞こえていた。慎介は門口に立ち尽くし、しばらく中へ入ることができなかった。かつて己が捨てた家族が、己の預かり知らぬところでこれほどまでに温かい場所を築いていたことに、慎介は言葉にならぬ思いを抱いた。

おすずは、父の姿を見てもすぐには誰か分からなかった。もう何年も会っていない父の顔は、記憶の中の姿とはすっかり変わっていた。慎介が娘の名を静かに呼ぶと、おすずはまず母の方を見た。それは助けを求めるというより、この人にどう答えれば良いのかを確かめるような眼差しだった。お春は駆け寄ることも、声を荒げることもしなかった。ただ静かに機の手を止め、夫であった男を見つめた。おみよは機の影から顔だけを覗かせ、「あの人は誰か」と姉に小声で尋ねていた。おすずはそれには答えず、ただ妹の方に手を置いた。

「せめて、父親として」と慎介が言いかけると、お春は「この子たちが会いたいと申し出ましたか」と静かに尋ねた。一呼吸を置いた後、「しかし、己が川口屋へ戻ることはございませぬ」と、お春は静かに、しかしはっきりと告げた。慎介は何かを言いかけようとしたが、言葉にならず、ただ深く頭を下げた。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて「これまで済まなかった」とだけ絞り出すように呟き、門を出ていった。おすずはその背中をしばらく見送っていたが、母の袖を引くことも、呼び止めることもしなかった。

その夜、お春は娘に「父を恨んでいるか」と尋ねたことがあった。おすずはしばらく考えた後、「恨んではいない」と答え、「ただ、もう昔には戻れないのだと思う」と言葉を続けた。お春はその言葉に、娘がいつの間にか思う以上に大人になっていたことを知った。

音世もまた、歳月と共に少しずつ老いていった。かつては誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働いていた音世が、いつしか縁側で日向ぼっこをして過ごす時間の方が長くなっていた。お春とおすずは、そんな音世の様子に気づくたびに、代わる代わる傍らに座り、糸の手を止めて世間話に付き合った。ある日、お春が「分からぬことがあれば、いつでも聞きます」と言うと、音世は笑いながら「もう教えることは大方教えた。あとはお前たちが好きにやれば良い」と答えた。それでも、音世は決まって機場に顔を出し、女たちの手元をしげしげと眺めてから、「うん、うん」と満足そうに頷いて去っていくのだった。

折り場が何人もの女を抱えるようになると、お春は誰にも同じ仕事を無理じいしなかった。機一台と乏しい米だけを頼りに始まったこの場所に、これほど多くの人が集うようになるとは、お春自身思ってもみないことだった。近隣で夫を亡くした女や、実家を早くに離れた娘たちが、少しずつこの家に集まるようになった。ある日、機を織ったことがないという新入りの女がやってきた。お春が「糸に触れたことはあるか」と尋ねると、女は「ある」と答えた。「それなら、そこから始めよう」と、お春は糸を手渡した。手先は不器用でも力のある別の女には糸績みを任せた。ある女は指先が荒れるほど糸績みに没頭し、ある女は根気強く糸の痛みを見分ける目を養っていった。誰もが得手なところから始め、無理に一人前の折り手を目指させることはなかった。中には、男に捨てられ、行場を失って戸口に立った女もいた。お春はその女の手を見て、「この手は畑仕事で鍛えられた手だ。力のいる糸績みの仕事を任せよう」と言った。女は初め戸惑っていたが、幾月か経つ頃には、誰よりも頼りにされる績み手となっていた。

ある日、熱があるのに無理をして働こうとする女がいた。顔色は青白く、手も震えていたが、給金を減らされることを恐れてか、機の前を離れようとしなかった。お春はその手からそっと仕事を取り上げ、「布は織り直せる。だが、人の体は織り直せぬ」と告げた。女は初め、金のことを案じて涙を見せたが、お春は「給金は案じずとも良い。まずは直すことだけを考えよ」と言い添えた。傍らでそれを聞いていた音世は、黙って頷いただけであった。誰も多くを語らずとも、その場にいた誰もが、亡きお金の教えをそこに見ていた。この言葉は、いつしかこの折り場の誰もが知る決まり文句のようになっていった。

