朝の8時半、病院に着いたら、職員が全員消えていた。ロッカーは空、机の上には退職届が30通。電話の向こうで副院長が笑いながら言った。「院長ごっこは今日で終わりだ。お前に付いていくやつなんていない」。俺は35歳で父の病院を継いだばかりだった。父は4日前に死んだ。誰もいない待合室で、俺は休診の紙を貼ろうと手を伸ばした。その時、廊下の奥から足音がした。白衣を着た看護師が1人、立っていた。目を赤くして…

朝の8時半、病院に着いたら、職員が全員消えていた。ロッカーは空、机の上には退職届が30通。電話の向こうで副院長が笑いながら言った。「院長ごっこは今日で終わりだ。お前に付いていくやつなんていない」。俺は35歳で父の病院を継いだばかりだった。父は4日前に死んだ。誰もいない待合室で、俺は休診の紙を貼ろうと手を伸ばした。その時、廊下の奥から足音がした。白衣を着た看護師が1人、立っていた。目を赤くして...

電話の向こうの声は笑っていた。俺は誰もいない受付の前に立っていた。朝の8時半。いつもならこの時間、受付には3人が並んで座っている。待合室のテレビがついていて、ナースステーションからは申し送りの声が聞こえてくる。廊下の奥では掃除機の音がしている。だが、その音が何ひとつしなかった。テレビは黒いままだった。待合室の蛍光灯もついていない。長椅子の上には、昨日の夕方に誰かが置いたままにした古い雑誌が1冊あるだけだ。受付の中を覗くと、パソコンの電源は落ちていた。机の上には引き継ぎの書類が重ねて置いてある。メモも電話も何もない。ただ紙が重ねてあるだけだった。ロッカー室の扉は開けっぱなしになっていた。中は空だった。ナースシューズもサンダルも上着も残っていない。そこにあったものが一晩で全部なくなっていた。

俺は携帯電話を耳に当てたまま、その静けさの中に立っていた。

「言っておくが、俺は何も悪いことはしていない。みんな自分で決めたんだ。あんたの下では働けないと、自分で決めた。」

声は落ち着いていた。むしろ機嫌が良さそうだった。俺は何か言おうとしたが、口の中が乾いて声にならなかった。窓の外は晴れていた。駐車場には俺の車が1台だけ止まっている。もうすぐ9時になる。9時になれば、いつも通り患者さんが来る。この町で一番古い病院の玄関に、いつも通り人が来てしまう。俺の父はこの病院を40年守った。その父が4日前に死んで、俺が院長になった。それから最初に迎えた朝がこれだった。この誰もいない朝が、俺の人生で一番大事な1日になるとは、この時の俺はまだ思ってもいなかった。

俺の名前は長瀬裕介。35歳。柏木町という小さな町にある長瀬病院の医者だ。専門は内科で、医者になって9年になる。この病院を建てたのは俺の祖父で、40年前に継いだのが俺の父の長瀬高幸だ。町の人はみんな父のことを「院長先生」と呼んだ。俺のことは「若先生」と呼ぶ人が多い。「先生」というのは、要するに院長先生の息子という意味だ。正直に言うと、俺は自分が優秀な医者だと思ったことが一度もない。診断は慎重すぎると言われるし、判断も早くない。人前で話すのは今でも苦手だ。学生の頃から成績が良かった試しがなく、同期が1回で覚えることを、俺は3回やってようやく覚えた。それでも医者になったのは、父の背中を見て育ったからだ。父は町で一番信頼される医者だった。俺はその父の病院で、父の下で働いていた。そして、父の葬儀を終えた翌朝、この病院から職員がいなくなった。

長瀬病院は柏木町の駅から歩いて10分ほどのところにある。3階建ての古い建物で、外壁のタイルは所々色が抜けている。玄関の自動ドアは開くのが少し遅い。待合室の長椅子は木製で、座るときしむ音がする。祖父がこの病院を建てたのは60年以上前だ。当時この町には医者がおらず、風邪を引いても隣町まで出なければならなかった。祖父はそこに小さな診療所を作り、それを少しずつ大きくして病院にした。40年前に父が継いだ時には48床の入院ベッドがあった。父は内科の医者だった。専門というほど専門があったわけではなく、来た患者は大体全部見た。腹が痛いと言われれば見たし、眠れないと言われれば話を聞いた。町の年寄りは、体のことで困ったらとりあえず長瀬病院に行けばいいと思っていた。実際、父はその通りの医者だった。

俺が子供の頃、父はほとんど家にいなかった。夜中に電話が鳴って、そのまま出ていくことがしょっちゅうあった。母は俺が中学2年の時に病気で亡くなったから、それからは父と2人だった。2人と言っても、顔を合わせるのは朝の10分くらいだ。父は俺に医者になれとは一度も言わなかった。ただ、俺が医学部に受かったと報告した時も「おめでとう」とは言わなかった。

「そうか。」

それだけだった。後で思えば、父はその時台所で洗い物をしていて、手を止めなかった。俺はその背中を見ながら、あの人はこういう人だったと思った。父は俺を一度も褒めなかった。医学部に受かった時も、国家試験に通った時も、病院に戻ってきた時もだ。「やった」とも「助かった」とも言われた記憶がない。俺はそれを当たり前のこととして受け入れていた。父は誰にでも優しかった。俺はその外側にいるものだと思っていた。

医者になって3年目に、俺は父の病院に戻ってきた。大学の医局にいた頃は、正直に言えば自分がそれほど劣っているとは思っていなかった。周りより少し遅いくらいだと思っていた。ところが、父の下で働き始めて、それが間違いだったとすぐに分かった。父の診察は早かった。患者が診察室に入ってきて椅子に座るまでの間に、父はもう何かを掴んでいた。顔色でも歩き方でも、俺には分からないものが父には見えていた。

「診察台を見ないで。あんた、先月から膝の薬を飲んでいないだろう。」

と言い当てることもあった。俺にはそれができなかった。だから俺は、父が一目で分かることを時間をかけて調べた。診察が終わっても、俺はすぐに帰らなかった。その日見た患者のカルテをもう一度最初から読み返して、気になったところを書き出す。分からないことがあれば文献を調べる。検査の数字を並べて去年の数字と比べる。そういうことを毎晩やっていた。大体病院を出るのは10時を過ぎた。近所の弁当屋ももう閉まっているから、コンビニでおにぎりを2つ買って家に帰って食べる。それが何年も続いた習慣だった。患者さんの名前と顔と、どの薬をいつから飲んでいるかは、なるべく覚えるようにしていた。これは父に言われたわけではない。俺の場合、その場でパッと判断できない分、事前に頭に入れておかないと診察が回らなかったからだ。要領の悪い人間の苦し紛れのやり方だった。

家族への説明がうまくできなかった日はもっとひどかった。医者の言葉は難しいと言われるのが怖くて、俺は説明の紙を作るようになった。図を描いて矢印を引いて、「これがこうなってこうなります」と順番に並べる。それを何度も作り直した。夜中の2時まで作り直して、翌朝それを渡したら、患者の娘さんに「先生、こんなに書いてくれたんですか」と言われたこともある。父はそういう俺を見て、こう言った。

「お前は天才じゃない。」

俺は黙っていた。

「だから誰よりも感情を見ろ。才能がないなら、人の倍見ろ。」

厳しい言い方だったが、俺はその言葉を守ったというより、それしかできなかった。父はもう1つよく口にしていた言葉がある。

「医者は偉い仕事じゃない。人の不安の横に座る仕事だ。」

これは俺にではなく、看護師や事務の人にもよく言っていた。父は病院の中で偉そうにしたことがなかった。掃除の人にも頭を下げたし、受付の人が謝りにくれば「いや、説明が足りなかったのはこっちだ」と言った。そういう父だったから、職員はみんな父を慕っていた。逆に言えば、息子である俺のことは、みんな父と比べて見ていた。俺は自分の陰口を聞いたことが何度かある。聞くつもりはなくても、病院というのは声の通る建物だ。廊下の角を曲がった向こうの話が、そのまま聞こえてしまうことがある。

「若先生、また残ってるよ。」

若い看護師の声だった。誰かがそれに答えた。

「あの人、院長の息子だからここにいるだけでしょ。」

笑い声が混じった。悪意のある笑い方ではなかった。それが返って辛かった。もう1人、年上の声が言った。

「悪い人じゃないけどね。ただ、院長みたいにはなれないよ。」

そう言われて言い返せる材料が俺にはなかった。手術の腕があるわけでもない。人前で堂々と話せるわけでもない。ただ夜遅くまでカルテを読んでいるだけの医者だ。それは誰かに褒められるようなことではないし、俺自身褒めて欲しいと思ったこともなかった。

一番はっきり口に出していたのは副院長の黒川先生だった。黒川裕二先生は52歳で、父の代からこの病院にいる外科の医者だ。腕は確かだった。手が早くて判断も早い。急な患者が来ても慌てない。父の次に尊敬していた医者は誰かと言われれば、俺は迷わずこの人の名をあげたと思う。ただ、黒川先生は俺のことを医者として数えていなかった。

「長瀬先生、その説明の紙、患者は読まないぞ。」

外来の廊下ですれ違った時にそう言われたことがある。

「そんなものを作る時間があるなら、症例を1つでも多く見ろ。あんたは丁寧なんじゃない。決められないだけだ。」

その言い方はきつかったが、間違ってはいなかった。俺は決められない医者だった。迷って調べて、それから決める。黒川先生はその逆で、決めてから確かめる人だった。医者としてどちらが優れているかと聞かれたら、俺は黒川先生だと答えたと思う。

そんな中で、1人だけ俺に対して態度が変わらない人がいた。看護師の相澤さんだ。相澤美穂さんは32歳。この病院に来て6年になる。派手な人ではない。飲み会にもあまり来ないし、休憩室で誰かの悪口を言っているところを見たこともない。仕事は静かで正確だった。俺が指示を出すと、相澤さんは必ず一度復唱してから動いた。一度、俺が薬の量を間違えて指示したことがある。相澤さんはそれをそのまま実行しなかった。ナースステーションで俺を呼び止めて、「先生、この量で合っていますか」と聞いた。俺は自分の間違いに気づいて青くなった。

「ごめん。俺の指示が間違ってた。ありがとう。」

相澤さんは首を振っただけで何も言わなかった。他の人なら、後で休憩室でその話をしただろうと思う。相澤さんはしなかった。少なくとも俺の耳に入ってきたことは一度もない。俺はその頃、相澤さんのことを真面目な看護師さんだというくらいにしか思っていなかった。今になって思えば、俺はあの頃自分のことしか見ていなかったのだと思う。父に追いつけない自分と、それを見ている周りのこと。その2つで頭がいっぱいで、静かに仕事をしている人が何を見ているかなんて考えたこともなかった。

そして、もう1つ俺が見ていなかったものがある。3年ほど前から、父は病院を少しずつ小さくしていた。最初は48床あった入院ベッドを32床に減らした。その次の年に20床にした。「夜勤の人数が足りないから」というのが父の説明だった。それから2ヶ月前、最後の入院患者さんが退院したのを見届けて、父は病棟そのものを休止した。休止というのは、入院用のベッドを届け出たまましばらく使わないでおくということだ。廃止ではないから、その気になればまた開けられる。ただ、いつまでも休ませておけるものでもない。書類も届出も全部、父が自分で片付けていた。俺は反対しなかったというより、反対する立場になかった。父は院長で、俺は勤めている医者の1人だ。ただ寂しくは思った。ガランとした2階の病室を通るたびに、父を取られたのだなと思っていた。その頃、父は俺にこんなことを聞いた。

「裕介、お前はこの病院をどうしたい?」

俺は答えられなかった。どうしたいも何も、父がいる病院だ。俺が決めることではない。

「父さんが決めてくれれば、俺はそれに従うよ。」

父はしばらく黙っていた。それから、いつものように短く言った。

「そうか。」

あの時父が何を考えていたのか。俺がそれを知るのは、父が死んでからさらに2ヶ月以上経ったある夜のことだ。

父が死んだのは日曜の朝だった。前の日まで普通に外来をやっていた。金曜の夕方に廊下ですれ違った時、父は俺に「来週の水曜は医師会だから外来を頼む」とだけ言った。それが最後にかわした言葉になった。日曜の朝、俺が起きたら父はまだ寝ていた。父は毎朝5時に起きる人だったから、それだけでおかしいと思った。部屋を覗いて声をかけて、返事がなくて、そこからのことはあまりよく覚えていない。覚えているのは自分の手が震えていたことと、救急車を呼ぶまでにやったことを後で何度も思い返したことだ。死因は急性心筋梗塞だった。眠っている間に起きたのだろうと言われた。苦しんだ形跡はなかったとも言われた。それを聞いて少しだけ楽になった自分のことを、俺は今でもうまく整理できていない。68歳だった。

