あの腕時計。あずさの結婚式のお返しにもらった腕時計のことを思い出す。もう7年も倉庫に放り込んだままだが、時計自体はいいものだった。中古品としての価値があるかもしれない。
私は倉庫へ急いだ。棚の中から例の腕時計を取り出す。ほこりをかぶっているが問題なさそうだ。安心した私は何気なく腕時計の裏側を見る。その途端言葉を失った。
嘘。これって…
時計の裏側にも思いもよらない刻印がある。義母に見せたらどうしてお前がこれを持っているんだと発狂するだろう。それはもう少し先のことだった。
話を戻すけれど、腕時計の裏側を見た私はあることをひらめく。うまくすれば義母をやり込められると思った。彼女が気づいていない。今がチャンスだ。腕時計をくれた人も私の役に立つと言った。
今度はあなたに苦しんでもらうわよ、お母さん。
復讐する覚悟を決める。しかし義母よりも悪い人間が身近にいることに私は気づいていなかった。
私は鹿原みさ、35歳。約10年前にヒトと結婚した。今では息子の翼も生まれ、恵まれた生活をしている。ただ1つ、義母の存在を除けば。
結婚前から分かっていたことだが、同居する義母は本当に性格が悪かった。服装や持ち物に文句を言われるのは日常茶飯事。私物を勝手に捨てられたことまである。さらに「これを使いなさい」と自分の古いブランドバッグを押し付けてくる始末。言っておくけれど、遠回しの優しさなどではない。「みさに私のバッグを譲ったから、新しいものを買ってもいいわよね」と義父に新作をねだるための口実だった。呆れて物も言えない。
自分勝手な義母とは離れてしまいたいと、最近の私は考えるようになっていた。同居という選択をしなければまだ良かっただろう。しかし私には断ることができなかった。理由は結婚の挨拶をした時に約束したからだ。
私がヒトと出会ったのは高校生の時だった。同級生の中でもリーダーシップがある人。当時は彼のことをそう思っていた。学校で話しているうちに次第に彼に惹かれていく。高校2年の時に私の方から告白して付き合うようになった。高校卒業後の進路は違っていたけれど関係は変わらないまま。私は就職し、彼は大学へ進学した。
プロポーズされたのはヒトが就職した2年後のことだ。彼は恥ずかしそうにこう言った。「高校の時から俺の結婚相手はみさって決めてた。いいかな?」「ええ、私も同じだから」互いに吹き出してしまったのはいい思い出だ。
ただ良かったのはそこまで。結婚の挨拶をするためにヒトの実家を訪れた私は現実を思い知らされてしまう。当日、玄関先で出迎えてくれたのは義母だった。彼女は私たちをリビングへ案内しながらこう聞いてくる。「随分と地味な子だけど、あなたがヒトのお相手?」「はい、みさと申します」「名前は聞いているわ。それと母子家庭の子だってことも」ニヤニヤする義母。妙な胸騒ぎを覚えた。
「うちの主人は社長よ。ヒトはその後と息子。それが分かっているのかしら?」「えっと、一応」「じゃあ家柄の違いも理解しているのね。安心したわ」嫌味な言葉が突き刺さる。悔しいけれど唇を噛みしめて俯いた。
そんな私の反応に気づいたのか、ヒトがフォローしてくれる。「母さん、言いすぎだよ。うちは普通じゃないか。家柄とか言うなよ。恥ずかしい」「あら、本当のことじゃない。母子家庭のこと、社長の息子では大変よ」
言われなくても分かっていた。プロポーズの直後、私もヒトに確認したくらいだ。けれど彼は笑ってこう答えた。「社長なのは父親で俺じゃない。もし反対されたら家を出ればいいだけだ」ヒトの言葉に背中を押されたのは事実だ。覚悟も決めていたはずなのに、どうしても反論できなかった。
黙っている私の代わりに彼が話を続ける。「みさのことを見下すだけなら帰るよ。いいのか?」「はい」「はい。ごめんなさいね。それで何だったかしら?」義母がわざとらしく間を置いた。よそを向いてこちらが口を開くのを待っている。「結婚の挨拶だよ。俺、みさと結婚しようと思っているんだ」「ああ、そうだったわね。そうね。結婚の挨拶にしては少しみすぼらしい格好じゃないかしら」じろじろと私を見てくる義母。やがて彼女は鼻で笑っていた。
「母さん、ちょっと失礼じゃないか」「そう。でもこんな時にスーツとか」義母が深いため息をつく。私は苦しさに視線をそらした。確かに結婚の挨拶ではワンピースなどが好まれると知っているけれど、手持ちの服の中に手頃な服がなかった。新しく買えば下だと勘違いされる可能性もある。色々と考えてスーツという選択をしたのだが、失敗だったようだ。
「スーツは別にいいだろう。きちんとしているし」「そうね。でも安っぽいからダメなのよ。うちの家柄に合うブランドのスーツならまあ良かったけど」義母がこちらを向いた。戸惑う私に彼女は聞いてくる。「そのスーツ、せいぜい5万円ってところでしょ。もう少しいい服を着なさい」「すみません」返す言葉もない。事実、私が着ていたのはセール品のスーツ。安くて3万円もしないくらいだ。
「とにかく結婚したらうちの家柄に合う格好をしてちょうだい。いいわね」「あ、はい」「それが分かったなら結婚は認めるわ」意外な言葉に驚きながら顔を上げる。義母は再びため息をついた。「ま、結婚はあなたたちが決めることだし、礼儀作法に問題はなさそうだものね」「母さん、ありがとう」「ただし服装と持ち物は家柄にふさわしいものにするのよ。みすぼらしい格好をしていたら親の私が恥をかくのだから」語尾がかなり厳しいところは少し気になる。ただほっとしたのは確かだ。
「結婚後は厳しくするわよ。覚悟はある?」「はい、よろしくお願いします」「いい返事ね。じゃあ同居しましょうか。私が鍛えてあげるわ」義母の口元が緩む。私は答えに詰まってしまった。ここで頷けばすんなりと結婚の挨拶は終わる。義母にも認めてもらえて結婚後の生活もうまくいくだろう。しかし、いきなり同居するのはハードルが高い。家柄の話をされたばかりだし、日々小言を言われるのは確実だった。
「どうしたの?返事は?」「あ、はい。頑張りますのでお願いします」私はそう答えるしかなかった。挨拶を終えた後、ヒトと一緒に彼の実家を出る。少し歩いたところで私は深いため息をついた。「ああ、やっちゃった」「ごめん。俺も助けを出す隙がなくて」「うん。ヒトは悪くないよ。私がつい同居にOKしちゃっただけだから」確実に後悔している。だがもう後戻りはできなかった。
そんな中で迎えたのが両家の顔合わせだ。参加するのは私の母と義両親。母子家庭のことで義母に馬鹿にされると私はビクビクしていた。しかし思いのほか顔合わせはすんなりと終わる。義母がしたのも当たり障りのない世間話ばかり。子供の成長は早いとか披露宴の会場はホテルにしたいとか、そんなことだった。最後には義母たちは3人で仲良くタクシーに乗って帰ったくらいだ。
ほっとした私は3人が乗ったタクシーを見送った後、ヒトに話しかけた。「お疲れ様、ヒト。多分うまくいったよね」「ああ、母さんが余計なことを言うんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたよ」互いに顔を見合わせて苦笑いしてしまう。そこでヒトが私にこう言った。「あとは結婚式だけど、少しは考えてる?」「うん。友達をたくさん呼びたいと思ってる」ヒトは笑顔で尋ねる。ヒトは少し考えながら答えた。「友達を呼ぶなら立食パーティーはどうだ?」「それ最高。そうしましょう」「会費制にすればご祝儀で困る人もいなくなるし」つい話し込んでしまう。私たちは顔を合わせた店の前で30分ほど立ち話をしていた。
そんな風に結婚式のアイデアを出し合っていたのだが、義母の一言で全てが水の泡となる。きっかけはヒトの家で結婚式の話をしていた時のことだった。「ヒト、いるんでしょ?」義母の声だと私は顔をしかめる。同じく険しい顔をしたヒトはゆっくりと立ち上がった。玄関を開けながら少しだけ強く言う。「母さん、急になんだよ。来る時は連絡くらい」「連絡ちゃんとしたわよ。あなたが出なかっただけじゃない」「出なかった?」不機嫌そうな顔でヒトは自分の携帯電話をポケットから出した。着信履歴を確認したのか、すぐにため息をつく。「なかったらどうするつもりだったんだ?」「いいんだから、それでいいじゃない。はい、上がるわよ」
勝手に上がり込む義母。部屋の中でくつろぐ私と目が合い、彼女は眉間にしわを寄せた。「あら、あなたも来ていたのね」「はい。結婚式の話をしていたところで」「ああ、ちょうど良かったわ。私も結婚式の話をしようと思っていたところよ」義母が部屋の隅にバッグを置く。中から書類の束を出しながら彼女は言った。「これ、結婚式の招待客のリストだから目を通しておいて」「え、招待客?」思わず目を丸くしてしまう。そんな私を義母は指さした。「少し考えれば分かるでしょ。結婚式は息子と嫁を披露する場よ。引き先の方を呼ぶに決まっているじゃない」
あまりの勢いに、とても意見できる雰囲気ではなかった。「とりあえず主な招待客のリストアップは終わっているから、あとはあなたが招待する親族の人数を教えてちょうだい」「親族って…友達はどうすれば?」恐る恐る尋ねる。反射的に義母は眉をひそめた。「友達なんか招待するの?貧乏人は邪魔なだけよ」
「貧乏人」という言葉にショックを受ける。私を馬鹿にするのはまだいいが、友達まで見下すのは到底許せなかった。カッとなった私はとっさに反論しようとする。しかし先にヒトが口を開いていた。「なんだよ、その言い方は。ひどすぎるぞ、母さん」「あら、本当のことでしょ?『友達を呼ぶ』って言葉知らないの?」にやっとする義母。ヒトはため息をつきながら言い返した。「そんなことを言ってもいいのか?みさの後輩には、うちの会社が契約している運送会社の社長嬢もいるんだぞ」「運送会社?本当なの?」義母がこちらを見る。私は静かに頷いた。「池本あずさと言いますが、聞き覚えはありませんか?」「池本?ああ、あそこね。大丈夫よ。招待客のリストに入っているわ」得意げな顔の義母は自分が出した書類の束の真ん中あたりを指さす。そこにはあずさの父親の名前が書かれていた。母親と彼女の名前もあるので3人を招待するつもりのようだ。
「ま、そのあずさって子は招待してもいいわ。でも他はダメ。そんなに友達を呼びたいなら2次会で呼びなさい。十分でしょ」「それで、あ、でも…」「あ、何か文句あるの?」義母の口調が厳しくなる。とっさに私は口をつぐんだ。その後は義母のペースで話が進む。気づいた時には彼女は結婚式のプログラムを語り始めていた。当然私たちの意見は聞いてくれない。決定事項を説明されていく。結局、私たちの結婚式というより、本当に義母たちが自分の息子と嫁を紹介する場になった。
ただ、いいことがあったのも確かだ。1つは結婚式の費用を全て義父が出してくれたこと。ホテルに併設されたチャペルで結婚式を挙げ、大広間で披露宴を行ったのだが、私たちは1円も払わずに済んだ。また義父は2次会の費用も負担してくれている。おかげで安い会費で多くの友達を呼ぶことができた。もう1つ良かったのは、親戚を呼ぶ際の送迎と宿泊施設を手配してくれたことだ。こちらの費用も全て義父の負担だった。遠方の親戚も呼ぶことができて本当に感謝している。
