高級な結婚式場で、花嫁のみさきの頬に赤い手の跡がくっきりと残った。義母の佐藤のり子が、大勢の招待客の前で平手打ちをしたのだ。
「清掃員の娘のくせに、うちの息子と結婚できるだけでもありがたく思いなさい。身の程をわきまえなさい!」
みさきは涙をこらえ、頭を下げた。しかし、その瞬間、花嫁の母である鈴木千代の目が、恐ろしいほど冷たく変わった。
「佐藤のり子さん、あなたは今、取り返しのつかない過ちを犯したわ。その代償は、きっちり払ってもらうから」
千代の口元に、得体の知れない笑みが浮かんだ。64年間隠し続けてきた秘密を、今こそ解き放つ時が来たようだった。
――1時間前、東京の高級結婚式場。
シャンデリアが輝き、招待客の笑い声が響く祝福の空間。花嫁のみさきは控室で母と一緒にいた。
「お母さん、私、うまくやれるかな?」
みさきの声は震えていた。31年の人生で最も大切な日なのに、なぜか不吉な予感がした。
「みさき、あなたなら大丈夫よ。お母さんがいつもそばにいるから」
千代は娘をそっと抱きしめた。彼女の手は荒れてゴツゴツしていたが、どんな手よりも温かかった。44年間、清掃の仕事をしてきた手だ。
「お母さん、義母様は私のことを好きになってくれるかな? 初めて会った時からずっと冷たいの」
「人の心は時間が経てば変わるものよ。あなたみたいに優しい子を嫌う人なんていないわ」
千代は娘を安心させたが、実は自分も不安だった。佐藤のり子という女性の目線から感じる軽蔑と傲慢さを、何度も目の当たりにしていたからだ。
その時、ドアが乱暴に開いた。のり子が入ってきたのだ。高価な着物を身にまとい、首には大粒の真珠のネックレス。
「まだ準備できてないの? 招待客の皆さんが待ってるのに」
のり子の声は鋭く尖っていた。
「申し訳ありません。すぐに出ます」
みさきは頭を下げた。のり子は彼女を上から下まで舐めるように見て、鼻で笑った。
「義母様、今日のお客様にはうちの会社の取引先の社長さんたちも大勢いらしてますの。あまり目立つ行動はなさらないでくださいね。うちの体面がありますから」
千代は何も答えなかった。
「それから、誰かに職業を聞かれたら、自営業をしているとでも言ってください。わざわざ清掃員だなんて、そんな話はしないでくださいね」
のり子が出ていくと、みさきの目に涙が浮かんだ。
「お母さん、ごめんなさい。私のせいで」
「みさき、お母さんは大丈夫よ。あなたが幸せならそれで十分」
千代は娘の涙を拭った。しかし、心の中では小さな火種が燃え始めていた。
結婚式が始まった。父親のいないみさきは、新郎の佐藤健太と共に入場した。健太は佐藤クリーンサプライの社長の息子で、すらりとした好青年だったが、どこか頼りない印象だった。母親ののり子の影から抜け出せない、典型的なマザコンだった。
招待客の拍手が鳴り響く中、千代の耳には後ろから聞こえてくるひそひそ話が大きく聞こえた。
「新婦のお母さん、ちょっと見て。着物が似合ってないわね」
「何をしている人なのかしら」
「新郎の家は佐藤クリーンサプライなのに、新婦のお父さんは見当たらないわね。亡くなったのかしら」
千代は背中に突き刺さるような視線を全て感じていた。しかし、まっすぐ前を見つめ、娘の幸せな姿だけを見守った。荒れた手が膝の上でかすかに震えていたが、誰も気づかなかった。
主賓の挨拶が始まった。佐藤クリーンサプライの取引先である社長が挨拶に立ったが、新郎の家柄自慢ばかりを並べ立てた。
「新郎の佐藤健太君は名門大学を卒業し、お父様の事業を継ぐ準備をしている素晴らしい青年です。佐藤クリーンサプライは30年の歴史を誇る中堅企業で……」
新婦に関する言及はほとんどなかった。まるでみさきはただの引き立て役であるかのように扱われた。
その時、招待客のテーブルで小さな騒動が起こった。5歳くらいの子供が赤ワインをこぼしてしまったのだ。紫色の液体が白いテーブルクロスに広がり、隣の席の招待客のドレスの裾まで濡らした。
「あら、なんてこと」
被害にあった招待客が声を上げた。のり子の友人で、何万円もするドレスが台無しになったことに腹を立てていた。
式場のスタッフが慌てて駆けつけた。20歳そこそこの若い男性、田中翔太という名札をつけたアルバイトの大学生だった。
「申し訳ありません。すぐに片付けます」
翔太は動揺して手が震えていた。雑巾を絞る手つきもおぼつかず、バケツを倒してしまった。
その瞬間、のり子が突然立ち上がり、怒鳴りつけた。
「それが掃除の仕方なの? ちゃんとできないの? 私たちのような大事なお客様が使うホールなのよ。きちんとやりなさい」
「だから清掃員なんてダメなのよ。やることがその程度だから、一生掃除しかできないのよ」
翔太の顔が真っ赤になった。何百人もの視線が自分に注がれているのを感じ、さらにパニックに陥った。目には涙が浮かんでいたが、必死にこらえていた。
「本当に申し訳ありません。私が不慣れで……」
「謝って済むと思ってるの? こんな大事な日にこんな失態を犯して。あなたみたいな下々の人間が、私たちのような人間の結婚式で働けるだけでもありがたく思いなさい」
のり子の罵倒は続いた。招待客たちもさすがに不快な顔をし始めた。
