仕事帰り、駅から家までの10分の道のりをゆっくり歩きながら、私は今日も一日の終わりを実感していた。秋の夕暮れは早く、家々の窓から温かい明かりが漏れ始める頃、自分の役目ももうすぐ終わる。ただし、本当の意味での終わりはまだ先だ。帰宅してからが、家事と子育てという第二の仕事の始まりだから。
我が家は駅から少し離れた、静かな住宅地に建つ2階建ての注文住宅。白い外壁に薄い茶色の瓦屋根。庭には小さなもみじが植えてあり、この時期になると真っ先に色づいて玄関先を彩ってくれる。
この家を建てたのは10年前。夫のたけしと結婚した直後のことだった。土地と建物の名義はすべて私の単独名義。そう登記したのは、私の実家である「白井工務店」が設計から施工までを担当してくれた経緯があるからだ。
実家は祖父の代から地元で工務店を営んでおり、今は父が社長を務めている。一人娘の私に家を建てるならうちで建てろと譲らなかった父は、土地の選定から間取りの打ち合わせまで、自ら足を運んでくれた。ローンの頭金の大部分も、そして毎月の返済も、私が自分の給料からきちんと支払ってきた。たけしは当時、会社員だったが、あてにできる収入は少なく、私がメインで家計を支えているのが現実だった。
現在、私は都心から電車で30分ほどの住宅街で、夫のたけし、小学4年生の息子のしゅんと3人で暮らしている。勤め先は「漢方不動産管理」という小さな不動産管理会社。社員は30人ほどだが、担当エリアに持つ物件は300を超える。毎日のように入居者や家主からの問い合わせ電話が鳴り響く。
私が担当しているのは、主に賃貸物件の契約管理や入居手続き、家賃の入金確認、そして名義変更に関わる書類作業だ。登記規模の読み方、抵当権設定の流れ、相続に伴う名義の手順といった地味で細かい知識は、日々の業務で嫌というほど身についていった。
今日も午後いっぱい、相続で揉めている空き家の名義整理について、司法書士との打ち合わせに時間を取られた。前の所有者が亡くなったまま長く放置されていた物件で、相続人が4人に分かれ、誰も手をつけなかった結果、権利関係は絡まった意図のようになっていた。こういう案件を眺めるたびに、私は家の名義という紙切れ1枚がいかに人の人生を縛るかを痛感させられる。
そんな仕事を終えて帰宅すると、玄関にはたけしの靴が揃えてあり、リビングからはしゅんの声が聞こえてきた。
「おかえり、信子。今日は遅かったな」
たけしがソファに座ってスマホを見ながら声をかけてくる。しゅんはテーブルで宿題を始めていた。私はエプロンをつけ、冷蔵庫を開けて夕食の準備に取りかかった。
そんなやり取りの後、しゅんがふと顔を上げて言った。
「ねえ、ママ。あのさ、この前、おばさんから電話あったけど、何の用だったの?」
「おばさん? ああ、私はヒロコさんのことだな。ちょっと手続きのことで聞かれただけよ」
私は軽く流した。だが、心の中には小さな違和感が残っていた。ヒロコさんはたけしの母、つまり義母だ。今日の着信は確かに私に何かを伝えるような長さだったが、私は忙しくて出られなかったのだ。
翌日の休日、私は銀行で用事を済ませ、その帰りに義母の家に立ち寄った。だが、そこで私が聞かされたのは、予想もしていなかった話だった。
「信子ちゃん、聞いてくれる? たけしがね、最近、会社を辞めたいんだって。もう疲れたって言ってね。私としては、あなたたちの家のこと、どうするのかなって思ってさ」
「家のこと? 名義は私の単独名義ですから、特にどうもしませんよ」
私はそう答えたが、義母の表情がわずかに曇った。何か引っかかる。
数日後、今度はたけし自身が私に切り出してきた。夕食の後片付けをしている私の背中越しに、ポツリと呟いたような声だった。
「信子、ちょっと話があるんだけど」
「何? 改まって」
「俺さ、会社辞めようと思ってる。もう無理だ。このまま続けても体壊すだけだから」
「辞める? それで生活はどうするの?」
「何とかなるよ。それに、家のことなんだけど……」
そこでたけしは言葉を切った。私は手を止め、振り返って彼の顔を見た。
「家がどうしたの?」
「名義をさ、俺の名前に変えてくれないか? それで、もしもの時は俺がちゃんと面倒見るからさ」
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。名義を変える? 私が全額返済している家を、突然たけしの名義に?
