「残業なんて珍しいですね」
部下がそう言ってニヤニヤしている。前の上司が俺に仕事を押し付けたからだとは、上司という立場上言えない。
俺は高橋。30歳のプログラマーだ。開発チームのリーダーを任されて3ヶ月。だが36人の部下たちは俺のことをよく思っていない。
その発端は、俺より2つ年下の小宮という男の存在。彼は役員の井出の親戚で、コネ入社だ。時期リーダーの座を約束されているとかで、それが妙な自信の裏付けになっているらしい。仕事は微妙だが、人に嘘を信じ込ませるのだけは得意だ。
俺の部下たちは、小宮の言葉を信じ、俺より小宮についていっている。
「高橋さんっていつも定時退社ですよね。そんなに仕事嫌いならリーダー降りたらどうですか」
俺が定時で帰るのには理由がある。時間内に結果を出せてこそ一人前で、だらだらと居残る方がよほど無能だと思っているからだ。だから部下たちにも「仕事が終わったならさっさと帰れ」と言い続けてきた。だがその言葉を小宮は都合よくねじまげて広めている。俺の定時退社はサボりの言い訳だと思われているらしい。
俺は部下たちから信頼を得ようと必死だが、小宮に先を越されて空回り。
ある日、救急室で落ち込んでいると、営業チームのリーダーである人内さんが俺の横にドカッと座った。
「お前、なんか大変そうじゃん。こっちまで噂届いてるぞ」
俺は馬鹿にされたような気がしてたのだが、人内さんは「ま、無理しなくていいんじゃね?言いたいやつには言わせとけよ。お前、自分の実力に絶対的な自信があるんだろ」と言い、飲みかけのコーヒーを手にして行ってしまった。
それ以来、俺はなんとなく人内さんのことが気になり始めた。休憩室で顔を合わせるたび挨拶を重ねる。ある日俺から話しかけてみると、人内さんは笑いながら悩みを聞いてくれた。
俺の悩みは小宮のことだ。締め切り間際になると、明らかに手を抜いたコードや中途半端なまま放り出したタスクを平然と俺に回してくる。
「高橋さんがやった方が早いし確実じゃないですか」
そう言って悪びれもしない。役員の親戚という後ろ盾がある小宮を強く注意すれば、どんな形で自分に跳ね返ってくるか分からない。結局、自分の手で処理するしかなかった。
おまけに小宮は「残業は会社に貢献している証ですよ」と嘘をつき、集中力も続かないくせにすぐ休憩に立つ始末。何度か注意したが、「休憩しないとパフォーマンスが下がるんですよ。そんなことも分からないんですか」と言われ、もう注意するのも面倒になった。
数日後、また俺はフロアに一人でパソコンに向かっていた。
「高橋、また残業か。珍しいこともあるもんだな」
人内さんは缶コーヒーを片手に苦笑いを浮かべながら俺のデスクの横に立つ。
「人内さん、まあちょっとトラブルの後始末で」
「小宮のやつだろ。あいつさっき営業部まで来て、お前のこと『何もできない無能だ』なんて言ってたぞ。無能はどっちだって話だよ。本当に胸くそ悪い野郎だ」
人内さんは呆れたように肩をすくめる。人内さんは営業部のエースでありながら、社内の歪んだ空気を誰よりも冷静に見抜いている人だ。
「すみません。俺の力不足で」
「バーカ、お前が裏でどれだけの仕事量をこなしてるか俺は知ってるよ。あいつら自分たちがどれだけ恵まれた環境で働いているのか何も分かってねえんだ」
人内さんのその言葉だけで、少しだけ救われた気がした。
そう、部下たちは勘違いしているのだ。自分が定時で帰れているのも、バグだらけのコードが本番環境で問題なく動いているのも、全て俺が裏で処理しているからだということに。呆れつつもリーダーとして言うべきことは言ってきた。それが小宮たちには面白くなかったのだろう。
事態は俺の想像を超えるスピードで最悪の方向へと加速していった。
ある日の朝のこと。出社した俺は自分のデスクを見て思わず声が漏れる。
「な、なんだこれは?」
机の上には白い封筒が山のように積み上げられていた。その数、実に36通。部下全員分の退職届だった。しかも立ち上げたパソコンには新着メールの通知が36通。退職届がメールでも社内に一斉送信されている。
