「わかる? じじは初詮じなの。そういうの、世間では何て言うか知ってる? 老って言うんだよ。」
新社長の正幸は、そう言って俺を馬鹿にしてきた。仙代社長の跡を継いだばかりのくせに、やっぱり新しい組織に古株は邪魔なだけだと言わんばかりだ。
「なんせうちの業界じゃトップなんでしょう? それなのに未だに全時代のじじたちが羽聞かせてるのおかしくない?」
「それはつまり、自分たち古社員を首にするとそういうことでしょうか?」
震える声で聞き返すと、彼は馬鹿にしたように笑った。
「え、そんな直接的な表現、俺は好きじゃないな。俺、一言も言ってないよね、そんなこと。ひどいな。濡れ衣だよ。俺はただ世間一般の常識を口にしただけだし。」
わざとらしく首をかしげ、ダメ押しするように付け加える。
「まあでも、賢い人間なら分かるだろう。俺に盾つくとどうなるかね。」
そう言って、話は終わったとばかりに背を向けた彼に、俺はもう何も言い返す気力はなかった。この会社のことを思い、社員たちは還元しているというのに、彼にはそれが全く伝わらず、分かろうともしない。
ああ、この会社はもう終わりだな。
そう悟った俺は、退職届を突きつけ、自ら会社を去ることにした。老と言われた俺の力を見せてやろうじゃないか。そう強く誓いながら。
俺の名前は山尾義彦。海外の様々な食品を輸入販売する会社、小島グループで長年働き、現在は営業部の部長職にある。若い頃から食と海外の食文化に興味があり、日本にいるだけでは味わえない、その土地ならではの食に出会いたいと思っていた。その考えを強く持ち続け、就職後も積極的に現地へ足を運び、パンフレットや観光ガイドには載っていない生きた食文化を求めて行動してきた。
さて、この度、現社長が年齢と体調を理由に一線を退くこととなった。そして新社長には、社長の息子の正幸が就任した。だが、この正幸社長、高学歴で頭はいいのだが、それと同時に、とてもワンマンであることが就任早々判明したのだった。
「山尾部長、聞きました? あの社長、また勝手に商品を仕入れて、店舗にゴリ押ししてるみたいですよ。」
営業部での会議後、俺の元に部下が寄ってきて、ひそひそと愚痴をこぼす。すると、後片付けのために残っていた別の部下もその話題に乗ってきた。
「聞いた、聞いた。新しい商品を仕入れるのもそりゃ大事だけどさ。あの社長、自分の仕入れた商品を売りたいがために、売れ筋商品を店頭から下げろって言ってきたりするんだよ。」
引退した仙代は穏やかで、部下の話をよく聞く社長だった。それに比べて正幸社長は、典型的な自分に自信があるタイプ。社長として会社を引っ張っていく立場なのだから、自信がある分には問題ない。むしろいいことではあるのだろう。けれど、彼のそれは明らかに、人の話を聞かない方向に作用していた。
例えば、正幸社長は自分の気に入ったものしか認めようとしない。新規開拓をするのはいいが、市場の動向や商品自体の価格などを一切考えず、自分のやりたいように、自分の意見のみを押し付けてくる。そして、根っからのお坊っちゃん体質というのか、彼が仕入れてくる商品は質こそいいのだが、何しろ高価格帯のものばかり。小島グループは全国に展開しており、都会でこそ高価格商品も受け入れられているものの、それが決して全国基準ではないことなど、ちょっと調べればすぐに分かることだ。それなのに、自分の目に間違いなしとでも言うように、店舗全てをそのように変えていこうとするものだから、現場の人間にとっては溜まったものではない。
実際、店舗の総売上も右肩下がりに落ちてきている。今日の会議も、消費者離れに対する手立てが主題であった。
「なんとかなりませんか」と頭を抱える部下たちを見かねて、俺は口を開く。
「そうだなあ。一つ二つ、考えている案はある。君たちの案も取り入れて、上に掛け合ってみるよ。」
俺の返答に、部下たちがほっと息をついた。そして俺は、店舗に消費者を呼び戻すべくキャンペーン等を企画し、店舗スタッフとも協力して実行に移した。幸い、一時的にでも顧客の足を自店舗へ引き戻すことができた。しかし、それはあくまで応急処置。業績悪化が食い止められている間に、根本的な立て直しが必要なのだ。
すると、この事態を重く見た一部の役員たちが、引退した仙代に助言を仰ぐべきだと言い出した。確かに仙代は、周囲の話をよく聞き、適切な対処が取れる社長だった。何も知らされていない正幸社長には悪いが、今はそんなことを言っている場合でもない。そして、正幸社長抜きでその提案はまとまり、俺も営業部の部長としてその場に同席することとなった。
