離婚届を出す前夜、私の布団に滑り込んできた夫が泣きながら「愛しているよ」と言った。翌日、私たちは他人になった。半年後、検察官が家に押し入り、夫が横領で逮捕されたと告げられた。真面目な彼がそんなことをするはずがない。弁護士は「まるで逮捕される未来を知っていて、あなたを遠ざけたみたいですね」と呟いた。私は夫の無実を信じ、変装して彼の会社に潜入することにした。そこで見つけたのは、彼を陥れた人物の存…

離婚届を出す前夜、私の布団に滑り込んできた夫が泣きながら「愛しているよ」と言った。翌日、私たちは他人になった。半年後、検察官が家に押し入り、夫が横領で逮捕されたと告げられた。真面目な彼がそんなことをするはずがない。弁護士は「まるで逮捕される未来を知っていて、あなたを遠ざけたみたいですね」と呟いた。私は夫の無実を信じ、変装して彼の会社に潜入することにした。そこで見つけたのは、彼を陥れた人物の存...

「これで離婚成立だな。」

目の前で夫の純夜が澄ました顔で言った。記入も捺印も済んだ完璧な離婚届。受理されれば、私たちは夫婦から他人へと変わる。明日、区役所に行く約束をして、私たちは眠りについた。

離婚前日だというのに、心は妙に落ち着いていた。結婚生活20年を失敗で終わらせるというのに、不思議なものだ。

暗闇に引き込まれそうになっていると、突然、寝室に純夜が現れた。

「ゆか子、一緒に寝ないか?」

時刻は深夜1時。彼は私の布団に滑り込み、囁いた。

「最後だし。お願い。」

「急にどうしたの?」

直後、純夜が泣きながら告げた言葉に、私は衝撃を受けた。

「愛しているよ。」

それは、もう決して届けられるはずのなかった愛の言葉。全身が雷に打たれたように固まり、聞き間違いかと混乱した。

「何よ、今更。」

怒った声を必死に出すと、純夜は苦笑した。

「それもそうだな。すまない。別れを前に、僕も少し感傷的になったみたいだ。」

やはり一時の気の迷いらしい。彼はもう一度、私の後頭部に頬を寄せ、囁いた。

「おやすみ、ゆか子。」

「おやすみなさい。」

おかしな話だ。明日には離婚届を出すというのに、抱き合いながらおやすみを言い合っている。それでも、久しぶりに感じる温もりに抗えず、私は眠りに落ちた。

翌朝、純夜は以前の彼に戻っていた。そっけない態度、冷たい視線。昨夜のことは夢だったのかもしれない。

朝食を簡単に済ませ、私たちは離婚届を提出した。あっさりと受理され、私たちは他人になった。

役所を出ると、彼は言った。

「無事に終わったね。僕はこのまま仕事へ行ってくるよ。」

「土曜日なのに仕事なのね。」

「ああ。引っ越しが済んだら、鍵はポストに入れておいてくれ。それじゃ、行ってくる。」

「あ、ちょっと待って。」

私は彼を呼び止め、あるものを差し出した。

「今更だけど、受け取って。あなたへのプレゼント。」

「プレゼント?」

「結婚記念日にあげようって用意していたの。あげ損ねちゃったけど。」

苦笑しながら渡すと、彼は一瞬ためらい、受け取ってくれた。

「悪いね。」

「いいの。それじゃ、行ってらっしゃい。」

もう「お帰りなさい」が言えないことを自覚しながら、彼を送り出す。去り際に振り返った彼の笑顔は、穏やかで優しいものだった。

引っ越しはスムーズに進んだ。新しいマンションは以前より小さな部屋だが、一人には十分な広さだ。

新しいベッドで横になると、昨夜の純夜の体温を思い出して、少しだけ胸が痛んだ。もう「おやすみなさい」を言う相手はいないのだ。

子供が産めないことを責められ、浮気までされた私。その後、さらなる不幸が襲いかかった。

半年が過ぎ、悲しみがようやく癒えた頃。何でもない休日の朝、インターホンが鳴り響いた。

出ると、相手は複数人の検察官だった。しかも、彼らは固く捜査令状を手にしている。

「我々は検察庁のものです。倉田純氏を特別犯人の容疑で逮捕しました。協力をお願いします。」

純夜が逮捕? 特別犯? つまり、彼が会社で何らかの汚職事件を起こしたということだ。

驚きのあまり体が固まった私を押しのけ、捜査官たちは部屋に入っていく。

「ご存知なかったのですか? 旦那さんは先週、会社近くで逮捕されました。この10年でかなりの額を横領した疑いです。」

「あの人が横領? そんなことするはずがないわ。何かの間違いよ。」

「離婚されたのはたったの半年前ですよね。何か隠されているならば、素直に提供した方が身のためですよ。我々は元妻であるあなたに対して、まず疑いをかけなければならない立場だ。」

つまり、証拠隠滅や財産隠しのために偽装離婚したと見なされているのだ。頭はパニックになりつつも、必死で「何も知りません」と訴えた。

「あの人は、純夜は今どこにいるんですか?」

「拘置所です。現在、起訴に向けて様々な証拠を集めています。奥さんもご存知のことがありましたら、全てお話しください。」

私が知っているのは、純夜が秘書室長として毎日忙しく働いていたことだけ。横領や汚職など、想像もしていなかった。

結局、証拠は見つからず、捜査官たちは帰っていった。残された私は、乱雑になった室内で一人座り込んだ。

「一体、どういうことなの?」

純夜の逮捕、横領、拘置所。様々なキーワードが頭の中をぐるぐる回る。

その日の午後、また我が家に来者が現れた。弁護士と名乗る男性、天野氏だ。

「倉田さんの担当弁護士となりました。天野と申します。今日は純夜さんから受け取ったメッセージを伝えに参りました。」

「メッセージ?」

「はい。『もう自分に関わるな。僕は罪を犯した』と。」

まるで自白のようなセリフに、私は絶句した。本当に純夜が罪を犯したのか? でも、どうしても納得できない。

「信じられません。本当に彼が横領したのでしょうか? 真面目なあの人が、裏口座を作ってまで…」

天野氏は少し躊躇した後、口を開いた。

「純夜さんは罪を認めました。このまま起訴されれば、有罪はほぼ確定するでしょう。しかし、彼の罪の受け入れ方があまりにスムーズで、私も違和感があります。まるで、こうなることが分かっていたかのような…」

「スムーズ?」

「はい。別口座を作ってまで会社の資金を横領し、10年も巧妙に隠し続けたのにですよ。普通ならば、少しの言い訳ぐらいあるはずです。」

そういえば、彼が不倫を問い詰めた時も、あっさり認めてしまった。証拠は何もなかったのに。

「まるで逮捕される未来を知っていて、あなたを遠ざけたみたいですね。」

天野氏の言葉に、私ははっとした。

「面会へ行っても、あの様子だと本人が拒絶するかもしれません。彼はもう二度とあなたに会わないとおっしゃってましたから。」

その忠告に、違和感はますます膨らむ。やたらと私を遠ざけようとする態度、急に発生した汚職事件、あっさり認めた不倫と罪の事実。それら全てが、彼を知る私から見れば不自然だ。

