俺の名前は笹島国。35歳だ。小さなメーカーで営業の仕事をしている。隣を歩いているのは同い年で同じ会社の営業マン、佐川誠だ。今日の営業を終え、報告書を書くために会社へ戻っているところだ。
「なあ、笹島。今日から部長の息子が来るんだよな」
佐川の言葉に、俺はようやく今朝の朝礼でそんな話があったのを思い出した。俺は朝に弱いので、朝礼の話を覚えていないのはよくあることだった。完全夜型人間の俺をよく知る佐川は、朝礼で気になる話があると俺に教えてくれる。ありがたい友人でもあった。今日だって、佐川の言葉がなかったら部長の息子の話などすっかり忘れて報告書を書いていたことだろう。
佐川がふと話題を変えてきた。
「笹島、お前、前から言ってる海外移住のこと、マジで考えてるのか? どうせこの国、住みにくいだろ?」
俺は日本の長時間労働が心から嫌いで、折に触れて海外移住の話を佐川の前で披露している。もちろんそのための貯蓄も、新卒でこの会社に入ったその月からコツコツやっていた。
俺の海外移住の夢なんて、なんで持ち出してきたんだ? 佐川がこの話を自分からしてくるのは、多分初めてではないだろうか。よくよく話を聞いてみると、数年前から佐川も海外に移り住みたくなり、俺には及ばないものの貯蓄に励み出しているのだと教えてくれた。
「住むとしたら、どこがいいと思う?」
佐川がそう訊いてくる。俺が答えようとしたその時、会社の前に着いた。
受付を通り、オフィスに入ると、朝礼で紹介された部長の息子、安藤相馬が立っていた。部長によく似た若者だ。
「安藤相馬です。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる。どこからともなく拍手が聞こえ、俺も釣られて手を叩いた。
「息子の指導は……そうだな、笹島君、やってくれるか?」
部長の言葉に、俺は「はい」と返事をした。新人の指導なんて面倒だが、部長の命令なら仕方ない。
それから数週間、俺は相馬を連れて営業に出た。相馬は素直で、教えたことをしっかり吸収する。悪い青年ではない。だが、何かが引っかかった。相馬の目が、時々妙に冷静で、こちらの扱い方を探っているように見えるのだ。
ある日、大口の契約案件が舞い込んだ。俺が長年担当してきた取引先で、新しいプロジェクトの話が持ち上がったのだ。これはチャンスだと思い、俺は必死になって準備を進めた。
「笹島さん、この案件、僕も勉強させてもらえませんか?」
相馬がそう申し出てきた。指導の一環だと思い、俺は了承した。
だが、それが間違いだった。
契約の打ち合わせ当日、俺の体調が急に悪化した。熱が出て、立っていられない。相馬に頼んで、一人で行ってもらうことになった。
「すみません、相馬君。今日は任せてもいいか?」
「もちろんです。笹島さん、ゆっくり休んでください」
相馬はそう言って、にこやかに笑った。あの笑顔の裏に何があるのか、その時はまだ知らなかった。
翌日、会社に来ると、部長に呼び出された。
「笹島君、君の担当だった取引先との契約だが……相馬が先方と直接話をまとめてきた」
部長の言葉に、俺は耳を疑った。確かに俺が長年築いてきた関係だし、相馬に任せたとはいえ、俺が取りまとめて報告するはずだった。
「ちょっと待ってください。どういうことですか?」
「相馬は君の代わりに訪問して、先方から直接、契約を任されたそうだ。君には悪いが、今後はこのプロジェクトは相馬が担当する」
俺は言葉を失った。あの契約は、俺が何年もかけて育ててきたものだ。最初は小さな案件だったのが、信頼を重ねて、ここまで大きくしたのだ。それを、昨日今日来たばかりの新人に、簡単に横取りされるなんて。
しかも、相馬はそれを悪びれる様子もなく、俺の前で堂々としている。
「笹島さん、本当に申し訳ありません。部長から、俺が担当しろって言われてしまいまして」
口では謝っていても、目が笑っていない。こいつは最初から、俺の商談を奪うつもりだったんだ。
我慢の限界だった。俺は部長のところへ直行し、抗議した。
「部長、あの契約は俺が長年担当してきたものです。相馬君に渡すのは納得できません」
だが、部長は冷たい目をした。
「笹島君、ビジネスは実力だ。相馬は先方から直接、評価されたんだ。君は手柄を独り占めしていたんじゃないか?」
部長の言葉に、俺の血の気が引いた。どうやら相馬は、部長に俺の悪口を吹き込んでいたらしい。俺が契約を独り占めしている、と。若いうちに任せろ、と。
俺は何も言い返せなかった。会社の中では、部長の息子である相馬に逆らうことはできない。相馬は部長の息子であるというだけで、最初から俺より上だったのだ。
悔しくて、悔しくて、眠れない夜が続いた。佐川に相談しようかとも思ったが、佐川にも相馬のことを話すと、面倒に巻き込むかもしれない。
ある日、相馬が俺のデスクに来て、こう言った。
「笹島さん、部長に言われて、あなたのこれまでの仕事のファイルを見せてもらいました。あの契約書類、こちらで預かっておきますね」
そう言って、俺が何年もかけて作り上げた資料を、当たり前のように持ち去った。
その瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。もうここにはいられない。俺は海外移住の夢のために貯めた貯蓄を思い出した。今こそ、あの夢を実現する時だ。
俺は退職届を書き、部長に提出した。
「退職? 今の時代にそんなことをして、どうするんだ?」
部長は驚いていたが、俺はもう揺るがなかった。
「もう決めました。海外で新しい生活を始めます」
数日後、俺は会社を去り、オーストラリア行きの飛行機に乗った。あの会社に残っていたら、きっと相馬に潰されていただろう。俺の夢は、意外な形で実現することになったが、それでよかったんだ。
新天地での生活は、決して楽ではない。言葉も文化も違うし、最初は孤独だった。それでも、俺は自由になった。朝の通勤電車も、理不尽な上司も、裏切る同僚も、もういない。
今はシドニーの小さなカフェで働いている。日本語の通じない環境で、ゼロからやり直している。それでも、夜は空を見上げて、星がきれいだと思う。あの時、思い切って飛び出してよかった。
俺の名前は笹島国。35歳。かつては営業マンだったが、今はオーストラリアで自由に生きている。裏切られて失ったものは多かったが、得たものはそれ以上に大きい。



