「なぜ君がここに?」
アメリカ本社の社長が目を丸くして、俺を見つめていた。俺は全国売上1位を達成したと勘違いした部長が、ここぞとばかりに自分の功績を主張し始める。しかし次の瞬間、社長の鋭い声が響いた。
「黙れ。君ではなく、彼に聞いているんだ。」
営業部が静まり返る。そして、この後誰も予想していなかった展開が起こった。
俺の名前は伊崎。38歳。世界で1200店舗を展開するアメリカの急成長中の会社で働いている。日本支社で国内の数十店舗の経営やアメリカ本社とのやり取りが主な仕事だ。
33歳で日本に入社し、営業部に配属された。中学生の時に父の仕事の都合で渡米したが、大人になってアメリカで働いている時に心を病んでしまい帰国。今も完全回復とはいかず、毎日暗い顔で働いていた。
「おい、この書類英語にして本社に送っておけ。」
上から目線で俺に命令してきたのは、営業部のトップである三上部長。部長は俺が入社当時からこんな調子だ。
元々は店舗のスタッフだった部長だが、持ち前の明るさとコミュニケーション能力の高さで店長に昇進。全国の店舗で売上1位を記録した後、日本の営業部に移動となった。
性格が明るい部長にとって、俺のような暗い人間は見ているだけでイライラするのだろう。入社直後から部長は俺を馬鹿にし続け、現在は雑用係として都合よく使われていた。
はあ。
小さくため息をつきながら書類の翻訳作業に入る。俺ができるのは英語だけ。営業成績は下から数えた方が早い。担当顧客もほとんどおらず、毎日のように部長から雑用を押し付けられていた。
翻訳作業を進めていると、本社から英文のメールが届く。本社とのやり取りは俺の数少ない担当業務だ。
日本支社が本社に依頼した発注の確認メールだった。
「えっと、新作の上着が12ダース、デニムが6ダース、帽子が5ダースで既存製品の補充が20ダース。」
「そんなことしてるから仕事が遅いんだよ。」
パソコン画面を見ながらブツブツと呟いていたところ、いつの間にか背後にいた三上部長が馬鹿にするような声で言った。
「申し訳ございません。癖で。」
「さっさと片付けろよ。お前にできるのは英語の翻訳だけだ。それすらもまともにできないなら、営業部にお前の居場所はないぞ。」
「はい。すみませんでした。」
俺は俯いて部長の罵倒を聞いていた。
「お前の暗さを見てると、こっちも気分が沈むわ。」
捨てゼリフを吐いて、部長は自分のデスクへ戻る。
社会人になりたての頃、俺は仕事に対する情熱を燃やしていた。しかし就職した会社は外国人に対する偏見の目が厳しい場所だった。特に理由もなく俺は周りから阻害されてしまう。そして最終的に心を病んでしまったのだ。
その時のトラウマがあるからだろうか。部長に理不尽なことを言われても、抵抗する気すら起きない。俺にできることと言えば、小さくため息をつくだけだ。
会社の隅でなるべく目立たず、部長の反感を買わないようにしよう。そう考えながら仕事をしていたが、俺を追い詰めるような出来事が起こる。
ある日、部長から突然こんなことを言われた。
「お前がやってる翻訳業務だけど、これから外部に頼むことになったから。」
「え?」
驚きの声をあげる俺を、部長は歪んだ笑顔で見ている。
「翻訳作業のせいで営業の仕事ができないだろう。だからあんな低い成績なんだ。お前の負担を軽くするために、昨日の部長会議で委託を提案したんだよ。」
俺のためを思ってという口ぶりだが、部長の顔には意地の悪い感情が浮かんでいる。俺をいびって追い詰めるのが目的だろう。
「来月から完全に切り替えだ。先に渡す引き継ぎ資料を作っておけよ。」
捨てるように言って、部長は楽しそうに笑いながら自分のデスクへ戻っていった。
「伊崎さん、大丈夫ですか?」
隣のデスクの女性社員が心配そうな顔で声をかけてくる。営業部の社員はまともな人が大半なのだ。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます。」
とりあえず答えると、女性社員が小声で話を続けた。
「ここだけの話、部長、英語コンプレックスがあるんですよ。」
「そうなんですか。」
「あの人、店舗のアルバイト上がりじゃないですか?学生時代はあんまり勉強してなかったみたいで、英語はからっきしなんですよ。」
女性社員によると、売上ナンバーワンを叩き出した三上部長の店に、日本支社から視察が来たようだ。その際、英語ができないせいで恥をかいた経験があるらしい。
「伊崎さんを敵視しているのは、英語に対するコンプレックスがあるからじゃないですかね。」
