「パパと一緒にいればハンバーガーもケーキも食べ放題だぞ。遊園地だって遊び放題だ」
夫が娘のさくらにそう言って笑った。しかしさくらは首を振る。
「さくらは、ばあばが作った黒豆が食べたいの」
愛する娘からの評価が黒豆より低いと知った夫が、前然とした顔で膝をついた。その情けない姿は自業自得以外の何者でもなかった。
私は38歳。仕事はウェブデザイナーで、座りっぱなしの毎日だ。仕事が終わるとご褒美にプリンを食べてしまう自称ダイエッター。でも子供の頃は痩せっぽちだった。貧乏だったからではなく、友達と一日中野山を駆け回っていたから。
私の実家は、私が小学生になる頃まで汲み取り式トイレだったくらいの田舎。コンビニは車で1時間。おばあちゃんがやっている小さな商店が買い物のメインになるような場所だった。今は車で15分のところにスーパーができたけれど、スーパーの駐車場に鹿が座っているような場所だ。でも子供たちは山に秘密基地を作り、川に飛び込み、野生のビワを蒸して食べ、全力で自然と遊んだ。
中学生くらいからキラキラした都会に憧れて、大学進学と同時に上京した。おしゃれなお店も人もいっぱいで楽しいけれど、今でも帰省して広い青空を見上げるとほっと心が安らぐ。都会も田舎も魅力もあればデメリットもある。私だけでなく、ほとんどの人が分かっていることだと思う。しかし、私の2歳上の夫は都会至上主義の人だった。
「いやあ、北から移動してきた同僚の訛りがひどくてさ、何度も『はあ?』って聞き直しちゃったよ。取引先からの差し入れの菓子も『こんなに綺麗なお菓子を食べていいんですか』なんて田舎丸出しでさ、恥ずかしくないのかね」
平日の夜、仕事から帰ってきた夫が晩酌をしながらだらだらと口を垂れ流す。その内容はどう解釈しても田舎から来た同僚を見下しているだけ。落ち度のない他人の悪口を聞くのは気分が悪くて、つい口を挟んでしまう。
「やめなよ、そういうの。その人だって知らない土地で不安なのに、明るく頑張ってるんでしょ」
「はあ」
夫がじろりとこちらを見る。しかし私の顔を見て、へらりと下品な笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん、ごめん。お前も田舎育ちだもんな。肩持ちたくなるよな」
「そういうことじゃなくて、人として」
「はいはい。田舎者はそうやって群れないと都会でやっていけないんだろ。かわいそうにな。辛いならさっさと田舎に引っ込んで予想でも食っていればいいのに」
私が無言になると、夫は満足したように酒を煽り、瓶詰のメンマをつまむ。こんな男と結婚なんてするんじゃなかった。私は怒鳴りつけたい気持ちを抑えるように、拳をぎゅっと握りしめた。
夫は都内で生まれ育ち、私と真逆の子供時代を過ごしてきた人だ。大学で出会った頃は、私の田舎丸出しな態度もイントネーションがおかしい標準語も「可愛い」と笑ってくれた。都会での遊び方や就職先の選び方を教えてくれたのも夫だった。優しく誠実な夫だから、私はプロポーズも涙を流しながら受け入れた。
そんな夫が変わったのは、結婚後、私の田舎に帰省した頃。家の中に大きな虫が入ってくることや、スーパーに並ぶことがない泥だらけの野菜を洗って食べる姿がショックだったようだ。ニンジンの泥を水で洗い流している私に、顔を真っ赤にして「洗剤で洗わなくて平気なのか」と聞いてきた時にはドン引きした。立派な青虫がキャベツから顔を出した時には腰を抜かし、それから1年くらいキャベツを食べなくなった。他にも色々カルチャーショックを受けたようだけど、それから田舎イコール汚いというイメージになってしまい、田舎出身の人を見るとあからさまに見下すようになった。
もちろん私に対してもそうだし、私の実家に対してもだ。私の実家への帰省を嫌がり、ついてきても部屋に引きこもって朝から晩までスマホをいじるだけ。料理に使われた野菜がしっかり洗われているのか神経質に確認する割に、母の食事はガツガツと食べる。娘のさくらがジジとバッタやカブトムシを捕まえてくると、まるで汚いものでも触ったかのように娘の手をガシガシと洗う。一通りしたら「もう義は果たしただろう」と、まだ遊び足りない娘の手を引っ張り強制帰宅する。