俺が呆然としていると、小宮が不敵な笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。その後ろには35人の部下たちがぞろぞろと従っている。
「おはようございます。高橋リーダー。いえ、元リーダーとお呼びした方がいいですかね」
小宮はポケットに手を突っ込んだまま、見下すような視線を俺に向けてきた。
「小宮、これはどういう意味だ?」
「意味?見れば分かるでしょう。僕たち開発チーム36名からの最後の意思表示ですよ」
小宮はわざとらしいほど大きな声で、フロア中に響き渡るように言い放った。
「無能の下では働けない。上司がやめないなら全員退職します」
どっと湧き起こる部下たちの失笑。小宮はスマホを掲げ、ニヤニヤしながら言葉を続けた。
「たった今、全社員と役員当てにメールも一斉送信済みです。『手出ししかできない無能な高橋リーダーを交代しない限り、本日を持って開発部36名は全員即刻退職する』とね」
35人の部下たちも頷く。
「全員退職?お前たち、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
俺が口を開くと、小宮は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「分かっていないのはあなたですよ、高橋さん。毎日遅くまで残業してこのシステムを監視しているのは僕たち36人だ。あなたが定時で優雅に過ごしていられたのは僕たちのおかげなんですよ」
周囲の部下たちも一斉に頷く。
「そうですよ。高橋さんは口だけじゃないですか?僕たちが一斉に抜けたら明日から運用は完全に止まる。会社に数億円の損害が出る。さあ、どうします?」
小宮は勝ち誇った顔で胸を張った。
「あなたが今すぐここで土下座して辞任するか、僕たち全員がやめて会社を潰すか、選んでくださいよ」
その時だった。
パチパチと皮肉めいた拍手が聞こえてきた。人混みを割って現れたのは取締役の井出だった。小宮の親戚であり、社内でも強大な権力を持つ役員だ。
「よぉ、穏やかじゃないね、高橋君」
井出は嫌らしい笑みを浮かべながら小宮の隣に立った。
「困ったことになったね。我が社の優秀な開発メンバー36人が君の指導力不足のせいで限界を迎えたようだ。君1人が責任を取ってやめれば、全員は残ってくれると言っているんだが」
井出と小宮の目が怪しく光る。おそらく最初から裏で仕組まれていたシナリオなのだろう。井出は小宮を次のリーダーに据え、自分の影響力を強めるつもりに違いない。
フロア中の視線が俺に集まる。部下たちは「これで高橋も終わりだ。ざまあ見ろ」と言わんばかりの表情で俺を見つめている。
だが俺は驚くほど冷静だった。胸の奥で冷たい何かがすっと冷えていくのを感じた。
「そうですか」
俺は静かにため息をつき、36通の退職届を丁寧に揃えて手に取った。
「高橋、なんだその態度は。早く土下座して謝罪を」
井出が怒鳴りかけ、小宮が勝ち誇った笑みをさらに深めたその瞬間、俺はまっすぐに小宮の目を見つめ、はっきりと宣言した。
「分かりました。引き止めません。36人全員の退職届を本日付けで受理します」
小宮の顔から一瞬で笑みが消え去った。
「じ、受理だと?」
小宮は耳を疑ったように間抜けな声を漏らし、目を見開いている。
「引き継ぎも不要です。私物を持って今すぐ全員出ていってください。社内チャット及び開発サーバーのアクセス権限はたった今全て凍結しました」
俺はパソコンのエンターキーを静かに叩く。フロアの端末の画面は一斉にブラックアウトした。
部下たちから「え、画面が消えた」「ログインできない」と悲鳴が上がる。
「お、お前、正気か。こんなことをしてただで済むと思うなよ」
井出は顔を真っ赤にして声を荒げる。まさか本当に36人全員の退職を受理するとは思っていなかったのだろう。その声はどこか上ずっていた。
「役員としてこんな暴挙は絶対に許さんからな」
吐き捨てるように言うと、井出は苦い顔でキビスを返し、逃げるようにフロアを去っていく。
「強がりやがって。後悔しても遅いぞ。明日からシステムが止まって会社が潰れても知らんからな。全てお前の責任だぞ」
小宮は俺がジョークを言っていると思っているのか、強い口調で捨て台詞を吐き、35人の部下を引き連れて去っていった。
