指輪を拾い上げた瞬間、目の前に見覚えのある男が立っていた。磨かれた黒い靴、整えられたスーツ。初めて見るはずなのに、記憶の奥がざわつく。私は思わず言葉を漏らした。「あなた、もしかして」その男は私を見て、分かりやすく動揺し始めた。なんでお前がここにいるんだ、と低く漏らした。10年以上前、私はモデルとして活動していた。その頃、ストーカーに悩まされていた。その男が、今の勤務先の豪邸の住人だった。しか…

指輪を拾い上げた瞬間、目の前に見覚えのある男が立っていた。磨かれた黒い靴、整えられたスーツ。初めて見るはずなのに、記憶の奥がざわつく。私は思わず言葉を漏らした。「あなた、もしかして」その男は私を見て、分かりやすく動揺し始めた。なんでお前がここにいるんだ、と低く漏らした。10年以上前、私はモデルとして活動していた。その頃、ストーカーに悩まされていた。その男が、今の勤務先の豪邸の住人だった。しか...

指輪を拾い上げた瞬間、目の前に見覚えのある男が立っていた。磨かれた黒い靴、整えられたスーツ。初めて見るはずなのに、記憶の奥がざわつく。私は思わず言葉を漏らした。

「あなた、もしかして」

私の名前は黒部ニコ。39歳。結婚を機に仕事を辞め、9年間専業主婦として穏やかな日々を送ってきた。夫のイクトは技術職で、細かな調整や改良を繰り返す仕事をしていた。私たちは子供を持たず、2人だけの時間を大切にしながら、理想の家を建て、静かで満ち足りた生活を築いてきた。

あの日もいつもと同じようにキッチンに立っていた。野菜を刻み、鍋の様子を見ながら、イクトの帰宅時間を思い浮かべる。その時、携帯電話が鳴った。見慣れない番号。出てみると、警察からだった。

「ご主人が交通事故に遭われました」

手から皿が滑り落ちた。乾いた音が床に響く。意味を理解しようとしても、言葉が繋がらない。病院に駆けつけた時には、イクトはもう帰らぬ人になっていた。相手の車が信号無視で衝突したという。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

葬儀の後、家に戻ると、空気の違いに気づいた。人の気配が消えた空間は、こんなにも広く感じるものなのか。イクトの部屋に入り、そのまま座り込んで動けなくなった。涙は何度も溢れた。

ある日、ベッドの下の引き出しに手を伸ばした。中には小さな紙袋が入っていた。開けると、私が好きだと言っていた作家のアクセサリー。袋の底にはカードがあり、「いつもありがとう」と書かれていた。イクトは、何気ない会話を覚えていてくれたのだ。

「私、頑張るね」

声に出した瞬間、少しだけ空気が動いた気がした。まずはできることから。久しぶりに台所に立ち、簡単な食事を作った。一口食べた瞬間、涙が溢れた。それでも、ゆっくりと食べ終えた。

イクトの葬儀から2ヶ月後、私は働くことを決めた。清掃会社に採用され、半年間の研修を受けた。目の前の汚れが落ちていく様子に、気持ちが軽くなる。研修を終えた頃、社長に声をかけられた。

「期待していますよ」

私は新人ながら、大手企業の創設者一族が暮らす豪邸の現場に派遣されることになった。見上げるほど大きな屋敷。門をくぐった瞬間、空気の質が変わるような場所だった。

初日は緊張したが、やることはきちんと学んできた。黙々と作業を続けるうちに、周囲の人たちから声をかけられるようになった。

「動きが早いね。もう覚えたの?」

特別なことをしているつもりはなかった。ただ、丁寧に積み重ねていくだけ。それが評価されていくのは嬉しかった。昼休憩には、たいしたことのない話をして、お菓子を分け合う。そんな時間が増えていった。

けれど、その変化を歓迎しない人もいた。新入りの私が周囲と打ち解けていくのが面白くなかったのだろう。使う予定だった道具が見当たらなかったり、清掃済みの場所にわざと汚れが残されていたりする。最初は偶然かと思ったが、何度も続くうちに意図的だと分かった。

私は騒ぎ立てなかった。見つからない道具は別ので代用し、汚れが増えていればその分だけ手をかけた。悪意をぶつけられても受け取らず、必要以上に関わらない。そうやって対処していけばいいと考えていた。

ある日の午後、庭の奥にある古い倉庫の掃除を任された。重たい木の扉を開けると、中はひんやりとしていた。一通り確認して外に出ようとした時、扉が閉まる音がした。振り返ると、外側から鍵がかかっていた。

「やることなくなっちゃったな」

ため息が出た。ここまで来ると、驚きよりも呆れの方が大きい。私はほうきを手に取り、せっかく中にいるのだからできることをやってしまおうと決めた。埃を払い、棚の上を拭く。時間の感覚は曖昧だったが、手を動かしている間は余計なことを考えずに済んだ。

やがて扉の外から声が聞こえた。

「ニコさん、いる?」

「います」

鍵が外され、扉が開いた。仲のいいメンバーが心配そうな様子で立っていた。

「ずっと見かけないから探してたんだよ」

「大丈夫です。時間はあったので、中を綺麗にしておきました」

その言葉に、何人かが苦笑する。その後、事情はすぐに上に伝わり、嫌がらせをしていたメンバーは現場から外されることになった。空気が変わったのをはっきりと感じた。

しかし、その状態は長くは続かなかった。ある日の朝、現場に緊張感が走る。

「今日、奥様が戻られるらしいわ」

彼女の名前は御崎風子。長い間海外に滞在していたらしい。専業主婦だが、家のことをやっているところを見た人はいないという。

「特に女性は気をつけた方がいいよ。かなり気性が荒い方だから」

風子は想像以上に分かりやすい形で現れた。廊下での作業中、前方から強い存在感が近づいてくる。派手な色合いの服、装飾品も多く、一目で目立つ。その人物が私の前で立ち止まった。

「ちょっと、そこのあなた」

呼び止められて振り返った瞬間、頭の上から水が降ってきた。花瓶が傾けられ、水がそのままかけられたのだと理解するまでに少し時間がかかった。風子は口元を緩めたままこちらを見ていた。

「あら、私のいない間に知らない清掃員が増えてるから、屋敷に忍び込んだ不審者かと思ったわ」

私は何も言わず、目の前の女性を観察した。風子の袖の辺りに小さな動きが見えた。細い足が布の上を進んでいる。毛虫だった。どこかの花についていたのだろう。

「あの、奥様」

声をかけようとしたが、その瞬間、風子は満足したのか背を向けた。廊下を進み、角を曲がる。直後、鋭い叫び声が響いた。何が起きたのかは想像するまでもなかった。私はその場に立ったまま、濡れた床に雑巾を落とす。仕事が増えたなと思った。

それ以降、風子は頻繁に私を呼び止めるようになった。通りすがりに強い口調で用事を言いつけられ、作業の手を止めさせられる。意味のない指示を出されることもしょっちゅうだった。