色々とあったけれど、総合的には満足できる結婚式になった。しかし素直に喜べていたのはそこまでだ。新婚旅行から帰ると地獄が待っていた。結婚の挨拶で約束した通り、新婚生活は義両親との同居から始まる。簡単に挨拶した後、私は部屋で荷解きをしようとした。すると、なぜか義母も一緒に部屋に入ってくる。私は慌てて声をかけた。「どうしたんですか?」「え?どうって、あなたの荷解きを手伝うのよ」義母は当然であるかのように話す。そんな彼女に私は困惑してしまった。「いえ、お母さんのお手を煩わすわけには…」「遠慮する必要はないわよ。それに不要品の処分もしないといけないから」ニヤニヤしている。私はゾッとした。
「ほら、あなたの荷物を出しなさい。必要かどうか私がチェックするから」結婚の挨拶をした時のことが思い起こされる。彼女が気に入らない服などは全て捨てられるに違いない。私はとっさに荷物が入ったダンボール箱を隠した。「だ、大丈夫です。1人でできますから」「は?あなたがチェックしても意味がないでしょ。うちの家柄にふさわしいかどうか、あなたの判断では不足じゃないの」義母が私の服を指さす。その時に来ていたのはカジュアルブランドのルームウェアだ。安くはないけれど高級感があるとも言い難い。「これはとにかく、そんな安物の服は捨てなさい。せめてハイブランドの服を買うこと」厳しい目で睨みつけられる。「でも、この服はカジュアルブランドの中でも…」「言い訳は必要ないわ。捨てなさい」ピシャリと言われ、返す言葉もなかった。結局、着ていたカジュアルブランドの服はもちろん、他の服と一緒に捨てられることになってしまった。
「まだ着れますし、もったいないので…」「だから何?数着ルームウェアとして残してもいいけど、普段着として着る服は新しく買いなさい。いいわね」念を押され、私は素直に頷いた。翌日、私は義母に繁華街へ連れて行かれる。向かった先はハイブランドの直営店だ。店の前を通ったことはあるけれど、中に入るのは初めて。恐る恐る店内を見回していると、義母が平気な顔で店員に話しかけていた。「あの子に似合う服を選びなさい。普段使いできるものがいいわ」命令口調がよく似合うと考えているうちに、店の奥へと連れて行かれる。さすがにハイブランドの直営店だけあって仕事が早かった。あっという間に10着ほどの服が選ばれ、義母が会計を済ませていた。「はい、これ。待って。次に行くわよ」「え、次?」思わず顔がひきつる。義母はため息をつきながら言った。「それは普段着。他にも訪問着なんかも用意する必要があるじゃないの?」「訪問着ですか?」「うん。そうね。まずは着物が必要ね。結婚式の場では着物ということも多いから。他にもドレスも必要だし」
頭が追いつかない。あちらこちらへ連れ回される日々が数日続いた。義母に必要だと言われると、私の方からは断れない。言われるがまま購入するだけだった。ただ1つだけ困ったことがある。実は買ったものの支払いが半々だった。手出しが半分とはいえ、高額の買い物ばかり。私の貯金はあっという間に底をついていた。
すぐにヒトに相談したのは言うまでもない。彼から義母に話してもらったが、義母は平然とこう答えた。「結婚の条件を忘れたの?」「あのなあ、条件だか何だか知らないが、不必要な買い物は控えてくれ。俺たちも結婚したばかりで貯金が少ないんだから」声を荒らげるヒト。それでも義母は取り澄ましていた。「悪いけど、これは必要な買い物よ。家柄にふさわしいものを持ってもらわないと私が恥ずかしいんだから」「俺は何度も聞いたよ。とにかく今後はみさに無理なことを言わないでくれ。これ以上余計な買い物をさせるなら、俺たちは出て行くからな」ヒトが断言する。さすがに堪えたのか、しばらくは買い物に誘われなかったけれど、それも本当に少しの間だけ。2週間ほどが経つ頃には再び義母から口を出されるようになっていた。
「みささん、あなたバッグは何を使っているの?」「えっと、今はこのトートバッグを…」社会人になった時に買ったトートバッグを今でも使っている。決して高級ではないけれど、丈夫で長持ちだったからだ。だがそれを見た義母はすぐに顔をしかめた。「ああ、何よ、その貧乏臭いのは」「そうですか。とても使いやすいですけど」「ブランド品を使いなさいと何度も言ったでしょ」無名のブランドでも優れているのは確かだ。高級ブランドのバッグに負けない品質だと思っている。しかし義母にはそんなことは関係ないようだった。「とりあえず私のバッグをいくつかあげるわ。当面はそれを使いなさい」「あ、はい」手渡されたのは海外の有名ブランドのバッグだ。傷もなく新品に近いと感じた。「いいんですか?高そうですけど」「いいわよ。みすぼらしいバッグを持ち歩かれるよりはね」ふんと鼻を鳴らす義母。そんなに見すぼらしいかしらと反論できない言葉が頭に浮かんでいた。ただ、有名ブランドのバッグをもらったのは正直嬉しい。中古でも十分に高額取引されているようなものだったからだ。
「お母さんって意外と優しいのかも」私はそんなことを呟いていた。けれど翌日、現実を見せつけられてしまう。ちょうどヒトが出勤した直後のことだった。同じように会社に向かう義父と義母の会話が玄関先から聞こえてきた。「ねえ、あなた」「なんだ、急に」何の話だろうと思いつつ、私は2人の会話に耳を傾ける。「昨日ね、みさに私が使っていたブランドバッグをあげたのよ。あの子、安っぽいバッグしか持っていなかったから」「そうか。それがどうした?」「だからね、新しいバッグ買ってもいいわよね」急に義母のおねだりが始まった。開いた口が塞がらない。「いいでしょ。みさにあげたバッグよりは安いものを買うから」「しかし、お前はこの間も買ったばかりで…」「何よ。私はね、あなたが恥をかかないようにみさにバッグをあげたのよ」義母が声を張り上げる。おそらく近所の人にも聞こえていると思えた。「おい、落ち着け。声が大きい」「仕方ないでしょ。声が大きいのは元々よ」義母は大声を出せば義父が折れると考えていたらしい。実際、すぐに彼は降参していた。「分かったよ。好きにしなさい」「あら、いいのね」「全く、お前というやつは」
どうやら私は都合よく利用されただけのようだ。腹が立つというよりも呆れていた。「優しいと思った私がバカみたいだわ」自己嫌悪に陥る。この日から私は絶対に義母を信じないと誓った。彼女に何か言われた時はまず疑ってかかるようにする。私はそれを徹底した。ちょっとしたことでも必ず疑う。さらに証拠を残すためにボイスレコーダーも肌身離さず持つようになった。
ただ録音されたのは義母の罵声がほとんど。「みささん、掃除と洗濯は任せるわ。これも嫁の仕事だからいいわよね」他に記録されていたのはこんなやり取りだけだった。後で聞き返してみると、私に家事を押し付ける発言が目立つ。私を怒るか仕事を押し付けるかの2択なのね。文句を言うべきなのだろうか。少し悩むところだった。
そんなある日のことだ。夕方、義父よりも先に帰宅した義母が私にこんな話をしてきた。「あなた、結婚前はジムの仕事をしていたのよね」「え、まあ」いぶかしく思い、顔をしかめてしまう。そんな私の警戒心を解くように義母は笑顔を作っていた。「ちょっと頼みがあるんだけど、聞いてくれるわよね」「頼み?何ですか?」「主人の会社の仕事を手伝って欲しいのよ」義父の会社は食品加工の会社だ。複数の工場があり、社員数は約100人。中小企業ではあるけれど、地元ではそれなりに有名だった。「工場で働けと?」「違うわ。ジムよ。特別にパート従業員にしてもらうから、やってくれるわよね」今でこそ義父は社長を務めているが、元々は彼も社員の1人だったそうだ。前任の社長が事故で行方不明になり、後継者になったのが義父だった。義母は当時から一緒に働いていたと言うけれど、細かい経緯はよく知らない。とにかく義父が社長で、義母とヒトは社員ということだった。
「ジムですか?それって給料は出るんですか?」1番大事なところがここだ。義母にブランド品を使うように指示されたせいで貯金がほとんどなかった。給料が出るなら減った貯金の穴埋めができる。「パートとして給料は出すわよ。当然じゃない」「それなら任せてください」「よかったわ。じゃ、明日から頼むわよ」義母は笑顔でそう言った。これが罠だと気づいたのは翌日のことだ。ヒトと一緒に出勤しようとした途端、義母が私を叱りつけた。「どこに行くのよ。朝食の片付けが終わっていないじゃない」「今日から仕事なんですよね。片付けは帰ってから…」「何を言っているのよ。仕事と家事は別じゃない。家事を済ませてから仕事に行くのが嫁の務めでしょ。分からないの?」はめられたと気づいたのはこの時だ。言い訳を考えるが何も思いつかなかった。「すぐに家事を終わらせなさい。遅刻は勘弁だから」「あ、はい」奥歯を噛みしめる。隣にいたヒトが話しかけてきた。「みさ、何か手伝おうか?」「あ、うん。それじゃあ…」言いかけたところで義母が口を挟んでくる。「夫に家事をさせる嫁がどこにいるのよ?」「すみません」今時夫婦で家事を分担するのは当たり前だと思っていたけれど、義母の中では違うらしい。仕方なく1人で家事を始めた。「じゃ、私は先に行くから、遅刻しないように出勤しなさいよ」「分かりました」返事をする前に玄関の閉まる音が聞こえる。とっさに足を踏み鳴らしていた。「何よ、本当にもう」怒りを吐き出すように叫ぶ。その後は家事に集中した。洗濯機を回し、朝食の後片付けをする。合間に掃除機をかけてから手早く着替えを済ませた。最後に玄関に鍵をかけて家を出る。幸い、会社の事務所は家から徒歩5分の場所だった。走れば遅刻せずに済む。私は久しぶりに全力疾走した。
会社に着いたのは始業時間の5分前。事務所では義母がニヤニヤしていた。「間に合ったようね。もう来ないかと思ったわ」「はい。初日から遅刻はできませんので」義母の嫌味を受け流す。そこへ義父が来た。「家の方は大丈夫なのかい?ゆっくりでも良かったのに」「ええ、まあ」先に行っておいて欲しかったと思いつつ、笑顔で頷く。「でも悪かったね。急に辞めた社員が何人もいて」詳細は聞いていないけれど、同時に3人の社員が辞めたそうだ。1人は工場で働いている人で、残りの2人が事務員だった。理由は親の介護や結婚などらしい。偶然退職が重なっただけのようだ。「とりあえずみささんには事務仕事を手伝ってもらいたい。大丈夫かな?」「はい。結婚前にやっていましたので」「それなら問題ないだろうね。でも今日は先に倉庫の整理を頼めるかな。先々のことを考えて、不要なものは廃棄しておきたいから」数日前、夕食の時に義父が話していたことを思い出す。生産効率を上げるために新しい工場を作ることになった。今は新工場の工事を確認しながらいつも通りの仕事もしている。だから本当に忙しいと彼は言った。「それって新しい工場ができるからですか?」念のために聞いてみる。義父は大きく頷いた。「ああ、そうだよ。色々と使う予定があるから、できるだけ早く頼む」「分かりました」「じゃあ後のことは彼女に聞いてくれ。私は新工場の方を見に行くから」そう言った義父が指さした先には若い女性がいる。彼女はすぐに立ち上がった。「初めまして。西村カレンです。ジムと社長を補佐しています」ゆっくりと近づいてくるカレン。手には書類を持っていた。「それは必要なもののリストです。まずはこれをピックアップして、残りの不要品をまとめて捨てるということのようです」とりあえずやることは分かった。「倉庫はこちらです。行きましょう」彼女に案内されて倉庫へ向かう。建物の北側、1番奥に倉庫はあった。中は少しばかりほこり臭い。書類や本が適当に積み上げられている。古いパソコンやディスプレイもあり、まさに倉庫という感じだった。「では、このリストを見ながら必要なものを集めてください。お願いします」「分かりました」カレンからリストの半分を手渡される。1つ1つ確認しながら私は必要なものを集めていった。
