「黙れ、この老害が。俺に説教すんじゃねえよ。黙って膝まずいて床磨けよ」…

「黙れ、この老害が。俺に説教すんじゃねえよ。黙って膝まずいて床磨けよ」...

「ぼさっとしてないで早く片付けろよ。うわ、汚いな。ちゃんと綺麗にしろよ」

飲みかけの紙コップを投げつけ、彼は楽しそうに笑った。普段から私を清掃員のじじいと見下し、エリートを気取っている彼だが、今日は一段とひどい。

私が怒ると、彼は待ってましたとばかりに声を張り上げた。

「黙れ、この老害が。俺に説教すんじゃねえよ。黙って膝まずいて床磨けよ」

「エリートがそんなに偉いと思ってるのか」

「はあ?偉いに決まってんだろう。その辺のレベルの低い大学は出てないんでね。ここが違うんだよ」

彼はそう言って自分の頭を指さした。

「清掃員ごときが俺に声かけるな。失礼だろ。誰にでもできるような仕事で小遣い稼いでるあんたとは違う。エリートは頭使って仕事して会社を稼がせてあげてるんだよ」

感情的になって言い争いたいわけではなかったが、これ以上彼を放っておくわけにはいかない。どうすれば彼の勘違いを正すことができるのか。考えを巡らせたその時、背後から不意に声をかけられた。

私の名前は波の大作。おもちゃメーカーで働いている。数年前に高齢を理由に退職した私は、隠居生活を楽しんで過ごそうと張り切ってみたものの、すぐに退屈になり、半年ほど前にとうとう腰を上げた。これまで仕事一筋、脇目も振らず働いてきた私には、仕事ができないということが性に合わなかった。なんとなく過ぎていく時間と、夕方の物悲しい時間帯をやり過ごすことができなかったのだ。かつてリタイヤ後はのんびり過ごそうと夢に描いていたのだが、それは私にとって幻だったらしい。そこで私でも社会に役立つことがないだろうかと考え、知り合いに頼んでここで清掃員として働いているというわけだ。もちろん正社員としてではなくパートタイムで、給料ももらっている。働いて給料をもらう。そんな当たり前だと思っていた愛しい日常を、もう一度手に入れたのだった。

この会社の大きな敷地の周囲には住宅や学校が立ち並ぶ。早朝に清掃していると、出社してくる社員に混じって通学中の子供たちの元気な挨拶が聞こえてくる。

「おはようございます」

「おはよう。行ってらっしゃい」

そんなやり取りが毎日の楽しみの一つになっていた。

そんなある日、いつものように掃除をしていると、若い社員が歩きスマホでこちらへ向かってくるのが見えた。危ないなあ。しかし私のいる場所とは離れていて、注意しようにも声が届きそうにない。彼の周辺には子供たちもちらほら歩いている。彼の視線には子供たちの姿が映っているのだろうか。そう思ってハラハラしながら見ていると、とうとう彼が低学年くらいの男の子にぶつかった。

「あっ」

私は思わず声をあげた。ただでさえ体に対して大きいランドセルを背負った男の子はバランスを崩してしまい、前方へ倒れてしまった。ぶつかった社員はと言うと、男の子をちらっと見ただけで、謝りもせず再びスマホに視線を落としたのが分かった。

私は男の子のところへ急いだ。男の子は泣き出してはいないものの、痛みをこらえるようにうずくまっていた。私はすれ違った彼の社員証をとっさに確認して声をかけた。

「君、歩きながらの歩きスマホは危ないですよ」

名指しされたことに驚いたように彼は立ち止まり、冷たい表情で私を見下ろした。

「子供たちに夢を与えるおもちゃメーカーの立派な社員証をぶら下げて、ぶつかっておきながら謝りもしないなんて。こんな風な態度では子供たちに示しがつかないと思いませんか?」