人柄のいい両親は「やっぱり都会の人の表なしは難しいね。まみに恥ずかしい思いをさせてごめんね」なんてしょんぼりするものだから、本当に心苦しい。礼儀も態度もなっていないのは夫の方なのに。そう言いたいけれど、娘が都会で幸せに暮らしていると信じている両親に夫の愚痴をこぼせなかった。
そんな風に日々が過ぎ、娘が5歳になった年の年末、帰省の予定を立てようと夫に声をかけると、ドヤ顔でありえない提案を言い放った。
「今年は12月30日から1月3日まで俺の実家で過ごすぞ」
寝耳に水すぎて、思わず目が点になる。車で3時間かかる私の実家に対して、夫の実家は電車で15分の場所にある。義実家には月に1回は家族で顔を出しているから、年末年始は1泊以上私の実家で過ごすと約束していた。もちろん夫は嫌そうだったけれど、それでも毎年帰っていたのに。
「私の実家にはいつ顔を出すつもり?」
「え、別に行かなくてもいいだろ。お盆にも顔出したんだから」
「お盆だって1泊しかさせてくれなかったじゃないの。両親だってさくらに会えるのを楽しみにしてるのに」
夫が耳をほじりながら、うんざりしたようにため息をついた。
「なあ、もういいだろ。お前の実家は田舎すぎてつまんないんだよ。きったねえし。俺もさくらもいいや、付き合ってやってんのかんねえの?」
「確かに田舎だけど、そんな言い方。それにさくらは餅つきや揚げ物を楽しみにしてるのよ」
「そんなのお前が田舎に帰りたいから吹き込んだだけだろ。本当はデパートの初売りでおもちゃ買ってもらえる方がいいに決まってるじゃないか」
でも、一泊でもいいから両親の顔を見たいのに。唇を噛みしめる私を見て、夫の口元が歪んだ。
「はあ。そんなに帰りたいなら、そこに土下座しろよ」
え?この人今何て言った?あ然とした顔をする私を、夫がニヤニヤと見下ろす。
「『わがままな田舎娘でごめんなさい。汚い田舎に帰らせてください』って、頭を地面にすり付けたら考えてやるよ」
結婚前までは優しくて頼りがいのあった人だったのに。そこにいるのはもう、人を貶しめることで快感を覚える化け物だった。私の中で何かがパキンと折れる。もういい。こんな男、私とさくらの人生に必要ない。
「分かったわ」
「お、土下座する気になったか」
俯く私を夫が愉快そうに煽る。でも顔を上げた私は、まっすぐ夫の目を見て言ってやった。
「実家には私とさくらだけで帰るから」
夫の目が点になる。実家に帰りたい私がプライドを捨てて従うと思っていたのだろう。残念。私が捨てるのはプライドじゃなくて、あんたよ。
夫は私からの不意打ちに一瞬我を忘れたものの、すぐに持ち直す。
「おいおい。1人で田舎に帰ってみろ。都会の旦那に捨てられたかわいそうな嫁だって笑い物になるぞ」
「笑い物で結構。あなたみたいな人間のクズを連れていた今までの方がよっぽどおかしいわ」
「クズ?」
夫が悲鳴のような怒声のような声をあげて私を睨む。でももう私はひるまない。
「離婚しましょう。クズ男と一生を添い遂げるくらいなら、田舎でシングルマザーした方がましよ」
夫は顔を青くしたり赤くしたりしながら、口元をわなわなと震わせる。
「さくらは渡さないからな。さくらは繊細で賢いから、こっちでそれ相応の学校に行かせるのがあの子のためだ。お前みたいに田舎で生きていけるようなつぶい子じゃない」
唾を飛ばしながら宣言した夫は、ドスドスと足音を立てながら寝室に飛び込む。そして寝ているさくらを無理やり起こし、大声で叫んだ。
「さくら、お前は田舎で餅つきするより、こっちでパパと遊園地行く方が楽しいよな」
「ちょっと、起こさないでよ」
顔を真っ赤にする私に対して、さくらはまだ半分夢の中。それでも夫の言葉が届いているのか、むにゃむにゃと口元を動かした。
「うん。さくらはばあばとお餅つきして、じじとジョアの金月に行くの」
え?さくらの返事に夫が固まる。