そうして30分ほどが経った頃だろうか。何気なく開けた書類棚からアルバムが落ちてくる。「うっ」私は慌てて飛びのいた。すぐにカレンが駆け寄ってくる。「大丈夫ですか?」「ええ、避けたので」落ちてきたアルバムを拾い上げる。そこには古い写真が挟まっていた。「昔の写真のようですね。会社の門の前で社員が整列している」記念写真のようだが、中央には見知らぬ男性がいた。「この人が社長かしら?」「前の社長じゃないでしょうか。あら、隣に鹿原社長がいますし」よく見ると中央の男性の隣に若き日の義父が立っている。背後には義母らしき女性も確認できた。写真の下には「創立20周年記念」という文字が書き込まれている。会社にとっては貴重な資料になると思われた。「取っておくべきですよね、これ」「前の社長は創立20周年の記念旅行中に事故で行方不明になったそうなので、これは貴重な写真かもしれませんからね」事故で行方不明だとは聞いていたが、創立記念の旅行中だったというのは初耳だ。写真を裏返す。そこには「佐野正弘社長と社員一同」と記載されていた。「じゃあ、これはテーブルの上に置いておきますね」カレンに声をかけてから写真をアルバムに挟み直す。その後は黙々と作業を続けたのだった。
初日の仕事は倉庫整理だけで終わる。かなり時間はかかったが、必要なものは全て集まっていた。次の日からは普通に事務を任される。ジムと秘書を兼任するカレンと手分けをして仕事をした。ただ彼女は随分と忙しそうにしている。社長である義父のスケジュール管理なんかもしているから、私よりも仕事が大変なのは確かだ。義父が出かける時は同行する必要もある。そのせいか、1週間が経つ頃には彼女とも打ち解け、休み時間に仕事の愚痴を聞かされることも増えていた。「みささんが来てくれて本当に助かっているわ」「そんな、私なんてただのお手伝いですよ」「全然、十分に戦力になってるわよ。あの人に比べれば」カレンの視線が遠くに飛ぶ。その先には義母がいた。言われてみれば義母が仕事をしているところは見ていない。来客の際にお茶を出していたくらいか。専務に連れられて工場の視察へ行ったことも知っている。しかし実際に何の仕事をしているのかと問われても答えられなかった。「そういえば、お母さんは…」「ダメよ。それ以上は余計なことを言うとまた怒られるわ」「そうね」2人でこっそりと笑い合う。そんな私たちに気づいたのか、義母がこちらに声をかけてきた。「楽しそうね、あなたたち」「あ、いえ、ちょっと…」適当にごまかす。義母は不機嫌そうに顔をしかめた。「ちょっと、何がおかしいの?」「えっと…」うまい言い訳が思いつかない。困っているとカレンが助けてくれた。「みささんが奥様に素敵なバッグを頂いたという話をしてくれていて」「ああ、あれね。私のお古だけど、高級ブランドのバッグだから」得意げに語り始める義母。その様子を横目にカレンは私にささやいた。「平気?」「ありがとう。助かったわ」あ、ウインクだけで意思疎通を図る。それで十分だった。
ひとしきり義母が話したところで、不意に私の携帯電話が鳴る。急に真顔になった彼女は不機嫌そうに言った。「誰から電話かしら」「あ、えっと」慌てて確認すると、相手はあずさだった。どうやらメールを送ってきたらしい。「すみません。あずさでした」「あず?どこの誰よ」むっとした義母が睨みつけてくる。私は視線をそらしながら答える。「後輩です。高校の時の…」「お友達とメール?それ、いい大人が仕事中にやることなの?」義母の小言が始まった。「あ、でもあずさは取引先の社長令嬢なので、仕事の関係かも」たまらずそんなことを口走ってみた。途端に義母の顔色が変わる。「取引先の…あ、前にもそんな話をしていたわね。確か運送会社の…」「ええ、そうです。だから仕事の関係かも」ごまかすように言って、私はさっとメールの内容を確認した。「どうせ大したことじゃなかったんでしょ」「あの…結婚するんです、彼女」「結婚?」義母がとんでもないという顔をする。しかし次の瞬間には難しい顔になった。少し考えてから彼女は私にこう告げる。「結婚するならご祝儀が必要ね」「ええ、私も頂いているので、きちんと渡すべきだと思います」「そうね。勝手にしなさい」ふんと横を向く義母。私は安堵した。取引先の社長令嬢だからとか関係なく、あずささんにはお祝いをあげたい。大事な後輩であり、大切な友人の1人だから。きっとヒトも同じ気持ちだろう。「じゃあ、彼女の結婚式には出てもいいですか?」「うん、当然よ。ただし条件があるわ」「条件?」とっさに聞き返す。義母は笑いながらこう言った。「主人からもご祝儀を出す方がいいわよね」「ええ、まあ、お父さんたちも結婚式に呼ばれると思いますので」「じゃあ、それあなたが用意しておいて」突然のことに言葉を失ってしまう。「どうしたの?返事をしなさい」返事を促されて我に返った。慌てて言い返す。「あの、どうして私がお父さんたちの分のご祝儀まで用意するんですか?」「あなたの後輩なんでしょ?立て替えるくらい問題ないじゃないの」「後でちゃんといただけますよね」念のために確認した。途端に義母は険しい表情になる。「私を疑っているのかしら?これだからお金に汚い貧乏人は、全く」さすがにむっとした。「すみません。お金に汚くて。でも、そんな言い方をすると、お母さんの方がなんだかケチ臭い感じがしますよ。違いますか?」「なんですって?あなたは言われた通りにすればいいのよ」怒鳴りつけられてしまった。仕方がないので素直に従う。「分かりました。とりあえず私が用意しておきます」「全く、最初からそう言いなさい」義母は肩で息をしていた。多分だが、私が会社名義で払ったご祝儀は帰ってこない。そう思った理由は、彼女と義父の話を聞いてしまったからだ。
2人が話をしたのはその日の夜。食事を終えた義母は、私が後片付けをしている間に義父にこう告げる。「今日、みさから聞いたんだけど、池本社長の娘さんが結婚するそうよ」「池本?ああ、運送会社の…」「そう。ご祝儀が必要だから用意しておいてくれる?」平然と嘘をつく義母。義父はそんな彼女の話を信じていた。「そうだな。相場は3万から5万くらいか」「そうね。十分だと思うわ」「分かった。じゃあこれで足りるな」自分の財布から数枚のお札を出す義父。そのままテーブルの上に置いた。「え、ご祝儀袋は私が用意しておくわ」「あ、任せるよ。ところで結婚式はいつなんだ?仕事の方も都合がつけばいいんだがな」「正式な招待はまだ届いていないのよ。まあ、無理だったら私とみさだけで行くわ。大丈夫よね」「それで…」義母が確認する。少し考えていた義父だったが、すぐに軽く何度か頷いていた。「そうだな。もしもの時は任せるよ」「え、分かったわ」
そんなやり取りがあったようだ。補足しておくが、直接聞いたわけではない。録音された音声データを確認しただけ。2人が話していたリビングのテーブルの下に私は上着を置いていた。その中に偶然入っていたのがボイスレコーダーだ。普段から持っていたもので、録音する時にスイッチを入れていた。全てが偶然とは言わない。以前、義母は私に罪を着せてバッグをねだったことがある。だからこの時も何かあるかもしれないと思い、証拠の録音用に準備していたボイスレコーダーのスイッチを入れていただけだ。本当にいい録音ができた。
あずさから結婚式の招待が届いたのはその数日後のことだ。式の日は半年ほど先になっていた。土曜日だったのだが、義父は少し残念そうにする。「おお。この日はイベントだ。東京に行く予定になっている」「じゃあ私とみささんの2人で行くわ」「悪いな。頼んだぞ」こうしてあずさの結婚式には私と義母の2人で行くことになった。義母というのが少し不安だけれど、大切な後輩であるあずさの結婚式だから欠席は考えられない。何事もありませんように。私はその一心で当日を待ちわびていた。
やがて時は立ち、結婚式の当日が訪れる。会場へ向かうタクシーの中、義母が私に手を出してきた。「みささん、あれ、出して」「あれ?何ですか?」「ご祝儀よ。あなたが準備するように言っておいたでしょ」そうだったとため息をつく。義父からご祝儀を預かっていたことは分かっていた。しかし録音した音声で聞きましたとは言えない。「これ、5万円が入っていますので」しぶしぶお金が入った封筒を渡した。義母は中身を確認した後、バッグに入れていた豪華なご祝儀袋を出す。「あなた、自分の分は用意しているのよね」お金をご祝儀袋に入れながら義母が聞いてきた。当然だと心の中では鼻で笑ってしまう。ただ表面上は取りつくろった笑顔で答えた。「はい。3万円ですが」「少ないのね。それでいいの?」「はい。お母さんたちよりも多くは出せませんから」適当なことを言っただけだが、義母は気分を良くしたようだ。「なかなか分かってきたじゃない。その調子よ」ヘラヘラと笑う義母に無言で頷いておく。余計なことを言ってしまいそうだったからだ。
話すうちにタクシーが会場へ着いた。受付を済ませ、結婚式が執り行われるチャペルに足を踏み入れる。広くはないけれど、とてもいい雰囲気だった。「なんか狭いわね。もう少しお金をかければいいのに」小ばかにする義母の言葉にカチンと来る。本当は言い返したかったのだが、お祝いの場で喧嘩をするのはためだ。私は聞こえないふりをしていた。しばらくすると結婚式が始まる。誰もが羨むような式の後は披露宴となった。場所を移し、披露宴の開始を待つ。案内された席は義母と一緒だった。あずさが気を使ってくれたのだろうが、少し居心地が悪い。落ち着かず、ついバッグの中の携帯電話に手を伸ばしてしまった。その時、義母が私の左手を強く掴んだ。「何ですか?」「あなたの腕時計は何?」ふと視線を左手に向ける。この日はあずさの結婚式ということもあり、彼女とお揃いで買った時計をつけていた。これは彼女との思い出の時計で…。「そんな話をしているんじゃないわよ。これ、安物でしょ」確かに高価な腕時計ではない。可愛いピンク色で、値段は1万円くらいだ。「何度も言ったわよね。安物を身につけると私が恥をかくって」「すみません。でも今日だけは…」「ダメよ。外しなさい」強引に時計を引っ張る義母。まずいと思った瞬間、ベルトの部分が切れてしまった。「あっ」「すぐに外さないからよ」「でも、ベルトが切れたならちょうどいいわね。ふふっ」義母が笑ったところで、テーブルの上に腕時計が落ちる。私はそっと拾い上げた。「どうしてくれるんですか?大切なものなんですよ」「は?そんなこと私が知るわけがないでしょ」知らん顔をする義母は視線をそらし、こちらを見ようともしない。さすがに堪忍袋の緒が切れた。絶対に仕返しをしてやると心に誓いながら腕時計をバッグに入れる。「この件、お父さんに報告しますから」「ど、どうして?」義母は急に慌て始めた。傲慢な彼女でも義父には弱いらしい。「当たり前じゃないですか。私とあずさの思い出の時計なんですよ。彼女が気分を害したら、今後の仕事に影響が出るかも」義母は懸命に弁解しようとしているが、うまく言葉になっていない。やがて言い訳を諦めたのか、義母は深いため息をついた。「あ、まあ、今回のことは事故だったのよ。ベルトくらい修理すればいいことじゃないの」よくわからない形の同意を求めてくる。私は厳しい視線を彼女に向けて、ここぞとばかりに言った。「じゃあ修理費用はお母さんが出してくれるんですか?違いますよね」「お、その、ほら…」「やっぱり帰ったらお父さんに報告します」上目遣いに顔を背けた。途端に義母は猫なで声を出す。「その修理費用は渡すから、主人には何も言わないでね」その瞬間、私はあることに気づいた。義母は腕時計を壊した件を告げ口されるのが怖いわけではない。話が今日のご祝儀に及ぶのを恐れているのだと。義父にお金を着服した件がバレれば、おそらくは怒られる。なんとしてもそれだけは避けたいと思っているようだ。