そこからの3日間は、正直に言って記憶が飛び飛びだ。臨時休診の紙を作って玄関に貼った。葬儀社と話をした。親戚に電話をかけた。父の携帯電話に入っていた番号に順番にかけていったら、知らない人からも「あんたが息子さんかね」と言われた。父が見ていた患者さんだった。葬儀には200人以上来た。駐車場が足りなくなって、近くの空地を借りた。杖をついた年寄りが列を作っていた。車椅子で来た人もいた。俺の知らない人ばかりだった。みんな順番に俺のところに来て「院長先生には世話になった」と言い、それから俺の手を握って帰って行った。手を握られるたびに、俺は父の40年の重さを触っているような気がした。

葬儀の最後の方で、俺は受付の脇に立っている相澤さんを見た。制服ではなく黒い服だった。弔問客の列をさばいて、年寄りに椅子を出して、それから会場の一番後ろで手を合わせていた。誰かに頼まれてやっていたわけではないと思う。目があったので俺が頭を下げると、相澤さんも黙って頭を下げ返した。それだけだった。

特別養子縁組の話は、次の日だった。葬儀の挨拶で俺は何を言ったのかよく覚えていない。用意した紙を読んだはずだが、途中で読めなくなった。後から相澤さんに聞いたら、「あそこで先生が黙ったのが良かったですよ」と言われた。

葬儀から戻って家に着いたのが夕方だった。仏壇の前に座って、そこで初めて俺は声を出して泣いた。泣きながら思っていたのは、悲しいということより、これからどうするんだということだった。病院はまだそこにある。患者さんはまだそこにいる。休診の紙をいつまでも張っておくわけにはいかない。長瀬病院は医療法人になっている。医療法人社団長瀬会という名前で、父が理事長を務めていた。理事長が亡くなれば、後任を決めなければならない。その手続きは驚くほどすんなり進んだ。医療法人の臨時の総会で俺が理事に選ばれ、続けて開いた理事会で理事長になった。集まったのは父の親戚と顧問の税理士だけで、反対する人はいなかった。父は生前に書類を整えていた。定款も理事の名簿も、後任についての意思を書いたものも全部揃っていた。日付を見たら、一番新しいものは1年半前のものだった。村井さんがそれを俺の前に並べた。村井克さんは事務で60歳。父の代からこの病院の事務を仕切ってきた人だ。眼鏡をかけた小柄な人で、いつも丁寧な言葉遣いをする。

「院長先生は、こういうことをきちんとされる方でしたので。」

「父は何か言っていましたか?」

「いえ、私は指示された通りに整えただけです。」

村井さんはそう言って、少しだけ目を伏せた。俺はその時、その仕草の意味に気づかなかった。ただ1つだけ引っかかったことがある。書類の束の中に職員名簿の写しが挟まっていた。名前の横に父の字で小さな印がついているものと、ついていないものがあった。俺は何かの手違いだろうと思って、そのまま束に戻した。

「先生、1つだけよろしいですか?」

「はい。」

「これから色々なことが起こると思います。その時に慌てて決めないでください。院長先生はいつもそうされていましたから。」

妙な言い方だと思った。「何が起こるんですか」と聞けばよかった。俺は聞かなかった。父が死んだ直後で頭が回っていなかった。こうして俺は35歳で長瀬病院の院長になった。医者として9年目。この病院に戻って7年目の春だった。継ぐと決めた実感はなかった。ただ、他に誰もいなかった。

職員に挨拶をしたのは、葬儀を終えた日の午後だ。1階の会議室に30人ほどが集まった。言葉は用意していなかった。用意すると、読んでしまうと思ったからだ。結果として、俺はひどい挨拶をした。

「父のようにはできません。それは分かっています。」

そこまで行って、次が出てこなかった。全員が俺を見ていた。

「でも、この病院をなくすつもりはありません。これまで通り、皆さんに助けてもらいたいです。よろしくお願いします。」

頭を下げた。拍手はなかった。誰かが小さく「はい」と言った声だけが聞こえた。顔をあげた時、俺は会議室の空気に気づくべきだった。みんな下を向いていた。目を合わせないというより、目を合わせたくないという感じだった。前の列に座っていたベテランの看護師長が腕を組んだまま天井を見ていた。検査室の技師さんが2人、小声で何か話していた。不安なのだろうと俺は思った。それはそうだ。40年ここを守ってきた人がいなくなって、代わりに立ったのが夜遅くまでカルテを読んでいるだけの息子なのだ。不安に決まっている。だから俺は、これから信用してもらうしかないと思った。時間はかかるだろうけれど、毎日ちゃんとやっていればいつか分かってもらえると思った。そんな時間はもう1日も残っていなかった。

会議室を出る時、俺の横に黒川先生が立った。

「長瀬先生、ちょっといいか?」

廊下の突き当たりまで歩いて、そこで黒川先生は足を止めた。窓から見える駐車場には、まだ弔問客の車が何台か残っていた。

「はっきり言う。あんたに院長は無理だ。」

俺は何も言えなかった。

「勘違いするなよ。嫌味じゃない。この病院はな、院長がいたから成り立ってたんだ。あの人の名前で患者が来て、あの人の判断で現場が回ってた。それが全部なくなった。分かるか?」

「分かります。」

「分かってない。分かってたら、さっきの挨拶で『助けてください』なんて言わない。助けるのは俺たちの仕事じゃない。院長ってのは、助けてもらう役じゃないんだ。」

その通りだと思った。だから俺は言い返せなかった。黒川先生は俺の顔をしばらく見ていた。目つきに哀れみのようなものが混じっていた。それから、少しだけ声を落とした。

「悪いことは言わない。あんたは医者を続けろ。経営は誰かに任せろ。それができないなら、この病院は持たない。」

そう言って黒川先生は歩いていった。俺はその場に立ったまま駐車場を見ていた。今になって思えば、あの時すでに全部は決まっていた。黒川先生はもう動いていた。俺の知らないところで話は進んでいて、俺はその中で何も知らずに頭を下げていた。それでも、あの3日間、俺には何かがおかしいと気づく機会が全くなかったわけではない。葬儀から帰った日の夜、俺は病院によって休憩室の前を通った。奥の休憩室に明かりがついていて、人が何人かいた。俺が近づくと、話し声がぴたりと止まった。俺が扉を開けると、5人ほどが座っていた。誰も俺の顔を見なかった。

「まだ残ってたんですか?」

看護師の1人が「片付けをしていました」と答えた。それだけだった。俺は「お疲れ様」と言って扉を閉めた。廊下を歩きながら、俺は妙な気分になった。ただ、その時の俺は、父が死んだばかりでみんな話しにくいのだろうと思った。そう思うことにしたという方が正確かもしれない。

葬儀を終えた翌朝、俺はいつもより30分早く病院に着いた。臨時休診の紙を剥がして、「今日から通常通り診療します」という紙を貼るつもりだった。玄関の前で車を降りた時、駐車場に俺の車しかないことに気づいた。職員用の駐車場は病院の裏にある。いつもなら7時半には何台も並んでいる。この日は1台もなかった。俺は玄関の鍵を開けて中に入った。受付の中は暗かった。椅子が3脚とも机の下にきちんと入っていた。人がいなくなった机ではなく、片付けて出ていった机だった。ナースステーションへ行った。誰もいなかった。申し送りの用紙も、勤務表のホワイトボードも、綺麗に消してあった。ワゴンの上のものは片付けられていて、机の引き出しは空になっていた。よく見ると、いつも壁に貼ってあった職員の集合写真も剥がされていた。画鋲の穴だけが4つ残っていた。検査室も同じだった。診察室も同じだった。2階へも上がってみた。休止したままの病棟は元々人がいない。それでも念のため、ナースコールの表示のランプを確かめた。全部消えていた。ロッカー室の扉が全部開いていることに気づいたのはその後だ。中はどこも空だった。俺はその真ん中に立って、しばらく動けなかった。夢を見ているのだと思おうとした。だが、病院の匂いは普段通りだった。消毒液と床のワックスと、少し古い建物の匂いだ。夢の中に匂いはない。

携帯電話が鳴ったのはその時だった。黒川先生からのあの電話だ。

「院長ごっこは今日で終わりだ。」

黒川先生はもう一度言った。「みんな自分で決めたことだ」とも繰り返した。声は落ち着いていて、機嫌が良さそうですらあった。俺はようやくそれだけを聞き返した。

「何があったんですか?」

「何もあってない。ただ、みんな次の職場を決めただけだ。東成りメディカルガーデン。知ってるだろう? この春に開いた180床の新しい病院だ。設備も新しいし、給料も上がる。当たり前の選択をしただけだよ。」

俺は受付のカウンターに手をついた。手のひらが冷たかった。

「退職の話は聞いていません。」

「聞いてないだろうな。届けは、今月の頭からこっち、3日で全部揃ってる。事務が預かってるはずだ。退職日は1ヶ月先だよ。ただ、みんな有給が山ほど残ってた。明日からまとめてその消化に入るだけだ。1ヶ月分の給料も社会保険料も、その間はそっちから出ていく。法律のどこにも違反していない。」

その言い方の落ち着き方が一番怖かった。この人は今日この電話をかけると、ずっと前から決めていたのだ。

「長瀬先生、あんた散々頭を下げてきたよな。看護師にも事務にも、掃除の人にまで。あれで人望が集まると思ってたんだろう。」

俺は何も言わなかった。

「集まらないんだよ。頭を下げる人間には誰もついていかない。ついていくのは、決められる人間にだけだ。」

そこで一度、黒川先生は息を吐いた。

「お前に、ついていくやつなんていない。」

その一言だけ、「あんた」ではなく「お前」だった。

「これは親切で言ってやってるんだ。玄関に休診の紙を貼り直せ。その後、廃院の手続きをすればいい。患者は全部うちで引き受ける。院長にも、その方が顔向けできるだろう。」

電話は切れた。俺は携帯電話を耳から離して、そのまましばらく持っていた。壁の時計を見た。あと20分で9時になる。俺は受付のカウンターにある紙の束を開いた。表紙には何も書かれていなかった。ただの紙の束だ。引き継ぎの書類だった。誰がどの仕事をしていて、鍵はどこにあって、業者の連絡先はどこか、びっしり書いてある。丁寧な字だった。恨みのようなものはどこにも書かれていなかった。それが却って、この人たちは本気で出ていったのだと分かる書き方だった。一番下に退職届の束があった。数えたら30通あった。看護師の分も事務の分も検査技師の分も薬剤師の分も受付の分も、全部揃っていた。名前だけは、俺の知っている名前だった。

村井さんの携帯にかけた。呼び出し音が10回あって、留守番電話に切り替わった。何かを吹き込もうとしたが、言葉が出てこなかったので切った。看護師長にもかけた。出なかった。検査技師の主任にもかけた。出なかった。若い看護師の番号にかけた時だけ、一度だけコール音が切れて、それからまた鳴り続けた。誰かが画面を見て迷って、そのまま置いたのだと思った。俺は電話をやめた。机の上に1枚だけメモが残っていた。看護師長の字だった。走り書きでこう書いてある。

「点滴の在庫は倉庫の右の棚です。滅菌の日付は今日です。すみません。」

謝ってあった。その一言を見て、俺は少しだけ息がしやすくなった。恨まれて出て行かれたのではないのだと分かったからだ。ただ、みんな怖かったのだ。俺と同じように、賭ける気にはならなかった。それが不思議だった。腹が立つより先に、みんなずっと不安だったのだろうという気持ちの方が来た。40年ここを守ってきた人がいなくなって、代わりに立ったのが俺なのだ。給料も家族も、これからの何年も、その俺に預けろという方が無理な話だった。黒川先生の言ったことは正しかった。俺には誰かの人生を預かる顔がない。

医局に戻る途中、父の白衣が目に入った。処置室の入り口のハンガーに、まだかかったままだった。誰も片付けなかったのだろう。胸のポケットにボールペンが2本入っていて、袖口が少しすり切れていた。俺はそれに触らなかった。触ったら、多分立っていられなくなると思った。そこで俺は床にしゃがみ込んだ。やることは分かっていた。今日は休診にする。玄関に紙を貼って、電話を留守番に切り替えて、それから保健所と医師会に連絡する。救急隊にも、しばらく受け入れができないと伝えなければならない。診察も採血も血圧も、やろうと思えば俺1人でできる。だが、できるのはそこまでだ。受付で保険証を確かめる人がいない。会計をする人がいない。器具を洗って滅菌する人がいない。次の人を呼ぶ人もいない。診察室から先も手前も、1つも続かない。1人ではどうにもならなかった。

床に膝をついたまま、俺は父の顔を思い浮かべた。父ならどうしただろうとは思わなかった。父なら、こんなことにはならなかった。それだけが分かっていた。俺が守りたかったのは、40年分の何かだったはずだ。それを俺は、継いだ翌日に終わらせようとしていた。立ち上がって玄関の方へ歩いた。休診の紙はまだ剥がしたばかりの状態で、受付の脇に置いてある。それを、もう一度貼るために俺は手を伸ばした。