それに、離婚する前日の夜の出来事。寝室に来た彼の態度を思い出す。私の前で泣くことなど、今までなかった。あの夜の純夜に見えた感情は、諦めに似ていた。

彼はこうなることを、半年前から知っていたのだろうか。

天野氏がいなくなった部屋で、私は拳を握りしめ、一人呟いた。

「きっと…きっと、何かがあるはずだわ。」

昨日まで離婚した現実を嘆き悲しんでいた。今は混乱ばかりで心はかき乱されている。でも、その奥で確かに残っている純夜への想い。真実が分からないなら、確かめに行けばいい。

私の中で、自分でも驚くほど強い決心が生まれた。

翌日、私は義実家へ向かった。3年前に義父は他界し、現在そこには義母が一人で住んでいる。

純夜の逮捕を先に知っていた彼女は、すっかりやつれていた。

「まさかこんなことになるなんて。でも、あの純夜が横領するはずがないわ。」

「私もそう考えています。純夜さんは真面目で優しい人です。罪を犯すような人間ではありません。」

「ゆか子さん…」

「彼はきっと何か事情を抱えていたはずです。でも、何も言わず離婚し、捕まってしまった。私は本当のことを知りたいんです。」

「でも、ゆか子さん、私も何も知らないのよ。」

悲しい顔を見せる義母に対し、私はあることを切り出した。

「お母さん、お願いしたいことがあります。確かお母さんは以前、派遣会社Rで働いていましたよね。私をそこへ紹介してくれませんか?」

「え? どういうこと?」

「派遣会社Rは現在、純夜の務め先のアスカ鳥物さんに清掃員を派遣しています。アスカ鳥物さんに潜入して、純夜さんに何があったのかを調べます。」

義母は息を飲んだ。

「私が昨夜考えた作戦の一部です。アスカ鳥物さんには偽名を使い、変装もします。お母さんは元嫁の頼みで、彼女の友人を紹介するとでも言ってください。私が勝手に騙して潜入したことにすれば、お母さんは何も知らないことになります。」

「でも、もしバレたらあなたは…」

「うまくやりますから。」

そこで初めて笑って見せた私に、義母の目が潤んだ。

「純夜を信じてくれているのね。」

力強く頷くと、義母の瞳の奥が強く光った。

「分かったわ。後輩に一人、部長クラスの子がいるの。その人に連絡を取って、私の紹介として変装したあなたを送り込みましょう。」

「ですから、お母さん、バレたら迷惑がかかるので、間に一度私の名を挟んで…」

「あなたが体を張るというのに、自分だけ安全圏にいられないわ。バレた時は私も一緒に償うわ。だから、お願い。一人だと思わないで。」

「お母さん…純夜のために、ありがとう。」

「ゆか子さん。そして…昔はごめんなさい。子供が産めないことを攻め立てて。」

彼女の視線は沈み、暗い表情を作る。それが私に対する罪悪感から来るものであると気づくと、こちらの目頭も熱くなった。

「大丈夫です。誰も悪くないんですから。」

そう、きっと誰も悪くない。純夜も悪くない。彼の真実を知るため、義母と協力して動き始めた。

現在の職場には休職届を出し、半年ほどの休みをいただくことにした。純夜の逮捕は業界内にも広がり、事情を察した会社側は深く話を聞かずに受理してくれる。

派遣会社Rへの登録は問題なくこなせた。私は「倉田ゆか子」の偽名を名乗る。化粧を変え、白髪の多いカツラをかぶり、眼鏡や付け袋なども使って変装を行った。わざと猫背にして体型もごまかせば、鏡の前には別人とも言える一人の年配女性が誕生した。

