「この銭湯は先がない。早いところ廃業して借金を清算するのが賢い選択だと思いますよ」 銀行の新店長は、祖父から受け継いだ銭湯にそう言い放った。22歳の私は、番台の裏で必死に涙をこらえていた。5000万円の融資を30日以内に全額返済しろと言われ、もう終わりだと思った。でも、その夜、祖父が残してくれた古い封筒を開けた時、すべてが変わった。私は銀行に言った。「それなら、私も動くことにします」と。…

「この銭湯は先がない。早いところ廃業して借金を清算するのが賢い選択だと思いますよ」 銀行の新店長は、祖父から受け継いだ銭湯にそう言い放った。22歳の私は、番台の裏で必死に涙をこらえていた。5000万円の融資を30日以内に全額返済しろと言われ、もう終わりだと思った。でも、その夜、祖父が残してくれた古い封筒を開けた時、すべてが変わった。私は銀行に言った。「それなら、私も動くことにします」と。...

「分割払いでは、どうかお願いできませんか?」

声は小さかったが、必死さがにじんでいた。エプロン姿の若い女将、香川すみか22歳の手はわずかに震えていた。しかし、その目は静かに相手の顔を正面から見つめていた。

「分割?笑わせるな。ボロ銭湯に何の将来性があるって言うんだ?」

スーツ姿の男、高野強し47歳は、栄光地方銀行東大寺支店に着任したばかりの新店長だった。本部から与えられた使命はただ一つ、支店の不良資産案件を徹底的に整理せよ、というものだった。

高野は鼻を鳴らし、古びた暖簾を見回した。傍らに立つ若手行員の飯田は静かに目を伏せ、窓口近くにいた常連客の東山みつ子も息を飲んで立ち尽くした。しかし、誰も声を上げなかった。

これは、銀行の土地の権利者である銭湯の若女将が、傲慢な支店長の理不尽に立ち向かう、因果応報の物語である。

湯宮がこの下町に開業したのは、今から53年前のこと。創業者はすみかの祖父、香川善三郎。当時22歳の若者が全財産をはたいて始めた銭湯だった。

当時、この地域にはまだ家庭風呂が普及しておらず、善三郎の銭湯は下町に暮らす人々の唯一の湯場として、毎日多くの客で賑わった。朝5時に火を入れ、夜10時まで戸を閉めない日々が53年間続いた。

善三郎はただ銭湯を経営するだけでなく、土地の価値を見抜く目も持っていた。「土地は持っているだけで価値が上がる」という信念のもと、地道に不動産を取得し続けた。銭湯の周辺の土地、路地裏の空き地、そして栄光地方銀行東大寺支店が立っている土地もその一つだった。

今から30年前、銀行が東大寺支店の建設を計画した際、その土地は善三郎が所有していた。銀行側は善三郎と交渉し、長期借地契約を結んで支店を建てることになった。当時の支店長と善三郎は茶を飲みながら契約書を交わしたという。しかし、担当者が変わり、年月が重なるうちに、その事実を知る行員は誰もいなくなっていった。

すみかが物心ついた頃、祖父はいつも銭湯の番台に座っていた。

「じいちゃん、なんで銭湯ってそんなに好きなの?」

幼いすみかがそう尋ねると、善三郎はしわだらけの顔に笑みを浮かべた。

「お湯はね、人をつなぐんだ。体も心も温める。それだけで十分だろう」

その言葉は幼いすみかの心に深く刻み込まれた。

すみかの両親は、すみかが12歳の時に交通事故で亡くなった。突然の喪失に打ちのめされたすみかを、祖父は黙って抱きしめた。そして翌朝から、二人で番台に並んで座った。「仕事があると、人は前を向ける」と善三郎はいつも言っていた。以来、すみかと二人で湯宮を守ってきた。

