病室のベッドに横たわる私に向かって、長男夫婦はあっさりと絶縁を告げた。倒れたばかりの実の母親に、よくもまあそんな白々しい言葉が並べられるものだ。それでも不思議と腹は立たなかった。むしろ、この子たちの本音がはっきりと分かって清々したくらいだ。親心として、最後に一つだけ聞いておこう。
「本当に困らないの?」
二人は目を丸くして顔を見合わせ、吹き出した。
「困るわけないでしょ」
この子たちが笑っている顔を見るのは、きっとこれが最後だろう。遠くない未来を思うと、私の口元にも自然と笑みがこぼれた。二人はそれまでの表情を一変させ、軽蔑したようにこちらを見つめる。私がなぜ笑っていたのか、すぐに分かるはずだ。
私の名前は木下洋子、71歳。10年前に夫のシゲルを亡くしてから、わずかな年金で慎ましく暮らしてきた。特売のチラシを眺め、庭で野菜を育て、贅沢といえば月に一度の和菓子屋さんの大福くらい。それでも孫のためならつい財布の紐が緩んでしまうのが、おばあちゃんという生き物なのだろう。
孫の翔太は、長男の正と嫁の由利の一人息子。二人は大学を卒業してすぐに結婚し、家庭を持った。0歳から度々この家に預けられてきた翔太は、ほとんどここで育ったと言っても過言ではない。まだ若い二人は親になりきれないのだろうと、初めは黙って見守ってきたけれど、20年以上経った今も、あの子たちは何も変わっていない。翔太の健やかな成長は私にとって何にも代えがたい幸せだった。ただ一つだけずっと気がかりなのは、翔太の親が本当にあの二人で良かったのだろうかということだ。
ある日、深夜に枕元のスマホが鳴った。うっすらと目を開けて時計を確認すれば、針は1時を15分ほど過ぎている。こんな夜中に誰だろうと不安になりながらスマホの画面を覗き込むと、そこには正の名前があった。通話ボタンをタップした瞬間、聞き慣れた大きな声が耳に響く。
「母さん、翔太の学費振り込んでくれた?」
「なんなの、こんな夜中に。ちゃんと振り込んだわ。私がそういうこと早いの知ってるでしょ?」
「そうなんだけどさ、思い出したら眠れなくなっちゃって。振り込んでくれたならいいや。サンキュー」
そう言って一方的に電話は切れた。ツーツーという無機質な音が暗い寝室に響く。ベッドに座ったままため息がこぼれた。いつもそうだ。こちらの都合などお構いなし。毎年400万円近い学費を払わせておきながら、その一言で済ませてしまうのももう何度目だろう。嫁の由利に至ってはメッセージもなくスタンプ一つで終わりだ。それが当たり前になっている自分にも、少しばかり情けなくなる。
すっかり目がさえてしまい、私は布団から抜け出して台所へと向かった。水を一杯飲もうとコップに手を伸ばした時、廊下の奥に明かりが漏れているのに気づく。翔太の部屋だ。訳あって彼は両親と離れ、我が家に下宿していた。中からは規則正しいキーボードの音がカタカタと聞こえてくる。
翔太は昔から、勉強でも何でも一度夢中になれば時間を忘れてしまうところがあった。おじいちゃんに似たのねと心の中でつぶやきながら、足音を立てないよう二階に戻ろうとすると、部屋のドアが開く。
「あ、おばあちゃん。うるさくて起こしちゃった? ごめんね」
「喉が乾いて起きちゃっただけよ」
「そっか。僕はもう一踏ん張りするから、おばあちゃんはゆっくり寝てね」
小さかった翔太の身長はすっかり私を追い越し、年々頼もしくなっていく。医大に入ってからのこの5年間、本当によく頑張っている。シゲルとの約束を守り医者を志した翔太の真剣な後ろ姿。この子の頑張りを見ていると、毎年の学費の支払いも報われる気がした。問題は翔太の両親だ。子供のこともお金のことも、全てを私に丸投げしている。それは今に始まったことではない。23年前、翔太が生まれた日からずっとそうだ。
私の脳裏にあの頃の記憶が次々と蘇ってくる。正と由利は地元の都立高校の同級生だった。野球部のエースの正と、マネージャーでムードメーカー的存在だった由利。派手好きで目立ちたがり屋の二人は、色々な意味でお似合いだった。大学を卒業してすぐに由利の妊娠が分かり、二人は授かり婚をすることになる。順番こそ違ったが、結婚するのは既定路線で、美男美女のお似合いカップルと祝福され、幸せ絶頂の中にいた。
新居は我が家から車で10分ほどのワンルーム系のアパート。甘い新婚生活になるはずだった。だが由利は日に日に大きくなるお腹と崩れていくスタイルにヒステリックになる。正は就職先の先輩や上司とぶつかっては転職を繰り返していた。体育会系の熱血さが、社会人としては災いしたらしい。家賃も払えない月があり、シゲルが時々現金を握らせて生活を支援する日々が続き、正は毎回同じ言い訳をした。
「今回はちょっと運が悪かっただけだから」
そうして翔太が生まれる。うちの孫だと心の奥が震えるような感動。私とシゲルはお互いに目を合わせ、とろけるような笑顔になった。正から由利が我が家に里帰りを希望していると聞き、私たちは喜んで迎え入れる。由利の母親は数年前に離婚して飲食店を一人で切り盛りしていた。深夜や逆転の生活で、確かに里帰りは現実的ではなかったのだ。孫と一緒に過ごせるなんて、こんな嬉しいことはない。ただ、そう思っていたのは最初のうちだけだ。
長男夫婦は出産後3ヶ月を過ぎても自宅に帰ろうとしなかった。それどころか子育てさえもろくにしようとしない。
「まだ体調が戻らないんです」
「自分の実家だと思ってゆっくり休んでていいよ」
由利は体調不良を理由に寝にこもり、正はまるで家政婦かベビーシッターのように私を働かせた。翔太が泣けばミルクを作り、おむつを変えるのは私の役目。家中の掃除、洗濯、食事の支度。3時間おきの夜泣きに、由利も正も起きてくる気配すらない。シゲルも私も寝不足が続き、もう限界だった。特にシゲルは仕事に響かないかと心配だ。私たちは意を決して、これ以上は無理だと伝えた。
「親孝行させてあげたのに、俺に礼を言って欲しいくらいだ」
散々捨てゼリフを吐くと、二人は荷物をまとめて出ていった。ようやく静かな日常が戻ってきたと思ったのも束の間。ある日の夜遅くに正が翔太を連れてくる。
「由利が育児ノイローゼなんだ。少しの間でいいから預かってほしい」
そういう事情であれば仕方ないと引き受けると、翔太はひどいおむつかぶれを起こしていた。慌てて病院で見てもらうと、医師の顔が途端に険しくなる。
「この子、栄養が足りていません。体重も標準より下回っています」
胸が締めつけられた。考えた末、しばらく翔太を預かることにする。もしかしたら正の収入が不安定で、ミルク代やおむつ代にも困り、由利もストレスが溜まっていたのかもしれない。ただシゲルは事態を重く見て、正を厳しく叱った。
「お前は父親なんだ。定職について、由利と翔太を守れ」
「分かったよ、父さん」
シゲルの言葉が珍しく響いたのか、正は先輩が立ち上げた小さな会社に就職を決めた。社員はわずか5人。それでも正は自分の名刺に印刷された部長という肩書きを自慢して、誰かれ構わず見せびらかしていた。
「これで父さんに追いついたよ」
シゲルは大手電子メーカーの部長職。社員5000人を超える大企業の部長と、社員5人の会社の部長では話にならないが、正は土俵に立った気でいる。
「まあいいじゃないか。せっかくやる気になったんだ」
「そうね。今度は続いてくれるといいんだけど」
私たちのそんな心配をよそに、正は真面目に働いていた。社員も5人から30人に増え、部長と呼ばれることが正の気持ちを満足させていたのだ。由利の体調も回復し、翔太を引き取りに来たが、保育園に預けてパートに出ると言い出す。彼女は元々人前に出ることが好きで、家にこもるようなタイプではない。まだ一歳にならない翔太を保育園に預けるだなんてと最初は気が進まなかったが、一日中家で翔太と二人でいるよりは、ずっといいかもしれないと思い直した。実際、パートを始めてからの由利は違えるように生き生きとして、これはいい選択だったと思えたのだ。だがそれも長くは続かなかった。
「お母さん、今日だけ保育園のお迎えお願いできますか?」
最初はそんな電話だったと記憶している。だけのはずが、いつしか週に何度かになり、半年も経つ頃には保育園のお迎えはすっかり私の役目になっていた。次第に翔太を泊まらせ、翌朝は私が保育園まで送り届けることが増えていく。翔太が小学校に入学しても同じだ。放課後、学童に預けていたが、お迎えはすぐに私の担当となった。
「残業でお迎えの時間に間に合わないんです」
それが毎度の理由。行けば先生に学童保育の利用料を催促される。保育園の時から保育料の滞納を繰り返し、学童でも全く同じパターン。結局今回もまた私が立て替えるはめになる。
「すぐに返すから。必ずお返しします」
踏み倒す人間の常套句だ。そしてやはり一度も返した試しがない。
「切り詰めている。食べていくのがやっと」
そんな言い訳が嘘だとは分かっていた。正が就職し、由利がパートを始め、それ以降二人の身なりはどんどん派手になっていったからだ。由利はブランドもののバッグを腕にぶら下げ、正は高級時計をはめている。二人ともそれらは職場の先輩にもらったと平気で嘘をつく。
ある日のこと、夕食の材料を買いに駅前まで足を伸ばすと、信じられない光景に出くわす。人気の高級焼肉店の前に、正と由利が並んで立っていたのだ。二人は楽しそうに笑いながら店の中へと吸い込まれていった。
「ふうん。そういうことね」
私はその足で百貨店の精肉店に向かうと、ショーケースを覗き込み、奮発して国産牛のサーロインステーキを3枚購入。普段の私なら絶対に買わない値段だったが、その日はなぜか迷いがなかった。夕食にステーキを焼いて出すと、翔太は目を見開く。
「おばあちゃん、僕、美味しいお肉生まれて初めて食べた」
「今日はどうした? お祝い事でもあったか?」
「ええ、まあちょっとね」
シゲルは何かを察したのか、それ以上は聞かずに静かにステーキを口に運んだ。このままでいいわけがない。随分前から私とシゲルは何度も話し合いを重ねてきた。翔太も預からない。学費のお金も払わない。そういうのは簡単だ。だがそうなれば翔太にどんな生活が待っているかは容易に想像がついた。お腹をすかせ、夜遅くまで両親の帰りを待つ生活。食事だって満足に与えてもらえるか分からない。現に翔太の靴下のかかとには穴が開き、シャツの袖はすり切れて毛玉だらけ。私たちの時代と違って、今はどこの家庭の子供もこざっぱりとした身なりをしている。学校の行事で翔太の隣に並ぶ友達は綺麗な服を着ていて、彼だけがどこかぼんやりと見えた。
「あなた、買い物に行きましょうか?」
「おお、いいぞ。翔太、何かあるか?」
「えっと、僕、足が痛いから靴がいいな」
一瞬意味が分からなかったが、よく見ると履き古した靴はすでに小さくなり、足のサイズが合っていなかった。私たちは手をつないで近所のショッピングモールまで歩く。服、パジャマ、下着、靴下を選びながら、翔太は嬉しそうに笑っていた。これはこれで大切な時間ではあるけれど、ふと由利の派手なパンプスや正の真新しいスニーカーを思い出すと、胸の奥がちくりと痛む。
次第に翔太が身につけているもののほぼ全てが、私たちが買い与えたものになっていく。だが長男夫婦から礼を言われたことは一度もない。ある日、やんわりと話してみた。
「翔太の服、もう少し新しいのを揃えてあげたら? うちで買うのは構わないけれど、由利さんも好みがあるでしょ」
「子供なんてすぐ大きくなるし、どうせだから何でもいいんですよ」
そう言った彼女の腕には、また新しいバッグがぶら下がっていた。今後、長男夫婦に親の自覚が芽生える日は来るのだろうか。せめて翔太がもう少し大人ならと思うが、まだ小学1年生。大人の手を借りなければ生きていくことはできないのだ。孫をみすみす不幸にはできない。そう結論付けた私たちは、高学年になるまで翔太の生活だけは守ろうと決めた。
正には翔太に学童をやめさせ、夜までうちで預かることを伝える。どの道私がお迎えに行くことに変わりはないのだから。余計な立て替えをする必要もこれでなくなったが、長男夫婦にははっきりさせておく。
「これまで立て替えた分の借用書を書いてもらえるかしら」
「そんな親子の間で大げさだな。私たち信用されてないんですか?」
「返す気があるなら書けるだろう」
シゲルの厳しい声に、正と由利は何も言えなくなりペンを握る。だが借用書に書かれた350万円という金額を見て後ずさった。5年半分の明細も細かく書いてある。それほどまでに替えてもらっていたとは思っても見なかったのだろう。正と由利は震える手で借用書を書き終えた。ただ、これまでとは何かが違うと感じ取っているようだ。
