式の直前、姉が姿を消した。三日後、帰ってきた姉の第一声は「無理。泥臭い漁師の嫁なんて、私には絶対に無理」だった。私はずっと、家のために二番目として生きてきた。母は冷たく言った。「レナにはもっといい人がいるもの。あなたなら、漁師でも十分でしょう。」それでも、私は港で本当の幸せを見つけた。漁師の航と。でも、母は私たちの結婚に猛反対し、姉が式に出ないと言い出した。その時、母は私に言った。「あなたが…

式の直前、姉が姿を消した。三日後、帰ってきた姉の第一声は「無理。泥臭い漁師の嫁なんて、私には絶対に無理」だった。私はずっと、家のために二番目として生きてきた。母は冷たく言った。「レナにはもっといい人がいるもの。あなたなら、漁師でも十分でしょう。」それでも、私は港で本当の幸せを見つけた。漁師の航と。でも、母は私たちの結婚に猛反対し、姉が式に出ないと言い出した。その時、母は私に言った。「あなたが...

「無理、無理。泥臭い漁師の嫁なんて、私には絶対に無理。」

姉のレナはそう言って笑った。結婚式の直前で姿を消して、三日ぶりに帰ってきた第一声がそれだった。

父が湯呑みを卓に打ち付けた。
「先方にどう説明するんだ?」
「知らない。お父さんが勝手に決めた話でしょ。」

母が私の方を見た。困った時にだけ見せる顔で。
「みさ、あなたが代わりに行きなさい。」

返事をするより先に、母は湯呑みに手を伸ばしていた。
「レナにはもっといい人がいるもの。あなたなら漁師でも十分でしょう。」

十分。その言い方は、三十年かけて覚えさせられた。姉には惜しい。私には十分。

私は畳の目を見ていた。言葉は喉の手前まで来て、そこで止まる。いつもそうだった。
「わかりました。」

母の肩から力が抜けるのが分かった。逃げた本人ではなく、私が頭を下げに行く。そういう家だった。誰も私に理由を聞かなかった。

あの港で私が聞いた最初の一言は、今も耳に残っている。

私はクアのみ崎三十歳。東和食品という食品卸の受中家で八年働いている。仕事の中身は地味だ。得意先から入ってくる注文を受けて、倉庫の在庫と付き合わせて、足りない分は「今週は何ケースまでしか出せません」と電話で伝える。期日品の連絡係。車内ではそう呼ばれていた。

私はこの仕事が嫌いではなかった。数字は嘘をつかない。八ケースしかないものは、どう頼まれても八ケースだ。家の中には、そういう分かりやすいものが一つもなかったから。

その日も朝から難しい電話を一本抱えていた。売り出しの目玉に決まっていたサバの缶詰が、三地の不良で予定の半分しか入ってこない。得意先の担当者は当然ながら怒った。
「チラシももう刷ってあるんだよ。なんとかならないの?」
「何ともならない。ないものは出せない。私にできるのは頭を下げることと、いつなら何ケース出せるかを一日刻みで示すことだけです。来週の火曜に千二百、金曜に八百まで戻せます。目玉を別の品に差し替えるなら、今日の三時までにご連絡ください。」
「わかった。」

先方は下打ちをしてから、わかったと言って切った。八年やっていると、この下打ちの意味も分かるようになる。怒っているのではなく、上に説明する材料がいるのだ。だから私は電話を切った後に必ず同じ内容を紙にして送る。言い問答になる前に日付と数字を残しておく。それだけのことで、次の注文は大抵戻ってきた。

姉のレナは私の三つ上で、丸ナ長フーズという大手の食品照者に務めている。本社は都心で、部長職。常にピシッとしたスーツで、歩き方にも自信がある。私が皿を洗う手を止めて「ああ、うん」と返すと、レナは電話口で小さく笑った。
「なんであんたが漁師なんかと結婚するのよ。普通に都会で働けばいいのに。」

私は何も言わなかった。言ったところで、分かってもらえるとは思わなかった。

レナの電話は一か月に一度、実家に来る。いつも同じような話題だ。自分の仕事の話。買ったばかりのバッグの話。そして最後に決まって、私の生活を軽くからかう。
「みさ、まだあの港に住んでるの?いい加減、ちゃんとした人見つけたら?」
「漁師で十分って、お母さんが決めたのよ。」
「ああ、そう。」

レナは興味を失ったように話題を変える。私の人生は、いつもそうやって流されてきた。

でも、あの人が現れてから、違った。

漁港の朝は早い。五時すぎにはもう、網を手入れする音や、船のエンジン音が聞こえる。私は受中家の仕事を終えると、よく港の様子を見に行った。卸会社の人間として、魚の状態を自分の目で確かめておくのは当然のことだった。