「床、もう1回拭いて。ついたばかりの場所を指さされる。こんなの全然綺麗じゃないわよ」

そう言って、わざとらしく靴の裏で擦って跡を残す。私は何も言わずに道具を取り、再び床に向き合う。別の日には、棚の上に置いてあった装飾品をわざと落とされ、その片付けを任されたこともあった。

私は基本無反応を貫いた。言い返したところで状況が好転するとは思えなかったからだ。そうしているうちに、ふと考えることがあった。私たち清掃員をこの屋敷に派遣する手配をしたのは、風子ではないはずだ。仕事の流れを思い返す。会社からの指示、現場への配属。どれを辿っても彼女の関与は見えてこない。

休憩時間、同じ現場の人たちと話していると、自然と情報が集まってくる。

「実際、奥様ってほとんど家にいないよね。海外とか国内とか、ずっと動いてるみたいでさ」

「旦那様の稼ぎで好きにやってるって聞いたよ」

旦那の名前は御崎高一郎。私は姿を見たことはない。現在は会社の会長職についているが、本来の会長は高一郎の父である御崎正。現在は入院しており、息子が代理として会長の立場にあるらしい。

「でもさ、会長代理って言っても、あんまり会社にいないらしい」

確かに彼は今海外中。それは表向きの名目で、実際は夫子とは別の場所に海外旅行に行っているだけだと、屋敷の誰もが知っている。高一郎は自分が会社の後取りだとおり、普段から遊び放題の様子。周囲がフォローしているのか、表向きは真面目な人格者に見られていた。

私は仲間に混ざりながら黙って聞いていた。断片的な情報が少しずつ形になっていく。積極的に踏み込むつもりは一切なかった。ここは職場だ。与えられた役割をこなす場所であって、それ以上でも以下でもないと思っていた。

今日は普段とは少し違う担当箇所だった。高一郎の部屋と正の部屋。屋敷の中でも限られた人しか入らない場所だと説明を受ける。作業前に注意事項が念入りに伝えられた。配置を変えない。触れた場所は元に戻す。余計なものに触れないこと。私は頷き、いつも以上に意識を集中させた。

まずは高一郎の部屋から入る。広い空間だった。家具や調度品は高価なものばかりで、統一感のある内装に整えられている。なぜかどこか落ち着かない印象を受けた。机の上には書類が積まれていた。細かい文字が並ぶ紙の束。中身に目を通すことはないが、重要なものだということは分かる。私は手元の作業に集中した。

次に正の部屋へ向かう。こちらはまた違った雰囲気だった。長く使われてきたことが伝わる落ち着きがある。余計な装飾はなく、必要なものだけが置かれている。空間全体に静かな緊張感があった。掃除を終え、元の状態を確認する。問題がないことを確かめて、私は部屋を後にした。

数時間後、1日の作業を終え、道具を片付ける。あとは帰るだけだ。その時だった。

「ちょっと、あなた」

背後から呼び止められ、私は振り返る。風子がこちらに歩いてくるところだった。なんとなく様子がいつもと違う。

「あなた、何か持ってない?」

唐突な問いだった。

「いえ」

短く答える。彼女は一歩距離を詰める。

「嘘つかないで。夫とお父様の部屋にあったはずの書類が見当たらないの。今日2人の部屋に入ったのはあなただけのはずよ」

その言葉に、周囲の空気がかすかに動いた。近くにいた清掃員たちが動きを止め、使用人たちも視線を向ける。

「大事な書類なの。どこにやったの?」

問い詰める口調だった。頭の中で状況を整理する。書類がなくなった。その責任を私に向けている。

「心当たりはありません」

まっすぐに前を向いて、落ち着いて答える。風子は鼻で笑った。

「じゃあ、どうしてあなたが入った後に消えるの?」

「奥様こそ、どうしてそれを把握されているのですか?」

「何よ、その言い方。家族の仕事のことよ。私だって書類の整理ぐらい手伝ったことあるんだから」

論理的になっていない。それでも言い切ることで、周囲に印象を与えようとしている。そばにいたメンバーの1人が口を開いた。

「ニコさんがそんなことするわけないじゃないですか」

別の人も続く。

「ずっと一緒に仕事してきてるんですよ。むしろ1番信用できる人です」

言葉が重なっていく。私はその様子を見ていた。ありがたいと思う気持ちはあったけれど、みんなに迷惑はかけられない。私はエプロンの胸元に手を伸ばした。

「これ、確認していただいても構いません」

小さなピンバッチを指さす。風子が眉を吊り上げる。

「録画と録音の機能があります。作業中は常に記録されていますので」

周囲の何人かが頷く。これはこの現場のルールだった。全ての清掃員が同じものを装着している。私に嫌がらせをしていた清掃員たちが外されたのは、このピンバッチに記録された証拠があったからだ。一瞬、風子の動きが止まる。

「そんなものつけてるなら、最初から言いなさいよ」

強気な口調を保とうとしているが、どこかぎこちない。私は何も返さなかった。その時、別の清掃員が小走りで近づいてきた。

「すみません。これ」

手に持っていたのは紙の束だった。コーヒーで汚れた跡がはっきり残っている。

「庭の隅に埋まってました。でも、大事なものじゃないかと」

「返しなさい」

青ざめた風子が勢いよく紙の束を奪い取った。彼女は無言で目を落とした。数秒が過ぎた後、顔を上げる。引きつったような表情だった。

「間違ったわ」

背を向け、そのまま足早に去っていった。残された人たちは互いに顔を見合わせる。あまりにも一方的すぎて、言葉が出てこない。

「えっと、どういうこと?」

誰かが呟く。私もよくわからないが、おそらくあの書類にコーヒーをこぼして汚したのは風子本人なのだろう。それを私になすりつけようとしただけらしい。他人に責任を押し付けて見下し、己の優位を確かめたかったのだろう。

2週間後、その日は朝からどこか慌ただしかった。廊下を行き交う使用人たちの足取りが早い。会話の声も普段より多く、落ち着かない空気が漂っていた。

「今日、旦那様が帰ってくるらしいよ」

囁き声が耳に入る。私はその情報を頭の片隅に置きながら作業を続けていた。いつもと同じ手順で同じように進めていく途中で、ふと違和感に気づいた。指先にあるはずの感触がない。視線を落とすと、左手の薬指。そこにあるはずのものがなかった。

結婚指輪はいつも身につけていて、外した記憶はない。いつどこで落としたのか。理由はいくつか思い当たった。体重が落ちて指が細くなったことや、洗剤で滑りやすくなっていたこと。どれもあり得るけれど、今は原因よりも場所だった。私は呼吸を整える。慌てる必要はない。動きを乱せば周囲も巻き込んでしまう。まずはいつも通りに作業を続けつつ、手を伸ばす範囲を少しだけ広げた。さりげなく探し続ける。