さらに泊まりは週末のみ。平日預かるのは夜9時までと伝えた。これなら平日は夕食を食べさせ、お風呂に入れて、翔太は帰るだけで済むからだ。翔太は我が家に来ると、まずランドセルから教科書を取り出してリビングのテーブルに広げ、勉強を始める。
「おばあちゃん、『努力』ってどういう意味?」
「あら、難しいこと聞くわね。ちょっとおじいちゃんに聞いてみようか」
好奇心旺盛でいつも私やシゲルに質問をしてくるのだが、漢字でも計算でも一度教えると不思議なくらいすぐに覚えた。シゲルと二人でその物覚えの良さに関心することがしばしばだ。ある日、シゲルは会社から古いノートパソコンを持ち帰り、週末翔太に手渡した。
「翔太、これおじいちゃんのお下がりだけど、使ってみるか?」
「え、本当にいいの?」
「少し古いけど、まだまだ使える。どうだ? やってみるか」
翔太の目がまるで星空のようにキラキラと輝く。シゲルは元々大手電気メーカーのエンジニアで、パソコンには精通していた。電源の入れ方、文字の打ち方、インターネットの使い方を一つずつ丁寧に教えていく。すると翔太はたった一度の説明ですぐに自分の手で再現してみせ、シゲルを驚かせた。
「おじいちゃん、もっと教えて。もっと知りたい」
その日は夜遅くまで二人は机に並んでパソコンと格闘。寝る時間になっても翔太は離れようとせず、シゲルは嬉しそうだ。翌朝、私は翔太に言った。
「翔太、これお家に持って帰っていいのよ。おじいちゃんからのプレゼントだもの」
すると翔太は急に困ったような顔をして首を横に振る。
「うん。ここに置いておいて」
「どうして? お家でもやりたくないの?」
「お父さんがパソコン欲しいってずっとお母さんに言ってて。だから家に持って帰ったらきっと取られちゃう」
その小さな口から出た言葉に、私は言葉を失ってしまった。7歳の子供が、自分のものを親に取り上げられないように気を使っているのだ。
「そう。じゃあここに置いておこうね。翔太がうちに来た時、好きなだけ使えばいいわ」
「うん。ありがとう、おばあちゃん」
翔太がパソコンを覚える速度は本当に驚くべきものだった。小学3年生になる頃にはもうすっかり使いこなしていて、ある日こんなことを言い出した。
「おばあちゃん、節約してるんでしょ? 家計簿作ってあげたよ」
「家計簿? どういうこと?」
「えっとね、こことここに金額を入れるでしょ。で、ここのボタンを押すと合計が出るんだよ。便利でしょ」
そう言って翔太は自作の家計簿ファイルを得意げに見せる。シゲルは隣でそれを覗き込みながら、ほうと低く唸って続けた。
「この子はなあ、将来とんでもない大物になるぞ」
「あなた、おじいちゃんばかね」
「いや、本気で言ってるんだ。ただの孫びいきじゃない。間違いなくこの子は伸びる」
祖父の目線というよりも、エンジニアとして長年人を見てきた確信に満ちた目だ。そんなある夏の日、次男の大樹が我が家に帰ってきた。予備校講師として数年間地方校に赴任していたが、ようやく東京校への異動が決まったのだ。大樹は実家から通うことにしたという。帰ってきたのがあの夜泣き地獄の時でなかったことは幸いだ。大樹は物事をはっきり言うから、きっと長男夫婦と衝突していたに違いない。その夜、食卓で翔太の話題になる。
「翔太は優秀なんだ。小学3年生でもうパソコンを使いこなすぞ」
「父さん、それじいちゃんの欲目だろう」
大樹は半信半疑の顔で笑っていたが、翌週末翔太が遊びに来た時、試しに小学校高学年レベルの算数を出題してみた。すると翔太は15分ほどで解いてしまったのだ。その瞬間、大樹の目つきが完全に変わる。予備校講師として何百人もの生徒を見てきた目がギラリと光った。
「翔太、ちょっとこれもやってみて」
「うん、いいよ」
高学年レベルの問題を出しても、翔太は少し考えただけで的確に回答していく。公式を教えていない問題だが、自分で論理を組み立てて答えを導き出す。
「父さん、母さん、これ本物だよ。頭が異常にいい。ちゃんと教育を受けさせればどこまでも伸びる」
「本当? 僕、勉強好きだからもっとやりたい」
「よし、おじさんが教えてやる」
その夏休み、翔太はシゲルと大樹を完全に独占した。毎日リビングのテーブルに教材を広げて、二人の大人を質問攻めにしていく。やがて夏休みの終わりに、大樹は長男夫婦を呼び出した。
「翔太にもっと上のレベルの教育を受けさせてやってほしい。このまま伸ばしてやれば、将来医者や弁護士も夢じゃない」
「何の話だよ」
廊下からそっと顔を出していた翔太が、目を輝かせてつぶやく。
「僕、お医者さんになれるの?」
その声は希望に満ちていた。ところが正はあがって笑い出したのだ。
「無理無理。塾なんかに通わせる金、うちにはねえよ」
「大樹が自分の塾に勧誘したいだけなんじゃないの?」
「俺は予備校講師で、小学生は専門外だ。ちゃんと傾向を知り尽くした専門の塾があるんだよ」
由利はそれ以上は話に興味がないらしく、広げてネイルを施した爪を眺めている。正もまた肘をついて退屈な様子だった。
「真剣に考えてみてくれ。今二人が身につけているブランド品を一つ我慢するだけで、翔太の将来に投資できるんだよ」
その瞬間、由利が手にしていたバッグを胸に抱きしめ、正はテーブルを叩いて立ち上がる。
「人の家のことに口出しするな。二度とその話するなよ。そんな風に怒りっぱかり焼いてるから、大樹は結婚できないんだ」
吐き捨てると、長男夫婦は玄関のドアを力任せに閉めて出ていった。リビングに残された翔太は、しょんぼりと俯いている。
「翔太、ごめんね」
「うん。いいんだ。僕、家でも勉強頑張れるから」
その健気な言葉に、思わず涙が滲んだ。翔太が寝静まってから、大樹は静かに分析するようにつぶやく。
「翔太の頭の良さは、多分父さんからの隔世遺伝だ。それに加えて、あの家じゃスマホも買ってもらえないだろう。だから勉強や読書だけが楽しみで、ひたすら知識を伸ばしてきたんだろうな」
「皮肉なもんだな」
「ああ、ある意味貧しい環境が翔太を育てたとも言える」
身内とはいえ、よその家庭のこと。私たちが踏み込めるのはここまでなのかもしれない。ならば自分たちにできることだけは精一杯してあげよう。シゲルと大樹と私は、密かにそう決意したのだった。
翔太が4年生に進級した春。シゲルは40年以上勤め上げた会社を定年退職した。社内では再雇用の話が持ち上がっていたが、彼は丁重に断ったという。
「これからは翔太のそばにいたい。それが俺の最後の仕事だ」
そう、シゲルが宣言した時、私は深い違和感を覚えていた。「最後の仕事」という、どこか覚悟を感じさせる物言い。
「俺の体に癌が見つかった。余命1年だそうだ」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。いや、理解したくなかったのだ。言葉が見つからず、ただシゲルの手をぎゅっと握りしめる。少し前から疲れが続いていたのは知っていた。もう定年かな? もうすぐゆっくりできるわ。そんな風に定年退職の日を指折り数えていたばかりだったのに。可能な治療は抗がん剤のみで、位置が悪く外科手術もできないとのこと。その夜駆けつけた大樹も声を失っていた。
「父さん、何か治療法は?」
「気休めの抗がん剤くらいだ。もう諦めても仕方ない。それより俺は、残された時間でやることが決まっている」
シゲルはゆっくりと顔を上げて、私と大樹を見た。
「翔太に自分が持ってる知識を全部残してやりたい。あの子は俺の希望だ。将来何になるか分からないが、あれを伸ばしてやれる時間が俺にはまだある」
ここから私たちの長く苦しい戦いが始まる。私は震える指で正の番号をプッシュした。父親の余命のことを彼にも伝えなければならない。電話に出た正に経緯を話すと、帰ってきたのはあまりに白々しい言葉だった。
「え、マジか。でも俺、仕事忙しいからさ、介護とかは無理だよ」
その背後から由利の高い声が聞こえてくる。
「介護なんて絶対やらないから、ちゃんと断ってよね」
そして正はこう続けたのだ。
「代わりに翔太を貸してやるからさ。それが一番の薬だろう」
翔太を貸す。我が子を物のように扱うその言葉に、私は耳を疑う。電話の内容をシゲルに伝える気には、とてもなれなかった。今は心安らかな時間を過ごしてほしい。私はそう決めて、長男夫婦のことは何も告げなかった。そして翌日、翔太は大きな荷物を抱えて我が家にやってきた。
「お父さんとお母さんが、しばらく仕事が忙しいからおじいちゃんちに住めって」
それを聞いた時、複雑な気持ちが胸に広がる。正たちにとっては、自分たちが楽できる口実なのだろう。それでもシゲルのそばに翔太がいてくれるなら、何より嬉しい。シゲルは毎日翔太と一緒に過ごした。
「おじいちゃん、『努力』ってどういう意味?」
「いい質問だな。これはな……」
二人の会話はまるで師匠と弟子のようだ。ただしゲルの体力は日に日に落ちていった。以前は夜更けまで翔太の質問に答えていたが、夕食後すぐに寝室に下がるようになる。
「翔太、ごめんな。おじいちゃんも年だからな」
「うん。ゆっくり休んで」
翔太にはシゲルの病気のことを伝えていない。しかし何かを感じ取っていたのだろう。この頃から翔太の机の上には、小学生が読まないような人体や医学の難しい本が積み上げられていった。
「ねえ、翔太、こんな本読めるの?」
「うん。僕、お医者さんになるって決めたから。だから今から少しずつ勉強しないと」
彼の目には揺るぎない決意がある。数日後、翔太は大樹を呼び、真剣な顔で訪ねたという。
「おじさん、医大の奨学金制度ってどんな種類があるの? インターネットで調べたんだけど、もっと詳しく知りたい」
大樹は驚いて翔太を見つめ、それから真剣な表情で頷いた。
「翔太、それは本気の質問だな」
「うん、本気だよ。僕は医者になって、おじいちゃんの病気を直してあげたいんだ」
10歳の子供が祖父のために医者になろうと、奨学金制度を調べている。その背中の小ささと決意の大きさのギャップに、胸が締めつけられた。人間の生きたいという生命力は、まだ医学では解明できない領域があるそうだ。シゲルは余命1年と宣告された期限を迎えてもなお、生き続けていた。確かに体重は徐々に減り、頬は痩せこけていったが、目だけはいつまでも力強い光を宿している。その源は翔太の存在に他ならない。
翔太が6年生になり、シゲルが余命宣告されてから2年が経過した。奇跡だと主治医も関心していたほどだ。その間、正と由利は一度も顔を出さず、連絡すらよこさなかった。息子を貸してやったような感覚のまま、自分たちの生活を謳歌しているのだろう。翔太は自分の両親がどういう人間なのか、薄うす分かっているようだった。ある日、シゲルの枕元で本を読みながら、ぽつりとつぶやく。
「おじいちゃん、お父さんとお母さんが来れなくてごめんね。でも僕はずっとここにいるから」
「ああ、翔太がいてくれて、おじいちゃんは何より嬉しいぞ」
翔太はシゲルの体をマッサージしたり、困難になってきた歩行の介助をしたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いた。そんな翔太のことを、私と大樹も静かに見守る。
「多分翔太は父さんの病気のこと分かってる。それでも父さんの前では絶対に泣かない。あの子は強い。本当に医者になれるかもしれない」
3月、翔太は小学校の卒業式を迎えた。シゲルは車椅子だったが、会場で孫の晴れ姿を最後まで見届けたのだ。その目には深い満足の色が浮かんでいた。卒業式には長男夫婦の姿もあった。由利は派手な原色のスーツに身を包み、正は不相応に高そうなブランドの腕時計を見せびらかしている。私たちの存在に気づきながら、あえて目を合わせようとしない。その夜はシゲルの希望に添い、自宅で翔太の卒業祝いを開く。
「おじいちゃん、入学式も絶対に来てね」
「もちろんだ。中学校の制服姿、おじいちゃんもこの目で見たいからな。約束だよ」
「約束だ」
だがその約束は果たされることはなかった。食事を終えてシゲルが寝室へ向かおうと立ち上がった瞬間、激しく咳込み、口から大量の血が溢れ、そのまま床に倒れた。慌てる私に対して、翔太は冷静で的確な指示をする。
「おばあちゃん、救急は119番だよ。救急車は一人しか同乗できないから、タクシーを一台呼んで。あとおじさんにも連絡して」
「うん。分かった」
「床の血は拭かないで。救急隊員が吐いた量を病院の先生に伝えて、症状を判断するから。それから僕と一緒におじいちゃんの名前を呼んで、意識をつなぎ止めて」
医学の勉強をしているとは聞いていたが、これほどまでの知識を身につけていたとは驚いた。同時に、この子の医者になりたいという気持ちは本物なのだと確信する。病院に到着すると、医師から今夜が峠ですと告げられ、私の頭は真っ白になった。実はシゲルは、翔太の卒業式だけはどうしても出たいと、この数日間強い痛み止めの点滴を打ってもらい、ギリギリで持ちこえていたのだ。彼の意識はまだあるものの、酸素マスク越しに辛うじて呼吸をしている状態で、もう言葉を発する力もあまり残っていない。
