夫が退職金を銀行に預けたと聞いたのは、残高報告書が届いた後だった。そこには「-514万円」と書かれていた。私はスーパーのパートで6年かけてやっと稼げる金額を、夫が数ヶ月で消していた。問い詰めると、夫は「俺の稼いだ金だろう。お前に何がわかる」と怒鳴った。40年、黙って支えてきた私の存在は、その一言で消えた。そして今、実家の修繕費250万円が迫っている。手元の現金は170万円。残された道は、損失…

夫が退職金を銀行に預けたと聞いたのは、残高報告書が届いた後だった。そこには「-514万円」と書かれていた。私はスーパーのパートで6年かけてやっと稼げる金額を、夫が数ヶ月で消していた。問い詰めると、夫は「俺の稼いだ金だろう。お前に何がわかる」と怒鳴った。40年、黙って支えてきた私の存在は、その一言で消えた。そして今、実家の修繕費250万円が迫っている。手元の現金は170万円。残された道は、損失...

40年間、柏鶴の手の甲には家事と事務仕事が刻んだ細かなひび割れが走っていた。指先はわずかに黄ばみ、毎朝彼女は硬い鉛筆を選んで家計簿を開き、前日のレシートを親指の腹で丁寧になぞってから挟み込んだ。節約は習慣だと、誰に教わったわけでもなく体が覚えていた。

2026年の春、その習慣が突然意味を失う瞬間が訪れた。夫の柏竜平が40年近く勤めた会社を定年退職し、2人は老後の全財産を手にした。2200万円。その数字が静かな崩壊の出発点となった。

3月末の平日の午後、竜平はATMの前に立っていた。周囲に人はなく、隣の霊園の機械が低く唸るだけだった。暗証番号を押し、画面に表示された残高を見た瞬間、思わず一歩後ずさった。2234万8000円。数字の列をゆっくり左から右へ読んだ。3度繰り返した。息が早くなり、胸の奥で何かが膨らんでいく感覚があった。誇りとも安堵とも呼べない、もっと粘り気のある感情だった。これが自分の人生の証明だと思った。節制した。我慢した。家族を養った。同僚の飲み会に誘われる夜も、部下が残業代の話をする朝も、自分は一度も浮かれなかった。その全てがこの数字になって帰ってきた。

家に帰っても、竜平はその数字を妻の千鶴には話さなかった。なぜ話さなかったのか、後になってもうまく説明できなかっただろう。ただ、この喜びを誰かと分かち合う前にもう少し自分の中で温めておきたかった。それだけのことだった。

千鶴はその日も黙々と夕食を作り、2人は向かい合って箸を動かした。テレビのニュースが食卓に流れ込み、食後の茶を竜平が一人で飲んでいる間に、千鶴は黙って食器を洗い始めた。40年間、ほとんどの夜がこうだった。

竜平が顕在卸の会社に入ったのは26歳の時だった。最初は倉庫での仕訳作業から始まり、少しずつ営業の補佐、資材管理、最終的には地方の中規模営業所の署長代理にまで上がった。華やかな出世ではなかったが、竜平は自分の立場をそれなりの誇りを持って受け止めていた。自分はこの地域の顕在の流れを支えてきた。その感覚が彼の背骨になっていた。

千鶴は結婚後も専業主婦にはならず、物流会社の事務として働き続けた。子供が生まれてからも義母に預けながら仕事を続けた。必要があったからだが、千鶴にとっては必要性以上の意味もあった。家の外に自分の場所を持っていることが、彼女の静かな誇りだった。子供たちが独立してからは、近所のスーパーの事務所でパートのデータ入力をしながら家計簿に向かう日々を送っていた。

2人の間には深い会話はなかった。それが不幸というわけでもなかった。竜平は黙って働き、千鶴は黙って支えた。その沈黙は、長い年月を経て、不満でも満足でもなく、ただの日常になっていた。

退職から1週間後、郵便受けを開けた竜平の手が止まった。封筒の質感が違った。白ではなくクリーム色に近い厚みのある紙に、細い金色の縁取りが施されていた。差出人欄には、竜平が長年給与振り込みに使ってきた地方銀行の名前が印刷されていた。封を開けると、中には1枚の招待状が入っていた。「貴重なお客様へ」とある種のかしこまった書体で書かれていた。退職金のお受け取りを誠におめでとうございます。この度お客様に、平下りプレミアム資産運用相談室へのご案内を差し上げたく、特別にご連絡申し上げる次第でございます。ご都合のよろしい日時をご指定いただければ、専門のスタッフが丁寧にご対応させていただきます。

竜平は招待状を裏返し、金色のロゴを確認した。また表に戻し、もう一度読んだ。プレミアム、特別、専門のスタッフ。言葉の一つ一つが静かに竜平の何かを刺激した。会社をやめて1週間、急に所在の亡くなった日々の中で、この招待状だけが竜平に対して「あなたはまだ重要な人間だ」と語りかけているように感じた。

その日の夜も、竜平は千鶴に何も話さなかった。封筒をスーツの内ポケットに畳んで入れ、翌朝こっそりと引き出しの奥にしまい込んだ。千鶴が気づかないよう、日家の新聞の下に隠した。なぜ隠したのか、竜平は考えなかった。

2日後、竜平は家を出た。千鶴には買い物に行くと告げた。実際には押入れの奥に保管していたスーツを取り出し、ハンガーに吊して軽く手でシワを伸ばしてから着込んだ。退職後に一度も袖を通していなかったそのスーツは、肩の辺りが少し窮屈に感じた。体が変わったのか布が縮んだのかは分からなかった。玄関先の鏡で自分の姿を確認した。白髪が増えていたが、姿勢はまだ崩れていなかった。棚の上に置いてある小瓶から、古いコロンを少量だけ手首に擦りつけた。何年も前に百貨店で買ったもので、半分以上残っていた。

外に出ると、3月の終わりの空気はまだ冷たかった。竜平はバスに乗り、市街地の銀行まで向かった。銀行のロビーに入ると、受付の若い女性が笑顔で近づいてきた。「招待状をお持ちの方ですね」と確認され、竜平は内ポケットから畳んだ封筒を取り出した。少し折れ目がついてしまっていたことに、今更気がついた。女性はそれを受け取り、「少々お待ちください」と言って奥へと消えた。通常のロビーとは別の廊下を案内されたのは、それから5分後だった。

部屋は広くなかったが、ロビーとは明らかに素材が違った。床は硬い木で、壁には薄い茶色の布が貼られていた。中央に濃い木目のテーブルが置かれ、革張りの椅子が2脚向かい合っていた。竜平が座るとすぐにスタッフが温かいほうじ茶を運んできた。湯が細く立ちのぼり、カップの縁に薄い金色のラインが走っていた。

しばらくしてドアが開いた。白井さよ子と名乗った女性は30歳前後に見えた。髪を後ろでまとめ、ジャケットを着ていた。化粧は控えめで、笑顔は測りすぎず測らなさすぎず、ちょうどいい加減に調節されていた。椅子に座った彼女は両手を膝の上に揃え、軽く頭を下げてから「柏木様、この度はご退職誠におめでとうございます」と言った。声は低すぎず高すぎず、響き方が穏やかだった。竜平は思わず姿勢を正した。

さよ子は話し始めた。「長年のお務め本当にご苦労様でございました」という前置きから入り、竜平の業種や勤続年数に触れた。「柏木様のような地域の産業を長年支えてこられた方こそ、退職後の資産をしっかりと運用することが大切だと思っております。」竜平は頷きながら、胸の中で何かが溶けていくのを感じた。会社をやめてから、誰かにこんな風に話しかけられたことは一度もなかった。長年の苦労を認められたという感覚が、思った以上に竜平の心を揺さぶった。

さよ子はタブレットを取り出し、画面をテーブルの上に置いた。いくつかのグラフが表示されていた。右肩上がりの折れ線グラフが2本並んで描かれていた。「こちらが弊行でご案内している資産運用の2つのプランでございます」とさよ子は静かに言った。「1つは次世代反動対ファンド、もう1つは新興市場グリーンインフラファンドです。どちらも過去5年間の実績が高く、特にこの2年は市場全体を大きく上回る成果を上げております。」竜平は画面を眺めた。グラフの形は確かに美しかった。右に向かうにつれて線が上へと伸びていた。

さよ子は続けた。「お客様のご資産の規模を考慮しますと、2つのプランをバランスよく組み合わせることで、老後の生活資金を守りながら中長期的な資産の成長も期待できます。ただ、もちろん投資にはリスクが伴います。為替の変動やアクティブファンドの管理コストについてはご理解いただいた上でご判断いただければと思います。」

