取引先の部長に、俺は思わず眉をひそめた。兄が命を懸けて開発してきた部品を、たった一言で「粗悪品」と切り捨てられたのだ。俺の名はカ木。四十三歳。十年前に亡くなった父が残した町工場で、今は技術者として働いている。本来なら社長を継いでいたのは兄だった。だが、三年前に兄が難病で倒れてしまった。それから俺は、技術者としての仕事と会社の舵取りを、両立せざるを得なくなったのだ。
小さい頃から兄と仲が良く、大人になってからは、技術者としても人としても心から尊敬していた。兄が倒れた時、俺は一階の技術部で一緒に働いていた。晴天の霹靂だった。
倒れてから半年が過ぎた頃、病室のベッドであの言葉を受けた。「改めて、頼む。お前だけが頼りなんだ。俺の代わりに会社を、そして――」兄は、自分がメインで携わってきた特許出願予定の部品開発と、会社の未来を、憔悴しきった声で託してきた。すっかり細くなった腕に点滴の針が刺さり、弱々しい笑顔で続ける姿に、胸が締め付けられた。
「わかった。会社のことは心配しないで。部品の開発も、俺が引き継いで完成させてみせる」
俺は兄を安心させようと、無理に笑って見せた。声は震え、表情もぎこちなかったかもしれない。だが兄は、点滴の刺さっていない方の手で、そっと俺の手を握った。
「どうか、お前に正式に社長を継いでほしい」
その瞬間、俺は目を見開いた。兄はもう、自分がいない未来を見据えている。その言葉の裏にある覚悟が、痛いほど伝わってきたのだ。
「私からもお願いします」
見れば、ベッド脇に座っていた義姉が深々と頭を下げていた。
俺は瞬間的に「ダメだ」と口にしていた。一転して、兄の顔に悲しみが浮かぶ。俺は握り返し、必死に言葉を紡いだ。「兄貴がいない間、俺が会社を守るのは当然だ。でも、あくまで代行だ。俺はいつまでだって待ってる。だから、ちゃんと帰ってきてくれ」
感情がこみ上げて、言葉が詰まった。兄も同じなのだろう。目に涙を浮かべて、ようやく「わかったよ。じゃあ、それまで頼んだぞ」と、かすかに笑った。
それから三年。俺は約束通り会社を守り続けた。だが、今日この場で、取引先の部長に「粗悪品」と言われた。部品は兄の遺作とも言える、最高傑作だと信じていた。この部長は、来月から新しく担当になったばかりだという。
「この品質で、よく特許申請まで持っていけたものだな。時間の無駄だったな」
部長は鼻で笑いながら、書類を机に叩きつけた。俺の脳裏に、病床の兄の姿がよぎる。開発室の夜更け。特許出願を目指す兄の熱い眼差し。そして、代行を引き受けたあの日、交わした約束。
「待ってるだけじゃダメだ。守り抜くことこそが、俺の使命だ」
俺は部長を強く睨みつけた。震える手を悟られないよう、机に置いた拳に力を込める。黙ったまま立ち上がり、持参した資料を一枚、部長の前に置いた。
「これは、兄が最後まで書き上げた設計書です。この部品にかける想いと、技術の全てがここにあります」
部長は一瞬、意外そうな顔をした。だが、すぐにまた笑みを浮かべる。
「そんな古い書類、今更見せる必要はない。特許は取得済みだが、市場の反応はどうだ?結局、作っても使ってもらえなければ意味がない」
確かに、市場にはまだ、この部品は受け入れられていない。だが、だからこそ今こそ、実績を作るべきだ。俺は小さな工場の技術者だが、父から受け継いだ職人の誇りがある。兄の想いを、ここで終わらせるわけにはいかない。
「この部品を実際に採用していただくよう、ここでご提案申し上げます。テスト機をお貸しください。性能を証明してみせます」
部長はやや驚いた後、興味深そうに目を細めた。「ふん、鈍感な職人かと思ったが、どうやら違うようだ。いいだろう。三日間だけ、試す時間をやる」
三日後、俺は心を込めて仕上げたテスト機を、部長の前に届けた。設計だけでなく、加工精度、耐久性、そしてコスト。全てにおいて、市販の同等品を上回る結果を出した。部長は黙ってデータを見つめ、やがて口を開いた。
「……認めよう。君の技術は本物だ。この部品を、是非わが社の主力製品に採用させてほしい」
その言葉に、俺は深く息を吐いた。兄の魂が、ここに確かに息づいている。俺がこの会社を守るのは、もう代行ではない。兄が帰ってくる日が来るまで、そして帰ってきたその先も、ずっと。俺は胸に誓った。
工場に戻ると、机の上に一通の封書が届いていた。差出人は、兄の病院だった。
中を開けると、兄からの手書きの短い手紙が入っていた。「カ木へ。最近の工場の様子を聞いた。ありがとう。俺も、もう一度、技術者として復帰できるよう、必死にリハビリしている。また、一緒に開発しよう。楽しみだ」
涙が溢れて止まらなかった。この三年間、俺は何度も挫けそうになった。取引先の無理解、技術的な壁、そして孤独。それでも、兄との約束を守ることができた。
翌朝、俺は開発室のドアを開けた。新しい部品の構想を、机に広げた白紙に書き始める。それは、兄がかつて夢見ていた次世代部品の設計図だった。終わらない想いが、ここにある。今日も、俺は動き続ける。