義母への相談から2週間後、私はついにアスカ鳥物への足掛かりを手にする。

「今日からここ、アスカ鳥物さんの車内掃除をお任せしますわ。就業時間内に指定された箇所の掃除を行ってください。休憩は1時間。自由に取ってくれて構いません。」

「分かりました。」

渡された清掃ルーティーンの表を見ると、曜日によって清掃箇所が変わる。中には社長室やシステムサーバー室に入れる日もあった。

第1段階はこれでクリアだ。私は全くの別人として、真実が眠るだろう場所へ足を踏み入れた。

最初は先輩の派遣さんがついて仕事内容を教えてくれた。1週間経ち、一人立ちの合格ラインに達すると、ようやく監視の目はなくなる。ここからが本番だった。

清掃員としての姿を手に入れた私は、掃除道具片手にアスカ鳥物内を自由に移動可能となる。社員たちの雑談に耳を傾ければ、純夜の噂話を聞くことができた。

「あの倉田さんが横領とはね。人ってのは分からないもんだな。」

「給料泥棒だよな。全く、使い込んだ金返せってんだ。」

やはり厳しい意見が多い。でも、その中で彼を擁護する声もあった。

「私、やっぱり倉田さんがやったなんて信じられない。あのお金の使い方って、どちらかといえば副社長よね。」

「しーっ、そんなこと言わないでよ。誰かに聞かれたらどうするの?」

「でもさ、倉田さんがいなくなってから、あの人やけに調子乗ってない?」

急須室で話す女性社員たちの会話で出た「副社長」という人物。頭の中で15年前のパーティーの様子が思い出された。

副社長であるレイジは、わざと純夜にぶつかりに行き、スーツを汚した。どう見ても明らかな嫌がらせだ。もしかして、彼が純夜を貶めたのか。

盗み聞きしながら急須室の前の手すりを拭いていると、背後から一人の人物が通り過ぎ、中に入った。

「あなたたち、休憩時間を取りすぎじゃない? 暇なら仕事を振ってあげてもいいのだけれど。」

「金子さん、大丈夫です。今戻るところですから。」

現れたのは、レイジの隣にいたあの女性、美春だった。15年経った今では40歳前後のはずだが、未だ若々しく美しい。

彼女と入れ替わるように、そそくさと女性社員2人が急須室から出てきた。

「やっぱ、副社長のお気に入りに悪口聞かれたかな。」

「もう、だから気をつけてって言ったのよ。あいつ、地獄なんだもん。」

彼女たちは清掃員を背景の一部としか見ていないらしい。去っていく。残された私は、呆然と掃除の手を止めていた。

この匂い…。美春が急須室に入る瞬間、こちらの鼻をくすぐった甘い香り。純夜から何度も漂ったことのあるものだ。まさか、彼女が純夜の不倫相手なのか。

私はギュッとモップの柄を握りしめ、気を消して中に入った。わざとしわがれた声を作って発する。

「失礼します。こちらもモップをかけますね。」

「ああ、どうぞ。」

美春はコーヒーサーバーの前に立っていた。清掃員としてモップをかけるふりをしながら、徐々に彼女に近づく。

「おや、いい匂いですね。何か香水ですか?」

勇気を出して話を振る。正体に気づかない美春は、機嫌良さそうにニッコリと微笑んでくれた。

「でしょう? これ、高級ブランドの香水なのよ。」

「素敵な香りですね。恋人からの贈り物ですか?」

「大正解。彼がこの香り大好きだから、ずっとつけてるのよ。」

恋愛話が好きなのだろう。こちらが部外者なので話しやすいのかもしれない。彼女は聞けばベラベラと答えてくれた。

「ずっとですか? どれくらいです?」

「もう5年は使ってるかな? なくなれば彼が買ってくれるし、愛されてるって感じ。」

「お相手はどんな方で?」

すると美春は声を落として、こちらに顔を寄せた。近づいたせいで正体がバレやしないかとヒヤヒヤしてしまう。

「内緒にしてね。実はさっきあの子たちが悪口言ってた副社長。でもダンディで、とっても素敵な人なのよ。」

彼氏が純夜ではないことにほっとして、息を吐く。やはりレイジと美春はただの上司と部下ではなく、男女の関係もあるようだ。

「副社長を射止めるとはすごいですね。美しい方ですもの。きっと彼も首ったけでしょう。」

「おだててもっと喋ってもらおう」としたが、彼女の表情は少し曇った。

「首ったけなのは私の方。彼って仕事人間なの。」

そして小さく吐息をつく。

「だから私、もっと仕事で役立たないと。彼が望むなら何でもやり通すわ。どんなことでもね。」

最後に吐き出された言葉は、ほぼ独り言だった。休憩を終えた美春は「またお話聞いてね」と笑顔で手を振ると、急須室から出ていく。

車内恋愛なのでなかなか恋の話ができない彼女にとって、私は良い話し相手になれたらしい。

それまでの会話を反芻して、しばし考え込んだ。

「レイジが望むなら何でもすると言った美春。あれほど彼を愛する彼女が、わざわざ既婚者の純夜と不倫するとは考えにくい。では、不倫相手は別の女性だろうか。しかし、ホテルに一緒に入った人物は美春の体型や雰囲気とよく似ていたように思う。それに、あの香水は車内では彼女しか使っていない。」

不倫相手として疑った女性イコール美春と考えるのならば…。

「レイジと美春にはめられた。」

口をついて出た考えは、当たっているように思えた。

純夜を敵視していたレイジと、レイジに心酔する美春。彼らが純夜に近づき、横領をでっち上げる策略をしたのではないだろうか。

私が頭の中で組み立てた仮説はこうだ。

美春曰く、5年前からレイジとは香水を送ってもらえる深い仲にある。その頃からすでに、あるいは2人で会社のお金を使い込んでいった。しかし、バレる恐れを持った彼らは、スケープゴートとして純夜を選んだ。それが5年前、純夜の様子が変わった時期だ。レイジの命令で美春が彼に近づく。そうして、濡れ衣を着せるための下準備を進めていたのでは…。

私はこの仮説を元に動き出すことにした。

レイジには豪華な副社長室が与えられている。噂に聞くに、副社長へ就任した際に彼のわがままで当てがわれたらしい。そこの清掃がちょうど今日の清掃スケジュールに入っている。

「失礼します。」

緊張しつつ入ると、中は無人だった。安心して清掃しながら、それとなく書類や戸棚をチェックする。本当はパソコンも覗きたかったが、見つかった際のリスクが大きい。ファイルをいくつか取り出して目を通す。それらしいものはなかった。

「さすがに仕事関係ばかりか。」

目のつく範囲にはないだろうと考え、次に奥の重厚なデスクへ近づいた。レイジだけが使う彼のテリトリー部分だ。きちんと整理され、上には何も置かれていない。

引き出しも鍵がかかって開けられなかったが、一番下は容易に開いた。その中に、ラベルのない黒いリングファイルが見える。手に取り、パラリとめくって確認すると、息を飲んだ。

「これ…純夜の情報だわ。」

入社時に使われた履歴書と職務経歴書が挟まれている。しかも、生い立ちや過去の人間関係の調査報告書まであったので驚いた。どうやら独自に調査されたものらしい。

その時、パーティーの時にレイジたちがしていた会話を思い出した。

「例の調査は済んだか?」

「はい。こちらに調査結果の資料がございます。」

美春から受け取った書類を見て、レイジはつまらなそうに言っていた。

「こうも弱点のない男というのはやりにくいな。」

「付け隙がなかなか見つかりませんね。」

あの時の資料がこれではなかろうか。調査記録の日付を見れば、15年前のパーティーより前のものとなっている。当時からすでに純夜は2人に目をつけられていたのかもしれない。ぞっと背筋が寒くなる。決定的な証拠とは言えないが、可能性が見えてきたのだ。

持っていた自分のスマホでファイルの写真を撮り、中に戻す。すぐに副社長室を後にした。

そして私は清掃員の仮面をつけたまま、アスカ鳥物内で調査を続ける。副社長室に入れる曜日や時間も限られているし、怪しまれないようにきちんと清掃もしなければならないので大変だ。だが、潜入してから1ヶ月も過ぎる頃、私は車内の事情をかなり知ることができた。

白鳥社長は息子であるレイジに社長を継承させるつもりはなく、取締役や重役たちの中から次期候補者を何人かピックアップしていった。そのメンバーに純夜もおり、秘書室長への昇格もこの一環だったようだ。しかし、レイジ自身はそれを良しとは思わない。特に自分と年齢の近い純夜が候補に入ったことにかなり腹を立てたらしい。候補者の中でも一番に目をつけられた。

彼が純夜に対しきつい言葉を吐く場面は車内でもよく見られていたそうだ。そして5年ほど前から、このアスカ鳥物での純夜の様子が変わってきたのだという。今までになかった会議の遅刻。社長のスケジューリングや手配不足という仕事上のミスなど、彼らしからぬ失敗が相次いだ。ちょうど家庭でも元気がなくなっていた時期だ。

仕事の質ではなく、重なる失敗が純夜をあれほど疲弊させていたのだと分かる。しかし、順調にしていた仕事を急にこなせなくなるのは怪しい。秘書室長になったばかりの頃、彼は大変そうだったが生き生きと会社に通っていた。それが実力も十分についた5年前に突如できなくなるとは考えにくい。何か邪魔があったのではないか。

そう考えた私は、清掃員という立場を存分に利用してあちこちを調べ回った。純夜の身の潔白を証明できる証拠を求めて、夢中で集める。

そんな中感じるのは、やはり彼は何も変わっていないという確信だった。昔から優しくて真面目な性格をしていた。そんな人が会社のお金を使い込むなどありえない。ましてや私を裏切り、不倫するわけもないのだ。