竜平は一瞬、「為替の変動」という言葉と「アクティブファンドの管理コスト」という言葉で足が止まった。どちらも正確な意味は分からなかった。為替というのは円とドルの話だろう。それくらいは分かる。だが変動がどう影響するのかは漠然としていた。アクティブファンドという言葉に至っては、インデックスとの違いも管理コストがどの程度のものかも全く把握していなかった。しかしさよ子は竜平の反応を確認するでもなく、次の資料に移っていた。それが意図的かどうか、竜平には判断できなかった。

少し間があった後、さよ子は顔を上げて言った。「柏木様は為替リスクやファンドの運用コスト体系についてはもうよくご存知かと思いますが、何かご不明な点はございますか?」その問いかけは柔らかく、語尾に丁寧さがあった。だがその瞬間、竜平の中で何かが動いた。知っているか?断われた。自分が知らないと言えるか。30代の女性に向かって「よくわからないのだが」と口にできるか。長年の管理職がその問に対する答えを自動的に生成した。

竜平は軽く咳払いをした。右手の指先がテーブルの縁に触れ、無意識にトントンと弾き始めた。「ああ、その辺りはまあ」と彼は言った。「リスクというのはどこの世界にもある。商売やってた人間はみんな承知しとることだ。」さよ子は軽く頷いた。表情に余分な変化はなかった。竜平はさらに付け加えた。「管理コストがかかるのも当然だわな。プロが動かすんだから。」さよ子は「そうですね」とだけ言った。竜平がどの程度理解しているかを確かめようとする素振りはもう見せなかった。

数秒の沈黙の後、さよ子はA4サイズの書類の束をテーブルの上に静かに置いた。「こちらが申し込み書類一式でございます。ご検討の上、ご署名と捺印をいただければ手続きを進められます。」竜平は書類を手に取った。字が細かかった。数ページにわたる情報が続いていた。読む気はあった。しかし目が細かい文字を追い始めるとすぐに意味の切れ目が分からなくなった。文章は長く、括弧書きの中にさらに括弧書きがあり、パーセンテージと期間と条件が絡み合っていた。竜平は2ページ目の途中で書類を伏せた。

さよ子が言った。「ご不明な点がございましたらいつでもお申し付けください。」その声は変わらず穏やかだった。竜平はポケットに手を入れ、実印を取り出した。退職金の受け取り手続きの際に持ち歩くようになった黒い印鑑箱に入った印鑑だった。何かを考えたとは言えなかった。考えたというより、自分がここで引き下がることの恥ずかしさを想像した。招待状を受け取ってわざわざスーツを着てきて、内容も分からないままで「帰ります」と言えないという感覚が先にあった。そして2200万という数字が自分の頭の中で奇妙な体力を与えていた。これだけの金がある。少々のリスクは取れる。そう思った竜平は、申し込み書の署名欄に名前を書き、夏イ乱に実印を押した。

さよ子は書類を受け取り、改めて丁寧に一礼した。「ありがとうございます、柏木様。ご資産に1000万円分をこちらの2ファンドに半分ずつお申し込みいただいた形となります。後日、正式な確認書をお送りいたします。」2000万円という数字が竜平の耳に届いた時、指先がわずかに止まった。2200万のうちに1000万を入れることになっていたことは書類に書いてあったはずだった。だがゆっくり確認していなかった。200万円は手元に残るのかとぼんやり考えたが、口には出さなかった。

竜平は立ち上がり、軽く頭を下げた。帰りは廊下で案内の女性にもう一度礼を言われた。外に出ると、3月の午後の光が斜めに差していた。バス停までの道を歩きながら、竜平の中にあった何かがゆっくりと落ち着いていった。うまいことやったという感覚ではなかった。どちらかと言えば、ようやく一仕事を終えたという疲労に似た心地よさだった。スーパーにより、豆腐と卵を買ってから帰宅した。千鶴は台所にいた。竜平が買い物袋を置くと「お帰り」と短く言った。それ以上は何も聞かなかった。竜平もそれ以上は何も言わなかった。

その後の3ヶ月間は、竜平にとって長い人生の中でも記憶に残るほど穏やかな季節だった。夏の初め頃、スマートフォンの銀行アプリを開いた竜平の目に、緑色の数字が飛び込んできた。評価額の欄に、入金時より50万円ほど増えた数字が表示されていた。竜平はそのまま画面をしばらく見つめた。指先でスクロールしてグラフを確認した。確かに上がっていた。右上がりの線が2ヶ月前より高い位置にあった。

その日の夜、竜平は珍しく自分からスマートフォンを手に取り、娘のミズに電話をかけた。ミズは35歳で東京で夫と2人暮らしをしていた。数年前から竜平との関係は冷え込んでいた。きっかけは一度の言い争いだったが、実際には竜平の物言いや決めつけが積み重なった結果だった。ミズは月に一度ほど千鶴に電話をかけてくるが、竜平とはほとんど話さなかった。電話が繋がると、ミズは驚いたような間があった。「もしもし」と短く言った。竜平は「元気か」と前置きしてすぐに本題に入った。「お父さんが退職金を投資に回したんだ。銀行のプロが選んだファンドでな、もう50万増えた。お前たちが心配せんでいいように、老後はしっかりやっていくわ。」ミズは一瞬黙った後、少し硬い声で言った。「ちょっと待って。銀行の窓口で買ったの?」竜平は少し意外な反応に戸惑いながら「そうだ」と答えた。「プレミアム相談室ってとこで専門家が対応してくれた」と付け加えた。ミズは続けた。「窓口販売は手数料が高いんだよ。ネット証券で自分で買えばかかるコストが全然違う。お父さん、買う時に手数料とか説明受けた?」竜平の顎が少し上がった。「なんだそれ?ネットで買うのか?そんな素人みたいなやり方より専門家に任せた方がよっぽど確かだ。お前みたいな若い世代はネットって言うけど、大事な金はそんな軽いもんじゃないぞ。」ミズの声がさらに硬くなった。「素人とかじゃなくて、手数料の差額は数十万になることもあるの。それにリスクの高いアクティブファンドは長期では指数ファンドに負けることが多くて」竜平は最後まで聞かなかった。「お前はまだ若いからわからんわな」と笑せるように言い、電話を切った。画面が暗くなった。竜平はテーブルの上にスマートフォンを置いた。指先が少し震えていた。怒っているのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からなかった。窓の外では夏の夜が深く静かに広がっていた。

夏が終わる少し前から、柏木竜平の眠りが浅くなった。最初はただの寝つきの悪さだと思っていた。退職してから生活のリズムが変わり、昼間に体を動かさないせいだろうと自分に言い聞かせた。だが夜中の2時や3時に目が覚め、天井を見つめながらふと頭の中でアプリの数字を思い浮かべることが増えた。翌朝スマートフォンを確認するまでの時間が、奇妙に長く感じられた。

8月の終わり、世界の金融市場でほぼ同時に複数の悪材料が重なった。アメリカの中央銀行が予想を上回る速さで利上げを決定し、それを受けて新興国の通貨が大幅に下落した。アジアの反動体関連銘柄も連鎖的に売られ、竜平が保有する2つのファンドはいずれも組み込み資産の大半がその影響を直接受ける構成になっていた。

朝の7時過ぎ、竜平は台所でまだ千鶴が朝食の準備をしている音を背中に聞きながら、寝室で一人スマートフォンを開いた。画面が切り替わった瞬間、竜平は息を飲んだ。評価額の横に赤い数字が表示されていた。-324万円。竜平はその数字を3度読んだ。324万。昨日まで50万増えていたはずの数字が、一夜にして大きく沈んでいた。正確には昨日から今日だけではなく、ここ数日で少しずつ下がっていたのを竜平は気がついていた。いや、気がついていたが目をそらしていた。指先でスクロールして詳細を確認した。2つのファンドのどちらも赤かった。反動体ファンドの方が特に大きく下がっており、グリーンインフラの方も影響で目減りしていた。竜平は画面を閉じた。また開いた。数字は変わっていなかった。

台所から千鶴の声がした。「ご飯できたよ。」竜平はスマートフォンを布団の下に滑り込ませ、立ち上がった。顔を洗い、鏡の前で自分の目を見た。充血していた。食卓に座ると、千鶴は味噌汁の椀を竜平の前に置いた。「今日は少し涼しいね」と言いながら自分の席に着いた。竜平は箸を持ったが、すぐには動かさなかった。千鶴は何かを感じ取ったのかもしれないが、何も言わなかった。テレビの朝のニュースが流れ、アナウンサーが株式市場の動向について話し始めた瞬間、竜平はリモコンを手に取ってチャンネルを変えた。千鶴が軽く顔を上げたが、すぐに視線を自分の茶碗に戻した。

