同窓会のトイレで、40年ぶりに会った旧友の顔色が明らかにおかしかった。額には汗、手は震え、頬はこけていた。医者である私の目には、それがただの飲みすぎに見えなかった。「お前には心配されたくないな」と彼は笑ったが、その目は笑っていなかった。翌日、彼の妻から電話がかかってきた。「主人が検査を拒否して、もう誰の言うことも聞かなくて…」私は彼に電話をかけた。すると彼は言った。「お前のところで何がわかる…

同窓会のトイレで、40年ぶりに会った旧友の顔色が明らかにおかしかった。額には汗、手は震え、頬はこけていた。医者である私の目には、それがただの飲みすぎに見えなかった。「お前には心配されたくないな」と彼は笑ったが、その目は笑っていなかった。翌日、彼の妻から電話がかかってきた。「主人が検査を拒否して、もう誰の言うことも聞かなくて…」私は彼に電話をかけた。すると彼は言った。「お前のところで何がわかる...

無影灯の白い光が患者を照らし、モニターの電子音が規則正しく響く。俺はメスを置き、若い医師に視線を送った。

「水野先生、ここから先は君がやってくれ。」

「え、いいんですか?私が?」

「腕は確かだ。やれ。」

水野は一瞬黙ったが、すぐに頷いて鉗子を握り直した。俺は一歩下がって彼女の手元を見守る。針の運びがわずかに早い。力が指先に出ている。

「力むな。はげない。」

「はい。」

俺の名前は黒崎光一。59歳。この地方総合病院で外科をしている。あと半年で定年だ。若い頃は俺もこの手術台の上で何度も汗をかいた。今は若い医師に道を譲る側になっている。それが寂しいかと問われれば、答えに迷う。ただ、水野のような後輩が育っていく姿を見るのは悪くなかった。

手術が終わり、俺たちは手術室を出た。廊下の窓から11月の薄い日が差し込んでいる。水野が術衣の袖で額を拭きながら隣に並んだ。

「先生、今日もありがとうございました。」

「礼を言うほどのことはしていない。君がやったんだ。」

「でも、先生がそばにいてくださると安心します。」

「そう思ってもらえるうちが花だな。」

水野が小さく笑った。俺も釣られて口元を緩める。ナースステーションの方から看護師が小走りに近づいてきた。

「黒崎先生、委員長がお呼びです。少しお時間いただきたいと。」

俺は水野に頷いて委員長室へ向かった。

瀬戸委員長は窓辺に立って外の銀杏並木を見ていた。俺がノックして入ると振り返って笑った。65歳の白髪混じりの穏やかな顔だ。

「黒崎君、悪いね。急に呼び出して。」

「いえ、何かありましたか?」

「まあ、座ってくれ。」

俺は大きなソファに腰を下ろした。瀬戸委員長は向かいに座り、湯呑みを差し出した。その手がわずかに重そうに見えた。

「来月、難しい症例が1件入る。患者さんは62歳。合併症もある。」

「そうですか。」

「執刀は君に頼みたい。」

俺は湯呑みを持ち上げかけた手を止めた。

「委員長、私はあと半年で定年です。その手術は若手に任せた方が…」

「水野君にということかね。彼女は優秀だ。経験を積むにはいい症例だと思う。」

「正直に言うと、水野君ではまだ厳しい。私もそう判断した。君の最後の仕事として、この手術を任せたい。それが私の頼みだ。」

俺はしばらく言葉を返せなかった。窓の外で銀杏の葉が1枚、ゆっくりと落ちていく。若い頃なら迷わず引き受けた仕事だ。今の俺は自分の腕に対して昔ほどの自信を持てずにいる。

「少し考えさせてください。」

「ああ、構わない。返事は来週でいい。」

委員長室を出て、俺は廊下を歩いた。窓ガラスに映った自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。

夜、俺が家に帰ると台所から味噌汁の匂いがした。妻のさつきが振り返って微笑む。56歳。30年以上連れ添ってきた相棒だ。

「お帰りなさい。今日は早かったのね。」

「ああ、手術が1件で済んだ。」

「ご飯、すぐ用意するわね。」

食卓に並んだのは煮魚とほうれん草のおひたし、そして味噌汁。俺は箸を取ってしばらく無言で食べた。さつきは何も聞かず、自分の茶碗を傾けている。長年連れ添うと、こちらの様子で察してしまうのだろう。