その時、廊下の奥から足音がした。足音はゆっくりだった。俺は振り返った。廊下の奥、ナースステーションの手前に、白衣を着た人が立っていた。相澤さんだった。髪をいつも通りに結んで、名札をつけて、両手を前で組んでいた。名札の下には、去年の夏に小児科に来ていた男の子が貼った星のシールが、まだそのままになっていた。俺はしばらく声が出なかった。

「相澤さん、どうして?」

相澤さんは何も言わなかった。ただ、目が赤かった。泣いた後の目ではなく、これから泣きそうな目だった。それから、はっきりと言った。

「私は残ります。」

俺は言葉を失った。自分でも情けないが、その時最初に頭に浮かんだのは「ありがとう」でも「助かる」でもなかった。「なぜだ」という言葉だった。

「事情は聞いていますか?」

「聞いてます。副院長先生から直接お話をいただきました。」

「聞いたんですか? いつ?」

「葬儀の日です。駐車場で呼び止められました。みんなの前で。」

「みんなの前で?」

「いえ、1人ずつ呼ばれていました。順番に、少し離れたところで話をされていました。私は最後の方だったと思います。」

その光景が目に浮かんで、俺は少しの間何も言えなかった。あの夜、俺は葬儀場の中で頭を下げ続けていた。外では、その話が進んでいた。

「じゃあ、条件も?」

「はい。給料も勤務も、今よりいいと言われました。」

「相澤さん、なんで教えてくれなかったんですか?」

相澤さんは一度手元に目を落とした。

「言えば、先生は頭を下げて回ったと思います。喪服のまま、1人ずつ。そうやって残ってもらった人と一緒にいる方が、先生はきっと苦しくなります。だから言いませんでした。すみません。私が勝手に決めたことです。」

「なら、行った方がいい。」

自分でそう言って、俺は自分の声に驚いた。だが、本気だった。ここに残ったところで何もない。給料が払える保証もない。この人には、この人の生活がある。

「相澤さん、この病院は多分もう持たない。医者が1人で、看護師が1人で、何ができますか? 無理ですよ。」

相澤さんは俺の目をまっすぐ見ていた。

「先生、私が残るのは、先生が院長先生の息子だからじゃありません。」

その言い方に、俺は口を閉じた。

「みんな、先生のことを頼りないと言います。決められない人だと言います。院長先生と比べて、器じゃないと言います。はい。でも、私は見ていました。」

相澤さんの声が少しだけ震えた。

「先生が毎日どれだけ必死だったか、知っています。」

その後、相澤さんが話したことを、俺は今でも順番通りに覚えている。夜勤明けの朝、電気がついていて覗くと、俺がカルテを開いたまま眠っていたこと。仮眠室が開いているのに、一度も使わなかったこと。患者さんの家族に「なぜ気づかなかったのか」と怒られ、俺が廊下の端まで歩いていって、そこで壁の方を向いて何度か深呼吸をして、それからもう一度その部屋に戻って行ったこと。相澤さんはそれを曲がり角から見ていたのだそうだ。点滴の速度を間違えた若い看護師が泣いていた時、俺が彼女ではなく先に病室へ行って、患者さんとその家族に頭を下げたこと。戻ってきて「俺の指示の書き方が分かりにくかった。ごめん」と言ったこと。外来の合間に、俺が薬の名前を紙に書いて覚えていたこと。年配の患者さんが自分の薬を説明できないから、こちらが覚えていないと話が始まらないと言っていたこと。

「先生は、患者さんの名前を誰よりも覚えていました。それは、覚えないと俺には診察ができないからで、理由なんて患者さんには関係ありません。」

そう言われて、俺は黙った。

「うちの外来に、耳の遠いおじいさんが来ますよね。先生は、あの人と話す時、必ず椅子を1つ横にずらします。マスクを少し下げて、口が見えるようにしてから話します。あれ、気づいていますか? あの人、先生の外来の日を選んで来てるんですよ。」

知らなかった。俺は本当に知らなかった。

「私は、先生が院長先生みたいになれないと悩んでいるのを、ずっと見ていました。それでも、逃げませんでしたよね。1回も。」

相澤さんはそこで少し言葉を探した。

「去年の冬に肺炎で入院していたおじいさんがいましたよね。夜中に何度もナースコールを押す人で、みんな困っていた人です。滝沢さんですね。先生、あの人の部屋に夜中に行ってましたよね。あれは、呼吸の状態が気になったので?」

俺は答えられなかった。

「私、夜勤の時何度も見ました。先生は病室の椅子に座って、あの人が寝るまで何も言わずにいました。それだけです。処置も注射も何もしていません。あの人、退院の日に私に言ったんです。『夜が怖かったけど、先生が座ってるから眠れた』って。」

俺はその話を全く覚えていなかった。いや、正確には言ったことは覚えている。ただ、それが誰かの記憶に残っているとは思っていなかった。

窓から入る光が廊下の床にまっすぐ伸びていた。誰もいない病院は、こんなに明るいのかと思った。

「天才じゃなくてもいいと思います。私は、患者さんを諦めない先生を信じたいです。」

そこで相澤さんの目から涙がこぼれた。慌てて手の甲で拭って、それからもう一度言った。

「先生、私を使ってください。」

俺は動けなかった。35年生きてきて、あんな風に人から言われたのは初めてだった。声が出なかったし、顔もあげられなかった。俺の努力は誰にも見られていないものだと思っていた。褒められるようなことではないし、褒めて欲しいとも思っていなかった。父にすら一度も褒められたことがないのだから、それが当たり前だと思っていた。見ていた人がいた。しかも、その人はこの病院で誰よりも静かに働いていた人だった。俺が「真面目な看護師さんだ」というくらいにしか思っていなかった人だった。視界が歪んだ。俺は下を向いて、それを見られないようにした。相澤さんは何も言わずに待っていた。しばらくして、俺は顔をあげた。

「相澤さん、給料はいつまで払えるか分かりません。」

「はい。」

「明日も分からない。来月も分からない。それでもいいですか?」

「はい。」

「情けない院長ですみません。」

「情けなくないです。」

即答だった。俺は玄関の方を見た。休診の紙はまだ受付の脇に置いてある。壁の時計は9時5分前を差していた。

「相澤さん、今日開けられると思いますか?」

相澤さんは少し考えた。それから、いつも指示を復唱する時と同じ顔で言った。

「できる範囲だけなら、開けられます。」

「入院は2ヶ月前に病棟を休止してから受けていませんから、そこは今まで通りです。手術は無理です。救急も断らないといけません。でも、いつも薬をもらいに来る人と、血圧を測りに来る人と、紹介が必要な人だけなら、2人でもできます。今日来る患者さんに、この病院がなくなったと思わせたくありません。」

俺は深く息を吸った。そして、俺は決めた。

「開けましょう。」

言ってしまってから心臓が鳴った。だが、不思議と後悔はなかった。俺たちはすぐに動いた。相澤さんが受付の電源を入れて、電話を留守番から通常に戻した。俺は玄関に貼る紙を書き直した。臨時休診の紙を捨てた。代わりにこう書いた。

「本日診療しています。ただし、都合により診察できる内容が限られています。手術と救急の受け入れはできません。お薬のご相談、血圧の測定、紹介状の作成などはできます。ご迷惑をおかけします。長瀬病院。」

書いてみると、できないことの方が長かった。

「先生、これ貼りましょう。」

「情けない紙ですね。」

「正直な紙です。」

相澤さんはそう言って、それを玄関の自動ドアの内側に貼った。少しだけ曲がっていたので、取り直した。

薬のことも決めなければならなかった。この病院は院内で薬を出していたが、薬剤師は残っていない。いなければ、院内で調剤して渡すことはできない。俺は駅前の薬局に電話をかけて、「今日から処方箋を出させてもらいます」と頭を下げた。薬局の主人は「事情はもう街中で聞いていますよ」と言った。噂の速さに驚いたが、断られなかったことの方が大きかった。電話を切ってから、俺は薬の棚に鍵をかけて回った。向精神薬の帳簿だけは、その日のうちに数を合わせた。合っていた。最後に数えたのが誰かは、書いてある字で分かった。

それから救急隊に連絡した。しばらく受け入れができない旨を伝えた。それから、救急の看板を下ろす手続きもこちらから県に出します、と言い添えた。この町で救急車が運び込める場所が1つ減るということだった。電話の向こうの隊員は、事務的に「了解しました」とだけ言った。父の代からこの病院は救急を受けていたから、その1本の電話が一番応えた。

保健所と医師会にも続けて電話をかけた。職員がいなくなったこと。外来だけを2人で開けていること。休止したままの病棟には手をつけていないこと。どちらの担当者も状況を書き取りながら、こちらの話を最後まで聞いた。責める調子ではなかった。ただ、保健所の担当者は最後にこう言った。

「先生、病床が20床残っている以上、そこは書類の上ではまだ病院です。医師も看護師も薬剤師も、病院として置かなければいけない数を満たしていません。外来を開けるということ自体は止めはしませんが、病床をどうするかは早く決めてください。近いうちに一度伺うことになると思います。」

時計は9時を回っていた。待合室には誰もいなかった。午前中、患者さんは1人も来なかった。俺は診察室に座っていた。相澤さんは受付に座っていた。玄関の自動ドアは開くのが少し遅い。その音がしないということは、誰も入ってこないということだ。10時になった。11時になった。俺は待合室に出てテレビをつけた。誰も見ていないテレビの音が、却って静けさを大きくした。すぐに消した。

「相澤さん。」

「はい。」

「みんな、もう知ってるんでしょうね。」

「知っていると思います。」

町は小さい。病院の職員が30人まとめていなくなれば、その日のうちに全部の家に伝わる。しかも、多分こう伝わる。「長瀬病院はもう終わりらしい。息子が継いだけど、無理だったらしい。」

午前中に電話は3回なった。1回目は業者だった。定期の納品をどうしますかという話で、「しばらく止めてください」と答えた。2回目は間違い電話だった。3回目は知らない人の声で、「そちらの病院、まだやっているんですか」と聞かれた。「やっています」と答えたら、「そうですか」と言って切れた。その3回目の電話の後、俺は受話器を戻してからしばらく動かなかった。「やっています」と答えるのに、あんなに勇気がいるとは思わなかった。

昼になって、俺は近くのコンビニでおにぎりを4つ買ってきた。2つを相澤さんに渡した。受付の中で2人で食べた。

「先生、いつもこれですか?」

「そうですね。ここ何年か、大体これです。」

「体に悪いです。」

「はい。」

相澤さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、次の日からなぜか味噌汁の入った水筒が受付の机の上に置かれるようになった。俺が礼を言うと、相澤さんは「自分のついでです」と答えた。だが、水筒は明らかに2人分の大きさだった。しかも、中身は毎日違った。豆腐とわかめの日もあれば、大根と油揚げの日もある。「ついで」にしては手が込んでいた。俺はそれ以上聞かないことにした。聞いたら、次の日から来なくなりそうな気がしたからだ。

午後になっても、誰も来なかった。俺は診察室を出て事務室に入った。そこで初めて、自分が何も分かっていないことを思い知った。机の上には処理の書類が積んであった。業者への支払い、保険の届出、町からの健診の依頼、職員の社会保険の手続き、そして「レセプト」という言葉が表紙に書かれた分厚いファイル。レセプトというのは、この患者にこういう診察をしました、と国と保険にまとめて出す請求書のことだ。俺は医者だからカルテは書ける。だが、そのカルテが1ヶ月分まとめられ、翌月の10日までに請求され、診療した月の2ヶ月後にようやくお金になる。俺が知っていたのは、その仕組みの名前だけだった。村井さんが40年やっていた仕事だ。パソコンの前に座って、レセプトのソフトを開いた。画面の意味が半分も分からなかった。俺は自分の手のひらを見た。この手は患者さんの腹を触ることはできる。心電図を読むこともできる。だが、この病院を1ヶ月生かすことはできない。

その時、玄関の自動ドアが開く音がした。俺は椅子から立ち上がって廊下を走った。走ったつもりはなかったが、走っていた。待合室に立っていたのは、佐々木源造さんだった。佐々木さんは74歳で、元は建具屋をやっていた人だ。父の代から30年以上ここに通っている。血圧の薬と膝の湿布をもらいに、月に1度来る。俺が小学生の頃、この人が病院の玄関の建具を直しているのを見た覚えがある。

「なんだ、若先生。走ってきたのか。」

「すみません。誰か来たと思って。」

「誰か、わしだよ。」

佐々木さんは待合室を見回した。それから受付を見た。受付には相澤さんが1人で座っている。

「これは、随分静かだな。」

俺は正直に話した。隠しても仕方がなかった。職員がみんなやめたこと。今いるのが医者1人と看護師1人だということ。入院も手術も救急も受けられないこと。血圧の薬なら出せるが、薬は駅前の薬局でもらってもらうことになること。佐々木さんは黙って聞いていた。話が終わっても、しばらく何も言わなかった。それから、こう言った。

「そうか。で、今日はやってるんだな。」

「やっています。」

「じゃあ、見てくれ。」

診察室に入って血圧を測った。相澤さんが佐々木さんの袖をまくって、腕にカフを巻いた。上が148、下が84。いつもより少し高い。俺はそう伝えて、薬はこれまで通りで行きましょうと言った。膝の話も聞いた。冬より春の方が辛いという話を10分ほど聞いた。聞きながら、俺は父のことを思った。父はこういう時間を40年続けてきたのだ。