その日、竜平は昼前に銀行のアプリを開き、また閉じた。昼過ぎに開き、また閉じた。夕方になっても数字は戻っていなかった。翌日もその翌日も、画面の赤は消えなかった。むしろ気をうごとに深くなっていった。300万が350万になり、350万が400万に近づいた。竜平は毎朝目覚めるたびに、起き上がる前にスマートフォンを確認するようになった。その動作は本人も気づかないうちに習慣になっていた。数字を確認し、赤ければ気分が重くなる。1日のスタートがそこから始まるようになった。

1週間ほど経ったある午前、竜平は自分の部屋に閉じこもり、白井さよ子に電話をかけた。呼び出し音が3回鳴り、繋がった。さよ子の声は変わらなかった。穏やかで張りがあり、仕事上の礼儀が全ての感情より先に出てくる種類の声だった。「柏木様、いつもお世話になっております」と言ってから少し間を置いた。竜平は声をできるだけ平静に保とうとした。「先日のファンドの件なんだが、かなり下がっとるようで」とだけ言った。さよ子は間を置かずに答えた。「はい。現在市場が大きく調整しておりまして、特に反動体セクターと新興国通貨連動の資産は影響を受けやすい状況になっております。」「それは分かっとるが、これはどのくらいで戻るんだ?」さよ子は答えた。「市場の動向については私ども確実なことは申し上げられません。ただ、柏木様のようにご資産を長期でお預けいただいているお客様には、今のような局面で売却されますと損失が確定してしまいます。中長期的な視点でお持ちいただくことをお勧めしております。」

「損失が確定する」という言葉が竜平の喉に詰まった。今売れば損が確定する。持ち続ければ戻るかもしれない。その論理は分かった。だが戻るという根拠がどこにも示されていなかった。さよ子は何も保証していなかった。ただ今売るなと言っていた。竜平は少し声を低くして言った。「最初の説明の時に、こんなに大きく下がるリスクは聞いとらんかった気がするんだが。」さよ子の声のトーンはわずかに変わった。わずかにだ。そのくらいのものだった。「柏木様、お申し込みの際にリスクについてはご説明の上でご署名いただいております。書類の3ページ目にも記載がございます。為替変動リスク、元本割れリスクについてはご確認いただいた上でのご契約でございます。」

竜平は何も言えなかった。自分が「リスクはどこの世界にもある」と言ったのを覚えていた。自分が「プロが動かすんだから」と言ったのを覚えていた。銀行側は説明したという記録がある。自分はそれを理解したと振る舞った。その事実は変えられなかった。通話を終えた後、竜平はしばらくスマートフォンを膝の上に置いたまま動かなかった。怒りと恥が胃の中で混ざり合って溶けていた。怒りをぶつける先は、もはや自分の外には向けられなかった。

その夜から、竜平の言動が変わり始めた。千鶴が気づいたのはそれから2、3日後のことだった。最初は些細なことだった。夕食の席で千鶴が「今スーパーで豚肉の少し良いものを見つけた」と話した。100g50円ほど普段より高かったが、たまにはと思って買ったと言った。竜平は箸を止めた。「50円」と言った。声が低かった。千鶴はそれが何かの始まりだとは思わなかった。ただその一言がいつもと違う温度を持っていた。竜平は続けた。「その50円がどこから来るかは考えとるか。年金の2人分を合わせても、毎月の生活費をギリギリ出せるかどうかなんだぞ。そんな細かいことを気にしとらんでどうする?」千鶴は何も言わなかった。箸を置き、立ち上がって台所に戻った。

その後も同じようなことが続いた。千鶴が買い物袋から食材を出すたびに、竜平の視線が価格を確認するように動いた。何も言わない日もあったが、言う日には容赦がなかった。「これはいるか?なぜこっちを選んだ?もっと安いものがあっただろう。」千鶴は言い返さなかった。黙って受け止めた。ただその重さの中に何かが積み重なっていくのを、竜平は感じていなかった。

夜、竜平は眠れない時間が増えた。寝室の暗闇の中で目を開けたまま、頭の中で計算を繰り返した。今の評価額から引き出せる金額、残りの現金、月々の年金額、固定費。計算するたびに数字が合わなかった。いや、合わないというよりギリギリだった。ギリギリという現実が、夜の静けさの中では輪郭をくっきりと見せた。竜平は自分がスーツを着てバスに乗った日のことを思い出した。封筒の金色の縁取り、さよ子の穏やかな笑顔、ほうじ茶の湯、あの部屋の中で自分がどれほど気分よく座っていたかを思い出すと、今の自分の状況との落差が重力のようにのしかかってきた。その夜、竜平は1時間かけてアプリを何度も開いたり閉じたりした。

一方、千鶴には竜平の様子がじわじわと引っかかりつつあった。竜平が夜中に起きていることは、廊下で物音がすることで気づいていた。食欲が落ちていることも食卓の様子からは分かった。スマートフォンを肌身離さず持ち、自分が近づくと素早く画面を伏せる動作も、一度や二度ではなかった。何かあったのだろうと千鶴は思った。しかし「何か」とは何か、それを確かめる術が今の自分にはなかった。聞けば竜平は怒鳴るか黙るかのどちらかだった。40年の経験が、この局面で追及することを千鶴に教えなかった。

ある平日の昼下がりのことだった。竜平は近所の公園に散歩に出かけると言って出た。千鶴は洗濯物を取り込んでから郵便受けを確認しに玄関を出た。封筒が3通入っていた。電気料金の請求書、市役所からの通知。そしてもう一通、見慣れた銀行のロゴが印刷された白い封筒だった。千鶴は電気と市役所の分は台所のカウンターに置き、銀行からの封筒を手に取った。「定期資産残高のご報告」と表に書いてあった。千鶴は封を切った。折りたたまれた1枚の用紙を開いた。数字が並んでいた。ファンド名、購入時の単価、現在の評価額、損益額。紙を持ったまま台所の椅子に座り、数字を追った。購入総額2000万円、現在の評価額1486万円、損益額-514万円。

514万円。千鶴はその数字を指先でそっとなぞった。自分の手の甲のひび割れが数字の上を通った。500万円とはどういう金額か、千鶴はすぐに体で理解した。彼女がスーパーのパートで働き続けてきた時給は、ここ数年でようやく1100円を超えた程度だった。1日4時間、月に20日働いて手取りは7万円にも満たない。500万円を稼ぐには、単純計算で6年以上かかる。それが数ヶ月で消えた。千鶴は椅子から立ち上がれなかった。立ち上がろうとしても、膝に力が入らなかった。窓の外の光が白く、何も考えられない数秒があった。やがて紙が千鶴の指先からするりと抜け落ちて、フローリングの床に滑った。千鶴はしばらくそのままでいた。

竜平が帰ってきたのはそれから1時間ほど後だった。玄関で靴を脱ぐ音がして「ただいま」と言った。返事がなかったので廊下に顔を出すと、千鶴が食卓の前に座っていた。テーブルの上に開かれた1枚の用紙があった。竜平は一歩踏み出して、その紙の内容を見た。体の奥で何かが落ちた。千鶴は顔を上げなかった。テーブルの一点を見つめていた。その視線は攻めるでもなく、怒るでもなく、ただひどく静かだった。竜平はその静けさがどんな怒鳴り声よりも重かった。しばらく誰も何も言わなかった。玄関の外で自転車が通る音がした。隣のテレビの音が薄く壁を透けてきた。千鶴がゆっくりと口を開いた。「説明してください」と言った。声は低かった。感情の震えをギリギリのところで抑え込んでいるような硬い響きがあった。「この数字は何ですか?どこから来たお金で、今どういう状態ですか?」竜平は立ったまま動けなかった。答えを持っていなかったわけではない。事実は分かっていた。しかし口を開いた瞬間に全てを認めることになるという恐怖が喉を塞いでいた。