「はあ?俺に説教でもしようって?誰だよ、じいさん」

寺内君は私をまじまじと見た後、舌打ちをしてその場を立ち去った。私は男の子を置いて追いかけるわけにもいかず、その後ろ姿を苦々しく眺めた。

「大丈夫かい?」

男の子は足をすりむいてはいたが、傷は浅いようだ。

「うん。大丈夫。おじいちゃんありがとう」

男の子が元気に立ち上がったのを見てひとまず安心したものの、どうも先ほどの社員のことが頭に引っかかっていた。そこで私はこの会社で仲良くしてくれている社員の何人かに雑談を交え、それとなく寺内君のことを尋ねてみることにした。どうやら彼は名門私立大学を卒業し、花形である企画部に所属しているエリート若手社員であることが分かった。さらにどんな性格か尋ねてみると、評価は人によってまちまちだった。

「仕事もできて指示が的確だから、彼がリーダーの仕事はとてもやりやすいですよ」

「この前社長と話しているのを見かけたんですけど、珍しく笑ってたんです。いつもは不機嫌そうにしているか無表情って印象だったので、寺内さんもあんな顔するんだってびっくりしました」

「後輩社員を顎で使うからあんまり好きじゃないです。それに少しのミスも容赦しないし、敵に回したら仕返しとか絶対するタイプですね」

「あれは僕がF大学出身だからって口も聞いてもらえないですよ。仕事だって雑用しか回してこないし。あいつマジで性格悪いです」

相手によって態度を180度変える人間は世の中にいるものだ。寺内君もおそらくそうなのだろう。社員たちから寺内君のことを聞けば聞くほど、なんだかモヤモヤした気持ちになった。そしてなんとなく嫌な予感がしてくるのだった。

数日後、その嫌な予感は的中した。寺内君の私に対する嫌がらせが始まったのだ。初めのうちは気のせいだろうか、偶然だろうと思っていたものの、そうではなかった。ある時は私の目の前でゴミをばらまき、そしてある時は私の足元に唾を吐いた。そ知らぬ顔をしてネチネチとした嫌がらせ。それでもまさか大人がいつまでもそんなことを続けるとは思えず、しばらくすればやめるだろうと知らぬ顔を貫いていた。しかし彼は忙しい仕事の合間を縫ってやってきては、必要以上に嫌がらせを繰り返した。

強い私ではあるが、彼が堂々と私の目の前でガムをなすりつける姿にうんざりし、もう一度注意することにした。

「寺内君、私のことが気に入らないのは分かりますが、もうやめてもらえますか?こんな子供じみたことをしていて気持ちがいいことではないでしょう」

「いや、むしろ気持ちがいいね。ストレス発散だよ。エリートの俺に意見した報いだ。ほら、さっさと仕事しろよ」

ガムを指さし、寺内君はニヤニヤしながら下卑たように言った。あの日、清掃員である私に注意されたことがそんなにも気に入らなかったのか。どうしようもなく情けなくなった。しかし自分も若い頃はこんな風に年上の言葉が響かず、反抗的な時期があったかもしれないと思い直し、ひとまず我慢することができた。

ところがいつも通りの朝のことだった。私は相変わらず清掃をしながら、登校する小学生や社員たちに挨拶をしていた。一通り外の清掃が終わり、今度は社内の清掃に取りかかろうとした時、寺内君が現れた。何やらいやらしい笑みを浮かべてこちらを目で追っている。きっとろくなことはしてこないだろうことは分かっていた。今回も無視して過ごそうと、私はできるだけ目を合わさないように、近づかないようにと用心した。すると突然私に向かって近づいてきた彼が、手に持っていた飲みかけの紙コップを投げつけてきたのだ。

「うわっ」

驚いた私は思わず声を出した。周囲にいた数人の社員からも小さく悲鳴が上がる。半分以上は入っていたであろう飲み物がこぼれ、私の作業服には大きな染みを、床には広範囲の汚れを作った。中身があるのに投げつけるとは。嫌がらせにしては度がすぎている。

「ああ。ほら、ぼさっとしてないで早く片付けろよ。うわ、汚いな。ちゃんと綺麗にしろよ」

その言葉に私はカッと頭が熱くなるのが分かった。いつもは理性で抑えていたものが瞬発的に爆発してしまったと、後から少し後悔した。

「いい加減にしろ」

まだ笑っている寺内君に聞こえるように怒鳴ると、寺内君は私が言い返すのを待ってましたと言わんばかりに怒鳴り返してきた。

「黙れ。この老害が。俺に説教すんじゃねえよ。黙って膝まずいて床磨けよ」

私はこれまで社員たちから聞いてきた彼の悪い評判を思い出し、さらに苛立ちを抑えられなくなった。

「エリートがそんなに偉いと思ってるのか」

「偉いに決まってんだろう。その辺のレベルの低い大学は出てないんでね。ここが違うんだよ。ここが」

彼はそう言って自分の頭を指さした。

「清掃員ごときが俺に声かけるな。失礼だろ。誰にでもできるような仕事で小遣い稼いでるあんたとは違う。エリートは頭使って仕事して会社を稼がせてあげてるんだよ。分かるか?」