どうして離婚を切り出された時、すぐに気づいてやれなかったのだろう。彼はあんなにもSOSの信号を出していたのに。

有力な証拠はなかなか出てこない。それでも歯を食い縛り、見えない壁へと立ち向かう。体を突き動かす原動力は、この胸で燃え続ける愛。決して消えない確かなる思いだった。

潜入開始から3ヶ月が経った。純夜が逮捕されたのは、そのさらに3週間前。裁判はまだ始まっていないが、起訴はすでに行われている。起訴の段階に踏み込んだということは、検察側は純夜が犯人だと決めたわけだ。今はおそらく検察も、確実に純夜が犯人だという証拠を必死に集めているだろう。本人の自白だけではなく、物的証拠が十分に揃わないと裁判まで進められない。その間に早く何とかせねばと気がせく。

今日も清掃員の格好でアスカ鳥物内をうろつく私は、社長室に入った。指示された場所の清掃をするために入室したのだが、珍しく白鳥社長が中にいたので緊張した。

「失礼します。清掃に入らせていただきます。」

「ああ、どうぞ。」

デスクに座り、書類に目を落とす彼の表情は疲れている。無理もない。白鳥社長もあれから警察の事情聴取や捜査にかなり協力させられているのだ。

心配しながらも怪しまれないように清掃をしていると、ふと白鳥社長が口を開いた。

「何か得るものはあったかね?」

最初は電話で誰かと話しているのかと思い、聞き逃していた。しかし、改めてはっきりとこちらに向けて言われる。

「あなたに言っているんだよ、ゆか子さん。」

「え?」

「まさか夫の会社に潜入するとは。君たち夫婦の愛には感心させられる。」

穏やかな瞳がこちらを見ていた。誰にもバレなかった私の正体が、初めて暴かれた瞬間だった。

「白鳥社長、気づいていたのですか?」

「これでも人間観察が趣味でね。大丈夫。私以外はあなたの正体に気づいてはいないさ。」

微笑んだ彼に、こちらを攻めるような気配はない。それでも焦った私は慌てて頭を下げる。

「このような真似をして申し訳ございません。派遣会社は何も知りません。騙して私が潜入したんです。」

床を見つめたまま、早口に告げた。

「夫が汚職事件を起こしたと思えなくて、いても立ってもいられなかったのです。社長や会社を疑ったわけではありません。何かの間違いではないかと、それが知りたかっただけで…」

「間違いではないかと思うのは、イコール会社を疑うことにならんかね。」

言葉に詰まる。しかし、と社長は小さくため息をついて頭を振った。

「責めているわけではないんだ。これは私自身の苛立ちをぶつけただけだな。申し訳ない。実は私も他の車内の人間を疑っているからね。」

「え?」

思わぬ言葉を聞いて頭を上げる。悩める表情の彼と目があった。

「私も未だに倉田君が逮捕されたことに疑問を抱いている。あれだけ会社や私に真摯に向き合ってくれた人物を、どうしても疑えない。それに…」

彼は付け加える。

「証言や証拠が息子のレイジ側の人間から出てきているからな。親としては疑いたくないんだが、正直怪しいと思っているよ。」

白鳥社長もどうやら、レイジが純夜をはめたのではと感じているようだ。彼は初めて親の顔を見せ、すがりつくように問う。

「ゆか子さん、潜入してから何か得るものはあったかね?」

最初に言われた言葉だった。どう答えていいのか分からない。白鳥社長は味方だろうか? それともレイジを助けようとする敵になるのか?

「社長は…どちら側の人間ですか?」

緊張しながら聞いた。ここで間違えば、今までの苦労が水の泡だ。

白鳥社長は一瞬目を見開いたかと思うと、柔らかく笑った。

「本当に似たもの夫婦だな。2人ともまっすぐで強い。」

「そうだな。私たちもそうしていれば、離婚せず息子を正しい道に導けただろうに。」

彼が社長就任後しばらくして妻と別れた過去を、純夜から聞いていた。だからこそ一人息子のレイジを引き取り、副社長に当てがったのだと。

「離婚の後ろめたさから我が子に役職を与えたのが間違いだったんだ。ゆか子さん、すまない。あいつは副社長になれる器ではない。」

「彼は…」

「レイジが裏で糸を引いているだろう。出てきた証拠も証言も、おそらくあいつのでっち上げだ。」

まさかこれほどはっきり言うとは思わなかったので、私も驚く。白鳥社長は頭を下げた。

「こんなことを頼むのは卑怯だと自覚している。どうか、レイジの罪を暴いてほしい。」

「白鳥社長…」

「もちろんだ。子供が間違った道を行くのなら、正してやりたい。だが、親の私が逮捕まで追い詰めては、あいつがあまりにも不憫でな。」

彼は頭を戻しつつ言葉を続けた。

「それに私は動きにくい立場だ。車内調査委員会は信用できる人物を入れたが、何人かはレイジ側についてしまった。おそらく買収でもされたんだろう。」

苦渋の表情を見て、白鳥社長も自分なりに純夜の潔白を証明しようと動いたのだと分かる。きっと彼なら信用していい。勘ではあるが、そう思えた。

「もちろん、こちらで手に入れた情報もそちらに渡す。だから、どうか。」

「分かりました。社長、私がレイジさんの証拠を集めます。」

すると彼の表情が安堵に変わった。

「ありがとう、ゆか子さん。」

こうして私と白鳥社長の協力関係が結ばれた。互いに今まで集めてきたそれらしき証拠を提示する。私が出したのは、例の純夜の情報を集めたファイルの存在。そして社員たちの噂話の記録書。特に美春が語るレイジとの関係は、純夜の不倫関係がなかった事実を証明してくれた。録音した彼女との会話を流す。

「レイジのために、彼のライバル男の弱みを作る目的で言い寄ったりもしたのよ。ボディタッチもしたし、奥さんの不安を煽るためにパンティも忍ばせたわ。」

結婚前に見つけたパンティの正体が、ここで明らかになる。やはりあのパンティも美春のものだったのだ。彼女は目の前の清掃員がその奥さんだとも気づかず、武勇伝のように喋っていった。

「そうそう。商談だって言ってホテルに誘ったりもした。でも、嘘って見破られて、すぐに帰られちゃった。なんか街のホテルだと警戒されるから、シティホテルにしたのに。手ごわい相手だったなあ。」

純夜は私を裏切っていなかったのだと分かり、安堵する。しかし、この時不適に笑った美春の表情は腹立たしかった。

「まあ、結局横領で逮捕されたけどね。」

愛する人に協力して、落とし入れた相手に罪悪感はないらしい。彼女もまた、私の復讐すべき人物だとこの時確信した。

「やはり彼女も動いていたか。」

録音データを聞き、ため息をつく白鳥社長。そして彼が出した証拠は、私がするものよりも決定的なものだった。

「個人メールの記録ですか?」

「そうだ。レイジのプライベートのメール履歴をこっそりとプリントアウトした。協力者とのやり取りがここにある。」

白鳥社長が見せるプリントには、仲間との犯罪的なやり取りが明記されていた。裏口座からスイスの俺の口座に送金しろといったお金に関することから、倉田を罠にはめる準備を進めるなという純夜への濡れ衣の準備まで。やり取りの相手は私も聞いたことがある重役や管理職の人間。そして美春が一番多かった。