「おじいちゃん、僕がお医者さんになるから、病気を直すから。それまで頑張って」
翔太が手をしっかり握ると、答えるようにシゲルは震える唇を小さく動かす。
「翔太、お前はおじいちゃんに似て頭がいい。将来絶対に医者になって、人の役に立つ人間になれ。約束だ」
「はい、約束する」
「そうか。安心したら、おじいちゃん眠くなってきた」
満足に微笑み、ゆっくりと目を閉じたシゲルは、その数時間後に静かに息を引き取った。それまで一度も涙を見せなかった翔太は、シゲルの亡き骸にすがりついて声を上げて泣き、私の心まで引き裂かれそうになる。正と由利には連絡がつかない。私は留守番メッセージに通夜の時間と場所を伝えた。もうこれ以上あの二人と話したくもなかったのだ。
通夜の席には大勢の弔問客が集まった。シゲルの元同僚、部下、取引先の人たち。皆が故人の人柄を惜しんで涙を流し、改めて彼の声望の厚さを思い知らされた。大樹は隣に立つ翔太の肩に手を置き、優しく語りかける。
「翔太、見てみろ。これだけの人がじいちゃんとのお別れを悲しんでくれてる。じいちゃんがどれほど立派な人だったか分かるだろ」
「うん」
「お前はそんなじいちゃんにとって、たった一人の自慢の孫なんだ」
翔太は涙を拭うと、しっかり頷く。その姿は12歳の少年とは思えないほど凛としていた。その間、正は弔問客との名刺交換に忙しい。父親の通夜の席での営業活動である。由利はお清めの席で愛想を振りまき、お酌をしながら容気に振る舞っていた。弔問客の中には、明らかに眉をひそめている人もいる。通夜の席を何だと思っているのだろう。
翌日の葬儀は親族のみで静かに執り行った。翔太は終始落ち着いた様子を見せていたが、棺に最後の花を手向ける時、その目から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
「おじいちゃん、僕、絶対にお医者さんになるから。見ててね」
その時だ。正が翔太の耳元で、周囲には聞こえないようにささやく。
「うちにはそんな金ねえって言っただろ」
「ちょっと何センチメンタルになってんのよ」
「うるさい。これはおじいちゃんと僕の約束だ。邪魔するな」
いつもは従順で大人しい息子の初めての反抗に、正はカッとなる。
「はあ。慣れねえもんは慣れねえんだよ。大樹がおかしなこと吹き込むから、この子が勘違いしちゃったじゃないか」
翔太が何かを発する前に、声をあげたのは大樹だ。
「お前ら、それでも親か? こんな時、子供を抱きしめてやるのが親だろう」
一喝された長男夫婦は反論しようと口を開きかけたが、周囲の親戚から鋭い視線を浴びていることに気づき、罰の悪そうな顔で口を閉ざす。
「もういい。勝手にしろ」
「冗談じゃないわ」
居心地の悪さを感じ取った彼らは、苛立たしげにその場を後にした。家に戻ると、翔太は大樹と私に頭を下げ、こう言った。
「おばあちゃん、おじさん、大人になったら必ずお金を返します。それまでここに置いてください」
12歳の少年とは思えないほど、彼の姿は急に大人びて見えた。親子喧嘩で家出してきたのとは訳が違う。
「分かったわ。じゃあ出世払いでお願いしようかしら」
「翔太、これはお世辞でも何でもない。お前ならなりたいものに何でもなれる。だから将来、おばあちゃんを孝行してくれよ」
「はい。もちろんおじさんにも必ず恩返しします」
「あ、でも何でもなれるって言っても、アイドルとかは無理だからな」
緊張気味だった翔太は、大樹の言葉でようやく子供らしい笑顔に戻った。その日の夜遅くに、長男夫婦が我が家を訪れる。翔太のことかと思ったが、そうではないようだ。
「遺産はどうなってる? ちゃんと俺にも分けてくれるんだろうな」
私は無言で奥の部屋に行き、通帳を持ってきて二人に差し出した。
「これがお父さんの全財産よ」
通帳の残高はわずか50万円。医療費でほとんど残ってないわ。ここから葬儀を払って、頂いたお布施を合わせても赤字になるくらい。長男夫婦の顔が見る見るうちに凍りついていく。
「は、冗談だろ。あれだけ稼いでた父さんがたったこれだけ? 母さんにも何も残さなかったのかよ」
「私はお父さんの遺族年金で暮らすことになるわ。それで十分よ」
正は乱暴に通帳を投げ返すと、由利を連れて背を向けて去っていった。翔太のことなど、最後まで一言も聞きはしない。私は玄関の外から二人の声が聞こえてきた。
「もうここには用はないわね。帰るわ」
「すっかり当てが外れた。新車もキャンセルだな。ハワイ旅行も無理だ。最悪」
父親の葬儀の夜に、新車とハワイの話。私は玄関のドアにもたれかかって、深く深く息を吐いた。涙は不思議と出てこなかった。翔太は休みの最中で、中学校の入学準備は私がすでに整えてある。この家から問題なく中学校へ通えるだろう。ただ、今回は今までと事情が違うのだ。きちんと長男夫婦に筋を通しておかなければ。私はそう考え始めていた。ところが、その夜自体は思わぬ方向に動き出す。
春休みも終わりに近づいたある日曜日のこと。突然、長男夫婦が我が家を訪ねてきたのだ。ちょうどその日、翔太は図書館で勉強していた。長男夫婦はリビングに上がるなり、私と大樹の前で正座をして、深々と頭を下げた。
「どういうこと?」
聞けば、先日高校の同窓会があったという。
「同級生たちがみんな立派にやっててさ。社会人として、親として、本当に頑張ってる人ばかりで。俺たち、何やってんだろうって本気で反省したんだ」
二人はそう殊勝に語った。それから正が顔を上げ、大樹に尋ねる。
「翔太は本当に医者になれるのか?」
「ああ、あの時も言った通りだ」
「頼む。翔太を立派な医者にしてやってくれ。親として夢を叶えてやりたいんだ」
「大樹君、お願い。翔太の家庭教師になって」
突然の申し出に大樹は困惑していた。だが目の前にいる長男夫婦の表情は真剣そのものだ。
「俺だって仕事がある。全面的には無理だ。本気で医者を目指すなら、塾か家庭教師をつけて、まずは新学校を狙うべきだ」
「でも塾って高いんだろ」
「ねえ、大樹君。子供のためでしょ。一肌脱いでよ。あなた独身で彼女もいないし。老後は翔太の世話になるんだから、いいじゃない」
大樹は黙って携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。数分後、通話を終えると、長男夫婦にこう切り出す。
「医大合格率100%の家庭教師会で、伝説の先生がいる。1時間1万円プラス交通費。普通は予約で何ヶ月も取れないが、俺の知り合いの紹介ってことで、特別に枠を一つ開けてくれるそうだ」
「1時間1万円? キャバ嬢かよ」
「二人で働いてるんだから、月4万円くらい捻出できるだろう。こんなチャンス二度とないぞ」
ところが二人の返事は重かった。
「実は、私の母が店を畳んで、年金も納めてこなかったから生活が苦しくて。今、母に毎月20万円ずつ援助していて……」
私はその話を聞いて、思わずため息をつく。由利の母親は離婚後に飲食店を一人で切り盛りしていると聞いていたが、うまくいっていなかったらしい。まさか長男夫婦がその援助をしていたとは。翔太が医者を志していることは私もよく知っている。シゲルとの約束を果たすため、勉強を怠ることはない。ただ、長男夫婦は「金がない」を連発し、大樹に家庭教師を依頼するばかりで堂々巡り。これでは話が進まない。
「分かった。じゃあ翔太の家庭教師代は私が出すわ」
二人は信じられないというように目を大きく見開いた。
「え? お母さんにそんなお金が?」
「お父さんに内緒で少しずつ貯めていたへそくりがあるの。それでなんとかするわ。あとは得意の節約で生活を切り詰めるしかないわね」
年金暮らしの私がお金を出せるとは思いもよらなかったのだろう。二人は途端に満面の笑みを浮かべ、何度も頭を下げた。続けて、正が急に申し訳なさそうな表情でこう話す。
「あの、母さん。図々しいお願いなんだけど、翔太には母さんじゃなくて、俺たちが払ってるってことにしてもらえないかな」
「え?」
「この前のこともあって、親子としての関係を取り戻したいんだ。翔太との仲もなんとか修復したい」
私と大樹は目で会話をする。これは間違いなく正の思惑でしかない。ただ、翔太の親子関係を考えれば、表面上は親が払うことにしておく方がいいのだろう。
「いいわ。ただし、新学校の3年間、医大の6年間の授業料は、あなたたちが捻出すること。この条件が飲めるなら」
大樹は総額で新学校に300万円、医大に2000万円はかかることを伝えた。長男夫婦はその金額に驚いてしばらく考え込んでいたが、最終的には頷く。大樹が家庭教師を呼ぶ環境や勉強しやすさを考えて、翔太を我が家で下宿させた方がいいと提案すると、二人は喜んで了承した。夕方、図書館から帰ってきた翔太に、両親が反省したこと、家庭教師をつけてくれることを伝えた途端、その顔がぱっと輝く。
「お父さんとお母さんが僕のために? 僕、絶対に頑張る」
無邪気に喜ぶ姿は12歳の少年そのもので、私は目を細めずにいられない。翔太が寝た後、私は大樹と二人でリビングに残った。
「ねえ、大樹。人ってそんなに簡単に変わるものかしら?」
「変わらないだろうな」
「そうよね。お父さんの葬儀の日に遺産の話をしに来た人間が、同窓会に行ったくらいで心を入れ替えるとは思えないのよ。息子を思うなら、将来よりまず目の前に迫ってる中学入学準備の心配をして、制服や鞄の話を聞くべきだろう。ランドセルで通えるとでも思ってんのかね」
大樹は推測として、自分の意見を話し始める。
「兄貴たちって、高校時代は美男美女のカップルとかで持ち上げられてただろう。自分たちが主役だと思って同窓会に行ったら、見下してた連中が成功してて、プライドがズタズタになって帰ってきたってところじゃないかな」
「ああ、そういうことね。あの子たち、自分が一番じゃなきゃ気が済まないものね。でも自分たちが起業して成功する度量はない。だから翔太を医者にして、それでマウントを取り返そうって腹だろ」
その仮説は悲しいほど腑に落ちた。ただ、動機が不純でも、翔太が安心して勉強できる環境が整うなら、それで構わないと私は自分を納得させたのだ。大樹の考察が当たっていたことは、後日はっきりと証明された。シゲルの49日法要の後の食事会で、酔いが回った長男夫婦が隅の席でこそこそと口をこぼしていたのだ。
「あんなダサいガリが、今やベンチャー企業の社長なんてありえないだろう。エリートだって地味な三軍だったくせに、セレブ婚で社長夫人とか許せない」
よほど悔しかったようで、悪口は延々と続いた。同窓会ではかつてのように自分たちが中心に鎮座し、同級生の一手に受けるつもりだったのだろう。ところが当日の主役は華やかな成功を収めたクラスメイトで、二人は屈辱を味わったに違いない。だから翔太を自分たちのプライドの道具にする気なのだ。
家庭教師の授業が始まると、長男夫婦は我が家に押しかけ、翔太に向かってこんなことを言うようになった。
「あんたの家庭教師代のために、身を削って働いてるんだからね」
「俺たちをがっかりさせるなよ、翔太」
両親の言葉を素直に受け取り、翔太は目をキラキラさせて答える。
「お父さん、お母さん、ありがとう。僕、絶対に期待に答えるよ」
この子の学力については何の心配もいらない。今後、新学校、医大に合格し、立派な医者になれるだろうと、大樹も家庭教師も太鼓判を押していた。問題は長男夫婦だ。とても高額な学費を用意できるとは思えない。私のこの予想は、両方とも見事に当たる。翔太は偏差値トップの新学校に合格し、3年後には医大にストレート合格を果たした。一方で、長男夫婦は毎回同じような理由で学費が払えないと私に泣きついてきたのだ。
「会社の業績悪化で、当てにしていたボーナスが入らないんだ」
「母が倒れて、介護でパートもままならない上、医療費はかさむ一方で」
まるで自分たちは被害者だと言わんばかりに、沈痛な表情をして見せる。由利の母親の家と連絡先は私も知っていた。15年前、大切なお嬢さんをもらうのだからと、正の親として挨拶に行ったことがある。彼女は「好きにしてくれ」とだけ言って娘の結婚には興味を示さず、シゲルには店に飲みに来て欲しいとしつこく誘った。その日以来連絡は取っていない。病気や怪我が本当なのか確認することはできたが、話をしたい相手ではなかったのだ。