数秒の間の後、竜平は口を開いた。「投資だ」と言った。声が硬くなっていた。「老後のために資産を増やそうと思って、銀行に相談してな。」千鶴は言った。「いつのことですか?いくら入れたんですか?」「3月に」「いくら?」「2000万だ。」千鶴の目が一瞬細くなった。「2000万円を、私に何も言わずに」竜平の中で何かが引っかかった。自分が正しいことをしていたはずだという感覚と、今の状況が全く噛み合わなかった。その不満が竜平の中で歪んだ形を取った。竜平は声を上げた。「何が悪いんだ?俺の稼いだ金だろう。自分の退職金をどう使おうが俺の自由じゃないか。お前に何がわかる?台所しか知らんくせに、金の動かし方が分かるか?」その言葉が食卓の空気を変えた。千鶴はしばらく竜平を見つめた。怒りでも悲しみでもない。もっと冷たい何かを含んだ目だった。それから千鶴は立ち上がり、床に落ちていた用紙を拾って静かに引き出しにしまった。

その夜は2人とも早くに別々の部屋に引き上げた。千鶴は寝室で横になりながら、しばらく目を開けたままでいた。500万円という数字が頭の中を離れなかった。その数字の背後に自分たちの歳月があった。竜平が安い弁当を持って営業に出た朝、千鶴が昼食を抜いて家計のバランスを保った日、子供たちの学費のために欲しいものを後回しにし続けた年月。その積み重ねが2000万円になり、その2000万円から500万円が消えた。千鶴は天井を見た。それから静かに手を伸ばし、枕の横に置いてあるスマートフォンでミズの番号を探した。電話が繋がった。

ミズは少し眠そうな声で出た。「どうしたの?こんな時間に。」千鶴は声を押し殺して話した。「お父さんが退職金を銀行に預けて投資して、かなり大きく下がっているみたいで」と言った。ミズは一瞬沈黙した後、「ああ」と言った。「窓口販売でしょう。知ってた。お父さんから電話来てた。私が手数料のことを言ったら怒って切られたけど」千鶴は胸が痛んだ。「ミズ、何かできることはある?」ミズの声が少し硬くなった。「お母さん、正直に言うね。私たちも今住宅ローンで首が回らない状態なの。頭金を全部出した後で、修繕積立金の値上げとか管理費の見直しとかが続いて。お父さんが自分でやるって言ってたんだから、私たちが何かできることは今はないかな。」千鶴は「そうね」と言った。「ごめんね、お母さん。」「いいの。ありがとう。」電話を切った後、千鶴は暗い天井をしばらく見続けた。ミズの言葉は冷たくはなかった。しかし助けは来ないという事実だけが部屋に残った。ツーという切断音は短く、静かな夜に馴染んで消えた。

千鶴が動いたのは、竜平が動かなかったからだった。あれから1週間、2人の間にかわされた言葉はほとんどなかった。朝の挨拶と「食事の支度ができた」という知らせと「お休み」という言葉だけが、決まった時間に決まった場所で交わされた。それ以外の時間、竜平は自室に閉じこもるか、あるいはぼんやりとテレビの前に座って、画面を見ているのか見ていないのか分からない顔をしていた。スマートフォンを手に取る回数は以前よりむしろ減っていた。確認することへの恐怖が、確認したいという衝動を上回るようになったのかもしれなかった。

千鶴は自分の家計簿を開き、現状を整理しようとした。2000万円の投資の評価額は、銀行から届いた報告書によれば1486万円だった。手元の現金は、竜平が受け取った退職金のうち投資に回さなかった200万円と、千鶴が長年コツコツと積み立ててきた定期預金の残高を合わせておよそ170万円だった。合計すれば370万円ほどになる。年金は2人合わせて月28万円ほどが入ってくる見込みだが、2026年は退職初年度の住民税が現役時代の収入を基準に算定されるため、その額だけで年間換算10万円近くが追加で出ていく計算だった。固定費を差し引くと、月々の生活費として使える実質的な金額は12〜13万円程度でしかなかった。千鶴は鉛筆の先で数字を何度もなぞった。

投資の評価額が今後どうなるかは千鶴には分からなかった。竜平に聞いても、もはや意味のある答えは帰ってこなかった。このまま誰にも相談せず、ただ毎日数字が動くのを見ているだけではどこへも進めない。千鶴はそう判断した。その後、広報誌の裏表紙にファイナンシャルプランナーによる無料相談会の案内が載っていたのを思い出したのは、その翌日の朝だった。千鶴は引き出しの中から古い広報誌を引っ張り出し、記載されていた市の消費生活センターの番号に電話をかけた。対応した職員は親切で、翌週に独立系のファイナンシャルプランナーが週1回開いている無料相談の枠を予約することができた。

問題は竜平をそこへ連れていくことだった。夕食の後、食器を洗い終えてから千鶴はリビングに戻り、竜平の向かいに座った。「来週の火曜日、市の相談窓口に行きたいと思っています」と言った。「ファイナンシャルプランナーの方が相談に乗ってくれるそうで、今の投資の状況を専門家に見てもらった方がいいと思って。」竜平はテレビの画面から目を動かさなかった。千鶴は続けた。「私1人では書類の内容も詳しくは分かりません。ファンドを買った時の書類もあなたが持っているはずですから、一緒に来ていただけますか?」竜平は少し間を置いてから言った。「そんなとこ行って何になる?」千鶴は答えた。「何になるかは行ってみないとわかりません。でも今のまま何もしないよりは、誰かに現状を整理してもらった方がいいと思います。」竜平は何も言わなかった。千鶴は引き下がらなかった。「書類はどこにありますか?」長い沈黙の後、竜平は立ち上がり自室に入った。しばらくして戻ってくると、クリアファイルに挟んだ書類の束を黙ってテーブルの上に置いた。それだけで何も言わなかった。千鶴はそれを受け取り、中身を確認した。申し込み書の控え、目論見書、契約締結前交付書面、リスク説明書。どれも細かい文字が並んでいた。千鶴は1枚ずつ確認しながら、ファイルの中に時系列で並べ直した。その作業を竜平は自室のドアから無言で見ていた。

火曜日の午前、2人は連れ立って市の消費生活センターへ向かった。バスの中で竜平は窓の外を見続けていた。千鶴は膝の上にクリアファイルを持ち、手袋をした手でその角を軽く抑えていた。2人の間に言葉はなかった。センターの建物は駅から歩いて10分ほどの古い市営の複合施設の2階にあった。受付で名前を告げると、廊下の奥の小さな相談室に案内された。部屋には折りたたみのテーブルと椅子が3脚あり、蛍光灯の光が少し青白く、書類を広げるには十分な広さがあった。

5分ほど待つと、中原蒼介が入ってきた。40代の半ばと思われる男性で、グレーのスーツに地味なネクタイをしていた。体格は中程度で、顔に無駄な表情がなかった。名刺を両手で差し出し、「独立系ファイナンシャルプランナーの中原と申します。どうぞよろしくお願いします」と言った。声は低く、早くも遅くもなかった。竜平は名刺を受け取りながら、口元が少し引き締まった。こういう場所に来ること自体が自分の失敗を外部の人間にさらすことだという意識が、竜平の背筋を固くしていた。

中原は椅子に座り、「まずは状況をお聞かせください」と言った。「詳しい資料があれば、ご用意いただいたものを拝見しながら一緒に整理しましょう。」千鶴がクリアファイルをテーブルの上に開いた。中原は受け取り、無言で1枚ずつめくり始めた。竜平は様子を見ながら腕を組んだ。そのまま口を開いた。「そもそもうちの担当の銀行員が十分な説明をしなかったのが問題で、私はリスクについてもっとちゃんとした説明を受けるべきだったと思っています。」中原は書類から目を上げなかった。「後で確認しましょう」とだけ言った。竜平はそれ以上続けられなかった。相手が怒鳴り返してくれる雰囲気でも、同調してくれる雰囲気でもなかった。ただ書類を読んでいた。

中原は3分ほどかけて全ての書類を読み、それから顔を上げた。手元に持っていたボールペンでいくつかの箇所に付箋を張った。「まず現状を整理しますと」中原は言った。「今回のご購入は窓口販売で、購入時に販売手数料として購入額の3. 3%が差し引かれています。2000万円に対してですから、購入した瞬間に66万円がそのまま銀行の収入になっています。」竜平の指先が動いた。66万。中原は続けた。「それとは別に、2つのファンドとも信託報酬という形で年間の管理コストがかかります。こちらのファンドは平均で1. 9%程度です。2000万に対して計算すると、年間でおよそ38万円になります。これは市場が上がっても下がっても、毎年自動的に差し引かれます。」千鶴が口の前に手を当てた。「つまり」中原はボールペンの先で計算をした。「購入日の時点で既に66万のコストが発生して、さらに毎年38万円が継続的にかかる仕組みになっています。合計すると1年目だけでも104万を超える計算です。」竜平は何も言えなかった。「これは銀行が隠したことではありません」と中原は言った。「目論見書の14ページに信託報酬の記載があります。購入時手数料については申し込み書の表紙に明記されています。ただ、これらをお客様が理解した上でサインされたかどうかは、こちらでは確認のしようがありません。」竜平の視線が下に落ちた。

