「お前に女としての魅力を感じないんだよ」――夕食の後、夫が突然差し出したのは離婚届だった。しかも彼の欄はすでに記入済み。海外赴任が決まり、給料も上がる。新しい人生には私がいらないらしい。20年近く、家事も仕事も優太の育児も全部一人でやってきたのに。でも、息子の優太だけは私の側にいてくれると思っていた。なのに優太は「父さんと一緒に行く」と……。あの日、優太が私に手渡したのは「戻るまで開けないで…

「お前に女としての魅力を感じないんだよ」――夕食の後、夫が突然差し出したのは離婚届だった。しかも彼の欄はすでに記入済み。海外赴任が決まり、給料も上がる。新しい人生には私がいらないらしい。20年近く、家事も仕事も優太の育児も全部一人でやってきたのに。でも、息子の優太だけは私の側にいてくれると思っていた。なのに優太は「父さんと一緒に行く」と……。あの日、優太が私に手渡したのは「戻るまで開けないで...

「僕が戻るまで開けないで。」

切羽詰まった様子で私を止める優太。戻るまで、と言われて胸が小さく跳ねた。理由は分からないけれど、優太がまた帰ってくるつもりでいてくれる。それだけで心の奥に小さな明かりが灯るような気がした。

「分かった。ちゃんと約束守る。大事に取っておくね。」

優太は安心したように笑った。その笑顔を見た瞬間、私は離婚して初めて泣きそうになった。

優太の手から渡された封筒は思っていたより厚みがあったけれど、今は見ないでと念を押された以上、私は従うしかなかった。

「戻るまで開けないから。うん、絶対だからね。」

真剣な顔で頷いた後、優太はまた笑った。目尻が下がる笑顔は幼い頃と変わらない。こうして優太は去っていった。まさか、優太からの手紙があんなに重要になってくるなんて。この時は気づきもしなかった。

私は鈴木まゆみ。37歳。地方のスーパーでレジのパートをしているごく普通の主婦だ。息子の優太が幼稚園に入園したのをきっかけに始めた仕事。少しでも家計の足しになればと軽い気持ちでやり出したが、気づけばもう15年近く続いている。

最初は午前中だけの短時間勤務だった。泣いて離れていく優太を保育園に預け、慌てて職場へ向かう毎日。帰宅後は洗濯物を取り込んで夕飯の下ごしらえ。あの頃はとにかく必死で、目の前の生活を回すことに精一杯だった。

今は手がかからなくなったが、その分教育費がこれからどんどん増えていく。最近は漠然と仕事について考えるようになっていた。そろそろ正社員で働きたい。もちろん簡単ではないことくらい分かっている。

私は19歳の若さで結婚した。特別な資格もなく、履歴書にかける経歴だって立派とは言えない。それでも今より安定した収入があれば、優太の進学の選択肢を増やしてやれる。老後だって不安だ。物価は上がる一方で毎月の貯金も微々たるもの。パート代だけでは限界がある。

これまで何度か夫の周一に相談したことがあった。パートから正社員になることについて。しかし、その度に帰ってくるのは決まって否定的な言葉だった。

「やめとけって。共働きの同期とか毎日地獄だって愚痴ってるぞ。」

夕飯を食べながら周一は味噌汁を吸って鼻で笑う。

「部屋は散らかってるし、弁当はレトルトとか冷食。しかも最近は家事分担しろとか言われるらしい。仕事して帰ってきてさらに皿洗いとか無理だろ。結婚する意味ないって。」

まるで自分は被害者側のような口ぶりだった。私は黙って空になった周一の茶碗にご飯をよそった。この家では当たり前の光景だ。

朝は私が誰よりも早く起きて弁当を作り、洗濯を回し、優太を送り出してからパートへ行く。帰宅後は買い物をして夕飯を作り、風呂掃除をして翌日の準備をする。周一は仕事で疲れているからという理由で、家事にはほとんど手を出さない。私は男の人はそんなものなのだろうと自分を納得させていた。だが、最近は違和感の方が大きくなっている。

周一はソファーに寝転がりながら満足そうに部屋を見回す。

「やっぱ家はこうじゃないとな。片付いてて飯がちゃんとしてて、帰ってきたらゆっくりできる。最高。」

つまり、彼の理想の生活を維持するために私には今のままでいてほしいということだ。

「第一、お前の学歴と職歴じゃ正社員なんて厳しいしな。」

悪気なく言っているのか、笑いながら続ける。

「今の世の中、パートでゆっくりできるなんてむしろ贅沢な身分じゃん。よかったな。俺がちゃんと稼ぐ男で。」

肯定も否定もせず、私は曖昧に微笑んだ。周一は私より10歳年上で、昔から自分はできる男だという意識が強かった。確かに同年代の家庭と比べれば収入はやや高い方かもしれない。けれど超高収入かどうかは疑問だ。私がパートに出なければ貯金はできないだろう。だが週一はまるで自分が特別なエリートかのように振る舞う。

「普通ならもっと苦労してるぞ。専業主婦に近い生活しながらパート程度で済んでるんだから、感謝して欲しいくらいだわ。」

そう言って笑う彼を見て、私は食べ終えた皿を持ってシンクに逃げた。昔なら素直に「そうだね」と思えたかもしれない。けれど最近は週一の自己賛美を聞くたびに胸が小さくきしむようになっていた。

今のところ生活自体は何とか回っている。ギリギリの月もあるものの家賃は払えているし、食卓に困ることもない。贅沢はできないが、節約を意識すればそれなりに穏やかに暮らしていける。ただ、あくまで今だけの話だ。

本当の問題はこれから先にある。優太は来年大学受験を控えている。本人が希望している大学はどれも県外。つまり合格すれば一人暮らしが前提になる。もちろん夢を諦めさせるつもりはない。優太は昔から真面目で勉強もコツコツ頑張るタイプだ。高校受験の時も友達が遊んでいる日も机に向かい、「ここに行きたい」と目を輝かせながらパンフレットを見せてきた。

こんな姿を見てしまえば、親として応援したいと思うのは当然だ。食費、光熱費、教科書代、交通費。大学生の一人暮らしには想像以上にお金がかかる。もちろん遊ぶお金くらいはアルバイトで何とかしてもらうつもりだ。しかし生活の基盤まで全部自分で賄うのは酷だと思う。親だからこそ最低限の支援はしてあげたい。そのためにはどう考えても今のままでは厳しい。

週一の給料だけで乗り切ろうとすれば、貯金はどんどん減っていくだろうし、学資資金まで手をつけることになるかもしれない。だったら週一の機嫌を伺うより、私自身が働く時間を増やした方がずっと現実的だ。

ありがたいことに今のパート先は職場環境が悪くない。むしろ人間関係にはかなり恵まれている方だと思う。レジだけではなく品出しや発注補助、新人教育まで任されるようになった頃から、店長やエリアマネージャーに何度も言われていた。

「鈴木さん、そろそろ正社員どう?」

最初に言われたのは確か数年前。その時は「いやいや、私なんて」と笑って流した。家事との両立も不安だったし、何より週一がいい顔をしないだろうと思っていたからだ。けれど社員への誘いは一度きりでは終わらなかった。

「鈴木さんなら十分やっていけると思うんだけどな。正直今の社員より頼りになりますよ。」

冗談半分に言われることもあったが、働きぶりを評価してくれているのは伝わってきた。15年も同じ場所で働けば嫌でも経験は積み重なる。クレーム対応も、混雑時のレジ回しも、売り場の空気を読むこともそれなりに身についていた。だからもし今の私が正社員になりたいと頭を下げれば、受け入れてもらえる可能性は高いと思う。

問題は能力でも年齢でもない。週一だ。彼が私の正社員化を認めるかどうか。そこだけが最大の壁だった。

よし、頑張ろう。

夕食後、なるべく週一の機嫌が良さそうなタイミングを見計らって、私は話を切り出した。優太は自室にこもって受験勉強中。リビングにはテレビのニュース番組の音と換気扇の低い唸り声だけが響いている。週一は食後の一服をしつつソファーに深く腰を沈めていた。ネクタイはすでに外され、ワイシャツのボタンも上から2つ開いている。仕事終わりのこの時間、彼の一番機嫌が安定していることを私は長年の経験で知っていた。

今話すしかない。

私はマグカップに入れた温かいお茶をテーブルに置いた。

「来年には優太も大学生だね。」

なるべく自然に言ったつもりだが、自分でも声が硬いのが分かった。

「ああ、まだ慣れるか分からないけどな。」

煙を吐きながら週一は気楽そうに返す。

「ま、俺に似てたら大丈夫だろう。高卒のお前に比べたら大変だけどな。」

ケラケラと笑う声がリビングに響いた。悪気があるのかないのか、もう今となっては分からない。多分本人は冗談のつもりなのだろう。でもこういう言葉を週一は昔からよく口にした。

「高卒だから世間知らずなんだ。お前には難しい話だろう。頭がないんだから黙ってろ。」

付き合っていた頃はこんなことを言う人ではなかった。少なくとも私の記憶の中に覚えはない。結婚し、子供が生まれて私が家庭に入るようになってから、週一は少しずつ変わっていった。もしくは変わったのではなく、本来の姿だったのかもしれない。

最初の頃はその度に傷ついていた。高校卒業後すぐに働き始めたことをまるで人生の失敗のように指摘される度、自分の価値を否定されている気になって苦しかった。さらに悔しいのが反論できなかったこと。私は大学にも行っていないし、大した資格もない。高卒で就職した仕事も出産と育児で辞めてしまった。だから自分に自信がないという気持ちを週一に見透かされていたのだと思う。

20年近くも同じようなことを言われ続ければ人は慣れる。傷つきはする。ただ、いちいち反応するのに疲れてしまっただけだ。

大事なのは相手に対して感情的にならないこと。週一の機嫌を損ねずに自分の希望を通してもらうために。

「優太、最近すごく頑張ってるよね。」

「あいつ意外と根性あるからな。誰に似たんだか。」

「あなたじゃない。」

そう返すと週一は満足でもなさそうに鼻を鳴らした。こういうところだ。週一は基本的に自分を持ち上げられると機嫌が良くなる。だから私は長年かけて地雷を踏まない会話を覚えてしまった。否定せず、逆らわない。まず相手を立てる。夫婦というより取引先との会話に近いかもしれない。

「まあでも県外の大学とか言い出したら金かかるぞ。」

「うん。そうなんだよね。」

私は慎重に相槌を打った。ここからが本題だ。緊張する。言葉を間違えればまた「余計なことを考えるな」で終わってしまうからだ。

週一はタバコを指に挟んだままスマホをぼんやり眺めていた。今ならまだ機嫌は悪くない。

「だからね、私も働き方を変えようかなって考えてて。」

その瞬間、週一の姿勢がゆっくりこちらへ向いた。

「もし県外の大学に進学したら一人暮らしになるでしょ。その費用のことを考えると、やっぱり今のままじゃ少し不安で。」

できるだけ柔らかく空気を壊さないように言葉を選ぶ。週一は煙を吐き「ふーん」と興味なさそうに返事をした。

「前から店長にも言われてた正社員の話、ちゃんと考えてみようかなって思ってるの。」

「はあ。」

低い声。週一の眉がピクリと動いた。分かりやすい反応だ。私は内心で身構えたものの慌てて続ける。

「もちろん家のことをおろそかにするつもりはないよ。シフトは調整できるみたいだし、今より忙しくはなるけど、その分収入も安定するから。」

「いやいや、待て待て。」

呆れたように笑いながら週一は灰皿にタバコを押し付けた。

「お前本気で言ってんの?」

「本気だけど。」

「無理。お前自分を買いかぶりすぎ。」

あまりにも即答だった。

「大体さ、スーパーのレジしかやったことないおばさんが今更正社員。社会舐めすぎだろ。」

「でも店長からも声をかけてもらってるし、社員登用された事例に決まってんだろ。」

食い気味に否定される。

「人手不足だから適当に声かけてるだけ。お前みたいなの本気で戦力だと思ってる会社なんかないって。」

胸がギュッと苦しくなる。だがここで引き下がったら終わりだ。

「でも実際に社員登用されたパートさんもいるし、私も長く働いてるから。」

「だからレジ歴15年がそんなに偉いの?同じボタンを押して『いらっしゃいませ』って言ってるだけだろ。それでキャリア積んだ気になってんの。ちょっと痛いぞ。」

思わず唇を噛んだ。もちろんレジだけではない。品出しも発注も新人教育もクレーム対応もやってきた。忙しい年末年始には売り場全体を走り回り、急な欠勤が出れば休日でも駆けつけた。それでも週一の中では誰でもできる仕事でしかないらしい。