「ママに気を使わなくていいんだぞ。そうだ。可愛いプリンセスの人形を買ってあげよう。ハンバーガーも食べ放題だ」
「さくら、ばあばの黒豆食べるの。いとこのお兄ちゃんたちとカルザして雪合戦するの」
「く、黒豆?」
「寒い。パパ邪魔だからどいて」
黒豆に負けて愕然とする夫を振り払い、さくらは自ら布団に潜っていく。寝ぼけてる子に言い聞かせても意味がないな。涙目で去っていく夫は非常に情けなかった。
次の日、さくらに「お父さんと離れて、じじとばあばと暮らすかもしれない」と頭を下げた。夫はもちろん「さくらはお父さんとこっちで暮らすよな」と強気だ。娘は私と夫を交互に見た後、はっきりと答えた。
「さくらはママについていくよ」
え?夫が信じられないという顔で娘を見る。
「さくら、ママが可哀そうだからって我慢する必要ないからな。パパと一緒にいたらおもちゃだってドーナツだって買ってやるぞ。遊園地だっていつでも行けるんだ」
「いらない」
夫の甘い誘惑を、さくらはきっぱり跳ねのける。
「パパは色々買ってくれるけど、それだけじゃん。買ってくれたおもちゃで一緒に遊んでくれないし。遊園地だって『行く行く』って言ってるけど、お休みの日は寝てばっかりで全然約束守ってくれないよ」
「うう」
「それにパパはママやじじやばあばの悪口ばっかり言うから嫌。じじの作ったトマト美味しいのに、『汚いから食べるな』ってぽいするから。嫌」
娘の揺るぎない拒絶に、夫の顔がどんどん青くなる。私は娘が自分を選んでくれた安心と、今まで娘が抱えていた不安に胸がキュッとなる。
「ごめんね、さくら。これからはあなたにそんな思い絶対にさせないからね」
「パパだってこれからは約束守るぞ」
「パパは嘘つきで意地悪だから信じられない」
「ガーン」
漫画以外で「ガーン」なんていう人初めて見た。人間はショックを受けすぎるとこうなるのか。結局、娘との信頼関係がゼロの夫に娘がついていくわけがなく、年末から私と一緒に実家へ住むことになった。離婚届を出す際、夫が「絶対後悔するからな」と吠えていたけれど、私はさくらの小さな手を握って、清々しい気分で実家に帰った。
突然出戻ってきた娘に対して、両親は悲しむと思ったけれど意外と歓迎的だった。実家での元夫の態度が目に余りすぎて、私のことがずっと心配だったらしい。
「よく決意したね。何もない田舎だけど、あんたとさくちゃんのためにたくさんうまいもの作ってやるからね」
そう言って頭を撫でてくれる母に、私は年甲斐もなく大泣きをしてしまったのだった。
その後、正月の宴で親戚中に質問攻めされたけれど、みんな私に同情的で温かく受け入れてくれた。早速お見合いを組もうとするおばちゃんもいたけれど、「今はさくらのフォローに集中したい」と丁寧に断った。
仕事先には少し迷惑をかけてしまったけれど、元々ネット環境さえあれば在宅でできる仕事だったのが幸いした。娘も幼稚園を転園したけれど、1クラス10人程度の小さな幼稚園で手厚くのびのび過ごしている。冬は遠庭で雪だるま作り。春は桜や菜の花が綺麗な堤防で虫探し。夏は田んぼや泥んこ遊び。毎日自然に触れながら全身で遊べる環境が、活発な娘にはぴったり。都会にいた時よりも毎日生き生きした顔で幼稚園から帰ってくる。
「パパのご飯美味しいね」
の笑顔でもりもりご飯を食べる娘に、ジジもバーバもメロメロだ。もちろん不便なこともいっぱいあるけれど、実家に帰ってきたことを後悔しないくらいには親子で田舎暮らしを満喫していた。
一方、元夫の方は思わぬ弊害が出ているようだ。
「なあ、お前が買っていたビンズのメンマ、あれどこで売ってるんだよ」
深夜遅く電話してくるから何かあったのかと思って出てみれば、頭の悪いことを言ってくる。本当にこの男は何も分かっちゃいない。
「売ってないわよ」
「え?」
「あれは母の手作りだから」
「え、ちなみにあなたが酒の当てにしていた、かの子たっぷりのわさび漬けも、ふきわさびの漬けも、燻製卵も、全部母の手作りだから」
「うえっ」