翌日から、広大な開発部には俺1人だけになった。社内には昨日の件が広まり、いつシステムが止まるのかとパニック寸前だった。
しかし数日が過ぎても、システムは何のトラブルもなく完璧に動き続けている。
それもそのはずだ。俺はかつて数々のオープンソースで名を馳せた元プログラマー。この会社のシステムは、俺が入社前から個人で開発し特許を取得している完全自動化システムの上で動いていた。小宮たちが自分たちの手柄だと思っていた日々の運用やバグ修正は、全てこのシステムが裏で自動処理していたのだ。
そもそも、この36人という膨大な開発部自体が、歪んだ社内政治の産物だった。数年前の新規事業拡大で大量採用に踏み切ったが、現場で通用する人材はごく一部。それでも部下の数が発言力に直結すると考える井出が、派閥拡大のため人員削減を拒み続けてきたらしい。
エンジニアだった頃、度重なるバグと障害を見かねて、俺は自作の自動化システムを持ち込み、複雑な処理を巻き取らせる体制に切り替えた。だから3ヶ月前のリーダー就任時には、すでに小宮たちの仕事は共通パーツを組み合わせるだけの単純作業になっていたのだ。
俺が休憩していると、コーヒーを2つ持った人内さんが歩み寄ってくる。
「高橋、お疲れ。あいつらが消えたから、システムのエラー報告が0になったって営業部でも持ち切りだぞ」
人内さんは笑って缶コーヒーを渡してくれた。
「ありがとうございます、人内さん。でも俺1人じゃ手が回りきれない部分もあります」
「分かってるって。だから俺も動いてたんだよ」
人内さんは胸ポケットからUSBメモリーを取り出し、俺のデスクに置いた。
「井出や小宮たちを裏で操ってただけじゃなかったぜ。競合他社にうちのシステム情報を横流しして裏金を受け取ってた。これがその証拠だ。営業のネットワークで裏口座とメールログを抑えておいた。前からうさん臭いと思ってたのが当たっちまったな。感謝しろよ」
「まさかそこまでしてくれたんですか?」
「当たり前だろう。お前みたいな天才があんな奴らに潰されてたまるかよ。それに俺はお前と面白い仕事がしたいんだ」
人内さんは頼もしく言い放った。俺のシステム制御と人内さんが集めた不正の証拠。反撃の準備は完全に整った。
とはいえ、井出はまだ現役の役員だ。下手に動けば握りつぶされかねず、俺は最善のタイミングを静かに伺っていた。
そんなある日、井出が俺の机の前にやってきて、嫌みったらしく言った。
「部下を36人も退職させておいて、自分だけとはね。頭を下げて36人を連れ戻すというのなら、考えなくもないが」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが冷たく冷めていくのを感じた。
頭を下げてあの36人を連れ戻す?俺を落とし入れることに全力を注いできた連中を、なぜこちらが頭を下げてまで呼び戻さなければならないのか。実力よりコネと派閥が物を言うこの会社に、報われる日は来ないのだろう。
覚悟を悟ったら、迷いは消えていた。
「でしたら、今月いっぱいで退職します」
自分でも驚くほど静かで迷いのない声だった。
このことを人内さんに話すと、「今月いっぱいね。じゃあ俺もそこで退職だな」と軽く言った。俺が驚いた顔をしていると、「だから言っただろ。俺はお前と面白い仕事がしたいんだ」と言って笑う。
退職を決めてすぐ、俺はシステムの正式な引き継ぎを会社に申し入れた。このまま去れば現場が混乱するのは目に見えていた。専務の井出には過去にシステムの重要性を伝えてある。だが帰ってきたのは「必要ない。やめると言うなら勝手にやめればいい」という返事だけだった。
人内さんに「筋だけは通しておけよ」と念され、書面でも正式に提案を送ったが、返答は最後までなかった。
小宮たちが退職してから1ヶ月後、今日は俺が退職する日だ。
朝から井出と共に、退職したはずの部下36人がやってきた。
「小宮、お前ら先日付けで退職したはずじゃ」
俺が戸惑っていると、小宮がにやつきながら口を開いた。
「井出さんが俺たちを契約社員として拾ってくれたんですよ。あんた1人と俺たち36人。会社としてどちらが必要かなんて分かりきってるもんな」
