「あんた、古臭い町工場を本当に継いだんだ。」
1年ぶりに再会した元上司が、僕の近況を聞くなり高笑いを響かせた。
「何の取り柄もないあんたには、汗と誇りにまみれてちまちま作業してるのも合ってると思うわよ。そういや、何か匂うわね。あんたの油の匂いかしら。」
そう言って、彼女は鼻を押さえてニヤニヤと笑う。
「油の匂いなんてしませんが。」
「ていうか、あんたみたいな貧乏人が入ってきていい場所じゃないのよ。ここは。分かったなら、さっさと帰りなさい。」
口を挟もうとすると、彼女はまるで子犬でも払うように手を動かして、僕を追い払おうとする。
そのあまりにも失礼な物言いに、呆れながらも僕はにっこりと笑ってみせた。
「わかりました。では、帰らせていただきますね。」
「ええ、二度と私の前に現れないでちょうだい。」
彼女はなおも調子に乗って、僕を会社から追い出そうとする。
この人は、自分が何をしているか分かっていないらしい。そのことに気づいたが、僕に教えてあげる義理はない。彼女には、しっかりと自分で責任を取ってもらうことにした。
僕の名前は野村浩。大学卒業後、大手メーカーに入社し、製品開発部で働いている。実家が町工場を営んでいた影響で、昔から僕も物づくりに興味を持っていた。だから、自分の性に合っている開発部で仕事ができることを嬉しく思っている。
仕事には不満はないのだが、半年ほど前に人事異動で新しい女性の係長がやってきてからというもの、僕は職場に向かうのが少し憂鬱になってしまった。
「野村君、急ぎでこれ、ジュブコピーね。」
今朝も出勤早々、僕は篠原係長から早速呼びつけられる。
「あと、この書類データまとめて送っといて。」
「ああ、今日午後で使うから、会議室も抑えといて。もちろん、準備も昼休み中にしっかり終えといてね。」
職場では、派手に移る真っ赤な口紅に彩られた篠原係長の唇が、流れるように要件を紡ぎ続けている。誰にでもできる雑用から、本来なら彼女の仕事であるはずのものまで、その内容は多岐に渡る。
僕も、まあこれだけ毎日他人に仕事を押し付けられるものだなと、感心してしまうほどだ。すると、思わず不満なことを考えていた気配が伝わってしまったのか、篠原係長がその不自然に濃いまつ毛を瞬かせて、苛立たしげに僕を見た。
「ちょっと、野村君ねえ、聞いてる?」
「は? はい。コピーと書類データ、それから会議室の準備、あとはファイルと伝票の整理ですね。」
その視線の圧にせかされるようにして慌てて答えた僕に、鼻白んだように目を細めた後、篠原係長は睨みつけてくる。
「聞いてるんだったら、返事くらいしなさいよ。本当にあんたはどん臭い上に容量悪いったら。それくらい社会人としては常識でしょう。あんた、何年この部署にいると思ってんの?」
高い彼女の怒鳴り声が、今日もフロア中に響いた。
この篠原係長は、この部署に配属当初からやけに僕への当たりが強かった。多分、華やかなことや目立つことが大好きな彼女からしたら、地味で真面目と言えば聞こえはいいが、要は口下手でどん臭く、お世辞の一つも言えない僕は、どうにも苛立つ存在なのだろう。
と言いつつも、彼女がとても仕事ができるかと問われれば、特にそうでもない。実は篠原係長は、古参入者なのだ。この会社の役員に親戚がいて、そのコネと学歴だけで、大した実績もないまま彼女は若くして役職についているのだった。
「すみません」と小さく頭を下げる僕の目の前で、青筋を浮かべた篠原係長が、わざとらしく大きなため息をついた。
「謝りゃいいとでも思ってんの? それくらい猿でもできるでしょうよ。まあ、名前も聞いたことないようなレベルの低い大学出てるあんたとなら、知恵ができる分、猿の方が上か。」
「きゃはは」と、上品とは言えない笑い声をあげて僕を馬鹿にする篠原係長。さらに彼女は続けて、こんなことを言ってくる。
「さすがボロ町工場の息子だわ。本当に品がないったら。時代錯誤もいい加減にしなさいよ。あんたとあんたの実家だけ、昭和初期にでも生きてんの?」