電話の向こうで元夫が唖然としているのが分かる。母はよく実家で取れた野菜や手作りの惣菜を我が家に送ってくれた。母の惣菜を出す際、最初は夫に母の手作りだと伝えたけれど、あからさまに嫌そうな顔をするから、2度目からは伝えずに食卓に出した。それらを元夫はバクバクと食い尽くしていたから、気に入っているのは分かっていたけれど、何もラベルの張っていない瓶やタッパーを見て手作りだと分からなかったのか。鈍感で単純で本当に愚かだ。
他にも「スーパーでたらの芽の天ぷらを買ったら高いのにまずい」だの「米が美味しくない」だの、どうでもいいことを不思議そうに電話してくるけど、季節の山菜も全部私の実家が厚意で送ってくれていたもの。同じ質のものをスーパーで買おうとすると高額になることをようやく知ってショックを受けているようだ。
「なあ、あのさ」
「お断りします」
夫の要求を聞く前に、さっさと電話をぶつ切りする。いつの間にか私の実家から届く食べ物に心も体も支配されていた元夫。食べるのが好きな人だったから、質の下がった食生活に相当苦戦しているようだった。
そして1年後の3月、娘と買い物から帰ってくると、実家の前に和ナンバーのレンタカーが止まっていた。不審に思いながら離れた場所に車を駐車すると、レンタカーの運転席側のドアがバタンと開く。
「よ、久しぶりだな」
げ、元夫だ。ペーパードライバーなのにレンタカー借りてまで、大嫌いな田舎まで来て今更何の用だ。あからさまに嫌そうな顔をする私を気にすることなく、夫はニコニコと話し始めた。
「元気にしてたか?俺がいなくて寂しかっただろ」
「全然」
ばっさり切り捨てると、元夫が口元を引きつらせながらターゲットを娘に変える。
「さくら、パパはお前が好きなプリンセスの人形を買ってきたんだぞ。ほら」
「え、いらない」
え?元夫がぽとりと人形を落とす。物で釣ろうとする態度は相変わらずのようだ。そもそも元夫と暮らしていた頃から、娘はそれほど人形遊びに興味がなかったのに。
「突然何の用事よ」
「え、いや、あのさ」
この男の顔を見るのも嫌だけれど、早く帰ってもらうために仕方なく話を振ったのに、元夫はもじもじそわそわと手をいじる。そしておぼ口でぼそぼそし始めた。
「そろそろ俺もこっちに来てもいいだろう」
はあ?
「ほら、家族はやっぱり一緒にいないとおかしいぞ」
この男、真っ昼間から寝ぼけているのだろうか。
「あなたとはもう家族じゃありませんけど。一緒に離婚届出したよね」
「あんな紙切れ1枚で夫婦の絆が切れるわけないじゃないか」
「あんな紙切れ1枚で切れるほど、夫婦の絆はもろいのよ。だからお互いを尊重し合わなければいけないのに、それを過論じて私をけなし続けたのはあなたでしょ」
「ういやあさ、あの時は俺も悪かったって。ほら、俺が妥協してこっちに住んでやるからさ。そろそろ機嫌直せよ」
下手に出ていると見せかけて上から目線の言い方に、ほとほと呆れる。何を企んでいるのか分からないけど、この男は私たちと一緒にここに住みたいらしい。あれだけ汚いと見下してけなしていた田舎の家に、いい理由のはずがない。たといい理由だとしても、私の答えは一つだ。こんな男と2度と一緒に住むものか。
「妥協しなくて結構です。あなたは大好きな都会で幸せに暮らしてください」
「そ、そんな、さくらはパパとまた一緒に暮らしたいだろ?」
「え、別に」
「へ?」
「それより今からしゅん君と虫取りに行くから、解いて」
あっさり拒否する上、男の子の名前をあげる娘に、元夫がパニックに陥る。
「どどどどど誰だその男は?さくらに男はまだ早すぎるだろう。まみ、なんでさくらを守らないんだ?これだからお前に預けたくなかったんだ」
「はあ」
「はあじゃないだろ。さくら、さくら、乱暴な男の子と遊ぶよりパパと人形遊びをした方が楽しいぞ。パパは優しいからな」
元夫が泥だらけになった人形を拾い上げて、さくらに近づける。しかしさくらは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「いや、パパよりしゅん君の方が好き」
「ぎくっ」
「だってしゅん君はパパみたいに嘘つきじゃないし、ママに意地悪じゃないもん。それにパパより目が大きくて髪の毛も多くてかっこいいんだよ」