善三郎はすみかに銭湯の全てを一から丁寧に教えた。ボイラーの炊き方、石炭の入れ方、適切な湯温の管理、番台での客への挨拶の仕方、タイルの磨き方、脱衣所の整え方。気づけばすみかは19歳から正式に若女将として番台に立っていた。下町の人々はすみかを「すみかちゃん」と呼んで可愛がってくれた。その53年間という重さが、すみかの足元をしっかりと支えていた。

湯宮は下町の人々の日常だった。朝7時の開店と同時にリタイアした老人たちが暖簾をくぐる。夕方5時になると学校帰りの子供たちが親と一緒に訪れた。夜は仕事帰りの疲れた顔が、湯船に浸かって笑顔に変わって出てくる。すみかを見るたびに、祖父の言葉の意味を実感した。

「お湯は本当に人をつなぐんだな」

すみかは思いながら、毎日番台に座っていった。

しかし3年前、善三郎は突然倒れた。脳梗塞だった。病院に運ばれた善三郎は3日間意識が戻らなかった。病室に付き添い続けたすみかの手を、善三郎は目を覚ました瞬間に硬く握った。

「すみか、銭湯を頼むぞ。人の縁を大切にしてくれ」

それが祖父の最後の言葉だった。翌日の朝、善三郎は静かに息を引き取った。19歳のすみかが湯宮を一人で背負うことになった。

遺品の整理をした時、すみかは祖父の引き出しから封筒をいくつか見つけた。封筒の中には11億円の預金通帳と、複数の土地権利書が入っていた。その中の一枚にすみかは目を止めた。

「栄光地方銀行東大寺支店 借地権設定 当時地権者 香川善三郎」

当時のすみかには、その意味が十分には分からなかった。後でちゃんと調べようとは思いつつ、銭湯の運営で日々が過ぎていった。

湯宮の建物は老朽化が進んでいった。ボイラーは40年選手でパイプの随所が錆びついていた。脱衣所の木戸は腐りかけ、浴室の壁面タイルも所々が剥がれ落ちていった。このままでは客足が遠のき、廃業せざるを得なくなる。

焦ったすみかが旧支店長の二木に相談したのは、2年前のことだった。

「香川さん、改修費用として5000万円融資しましょう。善三郎さんとのご縁を大切にしたいと思っています」

二木は善三郎の時代から湯宮を知る誠実な支店長だった。

融資を受け、すみかは大規模な改修工事に着手した。ボイラーは最新型に、床は全面タイル張りに生まれ変わった。脱衣所の照明も新しくなり、浴室全体が明るく清潔に整った。

改修後の湯宮に、常連客たちが次々と戻ってきた。

「すみかちゃん、きれいになったね。善三郎さんも喜んでるよ」

東山みつ子は何度も湯船を眺めながら目を細めて言った。

下町の人々にとって湯宮は単なる風呂ではなかった。一人暮らしの高齢者が毎日顔を見せ、安否を確認し合う場所だった。仕事帰りの人が疲れを流し、隣人と言葉を交わすかけがえのない場所でもあった。雨の日も風の日も、すみかは朝5時に起きて火を入れた。番台で顔なじみの客に挨拶する。その繰り返しがすみかの日常だった。

改修から1年が経つ頃には、月の売上が140万円に届くようになった。地域のSNSで「昔ながらのいい銭湯」と口コミが広まり、新規客も増えた。すみかのSNS投稿に、下町の人たちが温かいコメントを寄せた。月に1度は二木支店長が顔を出し、近況を確認してくれた。

「返済状況も問題ない。このまま頑張ってください、香川さん」

「はい、頑張ります」

すみかは深く頭を下げた。二木がいる限り、融資の問題は起きないとすみかは信じていた。

融資の返済は順調に進んでいた。月の返済額は75万円。5年で完済できる計画だった。

しかし、その平穏が崩れ始めたのは半年前のことだった。半年前、二木が北洋銀行へ転勤し、後任の新支店長が着任した。高野強し、47歳。本部のエリートコースを歩んできた男だった。本部から与えられた使命はただ一つ、「東大寺支店の不良資産案件を徹底的に整理せよ」というものだった。