ただ私としてもそういう展開は本意ではない。仕返しをするならもっと豪快にやりたいからだ。お金の件を告げ口してその場限りの失点で終わらせるのはもったいないと考えていた。「分かりました。帰ったら修理に出しますので」「うん。は、請求して。それで終わり。いいわね」念をすように言ってくる。私はしぶしぶ頷いた。ほどなく披露宴が始まる。本当に良かった。あずさも幸せそうで、私までほっこりしたくらいだ。ただ、私と義母のトラブルを誰かに聞かれたようで、披露宴の直後にあずさからこんなメールが届いた。「先輩、お母さんとのトラブルは大丈夫ですか?」誰に聞いたのかしら?首をかしげつつ返事を送る。内容はこうだ。「トラブルは解決したのだが、2人で買った腕時計が壊れた。修理に出すけれど、すぐに治ると思う」しばらくするとあずさから返信が届いた。「安心しました。よかったわ」心配かけなくて。
翌日、腕時計の修理を依頼するため、街にある時計屋へ向かう。ベルトが切れただけだから簡単に直せると言われた。その場でよく似たベルトに交換してもらう。時計自体が高くなかったこともあり、費用は3000円で済んだ。元通りとはいかなかったけど、十分よね。綺麗になった腕時計を左手につけてみる。しかしまた同じような目に合うのは嫌だったので、これが最後だと心に誓った。帰宅後はすぐに時計を棚にしまい、それから義母に領収書を渡した。嫌そうな顔をしていた彼女だが、義父に話すと言った途端、大人しくなる。しぶしぶだったけれど、自分の財布から3000円を出してくれた。
そんなことがあったあずさの結婚式から約1週間後、会社に彼女が尋ねてきた。手には小さな紙袋を持っている。「どうしたの?あずさ、こんなところまで」「結婚式のあれですよ、先輩。社長さんにもご挨拶をと思って」あずさが紙袋を持ち上げる。その瞬間、どこからか義母が飛んできた。「あら、いらっしゃい。この間の結婚式は本当に良かったわ」「ありがとうございます。あの、これ、お礼です。カタログギフトですが」言い終わらないうちに義母はさっと取り上げる。中身を手早く確認してから再び微笑んだ。「ありがとう。気にしなくても良かったのに」「いえ、社長にもよろしくお伝えください」「ああ、そうね。話してくるわ」言うが早いか、義母は自分と私の分のカタログギフトを手にする。止めようとする私を振り切り、彼女は社長室の方へ走っていった。「ちょっと、私の分まで…」「すみません。持っていかれましたね」全く、本当にあの人は…。色々と言いたいが言葉にできない。文句を口走ってしまいそうだったからだ。とりあえずごまかすようにため息をついた。「大丈夫ですか?」「いいのよ。もう慣れたわ」「じゃあ、先輩には特別にこれを」あずさが紙袋から小箱を出す。蓋を開けると、中には古い腕時計が入っていた。「何これ?」「時計です。先輩の時計が壊れた時のことを会場で見ていた人が、どうしてもこれを先輩にあげて欲しいって」見る限り男女兼用の腕時計だ。ただどうにもデザインが古い。傷もあるし、私が使うのは…という感じだった。「先輩の役に立つだろうからって、もらってあげてください」「そうね。ありがたくいただくわ。使うかどうかは別の話だ」相手が誰かは分からないけれど、気持ちだけはもらっておこう。私はそっと蓋を閉じた。
さて、古い腕時計をもらったのはいいが、置き場所には困る。変な場所に置いていると義母が捨ててしまうからだ。仕方がないので、私は物置き代わりに使っている2階の部屋に隠すことにした。物置きには妙な焼き物や古い本などが山積みになっている。あまり掃除しないからかなりほこりも溜まっていた。「ここならお母さんも入らないから大丈夫よね」物置きの1番奥の棚を開く。中には昔のアルバムなどが入っていた。そこにもらった腕時計をしまい、「ごめんね。こんなところで」と呟いた私はそっと棚を閉めた。いずれは別の場所へ移そう。最初はそう考えていたのだが、すぐに忘れてしまった。理由は妊娠が判明したからだ。つわりもひどく、義父が「病気なのか?」と疑うくらいだった。「本当に家事もできないのか?」疑いの目を向けられる。その時、なぜか義母が私をかばう。「男のあなたにはつわりの大変さが分からないのよ。でも、いい加減にしなさい。この機会に妊娠出産がどれだけ大変か、あなたもヒトと一緒に勉強することね」さすがの義父も言葉の根も出ない。私は義母のおかげで妊娠出産を無事に終えることができた。
息子の翼が生まれた後は以前に逆戻り。家事と会社の仕事を押し付けられる日々となった。子育ても重なり、私は疲労困憊。翼が7歳になったのを機に同居を解消することにした。最初はしぶっていた義母だが、義父に説得されて最後には頷く。引っ越しを自分たちで賄うことを条件に認めてくれた。「とりあえず不要品を売るのが1番よね」私が売れるものは、義母に買えと言われたブランド品の数々。使っていないものがあるから、それを売れば多少はお金になる。他には…と考えてはたと気づいた。あの腕時計。あずさの結婚式のお返しにもらった腕時計のことを思い出す。もう7年も倉庫に放り込んだままだが、時計自体はいいものだった。中古品としての価値があるかもしれない。
私は倉庫へ急いだ。棚の中から例の腕時計を取り出す。ほこりをかぶっているが問題なさそうだ。安心した私は何気なく腕時計の裏側を見る。その途端言葉を失った。嘘。これって…。時計の裏側にも思いもよらない刻印がある。義母に見せたらどうしてお前がこれを持っているんだと発狂するだろう。それはもう少し先のことだった。
話を戻すけれど、腕時計の裏側を見た私はあることをひらめく。うまくすれば義母をやり込められると思った。彼女が気づいていない。今がチャンスだ。腕時計をくれた人も私の役に立つと言った。今度はあなたに苦しんでもらうわよ、お母さん。復讐する覚悟を決める。しかし義母よりも悪い人間が身近にいることに私は気づいていなかった。
とりあえず準備が必要よね。腕時計は義母への復讐のきっかけになっただけだ。入念に準備をした方がいい。じゃあ引っ越しの準備と並行してやるのが1番ね。私はポケットから携帯電話を出した。すぐにあずさにメールを送る。彼女に頼んだのは、腕時計をくれた人との面会だ。相手のことは聞いていない。ただあずさの結婚式で起きた私と義母のトラブルを見ていたのだから、彼女の会社の関係者だろうと推測した。これが見事に的中。数日後に直接会うことができた。相手はあずさの父親の会社の社員で、トラック運転手をしている男性。年齢は義父と同じくらいだった。話を聞くうちにだんだんと腹が立ってくる。思わず大声をあげそうになったが、懸命に我慢した。この怒り、全部お母さんにぶつけてやるんだから。聞いた話は全てメモする。最後に連絡先を訪ねてからその日は別れた。
家に帰った後は何くわぬ顔で義母と接する。彼女に対して怒っていたのは間違いないけれど、ここで感情を荒らげれば計画が水の泡になる。私は自分の気持ちを抑えることに専念していた。最後に少し気になった件を調べてもらう。ついでというか、復讐の材料は多い方がいいからだ。結果が出るまでには1ヶ月ほどかかるらしく、その間に私は引っ越しの準備を終えることにした。終わってみればあっという間の1ヶ月だった気がする。だが本当に大変だったと思いつつ、私は引っ越しの当日を迎えた。
引っ越し先は義実家から車で数分の場所だ。賃貸物件で意外と新しい一軒家だった。「ちょっと近くないですか?」引っ越しの手伝いに来てくれたあずさはそんなことを言う。実は私も同じことを思っていた。義実家が近すぎて義母が押しかけてくるかもしれない。そんな不安があるのは確かだった。しかし、あまり遠くに引っ越すと翼が転校することになってしまう。私たちの都合で子供を友達と別れさせるのは嫌だった。「まあ、翼の学校のこともあるし、そんな遠くには…」「それもそうですね」あずさも納得してくれる。私は軽く頷いてから、リビングに運び込まれたダンボール箱を指さした。「じゃあ荷解きを手伝って」「はい」昔と変わらない返事にほっとする。部活をしていた時もこんな風に彼女に指示を出したなと思い出した。「こっちの荷物は2階か」不意にヒトが話しかけてくる。彼は引っ越し作業のために休みを取ってくれた。翼は学校に行っているからいない。家にいるのは私を含めて3人だ。「ヒト、2階に行くならこれもお願い」そばのダンボール箱を指さす。「オッケー」「ありがとう」簡単なやり取りをして、ふと時計を見た。時刻は午前10時を過ぎたところだ。「そろそろ訪ねてくるかしら」作業をしながら呟いた。「え、何か言いましたか、先輩?」「うん。来客の予定が…」言いかけたところで玄関のチャイムが鳴る。「誰か来たみたいですね」「私のお客さんよ」例のウインクをして見せる。「ああ」とあずさは頷いていた。小走りに玄関へ向かう。扉を開くと、ニヤニヤする義母が立っていた。「順調かしら。差し入れを持ってきたわ」コンビニのレジ袋を下げている。適当に何か買ってきたようだ。「お母さん、お仕事はいいんですか?」「当たり前じゃない。息子夫婦の引っ越しを手伝うのが…」口ではそんなことを言うが、おそらく品定めに来たのだろう。賃貸とはいえ、私たちが住むのは一軒家だ。贅沢だと思っているに違いない。「それじゃあ中へどうぞ。お待ちしていましたから」「は?待ってた?」義母は顔を曇らせる。私は平然と頷いた。「私が来るって分かっていたの?」「いえ、手伝いに来てくれるといいなって」お茶を濁すも、義母は疑いの目を私に向けていた。「まあいいわ。中を見せてもらうわね」「はい、どうぞ」そう言った途端、義母はドスドスと足音を立てて上がり込む。勝手に家中を歩き回り、独り言を言い始めた。「こっちの作りはなかなかね」がさつな顔で歩く義母を見たあずさは眉をひそめる。そっと私に近づいてきて、小さな声でこう言った。「いいんですか?好き勝手にさせておいて」「いいのよ。もうすぐ地獄に落ちるんだから」思わず薄い笑みを浮かべてしまう。やがて一通り家の中を見て回った義母が、荷解きをしていた私のところへ来た。偉そうに座り、話しかけてくる。「まあまあね。これなら泊まれそうだわ」「泊まる?誰がですか?」どうやら反撃開始のようだ。手であずさに合図を送り、私は義母の向かい側に座り直した。「誰って?私しかいないでしょ」「あら、お母さんが泊まりに来るんですか?それは意外でした」ふっと笑って見せる。あの義母はカッとなった。少しばかり身を乗り出し、大声で詰め寄ってくる。「何?私が来ると何が困ることでもあるのかしら?」「いえ、全然。どちらかといえば困るのはそちらだと」ひるまずに言い返した。義母は鼻息を荒くして叫び始める。「何よ、その言い方は。偉そうな態度で、自分が嫁ということを忘れたの?」大きな声が聞こえてきたのか、2階からヒトが慌てて降りてきた。私たちを交互に見た彼は義母に問いかける。「さっきの大声、母さんだよな。