ある日、いつものように岸壁に立っていると、一艘の船が戻ってきた。小さな船だったが、甲板に見えた魚の色が違った。網から出した魚が、それはもう見事な揃い方だった。

私は無意識に足を止めていた。すると、その船の主らしき男がこちらを見て、軽く頭を下げた。
「おはようございます。」

その声が、朝の空気に溶け込むように響いた。私は慌てて会釈を返した。名前も知らない人だった。でも、その魚の揃い方と、その声が、なぜか頭から離れなかった。

それから何日かして、同じ船がまた港に戻ってきた。私はまた足を止めていた。今度は、その男がこちらに歩いてきた。
「受中東和の方ですよね。いつもお世話になってます。」
「あ、いえ、こちらこそ。」
「この前のサバ、使ってもらえたみたいで。ありがとうございます。」
「いえ、あれは良い魚でしたから。」
「そう言ってもらえると、やりがいがあります。」

彼の名前は航と言った。この港で生まれ育った漁師だった。まだ若いのに、自分の船を持っている。そして、魚に対する真剣さが、伝わってきた。

それから私たちは、港で会うと少し話すようになった。仕事の話が多かった。魚の話。天気の話。そして少しずつ、私のことを話すようになった。

「みささんは、なんでこの港で働いてるんですか?」
「特に理由はないです。流れで。」
「流れ?」
「ええ。家族が決めた道だから。」

航は何か言いたそうだったけど、深く追及はしなかった。ただ、こう言った。
「俺はここで生まれて、ここで漁師をやってる。好きでやってることだから、自分で決めたことだから、後悔はないです。」

その言葉が、胸に刺さった。自分で決めたこと。私には、そんなものがない。

ある日、港で話していると、突然航が私の肩を掴んで引き寄せた。何事かと思う間もなく、大きな水しぶきが上がった。航の後ろで、ロープが外れたのか、何かが海に落ちていた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。」

航の顔がすぐ近くにあった。私は心臓が高鳴るのを感じた。
「危なかったですね。」
「助けていただいて、ありがとうございます。」
「いえ、こういうことはよくあるんで。」

航は笑った。私は二人の距離が離れても、まだ心臓の音が収まらなかった。

それから、私たちは何度も会った。港で。そして、たまに、仕事帰りに。

ある晩、航が言った。
「みささん、一度、俺の家に来ませんか。お袋が、あんたに会いたいって言ってて。」

私は驚いた。それはつまり、どういうことか。
「家?」
「ええ。ただの挨拶ですから。気軽に。」

私は迷った。でも、迷ったこと自体が、もう答えだったのかもしれない。

航の家は、港から少し歩いたところにあった。古い漁師の家だった。縁側に、年配の女性が座っていた。航の母だった。

「あら、まあ。きれいなお嬢さんだね。航、よくやった。」
「おばさん、こんにちは。みさといいます。」
「いいえ、私の名前は、みさです。」

航の母は笑った。
「うちはこんな家だけど、航はいい男だよ。頼りになるし、魚もよく獲ってくる。まあ、こうやって嫁に来る話は、めったにないけどね。」

私は顔が赤くなるのを感じた。航は照れくさそうに、「お袋、やめてよ」と言った。

その時、私は初めて、自分がこの家に来たいと思っていることに気づいた。この家の、この空気の中に。

でも、事はそう簡単には進まなかった。

私の実家に、航のことを話したのは、それからしばらくしてからだった。母は言った。
「漁師?うちは代々、会社勤めの家よ。」
「なんでまた、あんなところに。」

父は何も言わなかった。母は続けた。
「レナがちゃんとした家に嫁ぐんだから、あんたまでそういうのは困るでしょ。」

私は言い返したかった。でも、いつものように言葉は喉の手前で止まった。ただ、こう言うのが精一杯だった。
「私は、行きたいんです。」

母は冷たく言った。
「そんなの、ただの気の迷いよ。」

その日から、母は私に航の話をするたびに、嫌な顔をするようになった。そして、ある日、母はこう言った。
「相手の家には、きちんと挨拶に行きなさい。断るわ。」

私は怖かった。航を失いたくない。でも、母に逆らうこともできない。

そんな中、レナに会う機会があった。実家で、たまたま帰ってきていたのだ。
「みさ、聞いたよ。漁師と付き合ってるんだって?」
「そうだけど。」
「馬鹿みたい。あんた、自分が何をしてるのか分かってる?」
「私は、航さんが好き。」
「好きだけじゃ、やっていけないわよ。あんな場所で、一生、魚の臭いを嗅いで生きていくの?」

