「お母さん、嫌なら出て行ってもらえますか?」
同居初日、まだ荷物も片付いていない中で、息子の嫁・リエから放たれた言葉に、私は凍りつきました。
私は望月しずえ、68歳。今朝、長年住み慣れた家を離れ、息子夫婦の新居に引っ越してきたばかりです。玄関で「これからよろしくお願いします」と挨拶したのは、つい1時間前のことでした。
「お母さん、大事な話があります」
リビングのソファに座るよう促され、リエと息子の健二が向かい側に腰を下ろしました。てっきり生活のルールでも説明されるのかと思っていたら、リエが差し出したのは1枚の紙でした。
「年金振込口座の変更届けです。今、記入してください」
「え?」
「お母さんの年金、月18万円でしたよね。それを私たちの口座に振り込むように手続きしてください」
あまりに唐突な要求に言葉を失っていると、リエは嫌なように続けました。
「同居するなら当然でしょう。生活費として管理させてもらいます」
「でも、私の老後の蓄えは老後のためのものじゃないですか?」
「それにお母さんにお金なんて必要ないでしょう」
リエの冷たい口調に、健二も頷きます。
「母さん、素直に従ってよ。これが我が家のルールなんだ」
「私には私の考えが――」
その時、リエが吐き捨てるように言ったのです。
「嫌なら出てって」
私は息を飲みました。まさか同居初日にこんな言葉を投げつけられるとは。
「りえさん、それは何ですか? 文句でもあるんですか?」
リエは腕を組み、私を見下ろすような視線を向けてきました。
思い返せば半年前のことでした。夫の清吉が他界し、1人になった私を心配した健二が言ったのです。
「母さん、一緒に住もう。新しい家を建てるから」
「でも、お金は大丈夫?」
「僕たちも貯金があるから」
その優しい言葉に私は決断しました。住み慣れた家を売却し、その代金1500万円を息子夫婦に渡したのです。
「これで頭金になるわね」
「母さん、ありがとう。これでリエも喜ぶよ」
あの時の健二の笑顔を信じていました。家族3人で幸せに暮らせると。売却の日、40年間住んだ家を離れる寂しさはありましたが、息子夫婦との新しい生活への期待の方が大きかったのです。庭で大切に育てていた花には別れを告げ、清吉と過ごした思い出の詰まった家を後にしました。
「これからは健二たちと一緒ね」
仏壇の清吉の写真にそう報告したものです。
それなのに、新居について最初に言われた言葉が年金の要求でした。しかも断れば出ていけと。
「お母さん、聞いてます?」
リエの声で現実に引き戻されました。
「あの1500万円は家の頭金でしょう。それとこれとは別です」
「健二の方も持ちます」
「母さん、もう決まったことなんだ。年金の件、よろしく頼むよ」
2人は当然のような顔で私を見つめていました。私の心の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じました。
リエは立ち上がり、キッチンからお茶を持ってきました。ただし、自分と健二の分だけです。
「お母さんのお茶は自分で入れてくださいね。私は使用人じゃないので」
その言葉に私は驚きを隠せませんでした。
「りえさん、私たち家族でしょう」
「家族?」
リエは鼻で笑いました。
「家族ならなおさら年金を渡すべきじゃないですか」
健二も頷きます。
「そうだよ、母さん。家族なんだからお金は共有財産だ」
「でも、老後の医療費とか――」
「病院が?」
私は言葉を潜めました。
「保険証があれば十分でしょう。それにお母さんって健康じゃないですか?」
「今は健康でも、いつ何があるか――」
「その時はその時です」
リエはあっさりと言い切りました。
「大体、老人がお金を持っていても使い道がないでしょう。それより私たちが有効活用した方がいいんです」
「有効活用?」
「ローンの返済とか、車の買い替えとか、はるなの教育とか」
