「私よりその子を選んだのはどうして?」
口から出たのは、自分でも驚くほど落ち着いた声だった。ドラマのワンシーンみたいな台詞だと思った。あまりにも現実離れしていて、泣きそうになるのをぐっとこらえた。
裕二は一瞬だけ視線を泳がせ、わずかに迷うそぶりを見せた。そして観念したように口を開いた。
「いや、だってお前はまだ初めてだろ。でもあの子はもう6ヶ月なんだよ。今さら下ろせないし。それに――」
言葉を濁す彼の様子に、心臓が大きく鳴った。
「それにお前、産む頃には35歳だろう。高齢出産じゃん。正直、子供に何かあったら嫌だし」
結局、追い出されるようにアパートを出た私が向かったのは、父との思い出の場所だった。
そこで運命の再会を果たす。
「お嬢様、ご指示を」
「うん。お願いします」
頬が緩み、自然と口から飛び出した懐かしい言葉に、亡き父が静かに微笑んだ気がした。
私は佐々木マリナ。34歳の会社員だ。
仕事で出会った裕二と結婚して、そろそろ3年になる。新婚生活はすっかり落ち着いたものの、穏やかで安定した日々を過ごしていた。
私も裕二も世間で言えばいい年だ。学生時代の友人や同僚のほとんどが既婚者で、育児に追われている者も多い。しかしそんな中、私たちの間には子供がいなかった。
SNSを開けば、自然とため息が出そうになる。タイムラインには子供の笑顔や運動会、誕生日パーティーの写真が並んでいった。
夫婦仲は良好――少なくとも表面上は。共働きだから経済的にも安定しているし、生活に困ることもない。休日には外食に出かけたり、映画を見たり、充実した時間を過ごしていると思う。ただ、子供がいない。それだけが私たちの生活にぽっかりと穴を開けていった。
ある日の夕食時のこと。
「やっぱり、年のせいかな」
裕二はスマホをいじりながら、ぽつりと呟いた。
「え?何が?」
「いや、子供のことだよ。最近、すごく考えちゃってさ」
私は少しだけ希望を抱いた。彼も同じことを考えているんだ、と。
「せめて原因があるなら知りたい。そのためには、裕二も一度検査だけでも受けてみない?」
「検査?オレが?」
「うん。私も受けるから」
「いや、オレは別に大丈夫だろ。お前こそ、もしかして年齢的に無理なんじゃないか?」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。私だけが問題みたいな言い方だ。
「そんな言い方しなくても……。でも、二人で調べてみたいの」
「もういいよ、その話は」
裕二はスマホを置くと、立ち上がった。それ以来、彼は検査の話をはっきり避けるようになった。私が何度持ち出しても、話題をそらすか、朝早く出社するようにもなった。
不自然なほど、裕二の帰りが遅くなった。残業だとスマホにメッセージが届く。週末だって、急に仕事が入ったと言い出した。
ある晩、財布を落として届けられたことがあって、その中に女性の写真を見てしまった。若い子だ。仲良さそうに笑っている。
嫌な予感がした。だけど、確かめる勇気が出なかった。
ある日、洗濯物をたたんでいると、裕二のワイシャツのポケットからレシートが出てきた。高級な妊婦服の店のものだ。日付は、今週の水曜日。
「……何これ」
心臓が凍りつくようだった。
今夜、ちゃんと話をするつもりでいた。でも、先に彼から切り出された。
「マリナ。話があるんだ」
食卓の向かいで、裕二は重い口を開いた。
「俺さ、別の人ができた」
思っていたより短い言葉だった。私はスープの入ったスプーンを置いた。
「……どうして」
「あっちの人は、子供ができたんだ。6ヶ月。俺の子だ」
「は?」
声が震えた。
「あっちの人がいるのに?」
「悪い。でも、今さらやり直せないんだよ」
私はテーブルに手をついた。頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
「私より、その子を選んだのはどうして?」
口から出たのは、自分でも驚くほど落ち着いた声だった。ドラマのワンシーンみたいな台詞だと思った。あまりにも現実離れしていて、泣きそうになるのをぐっとこらえた。