レナの言葉は、母よりも冷たかった。私は何も言えずに、ただ黙っていた。

でも、レナはそこで話を終わらせなかった。
「お母さん、あれ、決めたでしょ。」

レナはそう言うと、何かを思い出したように付け加えた。
「そういえば、いい話が来てるのよ。うちの会社の上司の息子。大手の商社に勤めてて、年収も良いし、見た目も悪くない。会ってみない?」

私は首を振った。
「嫌です。」

レナは笑った。
「あんたがいつも『はい』しか言わないから、心配なんだよ。」

私は何も言わなかった。

航にそのことを話すと、航は寂しそうな顔をした。
「お前の親が反対してるなら、俺はどうしたらいいんだ。」
「航さんは何も悪くない。私がしっかりしないと。」
「みさ。」

航は私の手を握った。
「俺は、あんたを幸せにしたい。」

その言葉を聞いて、私は決心した。
「私は、航さんと一緒にいたい。」

その数日後、私は航の家に正式に挨拶に行くことにした。航の母は喜んだ。そして、私の実家にも、改めて、航と一緒に挨拶に行くことにした。

でも、その前に、私は母に言われるままに、レナが紹介した相手と会うことを約束させられた。
「一回だけよ。それで断るなら、私も諦めるわ。」

母はそう言った。私はその約束に応じた。

見合いの日、私は気が進まないまま待ち合わせ場所に向かった。スーツを着た男性がいた。確かに、見た目は悪くなかった。でも、私は航の顔しか思い浮かばなかった。

「みささん、お話しして楽しかったです。また会えますか?」

私は言った。
「もう、会うことはないと思います。」

男性は驚いた顔をした。でも、私ははっきりと言った。
「好きな人がいるんです。」

私は店を出た。そして、その足で航の家に行った。

航の母は、私の顔を見て言った。
「どうしたんだい、そんな顔して。」

私は言った。
「あの、私、航さんと結婚したいんです。認めてもらえませんか。」

航の母は、一瞬止まって、そして、優しく笑った。
「私は最初から、あんたが嫁に来てくれるのを待ってたんだよ。」

航はその日、家に戻ると、母からその話を聞いて、嬉しそうに笑った。
「やっぱりな。」
「やっぱりって、何よ。」
「いや、俺が決めたから。」

私たちは、結婚することに決めた。

でも、私の母は、その話を聞くと、ものすごい勢いで怒った。
「私は認めない!あんた、あんな家に行って、どうするつもり?」
「私は航さんと結婚します。」
「馬鹿なことを言わないで!レナにまで、なんて言われるか!」

レナには何も言えなかった。レナはきっと、あの見合いの件を根に持っている。実際、レナは私にこう言った。
「あんたの人生だもの。勝手にすれば。」

でも、その口調は、勝手にすれば、ではなく、これで知らん顔、という響きだった。

それでも、私は揺らがなかった。航がいるから。

結婚式の準備が始まった。私たちは地味な式を挙げることにした。みんなに来てもらうのは、恥ずかしい気もあったけど、航の母が喜んだ。

ところが、式の三日前、レナが実家に来て、こう言った。
「ちょっと、聞いた?この前の話、キャンセルになったんだって。」

何の話か分からなかった。
「何が?」
「お見合いの話よ。向こうから断られたんだって。」

私は何も言わなかった。すると、レナは怒ったように言った。
「あんたのせいよ。あんたが変な態度を取るから、向こうが気分を害したのよ。」

私は言った。
「私が悪いんじゃないわ。最初から、その気がなかったんだから。」

レナは冷笑した。
「まあ、いいわ。どうせあんたは、あの漁師と結婚するんだから。」

そして、式の前日、レナは姿を消した。

レナは、私たちの結婚式には出ない。そう言って、家を出ていった。母は慌てて、レナの会社に電話したが、つながらなかった。

そして、式の当日、レナは現れなかった。

母は私に言った。
「レナがいないのに、式なんてできない。」
「そんな言い方、ある?もう、全部準備したよ。」
「お前が代わりに行きなさい。」

私は信じられなかった。縁談の話ではない。レナの代わりに、式の花嫁になる話ではない。母はこう言ったのだ。
「お前が、レナの代わりに、頭を下げなさい。相手の家に、まだ結婚できる状態じゃないって、謝りに行きなさい。」

