コンサートの最前列で、彼女は両手をきつく握りしめていた。 俺はその指を一瞬だけ見て、鍵盤に向き直った。 数日後、診察室で彼女は言った。 「上がるだけで息が切れて、夜も胸が苦しくなるんです」 聴診器を当てた瞬間、僧帽弁の悲鳴がはっきりと耳に入った。 彼女が部屋を出る間際、ふと振り返って尋ねた。 「…先生、どこかでお会いしましたか?」 その言葉に、俺は指を止めた。…

コンサートの最前列で、彼女は両手をきつく握りしめていた。 俺はその指を一瞬だけ見て、鍵盤に向き直った。 数日後、診察室で彼女は言った。 「上がるだけで息が切れて、夜も胸が苦しくなるんです」 聴診器を当てた瞬間、僧帽弁の悲鳴がはっきりと耳に入った。 彼女が部屋を出る間際、ふと振り返って尋ねた。 「…先生、どこかでお会いしましたか?」 その言葉に、俺は指を止めた。...

夜の病院で、太田先生が執刀前の最後の確認をしていた。
「太田先生、すごい。このタイミングで切合に入るんですか?」
若手の水島が、感嘆混じりの声を上げた。
「タイミングは1つしかないんだ。よく見ておけ」
俺は小さく頷き、手元に集中した。

俺の名前は大玉。42歳。心臓外科医としてこの総合病院で15年になる。
「名医」と呼ばれることも増えた。
学会で顔が知られ、講演を頼まれる機会も増えたが、その評価に馴染めない自分がいる。

水島がコーヒーを片手に入ってくる。
「先生、本当にお疲れ様でした。今日のあの切合、僕絶対に真似できません」
「真似する必要はない。お前にはお前のやり方がある。焦らずに積み重ねればいい」
水島は笑って椅子に腰を下ろした。
俺は窓の外を見た。桜のつぼみはまだ固く閉じていた。

夜10時過ぎ、自宅マンションに帰りつく。
コートを脱ぎ、ネクタイを外す。
靴下のままリビングの奥に置かれたグランドピアノの前に座った。
母が残してくれた、たった1つの大きなものだ。

俺が8歳の時、母は俺にピアノを教えてくれた。
聡明で、優しい人だった。
母が亡くなったのは、俺が高校2年の冬。心臓の病だった。
あの頃、俺は何もできなかった。
医師になろうと決めたのは、その時からだ。
そして、ピアノを続けることも決めた。
母との約束ではなかった。
ただ、鍵盤に触れていると、母の声が聞こえる気がするのだ。

今夜も指を置く。
ショパンのノクターン。
最初の数小節で、肩の力が抜けていく。
音が部屋の空気と溶け合う。
誰に聞かせるためでもない演奏だった。

引き終えると、テーブルの上のスマートフォンが震えていた。
着信は、クラシック音楽事務所を営む古い友人からだった。
電話の向こうの声は、いつもの軽さで切り出した。
「誠、頭事前コンサートで1曲頼めないか。心臓病の子供たちのための演奏会だ。例のごとく匿名でいい」

「子供たちか」
「お前にしか頼めない。30分でいいんだ」
俺はしばらく黙って、ピアノの鍵盤を見つめた。
匿名で演奏することは、これまでにも何度かあった。
医師がピアノを弾く。
それは誰かにとって余計な情報になりかねない。
病院での立場を守るため、俺はずっと自分を隠してきた。
だが、「子供たち」という言葉は、胸の奥を静かについた。

「わかった。引き受ける。曲はこちらで選んでいいか?」
「もちろんだ。助かるよ、誠」
電話を切ってからも、俺はしばらく動けなかった。

4月の第1土曜日。
都内のホール。舞台の袖で、俺は燕尾服に着替えていた。
プログラムには「演奏者:M」とだけ書かれている。
舞台に出る直前、係りの女性が小さく声をかけてきた。
「客席満員です。最前列に朝倉メディカルの社長と娘さんも来られています」

朝倉メディカル。
医療機器の大手メーカーだ。
うちの病院でも、彼らの製品をいくつも使っている。
社長令嬢が来ているとは知らなかった。

舞台に出ると、拍手が静かに起こった。
俺はピアノに向かい、深く一礼する。
最前列に若い女性の姿が見えた。
色の白い、線の細い人だった。
膝の上で両手をきつく握りしめている。
俺はその指を一瞬だけ見て、鍵盤に向き直った。
引き始めたのは、ショパンの「悲愴」第2楽章。
ゆっくりとした、祈りのような旋律だ。
俺はその夜、母のことを思いながら弾いた。

コンサートから数日後、いつものように診察室で患者を診ていた。
「上がるだけで息が切れてしまって、夜も横になると胸が苦しくなるんです」
俺は彼女の話をゆっくりと聞いた。
そして聴診器を当てた時、心音の異常がはっきりと耳に入った。
僧帽弁が確かに悲鳴を上げている。
俺は何も言わずに聴診器を外した。

診察を終え、彼女が部屋を出る間際、ふと振り返って言った。
「…先生、どこかでお会いしましたか?」
俺はその言葉に、指を止めた。

Thumbnail