「何かあったの?」

「委員長から難しい手術を頼まれた。」

「あなたが執刀するの?」

「まだ返事はしていない。」

さつきは箸を置いて俺を見た。

「あなた、本当はやりたいんでしょ?」

「いや、若い者に譲るべきだと思ってる。」

「そう言いながら、ご飯食べる手が止まってる。」

俺は苦笑した。この人には何十年経っても勝てない。

「やればいいじゃない。あなた、ずっと医者として生きてきたんだから。失敗したら最後の仕事が傷になる。成功すればそれが花道になるわ。」

茶碗を持ち直して、俺は味噌汁を口に運んだ。さつきの作る味噌汁は結婚した頃から味が変わらない。そのことに、なぜか少し救われる気がした。

その時、家の電話が鳴った。さつきが立ち上がって受話器を取る。

「はい、黒崎です。あら、まあ、お久しぶりです。少々お待ちください。」

受話器を抑えて、さつきが振り返った。

「あなた、立花さんから同窓会のお知らせですって。」

「立花誠か。」

「ええ、東京の…」

俺は箸を置いて受話器を受け取った。立花誠の声は40年経っても変わらなかった。高校時代から人を上から見るような響きがあった。

「黒崎、久しぶりだな。元気にやってるか?」

「ああ、おかげ様で。」

「今度、東京で同窓会をやる。お前にも来て欲しくてな。日程は来月の第3土曜だ。場所は丸の内のホテル。会費は俺が持つ。」

俺は手帳をめくった。ちょうど瀬戸委員長から頼まれた手術の前に当たる。

「行けると思う。」

「そりゃよかった。お前、まだあの田舎の病院にいるんだろう。相変わらずだな。いや、立派なもんだよ。地元に骨を埋める覚悟ってやつか。」

電話越しに立花の笑い声が聞こえた。俺は何も言わず受話器を持ち替えた。

「俺はなあ、今医療機器の会社をやってる。社員も300人を超えた。お前の病院にもうちの機器入ってるはずだぞ。」

「そうか。」

「とにかく来月楽しみにしてるよ。久しぶりに昔話でもしようや。」

電話が切れた。受話器を戻して、俺は短く息を吐いた。さつきが湯呑みにお茶を注ぎながらこちらを見ている。

「立花さん、お変わりないみたいね。」

「ああ、相変わらずだ。」

「あの人、昔からあなたのことライバル視してたものね。」

「ライバルというより…まあいい。」

40年ぶりに会う同級生たちの顔を、俺は思い浮かべようとした。誰がどんな顔になっているのか、もうはっきりとは思い出せなかった。

12月の朝、俺は東京行きの新幹線に乗っていた。膝の上に置いた鞄の中には、紺のスーツと瀬戸委員長から預かった症例の資料が入っている。

結局、俺はあの手術の返事をまだしていなかった。委員長は来週でいいと言ったが、その来週はとっくに過ぎている。水野の顔が浮かんだ。昨日、回診の帰りに彼女は俺の白衣の袖を引いた。

「先生、来月の症例、私も入れていただけませんか?」

「執刀のことか?」

「いえ、第2助手で構いません。先生の手元を近くで見たいんです。」

その目に迷いはなかった。俺は「考えておく」と答えただけで、はっきりとしたことは言えなかった。

東京駅に着くと、人の波に押されるようにホームを歩いた。俺はタクシーを拾って丸の内のホテルへ向かった。

会場の入り口に立った時、奥からよく通る声が聞こえてきた。

「おお、黒崎来たか。」

立花誠は上等そうな紺のスーツを着て、両手を広げて近づいてきた。顔は記憶より丸くなり、髪には白いものが混じっている。ただ、目元に人を見下すような感じは高校の頃のままだった。

「いや、久しぶりだな。何年ぶりだ?40年か?」

「ああ、それくらいになる。」

「変わらんな、お前は。地味なところが。」

立花は俺の肩を叩いて笑った。周りの同級生たちがこちらを振り返る。見覚えのある顔と知らない顔が混じっていた。みんなそれぞれの40年を抱えてここに集まっている。

円卓に着くと料理が運ばれてきた。立花は俺の隣に座ってグラスを傾けながら、自分の会社の話を始めた。社員数、年商、取引先。聞いてもいないことを次から次へと話していく。