私はその意味が分からなかった。
「何を言ってるの?」
「レナが駆け落ちしたのよ。あなたの知ってるあの男と。」

母は涙を流した。私は茫然とした。
「駆け落ち?」
「ええ、あの男と。式の直前に、あの男の家から、結婚するつもりはないって連絡があったのよ。」

母はそう言うと、私の手を握った。
「お前が、代わりに行きなさい。相手の家に言って、申し訳ありません、って。」

私は首を振った。
「そんなこと、できるわけない。」
「頼む。家の恥になるのは、助けてくれ。」

私は何も言えなかった。母は必死だった。私は、また、何も言えないまま、うなずいていた。

私は、家を出た。でも、航の家には行かなかった。私は、自分が何をしているのか、分かっていた。

私は、港に行った。航がいるはずの船は、もう出航した後だった。私は岸壁に立って、海を眺めた。

そして、私は思った。もう、全部終わったんだ。

私は、家に戻った。母は、私が帰ってきて、何も言わなかった。父も、何も言わなかった。

私が、航に、結婚できないと伝えないといけない。それが、一番つらいことだった。

航に電話を掛けた。航は、私の声を聞くなり言った。
「みさ、どうしたんだ。」
「航さん、ごめん。」
「何が。」
「私、もう、航さんと結婚できない。」
「どうして。」
「家の事情で。」

航はしばらく黙って、こう言った。
「会って話がしたい。」
「無理だよ。」
「みさ。」
「ごめん。」

私は電話を切った。涙が止まらなかった。

それから、私は航から何度も電話を受けた。でも、出なかった。メッセージも送ってきた。でも、返事をしなかった。

私は、仕事に没頭した。数字をこなすことで、心を麻痺させた。

そんなある日、港に行くと、航の船が戻ってきていた。航は、私を見ると、ゆっくりと歩いてきた。

「みさ。」

私は、逃げなかった。逃げる場所が、もうなかった。

「ごめん、航さん。」
「謝らないでくれ。」
「私、航さんを裏切った。」
「いや、俺を守ろうとしたんだろ。お前の家族が反対してるのに、無理に結婚なんてしなくてもいい。」

私は驚いた。航は、何でも知っていた。
「お前の母さんが、俺の家に来たんだ。お前を諦めさせてほしいって。」

私は絶望した。
「そこまで、する必要がある?」
「お前の気持ちが変わらないなら、俺は待つ。でも、お前が家族を選ぶなら、それがお前の幸せなら、俺は身を引く。」

航の言葉は、優しかった。でも、その優しさが、胸を引き裂いた。

私が何も言えないでいると、航は続けた。
「でも、俺はあんたを想ってる。もし、あんたが俺を想ってくれるなら、いつでも、また会いに来てくれ。」

航はそう言って、笑った。

私は、泣きながら、うなずいた。でも、その時は、何も決められなかった。

それからの日々は、灰色だった。私は仕事をし、家に帰り、一人で寝た。母は私に何も言わなかった。レナからは、何の連絡もなかった。

半年後、レナから電話があった。

「みさ、元気?」
「何の用。」
「聞いたよ。あんた、あの漁師と別れたんだって?」
「別れてないわ。ただ……」
「ただ、何よ。まあ、いいわ。実は、私、結婚するの。」

レナは、この前の男とではなく、別の男性と結婚すると言った。駆け落ちした相手は、結局ダメだったらしい。
「あんたより、ずっと条件のいい人。だから、あんたにお祝いを言ってもらおうと思って。」

私は何も言わなかった。レナは続けた。
「それでね、お母さんが、あんたにも式に来てほしいって。まあ、あんたは縁起でもないから、別に来なくてもいいけど。」

私は電話を切った。

その夜、私は考えた。今までの人生を。私はずっと、誰かの決めた道を歩いてきた。でも、そんな人生は、もう終わりにしたかった。

翌日、私は実家に帰った。そして、母に言った。
「私は、航さんと結婚する。」

母は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。私は続けた。
「自分の人生は、自分で決める。」

私は荷物をまとめ、実家を出た。そして、港へ向かった。

航の家に行くと、航の母がいた。
「みさちゃん!」
「おばさん。航さんは?」
「航なら、港よ。今から、出漁するところ。」

私は港へ走った。航は、船の上で、何かの準備をしていた。

「航さん!」

航は振り返った。私の顔を見て、呆然とした顔をした。
「みさ……」

私は言った。
「私、自分の人生を生きることに決めたの。」

航は、目を大きく見開いて、それから、ゆっくりと笑った。

そして、彼は、私の手を取って、船に乗せてくれた。

その日から、私はこの港で生きていく。航と一緒に。

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