高野は着任初日から融資先を全て洗い直した。赤字案件、条件変更が必要な案件、解約すべき案件。高野はそれらを次々と洗い出し、整理リストを作った。そして、湯宮への5000万円の融資案件を見つけた。

「銭湯にこんな融資が残っているのか。全く意味が分からん」

高野は着任翌日、飯田を連れて湯宮を視察に訪れた。古びた暖簾をくぐると、湯気と石鹸の優しい匂いが漂ってきた。

「なんだこの匂いは?よくこんなところに客が来るな」

飯田は何も言わず、黙って後ろに立っていた。すみかは番台から立ち上がり、深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ。融資の件でご確認でしょうか?」

高野は銭湯の内部を冷たい目で見渡した。改修はしてあるが、建物自体は築50年を超える古さがはっきりと残っていた。天井は高く、壁面のタイルには昭和の重みが色濃く漂っていた。

「これが改修済みか。大してきれいでもないな」

「ボイラー交換と内装で、約4500万円ほどかかりました」

高野は面倒そうに手帳を取り出した。

「月の売上はいくらだ?」

「平均で月120万円ほどです。毎月少しずつ増えています」

高野は鼻を鳴らし、手帳を閉じた。

「この数字でやっていけると思っているのか?」

そう言い捨てて、振り返りもせずに帰るぞと飯田に言った。

後ろ姿が暖簾の外へ消えた後、すみかはその場に立ち尽くした。嫌な予感がじわじわと広がっていった。

それから2週間後、高野から電話がかかってきた。

「香川さん、融資の件でお話がある。明日支店に来てください」

支店に出向いたすみかに、高野は無言で書類を突きつけた。「融資条件変更通知」と書かれた一枚だった。

「5000万円の残債について、返済期間を1年以内に短縮します。現在は5年の計画ですが、計画を変更します。現在の収益では融資継続の根拠が弱い」

すみかは震える声で食い下がった。

「月の返済額が増えると、経営が厳しくなります。もう少し猶予を…」

「猶予はありません。これが銀行の判断です」

すみかは立っているのが精一杯だった。支店を出たすみかは、しばらく路上で動けなかった。5年で計画した返済が、突然1年に短縮される。月々の返済額が一気に5倍近くになる計算だった。

夜、すみかは部屋の奥の引き出しから、祖父が残した封筒を取り出した。手が震えていた。封筒を開けると、あの権利書がそこにあった。

「栄光地方銀行東大寺支店 借地権設定 当時地権者 香川善三郎」

その文字が、今度は全く違う重さで、すみかの目に飛び込んできた。

「じいちゃん、これを私に残してくれたのか」

すみかの心臓が大きく鳴った。

翌朝、すみかは下町の菊池法律事務所を訪ねた。弁護士の菊池聡が権利書を丁寧に確認した。

「これは本物です。この土地の地権者は、現在香川すみかさんです」

菊池は真剣な目で書類を見返した。

「評価額は現在で33億円ほどになります」

すみかはゆっくり頷いた。銀行が融資を打ち切るなら、こちらにも選択肢がある。すみかは祖父が残した11億円の預金通帳も机の上に置いた。菊池が通帳を見た瞬間、わずかに目を見開いた。

「全て確認しました。香川さん、いつでも動けます」

菊池はそう言って静かに書類を閉じた。

「ただし、やるならば一度だけ、完璧に仕上げましょう」

「はい」

すみかは短く答えた。その目には揺るぎない決意が宿っていた。

帰り道、すみかは祖父がよく言っていた言葉を思い出した。

「慌てるな。じっくり温めたお湯の方が長持ちするぞ」

すみかは一人、その言葉に小さく微笑んだ。

それから2ヶ月間、高野からの圧力は続いた。「いつ返済するんですか」という電話が週に2回かかってきた。書面による返済通知も2度送られてきた。「法的措置を取る可能性がある」という文言まで書かれていた。すみかはその度に静かに書類を引き出しにしまった。飯田が電話をかけてくる時は、声が硬く、少し申し訳なさそうだった。

