「50名全員キャンセルにしといたから感謝してよ。つか最初からそういう店とか出してこないでよ。俺に迷惑かけんなよ。」…

「50名全員キャンセルにしといたから感謝してよ。つか最初からそういう店とか出してこないでよ。俺に迷惑かけんなよ。」...

見てきましたよ。あそこ木造で暗くて正直、笑えましたね。不家庭の店ってやっぱこんなもんかってよくわかりました。50名分全部キャンセルで俺に感謝していいっすよ。

6月17日、水曜日、午後4時3分。東京中区。

細い路地に面した木造の建物。手書きの暖簾に「宮本食堂」、開業28年目の看板。その前で1台のタクシーが止まり、後部座席の窓が開いて男が顔を出した。立花総一郎、29歳。低ト銀行営業企画部主任。慶応技塾大学経済学部卒、入行7年でこの地位についた男。体に使う店は年収5000万以上の顧客と同格であること。それが立花の揺るぎない仕事の尺度だった。

立花が宮本食堂を見た時間は2秒だった。それで答えが出ていた。

電話を切り、窓を閉めた。タクシーが走り出した。

その頃、宮本食堂の厨房には50名分の料理が並んでいた。悪米、豚の生姜焼き、小鉢、味噌汁。朝4時から3日間仕込み続けたものだった。

16時27分、予約の時間まであと33分。しかし店の前に誰の姿もなかった。

一方、低ト銀行営業企画部の廊下で、宮本り22歳の携帯が鳴った。立花からだった。

「宮本さんさ、今日の店俺ちょっと見てきたんだけど、あのさ、ありえないんだけど正直木造でボロくて暗くて臭くて笑えた。不定の店ってやっぱああいうもんだよね。50名全員キャンセルにしといたから感謝してよ。つか最初からそういう店とか出してこないでよ。俺に迷惑かけんなよ。マジで恥ずかしいから。」

電話が切れた。

お父さんが3日間何を出すか考えてくれて、朝から仕込んでいたのに。声は出なかった。怒りよりも先に、連れて行ってしまって申し訳なかったという気持ちが来た。

3日前の父の声が頭の中で繰り返された。「り、職場の人に食べてもらえるなら嬉しいよ。」

これは1人の誇りを傷つけられた男が、8800億円の重さを思い知る物語である。しかし、この時誰も知らなかった。翌朝、何が動くのかを。あの食堂の店主が、何者だったのかを。

時は少し遡る。6月第2週の月曜日、長礼後、銀行営業企画部のフロアに声が響いた。「今月の新人歓迎会、俺が幹事やりますよ。」誰も止めなかった。立花が仕切りたがるのを知っていたから。

その日の午後、立花は新人の宮本りに業務連絡を送った。「今月の新人歓迎会、会場は俺が決める。どこかいい店知ってるか?」

宮本は少し迷った。そして、父が営む「宮本食堂」を思い浮かべた。28年間、小さな店で一人で切り盛りしてきた父。魚の目利きには定評があり、近所の常連からは「味は本物」と言われていた。だが、店は木造で古く、照明も暗く、決して豪華ではなかった。

宮本は立花に返信した。「実家の店なんですけど、よければいかがですか?」

立花は一瞬、眉をひそめたが、すぐに返信した。「いいね。俺が確認しとくわ。」

そして、次の週の水曜日。立花はタクシーで店の前まで来て、2秒で判断した。これで終わったと思った。

電話の後、宮本は震える手で父に電話をかけた。しかし、父は出なかった。この時間、厨房で最後の仕込みをしているに違いない。

夕方、宮本は営業企画部のフロアに戻った。同僚たちは何事もなく仕事をしていた。立花はデスクで何食わぬ顔で書類を眺めている。

「宮本さん、あれキャンセルにしたよ。あの店じゃ50人は無理でしょ。むしろ助けてやったんだよ。」

宮本は何も言えなかった。言い返せば、父の店をさらに貶されるだけだと思った。

その夜、宮本は帰宅せず、店に向かった。開店時間を過ぎても暖簾は下がったまま。中に入ると、父は椅子に座り、冷めた料理を前にしていた。

「どうしたんだ? 今日は来るんじゃなかったのか?」

父の声はいつも通りだった。でも、目が少し赤い気がした。

「ごめん、お父さん。急に予定が変わって…」

「そうか。そうか。そりゃ仕方ないな。食材は明日も使えるからな。」

父は笑った。でも、その笑顔は明らかに作り物だった。宮本はその場を逃げるようにして店を出た。

翌朝、宮本は早朝から携帯を握りしめていた。立花に何か一言言いたい。でも、言えば自分が幹事から外されるのは確実だった。新人が上司に逆らえば、それで終わりだ。

しかし、その日の午前10時、銀行のマニュアルが更新された。低ト銀行の全支店に通達が回った。「来月より、接待飲食は全て『宮本食堂』を指定店とする。詳細は営業企画部まで。」

犯人は誰か。テレ朝のニュースがそれを報じたのは、翌日のことだった。

「宮本食堂」は、銀行界で伝説の店主・宮本健一が営む店であることが判明。かつて、30年前、大手銀行で融資担当をしていた時、彼はある企業を救うために自ら保証人になった。だが、その企業が倒産し、彼は全財産を失った。それから彼は店を開き、黙って魚を仕入れ、料理を作り続けてきた。しかし、その腕と目利きを見込んだ銀行幹部たちは、今でも彼に相談を持ちかける。

その日、立花は営業企画部長に呼び出された。部長は静かに言った。「立花君、君が宮本食堂をキャンセルした件、報告書を提出してくれ。それと、来月の新人歓迎会はその店でやりなさい。私も出席するから。」

立花は顔色を変えた。謝罪の電話を宮本にかけたが、宮本は既に返信を無視していた。

そして、月末。新人歓迎会当日。宮本食堂の前には、高級外車がずらりと並んでいた。店内には、低ト銀行の重役たちが座っていた。部長が乾杯の音頭を取った。「宮本さん、今日はありがとうございます。この店の味は、我々の誇りです。」

立花は隅の席で、頭を下げたまま何も言えなかった。宮本は父の隣に立ち、静かに言った。「お父さん、これからもよろしくお願いします。」

父は微笑み、いつものように魚を焼き始めた。8800億円の銀行の重みが、今ほど実感された日はなかった。

Thumbnail