しかし、である。仙代との会合が一週間後に迫ったとある日、その知らせは唐突にもたらされた。自宅で静養中であった仙代が、なんと流行り病にかかり入院。それも治療の甲斐なく、誰とも面会できないまま急逝してしまったのである。
仙代の訃報は、社内に大きな動揺を与えた。仙代は社員たちと距離が近く、俺も若手の頃から何くれとなく声をかけてもらっていた。もちろん俺ばかりじゃない。この会社にいる古参社員は、全員と言っていいほど仙代に恩を感じている人間ばかりである。特に仙代との会合を目前に控えていた俺や一部の役員たちは、電話でも元気だと聞いていただけにショックは大きく、また予定されていた会合も泡となって消え、立ちまち八方塞がりとなってしまった。
しかし、社内全体が悲しみと不安に沈む中、正幸社長はその隙をつくようにして、本格的に社内での自身の地位を確立しようと動き出したのである。子とはいえ、考え方も社長としてのあり方も何もかもが違う父は、正幸社長にとってはまさしく目の上のたんこぶだったのだろう。その邪魔な存在がいなくなったとばかり、正幸社長は前にも増してワンマンぶりを振りかざすようになった。また、彼と古参たちの不仲につけ込むようにして、新社長にへつらっておこぼれにあずかろうとする社員も現れ始め、社内は仙代派と正幸社長派に二分されていった。それにより、社内の空気も一気に悪くなっていった。
さらには、正幸社長のワンマン経営により、再び店舗の売上も下がり始める始末。輸入食品チェーンではトップを走っていた小島グループも、いよいよ倒産かと巷ではもっぱらの噂だった。
このままではいけない。ため息をこらえながら、俺は強くそう思った。頼りだった仙代はもういない。一部の古参たちも首にこそされていないが、皆、会社の方針を決める経営会議などからはさりげなく外されてしまっているらしい。誰かが何とかしなければ、この会社は本当に終わってしまう。それならば、いっそ自分がと、俺はとうとう覚悟を決めたのだった。
だが、面会を取り付けた俺の顔を見て、正幸社長は小馬鹿にしたようにして肩をすくめる。
「なんだその顔。まるで昔の武士みたいじゃないか。」
言葉は冗談めかしていたが、据えられる視線には明らかに苛立ちと軽蔑の色が含まれていて、俺が何をしに来たのか、正幸社長も薄々察しているようであった。自分は一介のサラリーマンではあるが、今なら暴君無道な殿様に還元する彼らの気持ちも分かると、俺は思った。
そして俺は、まっすぐに彼を見据え、静かな口調で語りかける。
「社長、社長だって分かっていらっしゃると思います。このままでは我が社は近い将来、最悪の事態となってしまいます。今なら、今ならまだ間に合います。どうか現場の声をよく聞いて」
だが、その瞬間、正幸社長の盛大なため息が俺の言葉を遮った。彼は肺気を吐き切るようにして唸ると、勉強に飽きた子供のごとく、社長室の椅子にだらんと体を投げ出す。
「ああ、つまらん。本当つまらないんだよな。現場の声を聞け。ワンマンに振る舞うだけが社長じゃないって。お前ら古参を開けばそればっか。悪いけど、こっちは耳タコなんだわ。」
うらを浮かべて、正幸社長は俺を見据えてきた。
「まあ、じじは同じ話を何回でも繰り返すからな。は、俺の親父もそうだったよ。人の顔見りゃ謙虚に振る舞えだの、社員あっての社長だの。お前はぶっ壊れたレコードかっての。」
あははと間抜けに間の抜けた笑い声を響かせて、彼は肩を震わせる。そして直後、笑うことをやめた正幸社長は、不意にこちらを睨んできた。
「マジでさ、お前らいい加減にしろよ。」
光の刺さないその目は淀んでいて、自身の父親や古社員に抱く彼の暗い感情が如実に表されているようであった。そして正幸社長は、椅子に持たれていた体を起こすと、口の端をニヤリと釣り上げる。
「あのね、おじいちゃん、時代は常に変化しているのですよ。わかる? じじは初詮じなの。凝り固まった考え方に固執して、新しい意見を取り入れないのはそっちの方だろうが。」
彼の言葉に合わせて、ぎっと椅子が軋んだ。落ち着きなく体を揺らしながら、正幸社長は一気にまくし立てる。
「そういうの、世間じゃ何て言うか知ってる? 老って言うんだよ。そうそう。お前たち古社員は、この会社にとって老なの。新しい経営理念が理解できない老。」