「飯田さん、分かりました。確認します」

すみかはそう答えて、静かに電話を切った。客の前では笑顔を絶やさなかった。しかし夜、一人番台を片付けながら、すみかは何度もため息をついた。

ある夜、東山みつ子が銭湯の閉店後に心配して尋ねてきた。

「すみかちゃん、何かあったの?最近顔色が悪いよ」

「大丈夫です。少し銀行のことで揉めていて」

「銀行?何かあったら言うんだよ。善三郎さんの代から世話になってるんだから」

みつ子の温かさが、すみかの目に染みた。

「じいちゃんが残してくれたもので、きっと戦える」

すみかは自分に言い聞かせ続けた。

飯田が、ある日こっそりすみかの元を訪れたこともあった。

「香川さん、本当に申し訳ない。支店長の命令で…」

「飯田さんのせいじゃないです。気にしないでください」

すみかは穏やかに微笑んだ。飯田はその笑顔が心に引っかかりながら、黙って頭を下げた。

すみかは菊池弁護士と何度も打ち合わせを重ね、全ての準備を進めていた。具体的な手順を何度もシミュレーションした。北洋銀行への移行は翌朝8時に行く。菊池先生の借地権解除通知は、同日午前9時に発送してもらう。通知到着後、高野は本部から呼ばれる。そこで全てが動く。シナリオは完璧に整っていった。

ある夜、すみかは菊池に電話で確認した。

「菊池先生、本当にこれで問題ないですよね」

「法的に何の問題もありません。地権者としての正当な権利行使です」

すみかは「はい」と静かに電話を切った。すみかは念のため通帳のコピーを取り、別の場所に保管した。菊池とも連絡を取り合い、手順を再確認した。あとは高野が最後の一手を打つのを待つだけだった。

その日は思ったよりも早く来た。

ある水曜日の午後2時、高野が再び湯宮に姿を現した。今回は飯田を連れず、一人で正式な書類の入った封筒を手に持っていた。

「融資打ち切りの正式通知書をお持ちしました。受け取ってください」

すみかは無言で受け取った。封筒の中には、「5000万円を30日以内に全額返済すること」と書かれた書類があった。本部の判も押されていた。これが正式な最終通告だった。

「30日以内に払えなければ、法的措置を取ります。分かりましたか?」

東山みつ子が着物姿で番台前に立っていた。高野のあまりの言動に、みつ子の目が怒りで赤くなっていた。常連客が数人、入り口で立ち止まって息を飲んでいた。高野は周囲を気にする様子もなく、高圧的に続けた。

「この銭湯は、正直言って先がない。いつ廃業しても不思議じゃないでしょう。早いところ廃業して借金を清算する。それが賢い選択だと思いますよ」

しばらく無言だったすみかが、ゆっくりと顔を上げた。その目に、初めて静かな怒りが宿っていた。

「分かりました。それなら、私も動くことにします」

高野は一瞬目を細めた。

「ほう?あなたに何ができるんですか?」

「明日の朝、弁護士から連絡が入ります。詳細はその時に」

高野は「脅し」かという顔で鼻を鳴らし、店を出ていった。その後ろ姿が路地の向こうに消えると、みつ子がすみかの手を取った。

「すみかちゃん、大丈夫?無理しないで」

「はい。じいちゃんが残してくれたものがあるので」

すみかは静かに微笑んだ。

その夜、すみかは番台の奥に置いてある祖父の写真の前に座った。手に持った土地権利書と預金通帳を、静かにテーブルに並べた。祖父が一枚一枚丁寧に折りたたんで封筒に入れていたものだった。「すみかへ」と書かれた付箋が、権利書に貼ってあった。すみかはその文字を指でそっと撫でた。