「ちょっとひどいんじゃない? 若い子なんだから失敗することもあるでしょうに」
「結婚式の雰囲気が台無しね」
小さな声でひそひそと囁かれたが、のり子は意に返さなかった。
その時、千代が静かに立ち上がった。黒い着物を着ていたが、どこか貫禄のある彼女。太い指と日に焼けた肌が、肉体労働者であることを物語っていた。
「お手伝いしましょう」
千代の声は低く落ち着いていた。彼女はポケットから白いハンカチを取り出した。娘の結婚式のために今朝新しく買ったものだった。
「若い方、緊張しないで。ゆっくりやりなさい。失敗は誰にでもあるものだから」
彼女の声には温かみが滲んでいた。翔太は感謝の眼差しで千代を見つめた。
千代の手際は驚くほど見事だった。テーブルの上の飲み物を素早く拭き取り、床に落ちた氷のかけらを一つ一つ拾い集めた。汚れたテーブルクロスを綺麗に整え、ドレスについたシミまでまるでプロのように取り除いていった。実際、彼女はプロだった。44年間清掃の仕事をしてきたベテランなのだから。
「わあ、本当に手際がいいわね」
「新婦のお母様が自ら動くなんて、本当に素敵な方ね」
「なんて謙虚な方なんでしょう」
招待客たちの感嘆の声が聞こえてきた。しかし、のり子の口元には笑みが広がった。
「やっぱり血は争えませんわね」
彼女の声は十分に大きく、はっきりとしていた。周りのテーブルの招待客全員に聞こえるほどに。
「さすがは清掃員出身と言うだけあって、体に染みついた習慣は隠せませんわね。こんな高級な結婚式場で床掃除だなんて。娘の結婚式でも清掃員の癖が抜けないのね」
瞬間、静寂が流れた。招待客たちの表情が凍りつき、ひそひそという声が波のように広がった。
「ひどいわ。新婦のお母様に対してあんな言い方」
「佐藤さんっていつもああなのかしら」
千代は片付けを終え、ゆっくりと立ち上がった。彼女の顔には何の表情もなかったが、固く握られた拳の関節が白くなっていた。そして、彼女の目から普段の穏やかさは消え去り、冷たい何かがひらめいていた。
「あら、義母様、一生そういうことばかりしてきたから、体が先に反応してしまうのかしらねえ」
のり子は千代に声をかけた。彼女の目には軽蔑の色が満ちていた。
「うちの家系に清掃員が入ってくるなんて。佐藤クリーンサプライのような中堅の家にですよ。本当に格が落ちてどうしたらいいかわかりませんわ。取引先の社長さんたちも皆さん見ていらっしゃるのに」
千代は依然として沈黙していた。しかし、彼女の視線はのり子をまっすぐに見据えていた。その視線には何か別のものが宿っていた。のり子が気づくことのできない、64年間隠し続けてきた何かが。
「まあでも、うちの息子はとても優しいから、こんな家の娘でも受け入れてくれたんですものね。感謝なさい」
のり子の言葉は続いた。その時、みさきが勢いよく立ち上がった。純白のウェディングドレスが激しい動きに揺れた。
「義母様」
彼女の声は震えていたが、断固としていた。
「もう母を侮辱するのはやめてください。母は真面目に働いて私を育ててくれた人です」
のり子の目が大きく見開かれた。
「何ですって? あなた、今私に口答えするの?」
「母を侮辱するなら、私も黙ってはいられません」
みさきの目には涙が浮かんでいたが、視線は揺らがなかった。
「清掃の仕事がそんなに卑しい仕事ですか? 義母様の会社だって、清掃する方々がいなければ成り立たないじゃないですか。その方たちがいるから、佐藤クリーンサプライが今まで成長できたんじゃないですか」
「な、なんですって」
のり子の顔が見る見るうちに赤くなった。
「欲も負けずに口答えできるのね。清掃員の娘の分際で」
そして、その瞬間だった。パシッという音とともに、のり子の平手がみさきの頬を打った。式場には息遣い一つ聞こえない静寂が流れた。みさきの白い頬にくっきりと残る赤い手の跡。衝撃によろめく彼女を健太が慌てて支えたが、それだけだった。母親に一言も言い返せない、情けない男だった。
「清掃員の娘の分際で、うちの息子と結婚できるだけでも感謝すべきなのに、どこでそんな口の聞き方を覚えたの?」
のり子の罵倒は続いた。
「あなたのお母さんが何をしてるか知ってるの? ビルのトイレ掃除でもしてるんでしょう。便器でも磨いてるのかしら。そんな人の娘がうちの嫁ですって? 私が今まで我慢してあげただけでもありがたく思いなさい」
招待客の中からスマートフォンを取り出して撮影する人が、一人、また一人と現れ始めた。すでに何人かはライブ配信まで始めていた。
千代はその全ての光景を見つめていた。拳を固く握りしめ、冷たい眼差しで。しかし、彼女は動かなかった。まだだ、まだその時ではない。みさきが母を見ていたからだ。「お願いだから我慢して」という切実な眼差しだった。
「大丈夫。私が我慢するから。今日だけ。今日だけ乗り切ればいいから」
千代は娘の眼差しを受け止め、ゆっくりと目を閉じた。そして心の中で決意した。
「佐藤のり子。あなたは今日、最悪の過ちを犯した。私の娘に手を出した代償を、骨の髄まで味わせてあげる」
「お母さん、何してるんだよ。今日は僕たちの結婚式じゃないか」
健太が遅れて割って入った。