寺内君の暴言に足を止める社員がいるのを見て、私ははっと我に帰った。感情的になっていた。言い争いたいわけではない。取り乱してしまったことが急に恥ずかしくなった。彼のように社会に出てからもしばらくは自分の出身大学の肩書きに縛られていることはよくあることだ。会社によっては初任給にも差が出るのだから仕方がない。しかし、たとえ彼が仕事において優れていたとしても、周囲への配慮やマナーが必要ないわけではない。こんなにも彼が見下している清掃員の私が、彼に何と声をかければその間違いに気づいてくれるのだろうか。彼には気づいてもらいたいと思った。考えを巡らせて周囲を見渡すと、周りには人だかりができ始め、ざわざわと私たちを眺めていた。中にはこんなのは見ていられないと足早に立ち去るものもいて、私は早くこの場を納めなければと気持ちは焦るばかりだった。

「あれ?父さん、お疲れ様。うわあ、大変なことになってるね。手伝おうか」

その時、背後から不意に声をかけられた。何の脈絡もなく私に話しかけてきたのは、息子の史郎だった。こんな姿を見られてしまったと、私は少し後ろめたい思いで振り向いた。

「ああ、これくらいなら大丈夫だ。ツルツルの床だから染み込まないだろ」

「そうか。よかった。いつも綺麗にしてくれてありがとう」

史郎はそう言いながら、私の作業着が異常に汚れていることに気がついたようだった。

「父さん、その服」

「ああ、これは……」

何と言い訳をしようか。考えを巡らせていると、後ろから疑念に満ちた、先ほどより弱々しい声が聞こえてきた。

「父さん?」

私の背後で寺内君が驚き固まっているのが分かる。だがそれもそのはず。史郎は寺内君もよく知っている。この会社の社長なのだ。実はこのおもちゃメーカーは私が20代の頃に起業し、大きくした会社だ。数年前に息子に社長業を譲って以来、経営には関わらず、ただの会長職についている。清掃員として働きたいと私がお願いした相手というのは、息子の史郎のことだったのだ。

「え、一体何があったの?ちょっと君、説明してくれない?」

史郎は周囲の社員を適当に捕まえ、事情を聞いた。君にとっては運の悪いことに、捕まえた社員は今日起こったことに加えて、今までの嫌がらせについても言及した。

「寺内さん、ちょっと社長室まで来てもらえますか?父さんも」

史郎が静かに言う。いつも穏やかな息子だが、とても怒っているように見えた。私は先に行っているように言い、床を綺麗にして作業着を整えた。それから社長室に向かい、ドアを開けると、顔面蒼白の寺内君がうなだれて立っていた。史郎に相当絞られたらしい。

「会長、これまでのご無礼をお許しください。本当に申し訳ありませんでした」

私に気づくなり腰を90度折って頭を下げる。あろうことか涙まで流して謝る寺内君に驚いたが、その謝罪を素直に受け入れていいものだろうかという気持ちになった。私が地位のある人間だと分かったために謝っているのだとしたら、寺内君は今後もなんら変わらないだろう。私はこの会社の社員にはもっと配慮のある人間であってほしいのだ。

「寺内君、今回何が間違っていて、社長が怒っているのか分かりますか?」

「はい。会長に向かって多くの嫌がらせをしたことです。知らなかったんです。言ってくださればよかったのに」

私はため息をついた。私が会長だから反省していると?