「じいちゃん、守るよ。あなたが半世紀守ってきたものを」

外は静かで、煙突から最後の湯気が夜空に溶けていった。明日から全てが変わる。すみかはそう思いながら目を閉じた。

翌朝8時、すみかは北洋銀行東大寺支店の窓口に立っていた。手には11億円の預金通帳と、口座移行依頼書が握られていた。

「11億円の口座移行手続き。確かに承りました」

行員は目を丸くしながらも、丁寧かつ迅速に手続きを進めた。移行手続きが完了したのは、午前9時15分のことだった。

同じ時刻、菊池法律事務所から一通の内容証明郵便が発送された。宛先は「栄光地方銀行東大寺支店 高野強し殿」だった。

「借地権設定契約解除通知。解除日は通知到着日より6ヶ月後。地権者 香川すみか。なお、本件土地の現在の評価額は33億円であり、売却交渉については弁護士を通じて行う」

菊池事務所のスタッフが郵便局の窓口で内容証明を差し出した。これで全ての矢が放たれた。

郵便が栄光地方銀行東大寺支店に到着したのは、午前10時だった。窓口で受け取った飯田の顔が、みるみる青ざめていった。

「支店長、大変です。香川さんの弁護士から…」

高野が封筒を開けた瞬間、表情が凍りついた。「借地権設定契約の解除」。その文字を高野は何度も読み返した。手が震えていた。

高野は即座に不動産管理部に電話した。

「東大寺支店の土地の権利について、今すぐ確認してくれ」

電話の向こうで、慌ただしく書類を探す音がした。10分後、不動産管理部から折り返しの電話が入った。

「確認できました。東大寺支店の土地は、香川善三郎氏との借地契約に基づきます。当時名義は現在、相続により香川すみかさんに移っています」

受話器を持つ高野の手から、力が抜けた。しばらく高野は何も言えなかった。そして思い出した。融資を打ち切った相手、あの22歳の若女将が、自分の支店が立つ土地の権利者だった。

そこへ追い打ちをかけるように、財務部から別の電話が入った。

「支店長、本支店の香川さんの口座から、11億円が本日北洋銀行に移行されました」

受話器を持ったまま、高野の体が小刻みに震えた。

「そんなことがあるわけない」

しかし、全て現実だった。高野の額に冷たい汗が一筋伝った。誰かに調べさせた。いつから、どこで。考えれば考えるほど、体の震えが止まらなかった。飯田は支店長の様子を見て、何も言えなかった。窓口の他の行員たちも、異様な雰囲気に気づいて手を止めていた。誰も口を開こうとしなかった。東大寺支店全体が静寂に包まれていた。

本部への報告は、手続き完了から1時間後に届いた。本部の法人戦略部長、坂田から高野に直接電話が入った。

「高野、お前は今、何をやったか分かっているか?不良融資の整理を、東大寺支店の土地の地権者に融資打ち切りを通告したのか。自分で支店を潰す気か」

高野は声が出なかった。

「今すぐ本部に来い。緊急役員会議だ」

電話が一方的に切れた。支店を後にする前、高野は受話器を持ったまま、しばらく固まっていた。飯田が恐る恐る声をかけた。

「支店長、行かれますか?」

高野は無言で席を立ち、コートを手に取った。着任時にいばり散らしていた男の背中が、今は惨めなほど小さかった。

本部では、緊急の役員会議が招集されていた。会議室に入ると、役員たちの視線が一斉に高野に注がれた。誰一人、歓迎の顔をしていなかった。全員の目が、この男が何をしたかを知っていた。

「うちの借地契約を確認せずに、地権者への融資打ち切りを通告したのか。基本的な調査すら怠ったのか。これは前代未聞の大失態だぞ」

高野は何も言えなかった。

「東大寺支店は、地権者から6ヶ月以内の立ち退きを求められた。お前は一体どう責任を取るつもりだ?」

「申し訳ございません」

これだけが高野の口から出た言葉だった。役員の一人が資産表を会議室のスクリーンに映し出した。

「借地権解除により、6ヶ月以内に東大寺支店の移転が必要になる。移転費用、新支店の取得費用、設備費。ざっと見積もっても最低でも15億円だ」

その数字が、会議室に重く響いた。さらに坂田が続けた。

「香川さんの預金11億円も、北洋銀行に流れた。今期の業績に直撃する。融資打ち切りで5000万円を取り返すつもりが、45億以上の損失を生んだのか」

誰かが深いため息をついた。役員の一人が口を開いた。

「今後の経緯を精査するが、当事者の処分は速やかに決定する」

高野はその言葉を、遠いところから聞いているような気持ちで受け取った。会議が終わり、役員たちが次々と会議室を出ていった。最後まで残った坂田が、立ち去りながら高野に一言だけ言った。