「完璧な証拠じゃないですか? 警察には提出したのですか?」

「まだだ。手に入れられたのはつい先日だ。それに、私もこれを提出する心構えがなかなかできなかった。」

曇った表情の白鳥社長に、彼が抱えていた葛藤が見える。だからこそ、清掃に入ってきた私へ声をかけたのだろう。この証拠を託す相手として選ばれたのだ。

「分かりました。これは私から提出させていただきます。」

「ありがとう。それにしても、息子の罪を知りながら躊躇してしまうとは、本当に情けない父親だ。」

「そんなことはございません。こうして証拠を渡すのだって、勇気が必要でしたでしょ。」

何度も己を責める白鳥社長を励ましたくて、私は告げる。

「純夜は父親にはなれませんでしたが、結婚したばかりの頃、いつも話していました。もし子供ができたら、白鳥社長のような父親になりたいと。」

彼は驚き、こちらを向いた。

「どんな相手にだって真摯に向き合い、きちんと内面の奥まで見ようとする。そんなあなたに憧れて、あの人も仕事を頑張っていたのです。」

「買いかぶりだよ。」

「だとしても、彼がそう感じていたのは事実です。純夜が真摯に会社や社長に向き合っていたとおっしゃっていましたね。それは、あなたから教えられた姿でもあるんですよ。」

「ゆか子さん…ありがとう。」

白鳥社長は初めて私に一筋の涙を見せる。それはとても美しくて尊い、父親としての悲しみだった。しばらくして彼は顔を上げる。そこには以前のような貫禄がある、しっかりとした社長の表情があった。

「ところで、倉田君への面会はしたのかね?」

「いえ、実はこちらも勇気が出ず、まだできていないんです。弁護士の方から『もう自分とは関わらないで欲しい』と伝言されて…」

純夜は今、留置所から拘置所に移動したと弁護士の天野から聞いている。もしかしたら拒絶されるかもしれないと考えると、どうしても足を向けられなかった。

5年間も通して罠にはめられていた純夜。仕事のミスを作為的に誘発あるいは捏造され、車内の信用を失わされた。プライベートでも美春が言い寄ったり、パンティを忍ばせたりして、家庭内にまで不安を煽った。

まんまと策略に引っかかり疑った自分が情けない。しかし、その誤解を利用して離婚に持ち込んだ彼の目的が、今の私には分かっている。

純夜はもうすぐ横領の濡れ衣を着せられ、逮捕となる未来を予測していたのだ。だから私を遠ざけてくれた。離婚して他人となれば、私や両親は犯罪者の親族にはならない。スムーズな離婚への運びと、多額な慰謝料の振り込みがそのことを証明している。

でも、私はそんな未来を望んではいない。純夜と一緒に戦いたかった。

俯く私に、白鳥社長の温かい声が響いた。

「私が先に面会に行こう。」

「え?」

「それとなく、あなたがここで奮闘している様子を彼に伝えてみよう。そうしたら、倉田君の心情も変わるかもしれない。」

「白鳥社長、ありがとうございます。」

胸が熱くなる。私はもう一人で戦っているわけではない。義母や弁護士、そして白鳥社長が背中を力強く押してくれている。実感すると、純夜に会いたくなった。あなたを心から信用し、味方している人々がいるのだと彼に伝えたい。

「よろしくお願いします。」

今度は私が涙ぐんでいると、白鳥社長は「任せてくれ」と笑顔で答えた。

純夜との面会が可能になるならば、彼と話してから警察へ証拠を提出しに行こう。そう考え、社長から受け取った資料を大切にしまった。

3日後、白鳥社長から報告を聞いた。

「今ならきっと面会を受け入れてくれるだろう。ゆか子さんが清掃員として証拠を集めていると伝えたら、倉田君は泣き崩れていたよ。」

「あ…ありがとうございます。」

あの純夜が泣くとは、かなり精神的に参っているようだ。彼の心情を思うと胸が痛い。冷たい拘置所の中で、今何を毎日考えているのだろう。

「でも、よく伝えられましたね。監視の目もあったでしょうに。」

「彼は頭が良く、察しのいい男だからね。言い回しを変えても、私の伝えたいことはきちんと組み取ってくれた。」

その言葉に、純夜が白鳥社長の右腕として会社で隣に並ぶ姿が想像できた。きっといつもこんな風にやり取りをしていたのだろう。

翌日、私も純夜が拘束されている拘置所に赴いた。空を覆い隠すほどの巨大な灰色の建物。要塞。そんな言葉が頭をかすめるほどの重々しい雰囲気に圧倒される。

中で受付を済ませた。面会謝絶の可能性を恐れていたが、白鳥社長の根回しが功を奏し、受け入れられる。面会室へ向かう途中、窓口でいくつかの食品や生活用品を差し入れた。

緊張した面持ちで椅子に座る。しばらくすると、刑務官と共に純夜が入室した。約10ヶ月ぶりの再会だ。

「純夜…」

刑務官に促され、彼が目の前に座る。久しぶりに間の当たりにする純夜は、少しやつれていた。ひんやりとした冷たいアクリル板が2人を隔てる。

板の下の方にある小さな空気穴から、どこか遠くに感じる彼の声が響いた。

「久しぶりだね、ゆか子。元気そうでよかった。」

純夜はまず私の様子を心配した。やはり彼は何も変わっていない。

「あなたは少し痩せたわね。きちんと食べられている?」

「さっき食品を差し入れたから、召し上がってね。」

「ありがとう。」

それだけの会話を交わして、しばし時が止まった。何を言えばいいのだろう? 分からないが、こうして見つめ合うだけで心は安らかになる。向こうの彼も同じように感じているのか、黙っている。

実際にはほんの数秒。それなのに永遠と思えるような幸福な時間は、純夜の口火で終了した。

「それにしても、負担をかけたね。僕の実家の掃除をしてくれているんだろ。」

「え?」

「母さんから聞いたんだ。感謝するけど、くれぐれも無理せずにしてくれよ。」

彼の鋭い瞳を見て、すぐにピンときた。今私が動いている潜入捜査のことを暗に指しているのだ。すぐ近くには監視する刑務官。迂闊に会話をすれば、こちらの動きはバレてしまう。彼が言った「実家」は会社。「母さん」は白鳥社長のことだろう。力強く頷き、考えを理解したことを伝えた。