「黒崎、お前の病院にもうちのCT入ってるだろう。あれ、うちの主力機種なんだ。1台4000万する。」

向かいに座った同級生が感心したように頷いている。俺は静かに箸を動かした。

「ところで黒崎、お前まだあの田舎で外科やってるのか?」

「ああ、変わらずだ。」

「もう59だぞ。そろそろ辞めたらどうだ?地方の病院なんて、どうせ大した給料もないんだろう。」

円卓の何人かが笑った。悪気のない笑いだったが、耳の奥に残った。俺はグラスのビールを一口飲んだ。

「症例の数は患者にとっては関係ない。」

「そりゃそうだが、医者としての腕の見せどころってのはやっぱり都会だろう。お前、あの頃は俺より成績良かったのにな。もったいない。」

立花は笑いながらグラスを掲げた。俺は何も返さず、料理に箸を伸ばした。

宴も中盤に差しかかった頃、俺は席を立ってトイレに向かった。廊下は静かで、宴会場の喧騒が遠くなる。手を洗っていると、隣の個室から人が出てきた。

立花誠だった。顔色がさっき見た時よりも青い。額に汗が浮いている。鏡越しに目が合った瞬間、立花はとっさに作り笑いを浮かべた。

「なんだ、お前か。飲みすぎたかな?」

「立花、顔色が悪いぞ。」

「平気だ。ちょっと胃がもたれただけだ。」

立花は洗面台に手をついて深く息を吐いた。その手がわずかに震えている。俺は医者の目で相手の様子を見た。頬がこけている。目が黄ばんでいるようにも見える。

「立花、最近体調はどうだ?」

「どうって、普通だよ。」

「病院は行ってるか?」

「行く暇なんてあるか。会社が回らなくなる。」

立花は笑おうとして軽く咳き込んだ。胸を押さえる仕草が自然ではなかった。

俺は黙ってハンカチを差し出した。立花は受け取らず、自分のポケットからハンカチを出して額を拭いた。

「お前にだけは心配されたくないな。」

「そうか。悪いが、先に席に戻る。」

立花は背を向けて廊下に出ていった。俺は鏡の中の自分を見た。医者として見逃していい状態ではない。ただ、本人がその気にならなければ、こちらから踏み込むのは難しい。

席に戻ると、立花は何事もなかったようにまた自慢話を始めていた。俺は黙ってそれを見ていた。

宴会がお開きになり、俺はホテルのロビーで上着を着ていた。ポケットの携帯が震えた。知らない番号だった。

「もしもし。」

「あの、黒崎先生でいらっしゃいますか?立花の妻のまゆと申します。」

「ああ、奥さん、ご無沙汰しています。」

「突然申し訳ございません。立花から先生の携帯を伺ったものですから。」

声が少し震えていた。俺はロビーの隅の椅子に腰を下ろした。

「実は主人のことでご相談したくて。半年ほど前から食欲がなくて、体重も随分落ちているんです。先月、病院で検査を受けるように勧めたんですが、忙しいの一点張りで…」

「今日、本人と会いました。顔色が良くなかった。」

「やっぱりそうですよね。先生からも一度検査を受けるように言っていただけませんでしょうか?私の言うことはもう聞いてくれなくて。」

俺は窓の外を見た。丸の内のビルの明かりが夜空に滲んでいる。40年ぶりに会った同級生は、張り詰めながら病を抱えて走り続けていた。

「奥さん、でも私の方から立花に電話します。検査だけは必ず受けさせます。」

「ありがとうございます。先生にしか頼めなくて。」

電話を切って、俺はしばらくロビーの椅子に座っていた。

帰りの新幹線の中で、俺は委員長から預かった例の資料を開いた。中年男性、合併症あり。画像を見ながら頭の中で手術の手順を組み立てていく。癒着の処理、血管の走行、再建の段取り。40年積み重ねてきたものが指先に蘇ってくる感覚があった。