「黙りなさい。あなたは黙っていなさい。私の嫁は私が教育するの」
のり子は息子さえも一蹴した。
「これから佐藤家でどう生きていくべきか、きっちり教えてやらないと。清掃員の娘が口答えするなんて」
その時、司会者がおずおずと近づいてきた。
「あ、あの、申し訳ありませんが、祝電が届いております」
「今そんなものが大事なの?」
のり子は苛立たしげに言ったが、司会者の次の言葉に表情が変わった。
「クリーンテックグループ様からのお花でございます」
クリーンテックグループ。日本最大の環境関連企業であり、佐藤クリーンサプライの最大の取引先。年間50億円以上を取引する超VIP顧客だった。
「クリーンテックグループ? なぜそんな大企業がうちの息子の結婚式に?」
のり子の目が輝いた。
「やっぱりうちの息子は将来有望なのね。クリーンテックグループにも認められてるんだわ」
彼女は声を張り上げて自慢した。
「皆さん、お聞きになりましたか? クリーンテックグループからうちの息子の結婚祝いにお花が届いたそうですわよ。クリーンテックグループがどれだけ大きな会社かご存知でしょう」
しかし、司会者の言葉は続いた。
「それから、環境大臣、東京都知事、国税庁長官からも祝電が届いております」
式場がどよめいた。
「大臣と都知事から花が? 佐藤クリーンサプライってそんなに大きな会社だったか?」
「おかしいわね。あそこの規模の会社の息子の結婚式に、そんな要人が花を送るなんて」
のり子も戸惑った。
「どういうこと? 私たちがそこまで有名だったかしら」
彼女は夫を振り返ったが、夫の高志もわけがわからないという表情だった。
千代の口元に、得体の知れない笑みが浮かんだ。
「もう動いたのね」
彼女の声はとても小さく、誰にも聞こえなかった。彼女は静かにスマートフォンを取り出し、一つのメッセージを確認した。
「準備完了、会長、ご指示をお待ちしております」
千代はゆっくりと返信を送った。
「全面総力戦を開始する」
結婚式はそうしてめちゃくちゃなまま終わった。招待客たちは衝撃的な場面を目撃した後、ざわめきながら席を立ち、みさきは目がパンパンに腫れたまま式場を後にした。
「みさき」
千代は娘を呼び止めた。
「お母さん、ごめんなさい。私が我慢すればよかったのに」
「いいえ。あなたは何も悪くないわ。むしろ誇りに思う」
千代は娘を強く抱きしめた。
「辛くなったらいつでもお母さんのところにおいで。わかった?」
「うん。お母さん」
車が去り、一人残された千代は空を見上げた。暗雲が立ち込めた空は、まるで嵐の前触れのようだった。
のり子は依然として意気揚々としていた。
「今日きっちり教育してやったから、これからは問題ないでしょう。清掃員の娘がどこで偉そうにするのかしら」
彼女は友人たちと二次会に向かいながら、嫁の悪口を言い続けていた。
「最初から気に入らなかったのよ。家柄は悪いし、母親は清掃員だし、息子がもったいないわ」
「そうよ。のり子さん、あなたが優しすぎるのよ。私だったら絶対に結婚なんて許さなかったわ」
友人たちの同調に、のり子はさらに得意満面になった。しかし、彼女は全く知らなかった。自分が手を出した相手が誰なのか。そして明日から始まる出来事がどれほど恐ろしいものなのかを。
結婚式が終わったその夜、千代は久しぶりにあの場所へ向かった。東京銀座にある一つのビル。表向きは平凡なオフィスビルのように見えたが、最上階には極秘に運営されているクリーンテックグループの戦略室があった。
「会長、お待ちしておりました」
エレベーターのドアが開くと、秘書室長の木村正彦が深々と頭を下げた。50代半ばの彼は、千代と共に30年を歩んできた最側近だった。
「木村室長、全員集まっているかしら?」
「はい。会長、役員全員待機しております」
会議室のドアが開くと、テーブルを囲んでいた12人の役員が一斉に立ち上がった。クリーンテックグループの中核を担う人物たちだった。
「座ってください」
千代が椅子に腰を下ろすと、皆緊張した面持ちで席に着いた。
「皆さんもご存知の通り、私は44年間自分の正体を隠して生きてきました。会社のことは皆さんに任せ、私は現場で一人の清掃員として働いてきました」
役員たちは頷いた。千代の特別な経営哲学を誰もが知っていたからだ。
「しかし、もう隠れるのはやめます。今日、私の娘が侮辱されました。清掃員の娘だという。ただそれだけの理由で」
千代の声は落ち着いていたが、その内側では怒りが煮えくり返っていた。
「佐藤クリーンサプライ。彼らとの全ての取引を停止します」
財務担当の専務が恐る恐る手を上げた。
「会長、佐藤クリーンサプライとの取引は年間50億円規模です。彼らの売上の70%を占めておりますが」
「分かっています。そうなれば彼らは倒産するでしょうね。それが目的です」
会議室に沈黙が流れた。法務担当の理事が口を開いた。
「会長、法的な問題は生じないでしょうか?」
「正当な事業判断です。我が社の価値観と合わない企業とは取引しない。ただそれだけです」
「承知いたしました」
「そして、明日の朝、私が直接記者会見を開きます。64年ぶりに初めて表の場に姿を表します」
役員たちは驚いた。