「何を言ってるの? 名義は私のものよ。ローンだって私の給料で払っている。今さら変える必要なんてないでしょ」
「だって、俺が働けなくなったら、俺の立場がないだろ。それに、将来しゅんに継がせるにしても、夫婦の家なら俺の名義の方が理屈は通りやすい」
彼の言葉には、どこか私を押し切ろうとするような強引さがあった。私は反論した。
「理屈は通るかもしれないけど、私は反対よ。これは私の親が建ててくれた家だし、私が守るものだし」
「お前は俺の妻だろう? そういうの、もっと考えてくれよ」
たけしの声は次第に熱を帯びてきた。私は皿をシンクに置き、冷静さを保とうとした。
「考えてほしいのはこっちよ。あなた、最近、何かおかしいわ。何か隠してない?」
「何も隠してないよ。ただ、将来のことを考えたらね」
結局、その日の話は平行線のままで終わった。私はリビングを出て、しゅんの部屋の前で足を止めた。中からは宿題をする音が聞こえる。この家を守ることだけが、私の信念だった。
それから1週間後、私は実家に相談に行った。父は渋い顔で話を聞き、こう言った。
「信子、名義はお前のものだ。何があっても渡すな。もしたけしが変なことをするようなら、うちの弁護士を紹介する」
父の言葉に少し安堵したが、もう一つの不安は消えなかった。たけしは、家の名義をたびたび話題にするようになった。夜、スマホを見ながら小声で通話する姿も見られるようになった。
ある日、私は彼の鞄を何気なく見てしまった。中から出てきたのは、金融機関からの書類だった。そこには私の名前とは違う、たけしの名前で借り入れがあることが示されていた。借入額は、我が家のローン残高に匹敵する金額だった。
私は手が震えた。彼は私に内緒で、どこからか大金を借りていたのだ。それを隠して、家の名義を奪おうとしている。どういうこと?
夜、たけしが帰ってくるまで、私はリビングで待った。玄関の鍵が開く音がして、たけしが疲れた表情で入ってくる。私はその書類を見せた。
「これは何? たけし」
たけしの顔色が一瞬で変わった。しばらく沈黙した後、彼は絞り出すように言った。
「……ギャンブルだ。借金が膨らんで、もう返せない」
「何てこと……。それで家の名義を売れって言ったの? 私から奪おうとしたの?」
「そんなつもりじゃなかった。頼む、信子。どうにかしてくれ。俺はもうダメだと思って」
「どうにかするって? 私が払ってきたローンをあなたの借金返済に使えって言うの?」
私は涙を必死に堪えた。この家は、私の人生そのものだった。毎日働いて、返済して、家族で暮らしてきた。それを、一瞬の賭けで失わせるなんて。
「もう、出て行って」
「信子、話を聞いてくれ!」
「出て行って! 今すぐ!」
その夜、たけしは家を出た。しゅんは別室にいて、泣き声は聞こえなかったが、私は玄関の鍵をかけてから、冷たい床に座り込んだ。頭の中では、これからどうすればいいのか、いくつもの青写真が浮かんで消えた。
私は父に電話をかけた。父は静かに、しかし力強く言った。
「決心が固まったのか? なら、明日から動くぞ。うちの弁護士を紹介する。たけしの借金は、お前とは無関係だ。お前は何も払う必要はない」
「ありがとう、父さん」
翌朝、私はしゅんを学校に送り出した。そして、机の引き出しから、家の権利書を取り出した。紙切れ1枚だが、これが私のすべてだった。それを鞄に入れ、私は弁護士事務所へ向かった。
打ち合わせは1時間ほどで終わった。弁護士は私の状況を聞き、確実に対応してくれると言った。
「安心してください。あなたの権利は守ります」
帰り道、私は朝の光の中で自分の家を見上げた。そして思った。今度こそ私は決意した。この家を守るためなら、私は何だってする。誰にも、何にも奪わせはしない。
その後、私はたけしとの離婚に向けて手続きを進めた。たけしは逆上し、電話やメールで脅すように言ってきた。だが、私は相手にしなかった。私は私の足で立っている。しゅんの未来のために、私は強くならなければならなかった。
あれから半年。今、私はこの家で、しゅんと二人で暮らしている。たけしは行方を晦ました。借金が返せず、自己破産したと風の便に聞いた。私はあの時、名義を渡していれば、今ごろすべてを失っていただろう。
この家の鍵を開ける時、私はいつも思う。名義が誰にあるかで、人生が変わる。私は自分の人生を、自分の名前で生きていく。それが私が選んだ道だ。