5歳の孫娘の名前が出て、私は少し考えました。確かに孫のためなら、と思いかけましたが、リエの次の言葉で気持ちが覚めました。
「それに私だって欲しいものがあるんです。ブランドバッグとか、エステとか。私の年金で当然でしょう」
リエは胸を張りました。
「お母さんを養ってあげるんですから」
「養う?」
私は耳を疑いました。
「私、自分の生活費くらい――」
「何言ってるんですか?」
健二が口を挟みました。
「住む場所も食事も全部俺たちが提供するんだぞ」
「でも、この家の頭金は――」
「それは投資だろ」
健二の言葉に私は言葉を失いました。
「母さんだってこの家に住めるんだから、得が多いだろ」
「そうそう。お母さんの部屋、見ました?」
「まだです」
「じゃあ案内しますね」
リエに連れられて2階に上がりました。1番奥の北向きの部屋でした。
「ここです」
ドアを開けると、4畳半ほどの狭い部屋。窓は小さく、昼間なのに薄暗い。
「ちょっと狭いかもしれませんけど、老人には十分でしょう」
「これが私の部屋?」
「文句あるんですか?」
リエの声が険しくなりました。
「南向きの広い部屋は私たちのものです。当然でしょう」
階段を降りながら、リエは家事についても説明し始めました。
「それから、家事は全部お母さんの担当です。掃除、洗濯、料理、買い物、全部です」
「でも、私も68歳で――」
「まだまだ元気じゃないですか? それにただで住まわせてもらうんだから、それくらい当然です」
リビングに戻ると、健二が追加しました。
「あとははるなの世話もよろしく」
「孫の世話は嬉しいけど――」
「保育園の送り迎え、習い事の送迎、全部頼むよ」
まるで無料の使用人扱いです。
「ちょっと待って。私も人間よ」
「何文句があるの?」
リエが声を荒げました。
「お母さん、勘違いしないでください。ここは私たちの家です。私たちがルールを決めるんです。でも嫌なら出て行って。さっき言いましたよね」
また同じ言葉を投げつけられ、私は黙るしかありませんでした。
「それから、食事のことですけど」
リエはさらに続けました。
「私たちは食卓で食べますが、お母さんは台所でお願いします」
「なぜ?」
「だって、食事中におばあちゃんがいたら気を使うじゃないですか」
「おばあちゃん?」
まるで他人のような呼び方に胸が痛みました。
「はるなにもそう教えてあります。バーバじゃなくて、おばあちゃんって」
健二も同調します。
「母さん、あまりはるなに甘い顔しないでよ。教育に良くないから」
まるで私が孫に悪影響を与える存在のような言い方でした。
「あ、そうそう」
リエが思い出したように言いました。
「友達を呼ぶ時は、お母さんは部屋から出ないでくださいね」
「どうして?」
「だって恥ずかしいじゃないですか」
「恥ずかしい?」
私の存在が恥ずかしいというのでしょうか。
「貧乏臭い格好したおばあちゃんがうろうろしてたら、友達に笑われちゃう」
私は自分の服装を見下ろしました。確かに高級品ではありませんが、清潔で品のある服のつもりでした。
「明日からエプロンでも着てください。使用人らしく」
「使用人?」
その言葉が胸に突き刺さりました。
「お母さん、返事は?」
「はい」
小さく答えると、リエは満足そうに頷きました。
「よろしい。じゃあ年金の書類、夕食までに記入しておいてくださいね」
2人はリビングを出ていきました。1人残された私は、震える手でカップを握りしめました。
これが私の新しい生活。息子と孫と一緒に暮らすはずだったのに、まるで奴隷のような扱い。でも私には行く場所がありません。家は売ってしまったし、貯金も残りわずか。年金だけが頼りなのに、それも取り上げられようとしている。
窓の外を見ると、立派な庭が広がっていました。この家のために、私は全てを失ったのでしょうか?