いかにも嫌味ったらしい言い方でこちらを見下してくる篠原係長に、僕は無言で唇を噛んだ。確かに僕の実家は、祖父の代から続く小さな町工場だ。古いしボロいと言われればその通りなのだが、けれど僕は祖父が、それから両親が作業着を汚して汗を流し、懸命に働く姿を誇りに思っている。それを何も知らない外部の人間にバカにされる言われなど、どこにもない。
けれど、ここで僕が何か言い返したら、篠原係長の機嫌がさらに悪くなるのは目に見えている。
「何よ、文句でもあんの?」
押し黙る僕のことを、彼女が睨みつけては、別の視線を送ってくる。だが、それも束の間、僕の同僚が始業時間を少し過ぎてフロアへ姿を表すと、打って変わった猫撫で声で篠原係長は彼を呼んだ。
やがて近づいてきた同僚が、あまり悪びれもせずに笑顔を浮かべ、甘えた声を出す。
「すみません。ちょっと具合悪くて、起きられなくて。」
体調が悪いなどと明らかに嘘だと分かるほど、つやつやした顔をした同僚に、けれど篠原係長は僕に見せていた険しい顔など微塵も感じさせない笑顔全開で優しく答えている。
「いいのよ。でも、心配だわ。もう平気なの? 無理はしないでね。また具合悪くなったら、遠慮なく言って。」
ちなみにこの同僚は遅刻常習犯なのだが、それでも篠原係長は彼を咎めるわけでもなく、いつもこのようにして甘やかしてばかりなのであった。この前、僕が本当に体調不良で病院に行くために遅刻してきた時などは、事前に連絡していたにも関わらず、「体調管理もできないグズ」と、まるで親の敵のようにして怒られたものである。
篠原係長は、イケメンで高学歴なこの同僚を、えこひいきしているのである。フロアの他の社員もそんな篠原係長の態度を白けた顔で見ているのだが、巻き込まれまいとしているのか、表立っては誰も何も言わないのがこの部署の常だった。
そして、もはや僕が見えていないかのように、二人のベタベタとした会話は続いている。
「体調が悪い中、頑張って職場に来たんだから、少しくらいゆっくりしてて。」
「いやあ、でも仕事が今日締め切りなんで。」
「もう、頑張り屋さんなんだから。」
どこから出しているんだと思うほどの高い声でそう言うと、篠原係長はやっとその存在を思い出したかのようにして僕を見向いてきた。
「ほら、野村君、彼の仕事、代わりにやってあげなさいよ。」
「え、でも…」
先ほど押し付けられた雑用と自分の仕事で手いっぱいな僕は、その提案にはさすがに声をあげる。だが、その小さな抗議を彼女は速攻で叩き潰した。
「はあ。あんた、雑用しかしてないじゃない。それでお給料もらってんの? おかしいって思わないの? あと、体調悪いって言ってる同僚の手伝いくらい、率先してやりなさいよ。本当に気が利かないわね。」
理不尽極まりないその言い草に、僕は目が点になったが、そんなこちらのことにはもう興味をなくしたようにして、篠原係長は愛想笑いを浮かべる同僚に見とれている。
ああ、もう、これは何を言ってもダメだな。僕は彼らに聞こえないように、口の中でため息をついた。
僕とて、こんな状況に不満がないわけではない。けれど、口下手な僕が何か言ったところで、事態は好転しないどころか悪化させてしまうのが落ちだ。そう思い、僕はいつも言葉を飲み込んでしまっている。
そうして、とにかく押し付けられた仕事を終わらせるべく、僕はあたふたと自席へ戻っていくのであった。
だが、そんな日々の中、一つ嬉しいことが起こった。僕がリーダーを務めるチームで開発中の試作品が、視察にやってきた役員の目に留まり、褒められたのだ。日頃から滅多に部下を褒めない人として知られていたその役員からの褒め言葉に、チームは一気に湧き立つ。
「すごいじゃないか、野村。あの人に褒められるなんて。」
「そうよ。頑張ってきた甲斐があったわね。」
「いや、僕だけの力じゃないから。チームのみんなのおかげだよ。」
役員が去った後、同僚たちが口々にそう言って僕を囲んだ。実際、役員の目に留まった試作品は、チーム全員が意見を出し合って作ったものだ。僕なんて、若いメンバーの中で年齢だけでリーダーを任されているようなものだと思っている。それでも、周囲の掛け値なしの激励は嬉しいものである。
だが、そこへ役員を案内していた篠原係長がフロアへと戻ってくる。そして、同僚たちに囲まれる僕を面白くなさそうな顔で見ると、すれ違い様、低い声でこう囁いてきた。