「元嫁ですもの。これぐらいするわ。」

そして私もある情報を伝えようと試みる。

「ご実家にいる猫の匂いにも慣れたわ。あなたがいつも身につけていた香りは彼女のだったのね。やたらあなたの気を引こうとしていたけど、今は野良猫に首ったけよ。」

義実家に猫はいない。「猫」は美春。「野良猫」はレイジのことだと、すぐに純夜も理解した。

「昔からだよ。野良猫ってあいつだろ? 目つきの悪いやつ。あの猫、昔から僕を嫌っているんだ。つまづかせて転ばせたりしてさ。」

「はあ。そんなこともあったわね。」

15年前のパーティーのことだ。きちんと彼も返してくれたのに、頷いて答えた。

「あいつ、野良猫のくせに変な執着があるんだ。僕から奪った大事なものも、きっとテリトリーに隠しているんだろう。」

純夜は暗に、レイジに何か奪われたことを私に伝える。「テリトリー」とは副社長室のことだろうか。

「大変だったわね。野良猫の跡をつけて、探してあげようか。」

「いや、そこまではいいよ。」

ははと笑って純夜は頭を振ったが、その目はしっかりと「探して欲しい」と訴えている。怪しまれないように注意深く進む会話。彼はふとある言葉を口にした。

「そういえば、母さんが金庫が開かないって困っていたな。」

「お母さんは?」

「番号は多分、飼い猫の誕生日だよ。忘れやすいよな。全く。」

「お母さん」は白鳥社長。「飼い猫」は美春。つまり、白鳥社長が開けたがっている金庫の暗証番号は、美春の誕生日というわけだ。先ほど伝えられた「レイジに何か奪われている」という内容を思い出す。純夜はレイジの副社長室の金庫を開けて、奪われたものを見つけてほしいのだ。私は微笑み、返事をした。

「分かったわ。お母さんにもきちんと伝えておくから。」

「ありがとう。助かるよ。」

そのうち刑務官から残り時間1分の宣告をされる。もう話を終わらせないといけない。純夜がそっとアクリル板に手を添えた。

「もうすぐお別れみたいだね。全く、君と離婚なんかしなければよかった。」

彼の後悔と当時の葛藤が見える。だが、離婚を言い出した時のような投げやりな態度はない。きっと白鳥社長との面会で、無実を晴らせる可能性が高くなったことも伝わり、純夜も戦おうと決意してくれたのだ。だからこそ、ああいうメッセージで証拠のありかと引き出し方を教えてくれた。

今は彼も味方だ。そして私にとっての掛け替えのない人生のパートナー。

同じように板へ手を当てると、2つの手のひらが向き合った。

「不倫したなんて言うからよ。」

「一時の気の迷いだったんだ。そのせいで君にもひどい言葉を浴びせたね。本当にごめん。」

嫌われるように、最後の手段で「子供を産めなかったこと」を責めた純夜。きっと言った本人も傷ついていた。

「失礼な話よ。私はこんなにもあなたを愛しているのに。」

「ゆか子…」

無機質な板が間にあっては、彼のぬくもりも伝わらない。こちらにかざされた彼の手首に、うっすらと手錠の跡が見えて痛々しかった。面会室に来るまでの間、両手には手錠がかけられていたのだろう。

改めて純夜が世間では罪人とされている事実に、怒りが湧く。

「私がこの要塞から救ってみせる。」

会社へ潜入する前にした決意は、彼との再会でより強固なものになった。

帰ってからすぐに、白鳥社長から教えてもらった番号に電話をかけた。純夜と話した内容を彼に報告する。

「なるほど。あなたの推測通り、倉田君が言及していたのは副社長室の金庫のことだろう。そこに彼の伝えたかった『奪われた大事なもの』があるのかもしれん。きっと犯罪の証拠となるものに違いない。」

「確認しに行きますか?」

聞くと、少し考えてから白鳥社長は返した。

「私では目立ちすぎるので、ゆか子さんに頼みたい。来週の水曜日であれば、レイジは出張で出払っている。誰かに見つかったとしても、清掃という言い訳も立つだろう。」

「そうですね。では、水曜日に決行いたします。」

「よろしく頼む。それにしても、まさかあいつの秘書の誕生日だったとは。」

以前から事件の重要証拠があるだろうと踏んでいた社長室の金庫の暗証番号が、美春の誕生日だったことに彼も驚いている。レイジも血の通う愛ある人間ということなのだろうか。それでも、私の夫を落とし入れて良い理由にはならない。白鳥社長の苦笑には何も返さず、そっと通話を切った。

そして水曜日。いつものように清掃員の仮面をつけ、掃除道具を抱えたまま副社長室に入った。鍵をかけては怪しまれるので扉はそのまま。だが、いつ誰が来ても言い訳できるよう、ぴったりと掃除道具のワゴンを身に寄せて金庫前にかがみ込む。

金庫はレイジのデスクの足元にあった。奥にひっそりと、だが存在感ある四角い金庫。縦横それぞれ30から40cmほどで、体積性の重いものだ。以前来た時には開けられず諦めたそれに手を伸ばす。ライトを当てて暗証番号を入力した。社長から教えられた美春の誕生日を打ち込むと、解錠の音が静かに響いた。

唾を飲み込み、そっと開ける。中にあったものを確認した。純夜がレイジに何を奪われたのかが、すぐに分かった。

裏口座用の印鑑と一緒に入っていたのは、純夜の筆跡を集めた雑な紙類。おそらく車内にある手書き書類を集め、彼の筆跡を完璧に模写したのだろう。ご丁寧に小さなトレース台まで入っていた。

裏口座を勝手に利用したのは純夜だと警察に思い込ませるために、レイジはここまで準備したわけだ。そう、純夜が盗まれたのは「筆跡」だった。

そして一緒に出てきたのは、裏口座の通帳とパスワード現票。いくら口座が倉田の名前で作られようとも、これらがここにある事実にはレイジも言い訳できないだろう。

これに合わせて私と社長が集めた証拠を警察へ提出すれば、逆転できる。

第一回目の公判開始がおそらく迫っている。事件から4ヶ月経とうとする今。いつ最初の裁判の知らせが出てもおかしくない。裁判が始まれば99%の確率で有罪となる日本において、純夜は不利だ。その前に勝負を打つのだ。私の心は一層燃えた。

翌週の月曜日、私はまた何食わぬ顔でアスカ鳥物を訪れる。就業前に着くと、社員たちはざわめいていた。廊下をぞろぞろと進む一団は、口々にぼやいている。

「急に経営方針発表会をするとは。」

「社長は何を考えてるんだ?」

「そりゃ、逮捕された倉田さんの尻拭いだろう。かなりの売上を持っていかれたからな。穴埋めをさせられるために、仕事内容が厳しくなるんだぜ。」

「きっと大した右腕だよな。社長も本当に人を見る目がない。」

彼らの会話に胸を痛めながら、怪しまれないよう静かについていく。発表会が行われる一番大きな会議室に皆は入る。ただ、清掃員姿の私は入れないので、扉にそっと隙間を開けて中を覗いた。