そして今度は、たっぷりと嫌みを含んだ笑い声を立てた。さらに彼は、ふっと俺を一瞥すると、軽く首をかしげてくる。
「てかさ、お前らが老の寄り合いを開く予定だったこと、こっちはとっくに把握済みなんだわ。やっぱりじじはじじに寄ってくんだね。何? 俺抜きで親父に告げ口してやろうって?」
その言葉に、俺は思わず目を見張る。なぜそれを? 仙代との会合は、もちろん正幸社長には告げていない。ことが終わるまでは、会合参加者以外誰にも知らせないでおこうという取り決めをしていたのだが。こちらの反応に、正幸社長はくすくすと肩を揺らし、そのうち耐えきれなくなったかのように大声を上げて笑い出す。
「全く、さすがじじだね。お宝爪が甘いのよ。自分たちだけの秘密のつもりだったのかもしれないけど、残念。こっちにだって、そうやって働いてくれる社員はついてるんだよね。」
どうやらこの口ぶりからして、向こうに情報は漏れていたらしい。参加者の一部が裏切ったか、それとも俺たちの動きを監視している誰かがいたのか。とにかく、今はそのことを議論している時じゃないと、俺は気持ちを切り替える。
「現社長のあなたに黙って仙代と連絡を取ったことは謝ります。ただ、それくらい現場は切羽詰まっていて」
「はいはい、ストップ、ストップ。」
だが正幸社長は、俺の言葉を止めるようにして、目の前でおざなりに手を振った。そして、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような口調で続ける。
「おじいちゃん、その話はさっきも聞きましたよ。あのさ、俺もこう見えて忙しいわけ。なんせ社長だからね。じじの繰り言に最後まで付き合ってやる暇なんて、これっぽっちも持ち合わせてないんだわ。」
ニヤニヤと頬を歪めながら、正幸社長は言った。
「やっぱり新しい組織に古株は邪魔なだけだな。なあ、お前だってそう思わない? なんせうちの業界じゃトップなんでしょ? それなのに未だに全時代のじじたちが羽聞かせてるのおかしくない?」
「それはつまり、自分たち社員を首にすると、そういうことでしょうか?」
震える声でそう聞き返した俺に、彼は馬鹿にしたような笑いを浴びせてくる。
「え、そんな直接的な表現、俺は好きじゃないな。俺、一言も言ってないよね、そんなこと。ひどいな。濡れ衣だよ。俺はただ世間一般の常識を口にしただけだし。」
いかにもわざとらしく首をかしげて、そんなことを言ってくる正幸社長。そして彼は、ダメ押しするがごとく付け加えた。
「まあでも、賢い人間なら分かるだろう。俺に盾つくとどうなるか。お宝もさ、その年で食を失いたくはないだろうし。だからここは、ウンウンで行きましょうって言ってるんだよね。」
そう言って、話は終わったとばかりにこちらに背を向けた正幸社長に、めげずに言い返す気力はもう俺には残っていなかった。
それ以降、俺は何をするにもあまり身が入らなくなってしまった。飲みに行っても、出てくる話題といえば正社長の愚痴ばかり。この年でも食べることに関しては衰えを感じたことなどなかった俺だが、目の前で美味しそうな湯気を立てる料理に対し、あまり箸が進まない事態となっている。こうして愚痴を言い合っていたところで、事態は好転しないことなど百も承知だ。けれど、こうして誰かに吐き出さなくては、もうあの会社で働くことすら難しくなっている。
「この頃は転職サイトばっか見ちゃうんですよね」と遠い目をする部下の横顔をぼんやりと見つめながら、俺も今後の身の振り方に頭を悩ます日々が流れていった。
そんなある日、寝耳に水のニュースが飛び込んできた。仙代との会合を取り仕切っていた役員が、突然解雇されたというのだ。あの会合の存在を知らない社員たちは、有能で仕事もできる役員の不可解な解雇に、一様に首をひねっている。
「危機も中途半端だし、っていうかなんでこんな突然」
「もしかして、正幸社長の指示だったりして」
部下たちがああだこうだと言い合っているのを横目に、俺は無意識に自身の拳を握りしめていた。きっと、やめさせられた役員は見せしめに使われたんだろう。俺に逆らうとこうなるぞという、正幸社長の高笑いが聞こえてくるようだった。それに、何もできなかった自分自身にも、俺は腹が立っていた。意見しに行くのも中途半端。それも結局、こうしておめおめと何も変えられないまま、同じ場所で働いている。