いいえ、まだ失っていないものがあります。私は静かに立ち上がり、バッグから携帯電話を取り出しました。
夕方6時、リビングに呼ばれて台所に向かうと、食卓には豪華な夕食が並んでいました。ローストビーフ、エビのグラタン、新鮮なサラダ。いい香りが漂っています。
「美味しそう」
私が思わずつぶやくと、リエが振り返りました。
「これは私たちの分です。お母さんのはそこ」
台所の隅にある小さなテーブルを指差しました。そこには昨日の残り物らしい冷えた味噌汁と、硬くなったご飯、漬け物が置かれていました。
「これが私の夕食?」
「文句あるんですか? 食べられるだけありがたいと思ってください」
健二とはるなが食卓に着きました。
「わあ、ごちそう!」
はるなが嬉しそうに声を上げます。
「ママ、おばあちゃんは?」
「おばあちゃんは向こうで食べるのよ」
「どうして?」
「おばあちゃんは家族じゃないからよ」
リエの言葉に私は息を飲みました。
「そうなの?」
はるなが不思議そうに私を見ます。
「そうよ。おばあちゃんはお手伝いさんなの」
「ふーん」
5歳の孫はあっさりと納得してしまいました。私は冷たい残り物を口に運びながら、楽しそうな家族の会話を聞いていました。まるで透明人間になったような気分でした。
「はるな、明日は英語教室よ」
「やった!」
「おばあちゃんが送ってくれるから」
健二が付け加えました。
「でも教室の中には入らないでね。他のお母さんたちに合わせたくないから」
「なぜ?」
と聞く前に、リエが説明しました。
「だってみんな若くて綺麗なお母さんたちなのよ。こんな貧乏臭いおばあちゃんがいたら、はるなが恥ずかしい思いをするでしょう」
「ママの言う通り」
はるなも同調します。
「おばあちゃん、貧乏なんでしょ?」
「はるなちゃん、だってママが言ってた。貧乏おばあちゃんだって」
子供の無邪気な残酷さが私の心をえぐりました。
食事が終わると、私は食器を片付け始めました。
「お母さん、ちゃんと洗ってくださいね。私、汚い食器使いたくないから」
リエはそう言い残してリビングへ行ってしまいました。食器を洗いながら、私は考えていました。なぜこんなことになってしまったのか。1500万円も渡して、息子家族のために尽くしているのに。
洗い物を終えてリビングを通ると、3人でテレビを見ていました。
「おばあちゃん」
はるなが私を見て言いました。
「あっち行って。テレビ見てるから」
「はるなちゃん、おばあちゃんも一緒に――」
「やだ。おばあちゃん、臭いもん」
私は凍りつきました。
「そうよ。はるなの言う通り」
リエが娘を褒めました。
「おばあちゃんは自分の部屋に行ってなさい」
「でも、まだ7時で――」
「うるさいわね」
リエが嫌なように言いました。
「母さん、空気読んでよ。俺たち家族の時間なんだから」
家族の時間。私は含まれていないのです。
とぼとぼと自分の部屋に向かいました。狭い部屋に入ると、涙がこぼれてきました。これが私の老後。息子と孫と幸せに暮らすはずだったのに、まるで厄介者のような扱い。
ドアをノックする音がしました。
「お母さん」
リエの声です。
「はい」
ドアを開けると、リエが書類を持って立っていました。
「年金の変更届け、まだでしょう。今すぐ書いて」
「りえさん、もう少し考えさせて――」
「何を考えるんですか?」
リエの顔が険しくなりました。
「まさか拒否するつもり?」
「いえ、でも――」
「じゃあ、明日の朝一番に出て行ってもらいます」
「え?」
「だって、役立たずのばあさんを置いておく意味がないでしょう。年金も渡さない。家事もまともにできない」
「家事はちゃんと――」
「黙って!」
リエが声を荒げました。
「いいですか? ここにいられるのは私たちの慈悲なんです。感謝しなさい」
「慈悲?」
「1500万円も出して、家事も全部やって、それで――」
「それに」
リエは冷たく笑いました。
「お母さんが出て行っても、誰も困らないのよ。健二も、はるなも、私も」
その言葉が私の心に深く突き刺さりました。