会計の時、佐々木さんは財布から小銭を出した。相澤さんが電卓を叩いて金額を伝えた。ワンコインに少し足りないくらいだった。佐々木さんはそれを払ってから、こちらを向いた。

「若先生。」

「はい。」

「閉めないでくれて、ありがとうな。」

俺は返事ができなかった。

「わしは、あんたの親父さんに30年世話になった。人生の後半、全部この病院で見てもらった。だからな、ここが閉まると、わしどこにも行くとこがないんだ。東成りの新しい病院は立派だそうだ。うちの息子も、そっちに移れっていう。でもな、あそこはわしのことを知らんだろ。膝が春に辛いことも、尿糖が糖尿だってことも、うちが屋根を直したばかりで金がないってことも、誰も知らんだろ。知ってる人がいる場所ってのは、そう簡単には変えられんのだよ。」

俺は「はい」としか言えなかった。佐々木さんは玄関まで歩いて、そこで、もう一度振り返った。

「若先生、わし、明日また来るわ。」

「明日は、特に予定はないですよ。」

「予定なんかなくても来るんだよ。待合室に誰もいないと、外から見てやってないと思われるだろうが。」

そう言って佐々木さんは帰って行った。自動ドアが閉まってから、俺は受付の方を見た。相澤さんが下を向いて、目の縁を指で抑えていた。目が合うと「すみません」と言って、すぐに立ち上がった。

その日の患者さんは、1人だけだった。

夜、俺は事務室に残った。相澤さんも帰らなかった。

「相澤さん、帰っていいですよ。」

「先生が帰ったら、帰ります。」

「多分、今日は帰りません。」

「じゃあ、私も帰りません。」

そういうやり取りを1分ほどして、結局2人で書類の山を分けた。俺は父の机の引き出しを開けて、届出の控えを探した。相澤さんはレセプトのソフトの説明書を最初のページから読み始めた。途中で、相澤さんが顔をあげた。

「先生、これ、締め切りが来月の10日です。」

「はい。」

「間に合わなかったら、どうなりますか?」

「次の月に回ります。つまり、入ってくるお金が1ヶ月まるまる遅れます。」

言ってから、その意味を自分でもう一度考えた。入ってくる金が1ヶ月遅れるところ、出ていく金は1日も遅れてくれない。やめると届けを出した30人は、まだ有給を消化している途中だ。消化し終わるまでは席がある。つまり、この先1ヶ月を待たずに、2回目の給料日に働いていない30人分の給料と社会保険料が、そのまま出ていく。その上、借入金の返済がある。父が病棟を縮めた時に借り直したもので、返し終わるまであと6年ある。止まったら終わる。相澤さんは説明書に戻った。ページをめくる音が、静かな事務室にずっと続いていた。窓の外はもう真っ暗だった。1階の事務室だけに明かりがついている病院を、外から見たらどう見えるのだろうと思った。多分、まだ生きているように見える。俺はそう思うことにした。

次の日、佐々木さんは本当に来た。診察の予定はない。血圧は昨日測った。それでも来て、待合室の長椅子に座って、持ってきた新聞を広げた。俺が声をかけると、佐々木さんは新聞から目を上げずに言った。

「気にせんでいい。座ってるだけだ。」

昼前に、近所の奥さんが1人入ってきた。玄関で少し立ち止まって中を覗いて、それから待合室に佐々木さんがいるのを見て、「ああ、やっぱりやってるんですね」と言った。その人は薬をもらいに来たのだった。血圧とコレステロールの薬だ。相澤さんが処方箋の説明をして、駅前の薬局の場所を書いた紙を渡した。会計が終わって帰ると、その人が受付で足を止めた。

「先生、あの、大変ですね。」

「はい。ご迷惑をおかけします。」

その人は、思い出したように付け足した。

「うち、隣の理容店なんですけど、あそこにも行っときますね。『長瀬さんやってるよ』って。」

そういう伝わり方が、この町にはある。その次の日には患者さんが4人来た。さらに翌日は7人だった。1週間経つ頃には、午前中に10人を超えるようになった。待合室の長椅子に3人並んで座っているのを見た時、俺は診察室のドアの影で一度立ち止まった。人が座っているというだけのことが、あんなにありがたいものだとは思わなかった。

来る人は、大体父の代からの患者さんだった。「先生がいるなら安心だ」「薬だけでも相談したくてね」と言って入ってくる。何人かは、こんなことを言った。

「お父さんには世話になったけど、あんたのことも、子供の時から見てるよ。」

その言葉に、俺は何度も救われた。

最も来る人ばかりではなかった。はっきり「東の方に移ります」と言いに来た人もいた。年配のご夫婦で、旦那さんが心臓の手術をしたばかりの人だった。旦那さんの方が先に口を開いた。

「悪いけどね、先生。うちは、何かあった時が怖いから。」

「分かります。それがいいと思います。」

俺は本気でそう言った。この病院では今、急なことに対応できない。それは事実だ。紹介状を書いた。これまでの経緯と飲んでいる薬と、昨年の入院の時の数字を全部まとめた。2枚になった。書き終わるまでに40分かかった。渡す時、奥さんが紙を見て、少し驚いた顔をした。

「こんなに書いてくださるんですか?」

「次の先生が困らない方がいいので。」

奥さんは紹介状を封筒に入れて、それから顔をあげた。

「先生、落ち着いたら、また来ますね。」

その言葉が本当かどうかは分からない。それでも、俺はその紹介状を丁寧に書いて良かったと思った。父なら、同じことをしたはずだ。

日々は朝から晩まで動きっぱなしだった。俺は診察をして、レントゲンを撮って、心電図を取って、紹介状を書いた。相澤さんは受付と採血と血圧と電話と会計と掃除をした。2人とも、以前の仕事の3倍のことをしていた。昼の休憩は大抵20分もなかった。相澤さんは午前の外来が終わると、そのまま器具の洗浄と滅菌に入る。俺はその間に紹介状を書く。どちらかが手を止めたら、その日の予定が終わらない。一度だけ、相澤さんが立ったまま眠りかけたことがある。オートクレーブの前で、目を開けたまま動かなくなっていた。俺が名前を呼ぶと「はい」と返事をして、それから自分でも驚いた顔をした。

「相澤さん、明日、午前だけにしましょう。」

「大丈夫です。」

「大丈夫じゃないです。院長命令です。」

「院長命令、って初めて聞きました。」

「俺も初めて言いました。」

結局、その週の後半、外来は午前だけにした。少し楽になった。夕方に外来を閉めてから、事務仕事が始まる。一番重かったのは、やはりレセプトだった。1ヶ月分のカルテを見ながら、「この検査は何点? この処置は何点、この薬は何点」と入力していく。病名の書き方1つで通ったり戻されたりする。俺はそれを、この年になって初めてまともに勉強した。分からないところは県の国保連合会に電話をかけて聞いた。相手の担当者は初めは不審そうだったが、事情を話したら丁寧に手順を教えてくれた。最後に「大変ですね」と言われた。

一番助かったのは、駅前の薬局の主人だった。薬局の中原さんという人で、この道30年になる。処方箋の書き方でおかしいところがあると、その日のうちに電話をくれた。

「先生、この薬とこの薬、一緒だと効き目が悪いですよ。」

「すみません。すぐ直します。」

「いえいえ、お互い様です。前の院長先生にも、うちは散々助けてもらいましたから。」

こうやって、いろんな人が少しずつ助けてくれた。俺が父の代わりになったのではない。父が40年かけて作ったものが、まだ町のあちこちに残っていて、それが俺を支えていた。

夜は事務室で相澤さんと2人になった。弁当を買ってきて食べながら、次の日の準備をする。話をすることも増えた。相澤さんはこの町の生まれではないと言った。隣の市で育って、看護学校を出てから、市内の大きな病院で4年働いたそうだ。

「なんで、うちに来たんですか?」

相澤さんは箸を持ったまま、少し黙った。

「前の病院は、忙しすぎました。」

「まあ、そうでしょうね。」

「忙しいのは平気なんです。ただ、患者さんの顔を覚える前に退院していくのが、私は辛くて。」

「なるほど。」

「それだけです。」

そう言って、相澤さんは話を切り上げた。その時は、それだけの話だと思っていた。

10日の締め切りに、レセプトは間に合った。送信ボタンを押したのは、夜の11時過ぎだった。押した瞬間、相澤さんが小さく手を叩いた。俺も叩いた。事務室で大人が2人、パソコンの前で拍手をしていた。

「相澤さん。」

「はい。」

「これ、来月もやるんですよね。」

「毎月です。ずっと。」

「そうか。ずっとか。」

2人で笑った。父が死んでから、俺が笑ったのはその時が最初だった。

黒川先生の噂が耳に入るようになったのは、その頃だ。東成りメディカルガーデンは、確かに立派な病院らしかった。180床で、部屋も新しく、機械も揃っている。うちを辞めた看護師たちは、そこの病棟に配属されたという。ただ、噂の中身はあまり明るいものではなかった。外来の待ち時間が長い。医者が話を聞いてくれない。3分で終わる。名前ではなく番号で呼ばれる。町の人がそう言っているのを、俺は待合室で何度か聞いた。聞くたびに複雑な気持ちになった。うちに来なくなった患者さんが、そこで我慢しているのかもしれない。そう思うと、あまりいい気分ではなかった。それでも、俺にできることは目の前の人を見ることしかなかった。

そして、その頃から町の方で、少しずつ別のことが動き始めていた。

町役場の健康推進課から電話が来たのは、父が死んで1ヶ月ほど経った頃だった。毎年この時期に、町の住民健診が始まる。40歳から74歳までが特定健診。75歳以上は後期高齢者の健診という名前になるが、町からすればどちらも同じ1つの健診だ。血圧と採血と簡単な問診をする。柏木町では、これまでその大半を長瀬病院が引き受けてきた。電話をかけてきた担当の女性は、言いにくそうだった。

「あの、今年はその、ご事情が事情ですので、無理でしたら他を当たりますが。」

俺は「少し待ってください」と言って、一旦電話を切った。事務室に行って、相澤さんに話した。

「町の健診です。去年は、うちで300人くらいやってます。」

「今年は、何人来ますか?」

「分かりません。半分になるかもしれないし、それ以上かもしれない。」

「2人でやれる人数ではないですね。」

「はい。」

しばらく黙った。こういう時、父ならどうしただろう。俺はそれを考えた。考えて、多分父は受けただろうと思った。理由は簡単だ。断ったら、町の年寄りが健診に行かなくなるからだ。東の新しい病院までバスで行って、順番を待って、番号で呼ばれて健診を受ける気になる人が、この町にどれだけいるだろう。俺は電話をかけ直した。

「お引き受けします。ただし、条件があります。」

担当の女性が少し身構えたのが分かった。

「1日にできる人数を宣言させてください。予約制にします。それと、うちでできない検査は、はっきりできないと言います。それでよければ。」

電話の向こうで、相手が息を飲んだ。

「できますか? 本当に?」

「できる範囲だけなら、できます。」

その言い方が自分の口から出た時、俺は少し驚いた。相澤さんの言葉だった。

健診が始まるまでの2週間、俺たちはひたすら準備をした。問診表を印刷して封筒に詰めた。1日20人までの予約枠を作って、期間中は土曜も午前の外来の後に枠を開けることにした。電話の受付表も作った。採血の器具を数えて、足りない分を注文した。検体を運ぶ業者に電話をかけて、これまで通り週2回に来てもらえるかを頼んだ。その間も外来は毎日ある。相澤さんは家に帰るのが遅くなった日は、病院の仮眠室を使うようになった。俺が使わないから開いている、という理由だった。

「相澤さん、倒れられたら、俺は本当に終わりですからね。」

「先生こそ。」

「俺は大丈夫です。」

「先生の『大丈夫』は、信用できません。」

そう言われて、返す言葉がなかった。

健診の初日、俺は7時に病院に着いた。玄関の鍵を開けようとして、手が止まった。外に人が並んでいた。まだ7時だ。健診の開始は9時だ。それなのに、玄関の前に7人か8人、年寄りが立っていた。折りたたみの椅子を持ってきている人までいた。一番前にいたのは、佐々木さんだった。

「おはよう、若先生。」

「何やってるんですか?」

「健診だよ。一番で受けようと思ってな。」

「予約です。佐々木さんは10時半です。」

「知ってる。だから、3時間半ここで待つ。」

後ろの方から笑い声が起きた。誰かが「源造さんは、いつもそうなんだから」と言った。俺は玄関を開けて、みんなを中に入れた。待合室の長椅子が、久しぶりに全部埋まった。

その日、健診に来たのは18人だった。1人当たりの時間は決めていた。問診と診察で10分、採血で5分。相澤さんが採血をしている間に、俺は次の人の問診もする。そうやって回した。だが、思った通りには行かなかった。みんな話したいのだ。血圧を測りながら、この前の法事の話が始まる。腹を触っていると、孫が就職した話になる。俺は最初、時間が押して焦った。昼前に、相澤さんが小声で言った。