「第一さ、お前が正社員になったら家のことどうすんだ?」

「今まで通りちゃんとやるよ。少しは分担するかもしれないけど。」

言った瞬間、週一の顔が露骨に歪んだ。

「ほら、出た。結局それなんだよな。女が働き出すとすぐ家事を手伝って始まる。」

大きなため息をつき、週一はソファーにふんぞり返った。

「俺は外で働いて疲れて帰ってきてんのにな。帰宅後に家事とか罰ゲームだから。共働きって嫌なんだよ。」

「でも優太の将来を考えたら。」

「奨学金でいいだろ、別にみんな借りてる。」

「できればあの子にあまり負担を。奨学金も候補には入れたが、最終手段にしたい。」

「ほら、またそうやって先回りしすぎなんだよ。」ピシャリと言い切られた。「お前さ、自分が苦労したからって何でも先回りしすぎなんだよ。だから優太が甘える。」

そこまで言われるとは思っていなかった。私はただ優太の選択肢を狭めたくなかっただけなのに。

「私は少しでも力になりたいだけ。」

「だったら今まで通り節約してればいいだろ。その方がお前には向いてる。」

「お前には向いてる」が、「私にはそれしか価値がない」と聞こえてしまう。

「そもそもさ、正社員なんて責任増えるんだぞ。お前メンタル弱いし無理。絶対すぐ泣く。」

「そんなことない。」

「お前自分じゃ気づいてないだけでかなり悪いし。」

昔ならここで黙っていた。私が悪いのかなと思って自分を納得させるしかなかったからだ。でもこの日は違った。優太の進路、将来、お金、そして自分自身の人生。色々なものが頭の中で積み重なり、静かに限界を迎え始めていた。

「でもやってみないと分からないでしょ。私、自分で思ってるより仕事好きなんだと思う。忙しいのは大変だけど、お客さんに感謝されたり頼られたりすると嬉しいし。」

週一は意外そうに目をまたたかせた。私がこんな風に自分の気持ちを口にするとは思っていなかったのだろう。

「だから一回ちゃんと挑戦してみたいの。」

静かにそう言うと、週一はしばらく黙り込んだ後、ふっと鼻で笑った。

「へえ。最近随分生意気になったな。やっぱり年を取ると女は生意気になっちまうものなのかね。昔のお前は何でも俺の言う通りにして可愛げがあったのに。」

呆れたように肩をすくめて、週一はわざとらしくため息をつく。私は一瞬返事に詰まった。週一は昔から自分に逆らわず機嫌を取り、何を言われても笑って受け流す女を「可愛い」と好んでいた。反対に意見を持つ女は「面倒」。さらに反論する女は「生意気」。そして自分の希望を口にする女は「可愛くない」だと。結婚してから私は少しずつ週一の希望に沿うために基準を合わせるようになっていた。今だって週一の希望通りにしてるつもりだった。できるだけ穏やかに返したつもりだけれど、週一は気に入らなかったらしい。

「ほらまたそうやってチクチクと反論してくれ。畳と女房は新しい方がいいって、その通りだな。」

「ちょっとそれはひどいんじゃない。」思わず口をついて出た。いくらなんでもその発言は限度を超えている。冗談にしても笑えなかった。私を見下していることがよくわかる言動だ。

顔をしかめて週一を見るが、彼は悪びれる様子もない。むしろ「面倒なことになったな」とでも言いたげに露骨に顔をしかめていた。

「はいはい。そうやってすぐ深刻ぶって。」

吐き捨てるように言うと、週一はけだるそうに立ち上がった。ソファーの横に置いてあった空のグラスを持ち上げ、キッチンへ向かう。

「分かった。正社員ね。俺の望みはさっき言った通りだ。こちらに負担がかからないんなら、どうぞご自由に。」

そして振り返りもせずに続けた。彼の考えがはっきり分かった。自分はこのままでいる。家事の分担もせず、私がどれだけ忙しくなろうと関係ない。もし家のことが少しでもおろそかになれば、きっと不満をぶつけてくる。働くのは勝手でも今まで通り全部やれという警告だ。

以前の私なら「やっぱり無理だろう」と諦めていたかもしれない。だが優太の進学費用のことを考えると、不安が胸を締めつけるのだ。入学金、家賃、家具家電。大学進学には想像以上にお金がかかる。親としてできる限り支えてあげたかった。

「ありがとう。あなたに迷惑はかけないから。」

週一は「当然だろう」とでも言いたげに鼻を鳴らした。

「ま、せいぜい頑張れば。」

言い方は相変わらずだ。失敗する前提で眺めているような口調。それでも不思議と以前ほど苦しくはなかった。多分私は少しずつ気づき始めていたのだと思う。週一は私を信じていないのではない。最初から自分より下の存在として扱っているのだ。どう思われてもいい。私は頑張るだけだ。

職場に相談すると、正社員の話は驚くほどあっさりと通った。むしろ店長の反応は「やっとその気になってくれたのか」という雰囲気すらある。

「本当にそれなら助かるよ。」

バックヤードで受け入れられ、私は目を丸くした。

「え、でも急にすみません。」

「いやいや、むしろこっちからお願いしたいくらい。ちょうど求人を出そうとしたところだったんだよ。」

さらに近くにいた社員まで会話に入ってくる。

「鈴木さんならもうほとんどの業務ができますからね。レジだけじゃなくて発注も売り場も新人教育もできるし。本当に助かります。」

そんな風に言われて、思わず顔が熱くなる。褒められ慣れていないせいか、どう反応していいか分からなかった。15年間ただ必死に働いてきただけだ。最初の頃は要領が悪く、自分でも戦力になれていたかと言われると疑問なほど、お客様から怒鳴られてバックヤードで泣きそうになったこともある。それでも「鈴木さんがいると安心する」と言われる度、頑張ろうと思えた。

一方で週一には褒められたことはなく、むしろ見下される毎日だった。だからこそ、こうして必要としてもらえたことが思った以上に嬉しい。

「私、頑張ります。」

意気込む私に、店長は笑いながら言った。

「期待してるよ。」

素直に嬉しい。家では当たり前のように扱われていることも、外では評価されていたのだ。

帰宅後、私は週一にもそのことを報告した。

「正社員の話、正式に決まったよ。」

週一はテレビを見たまま「ふーん」と気のない返事をする。

「来月から勤務時間も少し変わるみたい。」

「ああ。」

一瞬だけこちらを見た後、彼は露骨に嫌そうな顔をした。「面倒なことになった」とでも言いたげだ。

「ま、お前が勝手に決めたことだしな。」

「あなたにも相談したでしょ。」

「相談じゃなくて報告だろ。」

ブツブツと小さく言うものの、以前ほど強く反対はしてこなかった。おそらくもう話を覆せないと分かっているのだろう。私は内心ほっとしながら、次は優太に話そうと心を決めた。

しかし優太は週一よりも意外な反応を示す。

夕食後、リビングに来た優太は驚いたように目を見開いた。

「正社員?母さんが?」

「うん。優太ももう手がかからないし、もっと働きたいなって。」

「大丈夫なの?」

「どういう意味?」

予想外の複雑そうな顔をされて、私は思わず聞き返した。まさか週一と同じように自分の生活が変わることを嫌がっているのだろうか。確かに今までの私はほとんど専業主婦と同じ働き方だった。家事は当然として、優太が小さい頃は育児も加わる。週一は家事は女の仕事という考え方だったから、手伝うことはほとんどなかった。優太もそんな父親を見て育っていて、私が動いてしまうのも要因だと思う。ただできればこれを機に優太には自分のことは自分でやる意識を持って欲しかった。絶対に週一を手本にされるのは嫌だ。せめて食後、自分の皿を下げるくらいはできる人になってほしい。

昔と今は違う。週一の若い頃は男が働き、女が家庭を守る形がまだ一般的だったのだろう。だが令和の現在は共働きでお互い協力しながら生活している夫婦なんて珍しくもない。むしろその方が自然なくらいだ。私は優太には家事をする男性をダサいと思って欲しくなかった。

そんなことを考えていると、優太は少し言いづらそうに小さく口を開いた。

「いや、母さん最近すごい疲れてるからさ。今でも毎日しんどそうなのに、さらに仕事増やして平気なのかなって思って。」

予想外の言葉だった。責めるでもなく、不満でもなく、ただ純粋に彼は私を心配していたのだ。

「料理はちょっとまだ無理だけど、米なら炊けるし、皿洗いとかもできるから言って。気づけばやるけど、僕気づけないかもしれないから。」

少し照れくさそうに笑いながら優太は言った。打算も不満もなく、ただ純粋な優しさから出た気遣い。私は言葉に詰まった。つい先ほどまで「負担が増えるのを嫌がるかもしれない」と考えていた自分が恥ずかしくなる。優太はきちんと見てくれていたのだ。私が毎日どれだけ忙しく動いているのか、疲れていることも、それでも家族のために頑張っている現実さえ。

「ありがとう。」

胸の奥がじんわり熱くなる。優太は昔から優しい子だった。幼稚園の頃、転んで泣いていた女の子に自分のハンカチを渡したり、小学生になってからもスーパーで重そうな荷物を持っているお年寄りを見ると自然に手を貸していた。誰に言われたわけでもない。あの子は昔から困っている人を見ると放っておけない性格なのだ。

「すごく助かる。お言葉に甘えさせてもらうわね。」

「うん。」

嬉しそうに頷く姿がまだ少し子供っぽくて可愛い。でも同時にもう立派な大人になり始めているんだなとも感じた。優太のためなら私は頑張れる。週一に何を言われても、どれだけ大変でも、優太の未来を支えたい。その気持ちは以前よりずっと強くなっていた。

翌月から私は正式に正社員として働き始めた。最初の数日はとにかく必死だった。仕事内容自体は長年やってきたものが多い。レジ、品出し、発注、売り場作り、新人指導。だから仕事が分からないという不安は少なかった。パートと社員で違うのは責任の重さ。今までは時間になったら帰るのが基本だったが、社員になるとそうはいかない。売り場に問題が起きれば対応する。急な欠勤が出ればフォローに回る。クレーム処理も増える。気づけば閉店ギリギリまで残っていることも珍しくなかった。

何より大変だったのは時間に追われること。朝は今まで以上に早く起床し、家事を終わらせて出勤する。帰宅後は夕飯作り、洗濯、片付けをこなす。少しでも段取りを間違えると一気に全部が崩れてしまうのだ。

夜、キッチンに立ちながら小さくため息が漏れる。足が痛い。腰も重い。立ちっぱなしで働いた後の体は自分で思っている以上に疲弊していた。40代目前になって体力の衰えを痛感する。若い頃なら勢いで乗り切れたことも、今はそう簡単ではない。気力で何とかフォローしているだけだ。一度腰を下ろしてしまえばきっと立ち上がれなくなってしまう。洗濯機が回る音、炊飯器の蒸気、シンクに積まれた食器。やることはいくらでもある。

「よし。」

頬を軽く叩き、私は再び包丁を握った。すると後ろからすっと優太が現れる。

「皿洗っとく。」

「え、いいの?」

「母さん、今日遅かったじゃん。僕風呂入る前にやっとくから。」

優太はシンクの前に立った。スポンジを持つ姿はぎこちない。泡だらけになりながら必死に皿を洗っている。その光景を見た瞬間、不思議と疲れが少し軽くなった。誰かが支えてくれるだけで、人はこんなにも救われるのだ。