何のつもりだよ」「別に何でもないわよ。私が泊まるのは嫌だとみささんが言うから」こちらを睨みつけてくる義母。私は視線をそらしながら言い返した。「嫌とは言っていませんよ。うちに泊まるのが意外だっただけです。お母さんはうちよりも浮気相手のところに泊まりたいと思っていたので」語尾を強く言ってやる。次の瞬間、義母の顔色が変わっていた。驚いたヒトがこちらを向く。呆然としている私に彼は聞いてきた。「みさ、今、浮気相手がどうのって言ったよな」「ええ、言ったわよ」「どういうことだよ」「その、えっと…」動揺しているのか、ヒトはうまく話せない。仕方がないので私は分かりやすく言い直してあげた。「簡単に言うと、お母さんが浮気しているってこと。分かった?」「え、母さんが浮気?本当かよ」さっとヒトが義母を振り返る。罰が悪いのか彼女はそっぽを向いた。「答えろ、母さん」「あ、えっと、そんなわけないわ。この女の嘘よ。出たらめ」懸命に弁解する義母。ただ唇は小刻みに震えている。顔色も随分と悪かった。否定している割に動揺していないか?ヒトが指摘する。私は思わず笑ってしまった。「何がおかしいのよ、この…」気に触ったのか、ものすごい剣幕で詰め寄ってくる義母。「私に嘘つきとか言っていますけど、何か証拠はあるんですか?私が嘘をついているという証拠が」「は?じゃあ、あなたは私が浮気しているっていう証拠があるの?どうせ何もないんでしょ。同じじゃないの?」「いえ、私はありますよ。証拠」落ち着いて反論する。私の反撃に面食らった義母は言葉を失っていた。「どうしたんですか?急に黙り込んで、都合が悪くなったからですか?」「違うわよ。そこまで言うなら証拠を出してみなさいよ」バンと義母がテーブルを叩く。ため息をつきながら私は自分の携帯電話を手にした。「何をそれ?」「スマホですけど」「そんなことは分かっているのよ。こっちは私が浮気をしている証拠を出せと言っているのが分からないの?」興奮しているからか、冷静な判断もできないらしい。今時のスマホは小さなコンピューターだ。一昔前のパソコンよりも性能がいい。そんなことにも考えが及ばないくらい義母は動揺しているようだ。「スマホって本当に便利ですよ。ちょっとした書類なら保存できますから」言いながらスマホを操作する。すぐに目的の書類を見つけ、画面に表示した。「これ、お母さんのことを調べてもらった報告書です。なんて言うんでしたっけ?」わざとらしい聞き方をする。だが義母は口をへの字に曲げて答えようとしなかった。代わりにヒトが口を開く。「もしかして興信所か?」「そう、興信所の結果です。もう分かりますよね」大げさな仕草で問いかける。義母は不機嫌そうな顔でそっぽを向いた。「どうしました?浮気の証拠ですよ。裁判でも使えるくらいの」ことさら語尾を強調する。「だから何よ。信用できないわ」「裁判で証拠に採用された実績があるところに依頼したんですけど」「関係ないわよ、そんなこと」義母は声を張り上げてごまかそうとしていたけれど、そんなことはさせない。私はスマホに表示した興信所の結果の写真を拡大した。「これ、分かりますか?お母さんと浮気相手の写真です。仲良くホテルに入るところですけど、綺麗に撮れて良かったですね」小ばかにするような言い方をする。むっとした義母は私の手元を一瞥した。スマホに表示された写真が彼女の視界に入る。その途端、さっと視線をそらしていた。「あれ?あまりに鮮明に映っていたから驚きましたか?」「あ、それは私じゃないわ。人違いよ」「どう見てもお母さんだと思いますけどねえ。ヒト」声をかけつつ、ヒトにスマホを渡す。彼はじっと画面を見た後、深いため息をついた。「悪いけど、見ても母さんだよ。それに隣にいるのは鈴木専務じゃないか」トントンとヒトがスマホの画面をつく。大正解だと私は心の中で叫んでいた。「知らないわよ。私じゃないし」「とぼけるのもいい加減にしろよ。はっきりと映ってるのに」「違うって言ったでしょ。私じゃない」怒鳴りながら義母が立ち上がる。スマホを取り上げようとしたので、私が先に手にした。「貸しなさい。どうせ作り物でしょ。最近は完成度の高いフェイク画像が簡単に作れる時代だから」よく分かっている。確かにAIなどを使えば本物と見分けがつかない写真も作れる時代になった。ただ私が出したのは全て本物だ。合成でもAIでもない。「これは本物よ。全てあなたが浮気した証拠。自覚があるでしょ」「あ、私は…」「潔く認めなさい。嫌だと言うなら、まだ追い詰めるわ」厳しい顔つきで言い放つ。最後通牒ではないが、そのくらいの覚悟で口にしていた。「追い詰める?浮気くらい何よ。所詮、主人に告げ口する程度でしょ」鼻で笑う義母。どうやら私を甘く見ているようだ。仕方がないので次のカードを切った。「もちろんお父さんには浮気の件を話しますよ。でもそのくらいだとダメージがあまりないですよね」「うえ?私たちもいい年だし。今更離婚とか無理だもの」ヒトは私と同い年の35歳。その親である義両親はすでに60歳を超えていた。仮に離婚となれば義父のダメージの方が大きい。今更1人で身の回りのことをするのも難しいだろうし、許すという判断を出す可能性も十分に考えられた。「確かに離婚は回避できるかもしれませんよね。だから私は別の方法を考えていますよ」静かにポケットに手を突っ込む。中からビニール袋に入った腕時計を出した。あずさから結婚のご祝儀のお返しにもらったあれだ。テーブルに置いた途端、義母の顔色が変わった。「見覚えありますよね」「そう、よくある時計だわ。有名メーカーの時計だし」確かに時計自体は有名なメーカーのものだ。意外と古いが、特に珍しいと思う人は少ないだろう。私はゆっくりと時計を裏返した。「裏側に文字があるのが分かりますか?」丁寧に指さす。義母は額に汗を滲ませた状態で私の手元を覗き込んだ。次の瞬間、義母が立ち上がって怒鳴り始める。「な、なんであんたがこれを持っているのよ。どこで手に入れたの?」「どこでもいいでしょ。それより読めますよね。裏側の刻印を」少しずらし、腕時計の裏側が見えるようにする。そこには「随運食品株式会社 創立20周年記念」と刻まれていた。「随運食品株式会社…お父さんが社長を務めている会社ですよね。しかも創立20周年って、もう25年くらい前かしら」「だ、だから何よ」「そうそう。問題はその下に刻まれている名前です。おそらく持ち主だと思うのですが、この佐野正弘という名前、知っていますよね」腕時計にある「佐野正弘社長」という文字。倉庫の中でこれを見た時、私は義父の会社を初めて手伝った日のことを思い出した。最初の仕事は会社の倉庫整理だ。不要品を廃棄したいという理由で義父に指示された。その作業中に見つけたのが1冊のアルバム。挟まっていた写真に書かれていたのが「創立20周年記念」の文字だった。「佐野正弘さんって、前の社長だそうですね」「そうよ。知っているならわざわざ聞かないでくれる?」義母はかなり取り乱している。口調が荒くなり、話を早く終わらせようとしているのが見え見えだった。しかしここからが本番だと、私は話を続ける。「事故で行方不明だと聞きましたが、どういう状況だったんですか?」「あなたには関係ないわ」「そうですか。じゃあ、どうして彼の腕時計を見ただけでそんなに動揺しているんですか?」お母さんを徐々に追い詰める。答えに窮しているのか、義母は口を閉ざしたまま俯いていた。「答えられますよね。今更、行方不明の人が見つかったくらいでお父さんの立場が揺らぐわけでもないんですから」「は、当たり前よ」「でも、行方不明の原因がお母さんにあったら、それは困ると思いますけど」無言で義母を見つめる。彼女の額には大粒の汗が浮かんでいた。やはり彼の話は本当だったと確信する。しばらく待っていたが、義母は最後まで何も言わなかった。「母さん、答えられないのか?」ヒトの問いかけにも返事をしない。私はあずさの方に手を向けた。「あずささん、悪いんだけど、向こうのダンボール箱から茶色の封筒を出してくれる?」「封筒ですか?分かりました」あずさが立ち上がる。一瞬だけ義母が顔を上げた。だが私が睨みつけると、再び視線を伏せてしまう。「これですか、先輩?」「そうそう。ありがとう」あずさから封筒を受け取った。中身は私が腕時計をくれた人と面会した時に書いたメモだ。「とりあえずこれを見てもらいましょうか」テーブルの上に走り書きしたメモを出す。少し探して、私は1枚を取り上げた。「これだ。まず聞きますね。お母さんは佐野さんが事故に遭う原因を作った。これ、間違いないですよね」「え、知らないわ」激しく首を横に振る。「否定しても無駄ですよ。じゃあ、原因が何かも言いましょうか?それは…あの、さすがにヒトには聞かれたくないですよね。だから、原因を作ったかどうかだけ、今は答えてくれますか?」助けを出す。しばらく考えた後、義母は静かに頷く。「そうよ。私が原因で間違いないわ」「でも事故はお母さんが起こしたものではない。原因を作ったから、腕時計を見た時に動揺したんですよね」再び尋ねた。私の追求に耐えきれなくなったのか、義母は顔を両手で覆う。そしてそのまま泣き出してしまう。「そうよ。もういいでしょ。全部私が悪いのよ。許して」「それ、私に言う言葉じゃないですよ」厳しいようだが、はっきりと言ってやる。義母は泣き崩れた。「ごめんなさい。私の、私のせいで…」最後の方は全く聞き取れない。ただ1つだけ分かったのは、義母が激しく後悔しているということだ。
泣き続けること約10分。義母はようやく落ち着いたようだった。「これ、どうぞ」あずさが飲み物を出す。「ありがとう。いただくわ」丁寧に頭を下げた義母は、すぐに口をつけた。呼吸を整え、私の方を向く。少し考えてから彼女はこう言った。「ごめんなさい。動揺して」「別にいいですよ。これくらい想定の範囲内ですから。私としては取り乱してくれた方が面白くていい」だが、結婚前から味わっていた屈辱を晴らすには、それでも足りないくらいだった。「さて、まずは浮気の件から話しましょう」「いいわよ。何が聞きたいの?」「浮気していたって認めますよね。ここに証拠もありますし」テーブルの上のスマホをつく。表示はまだ義母と鈴木専務がホテルに入る瞬間の写真だった。「認めるわ。さっきも言ったけれど、別にバレても何とも思わないから」「でも、浮気をしたら離婚の可能性も…」「ないわね。あの人は1人だと何もできない人だもの」高をくくっているのか、それとも義父を信じているのか。どちらかは分からないが、浮気がバレても離婚にならないと確信しているようだ。「そうですか。じゃあ、浮気の件はもういいです」「もういいの?たったこれだけのために色々と調べさせて悪いわね」少し調子が戻ってきたようで、義母は余裕の笑みを見せた。むっとしたが、呼吸を整えてから本命の話を切り出した。「じゃあ、この腕時計の件だけど」ビニールに入った腕時計を指さす。わずかにひるんだ義母は、すっと視線をそらした。「最初から聞かせてくれますか?どういう経緯で事故の原因を作ったのか、とその辺りからがいいかしら?」「それは…」「言いたくないですか?でも、話した方が身のためですよ」促してみると、義母はため息混じりに話し始めた。「きっかけは会社の業績だったわ。創立20周年は決してお祝いできるような状況ではなかったのよ」「どうしてですか?」あずさが口を挟んでくる。義母は彼女を睨みつけていった。「今から20数年前のことよ。考えれば分かるでしょ。