「これ、退職届け80人分。骨だけの女はみんな無理って」…

「これ、退職届け80人分。骨だけの女はみんな無理って」...

「これ、退職届け80人分。骨だけの女はみんな無理って」

え? 慌てて封筒を一つ一つ確認する。確かにそれは退職届けだった。

「会社を潰したくなければ、即刻副社長を社長に指名しなさい。そうすれば俺たち2人で社員を説得してあげますから。新社長とは違い、俺たちには人望があるからな」

2人はこうやって騙せば私が泣いてすがりつくと確信しているのだろう。しかし私は無表情のまま書類を眺めた。

その翌日のこと。会社に出社した途端、社員が慌てふためきながら土下座した。皆、口々に「この会社に残りたい」と訴える。彼らを無視して私は社長室へと向かった。すると次は西島と村田が駆け込んでくる。

「社長、昨日は大変失礼しました」

真っ青な顔で土下座する2人。彼らが考えを変えた理由は察している。

「どうせ新聞を見て自分たちの言動に後悔したんですよね」

そう告げると2人は目を泳がせた。

私は森岡強化。精密部品メーカーの経営企画部で働く41歳だ。この会社はかつて祖父が立ち上げ、現在は父が社長を務めている。主な事業内容は自動車や航空機向けの部品製造だ。

私は昨年まで別の会社に勤務していた。父の元で働くとなると、周囲からは「コネ入社」だと思われる。「社長の娘だから」と色眼鏡で見られる可能性が高かった。それを恐れ、自分の実力でキャリアを築くと決めたのだ。

就活時、最初は私の考えに戸惑っていた両親も、話し合いの末納得してくれた。

「強化なりに自分で頑張りたいんだろう。素晴らしいじゃないか。お前ならきっと大丈夫だ。応援している」

「お父さん、ありがとう」

その後は希望していた会社に就職し、私は順調に経験を積んでいた。しかし、仕事を通じて徐々に気持ちが変わっていく。私は父の会社と近しい業界で働いていたのだが、日本の精密加工技術のレベルの高さに驚かされることが多々あった。繊細かつ緻密で、世界的にも高い評価を得ている。そんな技術をもっと広められたらと思うようになったのだ。

「私なら父の会社の職人たちの技術をどう売り込むか」

今も経営状況は悪くないものの、もっと伸びてもおかしくない。これまで培ってきた経験をもとに、私が会社のためにできることがあるのではないか。気づけばそんなことまで考えるようになっていた。

そして父にどう切り出そうか悩んでいたある日、転職を決意する出来事が起きる。母が病気で亡くなったのだ。彼女を失ったことをきっかけに自分の将来について考え直した父から、「うちの会社に来ないか」と提案を受けた。

「教科には自分で選んだ道を歩んで欲しいという思いもある。だが、お前が一緒に働いてくれたら俺も安心できるんだ」

父は昔から仕事熱心で真面目な性格。何があろうと弱音を吐くことはなかった。そんな強い彼がここまで弱るなんて。私は転職を考えていたことを告白し、父の会社に就職すると決めた。

「今までお父さんは私がやりたいことを応援してくれた。だから次は私がお父さんの力になりたい」

「ありがとう。強化ならきっとうちでも活躍してくれるだろう。期待している」

ほっとしたのか、父が表情を明るくする。彼の期待に答え、会社をさらに発展させたい。その一心で私は40歳という節目で精密部品メーカーに転職したのだった。

そして今、前職の経験を生かし、経営企画部で野心を胸に邁進している。ただ、私は本社にいるわけではない。できるだけ現場に足を運び、自分の目で品質チェックや改善に取り組んでいる。

「おはようございます。今日のラインの稼働状況はどうですか?」

「問題ありません。強化さんは現場の声をよく聞いてくれるから助かってますよ」

私の問いかけに歯を見せて笑う大野。彼は工場長で優秀な職人だ。父からの信頼も厚く、他の社員からも慕われている。大野は現場の状況を全て把握しているため、私としても頼りになる存在だ。

「また何かあったらすぐにご報告ください。こちらも即座に対応しますので」

その後、私は他の職人にも声をかけ、現場の進捗率や不良率などを確認した。今回も計画通りに進んでおり、ほっと胸を撫で下ろす。私は大野だけでなく、他の職人ともいい関係を築こうとこまめにコミュニケーションを取るようにしている。とはいえ、まだ職人らの信頼を勝ち取ったとは言いがたい。「コネ入社の社長令嬢に何ができるんだ」と私を疑いの目で見る社員もいるのだ。だからこそ現場を見て回り、具体的な経営方針や計画を決めていった。信頼してもらうには仕事で成果を出すしかない。必ずやいつか職人らにも認めてもらい、父の後を継ぎたいと考えていた。

「今日は仕事には慣れてきたか」

父は私を心配してか、時折声をかけてくれる。厳しい指導を受けることもあるが、彼の目はいつだって優しい。

「机上の空論だけでは経営は成り立たない。今後も現場を大切にするのを忘れるなよ」

「もちろん。現場の職人さんからも色々なことを学んで生かしていこうと思う」

「その意気だ。頑張れよ」

祖父の代から働いている職人も皆、父を認めている。それだけ経営者として優秀なのだろう。私は父の背中を追いかけ、毎日懸命に仕事をこなしていた。

だが、私が現場を歩き回ることをよく思っていない社員もいる。

「森岡さん、今日もまた工場に遊びに行ってたんですか? そんなに現場が好きなら工場で働けばいいのに」

副社長の西島翔吾が口元を歪める。彼は私にだけ聞こえる声量で呟いた。

「社長の真似なんてしたって無駄ですよ。あなたは社長ほど職人たちに好かれてませんから」

どうも西島は私がコネを使って転職したと思っている。長年父の会社で働いてきた彼からすれば、突然現れた社長令嬢が出しゃばってきて不快なのだろう。私が入社した時から西島は明らかな敵意を向け出していた。

「副社長、これからよろしくお願いいたします」

「悪いですけど、俺はあなたを認めてませんから。こんな女を会社に入れるなんて、社長も何を考えているんだか」

ブツブツと不満をもらし、嫌味を言う。西島は副社長ゆえに、ゆくゆくは自分が社長になると考えていた。実際、仕事においては優秀で、西島が次期社長だと噂する人もいるほど。ただ、私が入社したことで彼の将来設計が狂ったようだ。

「社長からどう聞いてるか分かりませんが、娘だからって簡単に後を継げるとは思わないでください」

西島はその後、私を見かけるたびにストレスを発散するかのごとく侮辱してきた。悪口を言われるだけならまだいいけれど、彼は私の仕事までも妨害してくる。

「何ですか、この提案書。まともなものを出してください。これだからコネ入社の社員は嫌なんだよ」

ある日、書類を手にこれ見よがしにため息をついた西島。彼が持っていたのは私が作成した業務改善提案書だった。目を通した結果、こんなものは採用できないと考えたらしい。

「私なりに現場の社員たちの声を聞いて作成したものです。どこに問題があったか、具体的に教えていただいてもいいですか?」

私は問題のある箇所を指摘してもらい、修正したかった。しかし西島は不満げな顔をしたまま書類を破棄する。

「ダメなところ? そんなの全部だよ。あなたみたいな素人が考えた提案なんて採用するはずがない」

「その説明では私も納得できません」

「一社員が副社長に逆らうんですか? 社長の娘だからと言ってあなたが偉いわけではないんですよ。ご自身の立場をもう少し理解した方がいいかと」

私は何も彼に逆らったつもりではない。ただ満足のいく説明をしてもらいたかっただけだ。それなのに西島は私の話に耳を貸さず、自分の業務に戻った。提案をどれだけ作成しても、彼に握りつぶされてしまう。

するとその2週間後、西島はなんと私が作成した提案書を自分の名前で提出した。

「この資料通りに改善すれば、コストの削減と時間短縮が見込めるはずだ」

得意げに語る彼を見て、思わず胸がざわつく。内容を見るに、どう考えても私が書いたものだ。修正されてはいるものの、前回出した時と大差はない。

「あの時は全部ダメだと言って処分したくせに。副社長、一体どういうことですか?」

私は配られていた資料を手に西島へと詰め寄った。彼は悪びれることもなく、不思議そうに首をかしげる。

「森岡さん、どうされました? やけに慌ててますけど」

「この提案書、私が作成したものですよね。なんで副社長が提出してるんですか? 説明してください」

「へえ、何を言ってるんですか?」

声を荒げる私に、西島が腹を抱えて爆笑する。頬は緩み、目には涙が浮かんでいた。おかしくてしょうがないといった様子だ。

「その提案書を作ったのが森岡さん? 嘘を言うのはやめてください。作成したのは俺ですよ」

「そちらこそ嘘をつかないでください。あの時作成した資料は副社長だけでなく、他の社員にも見てもらっています。彼らに尋ねたら」

「そりゃ社長令嬢ならみんな味方になるかもしれませんね。情けない。父親の威光で他人の手柄を横取りするなんて」

西島は呆れたように頭を抱える。私が抗議しづらい状況を作ろうとしているに違いない。すると彼の背後から1人の社員が声をあげた。

「森岡さん、感心しませんね。副社長に盾つくなんて。そうまでして社長の座を奪いたいんですか?」

彼は村田浩司。うちの会社の経理部長だ。村田は以前から西島に媚びへつらっており、一緒になって私を貶めている。今回もいつものように西島の味方となった。

「副社長は会社をより良くするために改善案を提出したんです。大して森岡さんは社長になることしか頭にない。そんな人が提案した改善案なんて採用されるはずがないでしょう」

「副社長が提出した提案書こそ、私が作成したものなんです。手柄を横取りしたのは副社長の方で」

「証拠はありますか? 社員らの証言ではなく、物的な証拠。それこそ森岡さんが以前作成した提案書、見せてくださいよ」

村田が私に向かって手を差し出し、書類を要求する。しかし前回の提案書は西島が廃棄してしまった。現在作成している改善案も内容が変わっており、以前と同じものではない。それを出したところで「こじつけだ」と言われるだろう。私が口をつむると、西島が目を細めた。

「証拠もないのに俺につっかかってきたんですか? 森岡さん、もう言いません。もっと身の振り方を考えたらどうです? 社長に執着しなくても働けるんですから。職人から好感度をあげようとわざとらしく現場に行ってるのも分かってます。そんなのが通用すると思ってるのが女って感じですね」

2人は顔を見合わせて私を嘲笑する。周囲にいた社員は異変を察したのか、視線をそらした。面倒ごとに関わりたくないのだろう。私は抗議するのを諦め、席に戻った。

西島も村田もこの会社では古参社員であり、役職も上だ。しかも社員は皆、私よりも彼らとの付き合いの方が長い。助けてくれる同僚などいないと分かっていたものの、無力感を覚えた。西島はきっと私をこの会社から追いやろうと考えている。彼は機会あるごとに社員らの前で私を馬鹿にしてきた。

「先日、新たに契約できたのは俺の人脈のおかげなんだ。どこぞの新人には到底務まなかった新規だろうな」

先月、うちの工場はとある大手企業との契約が成立した。その企業の役員に話を持ちかけたのが西島だったらしい。契約したのは営業部の社員だが、西島は自分の手柄だと自慢げに語る。彼の視線がこちらに向いているため、口にした「どこぞの新人」とは私のことだろう。

「偉そうに計画を練って職人たちに指示を出してるようだが、その結果、会社に何か利益をもたらしたのか」

西島が周囲に聞こえないよう私の耳元で囁いた。とはいえ、彼の声は社員らにも届いている。皆、気まずそうに目をそらして何も言わない。そんな中、村田だけは西島を持ち上げる。

「やっぱり副社長はすごいお方ですね。口だけの社員とは大違いですよ。皆さんも副社長を見習って、会社のために貢献してくださいね」

彼もまた私を見て嘲笑した。村田は西島が次期社長になると踏んでいる。だから媚びを売っておいて、後々会社での自分の地位を高めたいのだろう。そうなると邪魔なのが私の存在だ。