「会長が自らお出ましに?」
「ええ。もう隠れている理由がなくなりましたから」
「木村室長、準備した資料はあるかしら?」
「はい。会長」
木村がタブレットを手に立ち上がった。画面には佐藤クリーンサプライの様々な違法行為がまとめられていた。
「佐藤クリーンサプライの脱税の証拠、不法な廃棄物投棄、労働法違反の事例です。過去10年間に渡り調査した資料です」
「よろしい。関係省庁に全て情報提供しなさい」
「承知いたしました」
千代は窓の外を眺めた。東京の夜景がキラキラと輝いていた。
「44年前、私は20歳の清掃員でした」
彼女の声が低く響いた。
「母も清掃員で、我が家は大変貧しかった。しかし、私は諦めませんでした。昼はトイレを掃除し、夜はゴミを片付けながらも、夢を失いませんでした」
役員たちは粛々として聞いていた。千代の歴史を知る者たちだったが、本人の口から直接聞くのは初めてだったからだ。
「30歳で初めて事業を立ち上げました。従業員5人の小さな清掃代行会社でした。しかし、私は信じていました。清掃は単なる仕事ではなく、世の中を美しくする崇高な仕事だと」
「そして34年が経った今、クリーンテックは従業員5万人、年間売上高3000億円の企業になりました。しかし、私は今でも毎日夜明け前に現場に出て、自ら清掃をしています。なぜだか分かりますか?」
千代は立ち上がった。
「忘れないためです。自分がどこから始まったのか。なぜこの仕事をしているのか。そして、清掃労働者という人々がどれほど尊い存在であるかを」
彼女の眼差しが鋭くなった。
「しかし、佐藤のり子という女はそれを侮辱した。清掃員を蔑み、私の娘を殴った。これは単なる個人的な復讐ではありません。我が社の5万人の従業員、そして日本の全ての清掃労働者に対する侮辱です。だから、私は戦うことにしました。正々堂々と、しかし徹底的に」
役員たちの眼差しが固く引き締まった。
「皆、分かったかしら?」
「はい。会長」
一斉に答える声が会議室に響き渡った。
一方その頃、みさきは佐藤家に到着していた。
「お帰りなさい」
のり子の声は氷のように冷たかった。
「新婚旅行? 清掃員の娘が何の権利で新婚旅行ですって? 代わりに明日から家事の教育を始めるから、そう思っておきなさい」
みさきは俯いた。
「はい。義母様」
「それから、明日から朝5時に起きて朝食の準備、掃除、洗濯をすること。あなたのお母さんは清掃員なんだから、あなたも得意でしょうね」
屈辱的な言葉が続いたが、みさきは耐えた。健太は隣で何も言えずにいた。
その夜、みさきは静かに母へメッセージを送った。
「お母さん、大丈夫だよ。私、耐えられるから」
千代からの返信は短かった。
「もう少しだけ我慢して。明日になれば全てが変わるから」
翌朝、世間はひっくり返った。クリーンテックグループ本社前には早朝から報道陣が殺到していた。全てのテレビ局、新聞社、インターネットメディアまで。44年間ベールに包まれてきた鈴木千代会長がついに姿を表すというニュースに、誰もが駆けつけたのだ。
「歴史的な一日です。クリーンテックグループの創業者であり会長である鈴木千代氏が初めて表の場に姿を表します。鈴木会長はこれまで一度もメディアに顔を公開したことのない謎に包まれた人物です。年間売上高3000億円の巨大企業を一代で築き上げた指折りの人物が、なぜ今姿を表すのでしょうか?」
朝のニュースは鈴木千代の話題で持ち切りだった。
午前9時きっかり、大会議室のドアが開いた。黒いスーツではなく、清潔な作業着を身につけた一人の女性が歩いて入ってきた。日に焼けた肌、太い指、そして穏やかながらもカリスマ性のある眼差し。
「こんにちは。クリーンテックグループ会長の鈴木千代です」
フラッシュが一斉に焚かれ、何百人もの記者がシャッターを切った。
「まず申し上げたいことがあります」
千代の声は落ち着いていたが、重みがあった。
「私は44年前、清掃員としてキャリアをスタートしました。今でも毎日朝4時に起き、現場で自ら清掃をしています」
記者たちがざわめいた。
「会長がご自身で清掃を?」
「はい。私は清掃員です。ただ会社を経営する清掃員というだけです」
彼女の答えに会見はどよめいた。
「本日この場に立った理由は単純です。昨日、佐藤クリーンサプライという会社の経営者家族が、清掃労働者を著しく侮辱しました」
記者たちの視線が鋭くなった。
「具体的にどのようなことがあったのでしょうか?」
「佐藤クリーンサプライの社長夫人、佐藤のり子が、私の娘の結婚式で『清掃員の娘』という理由で公然と娘を侮辱し、暴行しました」
会見場が再びざわめいた。
「暴行ですか?」
「はい。何百人もの招待客が見ている前で、私の娘の頬を平手で打ちました。『清掃員の娘のくせに口答えした』という理由で」
一人の記者がタブレットを掲げた。
「昨日、結婚式の映像がSNSに投稿されましたが、これのことでしょうか?」
画面にはのり子がみさきの頬を叩く場面が鮮明に映し出されていた。
「はい、その通りです」
「それで、佐藤クリーンサプライとの取引を停止されるということでしょうか?」
