「弁償は8000万円よ。しっかり払いなさい。私はこう見えてもヤザなの。言う通りにしないと家族ごと消しちゃうわよ」
ママ友のちなみさんはそう言うと、得意げな顔をして笑った。全ての発端は、私の息子が野球のボールをちなみさんの車にぶつけてしまったことだった。確かに狭い公園で野球をしていた息子は悪かったと思う。だが、いくら何でも修理費に8000万円を出せというのは無理がある。私がちなみさんにそう伝え、普通の修理費だったら支払うと言った。だがちなみさんは急に声を上げると、自分がヤザなのを明かして私たち親子を脅してきたのだ。息子はすっかり怯え、泣きながら私を見る。ヤザは怖いが、ここで私まで取り乱したらちなみさんの思う壺だ。私は自分を落ち着かせながらちなみさんに向き直る。この時、ちなみさんの運命はすでに転落が始まっていた。
私の名前は古川やよい。ごく普通の専業主婦だ。その日、小学校2年生になる達也は学校から帰るとすぐにバットとグローブを持ち出した。最近達也は野球のルールを覚え始め、今は野球をするのが楽しくて仕方がないようだ。
「達也、野球の練習をするなら必ず広い場所でやるのよ。ボールが人にぶつかったりしたら危ないからね」
「分かってるよ、ママ。ちゃんと気をつけてやるから」
達也はそう言うとさっさと外へ出てしまう。私はそんな達也を見送った後、夕食の準備を始めた。電話がかかってきたのはそれから30分ほど経った頃だろう。電話に出ると、泣きながら話す達也の声が聞こえてきた。
「ま、ママ、ごめんなさい。今公園にいるんだけど……」
「どうしたの? 公園って近所の中央公園のこと? どうして泣いているの? 一体何があったの?」
困惑する私の耳に、誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。
「このクソガキ。泣けばいいと思ってんの? 泣きたいのはこっちなんだから。グズグズしないで。さっさとあんたのママを呼べって言ってるのよ」
「達也、近くに誰かいるの? 分かったわ。今中央公園にいるのね。すぐに行くから待ってなさい」
私は達也が心配になり、すぐに公園へ向かう。するとそこにはちなみさんが立っていた。ちなみさんは近所に住んでおり、息子と年の近い子供が同じ小学校に通っていたはずだ。だが顔見知り程度でしかなく、直接話したことはない。ちなみさんは達也が逃げないよう監視するように、鬼のような形相で睨みつけていた。
「やっと来たわね、やよいさん。随分と遅かったじゃない。一体何をしていたの?」
「ちなみさん、あの、何があったんですか? うちの息子が何かしたんでしょうか?」
「何を呑気なことを言ってるの? あんたのクソガキときたら、こんな狭い場所で野球なんかして、そのせいで飛んできたボールが私の大事な車にぶつかったのよね。おかげで車がへこんじゃったじゃない。どうしてくれるのよ」
「え、そうだったんですか? それは申し訳ありませんでした」
私は達也の隣に並ぶと、ちなみさんに頭を下げる。だがちなみさんは私たちを睨みつけると、近くに止めてある車を指差した。
「見てあの車。あんたの家のクソガキのせいでドアがへこんじゃったのよね。あの車は私が若い頃からずっと大事に乗っていた高級車なのよ。当然弁償してくれるんでしょうね」
そう言われ、私はちなみさんの車を見る。フロントは擦り傷だらけ。ドアはへこみ、バンパーが外れてガムテープで止められたボロボロの軽自動車が止まっていた。あまりに傷だらけで、どこが達也のボールでへこんだ部分なのか分からないと言った有様だ。それにちなみさんの車はどう見ても普通の軽自動車で、とても高級車には見えない。だがボールをぶつけたのは達也なのだから、そんなことを言うのは失礼だろう。
「それはごめんなさい。息子がボールをぶつけたのは事実です。でも、修理費として8000万円というのは……さすがに高すぎると思います。普通の修理代でしたら、きちんとお支払いしますので」
私がそう言うと、ちなみさんの顔色が一変した。
「は? あんた、今何て言った? 私がヤザだって言ったのが分かってないの? いいわよ、その態度、後悔させてやるから。私の言う通りにしないと、あんたの家族がどうなっても知らないからね」
ちなみさんはそう言うと、スマートフォンを取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、あんたたち、すぐ中央公園に来なさい。ちょっと面倒なことになってるのよ。そう、あの古川って家の女がさ。言うことを聞かないから、ちょっと脅してやってくれない?」
私はその様子を見て、ゾッとした。どうやらちなみさんは本気でヤザの知り合いを呼んだらしい。息子の達也は青ざめ、私の袖を握って震えている。
「ママ……怖いよ。僕、どうしたらいいの?」
「大丈夫よ、達也。ママが何とかするから」