「うわ、嘘だろ。優太が皿洗ってんの。」

仕事から帰宅した週一はキッチンを覗き込んだ瞬間、大げさな声を上げた。まるで珍しいものでも見たかのような反応だ。優太はシンクの前で泡だらけのスポンジを持ったまま振り返る。私は嫌な予感に前をすくめた。

週一はネクタイを緩めながらキッチンに近づく。

「かわいそうにな。俺の代わりにお前が犠牲になっちゃって。」

ケラケラと笑うと、優太の背中を軽く叩いた。

「要領の悪い母さんでごめんな。」

「何それ?」

思わず強めの声が出た。

「優太は私を気遣ってくれてるの。自分から手伝うって言ってくれたのよ。」

「はいはい。」

週一はめんどくさそうに手を振る。私の話を遮りたいのが透けて見える仕草だ。

「どうせお前が疲れたとかしんどいとかグチグチ言ってたんじゃないの?」

「言ってないわよ。」

「でも顔に出てるもん。朝に疲れてますって顔してる。」

鼻で笑いながら週一は冷蔵庫を開けた。

「母親がそんな顔してたら子供は気を使うだろ。プレッシャーなんだよ。」

心当たりがあるがゆえに、胸の奥がちくりと痛む。確かに最近疲れている自覚はあった。朝は早く、帰宅は遅い。家事も以前ほど完璧には回らない。自分でも余裕がなくなっているのは分かっていた。

「なあ、優太。本当は迷惑なんじゃないの?母親が急に働き出してさ。」

同調を求めるように週一は優太を見る。優太は一瞬だけ手を止めた。シンクの水が小さく響く。私は内心はらはらした。優太は優しいからこそ、空気を読んで自分の本音を飲み込むことがある。週一に合わせてしまうかもしれない。そう思った瞬間だった。

「僕はただ、母さんが少しでも休めればいいと思っただけだよ。」

静かだがはっきりした声が響く。

「今だって母さんずっと家のことやってたじゃん。仕事して帰ってきてご飯作って、洗濯して、掃除して。僕、普通にすごいと思ってたし。」

私が感動しているそばで、週一は気まずそうに前をすくめた。おそらく優太が自分に同調しなかったことが面白くないのだろう。

「いやいや、母親なんだから当たり前だろ。」

「父さん、それ母さんに甘えすぎじゃない?」

空気が止まった。私まで息を飲む。優太がこんな風に週一に意見するのは珍しかった。週一も同じく驚いたのか目を丸くしている。

「父さんて、自分のことは全部母さんがやって当然だと思ってるよね。」

「お前、誰に向かって?」

「僕、別にやるの嫌じゃないよ。むしろ今まで母さん一人にやらせすぎだったと思ってる。」

「もういいのよ、優太。」

私は慌てて会話に割り込んだ。これ以上言えば週一が不機嫌になり、面倒な空気になるに違いない。だが優太は小さく首を横に振った。

「母さん、いつも父さんに気遣ってるじゃん。」

週一の顔から笑みが消えていく。

「僕、昔はそれが普通だと思ってた。でも友達の家とか見てたら違うんだよ。父親だって料理するし洗濯もするし、スーパーにも行くし。」

「だから何だよ。」

「別に母さんだけが頑張る必要なくない?」

静かな口調なのに言葉は妙に重かった。週一は無口のまま。いや、返せないのかもしれない。そんな彼を見ていると、私は初めて気づいた。ずっと週一に逆らえなかった私に比べて、優太はきちんと自分の意見を主張できるようになったのだ。

数十秒ほどの重い沈黙の後、週一はわざとらしく大きなため息をつき、缶ビールをテーブルへ置いた。

「はいはい。いいな。まゆみはこうやって頑張ってますって姿を家族に見せつけることができてさ。」

嫌味ったらしく、当てつけのように言う。

「俺だって毎日仕事頑張ってるのにな。でも俺がどれだけ疲れて帰ってきても、それが当たり前みたいな空気じゃん。男って損だよな。」

被害者ぶるような口調だ。私だって週一に感謝している。むしろ何度も言葉にしてきた。毎月の給料に「ありがとう」と伝えていたし、仕事の愚痴を聞くこともあった。週一が気分よく過ごせるような空気にも気を配ってきたつもりだ。それでも彼は定期的にこうして自分ばかりが苦労しているという態度を取る。正直ちょっと苛立った。

だったら私の疲れは何なのだろう?休む間もなく必死になって家事も仕事も両方こなしている今の生活。週一は少しでも私を労わってくれたことがあっただろうか。声を大にして言い返したくなるけれど、ここで反論しても面倒になるだけだと私は長年の結婚生活で学んでいた。週一が不機嫌になると厄介だ。露骨に態度が悪くなり、家の空気が一気に重たくなる。ならばこちらが大人になるしかない。

私は小さく息を飲み、いつものように口角を上げた。

「ありがとう。あなたのおかげで生活できるわ。本当に感謝してる。」

何度も何度も繰り返してきた言葉だ。本心でもある。週一が働いてくれているから今の生活が成り立っているのは事実だ。ただ、こうも恩着せがましく求められると、いささか腹立たしい。素直に心からの「ありがとう」を持てず、むしろ自分が本当に吐き出したい気持ちを飲み込んでいる感覚があった。週一は満足したように口元を緩めると、今度はちらりと優太に視線を移した。

「お前も、な。」

優太もそれを感じ取ったのだろう。洗い終えた皿を布巾で拭きながら、少しだけ気まずそうに目を伏せた後、穏やかな声で続けた。

「そうだね。ありがとう。父さん。」

途端に機嫌をよくした週一は、再びビールを口に運んで上機嫌で笑った。

「ま、お前らが感謝してるならいいんだよ。俺は家族のために頑張ってるわけだし。」

返事をせず、私は曖昧に微笑む。優太は何も言わなかった。満足したのだろう。ならば一安心だ。ただ、拭き終えた皿を静かに棚に戻す横顔が、ほんの少しだけ疲れて見えた。

週一はようやく機嫌を直したのか、鼻を鳴らしながらソファーに深く腰を沈め、そのまま満足そうに缶ビールを傾ける。

「分かればいいんだよ。最近の女って、ちょっと働き出すとすぐ調子に乗るからな。」

大げさなため息で苦労している感を演出する週一はさらに続けた。

「俺の会社の後輩なんか、嫁が育休から復帰してから毎日地獄だって吐いてるぞ。帰ったら飯はない。洗濯物は溜まってる。子供の送り迎えまでやらされるって。二人の子供だからね。ああ、俺はそういう生活無理だから。結婚って役割分担だろ。男は外で働く、女は家を守る。それが一番うまくいくんだよ。」

偉そうに語る週一の横で、優太は黙ったまま皿を洗っていた。スポンジを絞る音だけが夜けに大きく響く。私は慌てて空気を和らげようと笑顔を作った。

「このままでは優太に申し訳ない。でも優太が手伝ってくれるの本当に助かってるのよ。私もまだ慣れなくて最近ちょっとバタバタしちゃってるから。」

「だからそこが問題なんだって。お前が無理するから優太まで気を使うはめになるんだろ。」

「別にそんな大したことしてないよ。」

優太が小さく言う。

「お前は優しいからな。母さんに頼まれたら断れないんだろ。」

優太は週一に言われて困った顔で首をかしげた。

「頼まれたっていうか、僕ももう大きいし、そのくらいは普通かなって。」

「はあ。今時の子って感じだな。男まで家事か。」

大げさに肩をすくめる週一に、優太は曖昧に笑うだけ。昔からそうだ。優太は空気を読む子だった。週一が不機嫌になる流れを察すれば、無意識に話を丸く納めようとする。それが優しさでもあり、同時に気を使いすぎる性格でもあるのだと思う。

「まあでも、まゆみがそこまで働きたいなら好きにすればいいよ。ただし、家のことがおろそかになるのはなしだからな。俺コンビニ飯とかマジ無理だし。」

「分かってるわ。」

「あと、疲れたって空気を出されるのも嫌。こっちまで疲れるから。」

疲れているのは事実だった。正社員になってからも責任は増え、帰宅する頃には足がパンパンになっている日も多い。それでも私はなるべく顔に出さないでいた。週一を不機嫌にしたくなかったからだ。わざわざ釘を刺してくるあたり、やはり自分の判断は正しかったと実感する。週一は自分は感情を露骨に出すものの、私たちにはそれを許さないのだ。

「母さん、最近そうだもんね。だから俺、最初から言ってたんだよ。無理するなって。」ぽつりと優太が言った。「僕のせいかも。大学のお金とかもあるし。」

「ああ、まあ、それはあるけどな。」

優太は父親の顔色を伺ったのか、一瞬だけ言葉を止めた後、控えめな声で続けた。

「僕できることはやるから。皿洗いくらいなら全然平気だし。その方が母さんも助かるかなって。一人暮らしの練習にもなるし。」

責めるでもなく反抗するわけでもない。ただ自然なこととして言っているだけ。

「お前が勝手にやる分には好きにすればいいけど。でも学生の本分は勉強だからな。家事なんかで成績落とすなよ。」

週一も真正面から否定しづらかったのか、少し面倒そうに前をすくめて鼻を鳴らした。

「分かってる。」

「たく。前も息子を気遣うなよ。」

「使ってないわよ。」

「はいはい。」

適当に返事をして週一は再びビールを口にする。その様子を見た私はそっと優太に目を向けた。優太は何事もなかったように食器を片付けていたが、視線が合うと小さく笑って見せる。「大丈夫」と言われた気がしてほっとした。

優太はそれ以降も変わらず私を気遣ってくれた。朝私が危うく寝坊しそうになれば先に炊飯器のスイッチを入れてくれていたし、帰宅が遅くなった日は洗濯物を取り込んで畳んでくれていることもある。「やっといたよ」と本人はさらっと軽く言うが、その一言に何度救われたか分からない。

一方で週一はそんな優太を見るたびにからかう言葉を口にした。

「あ、今日もお母さんのお手伝いか。優しいね。そのうち俺、家事できる男なんでとか言いながらモテようとしてるだろう。でも女に使われるような男にはなるなよ。」

最初の頃は優太も困りつつ笑っていたが、反応するほど面倒になると分かったのか、次第に適当に流すことが多くなった。私も同じだ。いちいち気にしていたら身が持たない。週一は自分の価値観と違うものを見ると気にかけずにはいられない人だ。そしてこちらが反応しなければ案外すぐ飽きる。実際、私と優太が聞き流し続けているうちにやがて週一も何も言わなくなっていった。外見だけ大人で中身はまだまだ子供だと思う。

そうしているうちに私自身もだんだんと正社員の生活リズムに慣れていく。数ヶ月も経てば自然と体が動き、仕事の流れも頭に入ってきた。忙しい毎日ではあったが、充実感も増していく。職場では頼りにされ、「鈴木さんが社員になってくれて助かった」と言われることも増えた。誰かに必要とされる感覚がこんなにも嬉しいものだったなんて知らなかった。

ゆっくりとではあるが前を向けるようになっていた夜、衝撃的な出来事が起こった。

ある日の夜、夕食を終え優太が自室へ戻った後、週一は珍しく真面目な顔でダイニングテーブルに座ったまましばらく黙っていた。何か言いたいことがあるのだろうか。そう思った私は食器を片付けながら「どうしたの」と声をかける。すると週一はゆっくりと封筒をテーブルへ置いた。

「離婚してほしい。」

え。自分の耳を疑った。理解できない。週一は無言のまま封筒から書類を取り出し、私の前へ差し出す。離婚届だった。しかも週一の欄はすでに記入されている。

「あ、何これ?」

受け取った手が震えた。結婚してからこれまで、私だって「もう無理かもしれない」と思ったことは何度もある。見下されることにも、自分ばかりが我慢する生活にも疲れを感じていた。それでも口にはしなかった。優太のこともあったし、何より長年連れ添った夫婦という情も残っていたからだ。だからこそ、週一の口から突然離婚という言葉が出てきたことが信じられなかった。