その間にも屋敷の中はさらに騒がしくなっていった。玄関付近から人の出入りが増える。何かの準備が進んでいるのだろう。私は別の場所へ移動しながら考えていた。どこにも見当たらない。胸の内側が熱くなる。落とした場所によっては、もう見つからない可能性もある。しかし、動きを止めるわけにはいかなかった。

その時だった。廊下の先に見覚えのある姿があった。風子だ。何かを指先でつまみ上げている。光を受けて小さく反射する。その光景を見た瞬間、理解した。私の指輪だ。風子はそれを掲げ、興味のなさそうな様子で眺めていた。私は足を止め、静かに呼吸を整え、そのまま歩み寄る。

「奥様、それ私のものです。大事なものなので、返していただけますか?」

できるだけ落ち着いた調子で言う。風子は目をこちらに向ける。

「あんた、結婚してたのね。どうせ旦那もつまらない男でしょ。低学歴、収入の」

指輪を軽く揺らしながらの吐き捨てるような言い方だった。私は何も返さない。ひたすらじっと見つめていると、風子は肩をすくめる。

「ほら、取ってきなさいよ」

指輪をポイっと放り投げた。まるで犬猫に指示するように。床に当たり軽く跳ねる。小さく音を立てながら転がっていく。私は反射的に動いた。視線で追い、手を伸ばす。転がる方向を見極めながら足を踏み出す。指輪は廊下の先へと転がっていく。そして靴の先、誰かの足元に当たってようやく動きが止まった。私はその場にたどり着き、しゃがみ込む。指輪を拾い上げ、手の中に収まった瞬間、ようやくほっと息が吐けた。

「よかった」

小さく呟く。立ち上がろうとして顔を上げる。目の前に人が立っていた。磨かれた黒い靴に整えられたスーツ。1人の男性が「なんだこいつ」と言わんばかりにこちらを睨んでいた。初めて見るはずの人物なのに、記憶の奥に引っかかる。頭の中に断片的な映像が浮かんだ。重なる印象。思考が一気に繋がる。私はその人を見つめたまま、言葉を漏らした。

「あなた、もしかして」

確信をつく寸前で口が止まった。目の前の男性は、私の声が聞こえていたのか、分かりやすく動揺し始める。先ほどまでこちらを睨みつけるように見下していたのに、空気が一変したのだ。

「なんでお前がここに?」

低く漏れた音は歓迎とはほど遠いものだった。もしや向こうも覚えているのか?首をかしげかけたところで、後ろから華やかな香水の匂いが近づいてきた。風子だ。彼女は甘えた仕草で男性、高一郎の腕に絡みつき、上気のまま身を寄せた。

「お帰りなさい。長旅で疲れたでしょう」

「おお」

高一郎は返事をしているのに、意識は別のところに向いている様子。視線は何度も私へ戻ってくる。風子に腕を引かれ、使用人たちに迎えられ、平静を装おうとしているが、それでも落ち着かない様子が隠しきれていない。私は手のひらの中の結婚指輪を握りしめる。

どうしてこんな反応をするのだろう。確かに私は彼を覚えている。10年以上も前に、ほんの短い間だけ関わった男だ。こちらにとっては不愉快な記憶として残っている程度の存在だった。だからまさか、勤務先の豪邸の住人の1人として再会するなど想像もしなかったのである。向こうの反応は偶然見覚えがある程度ではなかった。まるで見つかってはいけない相手に出くわしたような、そんな慌て方。

「あなた、どうしたの?」

「なんでもない。少し疲れてるだけだ」

風子は気づいていないらしい。高一郎のぎこちなさにも、私との間に流れた妙な空気にも。ゆっくりと記憶をたどる。遠い昔の出来事が鮮やかに蘇ってきた。

あれはまだ20代だった頃。当時の私は出版社で編集の仕事をしていた。取材先との打ち合わせ、原稿の確認、構成、撮影の立ち合い。毎日忙しく働いていたが、忙しさそのものは嫌いではなかった。問題のきっかけは私の容姿である。自分では努めて地味な格好をしていたはずだが、目の肥えた人は騙せなかった。

編集部に入って間もない頃から、社内外で妙に目立ってしまう。取材先で「読者モデルもできますよね」などと半分冗談のように言われることが何度かあった。ただ、私は毎回きっぱり断っていた。使う側であって、使われる側になりたいわけではなかったからだ。ところがある時、編集長に頼み込まれる。当時、雑誌では新しい企画を打ち出そうとしていた。読者の関心を引くため、あえてプロフィールを一切明かさない謎のモデルを起用するというものだ。予定していたモデルが急に飛び、代役探しが難航している。

「1回だけでいい。いや、最長でも1年で終わらせるから」

と頭を下げられた。断りたかったけれど、人手が足りない時期でもあり、普段から世話になっていた上司にそこまで言われ、結局押し切られてしまった。こうして私は編集者でありながら、モデル「N」としても活動することになった。本名も年齢も私生活も明かされない。紹介文に載るのは一言のキャッチコピーだけ。撮影現場でも必要以上の接触は避け、私生活が漏れないよう徹底されていた。

普段の私は地味な服装にまとめ、薄い化粧、伊達メガネというどこにでもいる編集者。ところが撮影となると、服も髪も雰囲気も一変する。スタイリストとヘアメイクの手にかかれば、見慣れた自分が知らない誰かのようになっていく。その状態でカメラの前に立つと、不思議なくらい気持ちが切り替わった。モデルの中のNは堂々としていた。自然の置き方、立ち姿、歩き方。編集者として撮影現場を見てきた経験が役に立ったのだと思う。どう動けば画面映えするか、なんとなく分かっていた。

結果として企画は思った以上に受けた。「プロフィール不明の美貌のモデル」そんな文句までつき、界隈では少しずつ話題になっていった。読者アンケートでも反応は良く、企画延長を望む声まで出る始末。ただ、私としては溜まったものではない。仕事が増える上に、外では正体を隠すためより注意を払う必要がある。撮影の度に服を変え、髪を整え、人のように振る舞う。その一方で普段は何事もなかったように編集部で原稿を抱えて走り回った。上司との約束は1年。私は毎月カレンダーを見ながら、早く終わって欲しいと願っていた。

Nとして注目されるほど、面倒ごとも増えていった。編集部には読者からの手紙が届くことがある。感想や質問、企画への要望。珍しい話ではない。ところが、ある時期からN宛の封筒や小包みだけが不自然なほど増え始めた。最初は人気企画なのだからそんなものだろうと思っていたけれど、束になった封筒を仕分けていた後輩が引きつった笑みを浮かべながら私に回してきた時点で、猛烈に嫌な予感がする。