「その通りです。クリーンテックグループは本日を持って、佐藤クリーンサプライとの全ての取引を停止します。清掃労働者を蔑む企業と共に歩むことはできません」
「取引規模はどの程度なのでしょうか?」
「年間50億円。佐藤クリーンサプライの全売り上げの70%に相当します」
記者たちは息を飲んだ。
「それでは、佐藤クリーンサプライは……」
「企業の存続は彼ら自身が決めることです。ただ、私たちは私たちの価値観と合わない企業とは取引しない。それだけです」
千代は立ち上がった。
「最後に一言だけ申し上げます」
全てのカメラが彼女に向けられた。
「清掃は汚い仕事でも卑しい仕事でもありません。世の中を清潔で美しくする崇高な仕事です。日本の全ての清掃労働者の皆さん、誇りを持ってください。皆さんがいるからこそ、この国は清潔なのです」
そして、千代の眼差しがカメラをまっすぐに見据えた。
「そして佐藤のり子さん。あなたは清掃員を侮辱した。しかし、教えてあげましょう。あなたが侮辱したその清掃員こそが、あなたの会社の生命線を握る人間だということを」
「以上です」
千代が会見場を去ると、記者たちは急いで記事を配信し始めた。速報が次々と流れた。
「クリーンテックグループ鈴木会長、44年ぶりに顔を公開」
「清掃員の娘と嫁を殴った姑。その正体は取引先大企業の会長だった」
「年間50億円の取引停止。佐藤クリーンサプライが経営危機に」
ニュースは瞬く間に全国に広がった。
まさにその頃、佐藤クリーンサプライの本社は修羅場と化していた。
「社長、クリーンテックから取引停止の通知書が……」
社長の高志は信じられないという表情だった。
「何だって? 20年の取引先が突然?」
「テレビを見てください。クリーンテックの会長が自ら記者会見を……」
社員がリモコンを操作した。全てのチャンネルで千代の記者会見が流れていた。
その時、のり子が会社に駆け込んできた。
「あなた、どういうことなの?」
「これは大変なことになった。クリーンテックの会長が……お前が昨日殴ったあの新婦の母親が、クリーンテックの会長だったんだ」
のり子の膝が崩れ落ちた。彼女はよろめきながら椅子に座り込んだ。
「な、なんですって? あの清掃員が?」
「清掃員じゃない。クリーンテックグループの会長だ。年間売り上げ3000億円の大企業のトップなんだぞ」
のり子の顔が真っ青になった。
その時、電話が狂ったように鳴り始めた。
「大手スーパーから取引の見直しを検討したいと」
「建設会社からも契約キャンセルの連絡が」
「メインバンクから緊急の面談要請です」
「労働組合が緊急総会を招集しました」
ドミノ倒しのように全てが崩れ始めていた。
「社長、株価が暴落しています。ストップ安です」
モニターを見ると、佐藤クリーンサプライの株価が30%下落した状態だった。
「あなた、どうしましょう? 私たちはこれからどうなるの?」
のり子は泣きそうな声だった。その時、秘書が駆け込んできた。
「社長、環境省から特別監査が入るとの連絡が。国税庁も税務調査に入ると……」
「何だって?」
「そして、公正取引委員会も調査を開始するそうです」
絶望だった。クリーンテックとの取引停止だけでも致命的なのに、政府機関まで動き出したのだ。
午後になると状況はさらに悪化した。メディアは「パワハ姑、清掃員を侮辱」「被害者を潰す隠れた大物に手を出した姑」といった見出しで連日この話題を取り上げた。結婚式の暴行映像は再生回数千万回を超え、リアルタイム検索ワード1位に「佐藤のり子」「パワハ姑」がランクインした。
SNSはさらに炎上した。
「ありえない。結婚式で花嫁を叩くなんて」
「こんな人間が社長夫人だったとは」
「清掃員をバカにするな。お前たちの方がよっぽど汚い人間だ」
「鈴木千代会長、尊敬します。44年間現場を守り続けた本物の経営者」
コメントは瞬く間に数万件に達し、そのほとんどがのり子を非難する内容だった。佐藤クリーンサプライ本社前にはデモ隊が集まり始めた。
「パワハ企業、佐藤クリーンサプライを糾弾する」
「佐藤のり子は謝罪しろ」
「労働者を蔑む企業は潰れろ」
社員たちも動揺していた。
「うちの会社、本当に潰れるのか」
「給料は出るんだろうか」
「あの女のせいで、なんで俺たちが被害に遭わなきゃいけないんだ」
労働組合が緊急声明を発表した。
「佐藤のり子のパワハラ行為により会社は危機に陥った。経営陣は直ちに責任を取って辞任せよ。従業員の生活を守れ」
会社内部からも反発が始まったのだ。
その夜、のり子の自宅前には記者たちが詰めかけていた。
「佐藤さん、一言お願いします」
「清掃員を侮辱した理由は何ですか?」
「鈴木会長がクリーンテックの会長だと知っていたのですか?」
「謝罪するお気持ちはありますか?」
のり子はカーテンの後ろに隠れ、震えていた。ほんの1日前、彼女は中堅の社長夫人として贅沢な暮らしをしていたのに、今や全国民の敵となってしまったのだ。
一方、みさきは佐藤家でニュースを見ていた。
「お母さんがクリーンテックグループの会長だったなんて」
彼女も初めて知る事実だった。生涯ただの清掃員だと思っていた母が、3000億円企業のトップだったとは。
健太は偶然居合わせた。