「どうして?正社員になったから?家事も手を抜いていないし、あなたに迷惑かけてないのに。」

必死に言葉を紡ぐ。本当に頑張ってきたつもりだ。仕事が増えても朝食も弁当も欠かさなかった。掃除だって休日にまとめてきちんとしている。週一が嫌がるようなことはなるべく避けてきた。なのに週一は私の訴えなどどうでもいいらしく、冷めた顔で言った。

「前から思ってたんだけど、お前に女としての魅力を感じないんだよ。」

「え?」

「生活感がすごいっていうか。毎日疲れた顔してるし、色気もないし。昔はもっと可愛げがあったのにな。最近はなんかおばさんって感じしかしない。そもそも正社員になってから余計に変わったよな。余裕ないし、ピリピリしてるし。女として終わってるっていうか。」

そこまで言うと週一はため息混じりに肩をすくめた。

「俺、もう無理なんだわ。」

混乱した頭の中で真っ先に浮かんだのは優太の顔だ。離婚そのものは、正直に言えばもう受け入れてもいいと思ってしまった。ここ数年、週一と言って心が満たされることはほとんどなかったし、見下されるたびに自分の何かがだんだんと削れていく感覚もあった。夫婦として終わっていると言われれば否定できない部分も多い。けれど問題はそこではない。優太の進学だ。来年には大学受験を控えている。しかも志望校は県外ばかりだ。

学費だけではない。家賃、生活費、教材費。考えるだけで頭が痛くなるほどの金額が必要になる。離婚後、週一はきちんと養育費を払うだろうか。いや、おそらく無理だ。これまでの言動を思い返せば分かる。自分が損をすることを彼は何より嫌う。ましてや成人間近の息子に大学費用まで出し続けるとは思えなかった。

私一人の収入で優太に不自由のない生活をさせられるだろうか。せっかく努力してきたあの子の未来を親の都合で狭めてしまうのではないか。そんな不安が一気に押し寄せ、私は言葉を失った。

週一は私の反応を楽しむように口元を歪める。

「悪いな。そりゃショックだよな。」

完全に優位に立った人間の顔だった。

「俺、昇格するからさ。これからもっと稼ぎ良くなるんだわ。」

「昇格?」

「ああ、海外の支店に移動するんだよ。」

週一は誇らしげに胸を張る。

「向こうって手当てもすごいらしくてさ、今までとは比べ物にならないくらい給料上がるって。いや、俺も頑張ってきた甲斐があったわ。」

その瞬間、胸の奥にストンと何かが落ちた。このタイミングで離婚を切り出した理由が分かった気がした。海外赴任で環境が変わり、収入も上がる。新しい生活を始めるには都合がいいのだ。そしてその中に私は必要ない。週一にとっては家を整える便利な妻ではあっても、一緒に新しい人生を歩みたい相手ではなかったのだろう。むしろ海外で自由に遊ぶためには家庭が邪魔になった。いらないから切り捨てる。あまりにも身勝手で、とことん週一らしい理由だった。

「それで離婚なの?」

「まあな。向こうで単身赴任とか面倒だし、優太ももう大学生だろ。これでもう終わりみたいなもんじゃん。」

彼は悪びれる様子もない。

「それにお前も働き始めたんだから、一人でもなんとかなるだろ。」

自立できるまでになったんだから感謝しろとでも言いたげな態度。私はしばらく俯いたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。悲しいというより悔しかった。私は週一のために20年近く生活を合わせてきた。機嫌を損ねないように気を使い、優太を育て、文句を飲み込んだ。それなのに週一は全く躊躇せず私を切り離そうとしている。しかも自分が成功したタイミングで。

「ああ、慰謝料とか勘弁してくれよ。海外行く準備にも金かかるし。」

「はあ?」

「だってお互い様だろ。性格の不一致ってやつ。」

週一に都合のいい解釈だ。その瞬間、私の中で週一への情が静かに冷えていくのを感じた。学費のことを思えば、ここで頭を下げるべきなのかもしれない。せめて優太の進学が落ち着くまで離婚は待ってほしいと懇願する方が賢いのだろう。今の私の収入だけでは県外の大学へ進学させるには不安が残る。奨学金という手もあるが、できることなら優太に大きな負担は背負わせたくなかった。だからすがるべきなのだ。

分かっているけれど、ずっと人生を共にしてきた相手がこんなにも自分のことしか考えていなかったのかと思うと、何をどう言えばいいのか分からなかった。私が必死に生活を守っていた間、週一はずっと自分が快適に過ごせるかどうかだけを重視していた。そもそも私自身、もう結婚生活を続けたいと思えていない。それでも彼に「お願いだから離婚しないで」と言わなければならないのだろうか。悔しさと虚しさで言葉を失っていると、不意に廊下の方から声がした。

「ごめん。聞こえちゃった。」

優太。いつからそこにいたのだろう。優太はリビングの入り口に立ったまま、驚くほど無表情だった。ただ静かにこちらを見ている。その顔が逆に痛々しくて胸が締め付けられた。

「これ、その…」

何と説明すればいいのだろう。一方週一はそんな空気などまるで気にしていなかった。

「まあ、お前ももうすぐ成人だしな。理解できるだろ。父さんたち、離婚しようと思う。」

転勤が決まったくらいの気軽さだった。優太は何も言わない。そんな優太に向かって、週一は突然何か思いついたように手を叩いた。

「ああ、そうだ。なんなら父さんと一緒に来るか?海外。せっかくだしさ。」

まるで名案だと言わんばかりの顔だ。

「向こうなら給料もいいし、生活レベルも上がるぞ。大学も海外の方が視野広がるかもしれないしな。」

「ちょっと、何言ってるの?」

「どうって、男同士の方が気楽じゃん。母親と二人暮らしより楽しそうだろ。」

冗談めかして言うけれど、その目は本気だった。私を置いて自分だけ新しい人生を歩むつもりなのだ。しかも優太まで連れて。一瞬、時が止まりそうになる。優太もさすがに驚いたのか、わずかに目を見開いていた。週一はさらに続ける。

「まゆみ、一人だと大変だろ。正社員始めたばっかだし。優太も俺についてきた方が楽だと思うぞ。金の心配もしなくて済むしな。」

それは優しさではなかった。「お前一人では困るだろう」とわざわざ現実を突きつけて、優位に立とうとしているだけだ。私は唇を噛んだ。

隣に立つ優太はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「急に言われて、まだ何も考えられない。」

「まあ、そりゃそうか。」

週一は軽く笑う。

「それに、大学は日本で考えてるし。」

「ああ、まあ、それもそうだな。」

優太は父親を刺激しないよう言葉を選んでいた。否定も柔らかく、反抗もしないが距離を取る話し方だ。それがこの子なりの防衛なのだと、母親の私は分かってしまう。

優太は一瞬だけ私を見た。その視線に「母さん大丈夫」という不安が滲んでいて、胸が苦しくなる。

優太を失うなんて考えただけで怖い。それでも私は最後には優太が私の方へ来てくれると、心のどこかで信じていた。私が熱を出せば冷たいタオルを持ってきてくれる。パートで疲れて帰宅した日は「今日は皿洗いしておいたよ」と誇らしげに報告され、ほっこりした。週一と違い、人を見下したり自分の都合ばかりを通す性格ではない。だからきっと離婚となれば私を一人にはしないだろうと勝手に思い込んでいた。何より週一より私の方が優太を愛している自信がある。

しかし、翌日優太の口から出た答えは私の予想とは異なったものだった。

「僕、父さんと一緒に行こうと思う。」

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。頭の中が真っ白になる。その隣で週一だけが嬉しそうに声を上げた。

「ああ、賢い。よく決めたな。」

そして「自分が選ばれて当然だ」と言わんばかりの顔。その姿に胸がざわつく。

「なんで?お金のことなら心配しなくても大丈夫だから。」

口をついて出たのはそんな言葉だった。大学進学、一人暮らし、学費、生活費。週一について行けばその負担は減る。だから優太は私を気遣ってそう決めたのではないかと思ったのだ。けれど優太は静かに首を横に振った。

「そういうのじゃないよ。」

「じゃあどうして?」

続きを聞こうとした私を見て、優太は目を伏せる。

「色々考えた結果なんだ。」

「これ以上は聞かないでほしい」そんな空気を感じた。私は唇を噛み言葉を飲み込む。無理に理由を聞き出そうとしても優太を困らせるだけだと分かってしまったからだ。

週一はそんな空気など気にもせず上機嫌で笑っていた。

「まあ当然だよな。男同士の方が気楽だし。それに海外生活なんてなかなか経験できないからな。」

嬉しそうに未来の話をする週一。その横で優太は曖昧に前を下げている。優太の表情が気になったけれど、その意味を考える余裕はなかった。

優太が決断を下してから数週間後、ちょうど学校が春休みに入る頃、私たちは正式に離婚した。長かった結婚生活は驚くほどあっさり終わった。

最後の日、私は玄関で荷物を持った二人を見送っていた。住み慣れた家なのに、もうすでに他人の家のように感じる。週一はスーツケースを引きながら、さっぱりした顔をしていた。

「じゃ、ここからは他人だから。連絡先は一応残しておくけど、よほどのことがない限り連絡するなよ。俺の未来の彼女に誤解されたら困るからな。」

最後まで自分本意な態度に、胸の奥を握りつぶされた気分になる。20年近く一緒に暮らした相手への言葉ではないだろう。私にだって思うことはある。だがもう言い返す気力も残っていなかった。

「分かりました。」

短く答えると週一は満足そうに頷いた。そして私はすぐに優太の方へ向き直る。今後、なかなか会えなくなるだろう。

「優太、体に気をつけてね。ご飯もちゃんと食べるのよ。」

「うん。」

「何かあったら、いつでも連絡して。待ってるから。」

思いを込めて言うと、優太は一瞬だけ表情を緩め、小さく「うん」と返事をした。

「母さんも元気でね。」

それから優太は周囲を気にするそぶりで週一の方をちらりと見た後、そっと私に封筒を差し出した。

「え、手紙?」

思ったより厚みがある。嬉しい。ありがとう。開けていい?封筒に手をかけると、優太が慌てて声を上げた。

「だめ。」

「え?」

「その、今はまだ見ないで。」

真剣な顔だった。いつもの穏やかな優太とは違う、強い意志を感じる目。

「どうして?」

「僕が戻るまで開けないで。」

切羽詰まった様子で私を止める優太。「戻るまで」と言われて胸が小さく跳ねる。理由は分からないけれど、また帰ってくるつもりでいてくれる。それだけで心の奥に小さな明かりが灯るような気がした。

「分かった。ちゃんと約束守る。大事に取っておくね。」

優太は安心したのか眉を下げて笑った。笑顔を見た瞬間、私はようやく離婚して初めて泣きそうになった。優太の手から渡された封筒は思っていたより厚みがあった。何が入っているのかとても気になる。けれど「今は見ないで」と念を押された以上、私は従うしかない。

「戻るまで開けないから。」

「うん。絶対だからね。」

真剣な顔で頷いた後、優太はまた笑った。目尻が下がる笑顔は幼い頃と変わらない。

「はいはい。感動の別れは終わりか?感動ムードになってるとこ悪いけど、こっちは忙しいんだよ。」

週一が割って入る。昔からこうだ。彼は誰かの感情が深くなりそうになると、軽く流したりする。私は最後まで何も言わなかった。もうわざわざ指摘する必要がない気がしたからだ。

見送った後、玄関のドアが閉まり、家の中に静けさが落ちる。つい先ほどまで家族がいた空間なのに、驚くほど広く感じた。リビングへ戻り、椅子に座った瞬間、ふっと力が抜ける。涙が出るかと思ったけれど、不思議と泣けなかった。悲しいというより、長い役目が終わったような感覚だ。

結婚して以来、私はずっと誰かのために動いてきた。週一の機嫌を損ねないために、優太に不自由をさせたくない。家の中を回さなければ。毎日必死だった。だからこそ、急に一人になると、人は涙を流すより先に呆然としてしまうのかもしれない。

