「小母さん、正直言って生きるゴミ同然じゃないですか?私たちだって生きなきゃ。」
冷たい山風よりも鋭い嫁のその言葉が、麻痺した私の胸に棘のように突き刺さった。下が固まって「違う、だめだ」と叫びたくても、獣のようなうめき声が漏れるだけだった。一生を捧げて育てた息子は、私の目線から逃げるように地面ばかりを見ていた。
ガタガタと揺れながら遠ざかる車の赤いテールランプを見ながら、私は冷たい土の地面に顔を埋めた。その時は知らなかった。暗く冷たい山奥の墓地に捨てられた私の肉体よりも、これから待ち受ける孤独の人生の方が、さらに根底から揺さぶられることになるとは、本当に夢にも思わなかった。
倒れる前日まで、私の世界は息子の健一の心配ごとだけで満たされていた。商店街の露天で野菜を売り、夜は食堂で皿洗いをしながら、必死でお金を貯めた。手首と腰はズキズキと痛み、眠れない夜が何度もあったが、息子の大学の学費の請求書を見る度、そんな痛みは雪が溶けるように消えていった。
「母さん、今回奨学金取れたよ。」
その一言が、私にとっては世の中で最も価値のある報酬だった。息子が立派な会社に就職し、美しい嫁のマリ子を連れてきた時、私は世界を全て手に入れたような気分だった。くしゃくしゃになった最後の定期預金を解約して、東京郊外の小さなマンションの頭金にでもしてやろうと足を棒にした。
嫁は最初「小母さん、自分たちの力でやりますから」と遠慮するふりをしていたが、すぐに「どうせならもう少し広いところが」とそれとなく顔色を伺ってきた。私はただ息子夫婦が快適に暮らせるなら、それ以上望むことはなかった。私自身の体一つ横たわる部屋があれば十分だったから。
そうして私の全てを注ぎ込んだ息子夫婦の愛の巣。その家で孫が生まれた時の喜びは言葉では言い表せない。しかし、その幸せは長くは続かなかった。
「小母さん、子供を見ていて腰でも痛めたらどうするんですか?私たちがやりますから。」
マリ子は巧みに私と孫の間を引き裂いた。私が子供を抱こうとすると「お母さん、手は洗いました?」と大げさに騒ぎ、私が心を込めて出した煮物を「最近の子供はこういうの食べませんよ」と言って流し台に捨ててしまうのが常だった。息子の健一に寂しさを訴えても、「マリ子も子育てで神経質になってるんだよ。母さんが少し理解してやってくれ」という言葉を鸚鵡のように繰り返すだけだった。
次第に私はその家で透明人間になっていった。リビングのソファに座っていても、二人はまるで私がいないかのように自分たちだけでひそひそと話していた。私が作ったおかずには手もつけず、毎日のようにデリバリーを頼む日が増えた。
そんなある日、私は台所で皿洗いをしながら目まいを感じ、そのまま床に倒れてしまった。
「あら、小母さん、なんでこんなところに倒れてるんですか?」
マリ子の悲鳴を最後に、私の意識は暗闇に沈んだ。目を覚ました時、私は病院のベッドの上だった。医者は私に脳卒中、いわゆるチューブだと言った。左の手足は自分の思う通りに動かず、言葉もあやふやになった。私の人生に暗雲が立ち込めた瞬間だった。
退院して家に戻ったが、私の居場所はなかった。リビングのソファに横になっている私から匂いがすると、マリ子は鼻をつまんで顔をしかめた。おむつを変えるのは完全に私の役目だったが、麻痺した手ではそれすら容易ではなかった。失敗をするたびにマリ子は「ああ、本当にもう無理。これをまたいつ片付けるのよ」と苛立ち、その度に私は死にたい気持ちだった。
「あなた、小母さんを老人ホームに入れるのはどう?」
ある日、部屋の中で二人が話しているのを盗み聞きしてしまった。
「費用はどうするんだ?俺たちのローンの返済だけでも手いっぱいなのに。」
息子の力ない声が聞こえた。
「方法が全くないわけじゃないわ。小母さん名義の田舎の土地とか、亡くなった小父さんの遺族年金とか保険とかあるじゃない。あれを整理すれば…」
マリ子の声は次第に小さくなったが、その中に込められた貪欲さははっきりと感じられた。私は全身に鳥肌が立つのを感じた。あいつら、私の最後に残ったものまで狙っているんだ。
その日以降、マリ子の態度は急に柔らかくなった。「小母さん、お薬ですよ。これ食べて早く元気になってくださいね」と過剰に振る舞った。私はその親切が怖かったが、息子の健一まで「マリ子が母さんのことすごく心配して、薬も欠かさず用意してくれてるじゃないか」と妻の方を向くので、呆れて何も言えなかった。
そして運命のその夜、マリ子は「小母さん、風に当たりに行きましょう。病院ばかりで退屈でしたよね」と言って私を車椅子に乗せた。息子は何も言わずに車のエンジンをかけた。私はただ、久しぶりに感じる夜風が涼しいとだけ思っていた。
しかし、車は見慣れた町を離れ、どんどん暗い山道へと入っていった。
「健一、どこへ行くんだ?」
あやふやな発音でやっと尋ねたが、息子はバックミラーで私と目を一度合わせたきり、すぐに顔を背けてしまった。
車が止まったのは、明かりのない共同墓地の入り口だった。周りには冷たい風に木の枝が揺れる音だけが満ちていた。息子が車から降り、私を助けるふりをして引きずり下ろした。そしてマリ子が私に近づき、ささやいた。
まさに私がこの話の冒頭で述べた、私の心臓を凍りつかせたあの残酷な言葉を吐き捨てたのだ。
「小母さん、正直言って生きるゴミ同然じゃないですか。私たちだって生きなきゃ。」
私はその瞬間、自分の耳を疑った。いくら何でも嫁が姑に、それも子供を産んでくれた夫の母親に言える言葉ではなかった。ショックで体が固まっている間に、息子は私を道端の草むらに無造作に置き去りにした。そして一度も振り返ることなく車に乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、私の残りの人生が閉ざされる音のように聞こえた。遠ざかっていく車の赤いテールランプは、まるで私を欺く悪魔の瞳のようだった。私は冷たい土の地面に顔を埋め、声もなく泣いた。裏切られた気持ちと悲しみ、そして凄まじい恨みが全身を包み込んだ。私の一生が、私の全てが否定される瞬間だった。
その時は本当に知らなかった。この地獄のような夜が終わりではなく、私の人生の全てを覆す巨大な嵐の始まりだったということ。あの冷たい山奥の墓地に捨てられたのは、私の病んだ肉体だけではなかった。息子への最後の信頼と愛情、そして私が一生守ってきた母親という名前まで。その全てがあの夜、あの場所に一緒に埋められた。
もう私に残されたものは何もない。そう思った。
本当に夢にも思わなかった。冷たい土の匂いが鼻をついた。背中の下に感じるごつごつした石の感触、そして肌に食い込む夜露の冷たさ。その生々しい感覚が、私に残酷な現実を突きつけていた。本当に捨てていったんだ。遠ざかる赤いテールランプの残像が、まぶたの裏に焼き印のように刻まれて消えなかった。健一の最後の後ろ姿、一度も振り返らなかったあの冷酷な態度、「私たちだって生きなきゃ」と届いた嫁の引き裂くような声が耳元でうずまいていた。
体を起こそうとしたが、麻痺した左の手足は自分のものではないかのように言うことを聞かなかった。土を掴んだ右手の指先が白くなっていった。口からは「うう」という獣のようなうめき声が漏れるだけで、「助けて」という一言さえまともに吐き出せなかった。
夜が深まるにつれ、寒さは骨の髄まで染み込んできた。薄い患者衣を一枚頼りに、私はガタガタと震えながら闇を見つめた。目の前に見えるものといえば、風に揺れる黒い木の影と、遠くでかすかに光る十字架の明かりだけだった。
私が何をそんなに間違ったというのか。一生を懸命に生きた。夫を早くになくし、血のつながった息子を背負って商店街を走り回り、やったことのない商売はなかった。麦飯に味噌汁一つで食事を済ませながらも、息子の口に肉を一切れ多く入れてやることが私の唯一の楽しみだった。健一が大学の合格通知をもらってきた時、その通知書を胸に抱いて泣き崩れた日が走馬灯のように過ぎ去った。
「健一、母さんがお前をどうやって育てたと思ってるんだ。」
裏切られた気持ちよりも大きかったのは惨めさだった。いっそあの時倒れて永遠に目を覚まさなければ、こんな姿は見なくて済んだのに。息子に自分の手で母親を山奥に生き埋めにするという、この恐ろしい罪を犯させることはなかったのに。
どれくらいの時間が流れただろうか。夜空の星が一つ二つと霞み始めた。意識も朦朧としてきた。体の震えさえ止まるほど感覚が鈍っていった。このまま眠れば楽になるだろうか。このまま目を閉じれば、二度と目覚めなくてもいいだろうか。
その瞬間、嫁のマリ子の声が幻聴のように聞こえてきた。「生きるゴミ」。その言葉が、消えかけていた私の命の火種を再び燃え上がらせた。
悔しかった。恨めしかった。このまま死んで成仏できずに彷徨う幽霊になるわけにはいかなかった。私が死んだら、あいつらは「母親が家出して事故にあった」と涙を流すだろう。私の葬式で香典を懐に入れながら、腹のうちで笑うだろう。だめだ。絶対にだめだ。
