今日は娘の幼稚園の転入初日。玄関で受付を済ませ、教室に向かおうとしたその時だった。
「あら、誰かと思えば瞳さんじゃない。」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには、いかにもセレブママといった身なりで、こちらを見つめる女性が立っていた。彼女の名前はタエ。私の高校時代の同級生だ。
「久しぶりですね、タエさん。」
そう言うのがやっとだった。タエと顔を合わせるのは、成人式以来、実に12年ぶり。正直に言って、彼女との間には、いい思い出がひとつもない。
なんというか、タエは私と性格が合わず、つき合っていたグループも違っていた。それなのに、タエはいつも何かにつけて張り合ってくる。高校時代も、テストの点数や、何気ない会話の端々で、いちいちマウントを取ってくる面倒な存在だった。
「今日から娘がこの幼稚園に通うのよ。」
私がそう言うと、タエは娘の園バッグに付けられた名札をじっと見つめた。
「……何、これ。何島……まさか、あなた、タオ君と結婚したの?」
タエの声が、少し震えていた。タオは、私の夫であり、高校時代からの同級生でもある。タエが彼に片思いしていたことは、卒業から数年後、偶然知った事実だった。
かつてタエは、タオに何度も告白しては振られ、その鬱憤を晴らすように、私に当たっていたのだ。
「ええ、結婚しました。9年付き合って、今は娘の小学校入学を控えて、この町で新築の家を建てているんです。」
私がそう答えると、タエの顔色が見る間に曇った。その場にいた他のママたちも、何かを察したのか、沈黙していた。
「そ、そう……幸せそうで何よりね。」
タエは無理やり笑顔を作ったが、その目は笑っていなかった。私はというと、こんな日まで気を遣わされるのかと、少しうんざりしていた。
後日、幼稚園の送り迎えでタエと顔を合わせるたび、彼女は決まって私の生活に絡んできた。
「瞳さん、この間のマンション、見た?うち、そこの最上階に買おうかと思ってるの。でも、今の家も広いから迷っちゃって。」
「娘ちゃん、ピアノ習わせてるんだって?うちはバイオリンよ。国際コンクールを目指してるの。」
タエの言葉は、いつも自分と娘を上に見せたい一心に溢れていた。私はその度に、適当に流しながら、心の中でため息をついた。
だけど、ある日、タエの様子がおかしかった。幼稚園のお茶会で、彼女はいつもと違い、何かを隠しているような顔をしていた。
「タエさん、どうかしたの?」
私が尋ねると、タエは突然、テーブルに突っ伏して泣き出した。
「……旦那が、出て行ったの。」
タエは、泣きながら話し始めた。夫の事業が傾き、多額の借金を残して、家を出て行ったという。今は、子どもの学費すらままならない。
「あんたに言われるくらいなら、まだマシよ。今まで私は、あんたに何をしていたか……こんなことになるなんて、思わなかったもの。」
タエの言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。彼女はずっと、何かと競い合うことで、自分の不安を埋めていたのかもしれない。
それから1週間後、タエは私の家を訪ねてきた。玄関を開けると、彼女は持っていた包みを差し出した。
「これ、お詫びよ。今までごめん。」
包みには、私の夫のタオの好物である、焼き菓子が入っていた。
「私、ね、タオ君のことは、もういいの。それより、あなたとやり直したいの。友達に、なれたら……いいなって。」
タエの声は、震えていた。本気なのだと、分かった。
「……友達?」
「うん。ずっと憧れてたの。あなたみたいに、誰とでも分け隔てなく付き合える人に。」
私は、思わず笑ってしまった。この12年間、張り合ってきた相手に、憧れられていたとは。
「じゃあ、まずはお茶でも飲みながら、話しましょう。」
私たちは、それからゆっくりと時間をかけて、関係を修復していった。タエは、以前のようなマウントを取ることもなくなり、私も彼女の飾らない姿を受け入れるようになった。
娘たちも、いつの間にか仲良くなり、よく一緒に遊ぶようになった。タエの娘は、ピアノを弾く私の娘を、尊敬のまなざしで見つめていた。
あの日、もしタエが変わる勇気を持てなかったら、私たちの関係はずっとギクシャクしたままだっただろう。
私の人生は、一見平凡だ。だけど、過去の確執を乗り越えて、ようやく手にした平穏は、何物にも代えがたい。
新築の家が完成した日、私たち家族とタエ一家で、引っ越し祝いのパーティーを開いた。タエは、娘を連れて、手作りの料理をたくさん持ってきてくれた。
「これからも、よろしく。」
タエが、そっと手を差し出した。私は、その手を握り返した。
これから始まる新しい日々に、今度こそ、本当の友情が芽生えることを、私は確信していた。