千鶴は中原に向かって言った。「それで、今の評価額の状況はどういうことになりますか?」中原は頷いた。「現在の市場の下落に加えて、購入時のコストが既に反映されていますから、回復にはより大きな上昇が必要になります。仮に今後市場が持ち直したとしても、毎年の信託報酬が積み重なりますので、実質的な元本回復は相当な時間がかかります。今後このファンドを何年持ち続けるおつもりですか?」竜平は答えた。「それはまあ、長期で」と言いかけて止まった。中原は静かに言った。「失礼ですが、柏木様は現在何歳ですか?」「65です。」「では、このファンドが元本回復するとして、仮に10年かかったとします。その時点で75歳になられます。老後の生活資金として使い始めたい時期と回復の時期がずれる可能性があります。さらに毎年38万円のコストが10年分積み重なると380万円になります。今の損失額に加えて、そのコストも乗っかってくる計算です。」

部屋の中が静かになった。蛍光灯がわずかに音を立てていた。それ以外に聞こえるものはなかった。竜平は腕を組んでいた手をほどき、膝の上に置いた。その手がわずかに震えていた。中原は声を変えずに言った。「今すぐどうするかは、ご夫婦でよく話し合っていただく必要があります。ただ、現状を整理すると、保有を続けた場合のコスト負担と、今売却した場合の確定損失を比較した上で判断される必要があります。一般論として申し上げれば、高コストのアクティブファンドを長期保有することは、多くの場合において得策ではありません。」竜平は静かに言った。「つまり、売った方がいいということですか?」中原はすぐには答えなかった。1呼吸置いてから言った。「それはご判断いただくことですが、少なくとも保有を続けることで問題が解決するという前提は、今の状況では成り立ちにくいということです。」

相談が終わって外に出ると、秋の光が斜めに差していた。竜平は出口のドアを出てから立ち止まった。通りを歩く人たちが横過ぎていった。竜平はしばらく動かなかった。千鶴はその隣に立った。竜平は口を開かなかった。目が赤くなっていた。泣いているわけではなかった。ただ何かを堪えている顔だった。千鶴は何も言わなかった。2人は並んでバス停に向かって歩き始めた。

家に帰り着くとまだ昼前だった。千鶴は台所に入り、昼食の準備を始めた。竜平は靴を脱がずに少し玄関に立っていたが、やがてリビングに入り、テーブルの前に座った。千鶴は鍋に水を入れながら手を止めた。この数日気になっていたことがあった。竜平の実家の方から自治会の回覧板を通じて何か書類が届くと聞いていた。竜平の両親が残した古い家が長年空き家のままになっており、管理をどうするかという問題はずっと先送りにされていた。それを思い出したのは、玄関先の小さな棚の上に回覧板と一緒に挟まれていた封筒が目に入ったからだった。千鶴は手を拭き、棚に近づいた。封筒の差出人は竜平の実家がある地区の自治会ではなく、区の行政窓口だった。千鶴は封を開けた。用紙は2枚あった。1枚は正式な行政文書の形式で、「特定空家等にかかる措置通知」と書かれていた。もう1枚は現地調査の写真が印刷されたもので、古い木造家屋の屋根と石垣の部分が映っていた。屋根の一部に大きな穴が入り、瓦が数枚ずれていた。石垣の一部は根元から傾き、隣地との境界付近で崩れかけていた。千鶴は文書の本文を読んだ。要約すれば、竜平の実家の建物が長期の放置により著しく劣化しており、台風シーズンを前にして倒壊または落下による近隣への危険が生じる恐れがある。30日以内に危険箇所の修繕など適切な処置を講じなければ、行政による強制撤去の上で費用を所有者に請求するという内容だった。

千鶴は文書を持ったままリビングに入った。竜平はテーブルの前に座ったまま窓の外を見ていた。千鶴は何も言わずに文書をテーブルの上に置いた。竜平は視線を落として文書を見た。1枚目を読み、次の紙を読んだ。表情が徐々に変わっていった。読み終わると、竜平はしばらく動かなかった。千鶴は言った。「いつ届いたのかわからないけれど、見落としていました。30日以内に対処しないといけないみたいで。」竜平は文書を手に取り、もう一度読んだ。写真の部分を指先でなぞった。屋根の穴を確認し、石垣の傾きを確認した。竜平の父親が建てた家だった。竜平が幼い頃から住んでいた家で、両親が次々と亡くなってからは年に1度掃除に帰るだけになっていた。その帰省もここ3年ほどはできていなかった。遠いわけではなく、バスと電車で2時間ほどの距離だったが、気力の問題だと竜平は自分に言い訳をしていた。

その日の午後、千鶴はインターネットで地元の工務店の連絡先を調べた。竜平の実家がある地区の近くで営業している工務店を3軒ほど見つけ、それぞれに電話をかけた。現地を見ないと正確な見積もりは出せないと言われたが、写真を見ながら概算の話を聞いた。どの工務店も屋根の補修と石垣の積み直しが必要で、台風前に工事を完了させるためには早急に着工する必要があると言った。

翌日、千鶴は竜平と2人で現地を訪れた。バスと電車を乗り継いで最寄り駅に着き、そこからさらに路線バスで20分ほどかかった。バス停から歩くと、見覚えのある坂道とその先の古い木製の門扉が見えた。竜平は門の前で少し立ち止まった。家はひどい状態だった。庭は草が伸び放題で、縁側の板は黒く変色していた。屋根に近づいて見上げると、桟瓦の継ぎ目が割れており、その隙間から雑草が生えていた。隣家との境界の石垣は基礎部分がえぐれるように崩れており、上の石が宙に浮くような状態になっていた。地元の工務店の職人が1人来ており、千鶴が連絡しておいた業者だった。50代の男性で、黙って屋根と石垣を点検した後、メモ用紙に数字を書いて千鶴に手渡した。「屋根の部分補修と桟瓦の積み直し、石垣の崩落防止工事と積み直し、足場の設置と撤去を含めて、最低でも250万円からになります」と書かれていた。「材料が上がっとるし、急ぎの工期だとこれ以上かかることもあります」と職人は付け加えた。「今週中に発注していただかないと、台風シーズンに間に合わない可能性がある」とも言われた。

千鶴は数字を確認した。250万円。現在手元にある現金は170万円だった。足りない分は80万円以上になる。それを工面するためには、すでに損失を抱えているファンドから引き出すしかなかった。千鶴は帰りのバスの中で計算を頭の中で繰り返した。ファンドを一部売却して250万円を手元に用意しようとすれば、評価額から逆算して実際に売却しなければならない額はさらに多くなる。換金手数料や税の問題もある。そして何より、今売れば損失が確定する。市場が回復する可能性を自分の手で閉じることになる。しかし売らなければ家の修繕費が出ない。修繕しなければ行政からの強制撤去と費用請求が来る。訴訟になれば費用は修繕費の比ではなくなるかもしれない。どちらを選んでも損失は避けられなかった。ただ損失の種類が違った。一方は数字の上の損失で、将来のどこかで取り戻せる可能性がある。もう一方は現実の債務であり、放置すれば加速していくものだった。

竜平は窓の外の景色を見ていた。千鶴は隣でメモ用紙を膝の上に乗せ、鉛筆を握っていた。2人の間で言葉はなかった。バスが市街地に戻り、乗客がまばらになった頃、千鶴は静かに言った。「工務店には今週中に返事をすると伝えます。」竜平は返事をしなかった。千鶴は続けた。「お金のことはもう少し考えさせてください。」

その夜、千鶴は家計簿を広げ、銀行のファンドの報告書と工務店からのメモ用紙を並べた。全部を眺めてみた時、選択肢はなかった。選択肢があるように見えているだけで、実際には道は1本しかなかった。千鶴は鉛筆を置き、目を閉じた。部屋の外で秋の風が窓枠を揺らした。夜が深まっても千鶴は眠れなかった。家計簿は閉じていた。ファンドの報告書と工務店のメモ用紙も重ねて引き出しの中にしまい込んだ。だが頭の中では数字がずっと動き続けていた。170万、250万、1486万、-500万。それらが繰り返し浮かんでは消え、また浮かんだ。千鶴は何度か寝返りを打ち、枕の位置を直し、それでも目が覚めたまま天井を見つめていた。隣の部屋から何も聞こえなかった。竜平も眠れていないのか、それとも疲れ果てて眠っているのか、壁の向こうからは息遣いすら届かなかった。