私はありったけの力を振り絞って土の上を這った。爪が割れ、膝がすりむけて血が流れたが、痛みさえ感じなかった。道路の方へ、少しでも人が通る可能性のある場所へ出なければならなかった。生きなければ。生きてこの無念を晴らし、あいつらの罪を世間に知らせなければならなかった。
しかし、麻痺した体は私の意思に従ってくれなかった。数メートルも行けず、私は再び力尽きて倒れてしまった。口の中に土と枯れ草がいっぱいになった。荒い息を吐きながら、私は空を見上げた。白んできた夜明けの光が木の枝の間から差し込んでいた。
「誰かいませんか?」
喉から血のにじむような声が出たが、外に出た音は風の音にかき消されて散っていった。涙が頬を伝って土の地面にぽたぽたと落ちた。
その時だった。
「おや、あれは何だ?」
遠くでざわめく人の声が聞こえた。登山服を着た中年の男女が山の入口へ登ってきていた。私は最後の力を絞り出して手を振ろうとしたが、指一本動かせなかった。代わりに目を大きく見開いて彼らを見つめた。どうか私を見てください。どうか私を通りすぎないでください。
「あなた、あそこ人じゃないか。」
「なんてこと。おばあさん、しっかりしてください。」
温かい手が私の冷たい頬に触れた。見知らぬ人のぬくもりがこれほどありがたいとは思わなかった。息子の手よりも、嫁の偽善的な微笑みよりも、この見知らぬ人の懸命な優しさの方が温かかった。
「通報して、早く救急車を呼んで!」
緊迫した声が響き、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。救急隊員たちが私を担架に乗せる瞬間、緊張が溶けて再び気を失った。
再び目を開けた時、鼻をついたのは馴染みのある消毒液の匂いだった。白い天井、規則的になる機械音。病院だった。
「患者さん、気がつきましたか?私の声が聞こえますか?」
看護師が私の目の前で指を振って見せた。私は瞬きをして返事の代わりとした。喉が焼けるように乾いていた。水一口だけでもくれたらいいのに、口が動かなかった。
「よかった。停滞がひどくて心配しましたが、峠は超えましたよ。ここは救急病室です。保護者の方の連絡先は分かりますか?」
保護者。その単語を聞いた瞬間、心臓がどすんと落ち込んだ。私の保護者は誰なのか?私を山に捨てた息子か?それとも私をゴミ扱いした嫁か?私は首を振ろうとしたが、首に力が入らなかった。
看護師は私のポケットから出てきた薄汚い財布を確認するようだった。「身分証明書がここにありますね。田中よ子様ですね。息子さんの連絡先が…あら、携帯電話がないわね。」
私の携帯電話は息子が持っていった。山に捨てられる時、もしや私が連絡でもしないかとあらかじめ奪ったに違いない。
「警察に身元照会を要請しておいたので、すぐにご家族が見つかると思いますよ。少しだけ待っていてくださいね。」
看護師の言葉に、私は心の中で悲鳴をあげた。だめだ。あいつらを呼んではいけない。あいつらが来たら、私をまた殺そうとするかもしれない。しかし、口から出る音は「あう」という意味不明なうめきだけだった。
病室の窓の外で日が暮れてはまた登るのを繰り返した。私は身動きできず、ベッドに縛られたまま天井だけを見つめて時間を耐えなければならなかった。体の苦痛よりも耐え難いのは孤独だった。隣のベッドには子供たちが訪ねてきて、「お母さん、大丈夫?」と言いながら足を揉んだり果物を剥いてあげたりする姿が見えた。その風景が私をさらに惨めな気持ちにさせた。私はなぜあんな子供を持てなかったのか。いや、私はなぜ子供をあんな怪物に育ててしまったのか。自責の念と恨みが入り混じり、胸をえぐった。
その時、病室のドアが開き、制服を着た警察官が二人入ってきた。
「田中よ子さんの保護者の方ですか?」
看護師が警察を見て尋ねた。
「いいえ、管轄の交番の者です。通報を受けてきたんですが、患者さんの状態はどうですか?」
「意識は戻られましたが、まだお話はできません。チューブの後遺症がひどくて。」
警察官の一人が私のベッドのそばに近づいてきた。若い巡査だった。彼のまなざしからは、気の毒に思う気持ちと義務感が同時に読み取れた。
「おばあさん、私が見えますよね。山の入口で発見されましたが、どうなったのか覚えていますか?もしかして、お宅はどこですか?」
私は瞬きをして彼を見つめた。覚えています。とても鮮明に覚えています。でも話せません。私の舌が、私の唇が固まってしまったからです。
「身分証明書の住所に行ってみたんですが、家が空っぽだったんですよ。近所の人の話では数日前に引っ越したそうですが、息子さんの名前は田中健一さんで合っていますか?」
引っ越し。心臓が凍りついた。もう家を引き払ったのか。私を捨てる前から、待っていたかのように荷物をまとめたのか。
警察官は手帳を取り出し、何かを書き込んだ。「区役所で照会してみたんですが、息子さん夫婦の出国記録はまだありませんが、連絡がつきません。もしかして、他のご家族はいらっしゃいませんか?」
他の家族。夫は十年前にあの世に行き、兄弟たちとも連絡が途えて久しい。私は徹底的に一人だった。
「とりあえず、私たちが手配を続けてみます。おばあさん、もう少しだけ頑張ってください。」
警察官たちが帰っていき、再び静寂が訪れた。カーテンの隙間から差し込む赤い夕陽が私の顔を覆った。赤い光。あの夜、遠ざかる息子の車のテールランプの色と同じ赤い光。涙が二筋流れ落ち、耳の穴に入っていった。
もし夢であったなら。目を覚ませば古い我が家の寝室で、台所で嫁が食器を鳴らす音が聞こえる。そんな平凡で退屈な朝であったなら。しかし、私に刺さった点滴の針の痛みと、固まってしまった左足の重い感覚が、これが現実であることを骨身にしみて教えてくれた。
生き残ったんだ。捨てられたのに、死ぬこともできず生き残ってしまった。安堵感はなかった。むしろ生きているという事実が、恐ろしい刑罰のように感じられた。もう私には行く場所も、帰る家も、私を守ってくれる家族もない抜け殻だった。
その夜、病室の電気が消えて真っ暗になった時、私は闇の中で誓った。このまま崩れ落ちたりしない。私の人生を根底から揺さぶったあいつらに、私が味わったこの地獄をそのまま返してやると。しかし、今すぐ私にできることは何もなかった。ただ流れる涙を飲み込みながら、固まってしまった拳を握っては開くことを繰り返すことだけだった。それが私の唯一の逃走だった。とても小さく、見窄らしく、誠に儚い逃走。
その時、ふと一人の顔が浮かんだ。私の薄汚いへそくりを預かってくれていた人。銀行の窓口職員たちが面倒くさがっていた私を、「いつも奥様、いらっしゃいましたか?」と笑顔で迎えてくれたあの青年。佐藤課長。あの人なら、私の話を聞いてくれるだろうか?いや、話もできない私の意思を酌み取ってくれるだろうか。かすかな希望の糸が見え隠れしていた。しかし、私の手には電話機も連絡先もなかった。
私は目を閉じて祈った。神がいるなら、私にたった一度だけチャンスをください。あの人に届くチャンスを。私の息子の罪を問える、たった一度のチャンスをください。
その夜、病院の空気は冷たかったが、私の胸の奥深くでは熱い火種が燃えさかっていた。それは怒りであり、執念であり、生きるべき唯一の理由だった。
寝てばかりいると天井だけが見える。白い天井、黄色い染みが所々に滲んでいる無表情な天井。その天井を一日中見つめていると、私の人生がその天井と同じくらい虚ろだという気がした。病院の廊下には毎日、笑い声と泣き声が混じって流れていた。誰かは退院を祝って花束を抱いて出ていき、誰かは集中治療室の前で祈りを捧げていた。しかし、私の病室のドアの前には誰も来なかった。
何日が過ぎただろうか。三日目だったのか、四日目だったのか。時間の感覚さえ曖昧になった。入院した後、たった一度も私の名前を呼ぶ人がいなかった。看護師たちも最初は「おばあちゃん、大丈夫?」と優しく訪ねてくれたが、保護者が現れないと次第に無関心な口調に変わった。「田中よ子さん、点滴交換しますね。」「田中よ子さん、血圧測ります。」さらには私の名前すら呼ばれず、「二号患者」と呼ばれる時もあった。私は人間ではなく、ベッド番号として存在した。
その日も看護師が無表情に入ってきてカルテを確認した。そして首をかしげながらつぶやいた。「保護者、まだ現れないわね。警察の照会はどうなったの?」
隣のベッドの患者の付き添いがささやく声が聞こえた。「あのおばあさん、可哀想みたいよ。子供も来ないなんて。まあ、かわいそうに。本当に置き去りね。」
本当に置き去り。その言葉がナイフのように私の胸を刺した。同情は受けたくなかった。哀れみはなおさら必要なかった。ただ、私がなぜこうなったのか、誰が私をこの境遇に追いやったのか、それだけを知って欲しかった。
その日の午後、再び警察官が訪ねてきた。前回来た若い巡査ではなく、年配の刑事に見える人だった。彼は私のベッドの横の椅子に座り、ため息をついた。
「田中よ子さん、警視庁捜査一課の鈴木です。保護者の捜索を続けているんですが、状況が少し複雑になっています。」
私は目を大きく見開いて彼を見つめた。複雑だとはどういう意味でしょうか?