長男夫婦は私が年金暮らしだと分かっていながら、懐にまだ余力があるだろうと、下心見え見えで頼み込んでくる。翔太のためなら私が身を削ってでもお金を工面すると踏んでいるのだ。自宅を担保に銀行へ行くと言い出した私に、彼らは申し訳なさそうな顔こそ見せるものの、止める気配は微塵もなかった。そして毎回、表向きの支払い者は自分たちにして欲しいというお願いは忘れない。次からは自分たちが責任を持って支払うという約束は、当然反故にされる。その一方で、周囲には息子の優秀さを触れ回り、自分たちのステータスとしていた。翔太に対しても、ことあるごとに恩を着せる。
「あんたが医学部に合格したのは、お母さんたちが家庭教師代や学費を出してきたからなんだからね」
「お前は俺たちの子供だったことに感謝しろよ」
その度に翔太は素直に頷いて、両親に頭を下げた。両親に感謝して勉強に励むなら、それもいい。ただ、これでは勉強に集中できない。見かねた私は、長男夫婦に釘を刺した。
「翔太にとっては、一分一秒だって無駄にできない大事な時期なのよ。親がプレッシャーをかけて邪魔するなんて、どういうつもり?」
「別にそういうわけじゃない。翔太が心配で。私たちの応援があの子の励みになればって」
「そう思うなら、あの子を信じて黙って見守るべきでしょう。こんなことが続くなら、支援を打ち切るわ。私も無駄な投資をするほど、お金があり余ってるわけじゃないの」
すると長男夫婦は顔色を変え、逃げるように帰っていった。その後、姿を見せることはなくなった。私は知っているのだ。長男夫婦は自分たちのプライドを満足させるために翔太を医者にしようと躍起だったが、やがて将来の収入まで当てにし始めていたことを。大樹に医者の給料について何度も聞いてきたという。今のうちから翔太にたっぷり恩を着せておこうという魂胆だ。
長男夫婦は私の目を盗んで、再びやってくるかもしれない。その前に、今一度しっかり釘を刺しておくため、私は彼らの住むアパートをアポなしで訪問することにした。それに、毎回「金がない」「食べていくのがやっと」という生活を一度見てやろうと思ったのだ。
「お、お母さん、どうしたんですか? 突然こんな朝早くに」
「あなたたち、食べるのにも事欠いてるって言うから、今朝庭で取れた野菜を持ってきたんだけど」
「ま、正さんならゴルフです」
「ゴルフね。案外余裕があるのね」
しまったという顔を浮かべる由利。仕事の接待だと取り繕ったが、玄関には正の真新しいゴルフバッグが2セット並んでいた。その隣には由利の高級そうなハイヒールが数十足。部屋の床は脱ぎ散らかされた洋服や、未開封のハイブランドショップの紙袋が散乱している。さらにキッチンまで競り出したパイプハンガーには、まだ値札のついた洋服や高級バッグが無造作にかけられていた。これが家計が苦しい家なのだろうか。家事をしている様子もまるでない。翔太を我が家に下宿させてよかったと、つくづく思った。由利は大慌てで部屋を片付け、言い訳に必死だ。
「翔太の学費の足しにしようと思って、リサイクルショップに持っていったら、全部値段がつかないって言われちゃって。本当、大変なんですよ」
「あら、そう。どれも新しそうなのに。そんな価値のないガラクタに囲まれて生活しなきゃいけないなんて、あなたたちも大変ね。じゃ、また来るわね」
私は5分も滞在せず、部屋を後にした。ここに来ることは二度とないだろう。翔太は着実に成長し、いよいよ大学生活も残り1年というところまで来ていた。国家試験の対策も始まり、翔太は寝る間を惜しんで勉強に打ち込んでいる。
その年の春のある朝、私はキッチンで翔太の朝食を作っていた。ふと、片方の手から菜箸が滑り落ちる。拾おうとしたが、なぜか思うように体は動かず、翔太を呼ぼうにも、舌がもつれてうまく言葉を発することができないのだ。次の瞬間、私は床に崩れ落ちてしまう。どん、と大きな音がして、部屋から翔太が飛んできた。
「おばあちゃん!」
翔太は私の顔を見るなり、すぐに何かを察したようだ。
「おばあちゃん、笑ってみて。手を上にあげてみて。何か喋ってみて」
私は必死で従おうとしたが、片方の口角は上がらず、片腕も上がらない。この後、病院に運ばれた私は脳梗塞と診断され、緊急の治療を受けた。意識がはっきりしてきた頃、医師から「あと1時間遅かったら、命に関わっていたかもしれない」と聞かされる。脳梗塞はどれだけ早く治療を開始できるかが全て。脳の異常をいち早く確信した翔太が、すぐさま119番に通報し、発症時刻と症状の変化を淀みなく伝えてくれた。彼の冷静で素早い判断が、私の命を救うことになったのだ。
「おばあちゃん、無事で良かった。本当に」
翔太は私の手を握ったまま、ずっと泣いていた。倒れてからちょうど1週間が経った日、ようやく長男夫婦が病室に現れた。二人は揃って真っ黒に日焼けし、両手には空港免税店の紙袋を下げている。海外旅行に行って、空港から直行してきたことが一目でわかる。
「思ったより元気じゃないか」
「全くだったら大げさなのよ。この世の終わりみたいな電話してきて」
部屋に入ってくるなり、第一声がそれだ。
「ちょうど先生を呼んだから、話を聞くといいわ」
タイミングを合わせるように、主治医が病室に入ってきた。
「え? 主治医って女?」
若く美しい主治医の登場に、正の顔がだらしなく緩む。
「今後の治療方針と生活のことについてお話ししますね。今後は車椅子での生活になり、現状ではご家族による介護が必要になります。ただ……」
由利はヒステリックな声を上げ、医師の言葉を遮り切った。
「介護? 冗談でしょ? 絶対無理」
「俺たちには介護なんて無理だ。仕事もあるし」
医師が「また後で伺います」と言って退出し、ドアが閉まった瞬間、大樹が正に抗議する。
「これまで母さんに散々世話になっておいて、その言い方はないだろう。母さんが倒れたのだって、兄貴たちが無理させたからじゃないのか」
その言葉に二人は黙り込んだ。ただ、それも本当に一瞬だけ。
「だったらお前が介護すればいいだろ。同居してるんだから」
「そうそう。こんな時、大樹君は助けてくれる嫁もいなくてかわいそうだけど」
正は鼻で笑うと、肩をすくめてこう言い放った。
「介護嫌だから絶縁。遺産も入らないしね」
介護を拒否することは容易に予想できていたが、絶縁という言葉まで叩きつけてくるとは、さすがに想定外だ。幸いだったのは、この場に翔太がいなかったこと。自分のために身を削って支えてくれていると信じている両親の、こんな場面は見せたくない。最後に一つだけ聞いておこう。これまでの長い長い因縁にけりをつけるためにも。
「本当に困らないの?」
その瞬間、正と由利は目を丸くして互いに顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出した。
「困るわけないでしょ」
二人が楽しそうに声を上げて笑い合っているものだから、私の方までおかしさが込み上げてくる。しかし、私が声を立てて笑い出した瞬間、彼らの表情は凍りついた。まるで気が触れた人間を見るような、けげんな目をこちらに向けてくるのだ。正と由利は恐怖で顔を曇らせ、ゆっくり後ずさりして病室を後にした。
2週間の入院生活を終え、退院した私は、大樹と翔太のサポートを受け、リハビリに励む日々を過ごしていた。家では食事の支度、洗濯や掃除をしてもらって至れり尽くせりだ。こんなことを言ったら叱られそうだが、倒れてみるものだなとつい思ってしまう。退院してから、私は静かにある決断を実行に移していた。長男夫婦が病室で絶縁を口にした瞬間に、胸の中では決まっていたこと。シゲルが亡くなる前に残した大切な遺言を、いよいよ動かす時が来たのだ。
ある日、私は大樹を居間に呼び、確認する。
「大樹、本当にいいのね」
「母さん、それはこっちのセリフだよ。本当にいいの?」
「ええ、お父さんとの約束を守る時が来たの」
大樹は黙って頷いた。退院から1ヶ月が経ったある日のことだ。午後の遅い時間、玄関のベルが激しく鳴り響いた。ピンポンピンポンと、きりなしに連打される。大樹が玄関に向かう足音と、ドアを開ける音。そして次の瞬間に響いてきたのは、聞き慣れた怒鳴り声だった。
「大樹、邪魔するな。母さんはどこだ?」
強引に大樹を押しのけて、長男夫婦が居間にずかずかと入ってくる。その姿に、私は思わず目を見張った。たった1ヶ月足らずの間に、二人は信じられないほどやつれていたのだ。由利は元々派手な化粧をしていたが、今ではメイクで隠しきれない深い隈と、げっそり痩せた頬が覗いていた。艶のあったロングヘアはパサつき、根元には白いものが目立ち始めている。正の方は血色を失ってどす黒くなった顔色、目の下のたるみ、無精髭。いつも時間をかけ丁寧にセットしていた髪は激しく乱れ、額には深い皺が刻まれていた。短い間に何があったのか、およその検討がついている。二人は私の前まで来ると、テーブルを叩かんばかりの勢いで叫んだ。
「母さん、どういうことだよ。翔太の学費をもう払わないって」
私は静かに目の前の湯のみに口をつけ、あえて一呼吸を置いた。
「メッセージを見てくれたのね」
「だからこうして来てるんだろうが。どういうことなのか、さっさと話せよ」
正が苛立っているのが手に取るように分かる。
「だって当然でしょ」
「は? 何が当然だよ」
「だって縁を切ったんでしょ。他人の子供の学費を私が払う義理はないわ」
「ちょっと、あんた。孫が可愛くないの? 翔太の将来がかかってるのよ」
「翔太の将来だなんて、よく言えたものだ。それを一番に踏みにじってきたのは誰だろうか。私、病院で聞いたわよね。縁を切って本当に困らないかって。そしたらあなたたちは、困るわけないって笑い飛ばした。大樹もちゃんと聞いてたでしょ」
「ああ、この耳でしっかり聞いた」
「正直言うと、私、ほっとしたの。毎年400万円は、さすがに限界だったわ。だから絶縁って言われた時は、やっと解放されたって、もう嬉しくて」
正は絞り出すような声で尋ねる。
「だからあの時、笑ってたのか」
「じゃあ、もう学費は払わないつもりで?」
「ええ、そうよ」
「もしかして、今更気づいたの?」
狐につままれたような顔とは、こういうことなのだろう。二人は信じられないといった表情で呆然としている。
「まさかだけど、絶縁しても学費だけは払ってくれると思ってた」
「母さん、いくらなんでもそれは失礼だよ」
「親の介護が嫌だから絶縁します。でも息子の援助は今まで通り続けてくださいなんて。そんな非常識で厚かましいことを、普通考えるわけないだろう」
「そうよね。そこまで図々しかったら、恥知らずの極みだもの。疑うようなこと言ってごめんなさい」
長男夫婦は言葉に困り、罰が悪そうにするばかり。私はだんだん楽しくなってきて、さらに話を続けた。
「翔太の保育園時代の月謝の立て替えから始まって20年以上。老後の楽しみだったへそくりはどんどん減っていくし、節約とお金の心配をする毎日なんか、もう虚しくなってきちゃって」
「俺もそばで見てきたから、母さんの苦労はよくわかる。倒れて当然だ」
「可愛い孫のためと思って随分無理してきたけど、ここまでやったら十分よね。私もやっと自由になれるわ。絶縁してくれてありがとう。それであなたたちの用事は何だったかしら?」
この二人は何と言うのだろうか。笑いをこらえているつもりだが、つい口元が上がってしまう。
「実は、金がなくて……翔太の学費なんて……」
とても聞こえないほど小さな声だった。
「お金がないって? 二人とも働いてるのに。それとも、会社の社長に夜逃げでもされたのかしら」
「まさか、母さんが裏から手を回したのか」
「私にそんな力はないわ。でも、夜逃げの話は本当だったのね」
「何か知ってるのか?」
正の顔に明らかな不安の色が広がっていく。私は湯のみをそっとテーブルに置き、ゆっくり口を開いた。
「入院中にお見舞いに来てくれたお友達から、たまたま聞いたのよ。あなたの働いている会社が、もうすぐ危ないってね」
それは本当に偶然の話だ。入院中、年下の友人がお見舞いに来てくれた。彼女の名前は浅井けい子。私より10歳ほど若く、まだ現役で働いている。
「よし子さん、退院したらランチに行きましょう。会社の一階にいいお店があるのよ。是非ご馳走するわ」
それから話の流れで彼女の勤務先を尋ねると、偶然にも正の勤務先が入っているオフィスビルだった。しかもけい子はその建物の最上階を拠点とするビルオーナー企業のフルタイム勤務の社員だという。私は正の名前は出さず、知り合いが同じビルで働いていると会社名を伝えた。それを聞くなり、彼女は声を潜めて教えてくれた。
「ここだけの話だけど、その会社、危ないわよ」
聞けば、一時期は事業を拡大して順調に見えたが、手を広げすぎたらしい。業績は数年前から悪化し、ビルの家賃も数ヶ月滞納状態。オーナー会社内では、いつ夜逃げしてもおかしくないと危険視されていたそうだ。私はけい子の話を病室で聞きながら、全てのピースが繋がっていく感覚があった。正が給料が下がった、ボーナスが出ないと言い訳を繰り返していたのは、本当だったのだ。ただ、そんな状況でもブランド品を買い漁って、海外旅行を楽しんでいたのだが。