「先輩、またです。差出人、ほぼ同じです。ちょっとやばいですよ」

机の上に積まれた封筒は色も紙質もバラバラなのに、文面の癖や差出人の書き方に共通点があった。筆跡も似ている。中には高級そうな箱まで混ざっていた。私は手袋をつけ、慎重に中身を確認した。開けた瞬間、甘ったるい香りが漂う。手紙には飾った言葉がびっしり並んでいた。「一目惚れしました」「君は俺にふさわしい女性だ」など。さらに「必ず会えると信じている」「他の男たちとは違う本物の愛を教えてあげる」という言葉の羅列。読んだ瞬間、背中が寒くなる。

この雑誌の主な読者層は女性だ。そこへほぼ1人の男から執着混じりの手紙や贈り物が何度も届いている。「気持ち悪い」という感想しか出てこなかった。上司に相談すると、すぐに総務へ話が回された。編集部に届く郵便物は1度確認し、危険がないか調べることになる。けれど、その人物は懲りなかった。封筒が届き、言葉は徐々に馴れ馴れしく、思い込みの強い内容へ変わっていった。「君はまだ気づいていないだけだ」「俺を選ぶのが正解だ」「君の横に立てる男は俺しかいない」など。封筒を手に取るたびため息が出る。どこから湧いてくる自信なのか、理解したくもない。差出人の名前も覚えてしまった。御崎高一郎。

今になって思えば、清掃員としての仕事中にその名前を認識した瞬間、もっと強く警戒するべきだったのかもしれない。私はまさかこんな形で再会する未来が待っているとは思いもしなかったのだ。

数日後、編集部の空気が変わった。昼休みが終わった直後、フロアの一角で小さな騒ぎが起きていた。社員の1人が上司に詰め寄るように話している。

「昨日、帰り際に呼び止められて、問い詰められたんです」

「どこで?」

「ビルの前です。Nのことを聞かれて」

そのやり取りは、少し離れた場所にいた私の耳にもはっきり届いた。どうやら例の手紙の差出人が、ついに直接行動に出たらしい。待ち伏せをしていたのだろう。誰彼構わず声をかけて、情報を引き出そうとしている。

「どこにいるんだ?隠してるんだろ。すごい剣幕で」

別の社員も口を挟む。

「私も帰りに後をつけられたことあります」

さらに別の声が続く。

「受付に変な電話が何度もかかってきてるし、荷物に差出人の名前が書いてないものが増えてます」

散発的だった出来事が1つの流れとして繋がっていく。編集部への嫌がらせ、出待ち、つきまとい。状況は明らかに悪化していた。上司は腕を組み、しばらく考え込んだ後、私を呼んだ。

「ニコさん、少し来てほしい」

会議室に移動する。ドアが閉まる音がやけに重く感じられた。

「このまま続けるのは危険だと思う」

私は頷いた。

「来月号を最後に、Nの企画は終わらせる」

その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが解けた。

「ありがとうございます」

自然と頭が下がる。

「こっちの都合で引き受けてもらった形だから、これ以上無理はさせられない」

彼女の表情は申し訳なさと安堵が混ざっていた。私は深く息を吐く。やっと終わる。企画から解放され、本来の業務に集中できる。もう例の手紙や贈答品に目を通す必要もない。肩の力が抜けていく。その日の仕事はいつもより軽く感じられた。

夕方になり、私は会社を出た。今日はイクトと食事の約束をしている。その頃はまだ友人関係だった。少し歩いたところで足が止まった。背後から視線を感じた気がしたのだ。振り返ると、見知らぬ男が立っていた。距離はそれほど近くないが、こちらをじっと見ている。胸の内側がざわつく。

「あの、何か」

何を思ったのか、私はつい声を出してしまった。無視すればよかったと思っても、もう遅い。その男がつかつかと歩み寄ってきた。

「お前もあの編集部の人間だろうな。Nはどこだ?」

唐突な発言だった。距離が一気に詰まり、私は反射的に一歩下がる。

「あの、どなたですか?」

「とぼけるなよ」

苛立ちを含んだ調子で彼は続ける。

「N、知ってるよな?知らない人間なんてもうこの世にいないはずだ。俺のこともちゃんと伝わってるだろ。あんなに手紙とプレゼントを送ったんだから」

不意に理解した。彼があの手紙の差出人だ。御崎高一郎という男。外見はそれなりにハンサムだと思う。だが今の私にとっては嫌悪感の対象でしかない。

「ずっと待ってるのに、全然会えない。なんでだよ。なんで俺たちの運命を阻もうとするんだ」

彼は一方的に言葉を重ねる。

「会社で暮らしてるのか。それともどこかに匿われているとか。大変だ。俺が助けないと」

内容は支離滅裂だった。現実と妄想の境目が曖昧になっている。しかも、結局彼は私とNが同一人物であることには気づいていない。今の私は地味な格好で武装しているので、当然ではある。私は距離を保ったまま慎重に言い返す。

「申し訳ありませんが、何もお答えできません」

端的に伝え、横をすり抜けようとする。その瞬間、腕を掴まれた。強い力だった。反射的に全身が強張る。

「はあ?おかしいだろ。会えないなんて絶対にありえない。Nだったら、俺のことを知ってるはずなんだから」

力がぐっとさらに強まる。

「お前らが隠してるんだろう。早く合わせろよ」

自分の体が大きく揺れたことに、少し遅れて気づいた。突き飛ばされたのだ。足元が崩れ、視界が傾く。転ぶと思ったその時だった。腕を引かれ、支えられる。顔を上げると、そこにイクトがいた。

「ニコ、大丈夫?」

短い問いかけだが、心がこもっている。私は震えながら頷いた。

「うん」

イクトは一歩前に出て、私を背中側へと隠す。自然な動きだったが、はっきりとした意思が伝わってくる。

「何してるんですか?」

落ち着いた様子で彼が尋ねる。私が待ち合わせ場所に遅れているから、迎えに来てくれたのだろう。高一郎は動きを止めた。目の前に立つイクトの体格を見て、わずかに戸惑い、距離を測るような仕草をする。彼は体格がいいのだ。イクトはさらに一歩踏み込んだ。目をそらさず、相手の正面に立つ。

「彼女、困ってるようでしたよ。無理やり迫るなんて、男の風上にも置けませんね」

「あ、はあ。何言ってるんだ。そんな地味な女、興味もない。俺の目的はただ1人」

「さっきからわけのわからないことばかり。これ以上続けるなら、こちらも対応します」

そう言って、イクトはポケットからスマートフォンを取り出す。操作する手つきは迷いがない。画面を見ながら通話の準備を進める。

「今の状況を説明すれば、すぐ来てもらえますよね。もしもし、警察ですか?」

あくまで事務的な調子だった。しかし、その一言で高一郎は動揺し、言葉を飲み込むような仕草をする。数秒の沈黙の後、吐き捨てるように言う。

「くそ、覚えてろ」

そのまま歩き去っていった。イクトはすぐには動かなかった。相手の背中が完全に見えなくなるまで、その場に立ち続ける。やがてこちらへ向き直る。

「大丈夫?怪我はないか?」

「助かった。ありがとう。怪我も大丈夫。イクトが支えてくれたから」

イクトは小さく息を吐いた。

「さっきの人、知り合い?」

「違う、初めて見た」

正確には手紙の差出人として名前は知っていたけれど、それ以上の関係ではない。私は俯いてしまう。後で上司には報告しなければと考えていた。彼はこちらの心情をおもんぱかってか、追求しなかった。