「少しくらいは褒められたからって、調子に乗るんじゃないわよ。」
周囲には聞こえないくらいの音量ではあったが、あまりにも意地悪げなその言葉に、僕は思わずぎょっとしてその場で固まってしまう。そんな僕を馬鹿にしたようにして見下した後、篠原係長は何事もなかった様子で去っていった。
だが、その日以降、彼女は僕に対して日ごとに大きなプレッシャーをかけ、また僕の仕事を邪魔するみたいに、前よりも増して雑用を押し付けてくるようになったのだった。
それでも僕は、チームのみんなの助けもあり、なんとか試作品を完成させることができた。ちなみに、完成した作品は役員たちの前でプレゼンすることとなっている。そして、今日はその前日。
チームのみんなも明日に備えて早めに帰り、試作品の最終調整をしていた僕も、そろそろ帰ろうかと思ったその矢先だった。いつもは定時になると率先して帰宅するのに、その日に限ってまだ帰っていなかったらしい。篠原係長が、僕以外誰もいなくなったフロアへと入ってくる。
そして、彼女は一人残っていた僕の姿を認めると、むっつりとした顔で僕を呼んだ。
「君、ちょっと。」
その響きに、僕はなんとなく嫌な予感を覚えたが、まさか上司の呼びかけを無視するわけにもいかず、言われるまま彼女の元へ近づく。すると、篠原係長は不機嫌そうな表情のまま、デスクの引き出しから書類を一枚取り出した。
「これ、何だか分かる?」
「はい。僕が提出した研究開発費の申請書です。」
目の前に掲げられたそれは、先日提出済みの書類であったが、よく見るとどうもおかしい箇所がある。その申請額の部分が、僕が出したものより大幅に増額されて記載されているのだ。
一体どういうことだ? だが、眉を寄せた僕の顔を、篠原係長は無言で見下ろしてきた。そして、彼女はキリキリと目尻を吊り上げると、厳しい声でこう告げる。
「あんた、研究開発費を不正申請してるわね。」
突然そんなことを言われ、僕は反射的にブンブンと首を振った。
「まさか。そんなこと、絶対にしてません。この申請書類だって、僕が申請した後で誰かが書き直したんです。」
濡れ衣を着せられ、さすがに口下手だなんだとも言ってられず、僕は必死で自身の潔白を訴える。だが、篠原係長はそんな僕を嘲笑うようにして肩を竦めた。
「はあ、呆れた。そんな子供みたいな言い訳、通用すると思ってんの? ああ、私も舐められたもんね。」
「言い訳じゃありません。本当に知らないんです。あの、その書類、よく見せてください。もしかしたら、後から誰かが書き直した形跡が見つかるかも。」
けれど、そう言って食い下がる僕の手が、彼女の持つ申請書に届く寸前、それはひらりと横へかわされる。僕の手を避けて書類を自身の鞄へとしまった篠原係長は、「上司にまして女性に手をあげるなんて、最低だわ」と一方的に僕を睨んできた。
「乱暴はよしてよ。それに、これはあんたが不正申請していたっていう大事な証拠だもの。おいそれと渡すはずがないでしょ。」
「乱暴したつもりはなかったのですが。すみません。急に手を伸ばしたのは謝ります。でも、僕は不正申請なんてやってない。」
だが、篠原係長は僕の言うことなど全く聞く気はないようだった。彼女は再び怖い顔で僕を睨むと、早口で言い放った。
「この件はまだ上に報告していないわ。でも、バレたら警察沙汰になるくらいの大事よ。でもね、私だって話をむやみに大きくしたいわけじゃない。そこで、一つ提案があるわ。」
そして、彼女は思わせぶりに言葉を切った。赤い唇がにんまりと吊り上がる。
「あんた、責任取って辞めなさい。そうすれば、今回の件も不問にしてあげる。」
そんな相手の無情な言葉に、僕は愕然とした。だが、顔面蒼白になっているであろう僕を、彼女は知らん顔でなおも言ってくる。
「ああ、開発中のあの試作品とチームは、私が引き継いであげるから心配無用よ。周りにも、あんたは病気で退職するってことにしといてあげるから。」
まるで初めから色々と準備してあったような段取りの良さで、篠原係長はそう言ってニヤニヤと笑う。
そんな彼女へ、僕は頭が真っ白になりながらも懸命に訴えた。