先日、休憩室の前を通りかかった瞬間、偶然耳にしたのだが、村田は若手社員を相手に私の陰口を叩いていた。

「森岡さんは父親が社長であることを傘に着てる。だから平然と仕事をサボるし、何をやっても無能だし。彼女を持ち上げるこっちの身にもなってほしいよ」

下品な笑い声と共に饒舌に語る村田の声が響く。彼はあることないこと話した上で、西島がどれほど素晴らしい人かを述べた。

「副社長だけは森岡さんにもちゃんと注意するんだ。あの人がいなくなったらうちは終わりだろう。なんせ社長が娘を最優先に考えてるんだから」

思わず口を挟みたくなったが、今ここで反論しても意味がない。若手社員は村田の話を信じ、素直に頷いていた。とはいえ、父のことまで侮辱されると腹が立つ。私はその後、村田が1人でいる時を狙って声をかけた。

「私のことを悪く言うのは構いませんが、父のことは否定しないでください。村田部長も社長の人柄は知ってますよね」

「昼間の話は聞いてたんですか?」

彼は途端に顔を歪める。

「そうやって善人ぶったところで、俺が森岡さんを認めることはありませんよ。それに社長があなたのことをやけに気にかけているのは事実じゃないですか」

「他の社員とさほど変わらない対応だと思います。入社してまだ1年なので、心配もあるのかと」

確かに、社内で顔を合わせるたび父が声をかけてくれるのは事実だ。現状を聞いてもらい、悩みがあれば相談することもある。でもそれは娘だからではなく、新人社員として気遣ってくれているだけだ。父は家族だからと言ってえこひいきするような人ではない。

「今後、私も仕事に慣れれば、社長と個別で会話することは減っていくと思います。ですので、変な誤解はやめてください」

私は村田に分かってもらおうと懸命に訴えた。しかし彼は納得しない。

「被害者ぶりたいなら勝手にどうぞ。俺は誤解しているのではなく、事実を語っているだけなので。愚痴を言われてるのは自分のせいだってこと、分かってくださいよ」

村田は肩を落とし、白い目でこちらを見る。まるで私の言動に問題があるかのような言い草だった。

「言っておきますが、森岡さんの愚痴を言ってるのは俺だけじゃないですからね。本社の社員や現場の職人。みんなあなたが目障りなんですから」

もちろん、私だって全社員に好かれているとは思っていない。社長の娘ゆえに、複数人の社員から敬遠されている自覚はある。だとしても、その事実を突きつけられて即座に言い返す気力はなかった。

「嫌われたくないなら、大人しく自分の仕事だけしてたらどうですか? せめて現場に足しげく通って職人の邪魔するのはやめた方がいいかと」

「邪魔してるわけではありません。私は現場の状況を把握したくて」

「そういうところが反感買ってる理由ですよ。仕事してますアピールでしょうけど、みんな迷惑ですから」

村田はせせら笑うと、足早に去っていく。1人残された私は、自分のこれまでの言動を振り返った。職人たちは皆、話してくれていたが、内心私を疎ましく思っていたのだろうか。絶対に違うと言いきれない自分がいた。私が社長令嬢だから、みんな気を使っていた可能性がある。現場を大事にしたいという考えは、1人よがりのものだったかもしれない。私は途端に自信をなくし、どうすれば社員に迷惑がかからないか改めて試行するようになった。

そんな中、社員から距離を置かれていることに気がつく。以前は昼休憩、同僚がランチに誘ってくれることもあった。しかし最近は誰からも声をかけてもらえないのだ。私から提案しても断られるばかり。休憩に入った瞬間、みんなが示し合わせたかのように席を離れ、私を置いていく。先日の村田の言葉を思い出し、胸が締めつけられた。私の言動が原因で同僚からも嫌われているのかもしれない。

時には彼らが「あの人、ずっと独身なんだって」「そりゃ結婚できないよ。あんな人」とひそひそ話す声も聞こえた。その言葉が突き刺さる。確かに私は独身だ。前職の時から仕事に夢中で、恋愛経験もさほどない。結婚願望が希薄だったため、これまで1人で生きてきたけれど、それを後悔したことはない。私の人生、自分がやりたいことをしようと決めていたのだ。しかし周囲から見れば、結婚しなかったのではなく、できなかった人間だと思われる。社員から白い目を向けられ、私はただ静かに俯いた。居た堪れない気持ちでいっぱいになる。

後々分かったことだが、私が同僚から避けられていたのは、村田が流した噂が原因だった。

「森岡さんと関わるとロクなことにならないぞ。彼女には敵が多い。森岡さんの味方だと思われたら、他の社員に目をつけられるからな」

そう言って近づかないよう忠告していたという。私を孤立させ、裏で笑っていたに違いない。事実を知った際、腸が煮えくり返る思いだった。どうして私がここまで追い詰められないといけないのか。一瞬、父に相談しようかとも考えた。ただ、社員らとは休憩中会話がないだけで、業務上必要なことはちゃんと報告してもらっている。特段、仕事に支障があるわけではない。何より父を頼れば、西島や村田の思うつぼだろう。彼らはまた「社長の娘がコネを使った」と騒ぐに決まっている。そこで父には現状を黙っておくことにした。些細な嫌がらせくらい自分で乗り越えないと、彼のようにはなれない。それに相談なんてすれば、父は絶対に私を心配する。仕事以外で彼を悩ませることに抵抗があった。平然と過ごしていれば、西島も村田も嫌がらせをやめるだろう。私はそう考え、変わらず仕事に打ち込むことにした。

だが、そんなある日のこと、私がこれまで推進してきた計画に動きが現れる。交渉していたとある大企業が、うちの会社との契約にとうとう前向きになったのだ。成立すれば大型契約になることは間違いない。私は慎重に話を進め、必ず成果を出そうと心に決めた。だが西島はそれが気に食わないのだろう。彼は突然、自分も同行すると言い出した。

「会社のためにも、副社長である俺が一緒に行った方がいいでしょう。ほら、資料見せてください」

私が持っていた資料に手を伸ばし、奪い取る。嫌な予感がして、とっさに拒んでしまう。

「副社長の気持ちはありがたいですが、この提案に関してはずっと専務に同行してもらっています。ですので、ご安心ください」

実際、専務と2人で営業してきたのは事実だ。彼のサポートがあったからこそ、こうして契約に近づけた。お世話になった専務のためにも、西島の提案を受け入れるわけにはいかない。そう考えたが、西島は不機嫌そうに眉を潜める。

「俺がついて行ったらダメなんですか? 担当者は森岡さんだ。あなたが良ければ、同行者が誰であっても問題はないはずでしょう」

「取引先が困惑するかもしれません。向こうは私たち2人を信用して契約に前向きになってくれたんですから、私はわざわざ変更する必要はないと思います」

「そうですか。森岡さんの考えは分かりました。俺を信用してないってことだな」

小声で呟くと、彼は私の耳元に口を寄せた。

「簡単に契約できると思うなよ。俺の提案を断ったこと、後悔させてやるから」

「何を」

私の問いかけを無視して西島が去っていく。その後、彼が手を回したのだろう。後日、私は専務から「今後は1人で動くよう」告げられた。

「どうしてですか? これからが大事な時期なんですよ。改めて契約について話を煮詰めていかなくちゃならないんです。前回の時はうまくいくっておっしゃってたじゃないですか」

思わず拳に力が入る。しかし専務は目をそらし、気まずそうに口を開いた。彼が同行を断った理由は、交渉がうまくいかなかった時のリスクが大きいからだという。大企業相手だからこそ、何かのミスで怒らせたらうちの会社は大変なことになる。必ず契約できるとも今は言い切れない。そこで今回の話については改めて考え直した方がいいと専務は諭してきた。

「先方は乗り気なんですよ。契約そのものを見直せって言うんですか?」

専務は確実に西島から何か吹き込まれたのだろう。「面倒ごとに関わるのはやめておいた方がいい」と助言されたのかもしれない。私は諦められず、どうにか専務を説得しようとした。

「大型契約まであと1歩なんです。成立すれば会社はさらに大きくなるでしょう。お願いします。力を貸してください」

向こうは大企業な上、今まで交渉してきた相手は社長だった。重要な顧客だからこそ、専務についてきてもらいたい。そもそもこのタイミングで私1人になれば、相手も違和感を抱く。かと言って部下を連れて行くなんて無理である。今まで同様、専務に同行してもらえればそれで十分だ。そう説明しても、専務は「リスクが大きい」と首を縦に振らない。

「分かりました。考えが変わったら教えてください」

私は頭を抱えた。ここまで計画を進めてきたのに、邪魔が入るなんて。専務だって今回の契約がどれほど重大な案件かは分かっているはずだ。それでも断るほど、私と関わることを恐れているのだろうか。落ち込む私に西島が寄ってくる。

「森岡さん、浮かない顔してますね。何かありました?」

「いえ、何でもありません」

彼は心配しているそぶりを見せるが、表情は明るい。西島が専務に余計なことをしたのは間違いなさそうだ。ただ証拠はない。私は詰め寄ることもできず、怒りを抑えて冷静を装った。

「何か要件があるならお伝えください。私も業務中で、雑談している暇はないので」

西島はそんな私を見て目を細める。

「もしかして先日の契約のことで悩んでるんじゃないですか? あの大企業相手に1人で交渉に挑むなんて無謀ですよ」

「どうしてそれを副社長がご存知なんですか?」

「相談されたんだよ。森岡さんが無理やり取引先社長に迫ってるって」

「そんなことしてません」

自然と声が大きくなった。西島は一体何を根拠にそんなことを言っているのか。周囲の社員は私たちのやり取りに耳を済ませ、チラチラとこちらに視線を送る。その反応を知ってか知らずか、西島は話を続けた。

「森岡さんって意外と強引なんだね。商談の度に上目遣いで社長にすり寄ってるんでしょ。女の武器を使うのはいいけど、ほどほどにしてくださいね」

「本当にそう相談されたんですか? 事実無根です。私は社長に迫ったりしていません。あくまでも計画を説明して交渉しているだけで」

「そりゃ色仕掛けで契約を取ろうとしているなんて認めたくないか。でも専務から話は聞いてるんですよ。向こうの社長は鼻の下を伸ばしているのかもしれませんが、気をつけてください」

一層、社員のざわめきが大きくなる。当然、私は色仕掛けなどしていない。取引先の社長とは真剣に交渉をしていた。専務もその様子を見ていたはずなのに。

「今後、同じような行為を繰り返していると、我が社は信用を失いかねません。社長にも迷惑かけたくないでしょ」

「ですから、私は」

「それじゃあ失礼します。契約成立に向けて頑張ってください」

西島は伝えたいことを言い切ったのか、ニヤニヤとした笑顔でその場を去っていった。彼がいなくなった途端、周囲から冷ややかな視線が飛んでくる。ひそひそと話す同僚たち。声は聞こえないものの、私に対して悪口を言っているのだろう。居た堪れない思いだったが、私は平然を装って業務を続けた。

ただ、その後も西島は言いがかりをつけてくる。

「森岡さん、とんでもないことをやってくれたな。現場は大混乱だぞ」

私はある日、彼にいきなり罵声を浴びせられた。何が起こっているか分からず、頭が真っ白になる。

「あの、何の話でしょうか? 現場が混乱って」

「白々しい。お前が作成した指示書のせいで、数千もの不良品が出たんだぞ」

「へ?」

私が原因だと聞かされ、驚きのあまり絶句する。どうやら工場から報告が入り、西島も状況を知ったそうだ。

「工場の社員が今どんな思いをしているか分かっているのか? 今日の生産分、全てゴミになったんだぞ。材料費だって安くない」

「こんなことになるなんて。待ってください。確かに私はコスト削減のために指示書を作りましたが、なぜそれで不良品が」

先日、改善をまとめて指示書を作成した。職人たちからも同意を得た上で実行していたはずだ。そう尋ねると、西島が目を釣り上げる。

「お前がめちゃくちゃな設定温度を指示したのが問題なんだよ。コストの削減は当然大事だが、売り物にならない製品を作ってどうするんだ?」

「すみませんでした。私は品質に影響を与えない範囲で設定温度を調節できるか検証して指示書を作成したんです。職人ともしっかり情報共有し、問題ないことは確認済みです」

それなのに、どうして不良品が出てしまったのか。私はひとまず現状を確認するべく、すぐ工場に向かおうとした。しかし西島に止められる。

「森岡さんが行ったところで問題は解決しない。納期が遅れるかもしれないんだから、取引先にまず謝罪しろ」

「申し訳ございません」

「口ごたえするな。現場の知識もないくせに、数字だけでコストを削ろうとしやがって。社長の娘だからって俺は甘くしない。お前は無能だ。余計なことするな」

唇を噛みしめ、彼は不快そうに顔を歪めた。周囲の社員は慌てふためき、バタバタと動いている。私の指示書に間違いがあったのだろうか。すると騒ぎを聞きつけたらしく、村田が顔を出す。