その日の夜、私は一人分だけの夕飯を作った。味噌汁も焼き魚も、全部少量なのに作りすぎてしまう。長年の癖というのは簡単には抜けないらしい。静かな食卓で箸を動かしながら、私はぼんやりと思った。これからどうしようかな。虚しさが広がるけれど、心は軽かった。もう誰かの顔色を伺いながら生活しなくていい。疲れていても無理に笑う必要もなければ、食事の品数で嫌味を言われることだってない。ある意味気楽だ。自覚した瞬間、自分がどれほど生き苦しい毎日を送っていたのか初めて理解した。

正社員としての仕事は想像以上に大変だったし、一人暮らしならではの不安もある。しかしその後の生活は忙しいものの、不思議と前より穏やかだった。

職場でもだんだんと変化があった。

「鈴木さん、最近雰囲気変わりましたよね。」

「え?」

「前より自然に笑ってるというか、なんか楽しそう。」

同僚にそう言われて、思わずはっとする。自分では気づかなかったけれど、今の私は以前より肩の力を抜いて生きられているのかもしれない。

一方で週一の話と言うと、海外生活を満喫しているようだった。SNSをフォローしていたせいで、定期的に情報が流れてくる。洒落たレストラン、夜景の綺麗なバー、会社のパーティー会場、ブランドもののスーツを着て若い社員たちに囲まれて笑っている写真まであった。週一はきっと今、人生で一番楽しいのだろう。新しい環境に高い給料、独身同然の自由な生活。長年家庭に縛られていると思い込んでいた週一にとって、まさに理想の毎日なのかもしれない。

共通の知人からも、週一が現地でかなり羽振りよく暮らしているという話を耳にした。「鈴木さんの元旦那さん、すごいエリートなんだね」と言われるたびに、私は曖昧に笑うだけだった。悔しさはなく、むしろ他人行儀に感じる。週一はもう私の人生とは別の場所にいる人なのだと。

ただ一つだけ意外だったことがある。優太からの連絡が思ったより頻繁に来ることだ。「今日大学でこんなことがあった」「スーパーで母さんの好きそうなお菓子見つけた」「ちゃんとご飯食べてる?」短い内容ばかりだけれど、そのメッセージに私は何度も救われた。

そして離婚から1年近く経ったある日、久しぶりに優太から電話がかかってきた。

「今度、日本に一回帰ろうと思う。」

「え、本当に?」

「うん。あと、その時に封筒のことも話したい。」

私はあの封筒を引き出しの奥にしまったまま、ずっと開けずに大切に保管している。

「うん。楽しみにしてる。気になって仕方がなかったんだから。」

「母さん、ちゃんと約束守ってくれてたんだね。」

「当たり前でしょ。」

電話越しに優太が少し笑う気配がした。その笑い声を聞いた瞬間、私はようやく思う。離婚して失ったものばかりではない。私は今、自分の人生を取り戻し始めているのだろう。

離婚した日から1年か。最初の頃は家の中が静かすぎて落ち着かなかった。誰もいないリビング。一人分だけの食事。洗濯物も少なく、掃除もすぐ終わる。楽になったはずなのに、ふとした瞬間に胸の奥が空っぽになることもあった。それでも人間はだんだんと慣れていくものらしい。今では普通に一人暮らしを満喫している。

優太が帰国する日の朝、私のスマホが震える。

「今乗った。」

短いメッセージを見た瞬間、私は思わずスマホを握りしめた。嬉しくて、でも少し緊張もある。離婚の日以来、画面越しにしか見ていなかった優太にようやく会えると思うと、落ち着かない気持ちになった。

私は少し早めに空港へ向かった。到着ロビーには旅行客や出迎えの人たちが溢れている。何度も時計を確認しているうちに、自動ドアの向こうから見覚えのある姿が現れた。

「母さん!」

私を見つけるなり優太が大きく手を振る。そのまま小走りで駆け寄ってきた姿を見て、私は目を見開いた。

「久しぶり。」

最後に見送った時とは雰囲気が変わっている。顔つきが少し大人びて、肩も張っていた。以前はどちらかと言うと細身だったのに、がっしりもしている。

「なんか背が伸びた?」

「いや、身長はそんな変わってないと思う。」

優太は照れ笑いしつつ自分の肩を軽く叩く。

「筋肉がついたから、そのせいかも。向こうで結構歩くし。」

「ああ、なるほどね。」

たった1年で、優太が随分大人になった気がした。嬉しいはずなのに、少しだけ寂しい。そんな複雑な感情が胸をかすめる。

「飛行機疲れたでしょう。」

「まあ、ちょっと。でも久々の日本だからテンション上がってる。」

駐車場へ向かいつつ、私たちは自然と会話を始めた。

「食べたいものある?何でも作るわよ。」

「母さんの唐揚げ食べたい。」

「分かった。」

何気ないやり取りが嬉しかった。車に乗り込み、私は現在住んでいるアパートへ向かう。以前家族3人で暮らしていた一軒家は、離婚を機にすぐ売却した。その金を財産分与として分け、私は職場近くの小さなアパートへ引っ越したのだ。

車内では途切れることなく会話が続いた。海外の高校の話、現地の食事、授業の大変さ、片言ではあるが現地の言葉も覚えたそうだ。何より嬉しいことに、優太は以前よりよく笑うようになっていた。次から次へと自分の考えを言葉で伝えてくれる。

「ちゃんとやれてるみたいで安心した。」

「まあね。色々あるけど、なんとか。」

優太が窓の外を見ながら言う。

「母さんはちゃんと元気にしてた?」

「してたわよ。仕事も慣れたし。」

「無理してない?」

「してないしてない。」

そう答えると、優太はじっとこちらを見た。本当に大丈夫か確認しているらしい。その視線に私は少しだけ胸が熱くなる。気づけば心配される側になっていたようだ。

アパートへ到着すると、優太は部屋に入った瞬間大きく息を吐いた。

「ああ、やっぱり落ち着く。」

「狭いでしょ。」

「でもなんか安心する。」

スーツケースを置き、優太はソファーへどさっと腰を下ろす。見慣れたその姿に、ようやく優太が帰ってきたという実感が湧いた。

「お疲れ様。お茶でも飲む?」

「ありがとう。飲む。」

キッチンへ向かい、冷たい麦茶をグラスに注ぐ。その間も背後から優太の声が聞こえてきた。

「この部屋、母さんっぽい。」

「何それ?」

「ちゃんと片付いてるし、変に無理してない感じ。」

思わず苦笑する。昔の私は「きちんとした妻」でいようとしていつも気を張っていた。料理も掃除も完璧にしなければと自分を追い込んでいたのだけれど、今は違う。疲れている日は冷食を使うし、掃除を1日サボったところで誰かに文句を言われるわけでもない。私はグラスとお菓子をテーブルへ運ぶ。優太は懐かしそうにお菓子をつまみながら麦茶を一口飲んだ。

「うま。」

そのつぶやきがあまりにも自然で、私は笑ってしまった。

「ああ、そうだ。」

ふと思い出し、私は立ち上がる。キッチン横の棚。その一番奥。大事なものを入れている引き出しの中から、丁寧に保管していた封筒を取り出す。1年間、一度も開かなかった封筒。気にならなかったわけではない。むしろ何度も手にとっては中身を見たい衝動に駆られていたけれど、「戻るまで開けないで」といった優太の真剣な顔を思い出すたびに、私はその封筒を元の場所へ戻していたのだ。

私はソファーへ戻ると、優太の前に封筒を差し出した。

「これ、開けていい?」

優太は一瞬だけ封筒を見つめ、視線を落とす。1年という時間の重みを感じているのだろうか。やがて小さく頷く。

「うん。今なら大丈夫だと思う。とりあえず、驚くと思うから深呼吸して。」

「分かったわ。」

深く呼吸をすると、胸の高鳴りを感じた。そのまま私は慎重に封を開ける。中に入っていたのは想像していた手紙だけではなかった。何枚かの写真、折りたたまれた書類、そして小さなUSBメモリ。

「え?」

思わず戸惑いの声が漏れる。まず目に入ったのは写真だった。

「これ、何?」

絞り出した声が震えた。テーブルの上に並べられた写真には、見覚えのある週一の姿が映っている。しかも一人ではない。若い女性と腕を組み、楽しげに笑い、レストランへ入っていく姿。別の日には、ホテル街を歩く後ろ姿まであった。

日付を見た瞬間、背筋が冷たくなる。

「これ、移住する前…。」

優太は静かに頷いた。

「もっと前。多分、かなり長い。」

頭が真っ白になった。写真を持つ手が小さく震える。週一は離婚の時、「女として魅力を感じなくなった」「人生をやり直したい」などと好き勝手に言っていた。私はてっきり海外赴任を機に浮かれているだけだと思っていたのだ。けれど違った。彼はもっと前から裏切っていた。

私は震える指でUSBメモリを見つめる。

「これ、中に何が入ってるの?」

「父さんのデータ。」

「データ?」

優太は言いづらそうに視線を落とし、小さく息を吐いた。

「父さん、家のパソコンとスマホ同期してたんだ。しかもパスワード全部一緒だったから、見ようと思えば見れた。」

「え…。」

「最初は本当に偶然だったんだよ。大学の資料探そうとしてパソコン触った時、通知が出てきて。」

そこまで言うと優太は苦しそうに眉を寄せる。

「知らない女の人とのメッセージが見えた。」

私は何も言えなかった。優太はあの家でずっと見ていたのだ。父親が母親を馬鹿にし、自分だけが偉いと振る舞う態度。その上で浮気まで知ってしまった。

「最初は見間違いだと思いたかった。でも調べたら、いっぱい出てきた。写真も、ホテルの予約メールも、海外赴任先で女と住むつもりで探してたマンションの資料も。」

許せない。息が詰まる。つまり週一が離婚の話を切り出してきた時には、すでに次の女との生活を始める準備までしていたということだ。

「母さんが傷つくと思って、ずっと言えなかった。でも、もし離婚になった時母さんが不利になるのは嫌だと思って、全部保存してた。」

私は思わず口元を押さえた。優太は一体どれだけ一人で抱え込んでいたのだろう。まだ高校生だったのに。両親の空気を読み、父親を刺激しないように振る舞い、その裏で証拠を集めていたなんて。

「それなら、どうしてお父さんについて言ったの?」

ずっと聞けなかったことを、私はようやく口にした。優太はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。

「母さんだけ置いて行ったら、父さん絶対好き放題すると思ったから。僕が一緒にいれば、ちょっとは監視できるかなって。」

あまりにも予想外の答えだった。

「それに、母さんって優しいから、多分父さんに泣きつかれたら最後また許しちゃう気がした。」

そんなことを否定しようとして、言葉が止まる。確かに私は何度も我慢してきた。傷ついても見ないふりをした。家族を壊したくなくて。

「だから、ちゃんと終わらせたかった。」

責めるような響きは一切ない。ただ本当に家族のことを考えた末に出した結論なのだと分かる声だった。

「ごめんね。」

気づけば涙がこぼれていた。優太は慌てて首を振る。

「違うよ。母さんは悪くない。絶対に。」

「でも、あなたにこんな思いをさせた。」

「母さんを責めたことなんて、一回もないよ。」

その言葉に胸の奥がじわりと熱くなる。優太は照れくさそうに笑った。

「むしろ母さんはすごいと思ってた。ずっと働いて、家事して、僕のこと育てて。父さんは文句ばっかだったのに。言うだけだからさ。」

そう言って優太は私をまっすぐ見た。

「これからは、母さんが幸せになってよ。」

優しい言葉が心を溶かす。張り詰めていた糸が切れ、私は声を上げて泣いてしまった。情けないけど嬉しかった。だが、やはりこんなにも優しい子に長い間気を使わせ続けてしまったことが苦しい。優太は眉を下げて苦笑しつつ「だから泣かせるつもりじゃなかったのに」とティッシュを差し出してくる。私は涙を拭い、USBメモリを握りしめた。