「なんでそれを言ってくれなかったんだよ」
「話そうと思ったわよ。でも、先に絶縁を叩きつけたのはあなたの方じゃない」
正は唸って、何も言えなくなる。実は、友人の話にはまだ続きがあった。ちょうどその日、オーナーが正の会社の社長に、1ヶ月以内の退去を勧告したという。未払いの賃料分を差し引いても、入居時保証金の範囲内で処理できる計算だった。
「期日は1ヶ月後。間違いないわ。今ならまだ間に合うから、もらうものもらって、さっさと辞めた方がいいって、知り合いに教えてあげて」
ここまで聞いた正は、声を荒げて叫んだ。
「どうしてすぐに教えてくれなかったんだ?」
「私にもう一度同じことを言わせるつもり?」
私の冷たい物言いに、今度は急に弱々しい声で話し出す。
「実は、社長に夜逃げする前の日、200万貸したんだ。仕事で必要だから、明日まで立て替えてくれって」
「200万円なんてお金、よく持ってたわね。確か生活が苦しいんじゃなかったかしら。その時計を売ったんだ」
すると、それまで黙っていた由利がヒステリックに正の腕を叩く。
「あんたがちまちま社長にベラベラ話すからいけないんでしょ」
「信じてた先輩が裏切るなんて思わないだろ。高校の時からの付き合いなんだぞ」
「部長っておだてられてその気になって、いっつもいいように使われて、最後は200万持ち逃げされて。バカじゃないの?」
二人が言い争う姿を見たのは初めてだ。私をはめるため結束してあれほど仲が良かったのに。
「元はと言えば、あんたが考えなしに介護は嫌だとか言い出すからでしょ。もうちょっと我慢してれば、夜逃げのことだってお母さんから聞き出せたのに」
「お前だって、遺産も入らないとかなんとか笑ってただろうが」
「あんたが先に介護嫌だって言ったから、乗ってあげただけよ」
「喧嘩なら外でやってちょうだい。私、疲れ上がりなのよ」
由利は急に態度を切り替えて、私に向かって深々と頭を下げた。
「お母さん、お願いします。助けてください。私たちが悪かったです。本当にすみません。せめて、これまで通り翔太の学費だけでも払ってください」
正も続いて、手を擦りつけるようにしてすがる。
「母さん、頼むよ。ずっと翔太のために援助してくれてたじゃないか。今でも翔太のことは可愛いんだよな。あと1年なんだ。翔太が医者にさえなってくれれば」
そう、あと1年。来年の春、翔太が国家試験に合格すれば、晴れて医者として歩き出す未来が待っているのだ。ただし、あの子の未来であって、長男夫婦の未来ではない。
「諦めきれないわよね。あと1年だもの。私がこれまで通り学費を払えば、卒業して晴れて医者になれる。翔太は今の私たちの希望なんです」
「あいつが医者になるためなら、何度でも頭を下げるよ」
それまで黙って見守っていた大樹が、冷ややかに口を開いた。
「たくさん持ってたブランドバッグ売れば、1年間の学費作れるんじゃないか。兄貴の時計だって200万になったんだろう」
「それが、その……もう色々事情があって」
「もう全部正直に話そうぜ。毎回中途半端な嘘をつくから、話がこじれる。このままじゃ話は何も進まないだろう」
観念した由利が、肩を落としてぽつぽつと話を始める。
「実は、母が認知症で、要介護3なんです」
「やっぱり」
「やっぱりって?」
実は、倒れる前日、私は由利の母親に直接電話をかけていた。ずっと心の中である違和感がくすぶっていたからだ。長男夫婦は「母が病気がちで、毎月20万円仕送りしているため、翔太の学費まで手が回らない」と言い続けていた。仮にその話が事実だとして、こちらが援助をしているのなら、そろそろ別の方法を考えてもらう必要があった。行政の介護サービスや生活保護の検討など、方法はいくらでもあるのだ。そしてもう一つ、胸の奥に長年抱えていたのは、娘が世話になっているとずっと言っていたにも関わらず、母親からはお礼の電話一本すらなかったこと。常識的に考えて、娘が「お世話になります」くらいの挨拶があってもいいはずだ。
私は由利の母親との電話の内容を二人に話して聞かせた。電話に出た彼女は、いきなりこう言ってきたのだ。
「いつもうちの孫がお世話になってます」
その言い方に、少々イラっとする。「うちの孫でもあるんですけど」という言葉が思わず喉まで出かかったが、飲み込んだ。ただ、どうも様子がおかしい。
「うちの孫の由利は、本当に可愛い子でしょ? 今度、七五三の七歳のお祝いで着物を着るんですよ。あなたも是非見に来てね」
電話越しの声はどこかふわふわとしていて、娘を孫だと言ったり、何十年も前の話を現在進行系で話す。私はすぐに認知症を疑った。長男夫婦両方の携帯に電話をかけたが、全く繋がらない。それもそのはず。二人はその時、ハワイ旅行の真っ最中だったのだから。
話を聞いた由利は、顔を真っ赤にしてヒステリックに私に詰め寄った。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか?」
またこれだ。私は深いため息をついて、湯のみに残ったお茶をすする。
「だから話そうとしたわよ。でも、あなたたちが先に絶縁だって騒ぎ出したんでしょう。大切な話を聞くきっかけを自分たちで壊しておいて、後でどうして教えてくれなかったんだって攻めてくるのは、お門違いよ」
「それは悪かったと思ってる」
「絶縁なんて言わなければ、こんなことにはならなかったのに」
続けて語られたのは、想像を絶する顛末だ。それは数週間前のこと。由利は母親が住むアパートの管理会社から、火災騒ぎを起こしたと知らされる。ガスコンロをつけっぱなしのまま、居眠りをしていたらしい。近隣住民の通報で消防隊が駆けつけ、念のため病院に搬送された母親は、幸い大事には至らなかった。しかし、医師の診察を受けた結果、認知症との診断が下された。長男夫婦は、由利の母親がもう一人で暮らせる状態ではないという事実を、ようやくその時に思い知ったのだ。つまり、20万円の仕送りも、病気も、全て嘘だった。二人は慌てて介護施設を探したものの、要介護3で受け入れてくれる施設は、月額20万円以上が当たり前。悩んだ挙句、正は時計を売り、当面の介護資金に当てるつもりだった。ただ、思っていた以上の高値がつき、自慢が湧いて、つい社長に口を滑らせてしまう。すると社長に、その金を翌日まで貸してほしいと頼まれる。正は1日くらいならと疑いもせず、200万円を渡したのだが、次の日の朝、会社はもぬけの殻になっていた。
施設の入居費用は、由利のパート収入だけでは支払える額ではない。仕方なく母親を自宅に引き取ることにするが、ここから地獄が始まった。夜中の徘徊、排泄の失敗、トイレに間に合わず失禁。これが日常茶飯事。片時も目が離せず、続いた由利はパートを首になり、正は新しい仕事が一向に見つからない。
「こんなはずじゃなかったのに」
由利は半泣きで拳を握りしめながら、声を漏らした。
「それは大変だったわね」
「本当に大変なのは、この後なんです」
「え?」
つい先週、買い物で目を離したわずかな隙のこと。母親がまた火を使い、今度は本格的な火災を起こしてしまった。天井のスプリンクラーが作動し、火災は最小限で収まったものの、大量に降り注いだ水は床から階下に染み込み、上下左右の部屋まで被害が及んだ。大家からは即刻退去と、加えてアパート全体の修繕費800万円を請求された。火災保険には加入していたが、原因が認知症の徘徊によるもので、適用外との判断が下った。
「服も売却して、私もパートを首になって、いよいよ服もバッグも手放すしかないと思ってたところに、火事で焼けてしまって……」
私は長男夫婦のアパートで、パイプハンガーがキッチンまで競り出していたことを思い出す。洋服やバッグが吊され、ガスコンロのすぐそばだったので、危ないとハラハラしていた。ただ、ふと見るとガス台は調理に使われた形跡がなく、まるで新品のように綺麗だった。自炊をしていないのなら、火事の心配もないかと、私は口を挟むのをやめたのだ。しかし、母親が火を使用し、あっという間に、由利の大切なブランドの品は全て焼け焦げてしまったらしい。
「こんなことなら、もっと早く売りに行けばよかった」
「リサイクルショップで値段がつかなかったという話は、当然ながら嘘だからな」
「だから早く行けって言っただろ」
「は? お母さんがいるのに、どうやって行けって言うのよ。あんたは帰りが遅くて当てにならないし」
「仕方ないだろ。仕事探しに駆けずり回ってたんだから」
二人は莫大な賠償金、母親の介護、失職、仕事探し、退去勧告と、全てを同時に抱え込んでしまった。そこへ、私から翔太の学費ストップの連絡が入ったというのが、今日の出来事の正体だ。話を聞き終えた大樹は、深いため息をつく。
「気の毒だとは思うけど、よくよく考えたら、今までのツケが回ってきたってことだろ」
「うるせえ。お前に分かるかよ、介護の大変さが」
「そうだよな。絶縁するほど介護が嫌なんだもんな」
正は口を滑らせたことに気づいて、はっと顔を上げた。ただ、もう手遅れである。
「母さんの介護の方が、よっぽど楽だったと思うぜ」
「リハビリを頑張ったから、今は杖さえあれば歩けるようになったしね」
主治医は今後介護が必要だとは言ったが、それは1週間から1ヶ月程度。杖は欠かせなくなるものの、日常生活への支障は最小限と説明するはずだった。だが、由利が騒いで言葉を遮り、介護と聞いてパニックになった正は、絶縁宣言をした。人の話を最後まで聞かないから、こうなるのだ。
居間には重苦しい沈黙が流れていた。正も由利も、何を言えばいいのか分からない様子で、ただ床に座り込んでいる。その光景を見つめながら、私は静かに口を開いた。
「じゃあ、あと1年、私が学費を払い続けて、翔太が医者になったら、これまで立てた家庭教師代から学費まで、あの子に毎月返済してもらうけど、それでもいい?」
「何言ってるんですか?」
「仕方ないわよ。だって、あなたたちに返済能力はないんだもの。それに、絶縁した他人の子供に、無償で援助する義理はないわ」
大樹も私に追従する。
「まあ、翔太は兄貴たちじゃなくて、母さんが家庭教師代も学費も払ってたことがバレちゃうけど、仕方ないよな」
「そ、それは困る。あいつは俺たちが学費払ってきたと信じてるんだ。母さんが払ってたなんて知ったら、きっとショックを受ける」
「そうですよ。私たちのために頑張る。期待に答えるって言ってたんです」
「じゃあ、あなたたちが返してくれるの? 孫だと思うから援助してきたけど、もう事情が違うのよ」
その時、客間のドアがすっと音もなく開く。中からゆっくりと姿を現したのは、翔太だった。
「翔太! なんでここに。今日は学校じゃないの?」
二人を冷ややかに見下ろす翔太の目には、何の感情も浮かんでいない。
「本当に僕のことには、何の興味もないんだね。大学は今、春休みだよ。全部聞いてた。病院でのことも、今の話も。最低だ」
「翔太、一旦落ち着こうな」
「そ、そうよ。きっと何か誤解してるの」
長男夫婦は必死に取り繕おうとしたが、手遅れだ。
「もういいよ。僕は全部知ってる。あの日、病室の外で聞いたんだ。おばあちゃんに絶縁だって言ったの。その後、僕は二人を追いかけた。そしたら廊下の角で、こう話してた」
正と由利は顔を見合わせ、言いたげな表情を浮かべる。
「縁切っちまったけど、あと1年。翔太の学費、どうする?」
「あのババアなら、翔太可愛さに絶対払うわよ。これまで家庭教師代だって授業料だって、ずっと払ってきたんだから」
「それもそうだな。あとは翔太が医者になってくれれば、俺たちの将来は安泰だ」
「翔太も私たちが払ってるって信じてるしね。哀れなおばあちゃん」
その言葉を、翔太は全て聞いていたのだ。
「本当はもっとずっと前から知ってたんだ。家庭教師代も、新学校も、医大の学費も、出してくれてたのはおばあちゃんだって」
「え? いつから?」
翔太がはっきりと気づいたのは、高校に上がって間もなくのこと。両親は自分のために身を削ってると言いながら、いつも新しい服とブランド品を身につけている。彼らの収入と支出を冷静に計算していた。結論は明らかだった。家庭教師代も学費も、両親は払っていない。翔太は、行けないと知りつつも、自分が小学3年生の時、祖母のために作ってあげた家計簿のファイルにログインしてみる。家計簿はずっと使い続けられていて、自分に関する全ての支出が几帳面に記録してあった。家庭教師代、新学校の入学金、授業料、制服代、定期代、参考書代。この中で、自分たちが払ったものが一つでもあるか?