「森岡さん、今回の損失、どう責任を取るおつもりですか? 職人たちも相当お怒りです。今後はあなたの提案など誰も聞かないでしょうね」

「改めて職人の皆様にも謝罪します。その上で状況把握と改善を」

「許してもらえるとは思わない方がいいですよ。あんたみたいな社員、社長令嬢じゃなければ首だったでしょうし。本当にお嬢様は考えが甘いな。これだからコネのあるやつは嫌いなんだよ。社長もこんな娘、さっさと切ればいいのに」

西島の横で村田がため息をつく。2人は私を厳しく叱責してその場を離れた。周囲の社員は私から視線をそらし、自分の業務を続ける。味方が誰1人いない現状に唸らされるが、今は落ち込んでいる場合ではない。私は取引先に謝罪した後、現場にも連絡を入れた。

「大野さん、この度は誠に申し訳ございませんでした。現場は今、どういった状況でしょうか?」

「大変だけど、どうにかなるよ」

「皆様にも謝罪に向かいますので」

「いや、来なくていい。森岡さんが来たらややこしいから」

大野の反応はそっけなく、私に対して苛立っているようだった。今まで積み上げてきた信頼が、もろく崩れ去る。私がもっと念入りに確認しておけば防げたミスだろう。未だにミスの原因は分からないものの、責任は自分にある。どうすれば信頼を取り戻せるか、頭を悩ませた。

そんな中、社内だけでなく取引先にも私の悪い噂が広まっていく。私はその事実を父から伝えられた。

「最近、よからぬ噂を耳にした。今日か、何か大きなミスを犯したのか」

不安げな表情で口を開いた父。どうやら取引先の専務から私のことを聞いたらしい。

「迷惑をかけてごめんなさい。実は」

先日、指示書のせいで不良品が出たことを父に報告した。彼自身、西島からも聞いていたのだろう。見る見るうちに難しい顔になる。

「そうか。あのミスを起こしたのは強化だったか」

「本当にごめん。まさか取引先にも伝わっているとは」

「誰かがポロっと話したんだろう。俺は強化に期待している。何らかの事情があるのかもしれないが、このままではだめだ。気を引き締めなさい」

父は私を叱るのではなく、あくまで注意する程度にとめた。それでも穏やかな口調だったが、逆に罪悪感を抱く。私の評判が下がれば、父の名誉にまで傷がつくのだ。彼の言う通り、もっと気をつけるべきだろう。

「これからは同じようなことが起きないよう、最新の注意を払います」

「そうだな。ただ、ミスを減らすよりもしなければならないことがあるだろう」

「え?」

「わざわざ取引先に噂を流している人間が社内にいる。評価をよく思ってない連中に違いない。彼らに信頼してもらうことが第一だろう」

父はミスを咎めているのではなく、社員と対立していることを問題視していた。実際、西島や村田をはじめ、同僚らと良好な関係を築いていれば、今回のようなことは起きなかったはずだ。

「強化が仕事で成果を出せば、おのずと敵は減ると思う。自分の実力で文句を言う奴らを黙らせなさい。強化にはきっとそれができる」

「お父さん、ありがとう」

私に隙があるから、西島も村田も貶めようとしてくる。彼らが立ち打ちできないくらい完璧に仕事をこなせば、嫌がらせすらできなくなるだろう。私は父の言葉を胸に、さらに仕事に邁進することに決めた。

それから数日後のこと。本社で仕事をしていると、とある男性社員から声をかけられた。

「森岡さん、今いいですか?」

彼は戸松、経理部の社員だ。もちろん顔は知っているものの、あまり会話をしたことはない。

「どうかされました? 先日の件でしょうか」

「いえ、そうではなく」

戸松は言葉をつまらせ、何やら言いづらそうにしていた。周囲の社員には聞かれたくないようだ。私は席を立ち、場所を変えることを提案した。

「一旦休憩しようと思ってたところなので、向こうで話しますか?」

「いいんですか? すみません」

申し訳なさそうにペコペコと頭を下げる戸松。2人きりになったと思った瞬間、村田が近づいてくる。

「珍しいですね。戸松が森岡さんと話しているなんて」

「あ、部長」

すると戸松が途端に顔を真っ青にする。彼は私と村田を交互に見つめては目を泳がせた。

「村田部長、すみません。今、戸松さんとお話ししているので、特に用がないなら戸松と2人きりにして欲しい」

とやんわり伝える。しかし村田は笑みを浮かべ、その場に留まった。

「俺に聞かれたくないことでもあるんですか? 経理部長ですよ。部下が何を言うか、きちんと確認しないと」

次の瞬間、戸松が上ずった声を出す。

「すみません。ちょっと急ぎの仕事を思い出したので。森岡さん、また今度改めてお話します」

「え、ちょっと」

慌てて呼び止めたものの、彼は足早に去っていく。村田は見えなくなるまで戸松を睨み続けていた。

「全く、いくら森岡さんが苦手とはいえ、仕事のことはちゃんと話さないと」

「戸松さんは私が苦手なんですか?」

「今の様子を見ていたら分かるでしょう。彼はしぶしぶ声をかけただけで、本当は森岡さんと口も聞きたくなかった。だから偶然通りかかった俺に任せることにしたんでしょう」

戸松が気まずそうにしていたのは事実だ。私に声をかけてきた段階から表情が硬かった気がする。村田は私が黙り込むと口角を緩めた。

「社員は皆さんが嫌いですから、できる限り関わりたくないんですよ。分かってやってください。例の件については、また俺が聞いて伝えますんで」

「そうですか」

周囲から避けられているのは、全部自分が悪いのかもしれない。私は反論することもできず、ただ静かに村田の嫌みを聞いた。戸松の反応からして、否定できない自分がいるのだ。彼は私と話しているところを同僚に見られたくなくて、わざわざ2人きりになりたがったのだろう。父に言われたばかりなのに、なかなか状況を改善できない。私はやるせなさを感じつつ、再び業務に戻った。

それから2ヶ月ほど経った頃、いつものように出社した私の元に病院から電話が入る。

「分かりました。今すぐ向かいます」

一瞬耳を疑った。なんと父が出勤中に意識を失ったというのだ。昨日までは元気に仕事をしていたはず。胸騒ぎを覚えた私は慌ててタクシーを拾った。向かうまでの道中、手の震えが収まらない。このまま父がいなくなるのではないかと不安になる。彼なら大丈夫だと思いたいのに、気持ちは晴れない。

そして病院に到着後、私の目に飛び込んできたのは、管につながれて眠る父の姿だった。

「お父さん、私の声が聞こえる? 目を覚まして」

私の声と人工呼吸器の音だけが虚しく響く。医師は懸命に蘇生措置を続けてくれた。それでも父は眠ったまま。すると医師から「次が最後の処置になります」と告げられた。

「私を1人にしないで、お父さん」

涙がこぼれ、視界がぼやける。私は手を合わせ、父が目を覚ますよう必死に願った。しかし祈りは届かない。心電図が平坦になり、医師の口から死亡時刻が告げられる。死因は急性心筋梗塞だそうだ。母だけでなく、父までこんなにも早く失うことになるなんて。私は静かに横たわる彼をそっと見つめた。

「お父さん、今までありがとう。心配かけてばかりでごめん。結局、何も相談できなかった。もっとちゃんと話すべきだったのかな」

父と最後にかわした会話は、仕事の事務的な報告だ。だが彼は昨日、私の顔をじっと見つめるように見ていた。

「今日は俺に何か隠していることはないか?」

「え? ないわよ。お父さんには逐一報告してるから、安心して」

「そうか。分かった」

父は私の悩みに気づいていたのかもしれない。こちらから相談してくるまで待っていた可能性もある。今思えば、正直に打ち明けるべきだった。父に隠し事なんてできるはずがないのだから。

「今後はもうお父さんに頼ることはできない。だからこそ、私は自分の足で歩いていくね。お父さんの会社、私が守って見せる」

私は父の後を継ぐと決意した。しかしそう簡単に社長になれるはずがない。西島は自分が次期社長だと信じていたのだ。

「森岡さん、ご愁傷様です。社長はとっても立派な方でしたね」

葬儀の際、焼香を終えるなり私の元に歩み寄ってきた西島。彼の背後には村田が立っていた。周囲の社員が父との別れを惜しむ中、2人はあろうことか口元を緩める。

「悲しみに暮れる気持ちも分かります。どうでしょう? 仕事をやめて、父親の会社から離れた方がいいんじゃないですか」

「なぜですか? 父が亡くなったからこそ、私は会社を守らなければなりません」

「仕事をするたびに父親を思い出すことになりますよ。俺たちはただ、森岡さんに辛い思いをさせたくないだけです。副社長がいれば会社は安泰ですからね」

西島と村田からすれば、私は社長にふさわしくないらしい。

「2人の考えがどうであれ、今話すべきことではありません。次期社長については、今後話し合いましょう」

そう淡々と返すも、彼らは話を続ける。2人からは哀悼の意を一切感じなかった。

「森岡さんは社員から嫌われ、おまけに仕事でも大きなミスを犯している。こんなあなたが社長になるなんて、先代もきっと反対します。会社を守りたいなら、副社長に頼んだ方がいいですよ」

「村田部長の言う通りだ。俺に託した方がいいですから」

「全く納得できないなら、考える時間くらいは与えましょうか。森岡さんが本気で会社を大事にしているなら、社長にならないでしょうし」

それだけ言うと、2人はとっさに他の参列者に合わせて悲しげな表情を浮かべる。周囲から視線を向けられていることに気づいたようだ。先ほどまで笑っていたくせに、今更演技をしてどうするのか。頭に血が登ったが、父の葬儀だからと落ち着かせた。

しかし葬儀後、四十九日の法要が終わるまで、私はさらに2人に苦しめられることになる。

「森岡さん、この仕事よろしく。もう社長令嬢じゃないし、気を使う必要ないよね」

父が亡くなって以降、西島は毎日私に雑用を押し付けるようになった。彼に頼まれるのは書類のホチキス止めや書類の整理ばかり。当然、経営企画部の仕事ではない。

「私にも自分の仕事があるんです。やめてください」

反論するも、西島は軽く笑うだけ。

「残念だけど、社長が亡くなった。今、お前はただの1社員だ。それなのに次期社長の俺に盾突くのか。地味女はコツコツ裏方で手を動かすのがお似合いだよ」

「社長のおっしゃる通りです。経営だの交渉だの、柄にもないことをするからミスをするんでしょう。森岡さんは雑用係の方がぴったりですね」

村田も揉み手をして西島に同意する。廊下ですれ違い様に、わざと肩をぶつけられることもあった。散乱した書類を拾う私を見下ろして、2人はニタニタと笑う。

「社長の娘だからってずっと言ってたみたいだけど、もうお前には何もない。社員に嫌われ、仕事もできない。そんなやつに居場所がここにあると思うか?」

「森岡さん、身を引いた方が賢明ですよ。社長はすでに決まったようなものです。そろそろ諦めましょう」

今までは父の前だったので、西島も村田もあからさまに嫌がらせをすることはなかった。しかしその分、ストレスを抱えていたのだろう。断る度に嫌みを言われ、仕事を妨害される日々。彼らの狙いは、私が自ら退職を選ぶことだ。悔しさと情けなさのあまり、視界がにじむ。私には頼れる仲間もいない。社員は皆、見て見ぬふりで近寄ろうともしないのだ。それでもこうなったのは全て自業自得。私は唇を噛みしめ、黙々と雑用をこなしていった。絶対に西島と村田の思い通りになんてさせない。父が大切にしていた会社を私が守ると決めたのだ。どれだけ嫌がらせを受けようと、私は静かに耐え続けた。