「これ、全部残ってるのよね。」

「うん。バックアップもある。ホテルの履歴もある。相手の名前も、勤め先も、SNSも。」

そこまで調べていたことに驚いたが、同時に優太が本気で私を守ろうとしてくれていたのが伝わってくる。

「ありがとう、母さん。もう我慢するのやめるね。」

自分でも驚くほど静かな声だった。復讐で人生を燃やしたいわけではない。ただ、踏みにじられたままで終わるのは嫌だ。週一は私を見下していた。高卒で専業主婦だったから。自分が稼いでいる週一にとって、私は家事の道具のようなものだったのだろう。だから私は絶対に反撃できないと思っていたのだ。

甘く見ないでよ。

その日のうちに、私は弁護士事務所へ相談の予約を入れた。

数日後、週一を当てて緊急帰国した。待ち合わせのレストランの個室に現れた彼の顔は、怒りに歪んでいた。唇をわなわなと震わせて乱暴に椅子を引く。ガタンと大きな音が個室に響いた。廊下を通った店員が一瞬こちらを振り返ったが、週一はそんなことにも気づいていないようだった。

「お前、どういうことだよ。」

飛び込んできた勢いのままテーブルに両手をつき、顔を真っ赤にしてまくしたてる。かつての私なら、その迫力だけで萎縮していたと思う。機嫌を損ねたくないから怒りを収めようとしたはずだ。まず最初に考えるのはいつだって週一の機嫌だった。だが今は違う。私は静かにバッグを置き、目の前の週一を見上げた。

「久しぶり。」

「久しぶりじゃねえよ。」

ネクタイは緩み、体にはうっすら汗が浮かんでいる。空港からそのまま来たのだろうか。それとも向こうで何か揉めて慌てて飛んで帰ってきたのか。以前ならそんな週一を見て「大丈夫」と気遣っていたかもしれない。けれど今の私の胸にあるのは、冷えた静けさだけだった。

「落ち着いたら?」

「そんな悠長なこと言ってる場合か。お前、何考えてんだよ。」

「大きな声出さないで。周りに聞こえる。」

週一は渋々声を潜めた。個室とはいえ完全防音ではない。実際、隣の席の笑い声が一瞬止まった気がした。お茶を啜りながら週一はドカッと椅子に腰を下ろす。その動作にも苛立ちが滲んでいた。

「で、何が目的なんだよ。」

「目的?」

「とぼけんな。あんな写真送り付けてきやがって。今更慰謝料請求とかふざけんなよ。」

「ああ。」

私はスーツケースから封筒を取り出し、静かにテーブルへ置いた。中には優太が残してくれていた証拠写真のコピーが入っている。若い女性と肩を抱き合う週一。ホテルへ入っていく後ろ姿。海外赴任が決まるより前の日付。どれも婚姻関係中のものだったので、内容証明を付したのだ。

「これのこと?」

「そうだよ。」

「彼女に見られちゃった。」

週一の方がびっくりと跳ねる。分かりやすい。

「そ、それとこれは別だろ。」

「別じゃないわよ。」

私は淡々と言葉を返す。

「今のあなたが誰と付き合うが自由でも、この頃は違うでしょ。私たち、まだ夫婦だったもんね。言ってくれればよかったのに。離婚したい本当の理由は、他に女ができたからだって。」

週一はもごもごと口ごもり、目をそらした。その反応だけで十分だ。やはり離婚の原因は浮気だと確信した。週一本人も少しは後ろめたさがある。本当に悪いと思っていない人間は、もっと堂々と言い返す。「ただの友達だ」「誤解だ」などと。しかし週一は違った。強がっていても視線だけは泳いでいる。自分が不利なことをしていたと分かっているのだ。

「ねえ、この子にはどう説明してたの?」

週一は顔をしかめる。

「説明?」

「だって言ってた。独身ですって。」

「え、言ってねえよ。」

「じゃあ、既婚者ですけど付き合いましょうって正直に?それなら、彼女にも慰謝料を請求することになるけど。返答次第で、浮気相手の有責無責が決まるわ。」

途端に黙り込む週一。その沈黙が答えだろう。私は小さく息を吐いた。

「嘘ついてたのね。独身だって。」

「しょうがないだろ。ややこしくなるし。」

「ややこしくしてるのはあなたでしょ。」

週一は苛立たしげに水の入ったペットボトルを掴み、一気に飲み干した。その喉の動きを見ながら私はふと思う。週一は昔から都合が悪くなるとまず怒る。そして話をすり替え、相手が折れるまで不機嫌を撒き散らす。私は長い間、「夫婦だから仕方ない」と思い込んでいた。

「離婚したんだから、もう終わった話だろう。」

「終わってないから、慰謝料を請求してるの。」

「金かよ。」

「責任の話よ。」

週一は鼻で笑い足を組み直した。

「責任責任って。お前さ、そんなこと言うなら俺だってお前に我慢してきたんだけど。」

「我慢?」

「ああ。」

勢いを取り戻したのか、週一は身を乗り出した。

「女捨ててる感じとかさ。家ではいつも疲れた顔して色気もないし。会話したってつまんねえし。浮気されない努力すればよかったんじゃねえの。」

あまりにも自分勝手な責任転嫁だ。冷静になれば週一がどれだけ理不尽なことを言っているのか分かる。それでも昔の私なら、その指摘に傷ついて黙っていただろう。「お前のせいで、俺は浮気させられたんだよ。嫁が苦労したおばさんじゃ、嫌だろ。」

「そりゃ、疲れるでしょ。パートして、家事して、あなたの世話して、機嫌取って。そうやって生きてきたんだから。」

週一の表情が止まる。

「むしろ、なんで元気いっぱいでいられると思ってたの?綺麗でいて欲しいなら、少しは手伝ったらよかったじゃない。」

「あ…。」

自分に非がないと思っている分、本気で驚いているようだ。言い返されたことに目をぱちくりさせて戸惑う週一。私は淡々と心の底から問う。

「大体、あなた一度でも私を労わった?疲れを取ってやろうとか、笑顔が見たいから手伝おうとか。した?してないよね。おばさん化するの、当たり前でしょ。ま、私はあなたのためにと思って行動した。今思えば異常だったわ。愛か恐怖か分からないくらい。」

嘲るような口調ではない。だからこそ余計に刺さったのだろう。週一は口を開きかけて閉じた。

「まあ、あなたは私のことちっとも大事に思っていなかったみたいだけどね。私が熱を出しても『飯どうすんの?』だったし。典型的な自己愛の塊。」

「それは…。」

「専業主婦ならともかく、正社員になってからも全部私に押し付けたまま。最低なことに、疲れてる私を見て笑ってた。彼の馬鹿にしたような笑い声は、今でも耳に残っている。」

週一の視線が揺れる。それでも自分は頑張ってるのに、誰も感謝してくれないって、ずっと被害者ぶってたよね。

「だって…。」

「あなたは仕事だけしてればいいのになんでそんなに悲劇のヒロインになれるの?」

週一は言いかけた言葉を飲み込む。私はゆっくりと告げた。

「ねえ、あなた人生の中で、自分が悪いって思ったことある?」

週一は分かりやすく目をそらした。先ほどまであれだけ喚いていたのに、今、視線を探し求めるように泳がせている。

「でも、俺だってこの1年は大変だった。」

おろおろと口ごもる様子に、私はつい笑ってしまった。

「あら、家事は優太と彼女さんに押し付けてたって聞いたけど。」

「は?」

「ああ、違った。仕事の他に女遊びも忙しかったんだっけ?そりゃ疲れるわよね。もうあなたも若くないもの。むしろ、その年でまだ女遊びだなんて、正直引くわ。そっちの欲だけは人並み以上ね。」

週一の顔がびくりと引きつる。居心地が悪いのだろう。

「別に、あれは仕事の付き合いだ。」

「リカさんにも同じこと言える?」

その瞬間、週一の表情から血の気が引いた。目が見開かれ、喉がヒュッとなる。私はグラスを持ったまま週一を見つめた。

「どうしたの?なんでその名前?」

「そりゃ知ってるわよ。調べたもの。」

週一は完全に黙り込んだ。小動物のように背中を丸めて怯えている。私は内心、息を吐いた。

優太が渡してくれたUSBメモリの中には、想像以上のものが入っていた。メッセージの履歴から写真、ホテルの予約履歴、さらに海外赴任先でのマンション探しの履歴もあった。その中にはリカとのやり取りも大量に残されていた。

「『待たせてごめん。あっちに行ったら一緒になろう。息子も歓迎してくれてる。元嫁とは離婚が決まってないから安心して』…」

嘘まみれのセリフが並ぶ画面を見た時、怒りより先に情けなさが込み上げた。私に向ける言葉はいつも嫌みばかりだったくせに。外の女にはこんな優しいことを言えるのかと。

「さっきは言いかけたけど、リカさん、あなたが既婚者だったって知らなかったみたいね。独身だって言ってたんでしょ。かわいそうに。完全に騙されちゃって。」

「違う。ちゃんと離婚するつもりだったし。」

「何が違うの?あの時点では、私たちはまだ夫婦だったじゃない。本気で向き合ってたなら、離婚してから付き合うべきでしょ。」

週一はパクパクと口を開くが、うまく言葉にならないらしい。私は静かに続けた。

「しかも、優太まで口止めしてたなんて情けない。」

「それを…。」

「一緒に暮らすことになったから、あの最低限のマナーというか…。」

「母さんには言うなって。慰謝料が怖かっただけでしょ。あなた、ケチだものね。」

週一の眉がぴくりと動いた。

「高校生の息子に、どんな気持ちでそんなこと言ったの?浮気の口止めなんて、親として恥ずかしくなかった?」

「元々あいつが知ってたのが悪いんだよ。パソコン勝手に見やがって。クソ。」

呆れた。本当にこの人は自分の非を認めない。離婚する時、優太を引き取った理由の一つがこれだろう。浮気を知る息子を手元に置いておきたかったのだ。私にばらす内容を口止めするために。

「勝手に?フライパシーの侵害だろ。パソコンは自由に使っていい決まりだったはずよ。浮気してる側が、よくそんな偉そうに開き直れるわね。」

「だから、男には色々あるんだよ。」

都合が悪くなるたび「男だから」で片付けようとする。昔の私はこの理屈に押し切られていた。「男はそういうもの」「夫婦とは妻が我慢して当然」だと。でも今なら分かる。ただ単に週一は私に甘えていただけだったのだ。

「ねえ、優太がどうしてあなたについて行ったと思ってる?」

週一は軽そうに首をかしげた。

「は?そりゃ、父親だからだろう。俺を頼って。」

「あなたに頼れるところなんてあった?」

「おい、俺だって家族のために働いてたんだぞ。息子なりに、父親の頑張りを分かってたから、俺を信じたんだ。」

「違うわ。あなたを信用してたわけじゃない。あなたを一人にしたら、あなたがもっと好き放題すると思ったからよ。」

はっきりと口には出さなかったものの、優太は息子として父親にまだ希望を持っていたのかもしれない。だからこそ、どこか申し訳なさそうにしていた。

「優太、ずっとあなたのこと見てたのに気づかなかった。あなたが私を馬鹿にするところも、見下すところも、全部知ってたのよ。」

週一は何も言わず、苦しそうに顔を歪めている。

「なのに、あの子一度もあなたを正面から責めなかったでしょ?」

「そりゃ、俺が頑張ってることも知ってたから…。」

「そんなわけないじゃない。むしろ逆。あなたには言っても無駄だって思われてたのよね。父親として恥ずかしくないの?」

問いかけると、週一はついに耐えきれなくなったのか、ガシガシと頭をかいた。

「うるせえ。満足に金も出せねえくせに。だから優太はお前を選ばなかったんだろうが。」

思わず言葉を失ってしまった。図星だったからだ。私は優太の母親なのに、大学の学費を十分に出せていない。正社員になったとはいえ、離婚後の生活はギリギリだった。毎月の仕送りだって決して多くはない。だからこそ、週一の言葉は現実的で嫌になるほど重かった。