私はそう言ったものの、頭の中は真っ白だった。目の前に迫る危機に、どう対応すればいいのか分からなかった。だが、ここで逃げ出したら、一生ちなみさんに脅され続けることになるだろう。私は深く息を吸い込むと、ちなみさんに向き直った。
「ちなみさん、ヤザの方々が来る前に、一つだけ言わせてください」
「何よ? 今さら謝る気になったの?」
「いいえ。謝る気はありません。むしろ、あなたに言いたいことがあります」
私がそう言うと、ちなみさんは意外そうな顔をした。
「は? 何言ってるの? あんた、正気?」
「私はこう見えても、昔は名門高校の生徒会長を務めていた人間です。そして、今も地域のPTAの役員をしています。あなたがヤザだというのなら、それを証明してください。本当にヤザなら、あなたの言う『家族ごと消す』という発言を録音したこのデータを警察に提出しても構わないんですよ」
私はポケットからスマートフォンを取り出し、ちなみさんに見せた。実は、さっきから会話を録音していたのだ。ちなみさんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嘲笑うように笑った。
「はっ! そんなもん、警察が相手にすると思う? あんたこそバカなの?」
「そうですか。なら、もう一つ言わせてください。あなたの夫が経営している会社が、最近脱税の疑いで調査を受けているって本当ですか?」
その瞬間、ちなみさんの顔色が一瞬で変わった。
「……何でそれを知ってるの?」
「PTAの役員をしていると、いろんな情報が入ってくるんですよ。それに、あなたがいつも 『私の家はお金持ち』 って自慢しているのを、近所の人が不審に思っているって話も聞いてます」
ちなみさんの顔は、さっきまでの威圧的な表情から一転して、青ざめていた。
「あ、あんた……まさか、私を脅すつもり?」
「脅してるわけじゃありません。ただ、正当な修理費を払う代わりに、あなたも大人しく引き下がってほしいだけです。8000万円なんて、到底払えませんから」
ちなみさんは悔しそうに唇を噛んだ。すると、ちょうどその時、バイクの音が近づいてきた。どうやらちなみさんが呼んだヤザの連中が来たらしい。私は心の中で覚悟を決めた。だが、予想外のことが起こった。
「おい、ちなみ。何やってんだ?」
バイクから降りてきた男は、ちなみさんの顔を見て言った。
「あ、あんたたち……来てくれたのね。この女が私の言うことを聞かないのよ。どうにかしてやって」
男はちなみさんの言葉を無視して、私を見た。
「あんた、古川やよいか?」
「え? はい、そうですけど……」
「おい、ちなみ。お前、とんでもない相手に手を出そうとしてるぞ。この人、俺の兄貴の知り合いなんだよ。兄貴の話だと、この人はヤクザの組長の娘だそうだ。そんな相手に8000万円とかふっかけて、正気か?」
男の言葉に、ちなみさんの顔が真っ青になった。
「は、はぁ?! この女がヤクザの娘? そんなバカな!」
「本当だよ。俺の兄貴はこの人の父親の組で世話になってるんだ。お前、生きて帰れると思ってるのか?」
ちなみさんは震えながら、私を見た。
「あ、あんた……本当に?」
私は無言のまま、微笑んだ。もちろん、男の言ったことは全くの嘘だ。私の父はごく普通のサラリーマンだったし、ヤクザなんて関係ない。だが、男は何故か私の味方をしてくれているようだった。
「さあ、ちなみさん。どうしますか? このまま大人しく引き下がるなら、今回のことはなかったことにしてあげますけど」
私がそう言うと、ちなみさんは悔しそうに歯を食いしばった。
「……分かったわよ。もう何も言わないから。車の修理費も、自分で払うから」
ちなみさんはそう言うと、逃げるようにしてその場を去っていった。男たちもバイクに乗って立ち去る。私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて息子の達也が私の袖を引っ張った。
「……ママ、終わったの?」
「ええ、終わったわよ。大丈夫、何も怖くないからね」
私は達也を抱きしめた。そして、心の中で思った。これは一体何だったのだろうかと。男が言った 『組長の娘』 という言葉は、明らかに嘘だったはずだ。だが、彼はなぜ私を助けてくれたのだろうか。もしかしたら、彼もちなみさんの横暴な振る舞いに腹を立てていたのかもしれない。いずれにせよ、私たち親子を守れたのは事実だった。それからというもの、ちなみさんは私たちに一切近づいてこなくなった。彼女の車は数日後にきれいになった状態で停めてあるのを見かけたが、修理費を払ったかどうかは知らない。私はあの日の出来事を、誰にも話さないことにした。そして、達也にはこれからも野球を続けるように言った。ただし、必ず広い場所でやるようにと。あの日、私は知った。この世界には、真実と嘘が入り混じった不思議な出来事が起こるものだということを。