「不正なんて、そんなの何かの間違いです。お願いですから、その申請書類をもう一度よく調べてください。何か証拠が、何か分かるかもしれない。」
だが、僕がどれだけそうお願いしても、彼女はうるさそうに眉を潜めるばかり。それどころか、鬱陶しげに僕を見下ろしては、吐き捨てるように口を開く。
「うるさいわね。いい? あんたがそうやって粘れば粘るほど、チームの彼らに迷惑がかかるのよ。それとも何? まさか、この不正はチーム全員が決託してたとでも言うつもり?」
その言葉に、僕は息を飲んだ。
「そ、それはありえません。そんなこと、絶対に。チームのみんなは関係ない。」
しかし、その瞬間、篠原係長は鬼の首を取ったかのような勝ち誇った顔をした。
「あらあら、語るに落ちるってこのことね。チームのみんなは関係ないということは、やはりあんた一人の犯行ってわけだ。」
「違う。そういう意味じゃ…」
「黙りなさい。どん臭い癖して、本当に口うるさいんだから。あんたが大人しく辞めれば、大事にしないって言ってるのよ。チームに迷惑かけたくないんなら、私に従いなさい。」
二人だけのフロアに、篠原係長の高い声がキンキンと響いた。そして、そこまで言われた僕は、もう立っているのもやっとの状態だった。混乱したままの頭の中では、言われる通り彼女に従うのが、他の誰にも迷惑をかけない最善の道であるかもしれないとまで考え始めていた。
どうしよう。どうすれば…。でも、このまま言い争っていたって、何が解決するわけでもない。そうだ。僕一人がやめるだけで済むなら、それが一番いいじゃないか。
そうして、僕はとうとう篠原係長の言うことに「はい」と頷いたのだった。
翌日、役員会議で例の試作品は好評を得て、製品化されることとなったらしい。役員に褒められ、有頂天な様子の篠原係長の姿が目に浮かぶようだ。彼女の言う通り、僕は病気のための退職という扱いになっていて、チームの他のみんなはあまりの突然の展開に驚きながらも、口々にこちらの体の心配をしてくれた。
その気遣いに後ろめたさと悔しさを飲み込んで、僕は彼らに頭を下げ、フロアを出る。そして、荷物を抱えて廊下を歩いていると、タイミング悪く役員たちを見送っていたらしい篠原係長が通りかかった。彼女はついと僕を見やると、わざとらしくにっこりと笑って話しかけてくる。
「あら、野村君、今までお疲れ様でした。ちなみに、辞めた後はどうするつもり?」
首をかしげ、いかにもぶりっ子しながらそんなことを問うてくる彼女に、僕はぼそぼそと答える。
「実家に帰って、町工場で働こうかと。」
すると、篠原係長は満足そうにクスクスと肩を揺らした。
「あら、そうなの? もう、どん臭くて気の利かないあんたには、せいぜいお似合いの仕事だわ。では、もう二度と会うこともないでしょう。ご機嫌よう。」
そう言って、嫌なくらい優雅に手を振る彼女に背を向け、僕は会社を去ったのである。
それから、あっという間に一年が過ぎた。
僕は久しぶりにまとったスーツの襟元を指先で正し、かつて自身が務めていた会社のロビーに佇んでいる。あれから僕は実際に実家の町工場で働き出し、今から一ヶ月ほど前に高齢の父の代わり、工場の社長となっていた。そして、今日はとある商談のためにここを訪れている。
頭を上げて、ぐるりと辺りを見回した。会社を辞めて一年しか経っていないのに、もう随分と年月が経ったようにも思える。この一年間、それだけ濃い時間を過ごしたのだなと、どこか感慨深くも思いながらかつての職場を眺めていると、その時、明らかに棘を含んだ声が僕の耳を打った。
「ちょっと、あんた、なんでここにいるの?」
その聞き覚えのある声に、しぶしぶ振り返ると、そこには僕の元上司である篠原係長の姿があった。
「まさか、あんた寝ぼけてここに来ちゃったの? 言っとくけど、あんたはもう一年も前にこの会社を辞めてるのよ。会社辞めたショックで頭でもおかしくなったのかしら。」
早速調子に乗るその物言いは、一年経っても全然変わっていない。それどころかパワーアップしているくらいで、僕は内心げっそりしながらも、無難に頭を下げる。
「ご無沙汰しています。篠原係長。」