「息子さんの名前、田中健一さんで合っていますよね。住民票の住所地に行ってみたんですが、すでに賃貸契約が満了した人が入居していました。入居者に聞いてみたら、引っ越して十日ほど経ったそうです。」
十日。私を捨てるずっと前から、すでに計画していたことだったのか。胸がどすんと落ち込んだ。
「あと、これがもっとおかしいんですが、息子さん名義の電話番号も最近解約されています。銀行口座を追跡してみると、高額の現金が引き出された痕跡がありまして、まるで意図的に行方をくらませたように見えます。」
刑事は手帳をめくりながら言葉を続けた。「もしかして、息子さん夫婦と金銭的な問題や葛藤がありましたか?」
私は口を開こうとしたが、相変わらず舌が固まっていた。「あ、うう」というかすかなうめきだけが漏れた。刑事は困った表情を浮かべた。
「お話が難しいんですね。もしかして、文字を書くことはできますか?右手。」
私の右手はまだ動いた。刑事が紙とペンを渡すと、私は震える手でゆっくりと文字を書き始めた。
「息子が私を捨てた。山に。」
文字は歪んでいたが、私の心だけははっきりしていた。刑事の目つきが変わった。
「山に捨てたですって。それはどういうことですか?」
私は手を震わせながら書き続けた。「嫁が私をゴミだと言った。車に乗せて共同墓地に捨てていった。」
刑事は私の文字を読んで、表情が固まった。彼は再び手帳に何かを素早く書き込んだ。「これは保護責任者遺棄に該当します。さらに、老人虐待の容疑まで追加される可能性があります。おばあさん、正確にいつ、こんなことがあったか覚えていますか?」
私は頷いた。あの日の記憶はあまりにも鮮明だった。冷たい土の感触、遠ざかるテールランプ、嫁の冷たい声。全て消すことのできない悪夢だった。
刑事は真剣な顔で言った。「田中よ子さん、私が担当検事と相談して、正式に事件を受理します。とりあえず、息子さん夫婦の行方から追跡して、現場調査ももう一度行わなければならないようです。おばあさん、もう少しだけ頑張ってください。」
頑張れという言葉。その言葉がどれほど虚しく聞こえるか、刑事は知っているだろうか?しかし、私は頷いた。それだけが私にできる全てだったから。
刑事が去り、再び静寂が訪れた。窓の外では夕焼けが赤く染まっていた。私は一人でつぶやいた。警察があいつらを見つけられるだろうか。信じられなかった。あの賢い嫁なら、すでに全てを緻密に計画しているはずだ。息子の健一も、彼女の手のひらで身動きが取れないだろう。警察が捜査をしたとしても、あいつらがすでに海外へ逃亡していたら手遅れだ。
その時、私の頭の中に一人の顔が浮かんだ。佐藤課長。銀行ではなく証券会社の社員だった。私が商店街で商売をしていた時、たまに立ち寄ってくれたあの青年。他の職員たちは小銭で手数料にもならない私を面倒くさがったが、佐藤課長だけは違った。「田中様、塵も積もれば山となると言いますよね。こんなに誠実に貯金される方が他にいらっしゃいますか?」彼は私のへそくりを丁寧に数えてくれ、積み立て商品を細かく説明してくれた。ある日は、私が古い服で来たからと無視する他の職員に「お客様の前でそんな態度を見せるな」と叱りさえした。あの人なら、もしかして助けてくれるのではないか。
しかし、徒労に暮れた。私には電話機も連絡先もなかった。病院の公衆電話を使おうにも体を動かせず、看護師に頼もうにも話ができなかった。もどかしさに涙が溢れた。こんなに無力な自分が限りなく惨めだった。左の手足は石のように重いだけで、舌は私の意のままに動かなかった。
その夜、私はベッドに横たわり天井を見つめて祈った。神様、どうか私にチャンスをください。佐藤課長に届く方法を、たった一度だけ許してください。
祈りが通じたのだろうか。翌朝、思いがけない人が私の病室を尋ねてきた。ソーシャルワーカーだった。白いカーディガンを着た若い女性が温かい微笑みを浮かべ、私のベッドのそばに近づいてきた。
「こんにちは。田中よ子さん。私はこの病院の社会福祉士の高橋と申します。保護者がいらっしゃらない患者さんをお手伝いする仕事をしています。」
私は目を大きく見開いて彼女を見つめた。ソーシャルワーカーだなんて。
「おばあさん、もしかして連絡を取れる方はいらっしゃいますか?親戚や知人の方で連絡可能な方がいれば、私が代わりに電話してあげられますよ。」
まさにこれだった。私は急いで手招きをした。高橋さんが紙とペンを出してくれた。
「佐藤課長。大和証券PBセンター。」
歪んだ文字だったが、私はありったけの力を込めて書いた。高橋さんが文字を読んで頷いた。「大和証券のPBセンターですね。分かりました。私が電話番号を調べて連絡してみます。ご友人ですか?」
私は頷いた。友人というよりは、私の最後の希望だった。
高橋さんは病室を出て、しばらくしてまた戻ってきた。「おばあさん、大和証券の本社に電話したら、PBセンターはいくつかの支店にあるそうです。どこの支店かご存知ですか?」
私は再び紙に書いた。「新宿。新宿支店。」
「分かりました。すぐに連絡してみます。」
何分が過ぎただろうか。高橋さんが携帯電話を持って病室に入ってきた。「おばあさん、佐藤課長を見つけましたよ。今、通話は可能だそうです。私が代わりにお話ししましょうか。」
私は涙が滲んで頷いた。高橋さんは電話を耳に当て、落ち着いた声で話した。「はい。佐藤課長ですか?こちら東京大学病院の社会福祉士ですが、田中よ子さんというお客様でいらした方が入院中なんですが、保護者がいらっしゃらなくて連絡差し上げました。もしかして、ご存知の方ですか?」
電話の向こうから佐藤課長の声がかすかに聞こえてきた。「田中よ子様。はい。存じております。以前から取引していただいていたお客様ですが、どうされたんですか?」
高橋さんが私の状況を簡略に説明した。チューブで倒れて入院したが、家族と連絡が途えたと。保護者が必要だが、助けてくれる人がいなくて。電話の向こうで少しの間沈黙が流れた。そして、佐藤課長の声が再び聞こえてきた。
「私が今すぐ行きます。病院はどこですか?」
私はその言葉を聞いて、涙を抑えることができなかった。佐藤課長が来てくれる。私の最後の希望が、私が切実に願っていたその人が駆けつけてくれる。
一時間ほど過ぎただろうか。病室のドアが開き、スーツ姿の男性が息を切らして飛び込んできた。佐藤課長だった。以前より少し年を取って見えたが、相変わらず誠実な姿だった。
「奥様、奥様、私です。佐藤です。」
私は唇を震わせながら涙を流した。「うう」といううめきしか漏れなかったが、私の心は叫んでいた。ありがとう。本当にありがとう。
佐藤課長は私のベッドの横に座り、私の手を握った。温かい手だった。「奥様、一体何があったんですか?息子さんはどこにいらっしゃるんですか?」
私は震える手で紙を指差した。さっき刑事に見せた、私が書いておいたあの文字たち。佐藤課長は紙を読んで、顔が固まった。「これが事実なんですか?」
私は頷いた。佐藤課長の目つきが変わった。怒りと悔しさが入り混じった表情だった。「奥様、私がお助けします。心配しないでください。」
その一言が、私にどれほど大きな慰めになったか。言葉では全て表現できない。私は彼の手を強く握った。麻痺した左手は力がなかったが、右手だけはありったけの力で彼の手を握った。
佐藤課長は病室から出て誰かと通話をした後、再び入ってきた。「奥様、私がまず奥様名義の口座を確認してみます。もしかして、息子さんが無断で引き出したものがあるか、照会する必要があります。」
私は再び紙に書いた。「通帳、全部持っていった。」
佐藤課長は頷いた。「大丈夫です。奥様の身分証と本人確認さえできれば、私が取引履歴を全て出すことができます。今から一つ一つ確認してみます。」
彼はノートパソコンを取り出し、素早くキーボードを叩いた。数分後、彼の表情が暗くなった。「奥様、奥様名義の定期預金が全て解約されています。そして、高額が引き出されました。日付を見ると、奥様が入院される直前ですね。」
私の心臓がどすんと落ち込んだ。やはり、あいつらはすでに全てを計画していたのだ。
佐藤課長は怒りに満ちた声で言った。「これは明白な金融詐欺です。奥様の委任状を悪用したんです。私がすぐに金融庁と警察に通報します。」
私は涙を流しながら頷いた。佐藤課長が私の味方になってくれた。もう私は一人ではなかった。