全社員の前で、白鳥社長が一段高いステージ上でマイクを手にしている。貫禄ある彼の低い声が場内に響いた。

「皆さん、今日は就業前にも関わらず集まっていただき申し訳ない。しかし、これから話す経営方針会は我が社にとって大きな方向転換となる。」

少し間を置いた後、彼は言う。

「私自身にとっても、大きな人生の分岐点だ。」

どこか含みのある言い方に、何かを感じ取った社員たちは静かになる。白鳥社長はまっすぐ全員を見つめ、告げた。

「皆さんもご存知の通り、約4ヶ月前、我が社の秘書である倉田純君が汚職事件で逮捕された。しかし、これは事実無根の濡れ衣であることを、私の口から宣言しよう。」

この言葉を皮切りに、会場内で大きなざわめきが起きた。社員たちは一斉に周りの人間と視線を交わしながら戸惑っている。

「倉田さんが濡れ衣だって?」

「何か新事実でもあったの?」

大抵は社長の言葉の意味を測りかねて困惑する顔ばかりだ。しかし、その中で何人かは焦った色を浮かべている。レイジと美春。そして彼らサイドの人間だ。

私は今のうちにそっと中に滑り込んで、彼らを観察した。騒然となった室内に、また白鳥社長の声が響く。

「彼は哀れなことに、自分の名前を勝手に裏口座で使われていた。しかし、裏口座を利用し会社の金を悪用したのは倉田君ではない。別の人物だ。」

そして彼はすっと人差し指を上げる。差し示す方向には、彼の愛すべき息子が顔面蒼白で立っていた。

「副社長、白鳥レイジ。お前がこの事件の首謀者だ。」

社員たちの動揺は一気に大きくなる。

「副社長が犯人?」

「倉田さんに濡れ衣を着せたってこと?」

白鳥社長の発言は池に投げられた大きな石だ。波紋はどんどん広がり、室内は騒がしくなる。注目の的となったレイジはただ震え、その隣にいた美春が先に声を発した。

「社長、実の息子であるレイジさんに対し、なんてことをおっしゃるのですか?」

彼女の愛は本物だろう。だが、それは歪みきった、間違いだらけの愛情だ。

美春に対し厳しい視線を白鳥社長は向けた。

「金子美春君、君がレイジのために作戦に協力し、奔走したことも知っている。だが、それは息子のためになるものではないのだよ。」

「そんな…私はただ彼のために…」

「お前は黙ってろ。」

その時、初めてレイジが声を荒げた。美春を邪魔そうにどかせて、父親に対して睨み返す。

「俺が首謀者だって? 父さん。いや、社長。妄想が過ぎますよ。だって、裏口座の名義は倉田で、それは警察も認めた事実なのに、どうして俺が犯人になるんだ。あんたは間違っている。」

全て知っているわけではないと高をくっているのだろう。確かに彼の用意周到さは目を見張るものがあった。レイジが10年前から開始した裏口座の悪用。そのために何人もの役員や部下たちを買収し、仲間を増やした。名義を偽造したのは、バレた時の逃げ道を作るためと、純夜に対する嫌がらせが目的だろう。15年前のパーティーの時からすでに、弱みがないかと探るほどに敵視していたのだ。弱みがなければ作ればいいと考えたに違いない。

そして5年前、何らかの事情で純夜は裏口座の存在を知った。だが、自分の名前を使われていた上、レイジサイドの人間たちから悪質な嫌がらせが始まり、告発もできないまま徐々に病んでしまう。私との距離も生じ始め、彼は覚悟を決めて逮捕されたのだ。

しかし、もうすでに裏口座の本当の金の動きも名義偽造の裏も取っている。白鳥社長から合図をもらうと、私は頷いた。

「いいえ、あなたが犯人よ。」

大きく響き渡った私の声。会議室後方に、ざっと全社員の視線が集まった。そこにいるのは、みすぼらしい格好をした清掃員のおばさん一人。注目を一心に受けても、私はひるまない。

「私の夫、倉田純夜は真面目で誠実な人。決して汚職事件など起こしたりしないわ。」

「って、お前、まさか…」

黙ってカツラやメガネ、付け袋などの変身道具を取り去る。素顔になったこちらの正体を、あえて名乗り上げた。

「倉田ゆか子。あの人の妻よ。」

離婚した身となったが、あえてこの名を口にする。ざわめいた社員たちの中でも、一番驚き蒼白になったのは美春だった。

「あの清掃員が倉田の奥さん…」

青ざめる彼女の脳裏には、今まで私にベラベラ喋った内容が駆け巡っているだろう。レイジのためなら何でもやると言い切ったこと。純夜を誘惑したり、わざと家庭崩壊を導いたこと。本当に、縦板に水のごとく話してくれた。

