病室の空気が凍りついた。産後、体が思うように動かない私の枕元に、夫の理太が封筒を置いた。
「出産、お疲れ。はい。これ俺たちからの最高のプレゼントな。出産祝の離婚届けだ。」
彼はまるで素晴らしい贈り物を渡すかのように、軽い口調で言った。隣には、長い爪で理太の腕に寄り添う愛人がいた。
「これから理太さんとハワイでバカンスなの。おばさんは一生そのガキとここで泣いてなよ。」
二人は私の弱り切った姿を見下し、下品な笑い声を病室に響かせた。「負け犬」と呼びながら。
私は何も言わず、震える手で封筒を開けた。中には離婚届が入っていた。夫と愛人の署名はすでに済んでいた。迷いのない筆跡だった。
私は枕元に用意していたペンを握り、驚くほど冷静な心で自分の名前を書き込んだ。
「お素直じゃん。もっとごねるかと思ったけど、自分の立場をわきまえたってわけか。」
理太は得意げに笑い、愛人も隣で勝利の微笑みを浮かべていた。
私は母に署名済みの離婚届をそっと託した。
「お母さん、これ今すぐに代理で提出してきてくれる?」
母の瞳には燃えるような怒りが宿っていた。しかし、私の心は静まり返った真夜中の海のように冷徹だった。
――これで全ての準備は整った。
私は三坂佳。32歳。セキュリティ関連企業の代表取締役として、100人以上の従業員の生活を背負い、毎日一分一秒を争う決断の連続の中にいる。経営者という生き方は想像以上に孤独だ。
そんな鋼のように張り詰めた私の日常に、ひょっこりと顔を出したのが今の夫、理太だった。
出会いは3年前。仕事上の取引で訪れた先で、彼は人当たりのいい笑顔を見せた。気づけば私は彼の優しさに心を開き、結婚に至った。
しかし、今思えばあの時から何かが違ったのかもしれない。
結婚後、理太は仕事を転々とし、私の収入に頼るようになった。それでも私は構わなかった。家族のために働くことが幸せだった。
妊娠が発覚した時、彼は喜んでくれた。しかし、その喜びは長くは続かなかった。
出産が近づくにつれ、彼の行動が怪しくなっていった。残業と称して帰りが遅くなり、スマホを隠すように触るようになった。
私は気づいていた。しかし、認めたくなかった。
病室でのあの仕打ち。命をかけて産んだ子供を「ガキ」と呼び、私を「おばさん」と罵った。二人の前で、私は負け犬にされた。
だが、私には計画があった。
出産後、母に頼んで、私は会社の重要な書類をすべて整理していた。そして、離婚届にサインをした瞬間から、私は動き始めた。
理太は何も知らず、愛人との生活に浮かれていた。
しかし、私は知っていた。彼が会社の金を使い込んでいたこと。そして、その証拠を掴んでいた。
離婚届を提出した後、私は弁護士に連絡した。私の貯蓄、そして会社の金から流用された分を含め、彼に請求するつもりだった。
彼は私がただ黙って指をくわえて見ていると思っていたようだ。
数日後、理太は私のオフィスに現れた。顔色が真っ青だった。
「おい、何だよこの書類は。俺が会社の金を横領しただって?」
「そうよ。」
私は冷たく答えた。
「証拠は揃っている。あなたと愛人のハワイ旅行の際、会社のクレジットカードを使った記録もある。すぐに会社を辞めなさい。そして、使い込んだ金はすべて返してもらう。」
彼は「ふざけるな」と叫んだが、私の目が本気だと悟ったのか、言葉を失った。
その後、彼は愛人と共に姿を消した。離婚は成立し、私は娘と二人で新しい生活を始めた。
会社は順調に回っている。私は娘を育てながら、経営者としての責任を果たしている。
あの日の屈辱は、私を強くした。
病室で彼らが笑った時、私はもう誰にも屈しないと決めたのだ。
娘が成長するにつれ、私は少しずつ心の傷を癒やしていった。
ある日、娘が「ママ、強くてかっこいい」と言ってくれた。その言葉で、私はすべての苦しみが報われた気がした。
私はもう二度と、誰かに弱さを見せない。
自分と娘の未来のために、私は強く生きていく。
あれから数年が経ち、私は今もこの会社の代表として働いている。従業員たちの信頼も厚い。
理太からの連絡は一切ない。彼がどこで何をしているかも知らないし、知る必要もない。
私は娘と共に、穏やかで充実した毎日を送っている。
あの日の出来事がなければ、私はここまで強くなれなかったかもしれない。
「ありがとう」とは言わないが、私はあの経験を無駄にはしない。
今日も私はオフィスで、新たな決断を下す。
自分を裏切らないために。