週一は私が黙ったのを見てさらに調子づく。

「結局な、愛情だけじゃ大学には行けないんだよ。生活だってできない。グダグダ言ってるけど、優太も分かってたから俺についてきたんだろ。お前、あいつに何してやれた?海外にも連れていけず、学費もまともに出せない。悪いけど、親としての格が違うんだよ。」

得意げに腕を組む週一。自分が優位に立てる話題になると、急に声が大きくなった。私は言い返せなかった。悔しい。でも現実として、優太の大学費用の大部分を負担しているのは週一なのだ。

「それは違う。」

その時だ。突然、廊下と個室を仕切っていたドアをくぐり、優太が現れた。驚く私の隣に、迷わず腰を下ろす。

「優太!なんでここに?」

彼がまだ日本にいるのは知っていたが、今日のことは話していない。

「父さんから連絡来てたから。今日母さんと会うって。」

自分の味方をしてもらおうとでも思っていたのだろうか。

「父さんてさ、本当に自分がいいと思ってるんだね。」

「は?なんだよ、急に。」

優太は感情を抑えた声で続けた。

「確かに学費は払ってもらってる。そこは感謝してるよ。」

「そりゃそうだろう。」

誇らしげに顎を上げる週一。

「でも、それだけじゃん。」

週一の笑みが止まった。同時に眉間に深い皺が刻まれる。

「母さんが毎日どれだけ働いてたか、父さん知らないでしょ。朝早く起きて弁当作って、仕事行って、帰ってきたら家事して。それでも僕の前では疲れた顔しないようにしてた。」

「優太、待って。」

「いいから。僕、言いたいことがあるんでしょ。」

「良くないよ。」

「父さんって、母さんが全部やって当たり前だと思ってたよね。」

攻めるような口調の優太に、週一は露骨に不機嫌な顔をした。

「僕が皿洗いしただけで嫌味言ったり、母さんが正社員になったら文句言ったり。何がそんなに気に入らないの?母さん、ずっと父さんに気を使ってたじゃん。」

「お前さ、母親に変なこと吹き込まれてない?」

「そういうとこだよ。」

「なんだと?」

「自分に都合悪いことあると、すぐ母さんのせいにするところ。」

週一のこめかみがぴくぴくと動く。私は慌てて間に入ろうとした。

「優太、もう大丈夫だから。」

「母さんは黙ってて。」

優太がこんなにはっきり言い返すのは初めてだった。週一も同じことを思ったのか、驚いたように目を見開いている。優太はテーブルの上のグラスを指先で軽く回しながら、淡々と言った。

「僕が父さんについて行ったの、父さんが好きだからだと思ってる?」

「ああ、俺に勝手に期待してたんだって。悪かったな。思い通りにならなくて。」

気味悪そうに笑う週一を見て、優太は顎を上げて笑った。その笑顔は冷たかった。

「違うって。母さんを自由にしたかったんだよ。」

「え?」

「僕がいたら、母さんはまた無理しちゃうから。」

その通りだと思う。優太のためなら、たとえ体調を崩していたとしても私は頑張ってしまう。

「だから、僕が父さん側に行けば、母さんがちゃんと自分の人生考えられるかなって思った。」

「なんだよ、それ。」

「あと、父さんって放っておくと調子乗るから。期待っていうより、見張り。」

優太はそこで言葉を切り、一瞬だけ視線を落とす。そして何事もなかったかのようにお茶を一口飲んだ。

「まあいいや。とにかく、もう全部バレてるんだし、せめて最後くらいかっこいいところ見せてよ。払うもの払ってさ。」

週一は苛立ったように舌打ちしたものの、それ以上は何も言い返さなかった。

「分かったよ。慰謝料だろ。払えばいいのか?いくらだよ。金ならいくらでもあるんだ。」

投げやりな口調だが、余裕のある言葉だ。まるで自分はまだ勝ち組なのだと見せつけるような、自信たっぷりの態度。週一は胸ポケットからスマホを取り出すと、慣れた手付きで画面を操作し始めた。

「こんな間だ。リカから投資に誘われてさらに儲けたしな。別にお前に数百万払ったところで、痛くも痒くもない。」

得意げに鼻を鳴らし、画面をスイスイとスクロールしていく。どうやらネット銀行の残高を確認しているらしい。ちらりと見えた数字は、確かに一般人からすればかなりの額だった。海外赴任で給料が上がったことに加え、本人なりには羽振りのいい生活を楽しんでいるのだろう。

「そう。太っ腹なのね。安心したわ。それじゃあ、慰謝料よりまず先に、優太の学費、卒業まで全部払ってもらっていい?」

「あ?」

週一の指が止まる。

「入学金と前期分だけじゃなくて、この先の授業料も生活費も、海外にいる間のサポートも含めて、きちんとお願いしたいの。なんなら、それが慰謝料の代わりでもいいわ。払ってくれたなら、今後はもうあなたに関わらない。リカさんにも連絡しない。」

週一はわずかに考えた後、頷いた。

「分かった分かった。今すぐ多めに振り込んでやるよ。お前がこの前教えてきた口座でいいよな。」

「ええ。」

金に余裕があるためか、きっぱりと払って私と縁を切ることを選んだようだ。週一はその場で金額を入力し始める。隣で見ていた優太がわずかに眉をひそめる。

「父さん、それ、ちゃんと見た方がいいんじゃないの。」

「金ならあるんだから。」

「金を払えば終わる」という単純な考えを持っているのだろう。先ほどよりも余裕を感じる。数秒後、週一はスマホをテーブルに置いた。

「ほら、送ったぞ。」

「ありがとう。」

本当に入金されているかは後で確認しなければ分からない。

「あとね、もう一つお願いがあるの。」

私はクリアファイルを取り出した。中には数枚の書類。

「なんだよ、それ。」

「後日『そんな約束してない』って言われたくないから、書面に残してほしいの。」

「あー、めんどくさ。」

ずらりと並ぶ難しい言葉の羅列に、週一は露骨に嫌そうな顔をする。

「読む時間くらいは待つわよ。」

「いや、いいや、別に。」

週一は書類をパラパラと雑にめくった。法律用語が並んでいるせいか、見るからに読む気を失っている。

「どうせ学費の負担についてだろ。」

「そうね。今後の養育費の内容とか振り込みについてとか、細かいことをまとめてもらったの。もちろん、それだけではないわ。弁護士と何度も相談して作った書類よ。曖昧な逃げ道が残らないように、かなり細かく条件を書いてある。」

だが週一はそこまで確認しなかった。

「はいはい。」

まるで会社の稟議書類にでもサインするかのように、ペンを走らせる。そして差し出していた書類を置き、ポンと軽い音が個室に響く。その瞬間、私は小さく息を吐いた。ようやくここまで来た。

その後、週一は椅子を乱暴に引いて立ち上がる。

「これでもう本当に他人だからな。一生関わらない。今後は連絡もしてくるな。もちろん、リカにも。」

最後まで偉そうな態度を崩さず、週一は捨て台詞を吐く。その横顔にはまだ余裕が残っていた。金もある、仕事も順調、若い恋人もいる。だから多少のお金くらい何の問題もない。そんなところだろうか。

「ええ、もう一生関わらないわ。安心して。」

週一は何も言わずに帰っていった。

静けさが戻った室内で、私は大きく息を吐いた。長時間張り詰めていたせいか、全身から力が抜けていく。優太もようやく肩の力を抜いたようだ。

「息子として、父さんの今後がちょっと心配だよ。」

「優しいのね、優太。」

あれだけ好き放題言われても、完全には見捨てられないらしい。優太は肩をすくめた。

「一応、父親だからね。ま、もう会うこともないだろうし、いっか。」

「そうね。」

私も頷く。ようやく長かった結婚生活に区切りがついた。これからはもっと穏やかに生きられるかもしれない。そんなことを考えていた。しかし、その予想はわずか1週間で裏切られることになる。

ある日の夜、仕事からアパートで一息ついていた時だった。テーブルの上に置いていたスマホが震える。画面に表示された名前を見て、私は眉をひそめた。週一だ。時計を見ると時刻は夜の11時過ぎ。

何?嫌な予感がした。無視してスマホを伏せる。だが、1分もしないうちにまた着信。さらに切れるとまたすぐ鳴る。一度止まったかと思えば、今度はメッセージ通知が立て続けに表示された。

「出ろ、まゆみ」「おい、無視するな」

短文ばかりだ。酔ってでもいるのか、それとも焦っているのか。文章から妙な苛立ちが伝わってくる。私は深くため息をついた。その間にも着信履歴がどんどん埋まっていく。こちらが出るまで永遠に鳴らし続けるつもりなのか。

仕方なく、しぶしぶ通話ボタンを押す。電話の向こうからは前置きなしに、週一の怒鳴り声が飛んできた。

「お前、どういうつもりだよ。」

できるだけ淡々と返す。すると電話の向こうで週一が苛立ったように舌打ちした。

「俺がこれだけ電話してんだぞ。普通かけ直すだろ。何のためのスマホだよ。」

「他人からの電話にわざわざかけ直す必要なんてないでしょ。」

「へえ。」

「そもそも、今後は一生関わらないって言ったの、そっちじゃない。私に過去の発言を突きつけられて、週一は一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに開き直ったような声を出す。

「だから、緊急時は別だろ。今そんな言い合いしてる場合じゃないんだよ。」

どうやら本当に余裕がないらしい。以前の週一なら、まず自分の非を認めない。もっと回りくどく、自分が被害者のように話を進めていたはずだ。それが今は最初から取り乱している。スマホ越しにも呼吸が荒いのが分かった。

「何があったの?」

尋ねると、週一は待ってましたとばかりにまくし立てた。

「金がなくなったんだよ。」

「は?」

思わず聞き返す。ついこの前まで「数百万払ったところで痛くも痒くもない」と豪語していた男とは思えない台詞だ。

「だから、投資が全部詐欺だったんだよ。」

「詐欺?」

「リカの知り合いが紹介してきたやつで、絶対儲かるって。海外の事業がどうとか、AIがどうとか。とにかく元本保証だから安心だって。」

早口で説明する週一。だが、内容は聞けば聞くほど怪しかった。

「最初はちゃんと利益も入ってきてたんだよ。だから信用して、追加でどんどん入れて。」

「いくら?」

電話の向こうが静かになる。数秒の沈黙を経て、絞り出すような声が返ってきた。

「あり金、ほとんど全部。貯金も、退職金用に積み立ててた分も。あと、ちょっと借金も。」

なるほど、それでこんなに取り乱しているのか。週一はさらに続ける。

「しかも、リカのやつ、金なくなった途端連絡取れなくなって、部屋も引き払ってて。」

「それはおかしいでしょ。普通、恋人なら支えるもんだろ。俺、結婚の話までしてたんだぞ。」

あまりに身勝手な気分に、言葉が出なかった。自分は婚姻中に浮気していて、私には平気で「女として魅力がない」と言い放った。その癖、自分が騙されるとなると「普通、恋人なら支える」と言い出す神経を、私は理解できない。

週一は半ば叫ぶように続ける。

「とにかくやばいんだよ。会社にもバレそうで、このままだと海外勤務どころじゃなくなるかもしれない。」

「それで…。」

「なんでそれを私に言うの?」

その瞬間、週一が黙った。しばらくして、気まずそうに咳払いする音が聞こえる。

「いや、その、一応元夫婦だし。お前、貯金とかあるだろ。」

要するに、リカにまんまと騙された週一のために、私に援助しろという話らしい。スマホを持つ手に力が入る。つい数週間前まで私を見下し、「一生関わらない」と言っていた男が、今になって泣きついてきている。

「残念だけど、他人に渡すお金はないわ。」

冷静に返すと、週一はすぐに声を荒げた。

「はあ?金をやったのに、理不尽も程があるだろう。」

「『やった』って言い方やめて。恩着せがましい。親として当たり前だって、自分で言ってたじゃない。優太の学費を払うのは当然でしょ。」

「そ、それは…。」

「それにあのお金の一部は、私への慰謝料。あなたが『恵んでくれた』わけじゃない。あなたが自分のしたことに対して払った、償いのお金よ。」

私はゆっくり言葉を区切った。週一が振り込んだ額は確かに相場よりかなり多かったけれど、週一が強がった結果だ。その場の勢いで自分で決めた金額。今更返せと言われても、納得できるはずがない。