午前2時を回った頃、千鶴はそっと起き上がった。台所に行き、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。お茶を飲もうとしたわけではなかった。ただ何か手を動かさずにはいられなかった。湯気が静かな台所に満ちて、やがてケトルが止まった。千鶴はカップに湯を注いだが、飲まなかった。テーブルの前に座り、湯が細く立ちのぼるのをただ眺めていた。選択肢は実質的にはなかった。昨夜から何度考えても出てくる答えは同じだった。工務店への支払いを現金だけで賄うことはできない。ミズには頼れない。竜平の友人や知人に借りることなど、竜平のプライドが許さないだろうし、千鶴自身もそれは望まなかった。残された手段は、損失の出ているファンドを一部売却して現金を作ることだった。それは今まで目をそらしてきた損失を、数字の上ではなく現実の金額として確定させることを意味した。千鶴はカップを両手で包んだ。湯気のぬくもりが指先に伝わった。

翌朝、竜平が台所に来た時、千鶴はすでにテーブルに座って待っていた。朝食はまだ用意されていなかった。竜平は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに向かいの椅子を引いた。千鶴は竜平を見て静かに言った。「ファンドの一部を売ります。工務店への支払いに必要な分だけ。」竜平の表情が固まった。千鶴は続けた。「手元の現金だけでは足りません。ファンドから150万円分を解約して、それと合わせて工務店に支払います。それ以外の方法は今の私たちにはありません。」竜平は黙っていた。千鶴は言った。「あなたのスマートフォンを貸してください。アプリから手続きします。」竜平は少し間を置いた後、立ち上がって自室に入り、スマートフォンを持って戻ってきた。テーブルの上に置いた。画面が下を向いていた。千鶴はそれを手に取り、起こした。銀行のアプリを開くためにロック解除のパターンを竜平に求めた。竜平は指でパターンを入力し、アプリを立ち上げた。それからスマートフォンを千鶴に返した。千鶴はアプリの画面を確認した。評価額の数字が表示されていた。ファンドの売却のページに進み、解約金額の欄に数字を入力した。150万円と打ち込んだ時、指先がわずかに止まった。これを押せば戻らない。千鶴はそのことを分かっていた。市場が将来回復したとしても、売却した分は永遠にそこで終わる。損失は確定し、その分の回復の機会は消える。だが、売らなければ家は放置されたままになる。行政からの費用請求が来て訴訟になれば、250万どころでは済まない可能性がある。千鶴は確定ボタンを押した。画面に確認のダイアログが出た。「解約手続きを進めますか?」千鶴はもう一度「はい」と応えた。完了の画面が表示された。千鶴は画面を見つめた。自分の内側で何かが動いた気がした。痛みとも違う、後悔とも違う。ただもう取り消せない何かが終わったという感覚だけがあった。スマートフォンをテーブルに置き、竜平の方を向いた。竜平は手のひらを膝の上に置いたまま、テーブルの表面を見ていた。顔が蒼白だった。千鶴は言った。「済みました。振り込みが完了したら工務店に連絡します。」竜平は頷かなかった。千鶴は立ち上がって朝食の準備を始めた。冷蔵庫から卵を出し、鍋に湯を沸かした。背後でテーブルの椅子が引かれる音がして、竜平が部屋を出ていく足音がした。朝食は1人で食べた。

数日後の週末、2人は竜平の実家に向かった。工務店が着工する前に荷物の整理をしておく必要があった。職人が足場を組む際に、庭や縁側に置かれたものが邪魔になるという話だった。千鶴は軍手と大きなゴミ袋を数枚持参した。竜平は何も持たずに来たが、千鶴が軍手の予備を渡すと黙って受け取った。門を入ると、前回来た時と変わらない光景があった。草の匂いと湿った木の匂いが混ざっていた。縁側は前回見た時より板の反りがひどくなっているように見えた。2人は黙って作業を始めた。竜平は縁側の外に積まれた古い植木鉢や錆びた農具を庭の隅にまとめた。千鶴は縁側に上がり、古びた座布団や壊れた傘、使い古しの竹ぼうきなどをゴミ袋に詰めていった。作業の中で言葉を交わすことはほとんどなかった。どこに何があるかは竜平が知っていることの方が多かったが、竜平が自ら動くよりも、千鶴が何かを持ち上げるたびに竜平が横から受け取って運ぶという形が自然に生まれた。

午後になり、日差しが庭に差し込んできた頃、2人は家の中の整理に移った。台所奥の和室は、竜平の両親が使っていた頃の家具がほぼそのまま残っていた。食器棚、箪笥、押入れに積まれた布団。どれも古く傷んでいたが、捨てるにも手間がかかるようだった。千鶴は必要なものと不要なものを仕分けしながら、ゴミ袋とダンボール箱に分けていった。奥の和室の押し入れを開けた時、棚の上に古い桐箱が置かれているのが見えた。竜平が手を伸ばして取り出すと、思ったより軽かった。中を確認すると、帯締めや古い手ぬぐいが数枚と、その下に1冊の薄い冊子が入っていた。千鶴が手を伸ばして受け取った。表紙は焦げた水色の紙で、何も書かれていなかった。開いてみると、罫線ではなく黒いインクのボールペンで細かい文字がびっしりと書き込まれていた。日付と金額と品目が並び、欄外の空白部分に書き添えられた短い文章があった。これは家計簿だ。千鶴はすぐに分かった。竜平の母親の筆跡だということも、読み進めれば分かった。字は小さいが丁寧で、几帳面さが感じられた。千鶴はページをゆっくりとめくった。最初のページは30年以上前の日付で始まっており、野菜の値段や電気代の記録が続いていた。中頃のページには、竜平が就職した年の記録があった。「長男就職祝に5000円包む」という書き添えがあった。その翌月のページには「電話代を節約するため、実家への連絡は手紙にする」という走り書きがあった。千鶴は手を止めた。竜平も隣で覗き込んでいた。千鶴は最後のページに近い部分を開いた。ここには日付と金額の記録に加えて、裏表紙の内側に一行だけ、別の書き方で書かれた言葉があった。鉛筆で書かれており、下線が二重に引かれていた。千鶴は声に出して読んだ。「お金は風に消える。生きるためのお金だけが、大切な人を守れる。」声が少し揺れた。竜平は縁側に繋がる廊下に立ち、腐れかけた木の束を抱えていた。千鶴の声を聞いた瞬間、その場で動きが止まった。千鶴はもう一度ゆっくりと読んだ。「お金は風に消える。生きるためのお金だけが、大切な人を守れる。」竜平の抱えていた束がゆっくりと床に落ちた。音が静かな家の中に響いた。竜平は立ったまま動かなかった。千鶴は家計簿を手に持ったまま、竜平の方を見た。2人の間に何も言葉はなかった。だが竜平の目に何かが浮かんだ。プレミアム相談室に行くためにスーツを着た日のこと。さよ子の前で「リスクはどこの世界にもある」と言い放った瞬間のこと。娘の忠告を一言で遮って電話を切ったあの夜のこと。それら全てが母親の描いた一行と重なった。お金は風に消える。竜平は唇を噛んだ。やがて震えるような息が一つ出た。それから竜平は廊下にその場で崩れるように座り込んだ。両手を膝の上に置き、顔を伏せた。声は出なかった。だが肩が小刻みに揺れた。千鶴は家計簿を胸に抱えたまま近づいて、隣に座った。庭から光が差し込んでいた。草の匂いがした。遠くで鳥が鳴いた。千鶴は何も言わなかった。ただ隣にいた。

竜平はしばらく顔を伏せたままだった。やがてかれた声で言った。「俺はひどいことをした。」千鶴は答えなかった。竜平は続けた。「母さんが一生かけてきたもんを、俺は数ヶ月で」声が途切れた。千鶴はゆっくりと言った。「お母さんが守ってきたのは、お金じゃないと思います。」竜平が顔を上げた。千鶴は続けた。「家族の暮らしを、ちゃんと地に足をつけて生きること。それを守ってきた人だと思います。」竜平はしばらく千鶴を見ていた。それから視線を落とし、廊下の板目を見た。節のある古い木の目が光の中に浮かんでいた。2人はしばらくその場に座ったままでいた。外では風が少し吹いていた。庭の草が揺れる音がした。