「とりあえず、ここを離れよう」

背中にそっと手を添えてくれる。私とイクトは並んで歩き出す。しばらく無言が続いた。先ほどの出来事が頭の中に残っている。しかし、不思議と怖さは消えていた。隣を歩く存在のおかげだろう。言葉がなくても安心感があった。

その日の食事はいつもより会話が増えた。内容は取り留めのないものだったが、どこか距離が近くなったように感じる。あの出来事をきっかけに、私たちの関係は少しずつ変わっていった。友人としての時間が長かった分、その変化はゆっくりだった。それでも確実に前とは違う形へと進んでいく。

回想が途切れる。目の前の現実へと戻った。私は改めて高一郎を見る。過去の頃と変わらない。いや、むしろ内側にある歪んだ思考がより濃くなっているように感じた。目が合う。高一郎は険しい様子を崩さない。そのまま風子の腕を軽く押しのけた。

「ちょっと、何するの?」

不満げな声が上がるが、気にする様子はない。彼は私のすぐ近くまで距離を詰め、周囲に聞こえない程度の声量で言った。

「なんで俺の家にいるんだ?手切れ金は渡しただろう」

一瞬、意味が分からなかった。

「まだ足りないのか?貪欲な女だな。俺とお前じゃ立場が違うんだよ」

続けられた発言でようやく理解する。無言で高一郎を見上げた。彼は私を思い出したわけではない。別の誰かと勘違いしている。それも、あまり表沙汰にできない事情がありそうな関係性の人物と。先ほど受けた高一郎の印象を思い返し、妙に納得が言った。人間の中身というのは、こうも変化しないものなのか。私はゆっくりと息を吐いた。

「どなたかとお間違いのようですね」

淡々と伝える。

「私はただの清掃員です」

立ち上がり、手の中の指輪をポケットへ入れる。落とさないようにしっかりと抑えた。もう一言付け加える。

「奥様もいらっしゃる前で、そのようなお話をされるのはどうかと思います」

はっきりと声に出したせいだろう。空気が一瞬止まる。風子がこちらを見た。眉がわずかに寄っている。

「え?何の話?」

苛立ちが混じる彼女の反応。高一郎の動きも途端にぎこちなくなった。私は彼が動揺したのだと思ったが、それだけではない。怒りも混じっているようだ。高一郎の顔が赤くなり、次の瞬間、彼の腕が大きく振り上がった。私は思わず身構える。大きく振りかぶられた腕が勢いよく落ちてくる。そう思った瞬間だった。別の手がその動きを止めた。しっかりとした力で高一郎の手首を掴んでいる。女性の手だった。

「うちの大事な社員に何をしているの?兄さん」

落ち着いた言い方だったが、圧があった。その声に周囲の空気がまたがらりと変わる。視線を向けた先に立っていたのは社長だった。私は思わずその姿を見つめた。以前会社で見た時と同じ、無駄のない立ち姿と相手をまっすぐ捉える目。彼女は「兄さん」と高一郎を呼んだ。同時に、豪邸に掲げられた苗字が重なる。2人の苗字は御崎。ようやく繋がった。この2人は兄弟だったのだ。

考えが追加で1つ浮かぶ。私たち清掃員をこの屋敷に派遣する手配。あれを決めたのは社長だったのではないか。彼女は会社の社長であると同時に、この屋敷に関わる立場の人間でもある。1番に敬意を払うべき存在だと思うと、自然と背筋が伸びた。社長は高一郎の腕を離し、私の方へ向き直る。

「大丈夫ですか?黒部さん」

柔らかい口調は、以前研修を終えた頃にかけられた言葉と同じ響きだ。少しだけ安堵感が戻る。

「はい、大丈夫です」

短く答える。彼女は小さく頷き、再び高一郎へ視線を戻した。彼は苛立ちを隠さない。手首をさすりながら声を荒げる。

「その女が先に無礼を働いたんだ。社員の教育ぐらいしっかりやっとけ」

責任を擦り付けるような物言いだ。社長は反応を急がなかった。一拍置いてから私を見る。

「そうなんですか?」

私は首を横に振った。

「違います。先に侮辱的な発言をしてきたのはそちらです」

真っすぐな視線を高一郎へとぶつける。睨まれたと思ったのか、彼はひるんだ。

「なんで俺の家にいるんだ。手切れ金は渡しただろう。まだ足りないのかと」

言われたセリフをそっくりそのまま繰り返す。空気がピリッとした。

「誰と勘違いしているのか知りませんが、非常に不愉快でした」

はっきりと伝えると、沈黙が落ちる。困惑している風子が前に出た。

「ちょっと、さっきからどういうこと?あなた、この清掃員と知り合いなわけ?」

高一郎に向けられた問いだが、答えは帰ってこない。彼は必死に反論を探している様子だった。先ほどまでの強引さは影を潜めていた。社長は高一郎と風子を順に見る。状況を整理しているようだ。その場にいる人数はいつの間にか増えていた。私、高一郎、夫婦、社長、そして少し離れた位置に他の清掃員や使用人たち。誰も口を挟まず、空気が重くなる。均衡が崩れる直前のような張り詰めた状態。その中心に私は立っていた。

不意に、さらに重みのある気配がそこに加わった。

「玄関先で一体何を騒いでいる?」

低く通る、威厳のある声。みんなの目が一斉に向かう。ゆっくりと近づいてくる車椅子。そこに座っていたのは1人の老人。社長と高一郎の父親である正だった。高一郎の動きが縮まる。肩が小さくなり、視線が揺れていた。強気な態度が無惨していく。実の父親に対し、ひどく緊張し怯えているようだ。正はどうやら社長と一緒に来たらしい。社長はすぐに父親のそばへ歩み寄る。

「お父さん」

その呼び方には、形式だけではない関係性が滲んでいた。車椅子を押しているのは秘書らしき男性だった。動きに無駄がなく、周囲をよく見ている。私はその様子を見ながら考える。正は無事退院したのだろうか。入院中と聞いていた人物がこうして目の前にいるとなれば、場の意味合いが変わってくる。風子はくねくねと前に出た。

「あら、お父様。お帰りなさいませ」

先ほどとは打って変わった媚びた口調。甘さを含ませた言い方で、露骨な態度の変化に違和感を覚える。正は彼女に顔を向ける。一瞬だけ間があった。

「風子さんか。随分と忙しかったようだな。1度も見舞いに来ないとは」

声の温度がぐっと下がる。風子は言葉を失った。返すセリフが見つからないのか、口を開きかけて閉じる。正は視線を外し、状況を見渡す。私はその流れを見ながら内心で呟く。何やら巻き込まれそうだ。家族の問題。そこに外部の人間が関わるとろくなことにならない。指輪も見つかったし、退散すべきだろう。そう思った瞬間、正と目があった。