「先生、今日は押しても大丈夫です。」

「え?」

「みんな、待ってますから。」

外を見た。順番がまだ先の人まで、玄関の外に出て日陰で立ち話をしていた。せかされている感じはなかった。俺は焦るのをやめた。そこから先は、時間の使い方を変えた。話し始めた人の言葉を最後まで聞いて、それから血圧計のスイッチを入れる。順番は、どうせ全部回る。1人当たりが伸びれば、その分最後の人を待たせることになるが、この人たちは待てる。待てないのは、こっちの都合だ。不思議なもので、そう決めてからの方が、見落としが減った。腰が痛いという話の途中で、「実は夜に足がつる」という話が出た。その人は利尿剤を飲んでいた。カリウムは健診の採血に入っていない。その日のうちに、保険で採血をやり直した。カリウムが低かった。話を最後まで聞いていなければ、拾えなかった。

その日、最後の人が帰ったのは4時過ぎだった。予定より2時間半遅れた。誰も文句を言わなかった。診察室の椅子に座ったまま、俺はしばらく動けなかった。腰が痛かった。喉も痛かった。18人分の人生の話を、1日で聞いたのだ。相澤さんが片付けを終えて、診察室に来た。

「お疲れ様でした。」

「相澤さんこそ。」

「先生、今日、何人でしたっけ?」

「18人です。」

「18人分。この病院は、まだあったってことですね。」

俺は顔をあげた。相澤さんは、いつもの静かな顔で、少しだけ笑っていた。その夜、俺は事務室で1人になってから、机に突っ伏して泣いた。情けない話だが、嬉しくて泣いたのはあれが初めてだったと思う。

翌日も、その次の日も、健診は続いた。2週間で200人が来た。去年より180人少ない。それでも200人だ。期間中、相澤さんは1日も休まなかった。俺も休まなかった。夜、事務室のパソコンに健診の結果を打ち込みながら、俺たちは何度も居眠りをした。ある晩、目が覚めたら、俺の肩に薄い毛布がかかっていた。相澤さんは向かいの席で、同じように書類に突っ伏して眠っていた。俺はその毛布をそっと相澤さんの背中にかけ直して、椅子に座り直した。朝までに終わらせる仕事が、まだ残っていた。

健診の途中で見つかったこともあった。83歳のおばあさんの心電図に、1つ引っかかるものがあった。本人は何も感じていない。俺はその場で県立中央病院に電話をかけて、その日のうちに紹介した。後で聞いたら、そのまま入院してペースメーカーを入れたそうだ。その報告を電話で聞いた時、相澤さんが横で言った。

「先生、あの心電図、私、普通だと思いました。」

「いや、あれは分かりにくいやつです。」

「先生は、すぐ分かりましたよね。」

「昔、似たのを見落としたことがあるんです。それから、あの形だけは何度も見返してました。」

相澤さんは「そうですか」とだけ言った。それから、少ししてこう続けた。

「先生の言う『人の倍見る』って、そういうことなんですね。」

俺は、父の言葉が相澤さんの口から出てきたことに驚いた。俺は誰かにその言葉を話しただろうか。話していない気がした。多分、相澤さんは父から直接聞いたのだろう。父は看護師にも同じことを言う人だった。

その頃、俺は少しだけ思い始めていた。もしかしたら、この病院は続けられるのかもしれない。2人でも、小さくても、この町の人が来てくれる限りは。そう思った夜だった。

黒川先生から、俺の携帯に電話がかかってきた。黒川先生の声は、あの朝と同じように落ち着いていた。

「元気そうだな。健診をやってるそうじゃないか。」

「はい。」

「無茶をする。2人で200人か。医療事故を起こす前に、やめた方がいい。」

俺は黙っていた。

「問題だ。長瀬先生、うちに患者を回してくれ。」

「回す」というのは、そのままの意味だ。

「あんたのところで見てる慢性の疾患。特に心臓と腎臓の患者。あれをうちに紹介しろ。あんたのところでは、急変に対応できない。それは事実だろう。」

事実だった。

「言っておくが、脅してるんじゃない。むしろ逆だ。何かあった時に、責任を取るのはあんただぞ。夜中に電話が鳴って駆けつけて、それで手遅れだったら、あんたはどうする?」

「考えています。」

「考えてるだけじゃ、人は死ぬんだよ。」

その言い方は、医者としては正しかった。

「それともう1つ。長瀬病院という名前だが、あんたのところ、今は入院患者がゼロだろう。病棟を休止したままなら、いずれ届出をどうするか決めなきゃならん。法律ではな。入院のベッドが20床以上あるところだけが『病院』と名乗れる。19床以下は診療所だ。『医院』とか『クリニック』とかいう看板になる。廃止届けを出せば、あんたのところはゼロだ。長瀬病院という名前は使えなくなる。看板を変えることになるぞ。」

「はい。」

「診療所になれば、休日の当番は町の開業医と同じ枠で回すことになる。だが、夜中の当番を、医者1人の院長で年に何回受けられる。受けられないと分かってる先に、医師会は役も当番も回さない。町の健診だって、来年はうちが受ける話が出てる。180床あって、健診センターもあるんだ。町からすれば、うちの方が安心だろう。」

反論できなかった。全部、その通りだったからだ。

「長瀬先生、俺はあんたが嫌いなわけじゃない。真面目なのは知ってる。ただ、真面目なだけの人間に、組織は預けられない。院長ってのは、人の生活を背負うんだ。あんたに背負えるのは、看護師1人分の生活だけだろう。」

電話が切れた後、俺は診察室の椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。一番応えたのは、最後の一言だった。俺が背負っているのは、相澤さん1人分の生活だ。その相澤さんは、給料がいつまで出るかも分からないのに、毎日ここに来ている。仮眠室で寝ている。俺が倒れないように、味噌汁を持ってきている。俺がこの病院にしがみついているせいで、あの人の人生を止めているのではないか。そう思い始めたら、止まらなくなった。

実際、その話は本当だった。数日後、医師会の集まりに出たら、休日当番の割振り表から長瀬病院の名前が消えていた。事務局の人が申し訳なさそうに「体制が揃うまでは外させてください」と言った。当然の判断だった。俺は「はい」とだけ言って座った。同じ日、保健所にも行った。病床の休止をこの先どうするのかと聞かれた。「止めたままにしておけるのは、決まった期間だけです」と言われた。その先も開けないのなら、廃院の届けを出すことになる。黒川先生が電話で言った通りだった。担当の人は淡々と説明しただけで、攻める調子は全くなかった。それでも、俺は帰りの車の中で長いこと動けなかった。祖父が建てて、父が40年守った長瀬病院という名前が、俺の代で消える。

その週から、良くないことが続いた。まず、患者さんが2人、東の方へ移った。どちらも心臓の薬を飲んでいる人で、家族が心配して決めたことだった。俺は紹介状を書いた。丁寧に書いた。書きながら、これは自分の負けだと思った。次に、俺がミスをした。高血圧の薬を出す時に、量を間違えて処方箋に書いた。いつもの半分の量だった。気づいたのは、薬局の中原さんだ。電話が来て、俺は自分の書いたものを見て、背中が冷たくなった。

「先生、すぐ直せば問題ないですから。」

「すみません。本当にすみません。」

「先生、少し休んだ方がいい。」

その日、俺は診察室で長いこと動けなかった。相澤さんが心配して覗きに来たが、俺は「大丈夫です」としか言えなかった。大丈夫ではなかった。黒川先生の通りだった。2人でやれる量ではない。俺は自分の集中力の限界を超えていた。そして、限界を超えた医者がやるのは、人を助けることではなく、人を傷つけることだ。

その夜、俺は事務室で相澤さんに言った。

「相澤さん、少し話があります。」

相澤さんは書きかけの書類を置いて、こちらを向いた。

「今日、処方を間違えました。」

「聞きました。」

「薬局の中原さんが気づいてくれたから、何もなかった。でも、次も気づいてもらえるとは限りません。」

「はい。」

「俺は、この状態を続けるのが正しいことなのか、分からなくなりました。」

言ってしまってから、自分の声が震えているのが分かった。

「相澤さんに、いつまでこんなことをさせるんだろうと思って。」

相澤さんは何も言わなかった。

「東成りの病院は、多分相澤さんを取ってくれます。副院長が引き抜きたがっていたくらいだから、給料も上がるし、夜勤の体制もある。まともです。俺は、この病院を畳んでも、多分医者は続けられます。どこかで雇ってもらえます。その方が、誰も傷つかないんじゃないかと。」

そこまで言って、俺は言葉を止めた。相澤さんの顔が、俺が今まで見たことのない顔になっていた。怒っていた。

「先生、今の話、誰のためですか?」

「相澤さんのためです。」

「違います。」

はっきりした言い方だった。

「先生は、自分が怖いんです。誰かを傷つけるのが怖いから、先に自分から終わらせようとしています。」

その言葉が、まっすぐ刺さった。

「私は、自分でここに残ると決めました。給料が出ないかもしれないことも、無理だってことも、全部分かった上で残りました。それを、今『私のため』と言われるのは嫌です。先生は、私が何も考えずにここにいると思ってるんですか?」

「思っていません。」

「じゃあ、『私のため』という言い方は、2度としないでください。」

事務室が静かになった。しばらくして、相澤さんは自分の声が大きかったことに気づいたのか、「すみません」と小さく言った。それから、椅子に座り直した。

「先生、処方を間違えたのは、確かに問題です。」

「はい。」

「だから、仕組みを変えましょう。私が、全部の処方箋を、先生が渡す前に読みます。前の病院では、そうしていました。」

「相澤さんの仕事が増えます。」

「増えません。順番を変えるだけです。」

そこで、相澤さんは少しだけ息をついた。

「先生、私、前の病院で、ミスをした看護師がやめさせられるのを何度も見ました。誰も助けませんでした。悪いのはその人だということになって、それで終わりでした。先生は、あの時、若い子のミスを自分の指示のせいだと言って、患者さんに謝りに行きました。あれを見ていたから、私はここに残ったんです。」

俺は下を向いた。

「だから、簡単に畳むと言わないでください。」

その週の終わりに、相澤さんが半日だけ休んだ。実家に呼ばれたのだという。後から聞いた話では、相澤さんのお母さんに「その病院はいつまで持つのか」と聞かれたそうだ。親としては当たり前の心配だ。相澤さんは「分からない」と答えたという。「分からない」と答えて、それでも次の日、いつもの時間に出勤してきた。そのことを俺が知ったのは、ずっと後だ。知ったところで、俺には引き止める資格も給料の保証もなかった。相澤さんは、それが分かっているから言わなかったのだと思う。

次の日、俺は佐々木さんの診察の最後に、弱音を漏らした。この病院は、いずれ「病院」という名前が使えなくなるかもしれない、という話だ。佐々木さんは「うん」と言っただけだった。それから、こう言った。

「若先生、わしはな、ここのことを『病院だ』と思って来てるわけじゃない。」

「え?」

「『長瀬さんとこに行く』って言って来てるんだ。あんたの親父さんの代から、30年ずっとそうだ。看板に何て書いてあるかなんて、誰も見ちゃいないよ。」

そう言って、佐々木さんは湿布の袋を持って帰って行った。

その夜、俺たちは処方の確認の手順を紙に書いた。誰がいつ何を見るか。それだけの紙だ。紙を書きながら、俺は思っていた。俺は今まで、自分1人で耐えることを努力だと思ってきた。「人の倍見ろ」という言葉を、「1人で倍やれ」という意味だと思っていた。そうではないのかもしれない。そう思い始めたのが、この夜だった。

院長室を片付け始めたのは、父が死んで2ヶ月近く経った頃だった。それまで、俺はあの部屋にほとんど入っていなかった。診察は診察室でするし、事務は事務室でする。院長室に用はなかったというより、入りたくなかった。だが、書類の保管場所が足りなくなって、いよいよ手をつけることになった。土曜の午後、外来を閉めてから、相澤さんと2人で入った。

父の机は、俺が子供の頃から同じものだ。木の天板が、右手を置くところだけ色が薄くなっている。椅子の背もたれには、白衣が1枚かかったままだった。引き出しを開けた。一番上には印鑑とハンカチのケースと目薬が入っていた。2段目には過去の届出の控え、3段目には古い写真が何枚か。祖父と父が並んで写っている写真と、開業何十周年かの記念にとったらしい職員の集合写真だった。一番下の段に、黒い大学ノートが2冊重ねて入っていた。表紙には何も書かれていない。開くと、父の字がびっしり並んでいた。最初は患者さんの記録だった。カルテとは違う。数字はほとんど書いていない。書いてあるのは、こういうことだ。