「みさき、本当に知らなかったのか? 義母様がクリーンテックの会長だってこと?」
「知らなかったわ。お母さんはいつもただの清掃員だって……」
みさきの携帯が鳴った。母からだった。
「お母さん」
「みさき、驚いたでしょう。ごめんね。前もって言えなくて」
「お母さん、どうして謝るの? 私のためにそうやって生きてきてくれたんでしょう」
「もう誰もあなたをバカにしたりしないわ。清掃員の娘じゃなくて、クリーンテックグループ会長の娘だから」
「お母さん、私は清掃員の娘であることが誇りだよ。本当に」
千代の声に温かさが滲んだ。
「ありがとう。娘よ。もう少しだけ我慢して。もうすぐ全てが片付くから」
翌朝、佐藤クリーンサプライに環境省の監査チームが乗り込んだ。
「特別監査を実施します。全ての資料を提出してください」
監査の結果は衝撃的だった。不法な廃棄物投棄、排水の無断放流、有害化学物質の不適切な保管、虚偽の書類作成。
「これは営業停止レベルですね。課徴金も数十億円はいくでしょう」
午後には国税庁が入った。
「税務調査を実施します。帳簿を調査した結果、裏帳簿と売上の過小申告が発覚しました。明らかな脱税です。追徴課税は100億円を超えるでしょうね」
公正取引委員会も同様だった。下請け業者に対する優越的地位の乱用、不当な取引行為が確認された。
佐藤クリーンサプライは四面楚歌だった。
「あなた、本当に終わりなの?」
のり子が泣きながら詰め寄った。
「弁護士が言うには、会社は破産申請することになるだろう。俺たちの個人資産も差し押さえられるかもしれない」
高志の声は絶望に満ちていた。
健太が家に帰ってきた。彼の表情は冷え切っていた。
「お母さん、これからどうするつもりなの?」
「健太、全部お母さんのせいだよ。なんでみさきのお母さんをあんなにバカにしたんだ。なんでみさきを殴ったんだよ」
「わ、私だって知らなかったのよ。あの人がクリーンテックの会長だなんて」
「じゃあ、清掃員だったら殴ってもいいのかよ。バカにしてもいいのかよ」
健太の絶叫に、のり子は答えることができなかった。
「今すぐみさきのところに行って、土下座して謝ってこいよ。会長にも許しを乞うんだ。それしか生き残る道はないんだから」
のり子はついにクリーンテックグループ本社を訪れた。
「会長にお会いさせてください。どうか一度だけでいいから」
しかし、ロビーで止められた。
「申し訳ありません。会長はお会いにならないとのことです」
「お願いです。許してください。私が間違っていました」
のり子はロビーに膝をついた。プライドも体面も全て捨て、泣き叫んだ。
「会長、私が本当に悪うございました。どうか一度だけお許しください」
通り過ぎる社員たちがひそひそと囁いた。
「あの人があのパワハ姑か」
「今更謝ってもねえ。自業自得だろう」
何時間も土下座していたが、千代は最後まで現れなかった。その時、エレベーターからみさきが降りてきた。
「義母様」
「みさきさん!」
のり子はみさきの足にすがりついた。
「お願い、許してちょうだい。私が本当に悪かったの。あなたのお母様にどうか取りなして」
「お立ちください。義母様」
みさきの声は冷たく、しかし断固としていた。
「今更謝っても何も変わりません」
「うちの会社が潰れそうなのよ。このままじゃ本当に終わりなの」
「それは義母様が招いたことです。清掃員を蔑んだ代償ですよ」
みさきは背を向けた。
「みさきさん、お願い!」
のり子の絶叫がロビーに響き渡ったが、みさきは振り返らなかった。
1週間後、佐藤クリーンサプライは破産申請を提出した。30年の歴史を持つ中堅企業の転落。パワハラの代償。
「佐藤クリーンサプライが経営破綻」というニュースは連日トップを飾った。社員たちは会社を去り始め、取引先は全て背を向けた。株価は上場廃止レベルまで下落した。
のり子の家にも差し押さえの赤い札が貼られた。
「家も車も全財産差し押さえられた」
高志が絶望的に言った。
「あなた、私たちこれからどうやって生きていくの?」
のり子は泣きじゃくったが、もう手遅れだった。全てを失った彼らに残されたのは、公開だけだった。
佐藤家は破産し、彼らは結局小さなワンルームへ引っ越さなければならなかった。友情にも満たない狭い空間。カビの匂いが鼻をつき、壁紙は黄色く変色していた。かつて200坪の大邸宅で毎朝庭を眺めながらコーヒーを飲んでいた彼女が、今では半分の窓から通り過ぎる人々の足元を眺めるしかなかった。
その夜、のり子は狭いベッドに横たわり、天井を見つめた。
「これが本当に私の人生になってしまったの?」
信じられなかった。
健太が訪ねてきた。息子の顔もやつれていた。かつては高級ブランドのスーツしか着なかった彼が、今では古びたジャージ姿だった。
「母さん、俺、みさきとの離婚届、提出してきた」
のり子の唇が震えた。
「そう。俺ももう何かしないと。コンビニのバイトでも探してみるよ」
かつては大企業の後継ぎとして歩んでいた息子が、コンビニのアルバイト。のり子の胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
数日後、みさきが訪ねてきた。