当時世間がどういう状況だったのかって」1990年代の後半、日本経済はバブルが崩壊した時期だ。経済成長率は激しく落ち込み、大手の金融機関も破綻した。不良債権や失われた10年だ、ネガティブな言葉ばかりが思い出される。当時の大企業にも大きな影響があったのだから、中小企業がより深刻な状態だったのは言うまでもない。義父の会社の業績も悪化していて、一歩間違えれば倒産していた。それくらい深刻な状況だったようだ。「業績が悪化していたのに、当時の社長は何も手を打たなかった。社員である私たちが困ったのは言う必要ないでしょうね」「お母さんは何もしなかったんですか?」「もちろん私は社長に進言したわよ。会社の体制を見直すべきだって」義母がやったのはごく当たり前のことだった。業績の悪化は現在の経営陣の責任だ。総入れ替えを断行し、経営体制の改革を世間にアピールした方がいい。経済に詳しくない私が聞いてももっともだった。けれど社長は彼女の進言を無視したそうだ。「その社長は私の話なんかお構いなし。断固として経営陣は変更しないと言いはったわ」「どうしてでしょうか?自分が社長でいたかったからとか」あずさが首をかしげる。確かに私もそれは疑問だった。経営者としては自分よりも会社が生き残ることを優先すべきだ。それが無理ならビジネスセンスが皆無だと思った。「私も同じことを思ったから理由を尋ねたの。そしたら彼はこう言ったわ。経営陣を入れ替えれば人員整理をする可能性が高いからって」「ああ、そういうことね。社員を大事にする社長だったわけか」社員のことを思うあまり、大胆な改革に手がつけられない。その結果、会社が成長する機会を逃すというのはよくある話だ。倒産するケースもあるため笑い話ではない。経営者としての資質が問われる問題だった。「確かに社員を大切にする社長の理念には共感していたわ。けど、会社が倒産すれば意味がないということですね」「うえ、だからこそ私は何度も経営陣の入れ替えを助言したのよ」義母が悔しそうに唇を噛む。ただ、これだけだと話が少しおかしい。彼女が怒っていた理由は分かるが、前社長の事故の原因を作るほどではない気がした。普通ならそこで「社長の判断だ」と諦めるはず。それでも反対したい場合には、会社を辞めるという選択をすると思った。「お母さんは社長から自分の意見に反対されただけじゃなくて、他にも何か言われたんじゃないですか?」義母を見つめて追求する。彼女はため息混じりに俯くと、小さくため息をついて続けた。「うえ、そうよ。経営陣の入れ替えが無理なら、せめて社長が退任するべきと言ったの」これもよくある話だった。トップを交代させて会社のイメージアップを図る。経営責任を取るという言葉を添えれば、業績が改善する可能性はあった。「その意見は当然反対されたわ。ただ、その理由に納得できなかったのよ」義母がテーブルを叩く。隣であずさがビクッとしていた。「どういう理由だったんですか?」「後継者がいないと言われたわ。だから私は主人を押したのよ。当時彼は営業部の実質トップだったから」義父は仕事ができる人というのは確かだ。一緒に働いていて私も実感している。「でもね、佐野社長はこう言ったのよ。彼はダメだ。人間性に問題があるって」「なんだって?父さんは仕事もできるし…」動揺したヒトが口を挟む。彼がそう言ってしまった気持ちは痛いほど分かったけれど、正しいのは義母でもヒトでもない。前社長だと私は確信していた。「なるほど。やっと分かったわ。お母さんはお父さんのことをけなされたから怒った。それで前社長の事故の原因を作ったのね」「もう濁さなくてもいいわ。ここまで話したんだから」義母は諦めたような顔になる。「話してもいいんですか?」「うん。私が話すわ。主人のことを否定されたから、私は腹いせに佐野社長の飲み物にあるものを混ぜたのよ」言い切った義母はうつむく。実はこれが前社長の事故の原因だった。「入れたのは…そば粉ですよね」「うっ。アレルギーがあるって聞いていたから」義母の話はこうだ。実行したのは創立20周年の記念行事の最中。業績悪化中だったけれど、前社長は社員を奮起させるために慰安旅行を計画する。行き先は海の近くにあるキャンプ場。そこでバーベキューをしたという。多くの社員が盛り上がり、慰安旅行は大成功。ただ義母はこっそりと前社長が飲んでいたビールに持ってきたそば粉を入れる。それからしばらくしたところで、ビールを口にした前社長が突然倒れた。苦しむ様子を見て、誰もがただごとではないと察する。原因を作った義母は激しく動揺していた。アレルギーがあると知っていたが、彼女は少し苦しくなる程度だと思っていたからだ。1人の社員が救急車を呼ぼうとしたところで、その場にいた義父がこう叫ぶ。「俺が車で病院まで連れて行く。その方が早い。車に乗せろ」全員が協力して、現場にあった車に前社長を載せた。運転席には義父が座る。他の人はバーベキューで出されたビールなどを飲んでいたから運転するのをためらった。ただ1人、酒を口にしていなかった義父を除けば。「あなた、お願い」「任せろ」義父はすぐに車を発進させる。しかし1分ほどして、大きな衝撃音が聞こえてきた。全員が一斉にキャンプ場の見晴らしのいい場所から音がした方を見る。木々の隙間から見えたのは、車が事故を起こしている光景だった。「あれ、主人の…」「今、前社長を乗せて出発したばかりの車だ」当時は携帯電話もなく、キャンプ場の電話で通報したらしい。数人は現場に向かったが、車にいたのは怪我をした義父だけだった。車はガードレールにぶつかって停車している。その向こう側は崖になっていた。やがて警察が到着し、事故処理が行われる。義父の話から推測すると、事故の衝撃で助手席に座っていた前社長は車外へ放り出されてしまった。姿が見えないことから、警察は海側に落ちたと考える。手を尽くして捜索したが、結局前社長は見つからなかった。「俺のせいだ。車線をはみ出してきた車をうまく避けきれなかったから」自己嫌悪に陥る義父。そんな彼を義母は慰めた。「あなたのせいじゃないわ。事故だったのだから」「でも、俺が…」「違うわ。あなたは悪くない」断言する義母。もしかすると自分に言い聞かせていた言葉かもしれない。事故で前社長が行方不明になった話はまたたく間に広まった。取引先との関係もあるため、早急に次の社長を決める必要に迫られる。「次の社長はあなたがいいわ。その社長も言っていたから」義母は他の社員の前で嘘をついて。前社長との会話は自分しか知らない。うまく誘導すれば彼を社長にできるだろう。その思惑は見事に成功する。義父の名前を出した途端、多くの社員が同調してくれた。前社長のために車を走らせたというのも評価された要因の1つだ。ともあれ、次の社長は義父に決まった。社長になった後の義父の活躍は目覚ましいものがあったそうだ。自社製品の生産を抑え、大手から委託生産を増やした。要するに利益が出やすいものの生産に集中したのだ。この戦略が功を奏し、業績は徐々に回復。今では地元でも有名な会社の1つにまで成長を遂げていた。
話し終えた義母が深いため息をつく。最後に彼女はこう言った。「もういいでしょ。話はこれで終わり。さ、早く警察を呼びなさい」「どうしてですか?」聞き返す。義母は困惑した顔で答えた。「どうしてって、話を聞いていたの?全て私の責任。分かったでしょ?」「そうですね。だから警察を呼べって言ってるのよ」「嫌です。お母さんを警察に突き出してめでたしめでたしとはいかないことですから」はっきりと言い放つ。義母は眉をひそめていた。「どうしてお母さんがやったことを私が知っていたのかって、1つも不思議に思わなかったんですか?」「あ、それは…」「さすがのお母さんでも、自分の悪事を調べるようなバカではないですよね」冗談めかして言う。実際、辻褄が合わないと誰もが思っただろう。義母が腹いせにそば粉を入れたのは秘密裏に行われたことだ。直後の事故もあって、彼女が正直に言い出せたとは思えない。そうなると、私が義母が原因を作ったとほのめかしたことと食い違う。「もしかして、事情を知っていた人がいるとか、そういうこと?」答えつつ、私はテーブルの上の腕時計をついた。「まさか、この時計を持っていたのは…」「はい。そこまで。続きはお父さんのところで話しましょうか」「どうして?」義母が首をかしげる。私は少し真面目な顔つきをした。「この状況で言い出すんだから、1つしかありませんよ。お母さん、1つ。ええ、人に罪を着せる気でいるんでしょう。行きましょうか」言うが早いか、私は立ち上がる。テーブルの上のメモと腕時計をバッグに入れると、あずさを振り返った。「あずささん、悪いんだけど、翼のお迎え頼んでもいい?」「いいですよ」「ごめんね。私たちはこれから決戦だから」そう言った後、私たちは4人で家を出る。あずさは玄関先で別れた。彼女には翼を迎えに行ってもらう必要がある。それにこの先の話は家族の問題だ。残念だが彼女を巻き込むことはできない。私たちは3人でヒトの車に乗り込んだ。そのまま義父の会社へ向かう。
まっすぐに社長室へ行くと、中から義父の話し声が聞こえてきた。軽くノックしてから呼びかける。「すみません、社長。少しよろしいでしょうか?」会社だからわざわざ社長と言ったけれど、帰ってきたのはこんな言葉だ。「その声はみささんだね。入りなさい」「失礼します」少し緊張したが、勝負はここからだ。気合を入れ直し、室内を見回した。社長室の中にいたのは義父とカレンだ。彼女が書類を手にしているから、仕事の打ち合わせか何かをしていたのだろう。私は軽く頭を下げた。「すみません。お仕事中でしたか?」「いや、構わないよ。もう話は終わったところだ」「そうですか。それじゃあ…」そっと奥へ進むと、義父はソファーに座るように促してくれた。私と義母が並んで座り、義父の横にはヒトが腰かける。立ち尽くしていたカレンは社長室から出ようとしていた。「では、私はこれで」頭を下げ、扉に手をかける彼女を、私は慌てて引き止めた。「待って、カレンさん。あなたにも聞いてもらいたいことがあるんだけど」「私にも?」自分を指さしながら、カレンはその場にいた人間を見回す。どう見ても家族団らんの図だ。間違いだと思ったのか、彼女は恥ずかしそうに私に告げる。「やっぱり私はいいですから…」「少しだけ付き合ってくださいよ」「じゃあ、少しだけ」ためらいがちに言った彼女は、義父の隣に座った。「座らなくても大丈夫ですか?」「ええ、仕事柄、立ちっぱなしということも多いので」本人がいいなら問題ないだろう。私は話を始めることにした。まずは携帯電話を出す。先ほども出した義母の興信所の結果を画面に表示した。「まずはこれを見てください。お母さんの浮気の証拠です。ですよね、お母さん」「うん」ふてくされたような声を出す義母。今更否定するつもりはないようだが、素直になるのも嫌だという感じだ。「裕子が浮気だって」裕子というのは義母の名前だ。義父は普段から義母を名前で呼んでいる。「そうです。相手は鈴木専務だと」「鈴木専務が…」険しい表情の義父。じっくりと私が提示した興信所の結果を見ていた。「みささん、これ、間違いないのかね?」義父が確認してくる。私は無言で頷いた。「そうか。浮気か」義父の視線が私から義母の方に向く。1つため息をついた彼はこう尋ねる。「いつからだ、裕子」「忘れたわ。そんなこと」「忘れた?適当なことを言うな」声を荒らげる義父。口調は厳しいが落ち着いていた。さすが社長と言うべきか。どんな時でも冷静に対応しているようだ。