長男夫婦はこれまでの謝ちを責められ、針のむしろに座らされているかのように視線を落とす。家計簿にはもっと前の記録も残っていた。幼い頃の洋服代、靴代、学用品代、小学校からの給食費、林間学校、修学旅行の積み立ても。
「僕は何も知らずに、おじいちゃんとおばあちゃんに甘えてきたことを恥じたよ。同時に、一番大好きな二人に、こんなにも愛されてきた幸せを感じた。申し訳なくて、ありがたくて、涙が止まらなかった」
由利はとっさに取り繕おうと、震える声で言った。
「そ、それは私たちも同じよ。翔太のことをずっと愛してきたわ。ただ、お金がたまたま回らなくて、お母さんにお借りしただけで」
「そ、そうだ。たまたま仕事がうまくいかなくて、お金を借りただけなんだよ。でも、お前への愛情は本物だから」
翔太はふっと冷たく笑う。
「へえ。自分たちは外で美味しいものを食べて、僕にはいつもコンビニのおにぎりか菓子パン1個。それってどんな愛情?」
長男夫婦がこの子のためにわずかでも愛情を注いでいれば、違う未来もあったのだ。生活が苦しくて私からお金を借りたという言い訳も、少しは信じてもらえたかもしれない。だが、自分たち可愛さに、親であることを放棄したのだ。その証拠に、目の前の二人はただ唇を震わせるばかりで、何ひとつ答えることはできない。
「僕は悩んだよ。このままおばあちゃんに甘え続けられないって。だから思い切って、大樹さんに相談したんだ」
翔太から相談を受けた大樹は、何と言うべきか迷った。状況証拠だけで、本当のことを話してもいいものかと。ただ、この子にごまかしは通じないと判断し、こう伝えたそうだ。
「このまま知らないふりを続けてくれることが、おばあちゃんとおじさん、それから天国のおじいちゃんの一番の望みなんだ。翔太が立派な医者になれば、お金も恩も返すチャンスはいくらでもある」
それでも申し訳ないという気持ちが拭えない翔太に、大樹は高校を辞めて中卒の学歴で働いた場合、奨学金で卒業した場合など、あらゆることを想定した金額をシミュレーションして見せた。
「昔、大人になったら1日でも早くおばあちゃんと俺に恩返しするって言ったよな。おじいちゃんと、絶対医者になって病気の人を助けるって約束しただろ。だったら、このまま進むのが最短ルートだ」
そうして翔太は全てを胸の奥にしまい込み、シゲル、私、大樹の恩に報いるためにも、必ず医大に合格して、将来立派な医者になると誓った。
「二人が自分たちのおかげって恩着せがましく言うたびに、おばあちゃんは黙って微笑んでた。本当の恩人なのに。それを自分たちの手柄にして、よく恥ずかしくないね」
由利は引きつった笑いを浮かべながら、必死に弁解しようとした。
「ち、違うの。私たちが払ってるってことにしてもらって、あなたの励みになればって思ったのよ」
「お前の夢を叶えたかった気持ちは本物だ。俺たちはいつだって、お前のことを一番に考えてきた」
翔太は言葉を一息つく。
「いつも自分たちのことしか考えてないのに。じゃあ、一度でも僕のために何かしてくれた?」
遠い記憶をたどるように首をかしげ、あれこれ思いを巡らせているが、やはり黙り込む。
「そんなに僕に愛情があって、大切なのなら、おばあちゃんと縁を切った後、病院にも来ない。連絡もしないのはどうして?」
「絶縁した他人のおばあちゃんの家に、息子を置いておくのはおかしいよね」
「それは、ほら、お前は病気のおばあちゃんを見捨てられないと思ったんだ。だから、落ち着いた頃合いを見計らって、迎えに行くつもりだった」
「そう。あくまであなたの気持ちを優先して考えた結果なの。私たちだって辛かったわ」
翔太は冷徹なまでに淡々と続けた。
「おばあちゃんに学費を払い続けてもらって、僕が無事に卒業して医者になったら、その時に連れ戻して、僕の収入を当てにするつもりだったんだよね。全部分かってる。もう猿芝居はいいよ」
全てが事実な上に、頭脳明晰なこの子を丸め込めるはずもない。一緒に過ごした時間が圧倒的に少なすぎたせいで、二人の中の翔太のイメージは幼い頃で止まっていたのだろう。しかし、目の前にいるのは、医学部で5年間鍛え抜かれた論理的な頭脳を持つ青年だ。
「僕を家に連れ帰って、自分の母親の介護まで押し付けようとしてるよね。僕の医学の知識を当てにされるのは迷惑だ」
おそらく長男夫婦は、今日私に学費の支払いを続けて欲しいと説得し、その上で翔太を連れ帰り、母親の介護をさせようと目論んだのだろう。
「翔太にとっては、おばあちゃんなのよ」
「今まで誰にも言わなかったけど、あの人に一度だけ会ったことがある。すごく嫌いだ」
それは翔太が高校1年生の頃のこと。両親が自分の学費を支払っていないと判明した後、翔太はわずかな私物を引き上げるために自宅に行ったという。するとリビングには、見たことのない老婆が一人座っていた。それが由利の母親だ。すぐに家を出ようとした翔太が、老婆が彼の腕を握りしめ、ぐいっと自分の方に引き寄せた。そして「早くお医者さんになって、おばあちゃんにいっぱい贅沢させてね」とすり寄ってきた。その時の異様な雰囲気と、強い力で握られた手の感触に、本能的な恐怖を覚え、彼はすぐに逃げ帰ったという。
「あの時は怖くてすぐ帰ったけど、さすが親子だね。依存する体質は遺伝だったみたいだ。僕にとっておばあちゃんは、この世にただ一人しかいないから」
不謹慎ながら、その言葉に私は涙ぐみそうになる。いや、先ほどから涙腺がずっと緩みっぱなしなのだ。たった一人の孫が、こんなにも私のことを大切に思ってくれている。それだけで、今までの苦労が報われる気がした。翔太は続けて、両親に向かい、はっきりと宣言する。
「僕は来年の卒業は確定している。研修医からのスタートだけど、給料はおばあちゃんとおじさんへの恩返しに使う。あなたたちには、1円足りともあげる気はない」
「嬉しいな。おじさんは楽しみだよ」
「あ、ちょっと待てよ。母さんはまだいいとして、なんで大樹までちゃっかりもらう気になってんだ。何もしてないくせに。ちょっと翔太の相談に乗ったくらいで、自分まで便乗しておこぼれに預かろうなんて、図々しい」
長男夫婦は、いつでも大樹には強気だ。
「おじさんは、僕のために自分の予備校のオンラインスクールの費用を、3年間ずっと出してくれたんだ」
翔太は高校入学後も引き続き家庭教師の授業を受け、合格圏内と太鼓判をもらっていた。ただ、大樹はさらに確実なものにするため、自分が務める予備校のオンラインスクールの受講を進める。この頃、大樹は忙しく、勉強をゆっくり見てやる時間がなかったことも理由だ。費用は全額負担すると話すと、翔太は当然遠慮したが、「大学受験は大樹の専門分野。生徒を医大に合格させたとなれば、自分の成績になり、リターンはあるので、ウンウン」だと説得したのだ。
「それだけじゃない。おじさんは、買ったけど使いづらいと言って、新しいパソコンやタブレットをくれた。試着したけど似合わないからって、洋服や靴もくれたよ」
二人は身長も体型も近く、足のサイズも同じだった。大樹は色々なものを買ってきては「失敗した」と言って翔太に譲り、「俺は買い物が下手だな」と毎回こぼす。でも、本当は僕に気を使わせないための、おじさんの優しさだ。どれも決して安いものじゃなかった。オンラインスクールに、年間300万円近いお金を払ってくれているのに。
「年間300万って、ほとんど大樹の年収じゃないか」
「え、俺の年収300万? その金額はどこから出てきたんだ?」
「随分前にテレビの該当インタビューで見たんだ。予備校講師が年収300万でやってられないって」
正の長舌など、無視のものだ。
「その予備校講師は、よっぽど無能なんだよ。人気予備校講師の年収を舐めてもらっちゃ困るな」
「じゃあ350万か」
「ちなみに俺は400万だけどな」
「900万だけど」
「はあ? 900万?」
「お前、翔太にいいとこ見せようとして、話を盛るなよ」
大樹は携帯の画面に給与明細を表示させ、「ほら」と言って見せた。長男夫婦はそれを覗き込み、大きく目を見開き、画面に顔を近づける。
「そっか。俺の年収300だと思ってたんだ。通りで俺に持てないとか、結婚できないとか言うわけだ」
「でもなあ……」
正が言い終わらないうちに、由利は鼻息荒く顔を寄せた。
「大樹君、頼む。少しでいい。俺を助けてくれ」
「持てないなんて言って悪かったわ。あなたは素晴らしい人よ。その優しさを私たちにも分けて」
「俺のこと、散々馬鹿にして見下してたくせに」
「あれは俺より年収が少ないと思ったから。年収900万となれば、話は別だ」
もはや兄としてのプライドなど持ち合わせていない。正の年収は400万円。由利もパートのフルタイムだったのだから、世帯年収は600万円以上はあったはず。それを全て自分たちの贅沢に消費していたことになる。翔太に十分な教育を受けさせ、親孝行してもらうこともできたのに、彼らは自分たちでその未来を放棄したのだ。長男夫婦は大樹に顔を寄せ、色よい返事を待っているが、予想を裏切る言葉が伝えられた。
「俺、結婚するんだよ」
「大樹、目を覚ませ。お前はその女に騙されてる。高収入だと知って近づいてきたんだ」
「そう、そう。いるのよ。自分は働かないで、人のお金で楽しようとする人間」
「それって自己紹介?」
翔太のあまりにも的確なツッコミに、私と大樹は思わず吹き出してしまう。
「二人とも彼女には会ったことがあるよ。母さんが入院した時に、担当してくれた女医の先生だ。医者だから、俺を当てにしなくてもいいくらいの収入はあるんだけど」
正と由利の顔が、みるみるうちに青ざめていった。そう、私の脳梗塞の時、最初に対応してくれた若い女医こそが、大樹の婚約者である美沙だ。実はあの日、私の異変に気づいた翔太は、救急車を呼ぶと同時に、すぐに大樹にも電話をかけていた。そこから最寄りの大学病院で勤務している美沙に連絡が回り、「すぐ準備して受け入れる」という指示が降りていたのだ。おかげで私は病院で即座に治療を受けることができた。長男夫婦は口をぱくぱくと動かすが、もう言葉が出てこない様子だ。特に正のショックは相当大きいらしい。彼女を見て、デレデレと鼻の下を伸ばしていたのだから。美沙は若々しく清潔感があり、知的な雰囲気を持つ素敵な女性だ。ショートで短く揃えた黒髪が知性を感じさせ、白衣の似合う凛とした美しさがある。大樹との交際は、シゲルがまだ存命だった頃から始まっていて、「あの子なら大樹を任せられる」と彼もよく言っていたものだ。
「お前、いつから付き合ってたんだ?」
「父さんが亡くなる、もっと前からだ」
「なんで今まで結婚しなかったんだよ」
「障害があったからな。でも、それもクリアになった。これでようやく、父さんとの約束が果たせる」
「父さんとの約束?」
その言葉に、正は呆然とした顔で固まった。それが何を意味するのか、まだ完全には理解できていないのだろう。ただ、知らないところで父と弟と母の間に、自分とは無関係の何かが進行していたという事実だけは感じ取ったらしい。
「お父さんの遺言を、全て果たす時が来たようね」
「父さんの遺言?」
「ええ、ついに決着の時ね」
知れぬ不安と恐怖で、明らかに動揺する正。由利の顔にも戸惑いの表情が見られた。
「ち、ちょっと待ってくれ。遺言とか決着とか、何のことだよ」
私はゆっくりと、シゲルの最後の言葉を二人に伝える。
「お父さんはね、亡くなる前にはっきり言ったのよ。自分の財産は大樹と翔太には少しでも多く残してやりたい。ただ、正にはビタ一文も渡したくないってね」
翔太が林間学校に行った日のこと。シゲルは私と大樹に、今後の話をしたいと言った。自分がまだしっかりしているうちに、全てを伝えておきたいと。この時、余命を宣告されてから1年を迎えていた。話は長くなるので、翔太が留守の間を選んだという。彼はテーブルの上に数冊の通帳と家の権利書を広げ、静かに切り出した。
「すでに自分の預貯金と自宅は、洋子の名義に変えてある。税金は多少かかるが、正たちに渡すよりよほどいい。全て洋子に託すから、大樹と翔太に十分なことをしてあげてほしい」
シゲルが正に生活の援助を続けてきたのは、子供ができれば変わると信じていたからだ。だが、翔太の養育すらまともにせず、親に預けて自分たちは遊び歩く日々。父親の命が残り少ないと知っても、顔すら見せない。そんな息子に残してやるものなど、もう何もないとシゲルは判断したのだ。
「父さんは、俺のことをそんな風に考えてたのか」
正の声は震えていた。父親が自分のことを見限っていたとは、思いもしなかったのだろう。また、自分の知らないところで話し合いが行われていたとなれば、ショックは大きいはずだ。
「その代わり、翔太には必要なだけ使ってくれと言われたわ。翔太には無限の可能性がある。将来何になるか分からないが、留学でも起業でも、叶えられるだけの資金は残したつもりだとね」