帰りのバスは夕方の便だった。竜平は窓側に座り、千鶴は通路側に座った。来た時と同じ配置だった。来た時と違ったのは、竜平が窓の外ではなく膝の上に置いた自分の手を見ていたことだった。手のひらに擦り傷があった。午後の作業で古い板材を運んだ時にできたものだった。竜平はその傷をしばらく見ていた。バスが市街地に入り、見慣れた街並みが窓の外を流れ始めた頃、竜平は口を開いた。「ミズに連絡した方がいいか?」千鶴は少し間を置いてから言った。「今はしなくていいと思います。」竜平は頷いた。千鶴は続けた。「でも、いつかちゃんと話せる日が来たら。」竜平はもう一度頷いた。今度は少しだけ違う頷き方だった。

家に帰ったのは夜の入り口だった。玄関で靴を脱いで上がると、千鶴は台所に入り夕食の準備を始めた。竜平は洗面所で手と顔を洗い、着替えてからリビングに来た。ソファではなく食卓の椅子に座った。千鶴が鍋を火にかけていると、背後から竜平の声がした。「手伝えることはあるか?」千鶴は振り返った。竜平は椅子に座ったままこちらを見ていた。千鶴はしばらく考えてから、「豆腐を切っておいてください」と言った。引き出しから包丁を出して渡した。竜平は受け取り、まな板の前に立った。不器用な手つきで豆腐を拍子木切りにし、厚みを揃えようとして少し崩した。千鶴はそれを見たが、何も言わなかった。2人は並んで夕食を作った。6時に向かい合って座り、竜平が珍しく自分から箸を取り、2人とも黙って食べた。食器を下げようとした千鶴を、竜平が手で制して自分で重ねた。それだけのことだった。だが千鶴には、その夜の台所が数ヶ月ぶりに少しだけ呼吸できるような気がした。

夜遅く、千鶴は家計簿を開いた。今日の作業でかかった交通費と、持参した軍手とゴミ袋の購入費を書き込んだ。それから新しい欄に、ファンド解約に伴う損失確定額を書いた。数字は大きかった。書きながら指先がわずかに止まる瞬間があったが、千鶴は続けた。全部を書き終えてからページを閉じた。引き出しにしまう前に、今日拾ってきた竜平の母の家計簿を横に並べた。薄い水色の表紙と、自分の使い慣れた黒い家計簿がテーブルの上に並んだ。千鶴はそれをしばらく見た。言葉は何もなかった。ただ並んでいた。

1ヶ月が経った。工務店の職人たちが足場を解体して帰ったのは、台風シーズンが本格化する前の、雨の少ない晴れた週のことだった。千鶴は現場の最終確認に1人で出向き、屋根の補修箇所と積み直された石垣を確認して、職人の親方に領収書を受け取った。親方は愛想のない人だったが、仕事は丁寧で、補修後の石垣はしっかりとした積み方がされていた。千鶴はお礼を言ってバス停まで歩いた。帰りのバスの中で、千鶴はスマートフォンを取り出し、地元の不動産仲介業者に電話をかけた。竜平の実家については、工事が終わったら売却の方向で考えていると竜平と話し合って決めていた。維持し続ける費用と手間をこれ以上抱えていく余裕は2人にはなかった。業者は翌週に査定に来るという話になった。

売値は高くはなかった。古い木造で立地も便利とは言えず、業者の査定額は350万円だった。修繕費を差し引けば実質的にはほぼ手元に残らないに等しかったが、それでも毎年かかり続ける固定資産税と管理の手間から解放されることを考えれば、手放す方が合理的だった。竜平はその査定額を聞いた時、黙っていた。千鶴は隣で書類を確認しながら「あなたのお父さんが建てた家だから」と言いかけて止まった。竜平は少し経ってから言った。「うん」と言った。それだけだった。その言葉の重さの中に何かがあった。諦めとも決断とも呼べない、もっと静かな何かが。

残ったファンドの資産については、中原に相談して処理を進めた。千鶴が連絡すると、中原はすぐに時間を作ってくれた。今度は市のセンターではなく、中原が週に2日だけ借りている小さな事務所だった。竜平も同行した。中原は現在の評価額と残高を確認し、2つのファンドを全て解約して低コストのインデックスファンドに移し替える手順を、具体的な書類を使って説明してくれた。信託報酬が年間0.

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1%以下のもので、購入手数料のないネット証券を使う方法だった。年間コストは今のファンドの20分の1以下になる計算だった。竜平は説明を聞きながら一言も口を挟まなかった。中原が一通り話を終えると、竜平は言った。「それで頼みます」と言った。声に張りはなかったが、逃げようとする気配もなかった。千鶴は中原に向かって頭を下げた。「お世話になりました」と言った。中原は淡々と言った。「老後の資産運用で1番大切なのは、コストを下げることと、感情で動かないことです。その2つさえ守れば、後は時間が働いてくれます。」竜平は頷いた。今度は本当に頷いた。

全ての手続きが終わった時、柏家に残った資産は、投資分として約1200万円、現金が20万円ほどだった。2200万円から出発して、1000万円が消えた計算だった。千鶴はその数字を家計簿に書き留めた。書き終えてからしばらくページを見つめた。数字は変えられなかった。これが現実だった。

竜平の変化は劇的なものではなかった。ある朝、千鶴が起きると、リビングの棚の上に積んであった金融雑誌が消えていた。台所の隅の袋に入っていたので、捨てようとしているのだと分かった。千鶴は何も言わなかった。別の日、竜平がクローゼットの奥を整理していた。古いスーツをハンガーごと取り出して袋に畳み込んだ。どこへやるつもりか聞くと、「古着のリサイクルに出す」と言った。千鶴はそれも何も言わなかった。テレビは変わらずついていたが、竜平が見る番組が少し変わった。以前は経済ニュースの時間に食い入るように画面を見ていたが、今はニュースが始まるとチャンネルを料理番組か旅番組に変えることが多くなった。それが意識的なのか無意識なのかは千鶴には分からなかった。

竜平がビールを買わなくなったことに千鶴が気づいたのは、しばらく経ってからだった。以前は週に一度まとめて6缶パックを買っていた。それがなくなり、代わりに竜平が夕食後に飲むのは千鶴が入れた麦茶になっていた。竜平から何か説明があったわけではなかった。ただそうなっていた。日々の食費も竜平自身が気にするようになった。千鶴がスーパーで買い物をして帰ると、竜平が袋の中を確認することがあった。最初の頃はそれが50円の豚肉に怒鳴った記憶と重なって、千鶴の胸に緊張が走った。しかし竜平は何かを責めるのではなく、「これ、今日の夕食に使うのか」などと聞くだけだった。ある日など、「自分もスーパーに行く」と言って千鶴と一緒に出かけ、特売の大根と豆腐を持って戻ってきた。千鶴は何も言わなかった。ただそれを受け取った。

10月の終わりに、竜平は千鶴に言った。「ハローワークに行ってきた」と言った。千鶴は台所で食器を洗っていた。手を止めて振り返った。竜平は続けた。「顕在の仕事なら多少のことは分かるから、倉庫の検品か資材管理の仕事ができないか聞いてきた。年齢的に難しいところもあるが、週3日でもいいと言ったら、一件紹介してもらった。」千鶴はしばらく竜平を見た。竜平はテーブルの前に立っており、少し肩が落ちていた。恥ずかしいのか、それとも緊張しているのか、どちらとも判断できない立ち姿だった。千鶴は言った。「うまくいくといいですね。」竜平は軽く頷いた。

紹介されたのは、市内から電車で20分ほどの工業地区にある小さな木材加工の工場だった。正確には木工所と呼ぶ方が近く、オーダーメイドの家具や建具を制作している10人ほどの小さな事業所だった。竜平の仕事は材料の受け入れ検品と在庫管理で、週に3日、朝の8時から午後の2時までという条件だった。給与は月に6万円だった。竜平はその額を千鶴に伝えた時、少しだけ間を置いてから言った。「多くはないが」と言った。千鶴は答えた。「それで十分です。」竜平は少し顔を上げた。千鶴は続けた。「あなたが動くことの方が、金額より大事です。」竜平はそれ以上は何も言わなかった。