すると、僕の言葉に彼女が前のめりで食いついてきた。
「違う違う。私、もう係長じゃないのよね。ほら、あんたから引き継いだあの案件、あれが製品化されてヒットしちゃって。で、今は私、課長なの。」
社員証を見せつけるようにしてそう自慢され、僕は何とも答えようがなく、「そうですか」とだけ返事する。だが、そんな僕の反応が気に食わなかったのか、彼女は獲物を見つけたハイエナのようにして目を光らせると、早速こちらを追撃してきた。
「あんた、本当に実家のボロい町工場で働いてるの?」
「はい。一ヶ月前に父から後を継ぎました。」
話を終わらせたい一心で、淡々とそう返す。しかし、彼女はその頬に嗜虐的な色を浮かべると、甲高い声で高笑いした。
「そう、そうなの。まあ、何の取り柄もないあんたには、汗と誇りにまみれてちまちま作業してるのも合ってると思うわよ。そういや、何か匂うわね。あんたの油の匂いかしら。」
こう言って鼻を押さえた篠原課長は、「しっしっ」とまるで子犬でも払うように手を動かすと、僕を追い払う。
「ていうか、あんたみたいな貧乏人が入ってきていい場所じゃないのよ。ここは。分かったなら、さっさと帰りなさい。」
そして、彼女はゴミでも追いやるようにしてそう吐き捨ててきた。
だが、その言葉に僕はにっこりと笑ってやる。
「そうですか。わかりました。では、御社と交わすはずだった特許部品の納品契約は、破棄させてもらえますね。」
広いロビーに僕の声が響く。急に声を張り上げた僕に驚いたのか、元上司はきょとんと目を丸くしていた。
「あんた、急に何言ってんの?」
そう、彼女が呆けたように問いかける。だが、その時、向こうから営業部の部長が慌ててこちらへ近づいてくる姿が見えた。
「いや、野村さん、もう来られていたのですね。お迎えもできずに申し訳ありません。」
そう口にして丁寧に頭を下げる部長に、僕も首を振る。
「いえ、こちらが早く着きすぎただけですので。それに、僕はもう帰ります。こちらの女性から、僕がいると油臭いから帰って欲しいと言われましたので。」
僕の言葉に、思わずといった風に営業部長が目を見張った。そして、先ほどからこちらのやり取りを呆然と眺めていた篠原課長に、「どういうことだ」と彼が詰め寄る。
「え、その…」
「彼女、実は僕の元上司なのですが、僕にはボロい町工場が似合いだとおっしゃって、また油臭い貧乏人がいると会社が汚れるので嫌だとのことで。僕も仕事で来ているのですが、まあ、そこまでおっしゃるのなら帰ろうかなと。」
事情を飲み込めずにいる篠原課長の横で、僕はそうにこやかに補足説明をする。すると、それを黙って聞いていた営業部長の顔がだんだんと険しくなっていき、ついに彼は声を変えて彼女へと怒った。
「何を考えているんだ、君は。この方は確かに君の元部下かもしれないが、今はうちの重要取引先の社長でいらっしゃるんだぞ。」
「ええ…」
そう。実は僕は、会社を辞め実家の町工場で働き出した後も、一人で研究開発を進めていた。そして、僕はとある部品の特許を取得することに成功したのである。それは、辞める直前まで僕がチームのみんなと開発していた試作品に関連するもので、その特許部品を使えば、ヒットしている今の製品をさらに改良できる仕組みだ。
本当はあの時、僕はその特許部品の構想までを頭の中で練っていたのだが、それを実現させる前にあんなことになってしまったので、この篠原課長はもちろん、チームの誰にもそのことは話していなかったのだ。そして、僕は一人地道に研究を重ね、その特許部品を独占的に製造し始めた。そんな時、声をかけてきたのが僕の元職場の営業部であった。今日はその商談でこの会社を訪れていたのだが。
「ということで、僕はこのまま帰ります。幸い、あの部品はいくつかの会社からお声をかけていただいているので。それでは。」
そう言って立ち去ろうとする僕に、営業部長が追いすがる。
「待ってください。そんなことになっているとは、梅知らず。本当に失礼いたしました。ほら、何をぼっとしてるんだ。君からも謝りなさい。」
上司からそうせかされ、いまいち納得していない顔のまま、それでも篠原課長はしぶしぶ僕に頭を下げてきた。