「むしろ、いない方が清潔かも」
リエは書類を押し付けました。
「10分以内に書いて、下に持ってきて。できなければ、荷物まとめて出て行って」
そう言い残して、リエは去ってしまいました。
私は書類を見つめました。これにサインすれば、私は本当に無一文になってしまう。でも、サインしなければ今夜にでも追い出される。
その時、ふと気づきました。家も健二も、私のことを何も知らない。私がただの貧乏な老人だと思い込んでいる。
私は静かに微笑みました。
「そろそろ潮時ね」
小さく呟いて、私は携帯電話を取り出しました。
私は携帯電話で、長年お世話になっている顧問弁護士の相原先生に連絡を取りました。
「持月です。準備はできていますか?」
「はい。全て整っています。いつでも実行できますよ」
「明日の朝一番でお願いします」
「承知しました。それにしても、息子さん夫婦はまだ気づいていないんですね」
「ええ。私が持月財閥の後取り娘だということも、この家の本当の所有者が誰かということも」
電話を切った後、私は古い写真を取り出しました。若い頃の私と、持月グループの創業者である父が写っています。
望月しずえ。それが私の本名です。日本有数の財閥である望月家の一人として生まれ、莫大な資産を相続しました。でも、夫の清吉と出会い、彼の「普通の生活がしたい」という願いを受け入れ、一般人として生きることを選んだのです。
父から相続した資産は今も手つかずで残っています。現金、株式、不動産を合わせると、5億円を超える額です。でも、私はそれを隠し、清吉と静かな生活を送ってきました。健二にも私の正体は教えていません。普通の家庭で普通に育って欲しかったから。
ところが、その結果がこれです。私は苦笑しました。力を見せつけるのは好きではありませんが、もう我慢の限界です。
次に、私は別の番号に電話をかけました。
「社長室です」
「持月です。明日、臨時取締役会を招集してください」
「承知いたしました」
「議題は、社長の解任動議です」
電話の向こうで驚きの声が上がりました。実は、健二が勤めている会社は持月グループの子会社の一つ。そして、私はその会社の筆頭株主なのです。もちろん名義は隠していますが。健二は自分の実力で出世したと思っているでしょうが、実際は私の息子だからこそ、その地位にいられたのです。
「それから、もう一つ」
私は声を潜めました。
「この家の登記を確認してください」
「はい。あ、これはどうなっていますか? 土地、建物、全て持月しずえ様の名義になっています」
そうです。息子夫婦は知りませんが、この家を購入する際、私が裏から手を回して名義を私のものにしていたのです。1500万円は確かに頭金として使われましたが、残りのローンは私の会社が肩代わりし、そして名義も私に移していました。
つまり、この家の本当の所有者は私なのです。リエたちは自分たちの家だと思い込んでいますが、実際は私の家に居候しているに過ぎません。
「明日、全てを明らかにします」
私は決意を固めました。
部屋のドアが乱暴にノックされました。
「お母さん、まだなの?」
リエの苛立った声です。
私は年金変更届けを手に取り、ドアを開けました。
「これですか?」
「そうよ。早く書いて」
「分かりました。でも、一つ確認があります」
「何?」
「私が年金を渡さなければ、本当に出ていけと?」
「当たり前でしょう」
リエは腕を組みました。
「役立たずはいらないのよ」
「そうですか」
私は書類をビリビリと破りました。
「何してるの?」
リエが叫びました。
「決めました。出ていきます」
「はあ?」
リエの顔がみるみる赤くなりました。
「本気? 行くところなんてないくせに」
「それは私の心配です」
「健二、ちょっと来て」
リエの呼び声で、健二が2階に上がってきました。
「どうした?」
「お母さんが出ていくって」
健二は私を見て鼻で笑いました。
「母さん、冗談はやめなよ。どこに行くんだ?」
「それは明日のお楽しみです」
「明日?」