「じゃあ、もしかして、これまでの学費は全部……」
「その金へそくりも、銀行の借り入れも、全部嘘。私はお父さんに黙ってへそくりなんかしないし、借金は昔から大嫌いよ。でも、こんな周りくどいことをしたのは、全部お父さんの筋書き」
シゲルのシナリオは、予言の書のようだった。
「正たちは外見だけが取り柄で、何の努力もせずに年を取って、ブランド品や高級品では追いつかなくなる時がきっと来る。同年代では一流企業や経営者として活躍し、華やかなステータスを手に入れるものも出てくるだろう。そして、自分たちがちやほやされていた時代から一転し、惨めな思いを味わった時、ずる賢い頭を使って、優秀な翔太に目をつけるはずだと。そうなれば、急に教育熱心になって、まずは大樹を頼るだろう。大樹に断られても、自分たちが教育資金を出す選択肢は、あの二人にはない。そこで、伝説の家庭教師がいるとでも言えば、必ず食いつく」
年金暮らしの私にへそくりがあると知れば、長男夫婦は大喜びして、それを自分たちの手柄にするに違いないとシゲルは見越していた。
「私には腹が立っても、ひとまず了承してやり、その上で家庭教師を迎えるために翔太の下宿を提案すれば、長男夫婦は両手を上げて承知するだろう。そのためには塾ではダメだ。家庭教師である必要がある。大樹はあらかじめ優秀な家庭教師を探しておいてくれ。できるだけ早い段階がいい。できれば中学生になったらすぐくらいに。翔太が望まないのなら、その必要はないが、あの子の好奇心が止まることはない。だから、安心して学べる環境を用意してやって欲しい」
とシゲルは願ったのだ。
「もしも兄貴たちが翔太の教育に目覚めなかったら、その時は翔太を医者にすれば、『障害年収は数億なのにもったいない』とでも言えば、大興奮で飛びつくはずだ」
シゲルのシナリオは、長男夫婦の出方次第で、チャート式に色々なプランが用意されていた。翔太には類いなき才能があり、本人も学びたいと願っているのだから、これ以上親の身勝手の犠牲にさせてはいけない。それがシゲルの考えだ。
「ここまで聞いて、どう? 何か間違っているかしら?」
長男夫婦に質問してみる。二人は話があまりに当たりすぎていたためか、まるで幽霊でも聞いているかのように震え、首をゆっくり横に動かすだけだ。言葉を発することもできないでいる。シゲルの考察は、その後も的中する。
「一度でも援助してやれば、正たちは味を占めて、その後も入学金や授業料も払えないと泣きついてくるに違いない。給料が減った。母親が病気。そんな言い訳を並べる二人が目に見えるようだと。私は騙されたふりをして、家を担保に銀行から借り入れることにすればいいと続けた。長男夫婦は自分たちが払ったことにしてくれ、親のメンツを守りたいと頼み込んでくるだろうが、飲んだふりをすることが特策だと」
「奴らのことは、まだ泳がせておけ」
とシゲルは言った。
「正たちは翔太に、自分たちのおかげだと恩を着せるかもしれないが、そう信じてあの子が勉強に打ち込めるなら、悪くはない。洋子は静かに見守ってほしい」
こんな周りくどいことをせずとも、シゲル亡き後、私が翔太の教育資金を預かってると話し、都度支払いをするという手もある。ただ、それでは亡くなった父のお金ということになってしまう。あくまで私が支払っているとなれば、長男夫婦は逆らえない。事実、「邪魔するくらいなら支援も打ち切る」と伝え、家から遠ざけることに成功していた。翔太が安心して勉強に打ち込める環境。それがシゲルの最大の目的だ。
「あの、俺たちが払ったことにしてくれって頼むなんて、父さんに分かるわけないよな。母さんの作り話じゃないのか?」
「そうですよ。私もおかしいと思ってました。超能力者でもあるまいし。これまでの話を、お母さんが遺言風に言ってるだけじゃないですか?」
「大樹、あれ持ってきて」
大樹は自分の部屋から分厚い封筒を5つ持ってくると、その中から合計23冊の大学ノートをテーブルに広げる。
「確認するといいわ。お父さんの筆跡に間違いないはずよ。最後の方は病気が進んで文字がうまく書けなくて、読みづらいところもあるかもしれないけれど」
そこには、翔太の将来を守るためにシミュレーションされたシナリオが、細かく記されている。シゲルはパソコンなら容易に打てたものを、手書きでノートに綴めていた。彼の揺るぎない意思が感じられる。
「いずれ座っていることもできなくなるだろうが、これなら布団の中でも書ける。これからもまだまだ書き続けるつもりだ」
その時はまだ10冊だったノートを、私と大樹に見せてくれたのだ。
「間違いない。この達筆な文字は、父さんの字だ」
ノートを持つ手を震わせる正。先が読めないらしい。
「正は子供の頃から、何でも自分の手柄にするところがあったわ。草むしりや掃除をするのはほとんど大樹なのに、自分が多くやったからお小遣いを多くくれってね」
「父さんや母さんの誕生日プレゼントも割り勘なのに、自分が多く出したって報告してたしな。ひどい時は1円も払わないで、後で返すって言って返さないし」
「そんな子供の頃のことだろ」
「随分前に辞めた会社も、後輩の契約を自分の手柄にして、注意された上司と喧嘩したんでしょ。知ってるわ。だからお父さんは、正をそういう風に想像できたんだと思う」
正は親戚に紹介してもらった会社を、3ヶ月で退職していた。後から事情を聞き、私とシゲルは本当に申し訳ない思いをしたものだ。正は「運が悪かった」と言い訳したが、他に辞めた会社も同様なのだろう。
「いつもそう。自分がいかに楽をしていい思いをするか、そればかり。そっくりな由利さんと結婚して、お互いさらに拍車がかかった。そういう意味では、二人お似合いよ」
正はわずかに口を開いたものの、その先は続かない。
「お父さんは、翔太が12歳になるまで、せめて大学を卒業する日まで、私と大樹に見守ってほしいと託した。つまり、あなたたちから守れということよ」
シゲルはこう話した。
「あの両親は、決して翔太を幸せにはしてくれない。俺の命もあとわずか。洋子もそう長くは生きられるわけじゃないし、大樹には大樹の人生がある。だから翔太には、一人でも生きていける力をつけて欲しい」
私も翔太に、生き抜く術と、少し勉強の合間に料理や掃除、洗濯、節約術まで、一人で暮らしていけるスキルを伝授したのだ。シゲルは社会に出れば色々な人間がいると説き、勉強だけでなく生き抜く術も教えた。人の表裏の見抜き方、対応の仕方。小学生の子にはまだ早い内容だったが、翔太は真剣に聞いていたという。そして、もう少し大人になったら、書の本を読むよう勧めた。翔太が純粋な心のまま大人になることが、私たちには気がかりだったのだ。シゲルは、もしこの先、正と由利が心を改めれば、私と大樹に判断を委ねると言った。しかし、そんな日が来ないことは、誰もが分かっていた。
「翔太は感がいいから、両親の嘘にいつか気づくだろう。その時は、どうか支えてあげてほしい。この子が一人前になった時、両親を選ぶと言うなら、それも自由だ。ただ、そこまで終えたら、洋子と大樹は正たちと縁を切れ」
シゲルのその言葉に、私たちは深く頷いた。
「翔太が一人前になる前に、絶縁することになっちゃったけど、私たちが守り続けてきたお父さんとの約束」
正も由利も、拳を握り俯くばかり。翔太を医者にしてしまえばと浮かれていた彼らだが、実は何もかも見抜かれていたのだから、当然の反応かもしれない。私はテーブルの上から「ナンバーワン」と書かれた一冊のノートを手に取る。
「このノートには、本来なら親であるあなたたちがすべきことが書かれているわ。今更もう遅いけど、本物の愛情がどんなものか、読んでみるといい」
翔太は細いところがあるため、柔らかいものや食が進むものを用意して欲しい。喉が弱いから、飴と蜂蜜は常備。パソコンや読書に夢中になりすぎるので、視力を悪くしないよう注意すること。困り事がある時、やたら明るく振る舞う癖があるから、支えてやって欲しい。遠慮して言い出せないかもしれないので、今後必要なものを全て書いておく。好きなもの、苦手なもの、友達の名前。他にも、翔太についてびっしりと書かれていた。
「そんなこと、私だって全部知ってるわ」
私は初めて読んだ時、そのノートを抱きしめて泣いた。正と由利は最初のページを広げるが、めくることができない。父親が命がけで書いた文字を、ただ凝視するばかりだ。すると翔太が、そのノートを返せと言わんばかりに取り上げる。読み進める彼の目に、涙が溢れた。大樹は翔太にゆっくり読ませてやりたいと思ったのだろう。肩にそっと手を置き、奥のテーブルに行くよう目で促した。そして大樹自身も、シゲルから託されていたことを初めて口にする。
「俺にも父さんは言ったんだ。美沙と結婚したら、この家をすぐに出て、後のことは母さんに任せろって。でも俺は、翔太をそばで見守ることを選んだ。美沙もそれに同意してくれた」
美沙は医師としてはまだ半人前だから、結婚はもっと先で構わないと言ってくれたそうだ。さらに、仕事の傍らで翔太の進路について大樹と一緒に考え、医学の世界の現実を教え、勉強の指導もしてくれた。家庭教師も、実は彼女の紹介だったのだ。
「病院で兄貴たちの態度を見て、美沙は言ってたよ。お父さんの気持ちがよくわかるって。あの時、美沙が静かに退出したのは、怒りで自分を抑えきれる自信がなかったからだという」
「美沙にもあと1年待ってもらうつもりだったけど、絶縁してくれたおかげで、すぐにでも結婚できそうだ。感謝するよ」
長男夫婦は複雑な表情を浮かべる。私も、この二人に伝えておくことがある。
「そう。あなたたちには関係ないけど、お父さんの遺言はまだあったのよ」
「え?」
「それは俺のわがままに付き合わせて申し訳ないが、全てが終わったら、新しい家を買って、最新の家具家電を揃えて、のんびり暮らしてくれってね」
由利が震える声で口を開いた。
「あの、ということは、お母さん、お金あるんですか?」
「ええ、翔太の学費以外にも、お父さんがきちんと用意してくれたわ。面倒も片付いたし、優雅に暮らすつもりよ」
正と由利はぱっと顔を輝かせ、手のひらを返したようなことを言い出した。
「だったら、これからは私たちがお母さんの介護をします」
「あら、自分のお母さんは要介護さんのお母さんは、放っておくの?」
「それは、えっと……」
途端に由利はしどろもどろになる。
「だったら、俺が母さんの介護をするよ。いや、是非させてくれ」
「絶縁するほど介護が嫌いな人に、してもらいたくないわ」
「頼む。もう一度チャンスをくれ、母さん」
私はゆっくりと首を振った。
「チャンスなら、もうあげたわよ。病室であなたたちに聞いたでしょ? 縁を切って本当に困らないかって。あの時にもう答えは出ていたのよ」
いや、チャンスならもっと前からいくらでもあったのだ。翔太が生まれた時から23年間、長男夫婦は変わることができたはず。けれど、彼らはずっと見て見ぬふりをしてきた。もう、この二人に何を言われても響かない。私の気持ちが伝わったのだろう。正は最後の手段とばかりに、翔太にすがりついた。
「翔太、お前からもおばあちゃんに何か言ってくれ。翔太の言うことなら、おばあちゃんも聞いてくれるわ」
この後に及んで、反省もなく自分たちの保身ばかり。
「おじいちゃんのあのノートを見ても、何も思わないんだ。人の心もないんだね。まあ、そうか。おじいちゃんの通夜で涙も流さないんだから」
翔太の言う通りだ。この二人は血の通った人間ではない。分かりきってはいたが、人はそう簡単には変わらないようだ。ただ、今の長男夫婦はまさに崖っぷち。なんとか打開策を見つけなければならない状況だ。
「母さん、謝る。これまでのことは全部謝る。俺たちが何もかも悪い。どれだけ責められても構わない。心を入れ替えるから、どうか助けてくれ。お願いします」
「私たちは間違っていました。反省して生まれ変わります。だから、少しでもいいんです。助けてください」
「俺たちは本気だ。明日も来る。許してくれるまで、毎日でも来るから」
「私たち、絶対に諦めません」
よほど切羽詰まっているのだろう。二人とも真剣そのものだ。
「どうぞご自由に。明日も明後日も、何回でも来ればいいわ。私たちは今日、引っ越すけど」
「え?」
「あ、そうそう。家は傷つけないでね。来月には新しい持ち主に明け渡すから。引っ越し道具は、近いうち引き取り業者が来るはずよ」
正と由利の表情が、焦りに変わる。
「はあ? 家を売ったんですか? 俺たちに黙って、勝手に」
「私が私の名義の家を売って、何が悪いのかしら?」
正は口を開くが、言葉は出てこなかった。
「母さんが暮らしやすいように、バリアフリーのいい家が見つかったんだ。家も家具も家電も、全部新品で揃えた。お嫁さんを迎えるんだもの。やっぱり新しくて綺麗な家がいいわよね」