俺はこれからどうしたいんだ。どうすればいいんだ。自問の声が胸の内をぐるぐると渦巻いた。
「部長、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ。」
その時、近くにいた部下が心配そうな顔でそう声をかけてきた。俺ははっとして、無理やり笑顔を作る。
「ああ、すまん。朝から風っぽくてな。ちょっと外の空気吸ってくる。」
「無理しないでくださいね」という優しい一言に頷いて、俺は廊下へと出る。目的は特になかったが、部下に心配されない程度には気持ちを落ち着かせなくてはと、ひとまず手洗いへと向かった。だが、悪いこととは重なるもので、その時、廊下の曲がり角でばったり、取り巻きに囲まれた正幸社長と出くわしてしまう。そして、目があった瞬間、正幸社長はニヤリと意味ありげに口の端を吊り上げたのだった。
あさまな挑発だ。飛び出そうな罵倒をぐっとこらえ、廊下の端により頭を下げた俺に、正幸社長は鼻白んだ様子を見せる。だが、すれ違い様、俺だけに聞こえるような声でこう囁いたのだった。
「次は誰かな?」
その一言に、俺の体は固まってしまった。微動だにしない俺の前を、正幸社長はゆったりと通り過ぎていく。そして、完全にその姿が見えなくなってから、俺はようやく頭を上げた。情けなかった。あんな脅し程度に恐怖を感じてしまう自分が。
あたりを見渡せば、正幸社長が通り過ぎた後は、みんな顔色悪く体を縮こまらせている。仙代派の筆頭だった役員の解雇が、予想以上に響いているのだろう。仙代がいた頃はあれだけのびのびとしていた社員たちが、今や何をするにも正幸社長の顔色を伺ってばかりいる。
こんな光景を見て、俺は思った。ああ、この会社はもう、俺が好きだったものとは違うものになってしまったんだな。ここで俺ができることはもうない。
ようやくそう悟った俺は、数日後、退職届を提出し、会社を去ったのだった。
そしてその一週間後、俺は小島グループのライバル会社、安井に転職していた。実は以前より、ここの社長には声をかけられていたのである。小島グループが正幸社長の台頭とともに業績を落とし始めたことで、ここが勝負時とばかり、安井の社長は一気に攻勢へと出たようだ。実際、この会社には小島グループから引き抜かれたと思われる社員たちが数人、すでに働いていた。初めは罪悪感のようなものを感じていた俺であったが、水を得た魚のように働く彼らの姿を目の当たりにし、認識を改める。そうだ。俺の居場所は今ここなのだ。この会社で俺がやれることはたくさんあるじゃないか。
それから俺はがむしゃらに働き始めた。環境が変わったことで、食への興味も復活し、俺はまた積極的に海外へと渡って、これぞと思ったものを会社へと還元していく。そして半年後、業界首位の座は小島グループから安井へと移ったのだった。また、俺は会社への貢献が認められ、社長賞を受賞することとなった。
そんな中、久しぶりのゆっくりした休みの日に、使用のスマートフォンが着信を告げた。見知らぬ番号だったので最初は無視をしていたが、以降もずっとかかってくるので、配送の荷物でも頼んでいたかと思い直し、電話に出る。すると、その瞬間、電話口からは盛大な罵声が飛んできたのだった。
「この恩知らずが!」
電話の相手は正幸社長だった。どうやら自身の使用スマートフォンからかけてきているらしい。それにしても、開口一番で人を罵倒してくるとは、彼も相変わらずな様子だ。きっと、小島グループが業界首位から転落したことに腹を立て、また俺がライバル会社に移ったことをどこかで聞きつけて、こうして電話をしてきたのだろう。
冷静に分析し、俺は静かに言い返した。
「待ってください。そもそも老だの邪魔者だのと言ってきたのは、あなたですよ。あなたの望み通り、自分は会社をやめただけです。それと、間違えないでくださいね。自分が恩を感じているのは仙代だけ。あなたではない。」
言い切った俺に、電話の向こうの彼がぐっと言葉に詰まった気配がした。だが、それも束の間、正幸社長は再び喚き出す。
「ふふん。そんなこと言って、俺はごまかされないぞ。お前が何かしたんだろう。安井程度では業界一位になんてなれるわけがないんだ。さてはお前、こっちの情報を流したな。」