「こ、この度はすみませんでした。」
しかし、形だけは謝っているが、その口調や態度からは、仕方なくやっているという様が見え見えだ。その器の小ささと空気の読めなさに呆れてしまいながら、僕は「残念ですが」と首を振る。
「僕は、心から信頼できる相手としか契約を交わしません。そして、僕は彼女を信頼できません。そんな信頼できない相手が勤める会社とも、残念ながら取引はできません。」
「野村さん…」
こちらの非礼な対応に、営業部長は返す言葉に詰まっている。すると、このままでは自分の失態になると踏んだのか、篠原課長がきっと僕を睨みつけて言い放った。
「この…、言わせておけば、あんた、そんな偉そうにできる立場なの? こうなったら、あんたの一年前の不正、訴えてやるんだから。」
「おお、急にどうしたと言うんだ? 不正? の話だ。」
突然叫び出した部下に、目を丸くする営業部長。ロビーを行き交う人々も、先ほどからの騒動に思わず足を止め、こちらに注目している。
一年前までの僕であれば、みんなから注目され怒鳴られているこの状況では、とても反論なんてできなかった。けれど、この一年間で僕は変わった。特に実家の町工場では、大人しい顔ばかりしていては、相手から舐められ足元を見られてしまうことを、僕はよくよく学んだのだ。
最初はそれでも、こちらの要求をうまく伝えられず、取引先相手に失敗することもたくさんあったけれど、そんな不器用な僕を、家族は温かく、そして時には厳しく見守ってくれた。おかげで僕は、なんとか一人でも取引先と渡り合い、互いにとってより良い契約を結べるところまで成長できたのである。
そうして、僕は静かに、けれどありったけの勇気を持って、きっぱりと彼女に言い返した。
「不正と、そうあなたはおっしゃいますが、それこそ、僕が不正をしたという証拠はあるのですか? もしそうなら、そしてあなたが僕を訴えるというのなら、僕も徹底的に戦えます。」
瞬間、篠原課長は何かを言いたげに口をパクパクとさせたものの、やがて何かに押し潰されたようにして押し黙る。その姿を視界に収め、僕は「では」と頭を下げると、今度こそきっぱりその場を後にしたのだった。
さて、それから数日が経ち、僕が営む古い町工場には、僕の元勤務先から営業部長と、それから社長の息子である副社長が謝罪に訪れていた。
「この度は、本当にご迷惑をおかけいたしまして。」
社長は体調が思わしくなく入院しているため、次期社長の立場である副社長がわざわざやってきたらしい。そして、副社長と同じく、心を込めて改めて謝罪を口にした営業部長が話し始める。
「彼女、篠原には、徹底的な社内調査が入りました。その結果、彼女が自分の部下に対して色々と不適切な対応をしていたこと。また、例の開発費の不正申請に関しても、実際に不正を行っていたのは彼女本人であり、その差額を自身の口座に振り込んでいたことが判明しました。」
その話を聞いて、僕が不正について戦う姿勢を見せた時、彼女がすぐさま黙り込んだことに納得する。
「篠原は解雇処分となり、また近々、弊社からも彼女を刑事告訴する予定です。野村さんが篠原の部下だった頃にも、彼女から不適切な対応があったと聞いております。全ては私たちの監督不行き届き、誠に申し訳ありませんでした。」
務めていた頃には雲の上の人だと思っていた相手から、今こうして陳謝されていることに、僕はどうにも不思議な心持ちを覚えてしまう。
そうして、僕は「一度、顔をあげてください」と口を開いた。
「あの頃は、僕にも付けられる要因がなかったかといえば、嘘になります。今でも後悔するところはありますよ。けれど、過去は過去で、起きたことは変えられません。そして、僕は今、あなたたちと未来の話をしている。」
僕の言葉に、相手がはっとしたようにして目を見開く。
「これからの未来について、改めて話し合いましょう。」
そうして、僕は彼らに手を差し出した。油がこびりついたその手を、彼らはしっかりと握り返してくれる。
伝えるべきことを伝え、勇気を持ったその先には、きっと明るい未来が待っている。僕は今から始まる新しい未来を夢見て、晴れやかな笑顔を浮かべたのだった。