「ええ、明日の朝、きちんとお話しします」
私は2人の前を通り過ぎ、階段を降りました。
「待てよ」
健二が追いかけてきました。
「母さん、考え直せ。今謝れば許してやる」
「謝る? 私が?」
「健二、あなたこそ謝ることがあるんじゃない」
「はあ?」
健二は呆れたような顔をしました。
「母さんを住ませてやってるのに」
「その言い方、清さんが聞いたら悲しむわね」
亡き夫の名前を出すと、健二が少し怯みました。
「とにかく、明日の朝8時、リビングに集まってください」
「なんで俺たちが――」
「大切な話があります。あなたたちの将来に関わることです」
私は意味深な笑みを浮かべました。リエと健二は顔を見合わせました。
「まさか、遺産とか?」
リエの目が輝きました。
「もしかして、隠し財産があるの?」
やはりこの2人は金のことしか頭にないようです。
「明日のお楽しみです」
私はそれだけ言って、自分の部屋に戻りました。
部屋に入ると、すぐに準備を始めました。明日、全てが変わります。この家の本当の所有者は誰なのか、思い知らせてあげましょう。
窓の外を見ると、星が輝いていました。
「清吉さん、見ていてください。息子に本当の現実を教えてあげますから」
私は静かに微笑みました。明日が楽しみです。
翌朝8時、リビングにリエと健二、そしてはるなが集まっていました。
「で、何の話?」
リエが苛立たしそうに聞きました。
「まさか本当に出ていくつもり?」
「ええ、出ていきます」
私の言葉に、リエは勝ち誇ったような笑みを浮かべました。
「やっぱりね。どうせ行くところもないくせに、強がっちゃって」
健二も同調します。
「母さん、もう謝っても遅いからな」
「謝る? 誰が誰に?」
私は落ち着いた声で聞き返しました。
「決まってるだろ。母さんが俺たちに――」
健二の傲慢な態度に、私は静かに首を振りました。
「その前に、一つ質問があります」
「なんだよ」
「この家の所有者は誰だと思っていますか?」
リエが即座に答えました。
「私たちに決まってるでしょう。ローンも私たちの名義だし」
「そうですか」
私はバッグから1枚の書類を取り出しました。
「では、これをご覧ください」
「何これ?」
リエが書類を受け取り、目を通し始めました。次第に顔色が変わっていきます。
「嘘……」
「どうした?」
健二が覗き込むと、彼の顔も青ざめました。
「不動産登記簿……所有者、持月しずえ……」
「はい。この家の所有者は私です」
2人は呆然と書類を見つめていました。
「でも、ローンは俺たちが――」
「ローンはすでに完済されています。私の会社が肩代わりしました」
「会社?」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。
「失礼します」
相原弁護士が入ってきました。
「おはようございます。望月様」
「相原先生、ご苦労様です」
リエと健二は突然現れた弁護士に戸惑っていました。
「なんで弁護士が――」
「説明していただけますか、相原先生」
相原弁護士は書類を広げました。
「まず、この不動産について説明します。確かに頭金1500万円は健二様が支払いましたが、残りの3500万円は持月コーポレーションが支払い、同時に所有権も持月しずえ様に移転されています」
「持月コーポレーション?」
健二が声を震わせて聞きました。
「まさか、あの持月財閥の――」
「はい」
相原弁護士は頷きました。
「そして、望月しずえ様は持月グループの会長です」
リエのカップが手から滑り落ち、床に散らばりました。
「嘘でしょ?」
「本当です」
私は立ち上がりました。
「私は持月財閥の後取り娘。総資産5億円を超える資産を持っています」
健二は口をパクパクさせて、言葉が出ないようでした。
「でも、母さんはただの……ただの貧乏な老人――」
「あなたたちがそう思い込んでいただけです」
私は苦笑しました。
相原弁護士が続けました。
「さらに、健二様の勤務先である東洋商事は望月グループの子会社です」
「え?」