そして四十九日の法要を終えた直後、会社の顧問弁護士に呼び出される。私はその時初めて、父が公正証書遺言を残していたことを知った。

「父はいつかの時のために準備してたんですね」

母が亡くなって以来、父は自分にもしものことがあってはならないと、会社の今後を遺言に託したという。重苦しい雰囲気の中、遺言書が開示される。今回は西島の希望で、彼も同席していた。

「どうせ俺が社長に決まってるのに、先代も用意深い人だな」

西島は遺言書の内容がどうであれ、自分が社長になる気のようだ。そんなことできるわけがない。ただ、父がもし次期社長として西島を指名していたら、どうすればいいのだろうか。私は息を飲み、顧問弁護士の言葉に耳を済ませた。すると次の瞬間、「後継者は強化とする」という一文が聞こえてくる。

「私ですか?」

「どういうことだ? 社長が俺じゃないだと?」

途端に声を荒げる西島。彼は弁護士に掴みかかりそうな勢いだった。周りの人が止めるも、西島は恐ろしい形相で私を睨みつける。

「どうせ弁護士と結託して遺言を偽造したんだろう。こんなもの偽物だ。俺は信じない」

しかし弁護士が「公正証書遺言は公証役場に原本があり、否定しても意味がない」と告げた。父はこうなることを見越して遺言書を残していたのかもしれない。しかも遺言書には「株式の全てを強化に相続する」とも書かれていた。結果として、私が筆頭株主になるということだ。

「ありえない。社長がこんな無能を指名するなんて。会社がどうなってもいいと思ってたのか」

西島はまだ不機嫌だったが、事実が覆えることはない。その後、私は株主総会を開催し、自身を取り締まり役に選んだ。そして着々と手続きを進め、正式に社長に就任する。西島は反対していたが、反対したところで無駄だ。私は父の意思に従い、社長となったのだから。これで彼の会社を守ることができる。

女社長として迎えた初日、私は覚悟を決めて出社した。ただ、始業前、突然社長室の扉が乱暴に開く。現れたのは西島と村田だった。

「これはこれは新社長。早速張り切ってるんだな」

「こんな早朝から出勤なんて」

「まだ仕事に慣れてませんから、早めに来て色々と準備をしようと思ったんです」

「それはいい心がけだ。新社長は無能だから、人一倍働かないといけませんもんね」

西島の隣で屈託のない笑みを浮かべる村田。彼もまた私が社長になったことが許せないらしい。だが2人の侮辱が頭に入ってこないほど、妙に気になることがあった。彼らはなぜか数十枚もの白い封筒を持ってきていたのだ。それを不審に思うも、2人は私の視線など気にも止めずに非難し続ける。

「父親を味方につけ、副社長を妨害するなんて卑怯な人だ。社長にふさわしいのは副社長の方なのに」

「村田部長、ありがとう。でも気にするな。彼女には現場経験も実績もないんだ。すぐに根をあげるに決まってる」

すると西島は手元の封筒を私の机に置いた。

「何ですか?」

「これ、退職届け80人分。骨だけの女はみんな無理って」

「え?」

慌てて封筒を1つ1つ確認する。確かにそれは退職届けだった。裏面には見慣れた社員たちの名前が書かれており、西島の発言が嘘ではないことが分かる。80人全員がこの会社をやめると。

「でも、それをなぜあなたたちが持ってきたんですか?」

「その理由が分かってないから、社員が離れていくんだよ。みんなお前と関わるのが嫌で、俺たちに預けたんだ。もちろん俺と村田部長の退職届けもあるから」

「皆さん口を揃えて言ってましたよ。あんな女が社長になった。今、この会社は終わりだってね」

「全社員の8割が会社を去っていくんだ。これがどういう意味か、新社長さんでも理解できるだろ」

2人の高笑いが室内に響き渡った。きっと彼らは私がショックを受けるとでも思っているのだろう。確かに80人もの社員が退職すれば、会社は立ち行かなくなる。工場の稼働は止まり、経営が破綻することが目に見えていた。

「あなたが引き止めたところで、社員は考えを変えない。だからって80人の穴を今すぐ埋めるのは不可能だ」

「新社長、これからどうするんですか? 会社を潰したくなければ、副社長を社長に指名しなさい。そうすれば俺たち2人で社員を説得してあげますから。新社長とは違い、俺たちには人望があるからな。さあ、早く俺に経営権を渡せ」

こうやって脅せば、私が泣いてすがりつくと確信しているのだろう。2人はしてやったりとでも言いたげにニンマリする。しかし私は無表情のまま書類を眺めた。

「内容確認しました。では、お2人とも退職でよろしいですか?」

「へえ、それでいいんだな。80人の社員がこの会社からいなくなるんだぞ。強がったところで状況は変わらない」

「だから、結構です。やめたいと思っている社員を引き止めるわけにはいきませんから。副社長、村田部長、今までありがとうございました。あとは人事部を通して手続きさせていただきますので」

社長としての仕事があるため、2人に退室を促す。彼らは私があまりにも冷静で驚いたのだろう。一瞬、笑顔が引きつった。

「後で後悔しても知らないからな」

「これはもう会社とは無関係だ。責任は自分で取れよ」

「新社長がこれほどまでに無能だとは思いませんでした。先代も悲しんでることでしょうね」

吐き捨てて2人は部屋を後にする。後悔するのは私ではなく、彼らだろう。静まり返った社長室で、私は手元にある退職届けに再度目を通した。

その翌日のこと。会社に出社した途端、社員らが慌てふためいてこちらに駆け寄ってきた。彼らは口々に「退職しません。この会社に残りたいんです」と訴える。そこにいたのは皆、退職届けを提出した社員だった。彼らは土下座までして謝罪する。

「また改めて話を聞くので、今は持ち場に戻ってください」

私はそれだけ伝えて社長室へと向かった。すがりつく社員は全員無視する。ただ、社長室に着いた途端、次は西島と村田が駆け込んできた。

「社長、昨日は大変失礼しました。俺たち、ちょっと言いすぎましたよね。でもあれは社長のためで、心を入れ替え、これからは精一杯社長のことを支えていきます。本当に申し訳ございませんでした」

昨日とは打って変わって、私にへり下る2人。彼らは真っ青な顔で土下座し、貼り付けたような笑みを浮かべる。そして退職はしないと断言した。

「昨日の退職届けなんですが、俺たちのものは破棄してください。あれは一時の気の迷いでした。俺の居場所はここしかない。社長なら分かってくれますよね」

「この通りです。退職の話はなしにしてください」

2人はペコペコと頭を下げ、弁解を続ける。私はそんな彼らをも無視して業務を始めた。すると視線すら合わせようとしない私に戸惑ったのだろう。

「社長、どうされたんですか? 俺たち、こんなにも謝罪してるんですよ。言ってくださいよ。意地を張るのはやめてください。副社長と経理部長がいなくなったら困るのはそっちですよね。今まで俺たちがどれだけこの会社に貢献していたか」

2人は謝罪をやめ、次はブツブツと文句を垂れ始めた。その様子を見て、思わず首をかしげる。

「謝罪したいなら、好きにしてください。お2人は昨日、自分の意思で退職を選んだはずです。どうして今更考えを変えたんですか?」

「それは、頭を冷やしたんです。自分がどれだけ愚かな行為をしていたか、ようやく気づいて」

「退職すること自体は愚かではないと思います。人それぞれの考えがありますから。あなたたちはこの会社に未来はないと確信したんですよね」

「違います。俺たちはただ、社長の実力を理解していなかっただけです。まさかここまで優秀な人だとは、不勉強でした」

言葉をつまらせながら言い訳を繰り返す西島と、いつものように媚びへつらう村田。彼らが突然考えを変えた理由は、私も察している。

「どうせ新聞を見て、自分たちの言動に後悔したんですよね」

そう告げると、2人は目を泳がせ、愛想笑いを浮かべた。

「いやあ、まさかあの大企業と契約するとは思わなくて。社長の計画ですよね。お見事です」

「新聞を見て驚きましたよ。事前にご報告いただいていたら、こちらも退職なんてしなかったのに」

彼らは新聞の記事を読み、焦って謝罪に来たそうだ。2人が驚くのも無理はない。今朝の新聞に、うちの精密部品メーカーが大手の重工業メーカーとサプライヤー契約を締結したという記事が掲載されていたのだ。契約先は主にロケットの製造と開発を行っている。実は私が入社後、交渉を進めてきた大企業こそ、その重工業メーカーだった。

「西島が専務に余計なことを吹き込んでいなければ、もっと早く契約できていたでしょう。私が交渉していたことは、副社長もご存知でしたよね。どうして契約したことに驚いたんですか?」

「いえ、まさか成立するとは思わなくて。相手は大手ですよ。失敗する可能性が高いと思ったんです。そもそも専務は同行を断りましたよね。1人で契約を締結させたんですか?」

うろたえながら質問を口にする西島。彼の言う通り、相手は大企業。私が1人で計画を進められるはずがない。西島は最初から契約は失敗に終わると決めつけていた。そのために専務に手を回したのだろう。だが、私は西島に邪魔をされても諦めなかった。

「自動車部品で培った技術があれば、宇宙産業にも参入ができる。そう考え、入社後から慎重に計画を推進してきたんです。だからこそ、私は奥の手を使いました」

「契約が無事に成立したのは、私が1人ではなかったからです。専務に同行を断られた後、父にお願いしました」

「え? 先代と」

西島は目を丸くしてこちらに視線を送る。村田も口をポカンと開け、固まっていた。2人だけでなく、社員も皆知らない。何せ父が他の社員には黙っておくと選んだのだから。私は専務に同行を断られた後、悩んだ末に父へ相談した。

「確かにリスクは大きいのは事実だ。しかし、ここまで話が進んでいる中、同行を断るなんて」

彼には西島が手を回したことは伝えていない。あくまでも専務の考えが変わったことだけを報告した。

「今のところ先方は乗り気なのだろう。契約できる見込みはあるってことだよな」

「ええ、順調に話が進めば、きっと向こうも同意してくれる。だからこそ、ここで計画を止めたくないの。だけど、私1人だと先方は不安に思うかもしれない」

「分かった。じゃあ、俺が一緒に行こうか」

父は微笑みながら深く頷いた。社長の自分が同行すれば、取引先が不安がることはないと考えたらしい。父の気持ちはありがたいものの、正直心苦しかった。

「父親だからって頼ってごめん。本来なら私の力でどうにかすべきなのに」

「何を言ってるんだ。今回の契約は我が社にとって非常に重要なものになる。社長に協力を求めることは間違ってない。きっと担当者が強化でなくとも、俺は同行しようと考えたはずだ」

「ありがとう、お父さん。私、会社のために絶対に成立させてみせるから」

彼は会社の発展につながるならと、私の頼みを聞いてくれた。そのおかげで、こうして契約を締結することができたのだ。だが、父が同行してくれたからと言って、話がとんとん拍子に進んだわけではない。取引先の社長に納得してもらうまで、相当な時間がかかってしまった。結局、父が生きている間に成立しなかったことだけが心残りだ。