「義母様、お元気ですか?」
のり子は恥ずかしさでまともに顔を合わせることができなかった。かつて嫁として見下していた彼女が、今や自分の運命を握る人物だった。
「みさきさん、本当にごめんなさい。私があまりにも愚かでした」
みさきは冷たい表情で、書類の入った封筒を取り出した。
「義母様、ご存知の通り、佐藤クリーンサプライの脱税と横領の件で、義父様と健太さんは実刑判決を受ける可能性があります」
のり子の顔が真っ青になった。手がブルブルと震えた。
「そして、会社の負債が30億円を超えています。個人保証をされているのはご存知ですよね」
みさきが書類をテーブルの上に広げた。びっしりと並んだ数字がのり子の目の前で踊った。
「母が一つ提案をしています。負債の半分を免除し、義父様と健太さんの刑事告訴を取り下げると」
「ほ、本当か?」
一筋の希望が見えた。しかし、みさきの次の言葉でその希望は粉々に砕け散った。
「ただし、条件があります。義母様は最低10年間、清掃員として働いていただきます。クリーンテックグループの所属として」
のり子の口がアングリと開いた。
「は、私が清掃員を10年も?」
「一日でも欠勤すれば契約は破棄されます。そうなれば、義父様と健太さんは刑務所行き。負債も全額返済していただくことになります」
のり子は震える手で契約書を手に取った。びっしりと書かれた情報の中で、「10年」という数字が一際大きく見えた。
「そして10年後、誠実に務め上げられたなら、小さなお店を開くチャンスを差し上げます。もちろん、ゼロからの再出発ですが」
のり子は涙を飲み込みながら、判を押した。
「これがうちの家族が生き残る唯一の道なのね」
初出勤の日、午前3時にアラームが鳴った。生涯こんな時間に起きたことのない彼女の体は、鉛のように重かった。大型ショッピングモールのトイレへ。班長がのり子を案内した。
「ここからあそこの橋まで、三フロア分のトイレ全部があんたの担当だ。朝6時までに終わらせること」
のり子は清掃用具を手に、最初のトイレに入った。ドアを開けると、吐き気を催すほどの悪臭が鼻をついた。便器は詰まり、床にはあらゆる汚物が散乱していた。
「うっ……」
吐き気が込み上げてきた。しかし、耐えなければならない。家族のために。震える手でゴム手袋をはめ、トイレブラシを握った。一度もしたことのない仕事。高級ブランドのバッグしか持たなかったその手で、今や汚れた便器を磨かなければならないのだ。
その時、外から笑い声が聞こえた。
「おい、見ろよ。マジであの佐藤のり子だぜ」
ドアの隙間からスマートフォンが差し込まれ、カシャッとフラッシュが焚かれた。
「神様の実写版だなwww」
「女が今じゃ便器磨きかよ」
SNSは瞬く間に彼女の屈辱的な姿で埋め尽くされた。のり子は俯いたまま黙々と作業を続けた。涙が出たが、拭うこともできなかった。ゴム手袋は汚物で汚れていたからだ。
1ヶ月後、のり子は機械のように働いた。体中が痛んだ。特に膝がひどかった。一日中しゃがみ込んで床を磨いたからだ。出勤途中のバスの中で、彼女に気づいた人々がひそひそと話した。
「あの人、そうだよな。テレビに出てたパワハ姑」
「清掃員をバカにしてたのに、今じゃ自分が清掃員やってるんだって」
毎日が拷問だった。その日もトイレ掃除をしていると、一人の女性が入ってきた。
「あら、本当に佐藤のり子さんじゃないですか?」
カメラを取り出し、写真を撮り始めた。
「お客様、申し訳ありませんが、写真はご遠慮ください」
「恥ずかしいの? 清掃員って恥ずかしい仕事なんですか?」
女は笑った。のり子は答えることができなかった。自分が吐いた毒がブーメランとなって帰ってきたのだ。
ある日の午後、デパートのトイレを掃除していた時のこと。
「あら、のり子さん?」
振り返ると、昔の友人、けい子が立っていた。シャネルのバッグを持った彼女の表情は衝撃そのものだった。
「本当にあなたなの? どうしてこんな……」
のり子は顔を上げることができなかった。けい子はため息をつき、財布を開いた。1000円札を取り出し、のり子の前に置いた。
「かわいそうだからあげるわ。コーヒーでも飲みなさい」
そして、下卑た笑いを浮かべながら去っていった。
「ちっ、どうしてこんなことになっちゃったのかしらね」
のり子はその1000円札を握りしめ、トイレの個室に入った。そして1時間、泣き続けた。
「これが私が受けるべき罰なのね」
ある日、のり子はクリーンテック本社に配置換えになった。
「今日からここで働きなさい」
調室のある最上階。のり子は震える手で清掃を始めた。ドアが開き、千代が出てきた。
「仕事はどうですか?」
冷たい声だった。
「辛いです。本当に死にそうです」
「そうですか。では、なぜ続けるのですか?」
「家族のためです」
千代はのり子をまっすぐに見つめた。
「まだ心から反省しているわけではないのですね。ただ罰から逃れるためにやっているだけだ」
のり子は膝をついた。
「違います。本当に反省しております」
「では、証明して見せなさい。あと9年半残っているのですから」
ある冬の日の早朝、一緒に働いていた60代の清掃員、木村さんがトイレで倒れた。過労死だった。