ほんの一瞬の出来事だが、胸の中で何かがことりと動いた。彼の瞳が大きく見開かれる。驚きがはっきりと分かる変化だった。

「あなたは、もしかしてニコさん?」

名前を呼ばれ、私も思わず息を呑む。先ほど自分が高一郎に向けた言葉と似ている。既視感を覚え、同時に再び記憶の引き出しが動き出していた。

あれは新婚旅行の時だった。イクトと2人で訪れた温泉地。観光地として有名な場所で、平日でも人の流れは多かった。石畳の道を歩きながら土産物屋を覗き、気になる店に入る。そんな時間を楽しんでいたが、途中で違和感に気づいた。道の端に1人の老人がうずくまっていたのだ。行き交う人たちは気づいていないのか、関わりたくないのか足を止めない。私は思わずイクトの腕を引いた。

「ねえ、あの人」

イクトは視線を向ける。状況を確認すると、すぐに動いた。

「あの、すみません。大丈夫ですか?」

声をかける。老人はゆっくりと顔を上げた。それが御崎正との出会いだ。

「ああ、すまない。少し体調が悪くてな」

息が浅く、顔色も良くない。ただごとではないとすぐに分かる状態だった。

「どこか休める場所へ行きましょう」

イクトと顔を見合わせる。言葉を交わさなくても考えは同じだった。2人で支えながら、近くの広場のベンチへ移動する。正は何度か呼吸を整えた後、小さく言った。

「薬を持ってきたはずなんだが」

彼は鞄の中からポーチを取り出し開ける。中を探るも、目的のものが見当たらないらしい。

「ないんだ。何度確認しても」

その表情に焦りが混じっている。

「近くの病院へ行きましょう」

迷う余地はなかった。イクトもすぐに頷く。タクシーを呼び、近くの病院へ向かう。診察を受け、処置が終わるまで私たちはその場に残った。受付の椅子に座りながら時間を過ごす。やがて正が戻ってきた。顔色は少し落ち着いていた。

「薬を出してもらえることになった。2人とも本当にありがとう」

その一言に重みがある。

「気ままな1人旅でな。薬も確かに持ってきたはずだったんだが」

少しだけ視線を落とす。

「きっと息子の仕業だ」

小さく呟く。意味は分からなかったが、どこか不穏だ。私たちはそれ以上何も聞かなかった。他人が余計に踏み込むべきではないと思ったからだ。イクトが口を開く。

「宿までお送りします」

だが、正は首を横に振る。

「そこまで世話になるわけにはいかない。ここまでで十分だ。ありがとう」

はっきりとした拒否だった。

「そうですか。では、お気をつけて」

正はしっかりと頷く。そのまま別れた。

記憶はさらに続いていた。翌日、私はイクトと前日とは別の通りを歩いていた。土産物が並ぶ賑やかな場所で立ち止まる。人の列ができている。その中に見覚えのある背中があった。

「あれ?あの人?」

イクトもすぐに気づく。

「昨日の方だな。確か正さん」

近づくと、やはり同じ人物だった。何かに苦戦している様子で、店員とやり取りをしている。手元にはスマートフォン。どうやら電子決済がうまくいっていないらしい。

「こちらの画面で。うむ。だが反応しないんだ」

説明を受けても操作が進まないようだ。イクトが自然に前へ出た。

「少し見てもいいですか?」

許可を得て画面を確認する。ハッとしたように彼を見る正。

「ここをこうして、これで通るはずです」

操作を補助する。しばらくして決済が完了する音が鳴った。

「ありがとうございます」

列を外れると、正は小さく息を吐く。

「またすまない」

肩を落とすような仕草。昨日の体調不良でありながらも堂々とした雰囲気とは違い、どこか頼りなさが混ざっている。

「気にしないでください。慣れれば簡単ですから」

正は少しだけ笑みを浮かべた。そのまま別れるには、なんだか少し気が引けた。昨日の様子を思い出す。1人で行動していて体調を崩していた。今日もまた困っている場面に出くわした。このままではせっかくの旅も楽しめないのではないか。無言でイクトに目配せする。

「もしよければ、今日は一緒に回りませんか?」

正は目を丸くする。

「いや、それは」

「遠慮しないでください。それもすり合わせも、多少の縁というものでしょ」

2人で説得すると、彼はわずかに悩んだ後、答えを出した。

「では、少しだけ世話になる」

口元にはほんのりとした笑みが浮かんでいた。その日の予定は3人で回る形に変わる。観光地を歩き、店に立ち寄り、食事をする。特別なことはしていない。途中、私たちが新婚旅行中だと知った正は驚いていた。改めて遠慮しようとしていたが、イクトと共に押し切った。時間は穏やかに流れていく。正は時折り昔の話をした。

「実は今回の旅行は思い出の旅なんだ。昔、家族で一緒に泊まってな」

「そうだったんですね」

「ああ、もう子供たちも成人して、家の中が少しぎくしゃくしていてな。私も仕事で気を詰めすぎていたから、気晴らしにと思って」

仕事のこと、若い頃の経験、旅先での出来事。どれも短い話だったが、聞いていて飽きることはなかった。イクトも自然に会話に入り、興味のある話題には質問を投げる。私はそのやり取りを横で聞きながら、時折り口を挟んだ。気づけば時間が過ぎていた。夜になり、別々の宿へと戻る頃、正は足を止めた。そして私たちの方へ向き直る。

「今日は本当に世話になった」

深く、深く頭を下げる。迷いのない動きだった。

「この恩は一生忘れない」

はっきりと言い切る。イクトは少し困ったように「大げさですよ」と軽く返す。正も表情を緩めた。

そこで記憶の再生が終わり、現実に戻る。私は改めて正を見る。あの時よりもずっと白髪の数が増えた彼だが、確かに同じ人物が今目の前にいる。

「あ、そういえば」

小さく呟く。あの時、名刺をもらっていたはずだ。名乗られもしたのに、すっかり忘れていた。まさか御崎一家がここまで私の人生に食い込んでいるとは。なぜ忘れていたのか。考えてみれば理由は単純だった。新婚旅行の記憶はイクトとの時間で満たされている。その中で出会った人の情報は後回しになっていた。印象よりも思い出の比重が大きかった。だから名前と関連性がすぐに出てこなかったのだろう。