「なんだ? 色仕掛けは使わなかったけど、利用していたのかよ」

事実を知るや、忌々しそうに小声で呟いた西島。その発言に焦ったのか、村田が西島を軽く小突く。

「副社長、何を言ってるんですか?」

「あ、いえ、今のはその、本心ではなくて」

今、私を怒らせたら退職届けを受理されかねない。西島はそう考え、慌てて謝罪した。ただ、彼が謝るべきは今の発言についてではない。

「あなたは私が色仕掛けで契約を成立させようとしていると考えていましたよね。その根拠はあるんですか?」

あの日、西島は周囲の社員に聞こえるよう、でたらめな話を語った。私は取引先の社長に色目を使ったり、媚びを売ったことはない。それなのに西島は得意げに言いふらしていたのだ。到底許されることではない。

「証拠もないのに、私を侮辱したんですか?」

声を強めて問いかけると、西島が目をそらす。

「俺はただ、専務から聞いた話を言っただけです。あなたが取引先の社長とやけに親しげだって。それは本当ですか? 専務からは、そんなことは言ってないと聞かされてますが」

その瞬間、彼は肩をビクッと揺らした。

「森岡さんとは関わるなって忠告したのに」

西島はどうやら、私と専務が事実を確認し合うことがないよう、対策を講じていたらしい。自分がついた嘘がバレたら面倒なことになると分かっていたのだろう。だからこそ「なぜ知っているのか」と言わんばかりに不思議そうな顔をする。

「専務に直接質問したんですか?」

「いえ、向こうから謝罪に来ましたよ。同行を断って申し訳ないと」

実は父との同行が決まった後、私は専務から謝罪を受けたのだ。父に事実確認をされ、専務も焦ったことだろう。その際、なぜ同行を断ったのか、本当の理由を明かした。やはり専務は西島に止められたらしい。

「森岡さんは周囲に『専務はお飾りで、仕方なく連れて行ってる』だの『自分の実力で契約できる』だの言ってますよ」

そう聞かされて、協力するのがバカバカしくなったようだ。しかし、私はそんなこと一言も言ってない。他の社員に避けられる中、専務が会社のためにと協力してくれて、心から嬉しかった。

「専務には本当に感謝しています。今までありがとうございました。これからは社長と共に進めていきますので」

彼は私の言葉に目を伏せ、静かに頷いた。父が動いた。今、自分ができることはもうないと悟ったのだろう。専務から謝罪を受け、その上で誤解も解けたため、私はほっと胸を撫で下ろした。

「その際、専務はおっしゃってました。『森岡さんが色目を使ってるなんて言ってない』と。告げ口したなんてバレたら社長に怒られる。それが嫌で、専務は嘘をついたに違いない」

自分が嘘を吹き込んだくせに、悪いのは専務だと言いはる西島。彼は罪を認めたくないようだ。ただ、何かに気づいたのか、目を大きく見開く。

「だから専務は俺を避けるようになったのか」

西島が言うには、ここ最近、役員から距離を置かれるようになったそうだ。だが、彼は自分のせいだとは考えていなかったらしい。父が亡くなり、次期社長になろうと目論んでいた西島。そんな自分を疎ましく思い、役員は近寄っていると推測したようだ。

「俺が社長になることに不満があったからじゃないか」

「いえ、役員は皆、手段を選ばず私を貶めようとする副社長に関わりたくなかっただけじゃないかしら」

「そんなわけが」

否定すべく口を開くも、言葉が出てこないのか、西島が絶句する。周囲から嫌われていたことに、ようやく気づいたのだろう。専務は実際、西島を危険視していた。特に父が亡くなってからは、西島が暴走するのではないかと不安がっていたのだ。その予想が当たり、昨日、彼は80人分の退職届けを持ってきた。

「とにかく、今回の契約は色仕掛けなど使わず、自分の仕事を全うした結果、成立したものなの。分かってもらえましたか?」

「誤解してしまい、申し訳ございませんでした。でも、俺だって社長が色目を使うとは思っておらず」

西島はあくまでも専務から聞いた話を鵜呑みにしただけだと話す。自分が嘘をついたとは、意地でも認めたくないらしい。

「あの時は俺も冗談のつもりで言っただけなんです。聞いてた社員たちだって、きっと真に受けてないですしねえ」

「そうやって冗談だと言えば許されるとお思いですか?」

「いえ、本当に反省しておりまして」

睨みつけた途端、西島が肩をビクッと揺らす。その隣で村田が怯えながらも声をあげた。

「確かに社長は色仕掛けなど使ってないと思います。ですが、先代の骨を利用したのは事実ですよね。先代の考えがどうであれ、父親の力を使うなんて卑怯では」

「村田部長、何を言って」

「副社長、これ以上、言い争っても意味がありません。むしろ、私たちがなぜ社長に詰められなければならないんですか?」

村田は徐々に興奮し、声を強めていく。彼は私に頭を下げ続けることに疲れたようだ。私を言い負かして、自分たちの方が立場が上だと示したいのだろう。

「父親の骨で会社に入った挙げ句、娘という立場を利用して契約し、おまけに次期社長の座を思い通りにして、さぞ嬉しいでしょうね。ずっと会社に貢献していた俺たちを踏み台にするなんて」

「部長の言う通りかもしれないなあ」

先ほどまで唸らされていた西島も険しい顔をする。彼らは目の色を変えて私を罵倒し始めた。

「俺たちは先代の時から会社を支えてきたんだ。あんたみたいなお嬢様には分からないだろうが、汗水流して働いてきたんだよ。大きい契約が成立したからって偉そうにするな。あなたが社長の娘でなければ、きっと契約は失敗していた。それをちゃんと自覚してますか? どうせ自分の実力で取ったとか思ってるんでしょう」

思わず肩をすくめる。2人は勘違いしているが、そもそも私はコネ入社ではない。

「私は父から会社に転職したんです。娘だとか関係なく、前職の経験を踏まえて採用されたんですよ」

一瞬、悪意に取られたのか固まった西島と村田。だが、その直後、彼らはプッと吹き出す。

「しょうもない嘘、つかないでください。あなたは先代の娘でしょ。だからこの会社に入ることができた。強がったって無駄だ」

「そうですよ。コネ入社だと言われてイラつく気持ちも分かります。だけどねえ、さすがに無理がありますよ」

2人は私の前職を知らない。だから平然と嘲笑できるのだろう。このままでは埒が明かないので、私は以前勤務していた会社名を彼らに伝えた。すると2人は途端に驚愕する。

「こんな有名な会社に?」

「そっちを辞めてまで、わざわざ転職する必要があったんですか?」

私の前職はとある総合商社だった。名の知れた企業のため、2人も聞いたことはあるのだろう。私はそこで航空機や宇宙分野に関わる部門に配属されていた。当時の業務は航空機部品や防衛関連機器の調達や販売、計画の管理。父の会社のような精密部品メーカーと関わることも多かった。そうした中で、私は日本の精密部品の素晴らしさに気づいた。叶うなら、日本の物づくりを外から支えるのではなく、自ら現場に入って技術を広めていきたい。父の会社の技術を私ならどうマネタイズするか。そんなことを考え出した時期に、私は父からスカウトされたのだ。

「今回、重工業メーカーと契約できたのも、前職の経験があったからなんです。元々、入社してすぐ父に計画を相談しました。将来的には宇宙産業に参入したいと」

「先代からの提案ではなく、社長が発案者なんですか? でも、そんな話は聞いてない。俺も知りませんでしたから」

「彼はあくまでも私や父に頼まれて同行してくれただけです」

父は計画を聞くと、すぐさま同意した。彼は宇宙産業に興味があったからこそ、私を雇うとしたのだ。

「強化なら、この会社のために色々と提案してくれると思っていた。ただ、まさかこんなにもすぐ重工業メーカーとの商談まで進むとはな」

同行を頼んだ時、父は嬉しそうに頬を緩めた。彼の期待に少しは答えられたのだろう。父は何度も「うちに来てくれてありがとう」と話していた。

「強化は以前の職場でも評価されていただろう。働き続けていれば、きっと順調にキャリアアップできた。それなのに、俺のわがままで転職させてすまないな」

「何言ってるの? 私は望んでこの会社に来たのよ。自分の経験が生きる今の仕事が好きだしね」

「そうか。あの時スカウトしてよかったよ」

そんな彼の支えがあったからこそ、宇宙産業への参入計画が大手との契約締結という形で実現したのだと思う。前職が異なる業種だったら、ここまでスムーズにはいかなかったはずだ。

「これで分かってくれましたか? 私は父の希望でこの会社に転職したんです。コネで入ったわけではありません」

「そんな」

「先代は娘をそばに置きたくて、この会社に入れたんじゃなかったのか。あの人は社長の前職のことなんて、何も教えてくれなかった」

西島はどうも、私の前職について父に尋ねたことがあったらしい。ポツポツと語り始める。

「まずは現場を勉強するために、娘を工場で働かせた方がいいって提案したんだ。経営企画部にいても、工場のことなんて何も分からないからって。でも、その際、父は首を横に振ったそうだ。『娘の前職のスキルが生きるのは経営企画部なんだ。ただ、彼女には現場を大事にするよう何度も言い聞かせている。副社長の考えも分かるが、今回は俺の考えを組んでほしい』と」

当然、西島は私が何の仕事をしていたか聞いた。だが、父は教えなかった。

「いくら家族とはいえ、ベラベラと話すことではないだろう。気になるなら、本人に訪ねなさい」

言われてみれば、1度だけ西島から質問されたことがある。

「森岡さんはここに来るまでは、何をやってたんですか? どうせ地味な事務作業とかでしょ」

彼は最初から私を馬鹿にしていた。そんな態度で聞かれて、答える人などいないだろう。

「大したことはしてません。今と似たような仕事ですから」

「じゃあ、やっぱり地味か。経営企画部の業務は重いでしょう。工場勤務の方がぴったりかと」

「もういいですか? 仕事中なので」

私は軽く流し、その場を切り抜けた。ただ、西島は私が答えなかったが故に、「口にするのも恥ずかしい仕事なのだ」と勘違いしたようだ。

「商社で働いてるなら、あの時答えれば良かったじゃないですか。先代も社長も、どうして隠したんですか?」

「わざわざ話すことでもないと思って、父にも言わなくていいと伝えてたんです。実際、前職を知れば、副社長や村田部長は態度を変える可能性がありましたから」

「態度を変えちゃいけないんですか? 立派な経歴をお持ちなら、言ってくださいよ。俺たちはてっきり、以前の会社でうまくいかなかったから、ここに来たのかと」

村田は頭をかきながら必死に弁解する。彼はどうも、私が以前の勤務先から逃げるようにしてこの会社に来たと決めつけていたらしい。

「社長が転職してきたのって、結構急だったんです。だから、無職になった娘を先代が拾ってやったんだと思って」

「私は何も言ってないのに、お2人は勝手な思い込みでバカにしていたんですね。父は私の能力を見極めた上で、経営企画部に配属してくれました。前職を知らないとはいえ、いくら何でもひどいのでは」

「だから、こうして謝罪しているんですよ。俺たちは誤解してました。社長は優秀な方です。先代も社長も冷たい人ですね。もっと早く教えてくれたらよかったのに。俺は今、話を聞いて納得しました。あなたこそ、この会社の社長にふさわしい」