その夜、私は初めて安らかに眠ることができた。佐藤課長がいた。私の最後の希望がついに現実になった。しかし、私はまだ知らなかった。これが始まりに過ぎないということ。これから繰り広げられる巨大な戦いの序幕に過ぎないということ。そして、その戦いで私がどれほど誠実に抵抗することになるかを。
佐藤課長の一言に、私の心臓がどすんと落ちたようだった。ノートパソコンの画面を食い入るように見つめる彼の目つきが鋭く光っていた。
「奥様、予想通りです。奥様が入院されたまさに翌日、代理人の資格で委任状証明書が発行されています。そして、その日の午後にマンションの売買契約が締結され、残金は昨日。つまり、奥様が発見されたまさにその日の午前中に決済されました。」
佐藤課長の説明に、私はガタガタ震える手で口を覆った。狡猾だった。あまりにも素早く、正確に私の人生を切り取っていった。
「そして、ここを見てください。奥様名義の定期預金、保険解約返戻金、そしてマンションの売買代金まで、合計三億円です。このお金が全て、田中健一さん、息子さん名義の口座に入り、つい昨日の夕方、カナダにある銀行への海外送金申請がされました。」
三億円。商店街の露天で野菜クズを拾いながら、手足がふやけるほど働いて貯めた私の血のようなお金だった。そのお金が、私をゴミ扱いして捨てたあいつらの逃亡資金になったなんて。怒りよりも先に訪れたのは虚しさだった。私は一体何のために、あんなに必死に生きてきたのか。
「カナダ…」
佐藤課長が頷いた。「はい。移住しようと決心したんです。お金はすでに送金待機状態で、出国さえすれば終わりだと思ったんでしょう。しかし、奴らは一つミスをしました。」
佐藤課長の口元に冷たい笑みが浮かんだ。「金融情報分析センターの規定上、一千万円以上の高額現金取引や海外送金は、疑わしい取引としてモニタリングされます。特に、このように短期間で高額が動き、預金者が高齢の場合はなおさら厳しく見られます。私がこの点をついて、今すぐ口座停止を要請します。」
佐藤課長は即座に携帯電話を取り出した。彼の声は低いが断固としていた。「あ、木村チーム長、俺だ。佐藤だ。今、緊急案件が一つあるんだけど、金融庁に疑わしい取引の報告を上げてくれ。口座名義は田中健一、送金額三億円。理由は金融詐欺及び老人虐待関連資金だ。」
電話を切った佐藤課長は、再び別の場所へ電話をかけた。今度は声にさらに力が入った。「もしもし。東京地検特捜部ですか?私、大和証券PBセンターの佐藤と申します。今、告発する事件がありまして。はい。被害者は七十代の脳卒中患者で、加害者は実子です。詐欺、私文書偽造、そして尊属…はい。今、被害者の方の身柄は私が確保しています。」
佐藤課長の通話内容を聞きながら、私はベッドのシーツをぎゅっと掴んだ。涙が二筋流れ落ちた。私の息子が犯罪者になるんだ。私が自分の子供を刑務所に送るんだ。しかし、心の片隅では熱い炎が燃え上がった。そうだ。送らなければならない。あいつらは子供ではなく、悪魔だから。
佐藤課長が電話を切り、私を見つめた。「奥様、検察ですぐに捜査に着手するそうです。あまりに金額が大きく、悪質なため、緊急逮捕状の請求も可能だそうです。ですが、問題は…」
佐藤課長が少し言葉を止め、時計を見た。「時間です。奴らがいつ出国するか分かりません。お金が凍結されたのを知れば、すぐに逃げようとするでしょう。出国禁止命令が出るには最低でも半日はかかりますが、その前に飛行機に乗ってしまったら厄介なことになります。」
その時、病室のドアが開き、さっき来た鈴木刑事が急いで入ってきた。「佐藤センター長ですね。通報を受けてきました。」
鈴木刑事は佐藤課長と目配せをし、私に近づいてきた。「おばあさん、私たちが空港の出国記録をもう一度洗ってみたんですが、息子さん夫婦、今日の夜八時のバンクーバー行きの飛行機のチケットを取っています。今が午後四時ですから、あと四時間残っています。」
四時間。私の人生を台無しにしたあいつらが、永遠に消え去るまで残された時間。
「空港に行かなければなりません。」
佐藤課長が飛び起きた。「今すぐ出国禁止要請をしても、空港のシステムに反映されるのに時間がかかります。現場で捕まえなければなりません。」
鈴木刑事も頷いた。「その通りです。私たちも空港警察隊に協力要請をしておきます。ですが、令状が出る前なので、強制的に拘束する名分が弱い。確実な証拠が必要です。」
佐藤課長が私に訪ねた。「奥様、もしかして、息子さんが犯行を自白するような録音やメールのようなものはありませんか?」
私は首を振った。私には何もなかった。ただ私の記憶と、引き裂かれる胸の内だけだった。
その時、ふと浮かぶことがあった。私が倒れた日、嫁が電話していた内容。「小母さん、これ飲んでください。」マリ子が私に渡したジュース。そのジュースを飲んでから、急に意識が朦朧とした記憶。まさか。
私は震える手で紙に書いた。「睡眠薬。」
佐藤課長と鈴木刑事が同時に紙を覗き込んだ。「ジュースですか?もしかして、嫁が渡したジュースに何かを混ぜたということですか?」
私は頷いた。確信は持てなかったが、あの日の記憶は明らかに異常だった。普段は水一杯すら組んでくれない子が、その日に限って妙に親切にジュースを進めたのだから。
鈴木刑事の目が光った。「これなら話が変わります。単純な遺棄ではなく、殺人未遂まで行けますよ。佐藤センター長、病院側の協力を求めて、おばあさんの血液検査を緊急で回してください。睡眠剤の成分や毒物が出れば、すぐに緊急逮捕です。」
佐藤課長は即座に看護師を呼び出した。病室はまたたく間に緊迫した空気に包まれた。採血をし、検査を依頼し、検察庁に再び電話をかけ。私はその全ての光景を見守りながら、心の中で祈りに祈った。どうか私の血から毒が出ますように。嫁が私を殺そうとした証拠が出ますように。そうであってこそ、あいつらを捕まえられるのだから。
「検査結果が出るには一時間はかかるそうです。とりあえず、空港へ出発しましょう。」
佐藤課長が私の車椅子を押した。「奥様も一緒に行かれますか?奥様が直接現れれば、奴らも慌ててボロを出すでしょう。」
私は頷いた。行かなければならない。私の目でしっかりと見なければならない。あいつらが手錠をかけられ、膝をつく姿を。私の人生を踏みにじった代償を払う姿を。
病院の救急車に乗って空港へ向かう道。夕方の時間で道路はひどく渋滞していた。サイレンの音がけたたましく響いたが、私の耳には聞こえなかった。ただ時計の秒針の音だけが耳元でどくんどくんと響き渡った。五時、六時。時間は非常にゆっくりと流れていった。
佐藤課長は助手席でずっとどこかへ電話をかけ続けていた。「はい。検事さん、今向かっています。令状請求されたんですか?はい、ありがとうございます。空港に到着したらすぐに執行します。もしもし。全日空ですよね。私、大和証券の佐藤です。顧客の緊急事態なんですが。はい。搭乗客名簿を確認してください。田中健一、田中マリ子。はい。チェックインは済みましたか?まだですか?良かったです。はい。チェックインカウンターで時間を稼いでください。はい。警察と一緒に行っています。」
佐藤課長の背中から必死さが流れるのが見えた。あの人も今、必死なんだ。他人であるあの人も、こんなに尽力してくれているのに。血のつながった息子は、私を捨てて逃げようとしている。
窓の外をレインボーブリッジの明かりが過ぎ去っていった。もうすぐ成田空港だ。待っていろ。田中健一。マリ子。私は麻痺した手を車椅子の手すりに縛りつけた。絶対に逃さない。お前たちが地獄へ逃げても、私が最後まで追いかけてやる。
その時、佐藤課長の電話が鳴った。病院からの電話だった。「はい。佐藤です。結果出ましたか。」
佐藤課長の表情が固くこわばった。そして、ゆっくりと後ろを振り返り、私を見つめた。「奥様、検出されたそうです。ゾルピデム成分。致死量に近い数値だそうです。」
ゾルピデム。睡眠薬。あいつらは私を眠らせて、山に捨てたんだ。死ねと。目覚めずにそのまま死ねと。
鈴木刑事が拳で手のひらを叩いた。「これで確実になりました。尊属殺人未遂です。もう奴らは袋のネズミです。」
救急車が空港ターミナルの入り口に止まった。時計は七時十分を指していた。搭乗締め切りまで五十分。
「行きましょう。奥様。」