「田村さん、息子が東京から帰ってこない。血圧より、その話を聞いて欲しそうだった。」

ページをめくると、また名前が出てくる。

「杉本さんの薬を減らしたがっている。薬の話ができない人。次回、こちらから聞く。」

さらにめくる。

「森さんのご主人。奥さんの前では痛いと言わない。奥さんを外して話すこと。」

そういうことが、40年分書いてあった。俺は最初の1ページを読んで、そこから顔を上げられなくなった。父が「一目で分かっていた」と思っていたことは、一目で分かっていたのではなかった。父は書いて覚えて、次に会う時のために準備していたのだ。俺と同じことを、俺の何倍もの量でやっていた。

2冊目の後ろの方に、俺のことが書いてあった。日付は、俺がこの病院に戻ってきた年のものだった。

「裕介、戻る。決断ではない。診断に時間がかかる。カンファレンスで発言しない。」

次のは、半年ほど後の日付だった。

「裕介、家族への説明が下手だが、紙を作っている。作り直している。誰も見ていないと思っている。」

さらに1年ほど飛んで、こう書いてあった。

「裕介。看護師のミスを、自分の指示のせいだと言った。あれは指示のせいではない。だが、言い切った。」

その後、少し開けて、こう書いてあった。

「わしより時間はかかるが、あれは人を置いていかない医者になる。」

俺はそのページを2回読んだ。3回目は読めなかった。字が滲んで見えなくなったからだ。父は俺を一度も褒めなかった。「やった」とも「助かった」とも言われたことがない。それが当たり前だと思って、35年生きてきた。見ていた。全部見ていた。そして、何も言わなかった。

俺は机に手をついて、声を出して泣いた。相澤さんがいることも忘れていた。しばらくして顔をあげたら、相澤さんも泣いていた。ノートを覗き込んだまま、口を抑えて肩を震わせていた。

「やっぱり、院長先生は分かっていたんですね。」

「やっぱり」というのは、どういう意味だ。相澤さんはしばらく答えなかった。それから、「話してもいいですか」と言った。

その日の夜、事務室で相澤さんは自分のことを話した。相澤さんが看護師になったのは、母親のことがあったからだという。21年前、相澤さんの母親は隣の市の大きな病院で検査を受けていた。原因の分からない体調不良が半年続いていて、何度も検査をしたが、はっきりしたものが出なかった。そのうち、担当の医者が変わった。新しい医者は検査の結果を見て、こう言ったそうだ。

「これ以上調べても、多分何も出ませんよ。」

嘘ではない。医学的には、そういうこともある。だが、その言い方をされた時、相澤さんの母親は自分がもう相手にされていないのだと思ったという。家に帰って、その人は泣いた。小学生だった相澤さんは、母親が台所で声を殺しているのを、廊下から見ていた。その2週間後、親戚に進められて、母親は柏木町まで来た。バスで20分かかる。わざわざそこまで来る理由は、この町に「話をよく聞く医者がいる」という評判だった。長瀬病院だった。

「院長先生は、その日、1時間近く母の話を聞いたそうです。検査はしませんでした。『この日は話を聞くだけにします』と言ったそうです。それから、何回も通いました。結局、病気らしい病気は見つからなかったんです。後から思えば、ずっと続いていた家のことと、祖母の介護と、いろんなものが重なっていただけでした。でも、母はあの時、あの病院で助かったと、今でも言います。」

俺はその話に覚えがなかった。21年前、俺は中学2年だった。そう言うと、相澤さんは首を振った。

「先生、いたんですよ。」

「え?」

「私、その日、母について行ったんです。小学5年でした。診察室の外で待っていたんですけど、途中でドアが開いて、中が見えたんです。院長先生の横に、白衣を着た若い人が座っていて、一緒にメモを取っていました。」

俺は思い出した。中学2年の夏、母が死んだ年だ。父は俺を家に置いて行くのが心配だったのか、しばらくの間、休みの日に俺を病院へ連れてきた。白衣というのは、多分サイズの合わない予備の白衣だ。俺は診察室の隅に座らされて、父から「ここに座って、何でもいいから書いていろ」と言われた。意味なんて分からなかった。ただ、家に1人でいるよりマシだった。俺はその夏、ずっと診察室の隅にいた。父の言葉をそのままノートに書き写した。追いつかないから、途中で自分なりに縮めるようになった。血圧が高いおばあさんの話も、腰の痛い大工の話も、全部書いた。母が死んだばかりで、家に帰っても誰もいない夏だった。今になって思えば、父はあの夏、俺に何かを教えようとしていたわけではなかったのかもしれない。ただ、俺を1人にしなかっただけなのかもしれない。それでも、俺はあの夏に見たものを覚えている。医者というのは、人の話を聞いて、それを書き留める仕事なのだと思った。俺が医学部を目指したのは、その後だ。

「私、それをずっと覚えていたんです。母を助けてくれた先生の横で、一緒にメモを取っている人がいた。あの人は誰だったんだろうって。ここに就職して、しばらくしてから分かりました。先生だったんですね。」

俺は何も言えなかった。

「だから、私はこの病院に助けられた家族なんです。今度は、私がこの病院を守りたいんです。」

その夜、俺は帰り道で車を止めて、しばらくハンドルに額を付けていた。俺が知らないところで父がやったことが、21年かかって俺のところに戻ってきていた。

その頃、東の方から別の話も聞こえてくるようになった。うちを辞めた看護師の1人が、健診に来た人の付き添いで、たまたま待合室に来たことがある。俺と目があって、その人は深く頭を下げた。俺も下げた。それだけだった。後で相澤さんが聞いた話では、向こうの病棟はかなり厳しいらしかった。人は多いが、その分だけ患者も多い。1人当たりにかけられる時間が短い。年寄りが同じ話を繰り返すと、後ろが詰まるからとられる。黒川先生は、そこの外科部長になっていた。手術の件数を増やすことを求められていて、外来はほとんど若い医者が回しているという。そして、事務だった村井さんは、そこの事務にはいなかった。どこに行ったのか、誰も知らなかった。

俺はそのことがずっと気になっていた。村井さんは、やめる前の日まで普通に仕事をしていた。父の書類を全部揃えて、俺の前に並べた人だ。「慌てて決めないでください」と言った人だ。あの言い方は、今思えば何かを知っている人の言い方だった。

その引き出しに気づいたのは、全くの偶然だった。院長室の片付けの続きをしていて、机を壁から少し離した時だ。机の裏側、一番下の引き出しの奥に、もう1段あった。差し込み式の板で仕切られていて、前からは見えない。板を外すと、そこに黒い大学ノートが1冊入っていた。3冊目だった。表紙に字が書いてあった。父の字で、こう書いてある。

「この病院を、この先どうするか。」

俺は椅子に座って、それを開いた。一番最初のページの日付は、3年前だった。父が病棟を48床から32床に減らした年だ。そこから先は、これまでの2冊とは中身が全く違っていた。数字が並んでいた。過去10年の入院患者の数、年齢の内訳、夜勤に入れる看護師の人数とその人たちの年齢。この先5年で定年になる人の数。町の人口の推移、65歳以上の割合、近隣にできる予定の病院の病床数。その下に、父の字でこう書いてあった。

「この病院は、あと5年で入院を続けられなくなる。看護師が足りない。人が足りないのに病棟を開けておくのは、患者を危ない目に合わせることだ。畳むのではない。形を変える。」

次のページから、それが具体的に書いてあった。病床をやめて、ベッドを置かない診療所にする。外来を続ける。歩けなくなった患者のところへは、こちらから行く。訪問診療と訪問看護で継ぐ。急なことは県立中央病院に頼み、落ち着いたらこちらで見る。そのために必要な人数まで書いてあった。

「1、看護師2から3、事務1。それ以上は、いらない。それ以下では、回らない。」

借入金をどう組み換えるか、返済を何年にするか、設備のどれを残してどれを止めるか、全部書いてあった。訪問診療の対象になりそうな患者の名前も、あらかじめ並べてあった。20人ほどいた。歩けなくなりかけている人。家族が送り迎えをしている人、施設に入ったが具合が悪くなるたびに戻ってくる人。1人ずつ、今何が困っているかまで書いてある。連携先も書いてあった。県立中央病院の誰に頼むか。訪問看護ステーションがどこか。谷口さんという名前が出てきた。後で調べたら、隣町のステーションの管理者だった。

俺はページをめくる手が止まらなくなった。父は、決してこの病院を小さくしていたのではなかった。10年先を見て、間に合うように、自分の代のうちに小さくしていたのだ。そして、その先のページに、俺が一番知りたかったことが書いてあった。

「黒川君のことを書いておく。」

俺は息を止めた。

「黒川君は、腕のいい外科医だ。この病院で15年、よくやってくれた。感謝している。」

悪く書いていなかった。そのことに、まず驚いた。だが、彼のやりたい医療は、この病院ではもうできない。手術の数がいる。設備がいる。人がいる。東成りにできる新しい病院なら、それができる。彼は、いずれ行く。止めない。止めるのは、彼のためにならない。

そこまでは、まだ分かる。問題は、その次だった。

「ただ、彼は1人では出ていかないだろう。人を連れて行く。少し前から、そういう話が回っていることは、耳に入っている。」

日付を見た。1年半前だった。父が書類を揃えたのと同じ時期だ。俺はそのページをもう一度、最初から読んだ。父は知っていた。黒川先生が職員に声をかけていることを、1年以上前から知っていた。知っていて、止めなかった。そして、その下に、こう書いてあった。

「裕介に伝えるかどうか、迷っている。伝えれば、あれは必ず動く。頭を下げて回るだろう。そして、多分何人かは残る。だが、頭を下げて残ってもらった人と、この先10年やっていくのは、あれには無理だ。あれは、自分に自信がない。自信のない人間が、恩で人を縛ると、一番辛い形になる。」

俺はそのページを何度も読んだ。

「一度、全部なくなった方がいい。」

息が浅くなった。次の行に、目を落とした。

「そこに誰が残るかは、わしには決められない。あれが決めることでもない。残った人と、始めればいい。」

俺の手は震えていた。次のページに、名簿があった。事務室で見たあの職員名簿の写しと同じものだ。父の字で、名前の横に小さな印がついているものと、ついていないものがある。俺はその印の意味を、この時になってようやく理解した。印がついていたのは、たった3人だった。そのうちの1つが、相澤美穂の名前だった。名前の下に、こう書き添えてあった。

「相澤さん。この人は、人が見ていないところを見る人だ。裕介と同じ側の人間だ。」

俺はノートを膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。窓の外は暗くなっていた。部屋の電気はつけていなかったから、部屋の中はもうほとんど見えない。それでも、俺は明かりをつける気になれなかった。父は、あの朝を予想していた。俺が誰もいない病院に立って、途方にくれることを想像した上で、死んでいった。ひどい話だと思った。こんなに残酷な引き継ぎがあるかと思った。そう思った瞬間、俺は自分の中でもう1つのことに気づいた。父は、俺なら残ると思っていたのだ。あの朝、俺が休診の紙を貼って、廃院の手続きをして逃げる可能性を、父が考えなかったわけがない。それでも、書いたのだ。「残った人と始めればいい」と。俺は、その一文のために、あの朝を渡されたのだと思った。

印がついていた残りの2人の名前も、俺は覚えていた。1人は、院内の掃除の人で、もう1人は週に2日だけ来ていたパートの事務員だった。どちらも、あの朝には来ていない。だが、父は「そこに誰が残るかは決められない」と書いていた。印は、残る人の予想ではなく、「人が見ていないところを見る人」の印だったのだ。そう思ったら、少しだけ救われた。父は、誰かが残ることにかけていたわけではない。ただ、俺と同じ側に立てる人間を、3人だけ静かに数えていたのだ。

ノートの一番最後のページに、日付のない書き込みが1つだけあった。字が少し崩れていた。ペンの色も違う。夜中に思いついて、書き足したのだと思う。

「裕介へ。」

名前だけが、1行だけで置かれていた。

「才能がないなら、人の倍見ろと言い続けて、すまなかった。本当は、倍見ろではない。倍の時間、人の横にいろ、ということだ。医者は、偉い仕事じゃない。人の不安の横に座る仕事だ。それだけは、忘れるな。」

俺はその場で、声をあげて泣いた。誰もいない院長室で、電気もつけずに、40分ほど泣いていたと思う。途中で、廊下の明かりが差した。相澤さんが、ドアのところに立っていた。帰ったと思っていたが、事務室で待っていたらしい。相澤さんは何も聞かなかった。俺のところまで来て、開いたままのノートを覗き込んで、そして口を抑えた。しばらくして、相澤さんが言った。

「先生、私、印がついてます。」

「ついてますね。」

「院長先生に、そんなに話したことないんですけど。」

「父は、話さない人のことを、よく見る人だったので。」

相澤さんはそこで泣いた。俺たちは、しばらくの間、ノートを挟んで向かい合ったまま、何も言わずにいた。その時、俺の中で決まったことがある。この病院を、父の設計図通りにやる。「病院」という名前は捨てる。病床も捨てる。その代わり、この町の年寄りが最後まで見てもらえる場所にする。それが、父が10年かけて用意していた形だった。