「あなたが話した内容も、証拠として録音済みよ。裏口座の話は出なかったものの、副社長のために純夜に言い寄ったりと、苦労したようね。明らかな犯罪の幇助だわ。」

「そんな…」

「お前、他人に喋っていただと。」

レイジが美春を睨みつける。彼女は慌てて言い訳を述べた。

「まさか掃除のおばさんが倉田の奥さんだなんて、知らなかったんです。」

「うるさい。俺の足を引っ張りやがって。」

その瞬間、レイジが払うようにあげた右手の甲が、美春の頬を打ち抜いた。力加減のない行為に周りは悲鳴をあげ、やられた本人は床に倒れて呆然としていた。

思わず美春に駆けつけ、体を起こした。

「あなた…」

「レイジさん…」

まだ信じられないといった様子でレイジを見つめる彼女の頬は、真っ赤に腫れている。女性相手に容赦ない。美春を支えたまま、私はレイジを責めた。

「なんてことをするの? 彼女は愛しているんでしょ?」

金庫の暗証番号は美春の誕生日だった。だからこそ、彼に人間らしい愛を感じて躊躇する思いもあったのだ。しかし、目の前の悪魔は冷たい表情で言い放つ。

「まさか。都合のいい女として利用しただけだ。」

「それなら、なぜ金庫の暗証番号を彼女の誕生日にしていたの?」

「こ、だと…お前、そこまで調べ上げたのか。どうやって番号を入手しやがった?」

レイジの視線がギロリと私を突き刺す。答えないでいると、苦しそうに彼は呟いた。

「あれは美春が勝手に設定しただけだ。帰るのも面倒だし、彼女の誕生日とは誰も思いもしないと考えたから、そのままにしたんだが。」

尽くしてくれた女性を、苦しみの種に一変させた。

「美春、お前はとんだ疫病神だ。」

「レイジ…」

絶望した美春は、何も言えなくなる。そしてレイジは、私が胸元に下げた身分証明カードを指さした。

「偉そうに言うお前だって、立派な犯罪者だろう。変装して潜入だって、偽名も使いやがって。経歴詐称だ。派遣会社もグルなのか。」

「いいえ。私が派遣会社ごと騙したのよ。」

そばにいた女性社員に美春を預け、立ち上がった。

「でも、それがどうしたというの? 夫を助けるために、覚悟を持って罪を犯したわ。責任もきちんと取るつもりよ。私を経歴詐称で訴えるのなら、すればいい。」

この男に負けるわけにはいかないと、強気を向き出しにする。

「でも、その時はあなたも道連れよ。あなたは自分が犯した罪の責任を取るつもりもなく、純夜に濡れ衣を着せた。私はそれを許さない。」

きっぱり言う私の耳には、こちらに向かう多数の足音が聞こえていた。断罪の時は今だ。

「さあ、観念なさい。」

タイミングよく、会議室にスーツ姿の男性たち5名が入ってきた。

「警視庁捜査第二の刑事だ。」

警部と思わしき眼光鋭い年配男性が近づく。

「副社長、あなたに特別犯人の疑いで逮捕状が出ています。」

即座に他の刑事2名が彼の背後を固め、他の2名は社員が逃げ出さないように辺りを警戒した。

「お、俺に逮捕だと?」

「はい。10年前から架空のコンサルタント費用名目で総額10億円を、自らが管理する海外口座へ不正に送金し、会社に多大な損害を与えた疑いがあります。」

警部の男性は逮捕状を掲げ、きっぱり宣告する。

「本日午前、裁判所より逮捕状が発布されました。ご同行お願います。」

「ち、違う。俺はやってない。」

まだ白を切ろうとするレイジの両手に、背後にいた刑事が手錠をかける。他の刑事たちは周りの社員に対して声をかけた。

「すみませんが、これから何人かの方々も車内で事情聴取をさせていただきます。金子美春さんは初めに任意同行を願いますか?」

「そちらの方も、あなたも…」

純夜をはめた時サイドの人間たちに、刑事が話しかけている。もう逃げ場はないと諦めたのか、抵抗する者はいなかった。

美春と4名の社員たちが会議室から連れ出されようとする。

「逮捕なんて嫌よ。」

震える足取りで連行される彼女とすれ違い様に、目があった。私は一言も発さず、ただ静かに彼女たちを見送る。

警部に支えられながら出口に向かうレイジに、社長が声をかけた。

「お前の席はもうない。警察で自分が何をしたのか、全て洗いざらい話してくるんだ。」

父親としての最後の情だ。だが、愚かな息子には何も響かなかったようだ。

「我が子を突き出す親がいるかよ。俺は悪くない。悪くないんだ。」

反省の色など微塵もない。パタンと扉が閉められる。

残された社員たちは、他の刑事たちに誘導され、仕事に戻っていった。何人かはこれから事情聴取のため、その業務の手を止めさせられることだろう。静かになった会議室に、私と白鳥社長だけが残された。

「お疲れ様。よく頑張った。」

「ええ、社長も。」

固い握手を交わす。

先週の水曜日、金庫を開けた後、すぐに証拠をまとめた私は、白鳥社長と一緒に警察に行った。この4ヶ月で集めた数々の証拠は、純夜の無実を晴らす材料としてかなり有力と見なされ、警察もレイジを犯人として動きを変える。裏取り捜査が行われ、海外口座の存在が判明した。関係者が多いため時間はかかったが、月曜日に逮捕状が出る目処が立つ。そこで社長は緊急に会議を開き、全社員の前で真実を暴いたのだ。

己を追い詰める行為を社員たちに見せた彼は、やはり社長としての器がある。純夜が向けていただろう尊敬の眼差しを、私も送る。

そして会議室の窓の外へ目を移せば、晴れやかな青い空。季節はいつの間にかもう春だ。澄み切った空には雲一つなく、純夜の身の潔白を証明してくれているかのようだった。

「純夜…私、やったわ。」

満足して呟いた。

その後、起訴されたレイジは裁判にかけられる。特別背任罪や証拠偽造罪など、様々な罪状が彼に突きつけられた。実刑判決が下され、懲役7年の結果に。他に彼に協力しておこぼれにあずかった社員も有罪判決となり、返金の義務を課せられた。また、知りながらも黙認した社員は解雇や左遷の目に遭っている。

一番の協力者、美春も懲役2年となった。彼女がしたのは純夜の業務妨害や不倫の偽造など小さなものだけでなく、裏口座の管理や裏金の不正利用もあったからだ。美春がいつも身につけていた高価なスーツやバッグ、そしてあの香水も裏金で手に入れたもの。愛だけでなく私利私欲にも走った行動は、さすがにフォローできない。

裁判で美春の見せる少し病んだ表情が気になった。

「レイジのやつ…許せない。あいつが出てきても、絶対に幸せになんかさせるものか。」

怨念こもる発言に、裁判所もざわついた。そして宣言通り、刑期を終えたレイジに対し、美春はつきまといを始める。お金も名誉も親からの信用さえも失くした彼を助けてくれる相手などいない。純夜を貶めるために協力した恋人たちが、お互いを引っ張り傷つけ合う。そんな未来を、私たちはまだ知らずにいた。

逮捕事件から1年後、無実として釈放された純夜は再び会社に受け入れられ、たくさんの人々が彼に対し謝罪した。彼は決して周りの人間を責めず、穏やかに笑う。

「分かっていただけたなら、いいんです。」

本当にお人好しだと思う。そんな純夜は現在、秘書室長ではなく専務の立場になった。白鳥社長と会社運営の右腕として働くのだ。

「おめでとう。」

「ありがとう、ゆか子。」

ワイングラスを2人で交わす。再婚した私たちは小さな家を購入し、また一緒に暮らし始めた。今日は彼の昇進祝いを我が家で行っている。

「あれから、お母さんにはかなりお世話になったわ。派遣会社へのフォローもしてくれて、感謝している。」

「僕からも改めてお礼をしなくちゃな。再婚を認めてくれた君の両親にも。あと、弁護士の天野さんにもね。」

「そうだな。あの人、僕の無実を信じて、面会の度にメンタルケアをしてくれた。感謝してもしきれない。」

味方になってくれた人々を思い出す。義母に両親、天野さん、白鳥社長。そして車内で純夜の逮捕を疑っていた社員たち。確かに彼に罪を着せた人間は何人もいた。でも、それ以上に彼を信じている人が多かったのだ。

「明日から、私も仕事再開ね。加藤さん、あなたとも話をしたいと言っていたわ。」

「久しぶりに僕も会いたいね。懐かしいよ。」

以前の職場に私も復帰が決まっている。経歴詐称に対し、アスカ鳥物も派遣会社も訴訟を起こさなかった。事情が事情だけに、不問としてくれたことを心より感謝している。

本当にたくさんの人に支えられ、未来は開かれたのだ。

「明日、あのネクタイをつけていくよ。」

「きっとあなたに似合うわ。」

離婚時に渡した結婚記念日のプレゼントを、大切に保管していた純夜。愛する彼と私は、これからも人生を歩んでいく。

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