佐藤課長が悲壮な表情で車椅子を押した。鈴木刑事と警官たちがその後ろに従った。空港のロビーの雑踏をかき分けて、私たちは出国場へと向かった。心臓が張り裂けそうだった。怒りなのか、緊張なのか、それとも悲しみなのか分からない感情が胸を満たした。いよいよ、最後の審判の時間が近づいてきた。
七時四十五分。搭乗締め切りまで十五分残っている。佐藤課長の叫び声が空港の騒音の中にうもれた。車椅子の車輪がタイル張りの床を転がる音が、私の心臓の鼓動のように騒がしく響いた。
成田空港の出国ロビーはまさに黒山の人だかりだった。スーツケースを引いて笑いながら通り過ぎる恋人たち、浮かれた表情の家族連れ。その幸せな風景の間を、私たちは暴走機関車のように突き抜けていった。異様だった。世の中はこんなにも平和なのに、私の心の中だけ地獄の業火のように燃えさかっていた。
「どいてください。ちょっとすみません。救急患者が通ります。」
鈴木刑事が先頭に立って人波を開けた。私は車椅子の上で歯を食いしばった。麻痺した足がガタガタする度に痛みを感じたが、今はそんな苦痛など何でもなかった。どこにいる。どこに隠れている。私の目は鷹のように周囲を見回した。数千人の人々の中から、あの二つの顔を見つけ出すこと。それは砂浜で針を探すようだったが、私の本能は知っていた。匂いがした。裏切りの匂い、貪欲の匂い。
「チェックインカウンターはもう閉まっています。保安検査場に入った可能性が高いです。」
佐藤課長が無線機を持った空港警察と通話しながら叫んだ。「CCTV確認できました。第一ターミナルの南ウイング、保安検査場を通過中。四十二番ゲート、バンクーバー行きです。」
四十二番。ここから遠い搭乗ゲートだった。奴らはもう動く歩道に乗っているかもしれない。走らなければならない。
佐藤課長が車椅子を掴む手に力を入れた。私たちは全力疾走を始めた。空港職員が「ここで走ってはいけません」と叫んだが、鈴木刑事が警察手帳を掲げて静止した。「公務執行中です。道を開けてください。」
保安検査場の前、長い列ができていた。私たちは職員専用路へ直行した。保安要員が止めようとしたが、鈴木刑事があらかじめ連絡しておいたおかげでゲートが開いた。「協力感謝します。容疑者二名の人物着衣を確認しましたね。」「はい。三十代後半の女性、黒いコート。四十代男性、グレーのパーカ。さっき出国審査を抜けました。」
一足遅かった。出国審査を抜けたなら、奴らはもう免税エリアを抜けて搭乗ゲートに向かっているはずだ。
「次の動く歩道まで走ります。」
その五分が永遠のように感じられた。ゲートへ向かう動く歩道で、私は息が詰まりそうだった。逃してはならない。絶対にだめだ。私の固まってしまった手が、思わず膝を握りしめていた。五分あれば、飛行機のドアが閉まるかもしれない時間。五分あれば、彼らが私の三億円を持って、私を殺そうとした罪を隠蔽し、あの空の上へ消えてしまうことができる時間。
ついに搭乗ゲート付近に到着した。佐藤課長は荒い息を吐きながら、私の汗を拭ってくれた。「奥様、もう少しが我慢してください。ほぼ着きました。」
私は頷いた。佐藤課長の額にも汗の粒が浮かんでいた。他人である彼が、私のためにこんなに走っているのに。身の血肉である息子は逃げている。その事実が改めて骨身に染みた。
四十二番ゲートの表示が見えた。
「あそこです。」
佐藤課長の指が差す場所。ゲート前の椅子に座っている二人の後ろ姿が見えた。黒い後頭部、グレーのパーカ。見慣れた後ろ姿。忘れることのできない彼らのシルエット。私の心臓が止まるようだった。
息子の健一。そして、嫁のマリ子。二人は向かい合って笑っていた。マリ子は手に持ったシャンパングラスを揺らしながら何か楽しそうに話しており、健一はぼんやりと頷いていた。
笑ってる。今、笑いが出るのか。母親を山奥に捨てて、睡眠薬を飲ませて殺そうとしておいて、ここでシャンパンを飲みながら笑っているのか。私の目の前が赤く染まった。怒りが頭のてっぺんまで突き抜け、血管が破裂しそうだった。
「健一!」
私の喉から獣のような咆哮が飛び出した。固まっていた舌が奇跡のように解け、その名前が飛び出した。その声に周囲の人々が一斉に振り返った。そして、シャンパンを飲んでいた二人もゆっくりと首を回した。
息子と目が合った。彼の瞳が、幽霊を見たかのように揺れた。
「母さん…」
健一の唇が震えた。嫁のマリ子はシャンパングラスを落とした。
「シャーン。」
ガラスが割れる音が空港の静寂を切り裂いた。
「うそ…どうして…」
マリ子の顔が紙のように真っ白になった。彼女は信じられないというように口を開けたまま、私を見つめた。死んだと思っていた年寄りが、共同墓地の幽霊になって現れたと思ったのでしょう。
「この人でなし!」
私は車椅子から身を起こそうと必死になった。気持ちとしては駆け寄って、あいつらの髪の毛を掴んでやりたかったが、麻痺した足は言うことを聞かなかった。代わりに、佐藤課長と鈴木刑事が彼らに向かって飛びかかった。
「田中健一さん、田中マリ子さん、あなたたちを尊属殺人未遂の容疑で緊急逮捕します。」
鈴木刑事がミランダ警告を告げながら手錠を取り出した。その瞬間、マリ子の目つきが変わった。恐怖から狡猾さへ。彼女は健一の腕を掴んだ。
「あなた、走って!飛行機乗らなきゃ!」
マリ子は健一をゲートの方へ突き飛ばした。「搭乗券あります。どいてください!」
マリ子は立ちはだかる客室乗務員を押しのけて、ゲートの中へ飛び込もうとした。健一もおどおどと彼女に従って走った。
「そこまでだ!」
鈴木刑事が身を投げて健一の首根っこを掴んだ。健一は「うわ」と悲鳴をあげて床に倒れ込んだ。しかし、マリ子は素早かった。彼女は健一が捕まるのを見ても、後ろも振り返らずにゲートの奥のボーディングブリッジへ走っていった。
「だめだ。捕まえろ!」
佐藤課長がマリ子を追って走った。
「これ、話して!飛行機のドア閉めてよ!」
マリ子の悪意に満ちた悲鳴が搭乗橋の中に響き渡った。彼女は閉まろうとする飛行機のドアを手で叩きながら発狂した。「乗せてよ!乗せてくれってば!私、VIPよ!ビジネスクラス取ったのよ!」
しかし、飛行機のドアは固く閉ざされていた。乗務員たちが慌てて彼女を静止しようとしたが、マリ子は狂った人のように乗務員の腕に噛みつき、騒動を起こした。その時、佐藤課長がマリ子の腕を後ろにねじ上げて制圧した。
「やめろ。見苦しいぞ。本当に。」
佐藤課長は彼女を床に押さえつけた。マリ子は床に顔を押し付けられたまま叫んだ。「これ、話して!あんたたち何なの?私を止める権利なんてないわ!自分のお金で私が行くっていうのに!」
「あんたのお金じゃないでしょう。小母さんのお金じゃない。」
佐藤課長の一喝に、マリ子は一瞬怯んだ。しかし、すぐに毒々しい目で佐藤課長を睨みつけた。「証拠あるの?証拠あるのかって!年寄りがボケて戯言言ってるのを真に受けて、人を犯罪者扱いして!いい加減にしなさい!」
現場で捕まっても白を切る。その姿に、私は呆れて言葉も出なかった。
一方、鈴木刑事に制圧された健一は、床に伏せたまま震えていた。彼は私を見ることもできず、頭を下げていた。「母さん…母さん…悪かった…」とかすかな声でつぶやく。その情けない姿が、さらに吐き気を催させた。マリ子のように悪態をつくならともかく、殺そうとした時はあれほど冷酷だったのに、今更「悪かった」だなんて。
鈴木刑事は二人を起こして手錠をかけた。「あなたたちを現行犯で逮捕します。弁護士を依頼する権利があります。」
カチリと手錠が閉まる音が、私の耳元に響いた。その音がこれほど痛快だとは。空港の利用客たちがざわめきながら集まってきた。数多くのカメラのフラッシュが焚かれた。「非道カップル、空港で逮捕」などのタイトルで、SNSにリアルタイムで拡散される場面だった。
佐藤課長が私に向かって車椅子を押して近づいてきた。そして、手錠をかけられた二人を私の前に膝まずかせた。「奥様、捕まえました。」
私は震える目で二人を見下ろした。マリ子は顔をぷいっと背けて私を無視し、健一は床に頭を打ちつけて号泣していた。「母さん、俺が死ぬほどの罪を犯した。マリ子がやれって。俺はやりたくなかったのに。」
「黙りなさい!」
マリ子が健一に怒鳴った。「男の癖に情けない。私たちが何をしたって言うの?小母さんが勝手に倒れられたんじゃない。私たちが殺した?ただそこに置いてきただけじゃない!」