その日は、朝から風が強かった。午前の外来が終わりかけた11時半過ぎ、玄関の自動ドアが開いて、大きな音がした。俺が診察室から出ると、待合室の床に人が倒れていた。佐々木さんが、奥さんを抱えるようにして座り込んでいた。

「若先生、房枝が、房枝が返事しないんだ。」

倒れていたのは、佐々木房枝さん。71歳。佐々木さんの奥さんで、この病院に20年以上通っている患者さんだ。俺はその場にしゃがんで、肩を叩いて呼びかけた。反応がない。目は半分開いているが、こちらを見ていない。息はしている。脈も触れる。むしろ早い。相澤さんが走ってきた。

「相澤さん、処置室へ。ストレッチャーをお願いします。救急は、俺が確かめてから呼びます。」

「はい。」

2人で運んだ。処置室のベッドに移して、服の袖をまくった。血圧は102の60。脈は104。呼吸は問題ない。麻痺があるかどうかを確かめた。両手を持ち上げて離すと、左右が全く同じ落ち方をした。片側だけが重く落ちるということがない。顔も見た。口の形は歪んでいない。片側だけがやられる脳卒中の出方ではなかった。だが、意識がない。佐々木さんが処置室の入り口で震えていた。

「脳か。脳がやられたんじゃないのか。」

「佐々木さん、少しだけ静かにしてください。今から確かめます。」

俺はその2秒か3秒の間に、自分の頭の中を探していた。佐々木房枝さん、糖尿病20年以上。飲んでいる薬は、確かずっと同じ組み合わせだ。血糖を下げる薬を2種類。片方が、効き目が長く続くタイプで、高齢の人だと下がりすぎることがある薬だった。そして、先週の診察を思い出した。佐々木さんが「うちの房枝、最近飯を食わないんだよ」と言っていた。夏バテかな、と笑っていた。俺はその時、「体重を測ってもらってください」とだけ言った。食べていない。薬は飲んでいる。

「相澤さん、血糖。」

相澤さんは、俺が言い終わる前に動いていた。指先を消毒して、測定機に乗せた。数字が出るまでの数秒が、ひどく長かった。

「血糖32です。」

低血糖だった。

「ブドウ糖50%。それと、点滴のルート取ります。」

「はい。」

処置室の棚から、相澤さんが薬を出した。俺は左腕の静脈にルートを取った。手が震えなかったのは、多分やることが決まっていたからだ。ブドウ糖を静脈から入れた。そこから先は、あっという間だった。1分もしないうちに、房枝さんのまぶたが動いた。目が動いて、こちらを見た。それから、口が動いた。

「あら。」

佐々木さんが変な声を出した。

「私、なんで寝てるの?」

「房枝。」

俺は房枝さんの手を握って、ゆっくり話しかけた。

「房枝さん、今、血の中の糖が下がりすぎていました。もう戻っています。大丈夫です。」

「はあ。すみませんね、先生。」

その言い方が、あまりにいつも通りで、俺は膝の力が抜けそうになった。

その後の処置は、落ち着いてやった。点滴を続けて、血糖をもう一度測って、上がっているのを確かめた。効き目の長い薬が体に残っているから、後でまた下がる可能性がある。この病院には入院の設備がない。俺は県立中央病院に電話をかけて、受け入れを頼んだ。それから、救急車を呼んだ。救急車が着いたのは、その5分後だった。救急隊に経過を伝えて、紹介状を渡した。県立中央病院までは12分だ。

車が出ていった後、待合室に佐々木さんが1人で残っていた。佐々木さんは長椅子に座って、両手で顔を覆っていた。俺が声をかけると、顔をあげた。目が真っ赤だった。

「若先生、あんた、なんで分かったんだ?」

「先週、佐々木さんが言ってたんです。奥さんが飯を食わないって。」

「そんなの、覚えてたのか?」

「覚えてました。」

俺はそれだけ言った。

その日の夕方、俺は診察室で長いこと座っていた。もし今日、ここが閉まっていたら、佐々木さんは救急車を呼んだだろう。救急車は県立中央病院に運んだだろう。運んだ先で、多分血糖は測る。だから、結果は同じだったかもしれない。だが、時間は違った。玄関から処置室まで20歩の距離と、車で12分の距離は違う。そして、あの家に「飯を食わない」という話をする相手がいるかどうかも、違った。

その話が町に広まるまでは、早かった。翌日から、患者さんが目に見えて増えた。東成りの病院に移った人が、何人か戻ってきた。戻ってきた人は、みんな少し言いにくそうにしていた。俺は何も聞かなかった。カルテはここに全部残っている。20年分の記録が、そのまま続きから書けるようになっている。それだけのことだ。

村井さんが来たのは、その次の週だった。外来が終わった午後、玄関から入ってきた村井さんは私服だった。少し痩せて見えた。俺の前に立って、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。」

俺は椅子を進めた。村井さんは座らなかった。

「私は、退職届けを預かっておりました。3日間、机の中に入れたまま、先生に何も申し上げませんでした。」

「はい。」

「あの時、私は数字と条件しか見ていませんでした。この病院は持たない。職員も路頭に迷わせるくらいなら、まとめて移った方がいい。副院長先生の言うことの方が正しいと思ったのです。私は40年、ここに勤めました。それでも、そう思ってしまいました。」

俺は黙って聞いていた。

「先生、私は東成りには行っておりません。あの朝から、ずっと家にいました。」

「そうでしたか。」

「行けなかったんです。私は、預かった30通の中に、自分の分だけ入れませんでした。」

村井さんは上着の内側から、古い封筒を出した。しわが寄っていた。

「これをどうしていいか分からず、2ヶ月持っておりました。」

俺はその封筒を受け取らなかった。

「村井さん、戻ってもらえますか?」

村井さんの方が動いた。

「ただし、条件があります。」

「はい。」

「これから、患者さんを置いていかない仕事をしてください。数字は大事です。数字を見るのは村井さんの仕事です。でも、数字のために誰かを置いていく時は、必ず俺に言ってください。俺はそこで迷います。迷うのが遅い人間なので、早めに言ってください。」

村井さんは、しばらく何も言わなかった。それから、封筒を上着に戻して、もう一度深く腰を折った。

「かしこまりました。」

その1週間後、若い看護師が1人戻ってきた。木戸さんという29歳の人で、あの朝、俺の電話を1度だけ取りかけた人だ。面接の時、木戸さんは泣きながら「あの時、電話に出られませんでした」と言った。

「知ってます。」

「え?」

「1回だけ、コールが途切れたので。」

木戸さんはそこで声を上げて泣いた。俺は「患者さんに謝ってください」とだけ言った。

「この病院に戻るなら、あの朝に来られなかったことを、患者さんに一言謝ってから始めてください。」

木戸さんは次の日から、待合室で頭を下げて回った。誰も責めなかった。年寄りは、そういうことに慣れている。

黒川先生が来たのは、それからしばらく経った日の夕方だった。診療を閉めた後、玄関の外に車が止まった。降りてきたのは、黒川先生1人だった。白衣は来ていなかった。待合室で向かい合って立った。「座りましょう」と言ったが、黒川先生は座らなかった。

「戻ってるらしいな。患者も、職員も。」

「少しずつです。」

「うちから引き抜いてるわけじゃないだろうな。」

「していません。戻りたいと言ってきた人に、条件を出しただけです。」

黒川先生は、しばらく待合室を見回していた。古い長椅子、手書きの張り紙、壁の画鋲の穴。

「なあ、長瀬先生。」

「はい。」

「お前なんかに、何ができる?」

その言い方には、あの朝のような余裕はなかった。声が、少し枯れていた。俺は少し考えてから、答えた。

「俺1人では、何もできません。」

黒川先生の眉が動いた。

「本当に、何もできないんです。診断は遅いし、手術もできない。経営も分からない。あの朝、1人だったら、俺はこの病院を閉めていました。だから、残ってくれた人と、戻ってきてくれた人を、大事にします。それだけです。」

黒川先生は何も言わなかった。俺は続けた。

「黒川先生。父のノートが出てきました。」

黒川先生の顔が、初めて変わった。

「先生のことが書いてありました。腕のいい外科医だと、15年よくやってくれたと、感謝していると書いてありました。」

「嘘つきな?」

「嘘ではありません。読みますか?」

黒川先生は答えなかった。

「それと、こうも書いてありました。『黒川君のやりたい医療は、この病院ではもうできない。彼は、いずれ行く。止めない』と。」

待合室が静かになった。壁の時計の音だけがした。

「あの人は。」

そこで言葉が切れた。

「あの人は、俺が出ていくの、知ってたのか?」

「1年半前から、知っていました。」

黒川先生は口を開けたまま、しばらく動かなかった。それから、視線を落とした。

「そうか。」

言葉は、それだけだった。俺には、その返事の中身が全部は分からない。分かったのは、この人は父に認められたかったのだ、ということだけだった。副院長を15年やって、次は自分の番だと思っていた人が、その席を息子に渡された。その悔しさの底にあったのは、多分それだった。黒川先生は、それ以上何も言わずに玄関へ歩いた。自動ドアの前で、一度だけ足を止めた。

「長瀬先生。」

「はい。」

「うちに紹介する時は、紹介状をもっと短く書け。読む方の身になれ。」

「はい。すみません。」

「あと、あの心電図は良かった。ペースメーカーのやつだ。あの人の息子が、うちの外来に来て、『長瀬先生に拾ってもらった』と話していった。うちの若いのなら、見落とす。」

そう言って、黒川先生は出ていった。車が走り去るのを、俺は玄関の内側から見ていた。勝ったとは思わなかった。ただ、この人とも、まだ患者を挟んで付き合っていくのだと思った。それが、この町の医療だった。

病棟の廃止届けを出したのは、父が死んで5ヶ月後だった。保健所に書類を持っていった日、俺は朝から落ち着かなかった。病院の廃止届けと、ベッドを持たない診療所としての開設届けを、同じ日に出す。窓口の人は1枚ずつ確かめて、受付をして、控えを返してくれた。その後、もう1箇所役所を回って、保険の種類も出し直した。俺がやったことは、それだけだ。長瀬病院に最後まで残っていた20床が、その日、書類の上から消えた。48床あったものを、父が3年前から順に削って残した。ギリギリ「病院」と名乗れる最後の20床だった。帰りの車の中で、俺は一度だけ路肩に止めた。祖父が建てて、父が40年守った「病院」という名前が、俺の代で終わった。それは事実だ。ただ、あのノートを読んだ後では、以前ほど応えなかった。俺がやっているのは、父の設計図通りのことだ。

看板の付け替えは、その月の終わりの日曜にやった。業者に頼んだら見積もりが高かったので、結局、町の看板屋に来てもらって、文字だけ入れ替えることにした。「長瀬病院」の「病院」の2文字を外して、「医院」と入れる。朝から見物人が来た。佐々木さんが真っ先に来た。その後ろから、退院した房枝さんが歩いてきた。近所の奥さんが3人。理容店の主人、薬局の中原さん、役場の健康推進課の人まで来た。耳の遠いおじいさんも来ていた。俺の顔を見つけると、こちらへ一歩寄って、口が見える位置に立った。いつもは俺がやることだった。その日は、逆だった。みんな、日曜の朝から看板が変わるのを見に来たのだ。

作業は10分ほどで終わった。「長瀬医院」。新しくなった看板を見上げて、佐々木さんが言った。

「うん。読みやすくなったな。」

みんなが笑った。相澤さんが、俺の横で看板を見上げていた。

「先生、小さくなりましたね。」

「はい。でも、亡くなってないです。病院じゃなくなっただけで、この場所は亡くなってないです。」

「はい。」

その日から、「長瀬医院」として、俺たちの仕事が始まった。

訪問診療を始めたのは、その次の月からだ。父のノートに名前が書いてあった20人に、俺と相澤さんで順番に会いに行った。ほとんどの人が、家から出るのが辛くなっていた人たちだった。中には、この2年ほど病院に来られていなかった人もいた。一番最初に行ったのは、川沿いの家に1人で住んでいる90歳のおばあさんだった。玄関を開けて、俺が名乗ると、その人は俺の顔をじっと見て、こう言った。

「あんた、院長先生の子だね。顔が似てる。」

「はい。息子です。」

おばあさんは玄関の上がり口に手をついて、ゆっくり座り直した。

「そうかい。院長先生は、うちに来たことがあるよ。ずっと前にね。」

父はノートに、その家のことをこう書いていた。

「金子さん、足が悪い。バスに乗れない。そのうち来られなくなる。こちらから行くこと。」

日付は、3年前だった。ノートを書き始めたその年に、父はもうこの形を考えていたのだ。

訪問診療は、思っていたよりも時間がかかった。1件あたり30分から40分。移動も入れると、午後に回れるのは4件が限界だった。それでも、行って良かったと思うことの方が多かった。家に行くと、その人の生活が全部見える。台所に何があるか、薬をどこに置いているか、トイレまで何歩か。病院の診察室では、絶対に分からないことばかりだった。ある家では、飲み忘れた薬が茶筒の中に3ヶ月分溜まっていた。ある家では、冷蔵庫の中に何もなかった。俺はその度に、自分がこれまで診察室で聞いてきた「ちゃんと飲んでいます」という返事の意味を考えた。