正は私を見つめたまま言う。

「イクトさんのことは、本当に残念だった」

時間の隔たりが一気に埋まるようなセリフだ。どうやら私の事情は知っているらしい。

「入院中でな。葬儀には直接は行けなかった。秘書に代わりに参列させたのだ。あなたは気づかなかったようだが」

葬儀の前後、私はずっと呆然としていて、周りを見る余裕などなかった。御崎正という名前を確認できなくても仕方ない。私は姿勢を正した。

「お久しぶりです」

遅れてしまった挨拶。思いもよらぬ状況ではあるが、きちんと伝えたかった。正の表情が柔らいだ。

「まさか広根のところで働いているとは」

驚きと喜びが混ざっている様子。私は軽く頭を下げる。声は小さく、言葉は短くても、意味は十分に伝わる。社長は少し離れた位置で、状況を整理するようにこちらを見ていた。一方、高一郎と風子は茫然と抜けた表情をしている。場の空気が再び変わり始めていた。

正は秘書の手を離れ、ゆっくりと車椅子を前へ進めた。気づけば私の前に出る形になっていた。まるでかばうように。

「この女性は私の恩人だ。乱暴に扱うことは許さん」

その一言はさほど大きな声ではないのに、玄関フロア全体に響き渡った。風子の動きが止まる。先ほどまでの余裕が消え、目の前の状況を理解しきれていない。高一郎は言葉を失っていた。そういえば、とふと思い出す。彼は私を誰かと勘違いしていたのだ。そこでさらに正が私をかばい始めたから、混乱の極みだろう。正の視線がゆっくりと彼の方へ向く。

「一郎、お前は私が不在の間、随分と好き勝手に振る舞っていたようだな」

疑問符がついてはいるが、発言の形は断定的だった。高一郎が口を開く。

「好き勝手って何言ってんだよ。俺は父さんの代わりに会社を守ろうと」

その言葉は最後まで続かなかった。

「いつ、誰がそんなことを頼んだ」

「確かに父さんに直接お願いされたわけじゃないけど、そこはほら、息子としてさ、先回りして動いたっていうか」

「ほう。勝手に会長職を名乗ったくせに、会社は他の役員や社員に任せきり、自分の通常業務も放置して遊び放題だったくせに」

容赦がない。周囲にいる人たちの目が一斉に高一郎へ向く。軽蔑と失望の混ざったような反応だった。高一郎の顔色も赤くなったり青くなったりと忙しい。

「ち、違う。それは俺だって会社のために動いてたんだよ」

正はやれやれというように息を吐いた。

「自分を後継者として認めさせるために、積極的に会長として振る舞ったというのならまだ分かる。私も内心で頷く。だが、先ほども言った通り、お前は仕事など一切しておらん。これは確認済みだ。ただ会長という椅子に座り、むやみやたらとふんぞり返っただけだ」

はっきりと断じる正。完全に形勢が傾いた。高一郎は何も言い返せない。握った拳に力が入っているのが分かる。悔しいのだろう。風子が慌てて横から口を開く。

「あの、お父様。そんな言い方はどうかと思いますわ。高一郎さんも頑張っていて」

取り成そうような言葉も、すぐに遮られた。

「会社の金を使って海外旅行を楽しんでおいて、一体何を頑張ったというのだ」

言い切られて、風子の動きが静止した。どうやらその事実は知らなかったらしい。視線がぎこちなく高一郎へ向く。問いかけるような目だが、彼はそれに答えない。場の空気がさらに重くなる。正は2人の様子を一瞥し、ゆっくりと続ける。

「会社を預かるものには、それ相応の責任がある。立場は飾りではない。結果を出し、社員たちの生活を守るために存在するものだ」

周囲にいる誰もが口を挟めない。その場を支配しているのは正の圧倒的な存在感。最後に結論が示される。

「高一郎。お前は後継者にはふさわしくないな」

「なんだと?」

「ずっと考えていたが、会社を任せるのは広根がいいだろう」

正の目は社長を捉えた。

「え、そんな、冗談でしょ?」

風子の震える声がこぼれる。高一郎はその場に縫いつけられたように固まっている。私も気づけば息を呑んで状況を見守っていた。社長はわずかに肩をすくめる。

「もう、お父さんたら。私だって自分の会社だってあるんだけどね」

ため息混じりの物言いだが、拒否ではない。受け止める準備がある人間の反応だった。私は思い出す。清掃会社の社長以外にも、複数の事業を抱えているという話。つまり、既に経営者としての実績がある。正は口元を緩める。実の娘を慈しみ、尊敬の念もこもっている微笑み。

「だからこそだ。重さを理解しているものに任せるべきだろう」

決定的だった。社長と正は視線だけで通じ合っている。かつての私とイクトのように。私は自然と両手を握りしめていた。ほんの数分前までただの清掃作業の一部だった時間が、今、大企業の行方を決める場面へと変わっている。あまりにも現実離れしているが、確かに目の前で起きている出来事だった。私は思う。とんでもない場面に立ち合っていると。

正の発言が場に沈黙をもたらした。しばらく誰も動かない。固まりかけた空気を破ったのは風子だった。

「ま、待ってください。お父様、今の発言、考え直して」

必死に訴えかける彼女。

「私のお腹には、高一郎さんとの子供がいるんです。昨日病院に行ってきました。確定です。だから、どうかお願いします。高一郎さんを後継者に」

絞り出すように続けられたセリフは、真実にしろそうでないにしろ、周囲の同情を誘おうという意思が透けて見えた。私は小さく首をかしげる。風子の妊娠が今の流れを覆す理由になるのだろうか。会社の後継者の話と子供の存在。結びつきが見えないが、彼女の中では重要事項なのかもしれない。正と社長の方へ視線を動かす。2人とも驚きではなく、理解が追いつかないといった様子で呆然としている。そしてもう1人、高一郎。彼ははっきりと目を見開いていた。予想外の対応をぶつけられた人間の反応。再び風子の方を見る。自分の言葉がどう受け取られているのか分かっていない様子だった。

「あの、何ですか、その反応?」

戸惑いがにじむ風子に、正が静かに口を開いた。

「高一郎は、子供が作れない体質のはずだが」

場の空気がビシリと凍りつくのを感じる。それほど衝撃の強い一言だった。

「え」

風子から短い、抜けた声がこぼれる。正はすっと目を細めた。

「風子さん、本当に妊娠したのかい?それは本当に高一郎との子供なのか?」

重ねられた問い。逃げ場はない。風子はお腹に手を当てたポーズのまま、固まってしまった。高一郎が前に出る。

「おい、どういうことだ?子供って」

低く問い詰める彼の目つきがぎろりと鋭くなった。風子はずっと呆然としている。まさか自分の夫に話してないとは思わなかった。

「確かに不妊というのは重大な事象だ。夫婦なら知っているのが普通だろう」

ぽつりと社長が呟く。すると、隠していた高一郎の方にも責任があるのか。私はふと思い出した。清掃作業中、庭の奥にある倉庫の前を通りかかった時のこと。扉が開いており、中へ入っていく人影が見えた。風子だった。その後ろにはもう1人、見知らぬ男性が。2人はこそこそと周囲を伺いながら、暗がりの中へ消えていった。明らかに怪しいが、その場では深く考えなかった。業務とは直接関係のない出来事だったからだ。今の状況を見て、その記憶がはっきりと形になる。私は何も言わなかった。わざわざ追い詰めなくても、十分に状況は動いている。