未だに正気に戻れない嫁。彼女の目には反省の色など微塵も見当たらなかった。ただ捕まったという悔しさ、お金を奪われるという無念さだけだった。
私は深呼吸を一度、大きくした。そして、ありったけの力を込めて右手を振り上げた。
「バチン!」
私の手のひらがマリ子の頬を打った。力がなくて当たり損ねたが、その音はかなり大きかった。マリ子は驚いた目で私を見つめた。
「小母さん、お前は人間でもない。」
あやふやだが、はっきりとした私の声だった。「私の金、私の家、全部吐き出して、刑務所で腐ってしまえ。」
私の宣言に、空港ロビーには静寂が流れた。マリ子は唇を噛みしめながらブルブル震え、健一は「ああ、母さん」と慟哭した。
警察たちが二人を連行し始めた。「行きましょう。署に行って取り調べを受けてもらいます。」
連行される二人の後ろ姿を見ながら、私は車椅子の背もたれに体を預けた。全身の力がすっと抜けていくようだった。終わったんだ。いや、これから始まるんだ。奴らを捕まえたけれど、私の心はすっきりするというより、苦しいものだった。私の人生の最後が、こんな泥沼の戦いになるとは。しかし、後悔はなかった。私は守った。私の尊厳を、私の最後の自尊心を。
佐藤課長が私の肩を包んでくれた。「お疲れ様でした。奥様。もう全て終わりました。」
私は佐藤課長の手の甲の上に自分の手を乗せた。「ありがとうね、佐藤さん。本当にありがとう。」
涙がどっと溢れた。今度は悲しみの涙ではなく、安堵の涙だった。空港の高い天井の上、飛行機が一機飛び立つ音が聞こえた。奴らは乗れなかったあの飛行機。しかし、私は今、私の人生の新しい飛行を始める準備ができたようだった。たとえ翼は折れ、体は不自由でも、私の魂だけはかつてないほど自由に舞い上がっていた。
世の中で一番冷たい空気は、真冬の山奥ではなく警察署の取り調べ室にあった。空港での騒ぎが終わり、到着した警察署は昼間とは全く違う世界だった。蛍光灯の明かりはしみるほど白く、廊下を歩く人々の足音は鋭く響いた。私は車椅子に座ってその殺伐とした風景を眺めながら、私の人生がどうしてここまで流れてきたのかを噛みしめていた。
「おばあさん、体調は大丈夫ですか?辛ければ、取り調べは明日にしてもいいんですが。」
鈴木刑事が心配そうな顔で訪ねた。私は首を振った。「いいえ、今日全部やっていきます。鉄は熱いうちに打てと言うでしょう。先延ばしにする理由がありませんから。」
私の言葉に鈴木刑事は苦笑いを浮かべ、取り調べ室のドアを開けてくれた。そこにはすでに見知らぬ中年女性が座っていた。
「こんにちは。田中よ子さん。私は高齢者保護専門機関から来たソーシャルワーカーの小林です。取り調べを受けられる間、横でお手伝いしようと思ってきました。」
彼女の温かい声に、緊張していた心が少しほぐれた。私のような老人のために、国から人まで送ってくれるなんて。世の中はただ白黒だけではないんだなと思って、鼻の奥がツンとした。
取り調べが始まると、私は記憶をたぐり寄せてあの日の出来事を一つ一つ取り出して並べた。倒れた日に嫁が渡してくれたジュースの味、山奥の寒さ、そして私の胸に釘を打ったあの言葉まで。「嫁が私に『生きるゴミ』だと言いました。『私たちだって生きなきゃ』と。」
私の口からその言葉が再び出た瞬間、胸の奥底から込み上げてくる熱いものがあった。しかし、私はぐっとこらえた。泣いたら負けだ。あいつらに弱い姿を見せてはいけない。
取り調べが終わる頃、佐藤課長が取り調べ室に入ってきた。「奥様、お疲れ様でした。外には記者がびっしりですよ。ニュースを見て大騒ぎです。」
「記者たち、私のような老人の話が何がそんなに面白いんだか。」
「面白いですよ。息子さん夫婦が犯したことがあまりに衝撃的ですから。世論が沸騰しています。おかげで、検察でも緊急令状を請求するのに問題なさそうです。」
佐藤課長の言葉に、私は安堵と同時に苦しさを感じた。自分の子供が天下の悪人として報道される姿を見る母親の心情を、誰が知るだろうか。
取り調べを終えて出る道すがら、留置場の方の廊下で息子夫婦と出くわした。保護ロープに縛られ、連行される二人の姿は見る影もなかった。健一は首を深くうなだれてガタガタ震えており、マリ子は化粧が全て崩れた顔で私を毒々しく睨みつけた。
「小母さん、これ、何なんですか?子供を刑務所にぶち込んで、気が済みましたか?」
マリ子が金切り声をあげて飛びかかろうとし、警察官に静止された。健一はその横で泣きべそをかきながらつぶやいた。「母さん、俺を助けてくれよ。俺が悪かったんだ。母さんがうまく言ってくれよ。」
その情けない声。私を山に捨てる時はあれほど冷酷だったくせに、今更助けてくれと懇願している。私の中で怒りの炎が燃え上がった。「知りなさい。情けわしい。」
私は彼らを無視して車椅子を回した。背後からマリ子の罵声が聞こえてきたが、私は耳を塞いだ。もうあいつらは私の子供ではない。私の人生を食い荒らした悪魔たちだ。
翌日、病室に見知らぬ男が尋ねてきた。艶のあるスーツを着た彼は、自分を息子夫婦の弁護士だと紹介した。
「おばあさん、驚かれましたよね。いやはや。子供たちがどうしてそんな間違いをしてしまったのか。」
彼はニヤニヤした笑みを浮かべ、果物籠を置いた。
「間違い?人を山に捨てて、薬を飲ませて殺そうとしたのが間違いだというのか。」
私の怒鳴り声に、弁護士は一瞬怯んだが、すぐに能面のような表情で言葉を続けた。「ああ、殺そうとしただなんて、誤解です。ただ、養護施設に送って差し上げようとして、少し勘違いをしただけでしょう。それに、おばあさん、家族同士じゃないですか。法廷まで行って互いに顔を潰し合うのは、他人から見ても良くないですし。」
彼はこっそりと封筒を一つ差し出した。「これ、息子さんが用意した慰謝料です。示談に応じていただければ、息子さんがすぐに出てきて、おばあさんを極楽とやらでお世話するでしょう。何せ、親が子供に勝てるわけないって言うじゃないですか。」
慰謝料?私の金三億円を盗んでおいて、今更示談金で私の口を封じようとするとは。あきれ果てた。私は封筒を掴んで、彼の顔に投げつけた。
「出ていけ!今すぐ出ていけ!私の金を全部奪っておいて、何が慰謝料だ!それに、何だ?『極楽とやらでお世話する』?私をまた山に捨てるつもりか?」
「いや、おばあさん、なんでそんなに興奮されて…」
「看護師さん!この人を追い出して!警察を呼んで!」
私の絶叫に、佐藤課長が飛び込んできた。佐藤課長は弁護士の胸ぐらを掴んで外へ引きずり出した。「あんた、何だ?被害者を脅迫するのか?弁護士法違反で告発されたいのか?」
騒ぎが収まった後、私は荒い息を吐きながらベッドに寄りかかった。手がガタガタ震えた。あいつらは最後まで反省しないんだな。どうにかして抜け出すことだけを考えているんだな。
「奥様、大丈夫ですか?」
佐藤課長が水を一杯渡してくれた。私は水を飲みながら心を正した。「佐藤さん、私、絶対許さない。あの野郎どもが刑務所で無念を食う姿を、私の目で必ず見てやる。」
佐藤課長は硬い表情で頷いた。「はい。私がお手伝いします。国選弁護士も、とても有能な方が配属されました。心配しないでください。」
数日後、勾留質問が開かれる日だった。私は裁判所の証人として出席した。裁判官の前で、私の口から直接被害事実を話さなければならなかった。法廷の中は張り詰めていた。裁判官の下に検事と弁護士、そして囚人服を着た息子夫婦が座っていた。健一は私を見るなり「母さん」と泣き崩れたが、私は目もくれなかった。
裁判官が私に尋ねた。「証人、被疑者たちが証人を生き埋めにし、殺害しようとしたというのは事実ですか?」
私は震える声で、しかしはっきりと答えた。「はい。事実です。嫁がジュースをくれたんですが、それを飲んで気を失いました。目が覚めたら山奥で。嫁が言いました。『生きるゴミだと。私たちだって生きなきゃ』と。」
傍聴席からため息が漏れた。マリ子の弁護士が立ち上がって叫んだ。「裁判長、証人は現在脳卒中の後遺症で認知能力が低下しています。記憶が歪曲された可能性が高いです。」
「何だと?私の記憶が歪曲だと?」
私は車椅子を蹴って立ち上がらんばかりだった。「いい加減にしなさい!私の体は病んでいても、精神はまともだよ!私が自分の息子に捨てられたことを!どうしてあの夜のあの寒さ、あの土の匂い、あの声を!私は死んでも忘れない!」