「お前の着任時の使命は、不良融資を整理しろだったはずだ。支店を整理しろとは、誰も言っていない」

その言葉が、静まり返った会議室に残響した。高野は一人、会議室の椅子に座り、天井を仰いだ。

「なぜ確認しなかった?」

その一言が、何度も頭の中で繰り返された。着任時の自信と傲慢さが、今は恥ずかしさとなって全身を包んでいた。

翌日、菊池弁護士が栄光地方銀行本部に直接出向いた。

「土地の売却価格については、現評価額33億円で交渉させていただきます」

本部の法務部長と財務部長が、苦虫を噛みつぶしたような顔で向き合った。立ち退きか、33億円での土地購入か。二択を迫られた銀行側は、長時間協議した。新支店建設の候補地を探したが、東大寺区内に適地は見つからなかった。移転にかかる費用を積み上げると、土地を買う方がまだ安いという計算になった。

最終的に銀行側は、33億円での土地購入に合意した。菊池弁護士は淡々と書類にサインを求めた。担当役員はうなだれながらペンを手に取った。「一人の若女将にここまでやられるとは」と、誰かが呟いたという。

その知らせが高野の元に届いた瞬間だった。

「33億…俺が支店を消したのか」

高野は会議室の椅子に崩れ落ちた。長年積み上げてきたキャリアが、音を立てて崩れた。

一方、すみかの元に菊池弁護士から連絡が入った。

「土地売却、33億円で合意しました。あとは5000万円を返すだけです」

すみかは受話器を握りしめながら、静かに息を吐いた。

「ありがとうございます、先生」

電話を切った後、すみかは外を眺めていた。目を閉じ、また開けた。

「じいちゃん、見てたかな?」

翌日、すみかは北洋銀行に出向いた。11億円の口座から5000万円の振り込み手続きを行った。送金先は、栄光地方銀行東大寺支店の融資返済口座だった。振り込み手続きは10分で完了した。

振り込み確認通知がすみかの手元に届いた瞬間、栄光地方銀行の端末にも着金通知が届いた。飯田が支店長室の扉をノックした。

「支店長、香川さんから5000万円の全額返済が完了しました」

高野はしばらくその書類を見つめたまま、動かなかった。それと引き換えに、銀行は33億円の土地と11億円の預金を失った。5000万円を取り返すつもりが、44億円以上を失った。飯田は着金通知の書類を手に、しばらく動けなかった。

同じ日の午後、本部から高野への処分が言い渡された。支店長職の即時解任、地方窓口業務への降格、3年間の業績評価凍結。人事部長の前で、高野は直立不動のまま処分通知を受け取った。その手は小刻みに震えていた。

「高野元支店長、地権者への融資打ち切り通告という事態を、どう説明しますか?」

「申し訳ありませんでした」

高野はその後、地方の窓口業務へ移動となった。廊下で高野が飯田とすれ違った。飯田は深く頭を下げた。

「支店長…」

高野は何も言わず、廊下の奥へ消えた。その名刺入れには、まだ「東大寺支店長」の名刺が残っていた。

銀行の土地売却手続きが完了し、解体工事が始まったのは5ヶ月後だった。重機がかつての東大寺支店の建物を崩していく音が、下町に響いた。ガラスが砕け、コンクリートが崩れる音。解体作業を遠くから見ていた近所の人々が、足を止めて立ち止まっていた。

「あの銀行、なくなるのか。何があったんだ?」

数日かけた解体工事が終わると、そこは何もない空き地になった。かつて栄光地方銀行東大寺支店が立っていた場所に、ただ広い更地が広がっていった。日差しだけが差し込む静かな土地だった。