「本当のことだから仕方ないじゃない。彼の前は他の人だったし、いちいち覚えていられないわよ」義母は憎まれ口を叩く。前社長の件もあるし、義父に嫌われたいようだった。自分だけが悪者になればいい。そんな風に考えているのが透けて見えた。だが私は認めない。この話にはもっとふさわしい終わり方があると、片手で義母を制した。「な、何を…」戸惑う義母がこちらを向く。「はい。そこまで。続きはお母さんではなく、私と話してくれませんか?」「みささん、悪いがこれは夫婦の問題だ。いくら嫁であっても」「でも、私はお母さんの気持ちが分かるんですよね。夫に浮気をされて放置された妻が、寂しさのあまり浮気に走るというのが…」私が言った途端、社長室の空気が固まった。義父は急に硬い表情になって私に聞いてきた。「一般論か何かかな?それは」「一般論ですけど、お父さんとお母さんの話でもありますよね。若い女性社員と浮気するお父様」問いかけるも、義父の表情に変化はほとんどない。隣で目を見開いている義母とは対照的だった。「主人が浮気…」「そうですよね、お母さん。お父さんが浮気ばかりするから寂しくて、つい浮気をしてしまった」同意を求めるように義母に語りかける。彼女はポカンとしていた。「みささん、何の冗談かな?私は浮気なんかしていませんよ」「嘘はダメですよ」私の言葉にむっとする義父。ようやく表情が変わったと思った瞬間、彼は私に詰め寄ってきた。「そこまで言うなら証拠があるのかな?まさか証拠もないのに人を悪者にしていたんじゃないだろうね」「そんなまさかですよ。でも、もうお気づきじゃないんですか?お母さんの興信所をしているということは…」つまり、義父の興信所もしたと示唆する。しかし彼はその程度ではひるまなかった。平然と切り返してくる。「なるほど。じゃあ証拠を出してくれるかな?話はそれからだ」仕方ないと、私は携帯電話を操作した。義父の興信所の結果の一部を示しつつ、話を続ける。「これでいいですか?全員分とは言いませんけど、数人分はあるので。車内で見た顔の写真がある。営業から工場勤務の女性まで、多くの女性と義父が一緒に映っていた」「どれもこれも曖昧なものばかりだね。一緒に食事したくらいでは浮気とは言わないと思うよ」「それはまあ…」「でも、よく調べていると思うよ。証拠としては不十分だけど」にやりと義父が口元を緩める。悔しいけれど、今はこれが精一杯だった。実際、興信所を始めたのは義母とほぼ同時だ。しかし義父の浮気の証拠は見つからなかった。決定的な写真が撮れず、お手上げという報告があったくらいだ。「さて、どうするつもりだ?私の名を傷つけた責任取ってくれるのかね?」「いえ、これは単にとっかかりなので」「お、どういうことかね?」義父が首をかしげる。そこで義母が割り込んできた。「ごめんなさい。私が悪いのよ。浮気もそうだけど、佐野社長の具合が悪くなったのは私の責任だったの。許して」「その社長、急にどうしたんだ?」少し予定が狂ったが、うまく軌道修正されたようだ。心の中で義母に感謝しつつ、私は続きを話した。「前社長の佐野正弘さん、ご存知ですよね」「おお、当然だ」「覚えていると思いますが、彼が行方不明になった時、どうして体調を崩していたと思いますか?」確信をつく。義父は軽く首をひねった。「あの日はバーベキューだったし、飲みすぎじゃないかな?」「違うの。あれは私がそば粉を入れたから」唐突な告白に義父は目を丸くした。すぐに問い返す。「裕子、それどういうことだ?」「あの人があなたのことをけなしたから」私の家で話した内容と同じことを義母は語る。最後に彼女はこう言った。「全部私のせいなの。私を警察に突き出して、それで終わりにして。いいから、お願い」泣きながら懇願する義母。私は彼女の背中をさすりつつ、義父に言った。「こういうわけでした」「なるほど。それでここに来たのか」「ええ。ですから、早く本当のことを言ってくれませんか?お父さん。自分が事故を偽装して前社長を海へ…」最後まで言わずに厳しい目を向ける。「そう」義父が前社長を病院へ連れて行く際に起きた事故は偶然ではなかった。彼がわざと起こしたものだったのだ。「言いがかりはやめてくれるかな?大体、何の話だね?」「前社長が行方不明になった時の話ですよ。警察には対向車が車線をはみ出し、それを避けてガードレールにぶつかったと言ったそうですね」「その通りだ。嘘偽りない事実だよ」義父は平然と答える。「おかしいですね。私が聞いた話と随分違いますよ」「どこの誰だ?そんな出たらめを言うのは?」「そうですね。この時計の持ち主ですけど」例の腕時計をバッグから出し、テーブルの上に置いた。「今度はその小汚い腕時計か」「裏返せばすぐに分かりますよ」「うっ」つぶやきながら義父は腕時計を裏返した。次の瞬間、彼は言葉を失う。「名前が書いてありますよね。佐野正弘って」「に、偽物だ。こんなものがあるはずがない」義父は放り出すようにしてテーブルに腕時計を置いた。落ち着かず、足を動かし、目を泳がせる。手元のペットボトルの水に手を伸ばしていた。「偽物って、それは言いすぎじゃないですか?」「いや、でも、時計がここにあるのはおかしいだろ。彼は事故の時に海へ…」「本当に事故で落ちたんですか?お父さんが海へ…というのが真実では?」義父を睨みつける。彼は視線をそらしてしまった。「バカなことを言うな。あれは事故だ。大体、衝撃音の直後に社員たちが私の車を確認している」「確かにその通りだ」義母も全く同じ証言をしていた。大きな音の直後に、と。だが誰もが1つだけ勘違いしていることがある。それは衝撃音の前に車がどうなっていたかを確認していないということだ。例えば事故の前に車が停車していたとすればどうだろうか。助手席にいた前社長を、運転席の義父が下ろすことは容易だった。もちろん、引きずり出してそのまま海へ…ということも。全ての捜索が終わった後で、事故を装って車をぶつける。これだけで辻褄は合うのだ。私はその事実を義父に突きつける。「何か言い訳がありますか?」「全くバカバカしい話だ。それこそみささんの想像に過ぎない」「想像?そうですね。でも、それならこの腕時計がここにある理由の説明にはならないと思いますよ」テーブルの上の腕時計を軽くつく。少し考えて義父は言った。「まさか…」「ええ、そうですね。全ての辻褄を合わせるには、本人が生きていて、これを私に渡してくれないといけないということです」ゆっくりと携帯電話を手にする。スピーカーのままで電話をかけた。「こちらへ来ていただけますか?」「分かった」小さな声が聞こえる。その瞬間、義父は頭を抱えていた。「違う。俺じゃない。俺は何も悪くない」目の前でガタガタと震える義父。やがて1人の男性が社長室に入ってきた。「失礼するよ」「その社長…」目を見張る義母。佐野社長と呼ばれた男性は軽く頷いてから、義父の方へ目を向けた。「久しぶりだね、鹿原君。お互いに年を取ったな」「社長、本当に…」「ああ、私は生きている。挨拶をする機会がなくて悪かったね。改めまして、私が前社長の佐野正弘だ」ゆっくりと頭を下げる正弘。義母がすぐに立ち上がり、代わりにそこへ正弘が座った。私は義母に席を譲り、彼女の横に立つ。「というわけで、彼に話を聞きました。お父さん、自分がやったこと、お認めになりますよね」「お、私はその…」この後に及んで義父はまだ弁明しようとしていた。呆れた私は少し大きな声を出す。「認めますよね」「おお…」がっくりと項垂れる義父。私は深いため息をついた。「それじゃあ、続きを話しましょうか」「うっ、窓…」「ええ、だってあなたはもっと悪いことをしていますよね」笑顔で問いかけると、義父はさっと視線をそらした。「もっと悪いことって、どういうこと?」「ああ、それはお母さんに罪悪感を植えつけることです」「罪悪感?」首をかしげる義母。私はバッグからメモを取り出した。「さて、少し話を戻しましょうか。事故はお父さんが仕組んだことだった。それは分かってくれましたよね」その場の全員に確認する。「分かったけど、少しおかしくないか?」ヒトが反論してきた。眉間にしわを寄せて聞き返す。「何がおかしいの?」「だから、計画的じゃないってこと。事故を偽装とか、お前は言っていたけど、それって母さんがそば粉を入れるって前提条件があるじゃないか」実際、義母が正弘の飲み物にそば粉を入れたからこそ成り立っている話だ。何もしていなければ彼は体調を崩さず、事故を偽装することもできなかった。そういう意味では義父を悪者にするのはおかしいと、ヒトは言いたいようだ。「さすがヒト。いいところに気づいたわ」「そうだろ。だから、それは偶発的なことが…」あ、ヒトが自分の説を語り始める。気分よく話しているところを悪いが、私は間に割って入った。「残念だけど、そこまでね」「なんで?」「なぜなら、お母さんが何もしなくても彼は体調を崩していたからよ。そうよね、お父さん」義父を見ながら微笑む。彼は青い顔で俯いていた。「どういうことだ?」「だから、飲み物に異物を混ぜたのはお母さんだけじゃなかったってこと。お父さんもまた、何かを入れましたよね。何を入れたのかは分からない。ただ、私は異物を購入させたという事実だけを知っていた」「まさか、あなたも…」義母が驚愕の表情で義父を見ている。彼はごまかすようにヘラヘラと笑い始めた。「違う。俺は何もしていない。証拠がないだろう」「あるわよ。証拠は」「な、なんだって」顔をしかめる義父。私は少しだけ目線を横へ向けて、視線の隅にいたカレンをじっと見る。「そろそろいいんじゃないかしら、カレンさん」「あ、そうね。潮時みたいだわ」深いため息をついたカレンは、持っていた書類をそばの机の上に置いた。自分の個人的な携帯電話を出し、1枚の写真を表示する。随分と古い写真で、セピア色という感じの色合いになっていた。「これ、社長が何かを入れるところの決定的な証拠写真です」カレンの言葉に慌てた義父は、彼女の携帯電話を手にする。「あ、そ、そんなバカな…」表示されている写真をじっくりと見て、義父はその場に崩れ落ちた。「なんでこれが…」「私の母が撮影したものですよ。母は元社員ですから」「元社員?」「ええ、気づきませんでしたか?」いたずらをした子供のような顔でカレンは義父を見る。完全に力が抜けた彼はぐったりとしていた。「私は今、トラック運転手をしていてね。数年前に偶然仕事で訪れた先で、彼女の母親と会ったんだよ」正弘が思い出しながら話をする。その内容はこうだった。正弘は今、あずさの実家で働いている。当然トラック運転士だ。普段から様々な荷物を運び、遠くの店や会社へ行くことも珍しくなかった。そんなある日のことだ。仕事で荷物を運んだ先で、偶然声をかけられた。相手はカレンの母親で、正弘は随分と驚いたそうだ。その後、休憩を利用して思い出話に花を咲かせた。そして話題が例のバーベキューになった時、正弘は1枚の写真を見せられたとのこと。「話した彼女は、カレンの携帯電話を指さす。この写真を出した彼女は、私にこう聞いてきたよ。具合が悪くなったのは、鹿原君が入れたもののせいじゃないかって」「なった。やっぱり…」「ついでに奥さんも何か入れていたと聞かされたから、原因がどちらかは分からないけどね」ふと義母を交互に見る正弘。どこか楽しそうにも見えた。「私もその話を聞いて驚きました。でも、お父さんも何かを入れたとすれば、確かに辻褄が合うんですよね」腹いせをした義母の気持ちは分かるけれど、それだけでは義父の行為の説明がつかない。突発的にやってしまった可能性も十分にあるが、事故を偽装するという発想などはあまりにも計画的だった。それなら最初から全て計画していたと考える方が自然だろう。仮に義父が正弘を消そうとしていたのであれば、義母と同様の行為をしても何ら不思議ではなかった。「そろそろ白状したらどうかな?」「それは、えっと…」口ごもる義父。「もう諦めた方がいいですよ。カレンさんが証拠を持っているんですから」「おお…」義父は完全に降参する。それから真実を話してくれた。