俺を見下した。
「戻ってきても業務内容は変わるぞ。というより、ゼロから構築し直す必要がある。俺が特許を持っている完全自動システムは、退職に伴い本日付けでライセンスを停止・引き上げるからな。それでもいいんだな」
小宮に念を押すと、小宮は一瞬固まったものの、すぐに開き直った。
「知ってるよ、そんなことは。引き継ぎの話も井出さんから聞いてる。契約社員に戻ってすぐ、井出さんがサーバーの管理者権限をよこしてくれてな。お前のコードも見せてもらった。組み換えて独自の新システムを用意してあるんだよ」
小宮は胸を張って笑った。
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わずキーボードに手を伸ばし、アクセスログを確認した。案の定、数週間前、井出のアカウント経由で本来閲覧権限のないソースコード領域への不正アクセスの記録が残っている。
退職を控え、監視を緩めていたのが、まさかここで裏目に出るとは。小宮たちが新システムと称して読み込ませているのは、俺のコードをそのまま無断でコピーし偽装したものだろう。
まあ、それならそれでいい。
「そうですか。分かりました」
俺は表情を変えないまま、本日の終業時間を迎えた瞬間に俺の特許ライセンスが切れ、システム全体が自動停止されるよう最終プログラムをセットした。
俺の返事に気をよくした井出が近づいてくる。俺の肩を叩き、「ご苦労だった。これでいい」と言った。
俺がため息をついていると、人内さんからスマホにメッセージが届いた。「こっちに向かっている」という。
俺は井出に向かって「最後にお時間よろしいですか」と言い、人内さんからもらったUSBをパソコンに刺す。井出は「まあ、最後くらい話を聞いてやるか」と高をくくっているが、それも今のうち。
データを呼び出すと、人内さんが到着した。
「高橋、待たせたな」
俺の隣に着く。俺はパソコンの画面を井出や小宮に見せながら言った。
「競合他社にうちのシステム情報を横流しして、見返りに裏金を受け取っていたそうですね。これが裏口座の動きとメールのログです」
井出が青ざめ、「おい、何を言っているんだ」と絶叫する。
「こっちは小宮君が関わった不正の証拠。俺のシステムを勝手にコピーして運用しようとしていたよな。ソースコードをそのまま複製するのは著作権法違反。本間のアルゴリズムは特許登録済みだから、無断使用は特許権侵害にも当たる。言い逃れはできないぞ」
そう言うと、小宮や他の部下たちの顔色が一変した。
そこで人内さんがにやりと不敵な笑みを浮かべて追撃する。
「万が一それを運用したら、会社もお前らも一発でアウトだぞ。莫大な損害賠償払えるか?」
俺は青ざめる井出を横目に、「ああ、この証拠、全役員とコンプライアンス部門に送っておきますので」と言って、その場でデータを送信する。
井出は大慌てで小宮に「なんとかしろ」と指示を出すが、送ってしまったデータを消去するなんて小宮たちにはできっこない。
そこで俺はちらりと時計を見る。
「定時になったので上がりますね。お世話になりました」
人内さんも頷いて「お世話になりました」と笑う。
「待て、待ってくれ。待ってください」
井出や小宮が叫ぶが、「本日を持って退職となりましたので、あちらでご自由にどうぞ」と笑って返してやった。
その後、事態は一瞬で崩壊へと向かう。俺たちが会社を後にした直後、システムのライセンスが切れ、社内システムは完全停止。復旧の技術もない小宮たちはパニックに陥り、部下たち全員が業界を追われた。証拠メールにより、井出は業務上横領の疑いで役員を解任され、警察へ連行。小宮たちも特許高度の無断複製が発覚し、会社から多額の損害賠償を請求されるはめになった。
夕暮れの町を並んで歩く俺と人内さん。
「さて、高橋社長、新会社の準備忙しくなるぞ」
「人内さんが社長ですよ。俺は技術担当としてお願いします」
顔を見合わせて笑い合う。実は人内さん、半月後には新会社を立ち上げられるよう準備を進めてくれていたらしい。
「とりあえず祝い酒だな」
「はい、行きましょう」
俺はそう答え、最高の相棒と共に新しい道を歩き出した。