うろたえながらも口に私を褒めちぎる2人。彼らは今後の会社で働き続けたいそうだ。そのために、今まで見下していた私に対してご機嫌取りをする。

「俺は新社長の元で働きたいんです。この会社はまだまだ伸びるはず。是非、今後ともよろしくお願いします」

「社長の座を狙ったりしてすみませんでした。俺はこれからも副社長で構いません。社長になんてなる気ありませんから、右腕として重宝してくださいよ」

私に媚びへらえば、退職せずに済むとでも思っているのだろうか。ヘラヘラと笑う2人に、ついため息が漏れる。その時、突然社長室の扉をノックする音が聞こえた。

「社長、今よろしいでしょうか?」

声の主は工場の大野だった。事前に来ることは知らされていたため、中へと迎え入れる。

「失礼します。なぜ副社長と経理部長がここに?」

大野は入室した途端、2人に冷ややかな視線を送った。

「ごめんなさい。2人が押しかけてきて、困ってたところなんです」

「彼らのことは気にしないでください」

「なんですか、それ? 俺たちはただ、社長の元で働きたいと伝えに来ただけで」

ギャーギャーとわめく西島を無視して、大野が口を開く。

「分かりました。では、早速、工場の社員から聞き取った内容を報告させてもらいます」

「聞き取り? 一体、何を」

「社員は皆、退職届けについては不本意だったと語っております。副社長と経理部長に脅されて、しぶしぶ書いたと」

「あっ」

立ちまち目を白黒させて硬直する西島。村田は顔色を変え、口をパクパクさせた。

「何言ってるんですか? 社員は皆、自分の意思で書いたんです。彼らはあんな社長にはついていけないって」

「そうですよ。俺たちは脅してなんてません。工場長、ちゃんと聞き取りしましたか?」

2人は自分たちの無罪を訴え、大野を糾弾する。だが大野は至って冷静だった。

「こちらは退職届けを提出した社員全員に、個別で聞き取りをしたんです。みんな困ってましたよ。『本当はやめたくないのに』と」

「社長の方はどうでしたか?」

「こちらも同じような返答でした。強い口調で攻め立てられ、書かざるを得なかったとのことです」

そう告げた瞬間、西島と村田が目を見開く。実は昨日、退職届けを預かった後、私は80人の意思を確認すべく、対話する場を設けた。本当に自分の意思で書いたのか、確認するしかない。しかし西島たちから渡されたことが、どうも怪しかったのだ。

「副社長からはどのような説明を受けましたか? 会社に残りたい気持ちはないのでしょうか?」

そう1人1人に尋ねてみると、皆、正直に話してくれた。全員、西島と村田に脅されて、しぶしぶ書いたという。

「分かりました。では、退職する意思はないということですね」

私の質問に、勢いよく首を縦に振った社員たち。皆、叶うなら仕事を続けたいとのこと。本当は書きたくなかったと涙する社員までいた。

「副社長に騙されていたのなら、退職届けは無効にします」

昨日、そう伝えたものの、今朝になって社員は一斉に謝罪に来た。万が一、退職を受理されたらと不安だったのだろう。ただ、改めて事情を説明するほどの時間はない。後で場を設け、退職は無効だと伝えると決め、私はそのまま社長室に入ったのだ。

「本社の社員の返答からして、工場も同じだとは思いましたが、まさか全員に脅して書かせていたとはね」

西島と村田の行動に、思わず頭を抱える。工場の社員については、大野に意思の確認をお願いしていた。彼は西島をきつく睨みつける。

「部下がどんな思いで退職届けを書いたか、分かりますか? 書かなければ今後の評価に影響すると脅したそうじゃないですか?」

「違う。俺はただ、新しい社長の元で働くことに懸念点はないかと尋ねただけだ。そしたら皆、心配そうな顔をしていて。俺たちは社員のために動いたまでです。彼らは新体制になった後、会社がどうなるのか気にしていた。そんな不安な気持ちを社長に伝えるには、退職届を渡すのが1番効率的かと」

あくまでも2人は、社員が自ら退職届けを書いたと言い張った。だが、彼らが脅していたことに間違いない。社員ら曰く、西島は自分がいずれ社長になると豪語していたようだ。

「あの女は弁護士と手を組んで、社長の座を奪ったんだ。今回のことは全部、策略なんだよ。その証拠を俺は掴んでる。どうする? お前はあの女の味方なのか?」

彼は先代の遺言書など捏造だとも話していたらしい。その上で、自分が社長になった際、首にされたくなければ退職届けを書けと迫った。

「お前、確か奥さんと子供がいたよな。首になんてなれば、大事な家族を養えなくなるぞ。大丈夫。俺が社長になれば、我が社は安泰だ。それまで信じて耐えればいい」

西島の圧力に耐えかねて、社員は仕方なくペンを手に取った。皆、仕事を続けるために退職を選んだのだ。それだけ西島の言葉に説得力があったのか、私が信用されていなかったのかは分からないけれど、罪悪感を抱えていたからこそ、社員は私に土下座したのだろう。

「副社長は80人分の退職届けがあれば、私が泣きついてくると思ってたんですよね。『自分では社員をまとめられないから、やっぱり副社長に頼みたい』と。そういう」

声を強めた途端、西島が目をうるませる。

「そんなつもりじゃありません。俺は社長を認めてます。だけど、社員はそうじゃない。こんな彼らの思いを伝えたくて」

「いい加減、正直に言ったらどうですか? 会社を乗っ取るために、社員を利用したと」

「豪快です。俺は社長にはなるつもりなど、一切ありませんでした。でも、副社長は自分こそ社長にふさわしいと考えていて」

「お前、いきなり何を言い出すんだ?」

顔を真っ赤にして激怒する西島。村田はそれでも知らん顔で話を続ける。

「今回の退職届けは、副社長の案なんです。80人もの社員が急にやめるとなれば、社長は慌てる。そこで自分が社長に立候補して、会社を奪おうと考えていて」

「バカ言うな。村田も同意してただろう。なんなら、社員を脅して書かせようって、お前が提案したじゃないか。『社長令嬢だからって、無能が社長になるのはおかしい』って」

「でも、脅した張本人は副社長ですよね。社長、助けてください。俺は脅されました。副社長に迫られて、退職を書くはめになったんです」

声を震わせ、村田は自分も被害者だと語った。しかし、社員からちゃんと話を聞いている。

「村田部長も副社長と同罪ですよね。あなたが経理部の社員を脅していたこと、すでに分かっています。退職届けを書かないなら、工場に移動させる、と」

「それは」

「今回の退職届け、経理部だけ全員の名前がありました。そのため、入念に聞き取りを行った結果、皆、村田に脅かされたと告白したんです」

聞き取りの際、全員、唸らされて覇気がなかったものの、特に申し訳なさそうにしていたのが戸松だった。

「社長にご迷惑をおかけしてすみません。こんなこと、本当はしたくなかったんですけど」

「いえ、大丈夫よ。部長に脅されて、逆らえなかったのよね」

「はい。かつて俺のミスが発覚した時、部長が修正してくれたんです。その時の恩を仇で返すのかと詰められて」

村田は経理部社員に、今までどれだけ部下の尻拭いをしてきたかを語り、その上で自分の味方になるよう迫ったという。

「ミスばかりの人間は経理部にはいらない。工場にでも行けと言われて。入社して以来、俺はずっと経理部なんです。このタイミングで工場への移動は、さすがに難しくて」

結果として、経理部社員は全員、退職届けを書くことを選んだのだった。

「上司としてあるまじき言動ですね。副社長に脅されていたとしても、部長も同じことを部下にしたんです。それでも、あなたは自分が悪くないとおっしゃいますか?」

「いや、だって俺は部長なんですよ。管理職として、何度も部下の代わりに謝罪してきました。その分、部下は俺の命令に従うべきだ。工場長もそう思いますよね」

村田は同じ管理職である大野に助けを求める。しかし大野は目も合わせない。

「俺には分からない。部下の代わりに責任を取るのは、上司として当然の役目だ。なのに、助けた代わりに自分の味方になれなんて。俺は部下に退職を迫ったりしませんから」

「どうせ社長の前だからって、綺麗事を言ってるんだろう。工場だって本当は社長のことを信用していないんじゃないのか。彼女が以前、大きいミスをしたことを忘れてないだろう。ああいう問題が今後は連発するかもしれない。それでも社長の味方か」

ニタニタと笑いながら私に視線を送る2人。彼らの言う「大きいミス」とは、こちらの指示書のせいで不良品が出たことだろう。大野を味方につければ、形勢が逆転するとでも考えているのかもしれない。

「工場はあの時、1番苦労したはずだ。現場について何も知らない女に口を出されて、イラっとしたことだってあるだろう。この際だから、不満があるなら言った方がいいぞ」

「そうですよ。目上の人間だからって、社長にペコペコと頭を下げるんですか? こんな去年入ったような新人に」

先ほどまで土下座をしていたくせに、2人は急にふんぞり返る。けれど大野は何を言われても表情を変えない。

「俺は社長こそ経営者にふさわしい人間だと考えています。不満なんて一切ない。むしろ、彼女が後を継いでくれて安心してますが」

「何を言って」

「社長はしげく現場を訪れては、現場の状況を確認してくれました。そのおかげで、こちらの意見も通りやすくなり、ありがたいくらいです。大して、副社長は工場に来たことありましたっけ?」

西島が途端に目を泳がせる。彼は工場に行くことを極端に嫌がっていた。現場で働く社員を見下し、自分には関係ないと思っていたのだろう。

「あんな底辺と違って、俺はやるべきことがたくさんあるんだ。工場なんて言ってる暇ないんだよ」

そう村田に愚痴っているのも聞いたことがある。父はそんな西島に度々注意していたようだ。少しでも改善してくれたらと願っていたに違いない。ただ、西島の態度が変わることはなかった。

「副社長は優秀ではあるが、現場の職人たちを全く大事にしない。この会社は職人の技術あってこそなのだが、なぜ分かってくれないのか」

時折、父は頭を抱えていた。彼はもしかしたら、西島が社長になることを内心恐れていたのかもしれない。だから遺言書を残した可能性がある。ちなみに職人たちは皆、西島に見下されていることに気づいていた。それ故、西島の評判は悪い。副社長という役職でなければ、誰も彼の言うことなど聞かなかっただろう。

「職人は皆、社長が彼女で良かったと言ってます。退職届けを書いたのだって、副社長に弱みを握られた若手だけ。実際、2人は俺を脅そうとはしませんでしたよね」

「それはだな」

「どうせ脅したところで意味がないと思ってたんでしょ。ご名答です。あんたに何を言われても、俺は退職届けなんて書かなかった。新しい社長の元で働き続けるって決めてるからな」

西島と村田もさすがに相手を選んでいるらしい。古参の社員やベテランの職人には退職を迫らなかったようだ。

「こっちは皆を大切にしてくれる社長を評価してるんだ。先代も職人がいてこその会社だと理解していた。そんな人が上に立つべきだって、あなた方には分からないんだろうな」

「ふざけるな。高が工場長の分際で、偉そうな口を聞きやがって」

西島が苛立ちを露わにして顔を歪める。村田も眉を潜め、大野を睨んでいた。

「この女はお前ら職人からの好感度をあげたいだけだ。自分の味方を増やすためだけに現場に通ってたんだぞ。つまり、お前らは利用されてるだけなんだ」

「副社長の言う通りです。彼女のいいように使われて、不快じゃないんですか? 俺だったら耐えられません」

「そんなのじゃない。関われば分かることだ。社長は心から現場を大切にしてくれている」

目を細める大野を見て、私は胸が熱くなった。彼ら職人は私の人柄をちゃんと知ってくれていたのだ。コネ入社だと決めつけて見下す西島や村田とは違う。すると大野は2人に警告の視線を送った。

「そもそも、先日発生した不良品ですが、あれは社長の責任ではないですよね」

「いやいや、いくら社長の味方をしたいからって、さすがに無理があるでしょ。社長の指示書にミスがあったから、不良品が出たんですよ」

「いえ、指示書に間違いはありませんでした。俺たちも情報を共有して、問題ない温度に設定していたので」

そう言い切る大野に、西島が鼻で笑う。

「じゃあ、なんで不良品が出たんだ? 職人のミスか。あれは現場で起きた問題だ。社長を庇えば、部下の責任になる。いや、管理職である工場長の責任か。あなたは自分のせいで不良品が出たとおっしゃりたいんですね」