話は事件の少し前に遡る。ちょうど義母が正弘に進言していた時のことだ。2人の会話は誰も聞いていなかったと彼女は話したが、実は社長室の前には義父がいた。次の社長になるのは自分で間違いない。義父はそんなことを考えた。けれど提案は正弘に一蹴されてしまう。追い打ちをかけるように「人間性に問題がある」とも言われた。頭に来た義父は復讐を心に誓う。とはいえ、単にやり返しただけなら訴えられる可能性が高い。場合によっては解雇ということも考えられた。そこで絶対にバレない方法はないかと義父は頭を悩ませる。最終的に事故を偽装する作戦を思いついた。ただ、どうやって2人きりになるか。普通に車に乗せても疑われてしまうし、反撃を食らうことも予想できた。あれこれと考えている時、ふと義母がアレルギーについて調べていることに気づく。彼女の企みを理解した彼は、利用しようと思ったのだった。
義父が話し終えた途端、義母が声を荒らげる。「あなた、私を利用したの?」「違う。その計画が重なっただけというか…」懸命に言い訳をする義父。「嘘ね。利用しようと思ったって、自分で言ったじゃない」「それは言葉のあやだ。俺は…」「弁解の余地なしよ」私が言うと、義母は急に立ち上がった。義父の鼻先に指を突きつけ、大声で宣言する。「ふざけるんじゃないわよ。あなたなんか警察に突き出してやる」「な、なんだと?お前だって同じじゃないか」「全く違う。義母はただの傷害罪だ。すでに時効を迎えている可能性も考えられた。しかし義父の場合はもっと多くの罪になる。特に命を奪おうとした件はかなり重い。未遂だとしても、相手が亡くなった場合とほぼ同じだ」「この話、24年前ですよね。まだ時効じゃないかもしれませんよ」「う、冗談だよな」「いえ、本当です。心配しなくても、ちゃんと通報しますから。後で」語尾を強調する。「後でっていうのは…」義父が聞き返してきたので、私は笑顔で答える。「聞いたままですよ。だって、お父さんの浮気の件が決着していませんし」「浮気とか、どうでもいい…」と言いかけて、義父は口をつぐんだ。確かに今までの話と比較すると、随分と小さなことだろう。だが決着をつけておきたい理由があった。「さて、カレンさん。ご協力ありがとうございました」「いえ、大したことじゃないわ。元々追求しようと思っていたことだから」「じゃあ、もう1ついいですか?」人差し指を立てて見せる。カレンは首をかしげた。「何かしら?」「お父さんとの浮気のこと、話してくれませんか?さっきは証拠不足って言われましたけど、カレンさんの話なら証拠になりますよね」皮肉を込めて義父を一瞥する。彼は顔を背けていた。「浮気?何のことかしら?」「またまた。とぼけなくてもいいですよ。さっきの写真を持ち歩いていた理由は、いつでも問い詰められるようにしていたからですよね」カレンの携帯電話を指さす。そこにはまだ義父が正弘の飲み物に何かを入れる瞬間の写真が表示されていた。「例えば、浮気相手から暴力を受けそうになった時とか、相手を落とす材料としては十分ですよね」「確かにそうね。でも、上司から身を守るためだったら…」うまい切り返しに、思わず考え込んでしまった。そう言われると困る。「そうですね。状況証拠はあるんですけど…」「カレンさんと20周年記念の写真を見つけた時のことだ。彼女は妙に昔のことに詳しかった。母親に当時の事情をきちんと聞いていたからだろう。しかし彼女の言い分も一理ある。上司から身を守るために母親の話を聞いていたと言われると、反論は難しかった。どうやら説得は難しいみたいですね」「残念だったわね。でも、交換条件なら考えるわよ」カレンの視線が正弘に注がれる。「私が何か…」「母から聞いていたことがあるんです。その答えを教えてくれるならね」なぜか正弘と話を始めるカレン。彼も受けて立つという感じで応じていた。「何のことかな?」「あなた、お子さんがいますよね」カレンはストレートに尋ねる。正弘は軽く首を横に振った。「悪いが、私は独身だ」「独身でも子供がいる人は珍しくないですよ」私もその通りだと思う。未婚で出産する人もいれば、子供が生まれた後で離婚する人もいる。「そこで質問。例のバーベキューで倒れたあなたは、母にこう言ったそうですね。娘に連絡してくれ、と」「どうだったかな?覚えていないな」「覚えていないんですか?娘さん、みさちゃんと言うそうですね」そう言いながらカレンはこちらを向いた。鼓動が弾ける。私は母子家庭で育った。父親の顔は知らない。「本当は自分の娘を助けたくて、腕時計を渡したんじゃないですか」カレンの口から決定的な言葉が飛び出す。先日話した時も彼は何も喋らなかった。けれど、よくよく考えれば彼女の言い分は辻褄があっている。披露宴会場での私と義母のトラブルを見た人が腕時計をくれたと、あずさは語った。当時は何も思わなかったが、随分と奇妙な話だ。披露宴会場はかなり広く、互いがどんな話をしているかなど分からなかった。状況を細かく知るためには、最初から私を見ている必要がある。これは私のことを知る人か関係者以外には考えられなかった。「会場に娘さんが来ると知っていたあなたは、最初から彼女を見ていた。そこで義母にいびられていると知り、娘を助けようとした。そうですよね」「何度も言うが、それはない」正弘は否定する。そんな彼を私は見つめた。「あの、本当に…」「違うと言っただろ」彼が再び否定した瞬間、カレンが叫ぶ。「今が最後のチャンスよ。否定したら一生このままでも、認めれば家族になれなくても、お互いに顔を合わせて話すことができるわ」彼女がこんな風に言った理由はよく分からない。仕事仲間である私のためだったのか。とにかくカレンの言葉を聞いた正弘は、否定する発言を飲み込んでいた。「そうだな。後ろめたさがあったから認められなかったが、今が娘に謝るチャンスなのかもしれない」ため息をついた正弘が立ち上がる。私に向かって、彼はゆっくりと頭を下げた。「随分と苦労をさせて申し訳なかった。みさ、私がお前の父親だ」「本当にお父さんなの?」思わず涙が込み上げる。「ああ。色々あって家族に結婚を反対された。でも、24年前のあの日からもう家族には会っていない」「じゃあ、お父さんは…」「もう亡くなったことになっているかもな」あははと豪快に笑う正弘。どこか懐かしい感じがした。「交換条件ね」カレンがつく。声をかけたかったけれど、うまく言葉にならなかった。「カレンさん、本当に…あの、その話は後でね。今は浮気の件を話しましょうか」「あい」笑顔で応じる。その後、カレンは義父と浮気をしていたと認めた。携帯電話に残っていた2人の通話記録などを見せてくれる。確かに付き合っている男女のやり取りだった。私は最後に彼女にこう聞いてみる。「カレンさん、どうしてお父さんと浮気を?」「別に浮気はどうでも良かったのよ。この写真で一気にしようと思っただけ」「その割には時間がかかりすぎている。7年前、義母に命じられて仕事を手伝い始めた時には、すでに彼女は社員だった。義父を脅して金を取るだけなら、ここまで長く会社に在籍する必要はなかっただろう。本当は他にも何かあったんじゃないですか?」「そうね。あるとすれば、みさちゃんの正体が気になっていたくらいかな。塩時かなって思っていた時に、あなたと会ってピンと来たのよ」私自身と似ているかどうかは分からない。ただカレンの話を聞く限り、正弘とよく似ているそうだ。特に昔の写真の彼とカレンは…。最後に静かに頭を下げる。「では、私はこれで。ありがとうございます」「これくらい何でもないですよ」微笑んだカレンは社長室を出ていった。
さて、それじゃあ終わりにしましょうか。「終わりって?」「もちろん、警察に通報するんですよ」私は携帯電話を握りしめた。正弘が実の父だと分かったからではない。最初から決めていたことだった。当然、義母にも反省を促すつもりだ。だが、以上に人の命を奪おうとした義父は絶対に許せない。時効の時間は短いけれど、なら間に合うはずだ。「すみませんが、通報しますね」「待ってくれ。ご、ごめん。佐野社長も生きていたんだし。それでいいだろう」「そんなわけがない。犯した罪は必ず償うべきです。もしもし、警察ですか?」「待ってくれ。頼むから」警察官が到着しても、義父は叫び続けていた。
警察署に連行された後、義母は洗いざらい話したそうだ。単純な嫌がらせが目的だったこともあり、傷害罪で取り調べを受けた。ただ傷害罪の時効である10年はすでに経過している。最終的に義母は数日間の事情聴取のみで、逮捕されることはなかった。義母のことを知った義父は、自分もすぐに釈放されると信じていたようだ。事故の偽装だけであれば詐欺くらいで済む。高をくくっていた義父だが、彼に突きつけられていたのは最も重い罪だった。時効も迎えておらず、事情聴取の後に逮捕が執行されてしまう。「違う。俺は別に…」懸命に弁解を続けたけれど、誰も聞いてくれなかった。義父は今、冷たい壁の向こう側で頭を抱えているそうだ。裁判にどれだけの時間がかかるかは分からない。無罪を勝ち取るのは難しいと思うし、おそらく義父は人生最後の時まで獄中だろう。何にしても自業自得だ。
さて、釈放された義母はまず離婚届を書いたようだ。弁護士に頼み、それを義父に届けてもらう。最初は拒んでいたと聞いたが、最後には彼も素直にサインしたという。私たちは離婚した義母がうちに転がり込むことを警戒したけれど、杞憂に終わる。離婚後の彼女は手持ちのお金を使い、自ら施設に入ってしまった。「あなたたちには迷惑をかけられないから」そんなことを言っていたらしい。実際、義母にはいいところもある。妊娠中に私をかばってくれたことでも分かるだろう。ほこりが覚めたら、翼を連れて3人で彼女に会いに行こうと思った。
最後に私のことだが、生活環境は大きく変わっている。事件の話が広まってしまい、引っ越した家に住み続けるのが難しくなっていた。ヒトも会社にいづらくなったということもあって、田舎へ引っ越したのだ。近所にあるのは田んぼと畑だけ。コンビニもスーパーもない。買い物に行くためには車で30分は走らないといけなかった。「本当に良かったのか?こんな田舎で」農作業をしながらヒトが聞いてくる。「もちろんよ。農業も楽しいし、自然も豊か。言うことなしよ」「それならいいけど」田舎で始めたのは農業だ。ご近所さんの手を借りながら、なんとか形になり始めている。翼も毎日楽しそうだし、特に不安はなかった。「そういえば、みさのお母さんから連絡があったよな」「なんだって?」「ああ、それね。お父さんと正式に結婚して、こっちに行きたいって。2人と同居することになるけど、いいかしら?」悪戯っぽく笑うヒト。私は身を乗り出して再確認した。「どうなの?同居の件?」「ああ、うん。俺は別にいいよ」「よかった」ほっとする。急に父親が現れた時はどうなるかと思ったけれど、今はワクワクしていた。これから家族5人で仲良く暮らせるといいな。自分の気持ちが揺がないよう、そう呟いた。