携帯を取り出して、瀬戸委員長にメールを打った。

「来月の症例、執刀お引き受けします。水野先生を第2助手にお願いしたい。」

送信ボタンを押すと、肩からふっと力が抜けた。窓の外はもう真っ暗だった。時々、遠くの街の明かりが点々と流れていく。鞄の中で携帯が震えた。委員長からの返信だった。

「待っていた。よろしく頼む。」

それだけの短い文だった。俺は携帯を閉じて目を閉じた。40年ぶりの東京は、思っていたよりも軽くはなかった。

東京から戻った翌日、俺は病院の外来局で立花誠の携帯に電話をかけた。昼休みの時間を選んだ。コール音が思ったよりも長く続いた。

「黒崎か。なんだ、わざわざ。」

「昨日のことだ。検査を受けてほしい。」

「またその話か。平気だと言っただろう。」

「平気な顔じゃなかった。奥さんからも電話をもらった。」

電話の向こうで短い沈黙があった。受話器越しに立花がため息をつくのがわかる。

「あいつ、余計なことを。」

「立花、医者として言う。来週、こっちの病院に来い。検査はうちで全部やる。」

「東京にはいくらでも病院がある。」

「あるからこそ、お前は行かないんだろう。」

また沈黙が落ちた。俺は窓の外の銀杏並木を見ていた。葉はもうほとんど落ちて、枝だけが空に伸びている。

「お前のところで何がわかる?」

「うちのCT、お前の会社の機器だ。1台4000万の、よく映るぞ。」

電話の向こうで小さく笑う声がした。40年前、放課後の教室で時々聞いた、あの頃のままの笑い方だった。

「わかった。行く。」

「待ってる。」

電話を切って、俺は椅子の背に凭れた。天井の蛍光灯が白く瞬いている。

午後、俺は手術室の隣の小部屋で来月の症例の打ち合わせをしていた。水野が向かいに座って、画像を食い入るように見ている。俺は鉛筆で手術の順序を紙に書き込んでいく。

「ここから動脈を露出する。癒着が強いから慎重に。」

「はい。」

「焦って引っ張ると出血する。出血したら視野が消える。」

「先生。」

「なんだ?」

水野は鉛筆を置いて姿勢を正した。

「私、第2助手で本当にいいんでしょうか?」

「どういう意味だ?」

「委員長は最初、私を執刀で考えていたと聞きました。先生が引き受けてくださったから、私は助手に回ったんだと。」

「誰がそんなことを?」

「看護師長です。」

俺は鉛筆を置いて椅子に座り直した。この病院は狭い。誰かが何かを話せば、半日で全員が知ることになる。

「水野先生、執刀は俺がやる。ただ、君には全部見ていてほしい。」

「全部ですか?」

「俺の手の動き、判断、迷いも含めて全部だ。来年からは君がこの病院の外科を背負う。」

水野は俯いた。膝の上で両手を握りしめている。俺は窓の外を見ながら続けた。

「俺もな、若い頃先輩の手術を何百と見てきた。その時に見たものが、今の俺の手の中にある。君にもそういうものを残したい。」

「はい。」

「だから目をそらすな。最後まで見ていろ。」

「わかりました。」

顔を上げた水野の目は少し赤かった。

翌週、立花誠は妻のまゆに付き添われて俺の病院にやってきた。ロビーに立っている立花は、東京で会った時よりもさらに痩せて見えた。まゆが頭を下げる。

「黒崎先生、本当にありがとうございます。」

「いえ、まずは検査をしましょう。」

血液検査、CT、MRI。半日かけて一通り検査を済ませた。夕方、画像が出揃った頃、俺は読影室で放射線科の医師と一緒にモニターを見ていた。

脳に影があった。大きさ、辺縁、周囲の血管との関係。何度見ても同じ答えにたどり着く。俺は深く息を吐いて診察室に戻った。

立花は椅子に座って貧乏ゆすりをしていた。まゆが隣でハンカチを握っている。

「立花、奥さん、今日の検査結果をお話しします。」

「はっきり言ってくれ。」

「脳に腫瘍がある。良性か悪性かは組織を取らないと確定できない。ただ、画像の初見からは悪性の可能性が高い。」

まゆが小さく息を飲んだ。立花はしばらく動かなかった。やがてゆっくりと顔を上げた。

「手術で取れるのか?」

「位置的には取れる。ただ、難しい手術になる。脳腫瘍摘出という。」

「お前、できるのか?」

「俺の専門だ。」