ついには根拠も何もない出鱈目を言い出した彼に、俺は思わず笑ってしまった。唐突に笑い出した俺に、しばし呆気に取られていた様子の正幸社長だが、やがて気色悪そうな声で怒鳴ってくる。
「笑うのは気持ち悪い。木でも狂ったのか。」
その言葉に、俺はふっと口を閉じた。そして淡々と種明かしをする。
「情報なんか渡してませんよ。あなたはご存知なかったようなので、お教えしますね。実は、現在の小島グループが持つ海外との杖を開拓したのは、この私なのですよ。」
ああ。そう、俺が小島グループに入社した時は、まだ輸入食品市場はそこまで世間に認知されていなかった。また、小島グループも生活雑貨の片隅で輸入食品を扱っているような、その地域の中規模企業という立場に収まっていたのである。若い頃から度々海外へ貧乏旅行に出かけ、土地土地の食文化に触れ、その豊かさや奥深さに感動を覚えていた。そして俺は、当時社長に就任したばかりだった仙代社長に直談判したのだ。
「世界にはまだまだあんなに豊かな食文化があるのに、それを日本に伝えられないだなんてもったいない。」
今思えば若さゆえの蛮勇ではあったが、それでも仙代は、まだ二十歳だった俺の情熱を面白がってくれ、そうして俺に言ってくれたのだ。
「じゃあ、君が最初の一歩を踏み出してくれ。」
そうして俺は世界各地を回り、輸入食品の新規市場を開拓していったのである。また、俺の繋いだ縁により、小島グループは飛躍的にその規模を大きくし、気づけば業界トップとなっていった。
呆然とした様子の正幸社長に、俺は答える。
「もしかしたらあなたには、年功序列で部長になっただけの年寄りだと思われていたのかもしれませんが、まあ、もう終わったことですね。自分はそちらの会社をやめた人間なので。」
俺が持っている人脈の中には、会社ではなく、俺個人を信用して取引に応じてくれた相手先もある。だから、俺が会社を移ったと伝えれば、自動的に相手先との取引権も小島グループから安井へと移動するのだ。また、その中にはいわゆる売れ筋商品を多く抱える相手先もあったため、それらの商品を扱えなくなった小島グループが業界首位から転落するのも、また必然であった。まあ、あの様子であれば、俺のことがなくても、そのうち同じような展開にはなっていたと思うが。
ちなみに仙代には、いつか役員になってくれとも言われていたのだが、それを俺は断っていた。なぜなら、自分で動ける間は、できる限り現場に近い場所にいたいからである。自身のこの足で、この目と耳で感じて触れ合うことが、様々な食文化に対する俺の敬意であった。
するとその時、あれだけ怒鳴り散らしていた正幸社長が、突然猫撫で声でこう言ってきたのだ。
「なあ、これもいい機会だ。うちに戻ってこないか。給料は今の1. 5倍は出そう。それに役員の席も用意する。なあ、そっちの会社ではこんな好待遇なんてないだろう。」
俺はもはや呆れて、声も出なかった。厚かましいとはこのことだろう。まるで相手を人間として見ていないかのようなその言い草に、心底愛想が尽きる。
「ご心配なく。こちらではそれなりの待遇を受けております。今更そちらに戻りたいなどと思ったことはありません。それでは、自分の分まで仙代には謝っておいてください。」
そう言って俺はさっさと電話を切り、彼の番号も着信拒否に設定したのだった。
さて、それからまた半年が経った。業績が悪化の一途を辿っていた小島グループは、最終的に業界3位だった同業他社に吸収合併される形となり、小島グループの名はとうとう消滅してしまった。また、正幸社長は会社のトップとして全うな対処もできなかったようで、ついに社員たちにも見限られ、社長の椅子を引きずり下ろされることとなる。その後は、ひっそりと地方へ引っ越したとか、海外へ逃げたとか聞いたが、真偽は定かではない。
一方、安井は会社として成長を続け、今や業界の雄としての地位を確立している。社内の風も良く、貢献したものには相応の報酬や肩書きが用意されるので、社員たちもますます仕事に精を出すという好循環ができていた。
そして俺は、この度、部の役職を打診され、それを受けることにしたのだった。生き生きと働く若手を見ているうちに、そろそろ自分も後進に道を譲り、その育成に力を入れてもいい時期ではないかという心境の変化が生じたこともある。だが、まだまだ世界の食文化への興味は尽きることがない。この体の動く限り、また情熱が続く限り、俺は世界の豊かさを日本へと伝え続けようと、改めて心に誓ったのだった。