訪問看護のステーションとも組んだ。ノートに書いてあった谷口さんに電話をかけて、会いに行った。谷口さんは41歳の看護師で、この地域で訪問看護をやっている人だった。会って最初に、谷口さんはこう言った。

「長瀬先生、前の院長先生には、うちも助けてもらったんです。夜中に相談の電話をしても、必ず出てくれる先生でした。」

そこでも、父の名前が出た。俺は行く先で、父の名前を聞いた。最初は辛かった。今は違う。父が40年で作ったものは、建物ではなく、こういう関係だったのだと分かってきた。だから、俺はそれを使わせてもらうことにした。使わせてもらいながら、俺は俺で、10年かけて自分の分を作ればいい。

その頃には、俺の他に職員が5人になっていた。相澤さん、事務の村井さん、看護師の木戸さん、それからパートの事務員が1人と、週に3日来てくれる非常勤の医師が1人。事務のノートに印がついていた、あの人だった。村井さんが電話をかけたら、「待っていました」とだけ言って、戻ってきたのだという。印のもう1人、掃除の人は、もう定年を過ぎていた。それでも、月に1度、玄関周りの草を抜きに来る。父が印をつけた3人は、結局みんなここに繋がっていた。

非常勤の医師は、父の大学の先輩にあたる人で、定年で大学病院を辞めたばかりの70歳だった。村井さんが探してきた。

「先生、私は数字を見る者ですので、人も数字のうちです。」

そう言って、村井さんは笑わなかった。相変わらず、言葉遣いの丁寧な人だった。

秋になって、相澤さんのお母さんが病院に来た。相澤久子さん、62歳。相澤さんのお母さんで、21年前に父の診察を受けた人だ。風邪を引いたと言って来たのだが、多分、口実だったと思う。診察が終わった後、久子さんは椅子に座ったまま、こう言った。

「先生、ずっとお礼を言いたかったんです。」

「父にですか?」

「はい。でも、間に合いませんでした。」

久子さんも、少しの間黙った。

「あの頃、私は自分がおかしいのだと思っていました。どこの病院に行っても、何も出ないので、この人は面倒な患者だと思われている気がして。院長先生は、私に『あなたはどこも悪くありません』とは言いませんでした。『まだ分かりませんね』と言ったんです。『分からないから、一緒に見ていきましょう』って。あの一言で、私は生きていられました。」

俺はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。「分からないから、一緒に見ていきましょう」。俺が診察のたびに患者さんに言っていることと、ほとんど同じだった。俺はそれを、自信がないから言っていた。断定できないから言っていた。父も、同じことを言っていた。

久子さんは帰り際に、受付の相澤さんの背中を見て、こう言った。

「あの子、昔から何も言わない子でしてね。うちの家のことも、私が寝込んでいた時のことも、学校で何も話さなかったんです。全部見てるくせに、何も言わない。先生、あの子の言うことは、多分全部本当ですよ。」

久子さんが帰ってから、俺はしばらく玄関のところに立っていた。

その夜、外来を閉めてから、俺は相澤さんに話しかけた。事務室で、相澤さんは翌日の訪問の準備をしていた。1件ずつ、必要なものを袋に詰めている。

「相澤さん。」

「はい。」

「あの日、相澤さんが残ってくれなかったら、俺はこの病院を閉めていました。」

相澤さんは手を止めた。

「本当に閉めていました。あの朝、休診の紙を持っていたんです。貼るところでした。」

相澤さんは袋を机に置いて、こちらを向いた。そして、首を振った。

「私が残ったのは、先生が残る人だったからです。」

「残る人?」

「はい。あの朝、私は5時にここへ来ていました。裏に車を止めると気づかれると思って、少し離れた道の脇に止めて、裏口から入って、廊下の奥の物置にいたんです。先生が来るかどうかだけ、確かめようと思っていました。来なかったら、私もやめるつもりでした。でも、先生は来ました。誰もいないのに、鍵を開けて中まで入って、ロッカー室に入って、しばらく出てきませんでした。電話であんなことを言われても、まだ帰りませんでした。逃げる人は、玄関で帰ります。」

俺はその時、返す言葉がなかった。涙が出そうになったので、俺は天井を見た。しばらく、そうしていた。相澤さんは、いつもの静かな声で続けた。

「先生、天才じゃなくてもいいんです。逃げない先生が、この病院には必要なんです。病院じゃなくていいんです。」

「ああ、そうでした。」

相澤さんが笑った。声を出して笑うところを見るのは、久しぶりだった。

その夜、俺は新しい大学ノートを1冊買って、院長室に戻り、表紙に日付を書いた。父の3冊の隣に置いた。4冊目だ。父が3冊書くのに40年かかった。俺のペースなら、多分もっとかかる。それでいいと思った。最初のページに、俺はこう書いた。

「金子さん、90歳。川沿いの家。足が悪い。玄関の段差が高い。次は、靴を脱がずに上がれるか確認する。」

書きながら、俺は少しだけ笑ってしまった。父と同じことをしている。35年かかって、俺はやっと父と同じ側に立った。

あれから3年が過ぎた。長瀬医院は、まだこの町にある。建物は同じだ。外壁のタイルは前より色が抜けたし、自動ドアは相変わらず開くのが遅い。待合室の長椅子も同じもので、座るときしむ。職員は、俺を入れて9人になった。医師は俺と非常勤が2人、看護師が4人、事務が2人。父の代で一番多かった頃は78人いたそうだ。48床の病棟が動いていた頃の話だ。それでも、この9人が、この町にはちょうど良かった。父のノートに書いてあった数より、少しだけ多い。増やしたのは、訪問診療の分だ。給料は、あれから一度も止まっていない。村井さんが引き直した資金繰りの表のおかげだ。誰1人欠けても、ここまで来られなかった。

外来は毎日ある。訪問診療は週に3日。夜中に電話が鳴ることもある。俺は、父と同じようにそれに出る。去年は5人の患者さんを家で看取った。そのうちの1人が、佐々木源造さんだった。亡くなる2週間前まで、佐々木さんは待合室に来ていた。診察の予定がない日も来て、長椅子に座って新聞を読んでいた。俺が声をかけると、「気にせんでいい。座ってるだけだ」と言った。あの日から、ずっとそうだった。

最後の日、俺が家に行くと、佐々木さんはもう話せなかった。房枝さんが手を握っていた。俺は耳のそばで名前を呼んだ。返事はなかった。ただ、少しだけ眉が動いた気がした。その後、房枝さんに「あと1時間くらいだと思います」と伝えた。それから、台所を借りて、家族が集まるまでの間、俺はその家にいた。医者にできることは、もう何もなかった。ただ、そこにいた。父の言っていたことが、その時一番はっきり分かった。「医者は、偉い仕事じゃない。人の不安の横に座る仕事だ。」

息が止まったのは、夕方だった。俺は聴診器を当てて、心音と呼吸が止まっていることを確かめ、時計を見て、時刻を声に出した。それから、死亡診断書を書いた。運ばれた先の知らない医者ではなく、ずっとこの人を見てきた俺が、その紙を書いた。それが、多分この3年で一番意味のあることだった。

葬儀の日、房枝さんが俺の手を握って言った。

「うちの人、最後の1年、毎日この医院の話をしてました。『先生は頼りないけど、そこがいいんだ』って。『頼りない人の方が、こっちの話を最後まで聞くんだ』って。」

俺はそれを、褒め言葉として受け取ることにした。房枝さんは今も、月に1度薬をもらいに来る。あの後、効き目の長く続く薬はやめて、下がりすぎにくい組み合わせに変えた。あれから、低血糖は起こしていない。「食事の量が減ったら、必ず教えてください」と、俺は毎回しつこく言う。房枝さんは、毎回「はいはい」と言う。

町の健診は、翌年もうちで引き受けた。東成りメディカルガーデンが引き受ける話は、結局まとまらなかった。役場の担当の人が、はっきりこう言ったそうだ。「うちの町の年寄りは、バスに乗ってまで健診には行きません」と。その次の年の健診は290人だった。今年は、もう少し増えそうだと村井さんが言っている。

相澤さんは、看護師長になった。名札が変わった時、俺はそのことを何も言わなかった。相澤さんも、何も言わなかった。ただ、名札の下に貼ってあった星のシールは、新しい名札にも映されていた。だいぶ色が褪せた、あの時のシールのままだ。古い名札からそっと剥がして、貼り直したのだと思う。相澤さんは今も、俺の指示を必ず復唱する。俺が処方箋を書くと、渡す前に必ず読む。相澤さんが訪問に出ている日は、木戸さんが同じように読む。あの紙を書いた日から、その手順だけは一度も崩れていない。そのおかげで、俺はあれから処方を間違えていない。

村井さんは、今年で63歳になった。まだ事務をやっている。数字の話をする時の顔は昔と同じだが、最近はこんなことを言うようになった。

「先生、この方、今月から自己負担の割合が上がっております。お薬の量、ご相談された方がよろしいかと。」

「村井さん、それ、患者さんに直接聞いたんですか?」

「先生に言われましたので。数字のために誰かを置いていく時は、先に言えと。」

俺はその返事に、何度も救われている。木戸さんは、あれからずっと続けている。今は、この医院で一番若い看護師を教える立場になった。訪問の準備をしている時、後輩に向かってこう言っているのを聞いたことがある。

「行けなかった日のことは、一生忘れないから。だから、今日は行くの。」

俺は聞こえないふりをして、通りすぎた。

黒川先生とは、今も年に何度か話す。手術のいる人は、お願いするたびに電話をかけるからだ。相手が黒川先生の時もある。紹介状は、言われた通り短く書くようになった。要点を3つに絞って書く。一度だけ、電話の最後に「読みやすくなった」と言われたことがある。東成りメディカルガーデンは、今も隣の市で一番大きな病院だ。急なことは県立中央病院に。手術がいる人は東成りにお願いしている。あの2つがなければ、うちのやり方は成り立たない。そして、その逆でもある。黒川先生が言った通り、あの人にはあの人にしかできない医療がある。俺には、俺にしかできない仕事がある。同じではない、というだけのことだった。

久子さんも、今はうちに通っている。まで20分かけて来る。「うちの近くには内科がいくらでもあるでしょう」と言ったら、久子さんは笑って「ここがいいんです」と言った。診察の度に、久子さんは相澤さんのことを何か1つ話していく。子供の頃、犬を拾ってきて何も言わずに家で飼おうとした話とか、看護学校の受験の日に緊張しすぎて弁当を全部忘れた話とか。相澤さんはその度に、受付から「お母さん」と言って止めに来る。そういう日は、待合室が少しだけ明るくなる。

その春、父の命日に、俺は院長室にいた。机の上には、父の3冊のノートと、俺の4冊目がある。俺のノートは、まだ半分しか埋まっていない。壁に、父の写真をかけてある。開業何十周年かの記念にとった職員の集合写真から、切り出したものだ。父は、ほとんど笑っていない。いつもの顔だった。俺はその写真に向かって、話しかけた。

「父さん、俺はまだ父さんみたいにはなれない。」

写真は何も言わない。当たり前だ。

「診断は相変わらず遅いし、決めるのに時間がかかる。この前も、相澤さんに助けられた。でも、逃げずにここにいます。」

言い終わって、俺は少しの間、その顔を見ていた。ノックの音がした。相澤さんが入ってきた。手に湯飲みを2つ持っている。

「先生、お茶です。」

「ありがとうございます。」

相澤さんは湯飲みを机に置いて、父の写真を見上げた。

「今日、患者さんが3人、亡くなった院長先生の思い出話をしていきました。」

「そうですか。」

「あと、1人、『若先生もそろそろ結婚したらどうか』と。」

俺は湯飲みを取り落としそうになった。

「私、なんて答えたらいいか分からなかったので、『そうですね』って言っておきました。」

そう言って、相澤さんは笑った。それから、逃げるように院長室を出ていった。俺はしばらく机の前で固まっていた。窓の外は明るかった。3年前のあの朝と、同じくらいの光だった。俺は父の写真をもう一度見た。父は俺のことを、ノートにこう書いていた。「あれは、人を置いていかない医者になる」と。まだ、そこまでは行けていない。でも、置いて行かれた人間が、置いていかない側になろうとしている。それだけは、多分本当だ。

父の葬儀を終えた翌朝、この病院から職員の姿が消えていた。俺は、自分には何も残っていないと思った。でも、違った。あの朝、たった1人だけ、俺の努力を見てくれていた人が残っていた。天才ではない俺に残されたものは、才能ではなかった。患者を諦めないこと、頭を下げられること、そして、残ってくれた1人を信じること。あの朝、「頭を下げる人間には誰もついていかない」と言われた。確かに、30人はついていかなかった。それでも、1人だけ残った。医者には、それで足りる。あの日、涙目で「私は残ります」と言ってくれた看護師がいたから、父がこの町に残していった場所は、今もここにある。

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