風子は誰にも助けを求められず、視線を彷徨わせていた。高一郎の目差しが突き刺さる。正と社長は冷静にその様子を見ている。その時だった。玄関の扉が勢いよく開いた。バーンと大きな音が響く。全員の意識が一斉に向いた。そこに立っていたのは1人の女性だった。息を荒くし、肩で呼吸をしている。髪は乱れ、目には強い光が宿っていた。まるで何かに取り憑かれたような気配。その顔を見た瞬間、高一郎が小さな悲鳴を上げた。

「お、お前、どうしてここに?」

彼はずりずりと後ずさるが、女性は構わずずんずんと前へ進む。足取りに迷いはない。

「ふふ。あんな金で済ませるなんて、ひどいじゃないの」

腹の底から絞り出したような、低い声だった。

「私の8年を返せ。この独身偽装浮気野郎。くたばれ」

叫びを叩きつけながら、高一郎へ向かって一直線に走り出した。距離が一気に縮まるが、途中で止められた。秘書が素早く前に入り、女性を取り押さえる。腕を背中にひねり上げ、動きが封じられた。それでも女性は暴れ続けた。

「離しなさい。あいつに話があるのよ。このクソ野郎」

私はその光景を見ながら理解した。どうやら彼女は高一郎の浮気相手らしい。私はこの人と勘違いされていたのだ。確かにぱっと見の雰囲気は似ている。黒髪を1つにまとめ、眼鏡をかけていた。遠めに見れば印象が重なるかもしれないが、顔立ちは全く違う。高一郎は自分がもて遊んだ女性の顔もろくに覚えていないのだ。私は呆れた。状況はさらに混沌と貸していく。風子が高一郎にぐいっと詰め寄った。

「ちょっと、この女、何なの?そっちこそちゃんと説明して」

形成逆転とばかりに鋭い声で叫ぶ。先ほどまでとは逆で、今度は高一郎が追い詰められる側になっていた。高一郎は目を泳がせながら言い訳を探している。女性ははっきりと「独身偽装」「浮気」と口にした。彼の罪は相当重いようだ。想像は膨らみ、周囲もざわつく。使用人たちが小声で話す。清掃員たちも動きを止めたまま様子を見ていた。場は完全に収集がつかなくなっている。

その時だった。

「静まれ」

重く低い一言。その声だけで全てがぴたりと止まった。誰も動かず、言葉を発さない。空気が一瞬で切り替わる。正は周囲を見渡す。状況を1つずつ確認するように、あるいは無関係な人々を安心させる意味合いもあるのだろう。

「このままでは話にならん。場所を移す」

それだけで次にすべきことが決まった。秘書が女性を抑えたまま共に移動する。高一郎はがっくりと肩を落として従う。風子は不満を残した様子でどすどすとついていった。静かにその流れに加わる社長。みんながそれぞれの役割を果たすために動き出す。

私はなんとなくその場に立ち続けていた。玄関ホールに静寂が戻る。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだった。ゆっくりと息を吐く。視線の先には去っていく背中が並んでいる。それぞれが違う思惑を抱えているように見えた。私は動かずじっと見送る。頭の中は完璧には整理しきれていない。仕事をしていただけのはずなのに、気がつけばお家騒動に近しいものに巻き込まれていた。私は一度目を閉じる。そしてゆっくりと開く。私の現実は何も変わっていない。ずっと見えていたものが、少し角度を傾けて別の側面を表しただけ。こうして、長く濃い1日が終わった。

後の話し合いの中での展開は、想像していた以上にあっけなかった。起きたことは全て明るみに出る。風子の妊娠は事実だった。その相手はやはり高一郎ではない男性。一方で高一郎の方も決して潔白ではなく、むしろより悪かった。長い間独身だと偽り、女性と関係を持ち続けていたのである。女性は若い時間を彼に捧げてしまっていた。高一郎はそれとなく結婚の話を持ち出された途端、面倒になり、金を渡して関係を断ったつもりでいたらしい。だが、相手の女性はそれで納得するはずもなかった。あの日玄関に現れたのは、積み重なった時間と感情が限界を迎えた結果だったのだろう。

全てが明るみになった後、2人は激しく言い争った。

「どうせ他にも女がいるんでしょ。私をバカにしてるの」

「お前に言われる筋合いはない。勝手に子供なんか作りやがって」

そのやり取りを誰も止められなかった。1人を除いて。

「いい加減にしろ」

正の一喝で空気が一瞬で引き締まる。

「責任を果たせないものに、発言する資格はない」

結論はすぐに出た。2人は離婚。風子は屋敷を出て実家に戻ったそうだ。浮気相手はすでに姿を消しており、連絡も取れない状態らしい。結果として、1人で子供を育てることが確定した。高一郎は屋敷を追い出されたが、彼の場合それだけで終わらない。会社からも解雇され、正式に関係を断たれたのだ。高一郎は納得せず、数日間屋敷の前にいたという。門の前で何度も呼びかけ、関係者に食い下がった。しかし、正の判断が覆えることはなかった。やがて諦めたのか、姿を消した。

女性への慰謝料を支払うため、蓄えていた貯金のほとんどが消えたらしい。今は複数の仕事を掛け持ちして生活している様子。性格が変わったわけではないので、横柄な態度を崩さず、働き先でも問題を起こしているらしい。一方で正は再び会長としての役割に戻った。社長と相談しながらも、現場に関わる時間を増やしている。その傍らで、社長が次の体制を担う準備を進めていた。複数の会社を動かしている彼女にとって、負担は小さくないはずだ。それでも、任された責任から逃げる様子は見せない。正の指導を受けながら、1つ1つを引き継いでいるらしい。

あの騒動からしばらくして、私は社長と正から正式に呼び出された。応接室に通され、向かい合う形で座る。2人とも「家のゴタゴタに一瞬でも巻き込んでしまって申し訳ない」と、まっすぐに謝罪をしてきたので、私も受け入れた。そもそも、私は別に怒っていない。

「お詫びをしたい」と言われて、少し考える。

「では、可能であれば別の現場に移りたいです」

屋敷での仕事を続けることもできたけれど、あの日の出来事が強く残りすぎている。新しい場所で改めて働きたい。その後、私はビルや公共施設の清掃を担当することになった。最初は戸惑うこともあったが、もう慣れた。手を入れた分だけ空間が整っていくのが分かる。誰かがその場所を使い、気持ちよく過ごせる。支えている実感。やりがいとはこういうことを言うのだろう。

生活は完全に元通りとは言えないが、前へ進んでいる感覚はある。ある日、仕事を終えて帰る途中、足を止めた。顔を上げる。季節が変わり始めていた。時間は確実に流れている。

「私、頑張るね」

もう少しだけ準備が整ったら、改めてイクトに会いに行こう。彼に今の自分をちゃんと見せられるように。そう思いながら、私は歩き出した。

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