鬼の首を取ったかのように得意げに語る村田。2人は大野を追い詰めたとでも思っているのだろう。だが大野は淡々と事実を告げる。

「こっちは聞いてるんですよ。あんたらが若手社員に指示を出したこと」

「指示? 何の話だ? 俺は関係ない。その若手社員が嘘をついているんだろう」

「知らばっくれても無駄ですよ。2人が機械の設定温度を変更するよう命令していたんですよね」

先ほどまでの余裕が消え、途端に黙り込む2人。実は不良品が発生したのは、指示書とは異なる設定温度になっていたからだった。工場長から話を聞いて驚きました。

「お2人は若手社員を脅して、無理やり言うことを聞かせたんですよね」

「知らないな。社長は根拠もないのに、俺たちのせいにするんですか? ご自身のミスだと認めたくないのは分かりますが、いくら何でもおかしいでしょう」

2人は白を切るが、こちらはすでに事情を把握している。

「この指示書を無視して、温度を変更しろ。従わなければ、どうなるか分かってるな。あなたは先日、大きなミスをやらかしてますよね。あれ、社長に報告してもいいんですよ。どんな処分が下されるでしょうね」

彼らは最近ミスを犯していた社員を狙って脅したそうだ。副社長に迫られたら、若手は逆らえない。その結果、社員は言われた通りに温度を調整し、不良品が発生してしまったという。

「しかも、今回また彼を脅して、退職届けを書かせたらしいな。泳がせたりせず、もっと早く対応しておけばよかった」

大野が悔しさからか、拳を強く握りしめる。彼は不良品が出た際、設定温度が変わっていたことに気づき、私が原因ではないとすぐさま見抜いた。その上で、若手社員が怪しい動きをしていたことを思い出したのだ。そう。だから大野は私に「現場には来ないよう」告げたのだ。私が工場の社員らに謝る必要などないと思ったからこその発言だったらしい。

ちなみに、その後、大野から再び電話があった。

「強化さん、先ほどのミスですが、あれは部下が原因みたいです。本当に申し訳ございません」

「いえ、間違いは誰にでもありますから。それより、原因は何ですか?」

「それが」

当時、大野はまだ若手社員から事情を聞いていなかった。それでも心当たりがあったのだろう。

「社員が勝手に設定温度を変更したんですか?」

大野は単なる社員のミスではなく、わざと調整したと踏んでいた。それが事実なら大問題だが、証拠はない。

「彼がなぜそんな行動に出たのか。俺も事情を探るので、今はまだ部下を問い詰めないでもらえますか? あいつがそんなことするとは思えなくて」

「分かりました。ですが、念のため気をつけてください。工場が責任を取る事態になりかねないので」

「もちろん、今後は同じようなことが起きないよう、注意を払います」

大野はその後、若手社員を泳がせつつ、事情を尋ねる機会を狙っていた。そうした中で、今回、社員から個別で聞き取りをしなければならなくなった。

「部下も最初は口を割りませんでした。なぜ退職しようと思ったのか、どうしてあの時温度を調整したのか。でも、徐々に話し始めたんです。副社長たちに脅されていたと」

「嘘だ。俺たちは知らない」

西島の反論を無視して、大野が言葉を続ける。

「『あれがお前の仕業だって社長に言われたくなければ、退職届けを書け』。そう詰め寄ったらしいですね。彼は罪悪感に苛まれ、どうすべきか悩んでいた。それで今回、俺に全てを打ち明けてくれたんです」

若手社員は自分の行動が間違っていることに気がついていたけれど、告白する勇気がなく、今まで溜め込んでいたそうだ。本人は後悔しているようで、私に直接謝りたいと話しているらしい。

「あなたたちは自分が何をやったか、分かってますか? どうせ社長を落とし入れるのが狙いだったんですよね。だとしても、やりすぎだ。あの時、工場がどれだけ混乱していたか」

「黙れ。その社員は嘘をついているに違いない。自分が怒られたくなくて、俺たちを巻き込んでるんだろ。俺たちが指示を出したという証拠でもあるんですか? ないですよね。やったのはその社員なんですから」

未だに悪びれることなく、うそ笑いを浮かべる西島と村田。彼らは自分たちの仕業だと証明するものなど何もないと考えているようだ。だが、大野がポケットからボイスレコーダーを取り出す。

「これは部下から託されたものです。この会話を聞いてもらえれば、副社長も納得するでしょう」

そう言って、彼は再生ボタンを押した。流れてきたのは西島と村田の声。

「よくやった。お前のおかげで、あの女、顔が真っ青だったぞ。もちろん、お前の仕業だってバレてないよな。設定を変更したこと、気づかれても自分の責任だと言い張ってくださいね。俺たちのせいにしたら、速攻首にしますから」

「いずれ俺は社長になる。その時、お前を工場長に任命してやるよ。だから、絶対に俺たちを売るようなことはするな。分かったな」

若手社員は何かあった時に自分の身を守れるように、会話を録音し、証拠を残していた。ただ、後悔しているからこそ、若手社員は退職を受け入れていたという。

「この証拠も出さなくていいと言われたんだが、俺は納得できなかった。そりゃ部下も悪いが、彼だけ責任を取るのは違うだろう。だから、預かってきたんだ」

「証拠はありましたね。副社長、村田部長、これでご自身の罪を認めてくれますか?」

王城際の悪い2人でも、さすがに証拠があれば言い逃れはできない。西島と村田は額に冷や汗をかき、口ごもった。言い訳すら出てこないのだろう。

「部下に処分を下すことは止めはしません。でも、彼は2人に逆らえなかっただけなんです。本人も深く反省しているので、社長、どうか」

「分かってます。安心してください」

部下思いの大野が、告白した社員を咎めたくない気持ちも分かる。私は社長として、厳重注意と再発防止策の徹底に留めようと考えていた。ただ、西島と村田にはしっかりと処分を下さなければならない。私は内線を入れ、とある社員を社長室に呼んだ。

「社長、失礼いたします」

入ってきたのは戸松だ。彼を見るなり、村田が顔を真っ赤にして激怒する。

「なんでお前がここに来るんだ? 関係ないやつは引っ込んでろ」

「私が彼を呼んだんです。戸松さん、仕事中にごめんなさい」

「いえ、例の書類、持ってきました」

私は戸松が手にしていた書類を受け取り、目を通す。

「色々と協力してくれてありがとう。戸松さんの力がなければ、ここまで調べられなかったわ」

「俺の方こそ、社長が信用してくれて嬉しかったです」

「何ニコニコしてんだよ。お前はこの女の味方をするのか? 直属の上司は俺だ。社長に媚びへつらうような情けない真似するな」

村田は声を荒げ、戸松を激しく非難する。だが、目上の人間に媚びているのは村田の方だ。どうして自分のことを棚に上げて、戸松を責められるのだろう。私は呆れて何も言えなかった。そんな中、戸松は冷静に村田を見つめる。

「部長には感謝しています。何度助けてもらったか分かりません。でも、言いなりになる必要はないんだと、社長が教えてくれました」

「は? 何が言いたいんだ?」

「退職届けを書かされたことを根に持ってるのか? 聞き取りの時に脅されたと言って、社長に泣きついたんだろう。もう終わったことじゃないか」

「いえ、そのことは関係ありません。俺はただ、村田部長の不正について黙っているのはやめようと決めたんです」

一瞬、村田の顔が凍りつく。西島もギョッとしたような表情を浮かべた。

「不正? 何のことだ? そんなに俺が嫌いなのか? だとしても、罪をでっち上げられるのは心外だな」

「証拠ならあります。社長と一緒に調べました。この書類を見てもらえますでしょうか?」

戸松が淡々と書類の説明を始める。以前、私に声をかけてくれた戸松。1度は村田に遮られたものの、彼は改めて後日、相談してくれた。

「この前は部長がいて話しづらくて。でも、やっぱり森岡さんには聞いてもらいたかったんです」

戸松が言うには、村田が不正をしている可能性があるらしい。

「帳簿を確認していて、違和感を覚えまして」

確かに書類を確認すると、仕入れ先の単価と実際の支払い金額に乖離があった。これだけで不正だと決めつけることはできないが、怪しい。

「不思議ね。教えてくれてありがとう。だけど、なぜ私に? 経理部の他の方に相談したの?」

思わず問いかけると、戸松が口を開いた。

「経理部はみんな部長に怯えています。だから、違和感があると伝えても、流されてしまうと思って」

「なるほどね」

以前から村田は部下に高圧的な態度を取っていたようだ。ミスを厳しく咎め、質問されても「そんなことも分からないのか」と馬鹿にする。そのせいで、皆、村田に逆らわなくなったらしい。

「あと、経理部以外の社員も、村田部長を恐れてる人が多いんです。彼は副社長のお気に入りですから。だけど、森岡さんは2人にも毅然と立ち向かいますよね。ずっと見てました。何を言われても堂々としていて。だから、俺は森岡さんになら報告しても大丈夫だと思ったんです」

てっきり戸松は私が社長の娘だから相談していると思っていた。だが、実際は人柄を見て、私になら言えると判断したらしい。会社での立場ではなく、内面で評価してくれたことが嬉しくて、ふと頬が緩む。

「ありがとう。もしも不正だった場合は大問題よ。だから、しっかり調査して証拠を掴みましょう。戸松さん、協力お願いします」

「はい。俺にできることなら何でもしますので」

その後、私たちは調査を進め、特定の鋼材の仕入れ値が市場価格よりも明らかに高いことに気がついた。

「どうしてこれがこんなに高いの? おかしい」

「森岡さん、見てください。これ」

戸松が仕入れ先の情報を確認して声をあげる。そこは西島の義弟が経営している会社だった。しかし、規模は存在するものの、調べる限り従業員はおらず、事務所もない状態。

「もしかして、これ、ペーパーカンパニー?」

村田1人の問題ではなく、西島もおそらく関与している。私はそう考え、さらに調べ上げた。その結果、2人が架空取引を行っている証拠を掴む。彼らは材料費などで架空計上を行い、横領していたのだ。

「おそらく副社長の指示で、村田部長は経理処理を担当していたのね」

「ありえない。このまま放っておくわけにはいかないですね」

本来なら、その証拠を父にも見せて相談するつもりだった。しかし、彼が亡くなったため、私は父に代わり、2人を処分すると決めた。

「戸松さんが過去の帳簿を全てチェックしてくれたの。この3年、ずっと架空取引をしていたみたいですね」

「いえ、俺たちはそんなこと」

「この書類を見ても、まだ認めないつもりですか? 副社長に頼まれて、村田部長が処理していたんですよね。何に使っていたか分かりませんが、会社のお金に手をつけるなんて」

「だから、誤解ですってば。副社長」

村田はしどろもどろになりながらも言い訳を続ける。一方で西島は黙り込んでしまった。横領が発覚して愕然としているのだろう。すると西島には頼れないと悟ったのか、村田が1人で大声を張り上げる。

「どういうことだ、戸松。お前を疑ってたのか。こっちはお前のために色々と力になってやったよな」

戸松を指差し、鬼のような形相。追い詰められて、やけになっているようだ。

「お前だって、この女が嫌いだったんだろ。だから関わろうとしなかったはずだ。社長に就任したタイミングで態度を変えるなんて卑怯だぞ」

「俺は森岡さんが社長になる前に相談したんです。そもそも、彼女のことを嫌いだなんて言ったことはないと思いますが」

「彼女と2人きりだった時、気まずそうな顔をしてただろう。俺が助け舟を出したこと、忘れたのか?」

以前、声をかけてくれた時、確かに戸松は目を泳がせ、足早にその場を去った。でも、それは私と2人きりでいる時間が気まずかったわけではない。

「あの日、村田部長がそばにいたから、動揺していただけです。あなたのことを相談したいのに、本人がいたら話せないでしょ」

「あの時から、もう俺を疑ってたのか」

「嫌うどころか、むしろ俺は社長を尊敬しています。彼女は社長令嬢だからと言って、媚びを売ったりしなかった。先代のようになろうと懸命に頑張っていて」

真っすぐな瞳で語る戸松を見て、村田が顔を歪める。

「そんなこと、今更言ったって遅い。現に、お前は他の社員と一緒になって、社長を避けてたじゃないか」

「全員、噂に惑わされて社長をのけ者にしていました。噂を流して遠ざけたのは、部長ですよね。社員はみんな分かってます。社長が素晴らしい方だと」

戸松はそう言い切ると、私に笑顔を向けた。社員に嫌われていると思い込み、悩んでいたあの頃。戸松が私を信じて相談してくれたおかげで、自信を取り戻せた。

「森岡さんは嫌われてなんかいません。みんな、副社長と部長に怯えて、どう声をかけるべきかためらっているだけです」

「誤解させてすみませんでした」

不正について調査している際、謝罪してきた戸松。当時は半信半疑だったものの、聞き取りをして実感した。実際、他の社員も皆、戸松と同じような考えだったのだ。村田はしょっちゅう若手社員を集めては、私の悪口を吹き込んでいた。それを静かに聞いていた社員たち。私は皆、村田の話を信じているものだと思い込んでいた。しかし、彼らはあくまでも聞き流していただけに過ぎなかったようだ。