女性社員の言葉に、心の中で「そうかもしれない」と考える。部長はプライドが高い。英語ができなくても自分の方が上だと証明したいのだ。
翻訳作業を委託に切り替えたのは、英語ができる俺に対する嫉妬だろう。
「困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
小さくお辞儀をして、目の前の仕事に戻る。気遣いはありがたいが、部長との居座り合いに他人を巻き込むわけにはいかない。何も文句は言わず、委託先へ渡す引き継ぎ資料の作成を始めた。
ところが、引き継ぎ期間中に委託先の翻訳ミスが発覚する。担当者が気づかず本社に送ろうとしていたが、念のために確認していた俺がミスを発見し、ギリギリのところで防止できた。もしこのまま本社に送ってたら、日本にコンテナ10個分の製品が届いていただろう。
この出来事がきっかけとなり、委託先から受け取った翻訳は一旦俺が確認してから本社へ送るという形になった。これでは外部に委託する意味がない。日本の上層部からそのような意見が上がったが、部長は委託の継続を主張した。さらに部長は上層部にとんでもないことを伝えたらしい。
俺の隣の女性社員が記録係として上層部と部長の会議に参加していたため、詳細を教えてもらえた。
「あの人、委託先のミスは伊崎さんのせいだって言ってたわ。あなたの作った引き継ぎ資料がちゃんとしてなかったのが原因だって。」
「そんな。」
「部長、口だけは達者だから、何人かは部長の言うことを信じてたわ。伊崎さん、身の潔白を証明しないと。」
そう言われても、俺には対処法などわからない。俺が作った引き継ぎ資料を上層部に提出すればいいのか?それだけで身の潔白が証明できるのだろうか。
悩んでいる間に、部長はさらに俺を追い詰めていく。
「お前、来年から庶務部に移動な。」
「え?」
ある日、部長に会議室に呼び出されたかと思ったら、突然の移動を告げられた。しかも移動先は、社内で追い出し部屋と言われている庶務部。
呆然とする俺に、部長は歪んだ笑みを浮かべる。
「英語対応が外注になった。今お前の貢献度は低い。営業成績も悪いしな。だから別部署への移動が妥当じゃないかと、上層部に話していたんだ。」
部長は俺の仕事を取り上げるだけでは足りず、会社から追い出そうとしているのか。
「そうですか。」
「移動先でもせいぜい頑張れよ。」
部長の馬鹿にするような声を聞きつつ、会議室を後にする。
呆然としたまま自分のデスクに戻ると、営業部の社員たちの会話が耳に届いた。
「来週、本社からの視察か。」
「本社と日本が連携した大きなプロジェクトを計画中で、メンバー選出のための来日だって聞いたぞ。」
「営業部から選ぶとしたら、まあ三上部長が妥当だろうな。コミュニケーション能力だけはあるし。」
その話を聞いた数日後、女性社員がこっそり耳打ちしてくれた。
「伊崎さん、プロジェクトのメンバー候補に英語のできる社員をって話が上層部で出てるらしいですよ。」
その言葉を聞いた時、廊下の向こうで部長がこちらを一瞥した。俺の庶務部への移動が急に話として出てきたのは、その直後のことだ。部長の嫌がらせだったのかと気づいたが、庶務部への移動が決まった俺にはもはや無関係の話だ。
心の中で考え、小さくため息をつく。油断すると涙が出てしまいそうになるので、なるべく心を無にして目の前の仕事を片付けた。
そして、本社からの視察当日。隅のデスクでいつも通り部長から押し付けられた雑用を片付けていると、部署の出入り口が賑やかな雰囲気に包まれた。
「ハート社長、よくお越しくださいました。」
扉の前にいるのは、嬉しそうな笑顔を浮かべている三上部長だ。そして、スラリとした体系の外国人。この人が本社のトップに立っているハート社長だ。
視察の目的がプロジェクトメンバーの選出なら、俺には無関係の話だが、だからと言って本社の社長を無視するわけにはいかない。仕事の手を止め、社長の近くへ向かった。
部長に見つかって絡まれたくなかったので、部長の背後に位置する場所へ移動する。すると、こちらに視線を移したハート社長が目を丸くして驚いた表情になった。
「なぜ君がここに?」
ハート社長が喋っているのは日本語だ。隣のデスクの女性社員が教えてくれたのだが、社長は日本で少しだけなら日本語を話せるらしい。英語のできない部長には接しやすい相手だ。
「私ですか?私は全国売上1位を達成した経歴が評価され、営業部の部長に抜擢されまして。」