解体作業を見届けたすみかは、振り返った。

「じいちゃんが守った土地だ。大切に使います」

その言葉を聞いたみつ子が、そっとすみかの肩に手を置いた。

「善三郎さんも喜んでるよ、きっと」

すみかはこくりと頷いた。空には鱗雲が広がっていた。

33億円の代金は、全て香川すみかの口座に入金された。祖父が30年前に守った土地が、今またすみかの手の中に戻ってきた。湯宮に戻ったすみかは、祖父の写真の前に手を合わせた。

「じいちゃん、守ったよ。土地も銭湯も、全部」

その頬に一筋の涙が静かに伝った。下町の夕暮れに、煙突から白い湯気がゆっくりと上がっていた。

それから半年が経った。

すみかは北洋銀行の融資支援を受け、2度目の大規模改修工事を終えていた。新しいロビー、明るい脱衣所、最新型のボイラーが導入された。外壁も塗り直され、古びた暖簾も新しいものに変えられた。しかし、善三郎が愛した下町の銭湯の雰囲気は、しっかりとそのまま残っていった。

リニューアルの初日、すみかは朝から番台に立った。新しい暖簾に触れながら、すみかはそっと深呼吸した。

「これが、じいちゃんの銭湯だ」

改めてそう思った。開店と同時に、常連客が次々と訪れた。

「すみかちゃん、ここが一番落ち着くよ」

「おじいちゃんに感謝だね」

「みつ子さん、これからもよろしくお願いします」

その日だけで、100人以上の客が湯宮を訪れた。番台に座るすみかのそばに、常連の老人が立ち寄っていった。

「善三郎さんが頑張ってたから、すみかちゃんも頑張れたんだろうね」

すみかはその言葉に、思わず目頭が熱くなった。飯田もその日の夕方、私服姿でやってきた。

「香川さん、本当におめでとうございます。自分は何もできなくて…」

「飯田さんが正直でいてくれただけで、十分です」

飯田は深く頭を下げ、湯宮の暖簾をくぐっていった。

一方、あの高野はその後も地方支店での日々が続いた。東大寺支店の一件は行内に広まり、高野は二度と出世の道を絶たれた。同期からも後輩からも、冷たい視線を向けられる日々が続いた。「地権者への融資打ち切りをした男」として、高野の名前は語り草になった。新人行員の研修で、「融資調査を怠るとどうなるのか」の事例として使われたという。肩身の狭い思いに追われた高野は、毎朝黙々と窓口でスタンプを押し続けた。かつてのエリートコースの同期たちは、誰も連絡を寄越さなかった。出世を夢見てきた男の末路は、孤独な窓口業務だった。

1年後、高野は自ら銀行を辞めた。再就職を試みたが、業界内に評判が広まっており、採用には至らなかった。

すみかは人に聞いた。

「頑張って欲しいと思う気持ちはあります」

東山みつ子が隣で静かに頷いた。

「すみかちゃんは優しいね。善三郎さんそっくりだよ」

すみかは少し恥ずかしそうに笑った。北洋銀行の二木支店長も、その日湯宮に顔を出した。

「香川さん、本当に良かったです。この銭湯が続いて…」

「二木さんが支えてくださったおかげです」

「いいえ、あなた自身の力ですよ」

二木はそう言って、深く頭を下げた。

夕暮れの番台から外を見ると、下町の路地に人が行き交っていた。湯宮の煙突から、今日も白い湯気が空へ上がっていった。それが善三郎の自慢だったと、みつ子が教えてくれた。

「お湯は人をつなぐ」

それが善三郎の言葉だった。すみかは微笑み、今日も次の客を迎えた。湯宮は今日も扉を開け、湯気を空に上げている。下町の人たちが笑顔で暖簾をくぐり、肩の荷を下ろしていく。理不尽に屈しない心と、祖父が愛した銭湯。その二つが、22歳の若女将の背中を静かに支え続けていた。今日も湯宮に明かりが灯る。

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