新居では、美沙さんも同居することが決まっている。二人はこの後、入籍する予定だ。シゲルからは「家具も家電も最新式の一番いいものを買え」と言われていた。だが、元々節約体質のため迷ってしまい、結局最初に買ったのは、新しい立派な仏壇だった。
「一体いつから、つから準備してたんだ?」
「お父さんから遺言をもらった日から計画してたけど、行動に移したのは、あなたたちが縁を切るって言った。まさにその日からよ。私、仕事は早いって言ったでしょ」
まさか家を売り、今日引っ越すとは思わず、慌てふためく長男夫婦。家の明け渡しにはまだ1ヶ月の猶予があった。友人から正の会社の社長が夜逃げすることを聞いていたので、そろそろ長男夫婦がここへ乗り込んでくるだろうとは確信していた。ただ、さっさと決着をつけたかった私は、翔太の学費を打ち切るとメッセージを送って、二人をおびき寄せたのだ。翔太には、今日起こるであろう全てを伝えてあった。実は、長男夫婦が絶縁を突きつけたあの日、彼の方から打ち明けられたのだ。
「今までおばあちゃんが僕のためにお金を払ってくれていたことを、ずっと知ってた。なのに黙っててごめんなさい」
さらに大樹も、予想外の告白をする。
「俺が翔太に口止めしたんだ。これまで通り、知らないふりを続けろって」
そして二人は、これまでの経緯を話してくれた。翔太が高校生の時に事実を知り、相談を受けた大樹が助言をしたことを。
「それから、あの人たちがひどいことを言ってごめんなさい。絶縁って言ってるのを、廊下で聞いたんだ」
両親のことを「あの人たち」と呼んだ翔太の心中は、きっと複雑だろう。
「それは翔太が謝ることじゃないのよ」
「僕も悪い。おばあちゃんとおじさんに、ずっと甘えてたんだから。ただ、お願いします。どうか、僕とは縁を切らないで」
涙ながらに懇願され、私も大樹も泣いていた。
「お前、頭いいくせに、そんな簡単なことも分からないのか? 俺たちはみんな、翔太が大好きだ」
「そうよ。翔太は私にとって、たった一人の大切な孫。それは今までも、これからもずっと変わらないわ。これから話すことを、よく聞いてちょうだい」
私はシゲルの遺言と、長男夫婦と決着をつけ、引っ越しをして新生活を始めるという計画を、全て伝える。
「これまで通り学費のサポートはするし、あとは翔太の好きに決めていいわ」
「僕も、おばあちゃんたちと暮らしたい。アルバイトもするし、奨学金も申し込むよ。僕の家族は、おばあちゃんとおじさんしかいないんだ。だから、どうか」
断る理由など、どこにもない。
「私は翔太に助けられて、今こうして生きている。あなたは命の恩人よ。だから、お感じることなんか何もない」
「おばあちゃん。それに、お金はおじいちゃんが残してくれたもの。アルバイトや奨学金なんて言われたら、夢枕におじいちゃんが出てきて、私が怒られちゃうわ」
「俺はそうだな。もし美沙と夫婦喧嘩をしたら、必ず俺の味方をするって約束してくれ」
大樹の言葉に、私と翔太は泣きながら笑った。いつも場を明るくし、人の気持ちに寄り添える大樹にも感謝している。シゲルに先立たれ、私一人ではここまで来れなかったかもしれない。その後、仕事が終わった美沙さんも呼び、私たちは新しい生活の前祝いにお茶で乾杯をした。
翔太は私たちの目の前で、絶縁を叩きつけたいと言っていた。その思いを見届けることができた。今、目の前の二人と決着をつけるだけだ。私は正と由利に伝える。
「新生活の用意でお金を使い果たしちゃったから、もう何も残ってないわ。明日からまた節約しなくちゃ」
大樹も私に続く。
「お世辞なよ。新居の購入は、俺と美沙も半分金を出してる。それと、新しい家の名義は大樹だから。私に何かあっても、あなたたちが遺産として受け取ることはないわ」
長男夫婦は、私にお金は残っていないと知ると、翔太に矛先を向ける。すぐには無理でも、今後金のなる木だと諦めきれないのだろう。
「翔太、お前は残れ。翔太だけは渡さない。この子は私たちのものよ」
翔太たちの所有物でもなければ、自尊心を満たして金を稼ぐ道具でもない。私の後に続いて、翔太は両親をまっすぐに見つめ、こう言った。
「僕も今日、宣言する。あなたたちとは、縁を切る」
由利は悲鳴のような声をあげる。
「翔太! 誰があんたを産んでやったと思ってるの?」
「お前の親は、正と由利、俺たちなんだぞ」
「生物学上はね。ただ、僕もう成人してるから、分析って制度を使って、戸籍上もあなたたちと別れる。今後、僕を自由にできると思わない方がいい」
二人にそんな難しい制度が理解できるわけもなく、子供に捨てられるという恐怖に支配されていた。だが、簡単には諦めない。
「お前が何と言おうと、俺たちの血の繋がりを断つことなんてできないんだ。親がこんなに困ってるんだから、お前には面倒を見る義務がある」
「親を捨てるなんて、人間のすることじゃないわ」
一体どの口が言うのだろう。真っ先に介護から逃げ出した人間が。私が言う前に、翔太が口を開く。
「元気な体があるんだから、働けばいい。世の中には、病気や怪我で働きたくても働けない人がたくさんいる。僕はそういう人の役に立つために、これまで頑張ってきた。あなたたちのためじゃない」
「綺麗事を言うな。ちょっと医大に入ったから、偉そうに」
「だったら、お前が医者になったら、毎日でも病院に行ってやる。片っ端から探し出してやるからな。病院で親を捨てた白々しい息子って噂流されたら、あんただって困るでしょ。あんまり親を舐めるんじゃないわよ」
泣き落としの次は脅しだ。それほど今の二人は追い詰められているのだろう。
「仕方ない。お父さんのもう一つの遺言を伝えるわ。翔太にも言ってないし。できれば、こんなことはしたくなかったけど」
長男夫婦は急に真顔になり、私に向き直る。
「あなたたちが将来、翔太の邪魔をするようなら、接近禁止命令を出すよう言われているの。警察にいるお父さんの古い友人には話を通してあるから、すぐにでも受理されるわ」
「警察?」
「あなたたちは幼い翔太に育児放棄をしてきた。これは立派な犯罪。証拠はお父さんが全て揃えてあるわ。その上で、今度は息子を脅している。大樹、録音したわね」
大樹は指でオッケーのサインを出す。シゲルはこんな日が来るかもしれないと危惧して、翔太が0歳の時からの写真と日記を残していた。過去の罪は問えない可能性もあるが、長男夫婦がつきまとい、金の無心をするようなら、データは大いに役に立つだろうと。さらに、シゲルの友人は、自分が体感しても信頼のおける部下に共有し、いつでも対応すると約束してくれていた。
「僕も全く同じことを考えてた。あなたたちが現れたら、その足で警察に届けを出すつもりでいたんだ」
「ああ、嘘でしょ?」
翔太は通夜の日、ある男性から声をかけられたという。その人こそ、警察庁の上層部にいるシゲルの友人だった。
「私は君のおじいちゃんの親友だ。翔太君に困ることがあれば、力を貸して欲しいと頼まれている。今はおばあちゃんとおじさんがいるから安心だけど、何かあればいつでも相談に乗るから、覚えておいてほしい」
そう言って渡された名刺には「警察庁」とあり、携帯番号も書かれていた。翌日の葬儀の日から、翔太は記憶を辿って、幼い頃からの育児放棄と、今日までの両親について、匿名で記していった。由利の母親と待ち合わせしたあの日は、子供の頃のボロボロの服を証拠として提出するために、取りに戻っていたのだ。
「やっぱり僕は、おじいちゃんにそっくりだ。やってることがまるで同じだったよ」
照れたように頭をかく姿は、シゲルにそっくりだった。おそらく翔太は、自分の両親が私や大樹に迷惑をかけることがあれば、切り札にするつもりだったのだと思う。
「今後、あなたたちが翔太に近づけば、即逮捕されることを忘れないで」
正と由利の顔からは、血の気が引いていく。立っているのもやっとといった様子。この二人は私たちには偉そうだが、自分より強いものには圧倒的に弱いのだ。特に権力には逆らうことは絶対にありえない。シゲルはそのことをよく知っていた。
「あなたたちが招いた結果だから、仕方ないわね」
そろそろ出発の時間だ。大樹がすっと立ち上がり、車の鍵を掴むと、そのまま玄関へと向かう。私は大樹に支えられ、杖をつきながら後に続いた。長男夫婦が慌てて後ろから追いすがってくる。
「お、お母さん。えっと、翔太……」
これ以上私と翔太を怒らせてはいけないと感じているのか、控えめに声をかけてきた。しかし、その先の適切な言葉が見つからない様子だ。こちらからは、彼らに話すことなど何もない。そのまま振り返ることなく、玄関のドアを閉めた。……だことを思い出し、振り返って二人に声をかける。
「そう、そう。あなたたちに大切なものを渡すのを忘れてたわ」
長男夫婦は、最後に何かもらえるものがあるのかと思ったのだろう。その顔には不安と、わずかばかりの期待の表情が見て取れた。私がバッグから取り出した紙が、ひらひらとゆっくり下に落ちていく。正と由利はその紙を慌てて拾い、確認すると、絶望の表情に変わった。それは昔、二人に書かせた借用書と、翔太にこれまで使ったお金の明細のコピーだ。
「知ってるかしら? 返す気もないのにお金を借りるのは、詐欺で訴えられるのよ」
二人は返す言葉もないようで、呆然とその場に立ち尽くしていた。私と翔太は車に乗り込み、大樹に声をかける。
「さあ、新しい我が家に行きましょうか」
大樹がアクセルを踏み込んだ。
「待ってくれ、お母さん」
正と由利は走って追いかけてくるが、大樹はスピードを上げ、二人は次第に離されていく。数百メートル走ったところで、正が膝から崩れ落ち、由利もアスファルトに倒れ込んでいた。車内では、翔太が私の手を握る。
「ありがとう、翔太。おじいちゃんが見守ってくれてるわ」
私もシゲルとの約束を、最後まで守り抜くことができた。長く辛い道のりだったが、やっと全てが報われる日が来たのだ。
あれから半年、親戚から長男夫婦のその後を聞いた。正は、最終職もままならず、日雇いの引っ越し作業の仕事で、なんとか食いついでいるようだ。20代後半での肉体労働は、想像以上に過酷だったらしい。若い社員からはこき使われ、ベテランの先輩には平気で怒鳴られる。それでも、以前のようにプライドだけで仕事を放り出すことはできない。やめれば、たちまち明日の食事に困るからだ。由利は、認知症が進行する母親の介護で疲弊し切っていた。外に出ようにも、目を離した隙に母親がまた火事を起こさないかと心配で、家を開けることすらできない。夜中に何度も叩き起こされ、徘徊する母親を追いかけ、ろくに眠れない日々。行政にも頼ってみたという。ところが、夫婦揃って健康体で、収入も完全にゼロというわけではないため、生活保護の申請はあっさり却下されたそうだ。代わりに、格安住宅の入居の斡旋と、週に数回の訪問介護ヘルパーを手配してもらえたのは、せめてもの救いだろう。ただし、火災騒ぎで生じたアパートの賠償金は、それとは別の話である。総額800万円。これを月10万円ずつ、20年かけての分割払いで返済することが、二人の肩に重くのしかかっていた。
さらに悪いことは続く。由利が買い物に出かけたわずか数分の間に、母親はふらりと玄関を出て、近所を徘徊。として歩道橋の階段から転落してしまったのだ。幸い命に別状はなかったものの、骨折と頭部の打撲で、要介護度がさらに上がり、一人では抱えきれなくなっていく。正は藁にもすがる思いで、これまで疎遠だった親戚中に頭を下げて回った。だが、誰一人として助けの手を差し伸べてはくれない。それもそのはず。私が親戚一同に、長男夫婦と縁を切った経緯を伝えていたからだ。シゲルが病床にあった時、正が一度も見舞いに来なかったこと、通夜の席でヘラヘラと営業に勤しんでいた姿を、誰も忘れてはいなかった。二人にはかつての美男美女の面影はなく、60代に見えるほどやつれていた。夫婦揃ってボロボロの服を着て、満足な食事もできないとこぼしたそうだ。それこそが、幼い翔太に長年してきた仕打ちと、全く同じものだった。因果が巡り巡って、自分たち自身に帰ってきたに過ぎない。二人は出口の見えない日々を生きていくことになるだろう。
翔太は見事に国家試験に一発で合格し、晴れて研修医としての一歩を踏み出した。大樹は予備校で教え子を次々と難関大学に送り込み、美沙は一人前の医師として日々の仕事に励んでいる。それぞれが多忙のため、できる限り朝食は4人で取ろうと決めた。新しい家では、朝から笑い声が響き渡っている。こんな日を迎えられたのは、全てシゲルのおかげだ。翔太も朝起きると、真っ先に仏壇に手を合わせ、感謝を伝えることを欠かさない。庭にはシゲルが大好きだった桜の木を一本植えた。毎年春になると、見事な花を咲かせるだろう。私は仏壇に語りかける。
「お父さん、約束は果たしたわ」