「彼らは噂話ばかりする村田部長に辟易していたそうです。だからと言って、話を変えたらあなたは激怒する。そのため、社員はしぶしぶ聞き役に徹していたんですよ」

「何を言ってるんですか? そんなのはハッタリだ。あいつらは危機感を持って、俺の話を聞いていました。森岡さんとは関わらないって言い切ってるやつもいたんですよ」

私の話を信じられないのか、村田が目を吊り上げて反論する。彼は自分が鬱陶しがられているだなんて、思っても見なかったのだろう。ただ、実際に社員から報告を受けているのだ。

「村田部長は私と関わる社員に暴言を吐いていたそうですね。それゆえ、距離を置いていたと話していた人もいるんですよ」

村田は私と一緒にいる社員を見つけるたび、「お前もあの女と同類ってことか。じゃあ、俺はもうお前とは関わらない。経理部にも入ってくるな」と告げて、無視をしていたらしい。対話の際、社員は皆、口々に私に向かって謝罪した。彼らは悪口など言っておらず、村田の話に合わせていただけだという。証拠はないものの、社員の事情も理解できる。これに関しては、特に攻め立てるつもりは元々なかった。

社員は今回、村田と関わると痛い目に遭うと分かったらしい。彼らは今後、村田がどんな噂を流しても耳を貸さないと決めたようだ。

「社員も、口ばかりのあなたに付き合いきれないと思っていたみたいです。本人には自覚がないから、我慢していたと話していました」

「そんなはずがない。あいつらはずっと社長を侮辱してました。俺に罪をなすりつけて、自分たちだけ助かろうとしているんだ。それなのに、社長は多めに見るんですか?」

すると、戸松がゆっくりと手を上げる。

「俺が見聞きした限り、社員が社長の悪口を言ってたことはないと思います。あくまでも部長の話に返答していただけであって」

「ふざけるな。お前だって内心、社長をバカにしてたんだろ。みんな言ってたんだ。『40過ぎても独身なんてありえない』って」

その時、かつて社員がひそひそと話していた言葉を思い出した。彼らは「あんな人、結婚できないよ」と嘲笑っていたはずだ。村田の言う通り、私は影で笑われていたのかもしれない。そう思ったものの、戸松が首をかしげる。

「え? 社長って独身なんですか?」

「は? 知らないわけないだろ。知らばっくれてるな」

「いや、本当に知りませんでした。わざわざプライベートについて聞くこともなかったですし。俺だけじゃなくて、他の社員も把握してないんじゃないでしょうか」

確かに、私は同僚に自分が独身だとは話していない。どこから漏れたのか不思議に思っていたが、そもそもみんな知らないという。戸松が嘘をついているようには見えなかった。村田は口をポカンと開けて固まる。

「じゃあ、あいつら一体、誰のことを?」

「引き遅れた女が、社長以外にもいるのか?」

その瞬間、戸松は恐る恐る口を開いた。

「あまり本人に言うべきではないかもしれませんが、それって村田部長のことじゃないですか?」

「俺? そんなわけないだろ。なんで俺が社員にバカにされないといけないんだ。こっちは仕事一筋で生きてきて、ただ結婚しなかっただけなのに」

激しく噴き出す村田。どうやら彼も独身らしい。その時、大野がプッと吹き出す。

「仕事一筋の割には、成果を残せてないですよね。以前、部下が噂してたのを聞いたことがあります。『経理部長は副社長に媚びを売って、ようやく昇進できた』と」

「何? それを言っていたのは誰だ? 今すぐここに連れてこい」

「いや、多すぎて無理ですね。1人2人の話ではないので」

工場で働く社員の中では、村田は悪い意味で有名だったようだ。自身も独身のくせに、未婚の女性社員を笑い、目上の人間にはペコペコ頭を下げる社員だと。その上、自分の業務をしょっちゅう部下に押し付けていたらしい。

「部長は別の部署の社員からも嫌われてましたから。社長ではなく、部長のことを噂していたんでしょう」

「俺が嫌われていただと?」

目下の社員に威張り散らし、西島の右腕だからと横柄な態度を取っていた村田。結婚できるわけがないと笑い物にされていたのは、彼だったのだ。そんな村田を西島が鼻で笑う。

「社長じゃなくて、自分が馬鹿にされていることに気づかないなんて。村田部長は愚かな人間だな」

「副社長、あなたにそこまで言われる筋合いはないかと」

「なんでだ? 俺は結婚して子供もいる。大して、お前は1人だ。俺がいなければ、経理部長にすらなれなかったんだぞ。今、こんな状況になってるのは、全部あなたのせいですからね」

普段なら、村田が西島に言い返すことなどない。だが、さすがに頭に来たのだろう。村田は鋭い目つきで西島を睨みつけた。

「俺は横領なんてやりたくないと反対したはずです。でも、絶対にうまくいくと言われて、仕方なく力を貸したんですよ」

「おい、わざわざこの場で話すことか?」

「社長、すみません。副部長は今、興奮していて。不正を行ったのは、あくまでもこいつですから」

「あなたの義弟の名前を使ってますよね。それでも、俺1人でやったと言いはるんですか? 戸松、今すぐその証拠を副社長に見せろ」

「落ち着けって」

「戸松さん、早く出てきなさい。もう証拠は社長に渡したんだろう」

これ以上、村田が暴走したらごまかせなくなる。西島はそう判断したのか、戸松を社長室から追い出そうとした。しかし、出ていくべきなのは西島たちの方だろう。

「社員たちを脅して退職届けを書かせたこと。架空取引を行って横領したこと。2人にはしっかりと罪を償ってもらいます。もちろん、それ相応の処分を受けてもらいますので」

「処分って」

「ひとまず、自宅待機をしていただきます。処分は追ってお伝えしますから、待ってください」

目を潤ませて、村田がその場で土下座をする。彼に続き、西島も床に額をついた。

「社長、申し訳ございませんでした。俺はただ、副社長の指示に従っただけなんです。ですが、本当は彼を止めるべきでした。すみません」

「社長、誤解しないでくださいね。村田は俺を陥れたんです。彼の口車に乗った俺も悪いですが、村田こそ主犯ですから」

「副社長だからって、俺に責任を擦り付けたのはお前だろ。こっちが反対しても、聞く耳持たなかったくせに」

「毎回、口出ししてきたのはお前だろ。よく言うよ。お前が切り出したじゃないか。『副社長が社長になるべきだ』って」

2人は私たちの視線など無視して、見苦しい言い争いを始める。互いに罪をなすり付け合い、どうにかして自分だけは助かろうとした。ただ、こちらからすれば、主犯がどちらかなんて興味はない。

「あなた方は2人で社員を脅し、横領までした。その事実は変わりません。言い争っても無駄ですから。村田部長、大人しく罪を償ってください」

「俺たちはもう、部長に怯えて仕事するのは嫌なんです。副社長だって、そろそろ気づいてますよね。自分には社長ほどの人望がないことに」

私の言葉に続いて、戸松と大野が淡々と声を上げる。西島と村田は言い返すこともできなくなったのか、静かに唸らされた。その時、社長室の前からざわめきが聞こえる。扉を開けると、不安げな顔をした社員が大勢集まっていた。彼らは私に「退職したくない」と再度伝えに来たのだろう。

「皆さん、仕事に戻ってください。退職届けについては、改めて説明しますので」

そう伝えるも、社員の視線は自然と西島と村田に向く。彼らはひそひそと「後ろめたいことがあるんじゃない?」「あの2人の声、聞こえたけど」と呟いている。どうやら社長室の外まで、2人の言い争う声が漏れていたらしい。事実に気づいて、表情を失う西島と村田。きっと自宅謹慎を告げたことも、社員らの耳に届いているはずだ。

「もういい。勝手にしてくれ。こんな会社には痛くない。首でも何でも受け入れてやるよ」

声を荒げ、突然、西島が立ち上がる。彼は逃げるようにして社長室を出ていこうとした。ただ、伝えなければならないことがまだある。

「損害賠償請求をさせていただくので、そのつもりでよろしくお願いしますね」

「え?」

彼らに処分を下すのとは別に、横領したお金を返してもらわなければならない。むしろ、賠償金を請求されることくらい、分かっていたはずだろう。そう思ったものの、西島は呆然と立ち尽くす。

「賠償金なんて払えません。こっちには妻も子供もいるんだ。家族を養うために、仕事を探さなくちゃならないのに。社長、勘弁してくれますよね」

西島の家族には申し訳なく思うが、だからと言って会社が彼を見逃す理由はない。そもそも西島は家族を盾にして、社員たちを脅していた。自分だけ助かろうとするなんて卑怯だ。

「ご家族には、ご自身の口で事情を説明してください。全部、自業自得なんですから」

「社長、やめてください。お願いします。俺が嫁に捨てられてもいいんですか?」

「横領なんてしなければ、こんなことにはならなかったんですけどね。どんな事情があろうと、父の会社をめちゃくちゃにした2人を許すわけにはいかない。父だって、きっと生きていたら私と同じ判断をしていただろう」

項垂れる西島の隣で、村田は体を震わせる。

「首になんてなりたくない。賠償金だって支払えるもんか。なんで俺がこんな目に?」

2人はしばらくの間、じっと黙って唸らされていた。だが、社員から白い目で見られて、耐えられなくなったようだ。

「お前みたいな女の下で働かずに済んで、良かったわ。会社なんて潰れてしまえ。今後、この会社がどうなろうが、俺たちには関係ありませんから」

捨てゼリフを吐いて、2人は社長室を出ていった。情けない彼らの背中を、静かに見送る社員たち。私は改めて大野と戸松に感謝した後、不安がある社員に「退職届けは無効にしたから、安心するよう」説明した。彼らには今後も会社を支えていってほしい。

その後、私は2人に懲戒解雇処分を下した。社員への脅迫に加え、勝手に不良品を発生させ、横領までしていたのだ。彼らを雇い続ける理由はない。ちなみに、西島に脅されて機械の設定温度を調整した社員には、厳重注意し、再発防止に務めるよう伝えた。大野が工場長である限り、2度と同じようなことは起こらないはずだ。

そして会社は、西島と村田に損害賠償請求を行った。賠償金は支払われたものの、彼らは借金をすることになったらしい。西島は今回のことがバレて、妻から離婚を告げられたそうだ。現在、バイトをしながら借金を返済していると風の噂で聞いた。同業界で仕事を探しているらしいが、噂が広まり、どこも採用してくれないのだとか。村田は1人寂しくボロアパートで暮らしていると、戸松が言っていた。

「1度だけ電話があったんです。お金を貸して欲しいと」

お金に困っているのか。村田は手当たり次第に金の無心をしているという。もちろん、戸松は断ったらしい。2人はそれぞれ、苦しい生活を送っていくことになるだろう。

一方、私は今、社長業に邁進している。重工業メーカーとの契約が締結した後、会社は順調だ。他の企業との契約も増え、業績もさらに伸びている。声に支えてくれている社員たちのおかげだ。

「社長、お疲れ様です」

「工場、今日はどんな感じですか? 問題は起きてませんかね?」

私は今も時間があれば現場に足を運ぶようにしている。職人たちの技術がなければ、これほどまでに会社は大きくならなかったのだから。

「机上の空論だけでは経営は成り立たない。今後も現場を大切にするのを忘れるなよ」

父の言葉を胸に、私はこれからも技術を広め、会社を発展させていきたいと思う。

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