ここぞとばかりに部長が自慢をする。社長を前にして気合いが入りすぎているのだろう。あまりにも一方的な自慢話が続き、ハート社長の表情が徐々に険しいものになっていった。
「えっと、三上部長。そこまでで。」
止めるようなハート社長の声だったが、自慢話で勝手に盛り上がっている部長には届かなかった。
「私の自慢はコミュニケーション能力の高さです。プロジェクトメンバーに選ばれた暁には。」
話を聞かない部長に、ハート社長が苛立ちを見せた。
「黙れ。君ではなく、彼に聞いているんだ。」
少し声を荒げつつ、部長の後ろを指差す。ハート社長の人差し指の先にいたのは、俺だ。
「え?」
「伊崎だろ。俺のことを覚えていないのか?」
部長を押しのけ、俺の方へ歩み寄るハート社長。俺は社長とは初対面のはずだ。
「ほら、あの時だよ。えっと、日本語で何と言えばいいのか?」
「社長、英語で大丈夫ですよ。」
英語で返すと、社長の顔がパッと明るくなった。
「やっぱり伊崎だ。14年前、アメリカのアパレル会社で働いていただろう。」
日本に戻る前は確かにアパレル会社で働いていた。頷いて返すと、社長が驚きの言葉を口にする。
「当時、俺も同じ会社で働いていたんだよ。俺は企画部で、総務の君とは接点がなかったんだけど、プロジェクトの参加メンバーとして1ヶ月間だけ一緒に働いたんだ。その時、俺の発注ミスをフォローしてくれた日本人、君だろ?伊崎。」
ハート社長の問いかけに、14年前の記憶が一気に蘇る。
「ああ、あの時の。ようやく思い出してくれたか。」
「すみません。俺、他の部署の人たちと交流がなくて。プロジェクトに参加していたのも、退職する直前の1ヶ月だけでしたし。それに社長、あの時とは随分見た目が。」
社長は自分の腹をポンと叩いた。
「ダイエットしたんだよ。社長が自分のブランドの服を着られないなんて、バカにされちゃうからね。」
日本に戻る前、俺はアメリカの中堅アパレル会社で働いていた。しかし外国人に対する偏見がひどい会社で、俺は自分の殻に閉じこもっていたのだ。
その際、プロジェクトのメンバーに選ばれたのだが、企画部の社員の発注ミスに気づいた俺は、誰にも報告せずミスをカバーした。ところが、ミスの痕跡を見つけたプロジェクトのメンバーが、俺のミスだと言い出したのだ。
俺をプロジェクトから追い出すための発言だろう。すでに心を病みかけていた俺は、これが最後の後押しとなり会社を去る。そして日本に戻り、現在に至るのだ。
まさか、あの時ミスをした企画部の社員がハート社長だったとは。
「ずっと俺、礼を言いたかったんだ。日本のことが気になるようになったのは、君のおかげだ。」
「そうだったんですか。」
「また会えて嬉しいよ。そうだ。計画中のプロジェクトに参加しないか?」
英語のできる営業部の社員が驚きの声をあげる。
「お、おい、社長はなんて言ってるんだ?」
全く英語ができない部長は困惑の顔で俺と社長を見ていた。近くにいた英語のできる社員に話を聞くと、目をカッと見開き、俺と社長の間に割って入ってくる。
「社長、こいつは営業の仕事もろくにできない役立たずですよ。こんな無能に大切な仕事を任せるなんて。」
「社長、部長の言う通りです。俺、仕事ができる人間ではありません。だからアメリカでも認められなくて、結局会社を去るはめに。」
目を伏せると、社長が俺の肩をポンと優しく叩く。
「短い間だったが、ミスをフォローしてもらって以来、前の職場での君の仕事ぶりはよく観察していた。君は周りをよく見ている。フォローが必要な時は黙ってカバーしていたし、何よりミスがなかった。それは仕事ができるということじゃないのか。」
俺がアメリカ本社からのメールを受け取る際、発注の確認は必ず声に出して確認していた。ハート社長が前の会社でミスをした経験からだ。あの時の教訓を胸に刻んでいたので、部長に遅いと叱られても丁寧に確認作業をしていたのだ。
部長に馬鹿にされ、社長に慰められ、俺の心は一瞬だけ浮上する。しかし、またすぐに沈んでしまった。
「社長は俺を過大評価しすぎですよ。」
「俺は急成長中の会社のトップだぞ。人を見る目は、この場にいる誰よりもある。」
胸を張るハート社長は続けて、優しい笑みを浮かべた。
「あの職場で君は仕事ができなかったんじゃない。君の本来の力を出せる環境じゃなかったんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は気づいた。14年間、俺はずっと自分を責め続けていたのだと。無能だと、逃げたのだと、そう言い聞かせ続けてきた。しかし、それは環境に押しつぶされた結果だったのかもしれない。
