「先生、この傷、覚えてますか?」
その人は震える手でブラウスの裾を持ち上げた。細い腹の真ん中に白い線が一本走っていた。昔、閉じられた傷だ。さっきまで笑い声で埋まっていた診察室の空気が、一瞬で消えた。グラスを持ったままの手があちこちで止まっている。向かいに座っていた女性たちは、口を開けたまま彼女を見ていた。
「あ、相原さん、何してるんですか?」
誰かが小さな声で言った。彼女は答えなかった。彼女はまっすぐ俺だけを見ていた。目の縁が赤くなっていたけど、涙はこぼしていなかった。
俺はその白い線を見ていた。自分の手が、まだその線の引き方を覚えていることに気づいて、息が止まりそうになった。
三十分前まで、俺はこの席から一刻も早く帰りたいと思っていた。人数合わせで呼ばれただけの、田舎の診療所の医者だ。誰も俺の話なんて聞いていなかった。この夜が、俺が長い間閉じていたものをこじ開けることになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。
俺の名前は神谷(かみや)四十三歳。長野県の山合に、布瀬(ふせ)町という小さな町がある。俺はそこで布瀬診療所の医者をしている。医者と言っても、俺一人だ。看護師が一人、事務員が一人、全部で三人しかいない。ベッドはない。手術室もない。あるのはレントゲンと心電図と、腹を見るためのエコーだけだ。
見るのはほとんどが年寄りだ。血圧と膝と腰と糖尿病。冬になると風邪と店頭が増える。春先には花粉。秋は山に入って蜂に刺された人が来る。午前中に外来をやって、昼は書類を書いて、午後は車で往診に出る。夜は電話が鳴る。九年間ずっとそれをやってきた。
その前に何をしていたのか、誰も聞かなかった。街の大病院で働いていたことぐらいは知られているけど、詳しいことは誰も知らない。それが俺にとっては都合がよかった。
診療所の夜は静かだ。急患が来ることもあるけど、すぐ車で市の病院に送る。だから、この町に来てから、昔のことはもう忘れたと思っていた。
その年の夏、町の世話役の家で、何かの集まりがあった。俺は呼ばれて渋々顔を出した。料理と酒を出されて、座っているだけでいい。誰も俺の専門の話なんてしない。いつもの通り、隅っこで適当にやり過ごそうと思っていた。
それが、あの女性と目が合ったのは、部屋の中でも一番遠い場所だった。向かいに座っていた、見覚えのない女性。細くて、きれいな顔をしていた。何か見覚えがあるような気がしたけど、すぐに思い出せなかった。
「先生、お久しぶりです」
そう言って、彼女は立ち上がった。周りの空気が変わった。知っている人なのか、とみんなが見ていた。彼女は俺の前に来ると、小さく頭を下げた。
「覚えてますよね。神谷先生」
「すみません、どちらさまで?」
俺は正直に言った。でも、彼女は笑った。悲しそうに、でも確かに笑った。
「無理もないです。あの時は、本当にありがとうございました」
そう言って、彼女がブラウスの裾に手をやったのを見て、俺の中に何かが響いた。あの白い線。お腹の真ん中を走る、あの線。
「その傷は……もしかして、俺が?」
「はい。十五年前、先生が執刀してくださったんです。私、その時に息子を産んだんです。先生に切ってもらった跡です」
周りがざわついた。声を出した人もいた。でも俺には何も聞こえなかった。ただ、目の前でほほえむ彼女の顔が、昔の記憶と重なった。
あれは確か、都会の大きな病院でのことだ。俺はまだ若い外科医だった。緊急の帝王切開をやった。母体の状態が悪くて、腹を切るしかなかった。でも、母子ともに無事だった。あの時は、それでいいと思っていた。それで俺の仕事は終わりだ。
でも、忘れられない夜が一つある。その後に手術室で、何かがうまくいかなかったことがあった。別の症例だ。患者は助からなかった。それ以来、俺は手術が怖くなった。メスを持つ手が震えるようになった。だから、あの病院を辞めた。そして、この山の中に逃げてきて、九年間、外科の仕事から離れていた。
「先生、あの時、本当にありがとうございました。息子も元気で、もう高校生なんですよ」
彼女はそう言って、頭を下げた。周りからは拍手が起きた。俺はただ座っていることしかできなかった。心の中が、ぐちゃぐちゃだった。15年ぶりに、自分の手で救えた命の話を聞いて、震えが止まらなかった。
「……先生、お体の調子でも悪いんですか?」
誰かの声にはっとした。俺は立ち上がって、外の空気を吸いに行った。夜の風が冷たかった。星が綺麗だった。あの日の手術室の光を思い出した。
ふと、彼女が後ろから来て言った。
「先生、私、あの傷を誇りに思っているんです。先生のおかげで、この子に会えたんだから」
その言葉に、俺は何も答えられなかった。ただ、目頭が熱くなった。九年間、閉じていたものが開きそうになっていた。
「先生、よかったら、また診療所に遊びに来てもいいですか? 息子も連れてきます」
「……ああ、いつでも」
俺はそう言うのが精いっぱいだった。彼女は笑って、建物の中に戻っていった。俺はしばらく、夜空を見上げていた。
翌日から、俺の診療所には、あの日のことが時々よみがえるようになった。あの夜、俺は自分の過去と向き合う勇気を、久しぶりにもらった気がした。
そして、それから数週間後のある日、診療所に一本の電話がかかってきた。
「先生、この前はありがとうございました。息子がどうしても先生にお礼を言いたいって。来週、連れて行ってもいいですか?」
「ああ、待ってるよ」
そう言って電話を置いた。窓の外の山が、黄金色に染まり始めていた。俺は九年ぶりに、自分の手が何かを掴もうとしているのを感じた。