私の絶叫に、法廷内が水を打ったように静かになった。裁判官は静かに私を見つめ、再び尋ねた。「証人、被疑者たちに対する処罰を望みますか?」
この質問を待っていた。私は息を深く吸い込んだ。「はい。望みます。とても強く望みます。」
「母さん、俺だよ!健一!母さんの息子の健一だよ!」
健一が泣き叫んだが、私は彼をまっすぐ見つめて言った。「私の息子の健一は死んだ。山奥に私を捨てていった時、その時すでに死んだんだ。あそこにいるのは、金に狂って親を殺そうとした怪物なだけだ。」
私の断固とした言葉に、健一は床にうずくまり、マリ子は顔を背けて唇を噛みしめた。裁判官はしばらく書類を検討した後、判決を下した。「被疑者、田中健一、田中マリ子。犯罪事実が明白であり、逃亡及び証拠隠滅の恐れがあるため、勾留令状を発します。」
「カン、カン、カン。」
木槌の音が法廷に響き渡った瞬間、私はようやく長い息を吐き出した。終わりではないことを知っている。これから長い裁判が始まるだろうから。しかし、少なくとも今この瞬間、正義が私の味方についたという事実だけで、私は生き返るようだった。
裁判所を出る道、空は青く澄んでいた。車椅子を押してくれる佐藤課長の足取りも、一層軽く見えた。「奥様、これからが始まりです。裁判が終わるまで、健康に気をつけてくださいね。」
「分かったわ。私、あいつらが罰を受けるのを全部見るまでは、絶対に死なないから。」
私は拳を強く握った。痩せこけた私の手の甲に、日差しが温かく降り注いだ。そうよ。よ子、これからが本当の私の人生だ。誰の顔色も伺わず、悔しいことを我慢せず、堂々と生きるんだ。
その夜、私は病室のベッドに横たわり、初めて悪夢を見なかった。山奥に捨てられる夢の代わりに、私が自分の足でスタスタと歩いて息子夫婦を叱りつける夢を見た。夢の中の私は、病んだ老人ではなく、世の中を号令する将軍のように堂々としていた。もう私はこれ以上、被害者ではない。私は私の人生を取り戻しに来た審判者だ。そして、その審判の果てで、私は必ず笑うだろう。
法廷の空気は重く乾燥していた。まるで砂漠の真ん中に立っている気分だった。裁判官の高い席、検事と弁護士が座っている長くて黒い机、そしてその間に置かれた被告人席。私は車椅子に座って、その殺伐とした風景を眺めた。傍聴席は満席だった。「鬼畜夫婦事件」という刺激的なタイトルに引かれてきた野次馬たち。そして、絶えずシャッターを切り続ける記者たち。彼らの目は好奇心でギラギラしていた。私の惨めな人生が、彼らにとってはただの興味深い見物に過ぎないという事実に、吐き気がした。
「これより、事件番号…尊属殺人未遂等に関する公判を開廷します。」
裁判官の開廷宣言と共に、裁判が始まった。被告人席に座った健一とマリ子は囚人服を着ていた。数日前の勾留質問の時よりもさらにやつれた姿だったが、目つきだけは相変わらずだった。特に、マリ子の隣に座った弁護士。数日前に病室で私に示談金を投げつけたあの男は、余裕綽々の笑みを浮かべていた。
「弁護人、起訴事実を認めますか?」
裁判官の質問に、弁護士が席から立ち上がった。「いいえ。全面的に否認します。」
傍聴席がどよめいた。私は拳を強く握った。憎らしい奴ら。証拠が溢れているのに、否認だなんて。
「被告人たちは、被害者を殺害する意図は全くありませんでした。単に、認知症の症状がひどくなったお母様を、養護施設に、良い空気の綺麗な場所へお連れしようとして、一時的に道を迷い、慌てただけです。睡眠薬も、やはり不眠症で苦しむお母様のために処方された薬を、誤って過剰摂取してしまった事故に過ぎません。」
「嘘つき!」
思わず叫んでしまった。佐藤課長が私の肩を掴んで落ち着かせた。
「そして、何より…」
弁護士は私に向かって妙な笑みを浮かべ、言葉を続けた。「被害者、田中よ子氏は現在、重度の脳卒中と初期のアルツハイマーの症状により、認知能力が著しく低下しています。被害者の陳述は妄想によるもので、法的証拠能力がありません。」
認知症。妄想。あいつらは私を狂った老人扱いしていた。私の無念を、私の血の吐くような絶叫を、狂人の戯れ言として片付けてしまおうというのだ。
「異議あり!被害者の精神鑑定の結果は極めて正常です!」
検事が反論したが、弁護士はのらりくらりと抜け出した。「さあ、どうでしょう?ショックによる一時的な記憶の歪曲は、医学的にも十分にあり得る話です。それに、普段から嫁に対する被害妄想がひどかったという、近所の証言もあります。」
それから、退屈で汚い泥沼の戦いが始まった。弁護士は、私が普段どれだけ嫁をいじめていたか、息子に金を要求してどれだけ苦しめたか、ありもしない事実をでっち上げて並べ立てた。「お母様は、小遣いが少ないと言って、嫁に食卓をひっくり返したこともあります。息子が残業して帰ってくると、ドアも開けてあげなかったそうですね。」
「嘘だ!全部真っ赤な嘘だ!」
私は一生、嫁の顔色を伺って、ご飯一つも気楽に食べられなかったのに。息子が残業すれば、もしや起きるかと足音を殺して待っていたのに。悔しくて胸が張り裂けそうだった。涙が止めどなく流れ落ちた。あいつらが狙っているのがまさにこれだった。私が興奮して騒ぎを起こせば、それを口実に「感情調節ができない認知症老人」だと追い込むつもりだった。
「奥様、我慢してください。応戦してはいけません。」
佐藤課長が私の耳元でささやいた。私は唇から血が出るほど噛みしめながら耐えた。
「次の証拠を提出します。」
弁護士の攻勢が一瞬止んだ隙に、検事が立ち上がった。そして、佐藤課長が検事に目配せをした。時が来たのだ。
「検察側は、被告人田中マリ子の携帯電話から復元した音声ファイルを、証拠として提出します。」
「え、携帯電話…」
マリ子の顔が土色になった。彼女は空港で逮捕される時、携帯電話を急いで床に投げつけて壊した。しかし、佐藤課長はその壊れた破片を集めて民間のフォレンジック業者に依頼し、奇跡的にデータを復旧させたのだ。
法廷のスピーカーから、チリチリというノイズと共にマリ子の声が流れてきた。
「ええ、あなた。今回、小母さんの保険金が出たら、私たちそれ持ってすぐに高飛びするのよ。」
「分かった。でも、母さんが死んだらどうするんだ?」
健一の震える声だった。
「死んだらもっといいじゃない。葬式出して、死亡保険金までかき集めれば、カナダに行って贅沢に暮らせるわ。あんた、あの老人臭いばあさんの世話なんてしたいの?今回がチャンスなんだから。」
「分かったよ。薬は準備した。ゾルピデム十錠、砕いたわ。ジュースに混ぜて飲ませれば、誰にも気づかれずに…山に放り出しておけば、凍死するでしょう。」
静寂。法廷の中は水を打ったように静かになった。傍聴席のざわめきも止んだ。ただ、スピーカーから流れてくる悪魔たちの囁きだけが、空気を切り裂いていた。
「きゃあ!違う!それは捏造されたものよ!」
マリ子が発狂して叫んだ。「裁判官様、あれ全部偽物です!最近、AIで声を作るの簡単じゃないですか?罠です!」
しかし、もう手遅れだった。裁判官の表情は凍りつき、傍聴席からはヤジが飛び交った。「あんな鬼畜の夫婦の声を!どうしてあんなことができるんだ!」
弁護士も慌てて、どうしていいか分からない様子だった。決定的な証拠。スモーキングガン。それがまさに、私の息子夫婦の首を絞める縄になった。
検事が鋭く言い放った。「被告人たち、まだお母様が認知症で妄想をしていると主張するつもりですか?この録音記録に含まれた内容が、まさにあの日の真実ではありませんか?」
健一は床に頭を打ちつけて号泣した。「申し訳ありません!俺が死ぬべき人間です!」
マリ子は相変わらず「ふーふー」と息巻いていたが、これ以上反論する言葉がなかった。
裁判長が私を見つめた。「被害者、田中よ子。最後に言いたいことはありますか?」
佐藤課長が車椅子を証言台の前へ押してくれた。私はマイクを握った。手は震えていたが、声はかつてないほど鮮明だった。
「裁判長様。」
私はゆっくりと首を回して、被告人席に座る息子を見つめた。「健一。」
私の呼びかけに、健一がびくっとしたように顔を上げた。涙まみれになった顔。私が母乳を飲ませて育て、熱が出れば背負って走った、その顔。