立花は口元を歪めるように笑った。

「いや、皮肉なもんだな。田舎の病院の腕に頼ることになるとは。」

「東京の大きな病院を紹介してもいい?」

「いや。」

立花は首を振った。まゆの方をちらりと見て、また俺を見た。

「お前に頼みたい。」

俺は頷いた。それ以上の言葉は必要なかった。

年が明けて1月の半ば、来月予定だった委員長からの症例と立花の手術が続いて組まれた。最初は委員長から預かった患者の手術だ。

手術は8時間に及んだ。癒着は予想以上に強く、動脈の周囲で何度も針を縫い直した。水野は第2助手として俺の斜め後ろに立ち続けた。俺がメスを入れるたびに、彼女の視線がこちらの指先を追っているのがわかった。最後の縫合が終わった時、麻酔科医が小さく頷いた。バイタルは安定している。

俺は深く息を吐いて、術衣の袖で額を拭った。手術室を出た廊下で、水野が壁に手をついていた。立ったまま8時間、目をそらさなかったのだろう。肩が小さく震えている。水野は絞り出すように言った。

「先生、私、今日のこと一生忘れません。」

「大げさだな。」

「あの動脈のところ、私だったら絶対に出血させていました。先生の指は別の生き物みたいでした。」

俺は何も言わず、彼女の肩を一度だけ叩いた。

2週間後、立花誠の手術の日が来た。朝、家族待合室に挨拶に行くと、まゆがソファに浅く腰かけていた。立花はすでに手術着に着替えてベッドの上にいる。俺が入っていくと、立花は少し笑った。

「黒崎、お前の手、震えてないだろうな。」

「40年、この手で食ってきた。」

「頼む。信じてるぞ。」

たった一言だった。高校の頃、人を上から見るような声で話していた男が、はっきりとそう言った。

手術室で、俺はメスを握った。無影灯の下で立花の腹部が白く照らされている。腫瘍は画像で見たよりも血管に近かった。水野が横で息を詰めるのがわかった。俺は若い頃に教わった先輩の声を思い出していた。

「迷ったら患者の体に聞け。」

ゆっくりと組織を引いた。出血は少なかった。腫瘍が無事に切除された。再建を終えて最後の糸を結んだ時、時計は午後5時を回っていた。

数日後、立花は一般病棟に移った。俺が回診に行くと、立花はベッドに半身を起こして窓の外を見ていた。まゆが果物を剥く手を止めて頭を下げる。

「調子はどうだ?」

「なんとか生きてるよ。」

「結構なことだ。」

立花はりんごを一切れ、ゆっくりと口に運んだ。そして窓の外に目を戻した。冬の日差しが薄く病室に差し込んでいる。

「地方に残ったお前のことを、負けたと思ってた。会社を大きくして、社員を増やして、それが勝ちだと思ってた。腹を開けてもらってわかったよ。」

「何が?」

「俺は誰のために走ってたんだろうな。」

俺は答えなかった。ベッドの脇でまゆがそっと目元を拭っている。俺は立花の脈を取って、点滴の落ちる速度を確認した。

「また後で来る。ゆっくり休め。」

「ああ。」

病室を出る前、立花がもう一度声をかけた。

「黒崎。」

「ありがとうな。」

俺は振り返らずに、手だけを軽く上げた。

3月の終わり、俺は白衣を脱いだ。定年の日だった。ロッカーを片付けて病院の正面玄関を出ると、銀杏並木のつぼみが薄く緑を帯び始めていた。

水野が玄関の脇に立っていた。頭を下げて、何も言わずに白い封筒を差し出した。俺は受け取ってポケットにしまった。

「先生、お疲れ様でした。」

「あとは頼んだ。」

「はい、わかりました。」

正門の外で、さつきが車のドアを開けて待っていた。助手席に乗り込むと、さつきが静かにエンジンをかけた。

「お疲れ様。」

「ああ。」

車が銀杏並木をゆっくりと通り抜けていく。ミラーの中で病院の白い建物が少しずつ小さくなった。俺はポケットの中の封筒に軽く触れた。中身は読んでいない。

40年、この手でどのくらいの人を救ったのだろう。数えたことはない。ただ、最後に握ったメスの感触はまだ指の中に残っている。

「どこか寄っていく?」

「いや、まっすぐ帰ろう。」

車は町の方へ走り出した。窓の外で春の風が銀杏の枝を静かに揺らしていた。

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