電話の向こうで週一が苦しそうに息を吐く。

「で、でも、俺本当にやばいんだよ。会社も首になりそうで。」

「会社に何があったの?」

すると週一は急に歯切れが悪くなった。先ほどまで怒鳴っていたくせに、今度は妙に声が小さい。

「その、経費の一部をちょっと誤魔化したっていうか。」

「誤魔化した?」

「いや、横領とか大げさな話じゃないんだ。ただ、接待費とかを少し多めに申請しただけで…。」

おそらくバレないのをいいことに、どんどん好き放題やっていったのだろう。それで首。

「あと、ちょっと社内で問題が起きたり。」

言葉を濁す週一に、私は嫌な予感を覚えた。

「女性問題?」

電話の向こうがぴたりと静かになる。その沈黙だけで十分だった。

「図星なのね。」

「違う。いや、多少誤解されるようなことあったかもしれないけど。」

「リカさん以外にも…。返事はないけど、黙ってても分かるわよ。」

週一は観念したように、ため息交じりに言った。

「海外って、日本より距離近いんだよ。だから、その、ちょっと食事行ったり、飲みに行ったりしただけで…。」

「何人?」

「…2人。」

私は思わず額を押さえた。離婚しても変わらない。むしろ自由になったことで、さらに悪化している。

週一は必死に続ける。

「でも会社の奴らがおかしいんだって。ちょっと女と仲良くしたくらいで、ハラスメントだのコンプラ違反だの大騒ぎしやがって。」

「その言い方してる時点で、反省してないよね。」

「俺は悪くない。向こうだって乗り気だったんだよ。」

どこかで聞いたような台詞だ。結婚前に浮気疑惑が発覚した時も、週一は同じように言い訳していた。「向こうから誘ってきたから」だと釈明する。最後には「男なら浮気くらい普通だ」と開き直った。結局、この人はずっと変わらなかったのだ。

「ねえ、週一。」

「な、なんだよ。」

「あなた、自分がどうしてこうなったか、本当に分かってないのね。」

その瞬間、電話の向こうで週一が黙り込んだ。人間は成長する生き物だ。間違ったことをしても、反省して学んで、少しずつ変わっていける。私だって、昔は週一の顔色を伺って自分の意見を飲み込んできた。波風を立てないことだけを考えて、嫌なことを言われても笑って流していた。でも、優太のために働き始めて、離婚して、一人で生活し始めて、ようやく自分の人生を自分で考えられるようになった気がする。だからこそ、余計に分かる。週一はそもそも変わる気がないのだ。

「俺がこうなったのは…」

「運が悪かったとか、そういうことじゃない。」

電話の向こうで週一は苦り切ったように吐き捨てる。

「そうだよ。まさかリカがあんなやつだったなんて。クソ。完全に騙された。」

呆きれた。

「俺だって被害者なんだよ。真面目に金出したのに、全部持ち逃げされてさ。」

思わず笑いそうになった。「被害者」なんて言葉が、よく出てくるものだ。自分は婚姻中に浮気して平然と嘘をつき、離婚するまで二股を続けていたくせに。リカには独身だといつだって近づいた。都合のいいことばかり並べて、相手を信用させた。私に対してもそうだ。「家族のため」だと綺麗事を並べながら、実際にはずっと自分のことしか考えていなかった。

それなのに、今自分が騙される側になった途端、こんなにも被害者ぶれるのだから驚く。

「自分はリカさんを騙してたのに、被害者面?」

「そ、それとこれとは違うだろう。」

「私にとってはさほど変わらない。何が違うの?」

「俺はちゃんと責任取ってただろ。金だって払ったし。」

「払わされたの間違いじゃない。」

週一が息を飲む音が聞こえた。私は続ける。

「前にも聞いたけど、あなた、自分が悪いって、本気で思ったことはある?浮気した時も、離婚した時も、今だってそう。全部誰かのせいにしてる。リカに騙された。勘が悪かった。女が悪かった。週一の口から出てくるのは、そんな言葉ばかりだ。」

「でもね、週一。あなたが今苦しいのって、全部自分で選んだ結果なの。」

「違う。俺はただ、幸せになりたかっただけで。」

「みんなそうよ。家族で笑って暮らしたい。優太が安心して帰れる家を守りたい。でも、そのために誰かを踏みつけたり、嘘をついたりはしなかった。」

週一は小さく舌打ちした。

「お前、変わったよな。」

「そうかもね。」

昔の私なら、ここで週一を慰めていたかもしれない。「きっと大変だったね」「私にできることある?」と言っていた。でも今は違う。私はようやく分かったのだ。助ける価値のある人と、助けても変わらない人は違うのだと。

「とにかく、私はあなたに一円だって渡す気はない。あのお金は優太のためのお金だから。もちろん、あなたを助けるつもりもないわ。」

電話の向こうで、週一が焦ったような声を出す。

「あ、お前、いいのか?優太の親権はまだ俺の手にあるんだぞ。」

「優太はもう18歳よ。」

「それがどうした?まだ高校卒業したばっかだろ。どうせお前がうまいこと言って、俺から引き離そうとしてるんじゃないのか。」

声は大きいのに、焦っているようにも聞こえる。私は思わず眉をひそめた。もう優太は小さな子供ではないのだ。自分で考え、自分で選べる年齢になっていることを、週一は分かっていない。

「週一、18歳は成人扱いなの。親権はもう消滅してるはずよ。」

「は?そんなわけない。20歳までは俺の管理下だろう。」

「成人年齢の引き下げのニュースは、散々やってたわよ。」

それなのに週一は、興味のないことは何ひとつ覚えていない。先日の書類もそうだ。内容をろくに読まず、めんどくさそうにサインと判子だけ済ませていた。契約関係を甘く見ているのか、あるいは「自分だけは損をしない」と本気で思っているのか。

「そもそも、優太はあなたのものじゃないのよ。あなたが俺のものだみたいに扱うのは、おかしいでしょ。」

「親なんだから当たり前だろ。」

「当たり前じゃないわ。」

私が静かに言い返すと、週一は一瞬黙った。

「優太は自分の意思であなたについて行ったの。あなたに従ったわけじゃない。」

「でも…。」

「それに、あなた忘れてるみたいだけど、優太はもう、あなたが怒ったからと言って全部言うことを聞く年齢じゃない。」

「じゃあ、何かあいつも俺を見捨てるってのか。」

また「見捨てる」だ。親を都合のいいように扱う言い方をするものだ。

「見捨てるかどうかは、優太が決めることよ。」

スマホ越しに、ガタンと大きな音がした。苛立って机でも蹴ったのだろうか。

「クソ。なんなんだよ。みんなして…。」

「あなたが自分でそうしたの。」

「俺ばっか悪者みたいに言うなよ。」

「実際そうでしょ。」

思ったよりずっと冷静な声が出た。私はもう、彼の機嫌を取る必要も、怯える必要もないのだ。

「まゆみ、お前、変わったな。」

「ええ、変わったわ。あなたと離婚してから、ちゃんと前を向けるようになったから。正しい選択をしたと思う。」

「それに優太はもう、自分で判断できる年齢よ。誰と関わるかも、どこで暮らすかも。あなたが決めることじゃない。」

「だ、でも、俺は父親だぞ。」

「父親なら、脅しみたいなこと言わないで。」

電話の向こうで、週一はしばらく黙り込んだ。

「優太は、なんて言ってるんだよ。」

「知りたいなら、自分で聞けばいいでしょ。」

「連絡しても、出ないんだよ。」

思わずため息が漏れた。優太はきっと、自分なりに答えを出したんだろう。父親として尊敬できなくなった相手と、無理に関係を続ける必要はないと。

「優太を責めないで。いい加減、放してあげて。あの子、ずっと気を使ってたのよ。」

「俺に?」

「私にも、あなたにも。だから、海外について行ったんでしょうね。自分がいれば、少しはあなたがちゃんとすると思って。実際、優太はずっと耐えてた。でも、限界だったのよ。」

電話口から聞こえてくる呼吸は荒い。焦りなのか、怒りなのか、それとも悔しさなのか。ただ一つ分かるのは、もう誰も週一を支えてくれないということ。リカにも逃げられ、会社でも問題を起こし、優太にも距離を置かれた。それでもなお、彼は自分の非を認めきれていない。

「もう電話切るわね。」

「わ、待って。まゆみ。俺、どうしたらいいと思う?」

その言葉に、私は少し驚いた。結婚していた頃の週一なら、絶対に口にしなかった言葉だ。プライドが高く、自分が弱っているところなど見せない人だったから。けれど、私はもう彼の人生を支える立場ではない。

「自分で考えて。ま、今まで散々人を見下してきたんだから、これからは自分一人で頑張るしかないんじゃない。」

それだけ言って、私は通話を切った。

週一の状況は、その後、坂道を転がり落ちるように悪化していったそうだ。まず、会社での立場を完全に失った。経費の不正利用は想像以上に問題視され、さらに赴任先での女性関係も社内で噂になっていたらしい。以前から横柄な態度を取っていたこともあり、かばってくれる同僚はいなかった。結果、週一は海外支店から外され減給。その後、間もなく自主退職という形で会社を去ることになったとか。当然、以前のような高収入ではなくなる。40代後半のバツイチ男性、再就職できるかすら危うい。先のことを考えれば、出費を抑えて節約すべきだろう。けれど、長年「自分はエリートだ」と言い続けてきた週一は、生活レベルを落とせなかった。これまでの自慢の生活スタイルに、すっかり慣れてしまったのだ。見栄を張って家賃の高い家に住み続け、ブランド品も手放せない。そのくせ、再就職はプライドが邪魔して決まらない。気づけば、貯金はどんどん減っていった。

頼りにしていたリカとは、もちろん完全に破局。投資話で週一から金を引き出した後、別の男性のところへ行ったらしい。最後は連絡すら取れず、完全に逃げられたそうだ。とにかく誰かに助けてもらいたかったのだろう。週一は何度か優太にも連絡していた。しかし優太は最低限の返答に抑え、必要以上に踏み込むことを避けた。父親だからという情も、わざわざリスクを背負うほどではなかったのだろう。賢明な判断だと思う。結局、リカには慰謝料は請求していない。行方不明なのもあるし、既婚者だと知らなかったのなら、訴えるのも無駄だからだ。

一方の私は、正社員として忙しく働きながらも、穏やかな毎日を送っていた。誰かの顔色を伺わずに済む。理不尽に責められず、食事中に嫌味を言われない。小さな部屋なのに、心は広々としていた。休日には観葉植物に水をやったり、好きなドラマを見たり、たまにはスーパーでちょっと高いスイーツを買って自分へのご褒美にしたり。そんな穏やかな時間を「幸せだな」と思えるようになった。毎日はこんなにも平和なのだと思い知った。

そして何より、優太の存在が大きい。優太は希望の大学へ進学し、現在は一人暮らしをしている。大学生活は忙しそうだが、昔の週一と違って、どれだけ疲れていても周囲への感謝を忘れない。いい子に育ってくれて、嬉しい限りだ。

「母さん、この前教えてもらった肉じゃが作ったよ。」

「え、本当に?写真を送って。」

送られてきた写真には、少し部格好ながらも美味しそうな肉じゃがが映っていた。

「すごい。ちゃんとできてる。」

「母さんのよりはまだまだだけどね。」

そんなやり取りをするたび、胸がいっぱいになる。ちなみに、進学先はなんと日本。お互い一人暮らしで同居はしていないが、定期的に連絡は取れているので安心だ。

「母さん、ちゃんと休んでる?」

「休んでるわよ。そっちこそ無理してない?」

そんな何気ない会話が、今の私には何より幸せだった。人生は自分の選択の積み重ねだ。見下し続けた週一は、欲望のままに生きて全てを失った。小さくても穏やかな幸せを選んだ私と優太は、数年後もきっと笑っている。間違いなく、私たち親子の勝ちだ。

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