初日、竜平は朝早く起きてきた。普段より30分は早かった。千鶴が台所に来ると、竜平はすでに顔を洗って地味な作業着に着替えて座っていた。いつものスーツではなく、ホームセンターで買ってきたグレーの作業ズボンと古い長袖シャツだった。千鶴は朝食を作りながら「こんなに早く起きなくていいのでは」と言った。竜平は言った。「遅刻したくないから」と言った。その言葉が妙に初々しく聞こえた。それ以来、竜平は週3日その工場に通い始めた。帰ってくる時は作業着に木の粉や埃がついていることがあった。靴の底にも木屑が挟まっていた。竜平はそれを玄関で払い、洗面所で手を洗い、台所に顔を出した。「今日は何本材料が入ってきた」「棚の整理をした」などと、時々話すようになった。多くはなかったが、何もない夜よりは確かに多かった。

ある夕方、竜平が帰ってきてから手の甲を見ると、小さな切り傷があった。千鶴が気づいて絆創膏を出そうとすると、竜平は「大したことはない」と言って手を引いた。千鶴は引き下がったが、翌朝竜平が工場に出かける前に、台所のテーブルの上に絆創膏を1枚置いておいた。竜平は何も言わずにポケットに入れた。

一方、千鶴自身にも変化があった。中原が千鶴に声をかけてきたのは、全ての手続きが終わってしばらく経った頃だった。中原の知人が運営する地域のNPO法人で、高齢者向けの家計相談と生活設計の支援をしており、そこでデータ入力と記録整理を手伝ってくれる人を探しているという話だった。千鶴がスーパーのパートで長年データ入力をしていたことと、家計簿の記録が正確で丁寧なことを中原は覚えていた。千鶴は少し考えてから「やってみます」と答えた。週に2日、午前中の数時間だけNPOの事務所に出向いて記録整理をする仕事だった。給与ではなく謝礼の形で、月に2万円ほどだった。金額は小さかったが、千鶴にとってはスーパーのパートとは少し違う手応えがあった。相談に来る人たちの記録を整理しながら、「ああ、こういう状況の人がいるのか」と思うことがあった。竜平のような人だけではなかった。もっと追い詰められた状況の人がここに来て話を聞いてもらっていた。千鶴はそれを竜平に話した。竜平は夕食を食べながら聞いていた。「そうか」と言った。それから少し間を置いて、「お前の字は綺麗だからな」と言った。千鶴は手を止めた。それはどういう意味で言っているのか、少し測りかねた。竜平が千鶴の字を褒めたのは、記憶にある限り初めてだった。竜平はもぐもぐと飯を茶碗に運んでおり、特に追加で何かを言うつもりはなさそうだった。千鶴は何も言わず食事を続けた。

その月の終わりのことだった。竜平が封筒を持って帰ってきた。給与明細と一緒に入っていた現金6万円をテーブルの上に置いた。千鶴が家計簿を書いている横に、静かに置いた。千鶴は顔を上げた。竜平は言った。「少ないが」と言って、それから黙った。千鶴は封筒を受け取り、中身を確認した。新しい折り目のついた6万円だった。千鶴はそれを家計簿の横に置き、金額を欄に書き込んだ。6万円という数字の隣に「木工所勤務」と書いた。竜平はその作業を黙って見ていた。書き終えてから、千鶴はページを閉じた。そして初めて竜平に言った。「お疲れ様でした。」竜平は少し目を細めた。目の端に何かがあるような気もしたが、千鶴は見なかったことにした。

ある日曜日、竜平はミズに電話をかけた。千鶴はその場にいなかった。洗い物をしていて、背後で竜平のくぐもった声が聞こえてくるだけだった。短い電話だったが、途中で竜平の声のトーンがわずかに変わった。電話が終わると、竜平がリビングに入ってきた。千鶴は振り返った。竜平は言った。「来週の土曜日に、ミズが孫を連れてくるって。」千鶴は何も言わなかった。ただ頷いた。竜平は少し声を落として言った。「電話で謝った。言い方が悪かったし、聞く耳を持たなかったと。」千鶴は竜平を見た。竜平は続けた。「ミズは長いこと黙っていた。それから『分かった』と言った。ただそれだけだった。でも来てくれるって言った。」千鶴はゆっくりと言った。「よかった。」それだけだった。だがその2文字の中に、千鶴が今まで1人で抱えてきたものの一部が、ひっそりと降りていった。

土曜日の朝、竜平は早起きしてベランダの植木の水やりをしていた。千鶴が台所で朝食の準備をしながら窓から見ると、竜平が小さなジョウロを持ってプランターの前にかがんでいた。先週ホームセンターで買ってきた小松菜とほうれん草の苗が、数日前より少し大きくなっていた。竜平はジョウロを置いて、指先で土の表面を軽く触った。それから立ち上がり、台所に入ってきた。「水をやったよ」と言った。千鶴は「そうですか」と答えた。それだけだった。

ミズは昼前に来た。夫は仕事で来られなかったが、7歳の息子を連れてきた。子供はランドセルとは別の袋を抱えており、中に図鑑が入っていた。虫が好きなのだとミズが言った。竜平は孫と向き合った時、何を言っていいか分からないようだった。しばらく立ったまま見ていたが、孫の方が「おじいちゃんのベランダに虫おる」と言って、さっさとベランダに向かってしまった。竜平はその後をついていった。千鶴は台所から2人の背中を見ていた。竜平が孫の指差す先を一緒に覗き込んでいた。プランターの根元に小さな虫がいたらしく、孫が興奮した声を上げた。竜平は何か言っていたが、台所からは声が聞こえなかった。

ミズは台所に来て、千鶴の隣に立った。しばらく何も言わなかった。千鶴も何も言わなかった。鍋の湯が湧いてきたので、千鶴が麺を入れた。ミズが言った。「お父さん、変わったね。」千鶴は答えなかった。ミズは続けた。「なんか小さくなったっていうか、でも前より話しやすい感じがする。」千鶴はそれを聞きながら麺を箸でほぐした。変わったのか、千鶴は思った。変わったのかもしれなかった。だが変わったことで消えたものは、消えたまま残っていた。1200万円は1200万円のままだった。これから2人で数えながら生きていく月日は、そう変わらなかった。ただ、数えながら生きることの重さが、以前とは少し違った気がした。

昼食を4人で食べた。孫が箸の使い方を間違えて、麺が椀の外に飛び出した。ミズが叱ろうとするのを、竜平が手で制して「こうやるんだぞ」と言いながら、自分の箸の持ち方を孫に見せた。孫は真似しようとしてうまくできず、また飛ばした。竜平が笑った。千鶴は久しぶりに竜平の笑う顔を見た気がした。

ミズが帰った後、夕方の光が斜めに差し込む台所で、千鶴は緑茶を2人分入れた。竜平はリビングに座っており、千鶴が持っていくと「ありがとう」と言った。2人は向かい合って座った。テレビはついていなかった。外では風が出てきており、ベランダのプランターが少し揺れる音がした。千鶴は湯呑みを持ち、温かさを感じながら窓の外の光を見た。これから先のことを千鶴は考えた。毎月の年金と竜平の6万円と自分の2万円を合わせれば、固定費を差し引いた後でも以前の想定よりはわずかに余裕が生まれていた。余裕と言っても旅行に行けるとか外食を楽しめるとか、そういう話ではなかった。ただ月末に残高を確認する時の胃の締め付けが、少しだけ軽くなっていた。1200万円の投資も、低コストのインデックスファンドに切り替えてから、毎日確認する必要がなくなっていた。竜平がアプリを開く回数は、週に1度か2度程度になっていた。見るたびに落ち込んでいた時期とは明らかに違っていた。それで十分だと千鶴は思った。確認しなくていいというのは、贅沢なことだと千鶴は思った。

竜平は湯呑みを両手で包んで、何かを考えているようだった。何を考えているかは千鶴には分からなかった。40年連れ添っても、竜平が何を考えているかは分からないことの方が多かった。それは今も変わらなかった。ただ、その分からなさが今は以前ほど不安ではなかった。竜平がぽつりと言った。「来年、ミズのところにこちらから行ってもいいか」と言った。「孫にまた会いたい」と言った。千鶴はそれを聞いて、少しだけ間を置いた。「行きましょう」と言った。竜平は頷いた。2人はしばらく黙って茶を飲んだ。

これから先の日々は、ゆとりのあるものではなかった。毎月の家計を鉛筆で書き留めながら、数字の中で生きていく日々が続く。豪華な老後はもう最初からなかったのかもしれないし、あったとしても今はなかった。だが、竜平がベランダで小松菜に水をやる朝があった。千鶴が緑茶を2人分入れる夕方があった。孫が椀の外に麺を飛ばして竜平が笑う昼があった。それが今の2人の生活だった。派手さも、安定した保証も、先の見通しも、何もなかった。ただ、地面の上に足がついていた。それだけは確かだった。