「本当に本当に申し訳ありません」

しゃくり上げながら謝罪する寺内君を見て、再度ため息をつく。

「落ち着いてください。君とはちゃんと話をしないといけないようだな」

どうしたものかと頭を悩ませていると、史郎が口を開いた。

「父さん、なぜ今まで何も言わなかったんですか?僕は彼に何らかの処分を考えています。僕は社内でいじめのような行為をする人間を置いておきたくありません。僕の一存で首にしても構いませんか?」

史郎が怒るとこうやって極論を出してしまうことは予想がついていた。だからこそ、嫌がらせが大きくなる前に私と寺内君の間だけでなんとかするべきだったと悔やんでいた。

「いや、少し待ってくれ。私も黙っていたのは悪かったと思っている。ここまでエスカレートするとは思ってなかったんだ。処分については私も考えてみよう。それまで処分は保留にしてくれ」

花板の恋となった寺内君は、泣きはらした目で私たちの様子を眺めるほかどうすることもできないようだった。その日のうちに史郎と寺内君の上司を交え、処分についての話し合いが行われた。

「彼は仕事上では大変優秀で、計画性ばかりでなく臨機応変に対応することにおいても優れています」

「正直にはっきりおっしゃってください」

言いよどむ上司に史郎はピシャリと言った。まだ史郎は苛立っているらしい。

「自分より劣ると感じる同僚への態度が少し問題があるように感じます。度々他の社員から声が上がっていました」

「そうですか。他にも通勤途中に歩きスマホをしていて子供にぶつかってもそ知らぬ態度を取っただとか、清掃員に対して嫌がらせをするなど、人間性を疑う問題行動が多いですね。では彼は首ということですか?」

寺内君の上司は困惑の色を浮かべていった。仕事ができた彼の穴を埋めるのは大変なのだろう。

「いや、待ってくれ。なぜためらうんですか?嫌がらせを受けたのは父さんでしょう。聞いていると腹が立ちます」

「確かに関心できない点が多いが、今ここで首にしてしまえば、彼は上司とは知らずに嫌がらせをして首になったと思うだけじゃないか。人を見下すこともマナーのない行いもきっとやめないだろう」

「確かにそうですが、会社を首にすればそれは彼個人の問題ではないですか?」

「彼はまだ若い。私も若い頃はあれくらい尖っていたかもしれない。そう思うと、どうにかここで立派な社会人に育ててやることが私の使命のような気がしてな」

「父さん、こうするのはどうだろうか」

私が提案したのは、2年間の昇給とボーナスの停止に加え、1年間無償で私と清掃活動をすることだった。

「父さんと一緒に1年間の清掃活動の態度によっては、昇給とボーナスの停止解除も考えよう」

史郎は少し考えて、ふっと笑った。

「父さんらしいな」

私は史郎に頷いてみせた。

「一体何なんですか?」

寺内君の上司が不思議そうに言った。

「昔僕が友達と大喧嘩したことがあってね、その後の夏休みの間中、毎朝友達と校内の掃除に付き合わされたことがあったんだ。おかげでいろんな経験をして、その友達とも無事仲直りした。今でも覚えてるよ。ただ単純に掃除をするわけじゃない。そこで触れ合う人たちのことや、見えていなかった景色を見て、人は必ず学ぶものがあるんだよ」

「そうだね。そうしよう」

寺内君の上司は盛り上がっている私たちをどこかほっとしたような表情で眺め、私の意見に同意してくれた。処分を言い渡された寺内君は、首にならなかったことに安堵していたようだったが、その内容を聞いて仰天していた。

こうして寺内君の処分も無事に決まり、明日から始まる清掃研修に向けて、私は彼の作業着を選びに作業着専門店へやってきた。彼の身長と体重は先ほど直接聞きに行って知っている。

「あの、会長、作業着は自分で用意するので大丈夫です」

すっかり大人しくなった寺内君は言っていた。

「とんでもない。私が用意するよ。楽しみにしといてくれよ」

私の笑顔を居ぶかしげに見ながら、寺内君は難しい顔をしていた。明日は早朝の清掃から始める。7時に集合だ。そう伝えてきたが、彼は果たしてやってくるだろうか。もしかすると明日にも辞表を提出するかもしれない。そんな不安も少しだけ抱くと同時に、私はワクワクしていた。

「よし、これでいいかな」

調心の寺内君に似合いそうな黒の作業着を選んだ。掃除を通して寺内君を立派な社会人に鍛え直してやりたい。そんな親心が芽生え、私は今まで以上にやる気に満ち溢れている。

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