「そうま助けて。レジが急に壊れちゃって。これなんとかならない?」
同期の社員にそう言われて、俺はバックヤードから出てレジに向かった。俺の名前は相馬正一。大手スポーツメーカー上村で働いていて、主に直営店での品出しや仕入れを担当している。店のバックヤードで売上をまとめるのが日課だったが、こういうトラブル対応も自然と俺の仕事になっていた。
レジを見ると、たいした故障じゃない。工具を取り出して少し調整すれば、すぐに動き出した。
「ありがとう」
握られた両手をブンブンと上下に振られていると、別の社員が顔を覗かせた。
「ちょっといいか? 登山グッズの陳列終わったんだけど、これでいいかどうか見てくれないか?」
連れられて登山コーナーに足を運ぶ。そこには登山グッズやリュック、トレッキングポールなどがたくさんの種類を揃えて並べられていた。ぐるりと見回す。
「これでいいと思うけど、このリュック、女性用だろ。上に陳列するよりは下の方に置いた方が良くないか? ああ、上の方が見栄えがいいかなと思ったけど、確かに男性よりは身長低いもんな。あとこの熊の鈴ももっと目立つところに置いていいと思う。最近熊の被害多いだろう。不安がる人も多いと思うんだよ」
「なるほど」
彼は顎に手を当てて再検討を始める。するとそこに、またしても別の社員が現れた。半泣きの表情で。
「助けてください。外国のお客さんが商品の説明を希望されてるんですけど、私英語苦手で。向こうは日本語ほとんど分からないみたいなんです」
彼女に連れられて、野球のグローブを色々試している途中の客の元へ向かう。そこで俺は、その外国人客と目が合った。
次の瞬間、俺は言葉を失った。
その客は、透き通った空と海の広がる離島で出会った女性だった。いや、まだ出会ってない。でも、この時すでに何かが動き始めていた。
確か三ヶ月前までは、俺は都心の店舗で働いていた。少なくともあの日までは、そうだった。
あの日、冷たい目の店長に呼び出された。
「移動です。あなたは移動です」
告げられた移動先に俺は驚きを隠すことができなかった。そこは都心から遠く離れた離島にある店舗だったからだ。社員たちの間では、そこに移動することは左遷を意味すると噂されている。
「これは決定事項です。不満があるのならば本社に言いなさい」
店長の厳しい言葉に逆らうことはできなかった。引き継ぎもそこそこに、俺は島へと飛ばされた。
島へ着いて最初に感じたのは、空気の違いだった。澄んだ空気、広がる海、のんびりとした時間。都会の慌ただしさが嘘のように感じた。
島の店舗に着くと、店の外観からして、まだ昔ながらの商店を改装したような雰囲気があった。社員の数も少ない。
「相馬さんね? 待ってたよ」
愛想のいい年配の女性が挨拶してくれた。彼女は店長代理だと名乗った。
「ここは狭いから、すぐに仕事を覚えてもらわないとね」
仕事は思ったよりもシンプルだった。品出し、在庫管理、レジ対応。ただ、客は少ない。それでも店のやりくりは何とかなっていた。
そんなある日、週末の昼下がり。店に若い女性が一人で訪れた。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、彼女はこちらを振り向いた。そして、ふっと微笑んだ。
「こんにちは」
短い挨拶。それだけなのに、俺の心臓がどきりと鳴った。
彼女は登山コーナーを見て回っているようだった。熊の鈴を手に取り、じっと見つめている。
「熊の鈴ですか?」
「ええ。最近山で遭遇した人がいて、それ以来怖くて」
「そうなんですね。こちらの鈴は音が大きくて、熊に気づいてもらいやすいですよ」
俺が説明すると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。これにします」
彼女は鈴を買って、店を出て行った。それが最初の出会いだった。
それから、彼女は時々店に来るようになった。買い物をするでもなく、ただ雑誌を見たり、商品を眺めたり。俺と話すために来ているのかもしれないと思った。
「相馬さんは、どうして島に来たの?」
ある日、彼女が何気なく聞いてきた。
「会社の命令でね。まあ、ちょっと左遷かな」
「そんなことないよ。この島はいいところだよ」
彼女の言葉に、俺の心が軽くなった。
彼女の名前を聞いたのは、それからしばらくしてからだ。
「私、島田と言います」
「相馬正一です」
「知ってるよ」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「店員さんの名前、覚えてたんだね」
「だって、いつもお世話になってますから」
そんな会話が増えていった。俺はいつしか彼女に会うのが楽しみになっていた。
ところがある日、店に来た彼女が妙に落ち込んでいるように見えた。
「どうしたんだ? 何かあった?」
「……実は、彼氏に振られちゃって」
「ああ……」
何て声をかければいいのか分からず、俺は黙った。すると彼女が突然、俺の手を握ってきた。
「相馬さん、私と一緒にして」
顔を赤らめ、微笑みながら手を伸ばす彼女。そのまま俺は自然に手を取っていた。
「頼む」
「……」
「私のこと、嫌いじゃないでしょ?」
「嫌いなわけない」
俺の答えに彼女は嬉しそうに笑った。
その日から、俺たちは付き合い始めた。
島での生活は悪くなかった。仕事も覚えたし、社員たちとも仲良くなれた。何より、彼女と一緒にいられることが嬉しかった。
しかし、ある日。店に来た彼女の表情がいつもと違った。
「相馬さん。話があるの」
「何だ?」
「私……実は」
彼女は言いにくそうに口を開いた。
「この島を出ようと思ってるの」
「え?」
「東京で働くことになったの。この機会を逃したら、もう島には戻れないかもしれない」
俺は言葉を失った。
「もちろん、相馬さんも一緒に来てほしい。でも、流石にいきなりは無理よね。だから、」
「待って」
俺は彼女の言葉を遮った。
「俺も考える時間をくれ。そして、もし一緒に行くなら、会社に相談してみる」
「本当?」
「本当だ」
彼女は微笑んだ。だが、その目は何かを隠しているように見えた。
その夜、俺は店のバックヤードで物思いにふけっていた。彼女と行くか、ここに残るか。悩んだ。
だが、次の日。彼女は突然、店に来なくなった。
何度か電話しても出ない。店に来ることもない。
焦った俺は、彼女の家を訪ねてみた。しかし、そこには誰もおらず、玄関には「引っ越しました」の張り紙があった。
「……まさか」
俺は呆然とした。まるで俺から逃げるように、彼女は去ってしまった。
それから一週間。仕事に集中しようとしたが、気持ちは晴れなかった。
ところが、ある日。店に社長からの連絡があった。
「相馬君、急だが東京の本社に来てもらえないか?」
「本社ですか?」
「ああ。抜擢だ。君には期待している」
俺は上村に戻ることになった。左遷の地から、本社への栄転。不思議な展開だった。
東京に戻り、新しい部署で働き始めた。そこで、俺は衝撃の事実を知ることになる。
「そうま、久しぶり」
同じオフィスで笑顔を見せたのは、あの日の彼女だった。
「お前……」
「驚いた? 私、この会社に転職したんだよ。相馬さんに内緒でね」
「どうして……」
「だって、プロポーズされるの待ってたら、いつになるか分かんないから」
彼女が笑いながら言う。
「俺、お前に逃げられたと思ったんだぞ」
「ごめんね。でも、これが一番驚くでしょ?」
確かに、驚きすぎて何も言えなかった。
それから、俺と彼女は改めて付き合い始めた。今度は隠すことなく、堂々と。
いつか、彼女が言ったことを思い出す。
「私と一緒にして」
その言葉は、今でも俺の胸に残っている。