「お前にとって、私は何だったんだ?飯を作る家政婦だったか?それとも、金が出てくる財布だったか?それでなければ、ただ臭くて捨てたいゴミだったのか?」
「母さん…うう…」
「私はお前に、いっぱい飯を食わせるのが私の人生の全てだった。私が笑えばお前も笑い、お前が痛ければ、私が代わりに痛くなりたかった。それなのに、お前は私を殺してでも、自分の幸せを探したかったのか。」
私の声が法廷の中に響き渡った。裁判官も検事も傍聴客たちも、呼吸を殺して聞いていた。
「マリ子さん。」
今度は嫁を呼んだ。彼女は顔を背けていた。「私をゴミだと言ったね。そうさ、老いて病んだ私が。お前たちの目には、ゴミのように見えたんだろう。でもな、ゴミだって、自分の子は可愛いと分かるんだよ。獣だって、自分の親を噛み殺したりはしないんだ。」
私は息を深く吸い込んだ。最後の言葉を吐き出す時だった。「裁判長様、私は彼らを許しません。私の残りの人生がどれくらいか分かりませんが、彼らが犯した罪の報いを全て終えるまで、私は目を大きく見開いて見守るつもりです。どうか、法が生きているということを見せてください。」
私の言葉が終わると、傍聴席のあちこちですすり泣く音が聞こえた。佐藤課長がハンカチで私の涙を拭ってくれた。
検事が席から立ち上がった。「尊属殺人未遂、特別経済犯罪処罰法上の詐欺。犯行が極めて悪質であり、反省の色がない点を考慮し、被告人田中健一に懲役十五年、被告人田中マリ子に懲役十年を求刑します。」
懲役十年。その数字が胸にどすんと刺さった。私の息子の青春が、私の嫁の人生が、刑務所で腐っていく時間だった。心が痛くないと言えば嘘になるだろう。しかし、後悔はなかった。これは彼らが招いたことであり、私が自分の子供に教えてやるべき最後の教訓だったから。
裁判が終わり、法廷を出る道、数多くのカメラが私を取り囲んだ。「おばあさん、心境はいかがですか?息子さんに一言お願いします。」
私は何も言わなかった。ただ黙々と車椅子の車輪を回した。空は相変わらず青く、風は涼しかった。佐藤課長が私の後ろで静かに言った。「奥様、もう本当に全て終わりました。」
「違うよ、佐藤さん。終わりじゃない。」
私は空を見上げてつぶやいた。「これからが始まりだよ。私の本当の人生は、今からなんだ。」
私の口元に薄い笑みが広がった。苦しいけれど、同時に清清しい笑みだった。私は生き残った。そして、勝った。それで十分だった。
宣告の公判があった日の朝、私は箪笥から一着の着物を取り出してきた。息子の結婚式の時に着た黒留袖だった。箪笥から古い匂いを払いながら、私は思った。あの時はこの服を着て息子を嫁にやったけれど、今日はこの服を着て、私の息子を刑務所に送るんだと。実に皮肉な運命だが、避けるつもりはなかった。鏡の中の私は、老いて病んでいても、目つきだけは鋭く生きていた。
「奥様、準備はできましたか?」
佐藤課長が病室のドアを開けて、丁寧に訪ねた。紺のスーツ姿の彼が、車椅子を押すために近づいてきた。
「行きましょうか、佐藤さん。最後を見届けに。」
私は杖をついてゆっくりと立ち上がった。法廷の中は張り詰めた緊張感で満ちていた。被告人席に座った息子と嫁は、数日前よりもさらに痩せていた。嫁は相変わらず床ばかりを睨んでおり、息子はチラチラと私の顔色を伺っていた。しかし、私は彼らに目線さえくれなかった。
裁判官が主文を読み上げた。「被告人、田中マリ子を懲役十五年に処する。被告人、田中健一を懲役十年に処する。」
検事が求刑した二十年よりは減ったが、十五年だなんて。私の息子夫婦の青春が、刑務所で腐り果てる時間だった。被告人たちは高齢の老母を生き埋めにし、殺害しようとし、反省の色なく被害者を罵倒するなど、悪質極まりない。判決文が朗読される間、法廷の中には重い沈黙だけが漂った。
「母さん!母さん!俺を助けてくれよ!俺が悪かった!」
息子が泣き叫びながら私の方へ身を投げようとした。刑務官たちが彼を静止した。「これ、話せ!母さん!お願い!母さんの息子じゃないか!母さんが裁判官に何とか言ってくれよ!」
その声が私の耳元を打った。以前なら胸が張り裂けそうで、今すぐにでも裁判官のズボンの裾でも掴んだかもしれない。しかし、今、私の胸は冷たく冷え切っていた。私はゆっくりと首を回して、息子を見つめた。
「健一。」
私の声に、息子が泣くのをぴたりと止めた。「そこで人になって出てきなさい。それが、私がしてやれる最後の親の役目だ。」
「母さん…」
「そして、マリ子。」
お前は嫁を睨みつけた。彼女は唇を噛みしめながら顔を背けた。「ゴミはお前たちだったんだよ。金に目がくらんで、人の道すら忘れたお前たちだったんだ。十五年間、壁を見て反省しなさい。お前たちが捨てたのが、ゴミではなく天罰だったということ。」
私は車椅子を回した。後ろで息子の慟哭が聞こえてきたが、私は一度も振り返らなかった。
「奥様、出ましょう。」
佐藤課長が静かに車椅子を押した。法廷のドアを出ると、降り注ぐ日差しが私の顔を照らした。涙がどっと溢れた。悲しくてではありませんでした。あまりにも清清しくて、胸のつかえがすっと降りるようで流れる涙だった。
「佐藤さん、ありがとう。本当にありがとう。」
「いいえ。奥様、本当にお疲れ様でした。」
佐藤課長はハンカチを渡し、黙々と私の影を守ってくれた。そうして、私の戦争は終わった。
そして、一年という時間が流れた。いつの間にか季節は再び秋。私は今、杖をついて山を登っている。一年前に私が捨てられたあの山ではなく、家の近くの低い裏山だ。
「おばあさん、もう少しゆっくり行ってくださいよ。私たち、息が切れます。」
後ろからソーシャルワーカーの高橋さんが言いながらついてくる。その横には、佐藤課長が大きな弁当箱を背負って汗をだらだら流している。
「あらまあ、若い人たちがなんでそんなに弱いの?私をご覧、飛ぶように歩いてるじゃないか。」
私は豪快に笑って足を早めた。もちろん、まだ左足は少しびっこを引くが、自分の足で地を踏んで歩くということが、こんなに胸がいっぱいになることだとは、以前は知らなかった。
山の中腹のあずま屋に席を取った。佐藤課長が包んできたのり巻きや果物が、いつもいっぱいに広げられた。「奥様、これ召し上がってください。私が昨日の夕方から仕込んでおいた卵焼きです。」「おばあさん、私は煮物を作ってきましたよ。味が合うかしら。」
私の皿に料理を置いてくれるこの人々。血の一滴も混ざっていないけれど、息子よりましで、嫁より優しい人々。私は彼らを見て、本当の家族とは何かを改めて考える。
私は懐から通帳を一つ取り出した。一年前、息子夫婦から取り戻した三億円が、そのまま入っている通帳だった。
「佐藤さん、これ受け取ってください。」
「はい。これは何ですか?」
「財団を作るのに使ってください。私みたいに、子供に捨てられて金もなく、悔しい思いをしている老人たちを助けるのに使ってくれ。」
佐藤課長の目が丸くなった。「奥様、これは奥様の全財産じゃないですか?本当によろしいんですか?」
「いいに決まってるでしょう。私が行く時に、これを持っていけるわけでもなし。私が死んだ後に、変な奴らが持っていくより、良いことに使っていけば、私の気が楽だからね。」
ソーシャルワーカーの高橋さんが、私の手をぎゅっと握った。「おばあさん、本当に尊敬します。素敵です。」
「素敵って、何が素敵なんだか。ただの恩返しをして行くだけさ。」
私は照れ臭くて笑った。しかし、心の中は羽のように軽やかだった。一生を懸けて貯めたお金。子供にあげようと、着るものも惜しみ、食べるものも食べずに貯めたお金。そのお金を、私の手で手放してみると、ようやく本当の自由が訪れたようだった。
ご飯を食べて、降りてくる道。赤く染まった紅葉の木の下で、しばし立ち止まった。風が吹いて、私の白い髪をなびかせた。一年前の私は、冷たい土の地面で死を待つ惨めな老人だった。「生きるゴミ」という言葉に閉じ込められ、生さえまともにできなかった。しかし、今の私は違う。私は自分の足で歩き、自分の意思でお金を使い、私の人々と笑う。
私は空を見上げて、独り言を言った。「よ子、聞こえるか?私、今幸せだよ。本当に幸せだよ。」
どこからか、「そうか。よくやった」という風の音が聞こえるようだった。私は杖を持ち直し、再び歩みを進めた。あの下、私が生きていく世界が、私の本当の春の日が、私を待っていた。私の人生、これからが本当の始まりだ。



