受付で名乗った瞬間、若い社員の目が一瞬見開かれた。
「滝沢様ですね。こちらへどうぞ」
丁寧に案内される中、後ろから嫌な声が飛んできた。
「おい、くっせえ作業着のおっさんが紛れ込んでるぞ。株主総会に来る格好かよ。貧乏人は出てけよ」
場の空気が凍りつく。俺は静かに立ち止まり、その目にゆっくりと怒りの炎を灯した。
俺の名前は滝沢啓吾。今は社員百五十人を抱える中堅企業、滝沢製作所の社長だ。だが始まりは町の片隅にあった小さな鉄工所だった。設備は老朽化し、従業員もわずか数人。赤字続きで資材の仕入れすらままならない状態だった。
当時は誰も目を合わせず、工場には常に疲れた空気が漂っていた。それでも逃げる気はなかった。工場の空気、機械の熱、油の匂い。それが俺の原点だった。朝は誰よりも早く出社し、夜は誰よりも遅くまで現場に立ち続けた。一社でも多くの受注を取るため営業にも走り、設計や加工技術の勉強も必死で続けた。金がなければ中古の機械を自分で修理して使い倒した。
そうやって身を削るようにして会社を立て直してきた。やがて受注先は増え、設備も更新し、新人も雇えるようになった。精密加工の分野に特化し、品質で勝負する体制を作り上げたのがターニングポイントだった。滝沢製作所の名前が業界誌に載るようになったのは、その頃からだ。
ただ、俺の仕事はそれだけにとどまらなかった。ある時、長年取引していた会社が経営難に陥った。いい技術も人材もあるのに、経営がまるでなっていない。それならと資金を提供し、経営再建に乗り出した。するとその会社は、わずか半年で黒字転換した。
その経験から、俺は企業投資という道にも足を踏み入れた。財務諸表だけで判断せず、現場の空気や社員の様子に目を向ける。技術と人材を重視し、可能性にかける。そうした俺のやり方は、いつしか投資家の間でも話題になり、「滝沢が入ると会社が変わる」と評されるようになった。救った企業は十数社に上る。
だが、俺はいつも現場にいたいと思っていた。背広より作業着が体に馴染む。経営者でありながら、今でも月の半分は工場で機械に向かっている。それが俺の流儀だ。
株主総会の日も、直前に現場でトラブルが起きて、その処理に追われていた。だから作業着のままで会場に駆けつけたのだ。そんな時、あの若造の一言が響いた。
周りの株主たちが、ひそひそと囁き合う。俺はゆっくりと振り返った。
「おい、君」
「何だよ、作業着のおっさんが偉そうに」
「確かに、俺は作業着だ。だが、この会社の人間じゃない。ここで言うべき用がある」
そう言って、俺は内ポケットから名刺を取り出した。そこにはこう書いてある。
滝沢製作所 代表取締役社長 滝沢啓吾
その場の空気が変わった。さっきまで笑っていた連中が、一斉に口をつぐむ。先ほどの若造も、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「株主総会に来る格好かよ、と言ったな。確かに失礼だったかもな。だが、俺は現場のことを一番に考えている。作業着がどうした。この一着に、俺の人生が詰まっているんだ」
会場が静寂に包まれる中、司会者が慌てて進行を再開した。総会が終わった後、あの若造が頭を下げに来た。
「申し訳ありませんでした。社長のことを知らずに…」
「気にするな。それより、君の会社はいい技術を持っている。うちも含めて、これから一緒にやれる道を探そう」
そう言って手を差し出すと、彼の顔に安堵の表情が浮かんだ。その夜、俺はまた工場に戻った。機械の音が、いつもの場所に帰ってきた安心感を与えてくれた。
作業着のままでも、胸を張れる。それが俺の誇りだ。