裕二は一瞬だけ視線を泳がせ、わずかに迷うそぶりを見せた。そして観念したように口を開いた。
「いや、だってお前はまだ初めてだろ。でもあの子はもう6ヶ月なんだよ。今さら下ろせないし。それに――」
言葉を濁す彼の様子に、心臓が大きく鳴った。
「それにお前、産む頃には35歳だろう。高齢出産じゃん。正直、子供に何かあったら嫌だし」
その瞬間、何かが音を立てて崩れた。
「……そんな理由で」
「悪い」
「……出て行って」
私は自分の声が信じられなかった。静かすぎる自分に驚いた。
裕二は何も言わず、立ち上がった。二度と振り返らなかった。
家には二人分の思い出だけが残った。
結局、私は部屋を出た。実家に帰る気にはなれず、父が昔、よく連れて行ってくれた駅前の洋食店に足を向けた。店の名前は、まだ覚えていた。
カウンターに座ると、中年の店主が目を上げた。
「いらっしゃい。……あれ?ひょっとして」
「……久しぶりです。佐々木マリナです」
店主は一瞬驚いた顔をして、すぐに優しい笑顔を見せた。
「おお、マリナちゃんか。大人になったなあ。お父さんも喜んでるだろう」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
――お父さん。この店が、あの日、私が最後に笑えた場所だったはずだ。
私たち家族は、この店でよく食事をした。父が決まって頼むのは特製ハンバーグ。そして私は、チキン南蛮。父はいつも、私のチキンを一つくれた。それが私の小さな幸せだった。
母は私が小学生の頃に病気で亡くなった。その後、男手ひとつで私たちを育ててくれた。父は仕事が忙しくて、でも休みの日は必ずここに連れてきてくれた。
「今日は何にする?」
「……チキン南蛮で」
「よし。一つ、特別にサービスしてやるよ」
目の前に運ばれたチキン南蛮を、私は歯を食いしばって食べた。自分の人生を無価値だと言われたような気持ちだった。
食べ終わって、会計を済ませたところで、店のドアが開いた。
「なあ、予約してないんだけど」
その声に、私は反射的に顔を上げた。見覚えのある男が入ってきた。
「……え、あの」
彼、――今はもう他人だけど――は、私に気づいて足を止めた。
「マリナ?」
名前を呼ばれた。
「……久しぶり」
「え、何でここに」
「父とよく来てた場所だから」
彼は、かつて私が高校時代に付き合っていた――というか、互いの気持ちを確かめ合った人だった。名字で呼んだが、彼は以前と同じ苗字のままだった。
「元気そうだな」
「まあね。あなたも」
その場はそれだけだった。
しかし、数日後。
偶然、同じスーパーでばったり会って、コーヒーを飲むことになった。
「そういや、結婚してるって聞いてたけど」
「……もう別れたよ」
「そうか」
彼はそう言って、何も追及しなかった。それが心地よかった。
「なあ、今度、飲みに行かないか?」
「……いいよ」
この再会が、私の人生を変えるなんて――この時はまだ知らなかった。
それから何度か会った。彼は昔と変わらず、私の話をちゃんと聞いてくれた。姉がいること、両親が離婚したこと、母が忙しくてあまり構ってもらえなかったこと。そういう記憶が、少しずつよみがえってきた。
ある日、彼が言った。
「なあ、マリナ。俺さ、実はずっとお前のことが忘れられなかったんだ」
「……嘘」
「真剣だよ。今度、ちゃんと話したい」
私はどう返せばいいのか分からなかった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、こぼれてくるような気持ちがあった。
「……考えさせて」
その夜、私は空を見上げた。
そして気づいた。私はずっと、誰かに愛されることを欲しがっていたのかもしれない。父は与えてくれた。でも、大人になってからは――自分の居場所が見失っていた。
数日後、私は彼と会うことにした。
「……本当にいいの?」
「うん」
彼の目は真剣だった。
「じゃあ、これから付き合おうか」
私は深く息を吸って、頷いた。
――幸せになるために、もう一度、恋をしてみよう。
そう思えた。