おすずもまた、幼い頃に糸を束ねる手伝いから始め、今では新入りの女たちに糸のより分けを教えるまでになっていた。母の傍らで育ったその手付きは、いつしか母によく似たものになっていた。ある日、新入りの女が糸を織り分ける手に迷っていると、おすずは「良い糸は、撫でた時に指に吸いつくように反応するものだ」と、幼い頃に母から教わった言葉そのままに語って聞かせた。その言葉を口にしながら、おすずはふと、母もこうしてお金から教わったのだろうか、と思いをはせた。おみよもまた、機の下で積み木遊びをしていた頃が嘘のように、自ら機に座りたいと背伸びするようになっていた。まだ小さく、舟をうまく使えずにいたが、根気よく繰り返すうちに、少しずつ上達していった。姉のおすずが手を教え、時に失敗しては笑い合う二人の姿は、機場の誰もが目を細めて見守る光景となっていた。

洗濯物を取り込む夕暮れだった。それは何の前触れもなく、まるで当たり前のことのように口から出た一言だった。おすずが音世に向かって「おばあ様、これも取り込みます」と声をかけた。音世は手を止め、「今、何と言ったのか」と聞き返した。おすず自身も、なぜその言葉が口をついて出たのか、はっきりとは分からなかった。ただ、物心ついた頃からずっと、そう呼びたかったのだという気がした。おすずがもう一度「おばあ様」と繰り返すと、音世は顔を背け、濡れた手で涙を拭った。「そうか」とだけ、音世は低く呟いた。その声は、わずかに震えていた。それを見ていたお春は、ふと亡きお金のことを思い出した。しかし、その時お春は、もはや姑のお金の代わりを探しているのではないと気づいた。お金の代わりではなかった。代わりである必要もなかったのだ、と静かに悟った。お金は生き抜くための技を授けてくれた。音世は、その技がまだお春を救い切れずにいた時、住まう家を授けてくれた。お春の人生には、違う時に二人の母がいたのである。

冬の朝、機場ではいく台もの機が音を立てて動いていた。かつては一台の古びた機と乏しい米だけを頼りに始まったこの折り場が、今では幾人もの女の手によって支えられるまでになっていた。お春はふと、あの風の吹く夕暮れに、何一つ持たずにこの道を歩き出したことを思い返した。あの時、針箱の底に残っていたわずかな赤い糸が、今ではこれほど多くの布端を彩っている。人の運命とは、かくも分からぬものだとお春は静かに思った。傍らでは音世が茶を入れながら、その様子をいつまでも眺めていた。

その時、音世が織り上げたばかりの一反を手に取り、試しの部分を水に浸し、乾いた後に丁寧に確かめた。歪みはどこにもなかった。それから、音世は静かに赤い糸を手に取った。「結んで良いか」とおすずが尋ねると、お春は娘を見つめ、しばし考えた後、「己が責任を終えると思うならば」と答えた。おすずは深く息を吸い、身の縁に糸を通し、二重の結び目を作り、糸の端を裏に隠した。かつて祖母から母へ、母から己へと伝えられてきたその手順の通りに。傍らでは、おみよが自分で織った初めての一反を抱きしめるように持ち、「いつか自分もあの結び目を作るのだ」と、目を輝かせて姉の手元を見つめていた。並んだいくつもの布端に、小さな赤い結び目が、それぞれの手によって静かに残されていった。

お春は時折、この折り場を訪ねてくる客に「なぜこの家の布だけがこうも長く保つのか」と尋ねられることがあった。その度に、お春は「売る前に、己たちが一番厳しい客になっているだけです」と笑って答えるのみだった。音世はそのやり取りを縁側で聞く度に、満足そうに頷くのが常だった。

信用とは、一度も失敗せぬことではない。失敗した時、それから逃げずに引き受けることだと、お春は幾多の日々を経てそう思い定めるようになっていた。お金がかつて示した赤い糸の重みも、突き詰めればそこにあった。家も、寝台も、女の手から奪われることはある。しかし、指先に刻まれた技と、人から人へ渡された心までは、誰にも奪うことができない。お金からお春へ、お春から娘たちへ、そして血の繋がらぬ女たちへ。切れかけた糸はその度に結び直され、いつしか一つの家を織り上げていた。昨日とは今日も絶えることがない。機場では、小さな赤い糸が、静かに揺れていた。

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