「か、髪の毛」
娘の的確に急所を突いた攻撃に、思わず吹き出してしまう。6歳の男の子に負けた上、予想外の攻撃に大ダメージを受けた元夫の顔は真っ白で、目には涙が浮かんでいた。その時、門から男の子が顔を出した。
「おーい、さくちゃん」
「あ、しゅん君」
さくらの顔がパッと輝き、しゅん君の元へ駆け寄る。娘とハイタッチした後、しゅん君は不思議そうに元夫を見上げた。
「このおじさん誰?」
「お、俺はさくらの」
娘の男友達の登場に、先ほどのショックから立ち直れていない夫がどもりながら目を泳がせる。するとさくらが大きな声で叫んだ。
「この人はさくらとママを誘拐しようとする悪だよ」
「へえ」
「そ、さくら」
娘のとんでもないけれど間違ってもいないセリフに、元夫がさらに挙動不審になる。しゅん君は一瞬驚いて固まっていたけれど、慌てたようにさくらの前に立つと元夫を睨みつけた。
「悪者め、俺の大事な友達は渡さないからな」
しゅん君が目にも止まらぬスピードで、駐車場の雨上がりの土を元夫に投げつける。元夫のお気に入りの真っ白なTシャツとご自慢のブランドバッグが、あっという間に茶色く染め上がった。ひるんだ元夫が反撃体制を取るよりも早く、しゅん君がリュックから細長いものを取り出す。
「行け、我が下べたち」
しゅん君が投げたものが、夫の眼鏡と首に張り付く。うねと暴れる。それはよく肥えたミミズと鈍く光るヤスデだった。
「いやあ」
元夫が女のような悲鳴をあげて体をくねらせる。それらを一生懸命払いながら、這うようにレンタカーに乗り込み、泥だらけの体を脱ぐことなく車を発進。しかし急発進した車はそのまま畑に乗り上げ、タイヤを空回りさせた。真っ白なレンタカーが、室内も室外も茶色く染まっていく。
「あれは保険で補ってもらえるのかしら」
「最悪買い取りかもね」
「助けて。誰か、誰か」
晴れ渡った青空の下で、元夫の鳴き声が山に響いた。しゅん君の活躍により、田舎が「汚いから怖い場所」になった元夫は、2度と私たちの前に姿を表さなかった。
その後しばらくして、仕事の関係で東京に行った際にたまたま元夫の友人に会って話を聞く機会があり、夫が押しかけてきた理由が分かった。どうやら夫が「田舎者」だと見下していた同僚は、コミュニケーション能力のお化けみたいな人で、自分の田舎臭さを武器にどんどん新規の顧客を増やしていったらしい。仕事場でも愛されキャラとしてみんなに大切にされ、同僚の悪口を言いふらしまくっていた元夫は孤立。プライドをズタズタにされた上、居場所もなくなった夫は会社を休みがちになり、さらに周囲から白い目で見られるように。転職活動も思うように行かず、だからと言って「みんなが冷たいからやめる」なんて恥ずかしい理由で退職するのはプライドが許さない。そこで「嫁のわがままを叶えるために、嫁実家に引っ越すために仕方なく退職をする」という言い訳をしながら退職届を出し、私の実家に押しかけてきたというわけだ。当然、会社も元夫が離婚したのを知っているのに、それでも引き止められなかったのは、あちらも元夫が自らやめてくれるのを待っていたのだろう。自尊心ばかり高くて、能力も人もついてこない。本当に残念な男だ。
それから数年後。
「さくら、しゅん君が迎えに来ているわよ」
「はい。行ってきます」
制服のリボンを結んだ娘が、慌てて玄関を飛び出していく。娘は中学3年生になり、随分前に私の身長も抜かしてしまった。今でも仲のいいしゅん君とは、最近お友達から関係が変わりそうな雰囲気。そんな甘酸っぱい青春を味わっている娘がちょっぴり羨ましいなんて思いながら、仕事のパソコンを開く。来年受験を迎える娘。家から通える高校を選ぶか、私と一緒に上京して都会の高校を選ぶかは彼女に任せている。田舎にも都会にもそれぞれ魅力があることを、私たちは知っているから。
窓の外の桜はすっかり緑が茂り、さくらとしゅん君の歯がぶつかる音が耳を打つ。今日は少し散歩にでも行こうかな。私はゆったりした気持ちで、入れ立てのコーヒーをすすった。