「家族もいなくて、葬式をあげる人もいないんだって」
病院の霊安室。ガランとした部屋に、木村さんが一人で横たわっていた。のり子はその前で黙って手を合わせた。
「この人も、誰かの母親だったはずなのに」
初めて心からの涙を流した。自分がバカにしていた人々の人生がどれほど壮絶なものであったかを悟った瞬間だった。
その夜、のり子は狭いワンルームで膝をつき、祈った。
「本当に申し訳ありませんでした。私がどれほど大きな罪を犯したか、今分かりました」
その日からのり子は本当に変わり始めた。膝は鎮痛剤なしでは耐えられず、腰は次第に曲がっていったが、彼女は止まらなかった。
「10年、10年だけ耐えれば」
歯を食いしばりながら呟いた。その日も人々は彼女を嘲笑した。
「見ろよ。パワハ女が便器磨いてるぜ」
しかし、今では違った。のり子は静かに答えた。
「はい。そうです。私は間違った生き方をしてきました。今せめて罪を償いながら生きています」
そして、夫の高志は75歳でマンションの管理人になった。午前6時、管理人室のドアを開ける瞬間から屈辱は始まった。
「おい、佐藤さん」
住民が呼びつけた。30代の若い男だった。
「ゴミの分別がなってないぞ。これ見ろ。また混ざってるじゃないか」
「申し訳ありません。すぐにやり直します」
「あんた、あの佐藤クリーンサプライの元社長だろう。パワハで潰れたって。ざまあないな」
高志の拳が震えたが、必死にこらえた。
ある酔っ払いが管理人の部屋にやってきた。
「ドア開けろ。暗証番号忘れたんだよ」
「わ、はい。身分証だけ確認させてください」
パチンッ。酔っ払いの平手が高志の頬を打った。
「俺がここの住人だってわからねえのか。さっさと開けろ」
高志は頬の痛みを感じながらも、静かにドアを開けた。管理人室に戻り、鏡を見た。赤く晴れ上がった頬。かつては中堅の社長として威張っていた彼が、今では酔っ払いに殴られる身の上だった。
一方、健太は小さな中小企業の末端社員になっていた。45歳で新入社員。それも「あの悪名高いパワハ姑の息子」というレッテルを貼られて。
「おい、佐藤。コーヒー入れてこい。アメリカンの3つ、ラテ2つな」
「はい」
「あとこれコピーしとけ。100部」
健太はコピー機の前に立った。かつては秘書が全ての雑用をこなしてくれたが、今では自分が一番の下っ端だった。昼休み、同僚たちがひそひそと話していた。
「あの人、そうだろう。佐藤クリーンサプライの息子」
「母親がパワハで会社潰したって」
「なんであんな家のやつを採用したんだろうな」
ある日の飲み会で、上司が酒を注ぎながら言った。
「おい、お前の母親が言ったんだってな。『清掃員のくせに』って」
健太は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝って済むかよ。お前にもそういうDNAが流れてるんじゃないのか」
同僚たちがクスクスと笑った。
「気をつけないとな。いきなりパワハされるかもしれねえぞ」
日曜日の夜、唯一の休日。三人は狭いワンルームに集まった。のり子の手は血だらけで、高志の顔には傷があり、健太の目は充血していた。
「今日も大変だったわね」
のり子は声を詰まらせた。
「大丈夫だ。俺たちみんなちゃんと耐えてる」
高志は妻のボロボロの手を握った。
「あと8年だ。あと8年耐えれば」
健太が言った。
「お母さん、お父さん、僕たちならできるよ。絶対にやり遂げよう」
三人は冷たいご飯を分け合いながら、互いを慰め合った。窓の外に見える東京の華やかな夜景。かつては自分たちもあの光の一部だったが、今や最も暗い片隅で生きていた。
「いつか、いつか必ずやり直すんだ」
のり子はつぶやいた。
「その時まで、その時まで耐えるのよ」
三人は手を握り合った。傷だらけの手、荒れた手、震える手。しかし、その手には希望があった。10年後、もう一度やり直すその日の希望が。
ある日の夕方、のり子は千代と出くわした。
「まだ諦めていなかったのですね」
「はい。会長、最後までやり遂げます」
「なぜです? とても辛いでしょうに」
のり子は膝をついた。
「今分かりました。私がどれほど間違った生き方をしていたか。この罰でさえ、私が犯した罪に比べれば軽いものです」
涙が流れた。
「そして、10年後にはやり直せるという希望があります。その希望が私を支えてくれているんです」
千代は静かに背を向けた。のり子の本心を確認したのだ。
毎晩、のり子はカレンダーを見た。
「今日も一日耐え抜いた。明日も耐えるんだ」
印を一つずつつけながら日付を数えた。3650日のうち、今日で73日目。まだ先は長いけど、できる。かつては傲慢の化身だった佐藤のり子。今や最も卑しいとされる仕事をしながら生きる彼女。しかし、その目には希望があった。10年後、その時には本当に新しい人間になっているはずだ。
今日も午前3時に起き、トイレへ向かう。膝が痛み、腰がきしみ、体中がボロボロになっていく。しかし、希望を抱き、罪を償いながら、一歩ずつ歩んでいく。それが佐藤のり子が選んだ贖罪の道。そしていつか再び立ち上がるその日を夢見て、今日も孤軍奮闘するのだ。