俺はあの時逃げた。このまま逃げ続けていいのか?自分に問いかけた瞬間、「嫌だ」と心が叫んだ。今度は逃げたくない。
「チャンスをいただけるなら、やらせてください。」
気づけば、ハート社長にこう返していた。
「よし、決まりだな。」
俺と社長は硬い握手をかわす。営業部にどよめきが上がった。
ちなみに、今までの会話は全て英語だ。他の社員に翻訳してもらった部長は、一歩遅れて目の前の現実を理解する。
「な、なんでお前が。俺は認めないぞ。」
反対の声をあげる部長を、ハート社長は冷めた目で見た。
「俺の決定が気に入らないのか?」
会社のトップの前であるとようやく気づいた部長が、顔面蒼白で口を閉ざす。
「どうやらこの職場でも、君を邪魔する人間がいるようだな。」
そう言って、社長は俺から手を離し、部長に向き直った。
「三上部長、彼の仕事を邪魔しないように。もしそのようなことをしたら、会社に対する裏切りだと判断するよ。みんなも、部長が伊崎の仕事を邪魔しないように見張っててくれ。」
部長は滝のような汗を流している。俺を見て悔しそうな顔をしていたが、社長を前にして下手なことは言えないため、ブルブルと震えながら唇を強く噛んでいた。
それから、俺は正式にプロジェクトメンバーに抜擢される。最初は以前の職場のトラウマもあり、隅に座り目立たないようにしていたけれど、このプロジェクトのメンバーは優秀なだけでなく人間性もいい人たちばかりだった。誰も俺をのけ者にせず、平等に扱ってくれる。
特に俺が活躍したのは、本社とのやり取りだ。
「英語ができる伊崎さんのおかげで、本社とのやり取りがスムーズに進むよ。」
そんな評価をもらい、俺の心は次第に明るくなっていく。声を出して確認する俺の癖は、気づけばメンバー全員が真似していた。
「これ、ミスが減っていいよな。」
「私、プロジェクトが終わっても続けるわ。」
俺なりのやり方が認められ、徐々に発言も増えていき、気づけば俺はプロジェクトの中心メンバーになっていた。
プロジェクトは無事に成功を収め、俺は社内で一目置かれる存在となる。一方、三上部長はいつの間にか店舗勤務が決定し、営業部の新部長として現職に白羽の矢が立った。
その辞令通知のメールを翻訳したのは、他でもない俺だった。
「部長、あなたの悪評を上層部に吹き込もうとしたんだけど、ハート社長に認められた社員というお墨付きの前には無意味だったみたい。誰も取り合ってくれなかったんですって。それどころか、部長の言動が問題視されて、今回の移動が決まったらしいわよ。」
隣のデスクの女性社員に事情を教えてもらい、俺の知らないところで部長が自爆していたことを知った。
部長はなんとか移動を撤回してもらおうと上層部に働きかけるが、結果は覆えらず。移動の1週間前、突然俺を会議室に呼び出したかと思ったら、半泣きで縋りついてきた。
かつてはこの人の言葉の1つ1つが怖かった。しかし今は、ただ気の毒だと思うだけだ。
「頼むよ、伊崎。今までのことは謝るから。上層部に。いや、ハート社長に口添えしてくれ。店舗に移動なんて、実質的な降格処分じゃないか。」
「部長、申し訳ありません。上層部の決定には逆らえないので。」
「そんな。」
泣き叫ぶような声をあげる部長。俺はそんな部長を冷めた目で見ていた。
「そもそも、あなたが俺の悪評を吹き込もうとしなければ、店舗移動にはならずに済んだかもしれませんよ。これはあなたが招いた結果です。」
手厳しい指摘に、部長は気まずそうに目をそらす。
「あなたは部長の器じゃない。会社がそのように判断したんです。これからは他人の足を引っ張るのではなく、自分の力で周りを認めさせてください。」
部長の肩が、力を失ったようにゆっくりと落ちた。どうすることもできない現実を前に、部長は絶望の表情を浮かべていた。
それから1週間後、三上部長は店舗へ移動となり、営業部に平和が訪れた。移動先の店舗スタッフはほぼ全員、部長の着任に反対しているそうだ。部長の居場所は日本にも店舗にもない。さらに移動先は日本からかなり離れた場所で、単身赴任となった。
移動の理由を知った奥さんが、離婚の準備を進めていると、情報通の隣の女性社員から教えてもらった。どこからそんな情報が入るのか、俺には到底わからない。
「誰も部長には同情してないわよ。」
一方、俺は営業部で忙しい日々を送っている。
「本社からメールだ。えっと、新作が5セット。」
相変わらず口に出して確認する癖は抜けないが、これが俺のやり方だと、今は胸を張って言える。