「そして、望月様は東洋商事の筆頭株主でもあります」
健二の顔が真っ青になりました。
「ということは――」
「あなたの地位は私の一存で決まります」
私は冷たく言い放ちました。
リエが叫びました。
「なんで黙ってたんですか?」
「黙っていた?」
私は眉を上げました。
「あなたたちこそ、なぜ私のことを確認しなかったの? ただの貧乏な老人だと決めつけて」
「だって――」
「年金を奪い、家事を押し付け、部屋に閉じ込め、挙句の果てには『嫌なら出てけ』」
私の声が次第に厳しくなりました。
「1500万円も援助してくれた人に対して、同居初日にする仕打ちですか?」
はるなが泣き出しました。
「ママ、どうしたの?」
リエは娘を抱きしめながら、必死に弁解しました。
「で、でも、知らなかったんです」
「知らなかった?」
私は冷たく笑いました。
「知っていたら態度を変えていたということですね」
リエは言葉に詰まりました。
「先生、手続きをお願いします」
「承知しました」
弁護士は新たな書類を取り出しました。
「まず、この家からの退去通告です。所有者である望月様の意思により、1週間以内に退去していただきます」
「そんな――」
健二が立ち上がりました。
「母さん、待ってくれ」
「昨日、あなたは何と言いました?」
私は健二を見据えました。
「『謝っても遅い』と言いましたね」
健二は唇を噛みました。
「それに――」
相原弁護士が続けました。
「東洋商事の臨時取締役会において、健二様の降格が決定されました」
「降格?」
「はい。本日付けで部長職を解任し、一般社員となります」
健二は膝から崩れ落ちました。
「そんな……母さん、ひどい」
「ひどい?」
私は立ち上がりました。
「同居初日に年金を奪おうとし、使用人扱いし、『家族じゃない』と言い放った人が、よく言えますね」
リエが土下座しました。
「お母様、申し訳ありませんでした」
急に「様」付けです。現金なものです。
「謝ります。全部謝ります。だから、どうか――」
「受け取りません」
私は冷たく言いました。
「あなたたちは私を金づるとしか見ていなかった。それがよく分かりました」
「違います」
リエが必死に否定しました。
「じゃあ、なぜ年金通帳を――」
リエは答えられませんでした。
「なぜ私を使用人扱いしたの?」
「それは――」
「なぜ『嫌なら出てけ』と?」
一つ一つ問い詰めると、リエも健二も何も言えなくなりました。
「お母様、お願いです」
健二が頭を下げました。
「せめて、この家だけは――」
「無理です」
私はきっぱりと断りました。
「私の家に、私を侮辱した人間を住ませる理由がありません」
はるなが泣きながら言いました。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
孫の涙に少し心が痛みました。でも、もう決めたことです。
「はるなちゃん、おばあちゃんは貧乏おばあちゃんなんでしょ?」
はるなは首を振りました。
「違う。おばあちゃんはすごい人」
「今更ね」
私は相原弁護士に目配せしました。
「退去期限は1週間です。それまでに出ていかなければ、法的措置を取ります」
「お母様!」
リエが私の足にすがりつきました。
「お願いです。もう一度チャンスを――」
「チャンス?」
私はリエを見下ろしました。
「昨日、あなたは言いましたね。『役立たずのばあさんはいらない』と」
リエの顔が青ざめました。
「あれは本心でしょう」
私はリエの手を振り払いました。
「5億円の資産があると知った今、態度を変えても遅いのです」
健二が最後の抵抗をしました。
「でも、母さんも僕たちを騙してた」
「騙した?」
私は息子を見つめました。
「私は一度も嘘はついていません。ただ、あなたたちが勝手に思い込んだだけ。『痛い目に遭う』とはこのことでしょう」
「相原先生、私は今日でここを出ます」
「承知しました。ホテルの手配は済んでいます」
私は階段を上がり、荷物をまとめ始めました。後ろからリエと健二の泣き声が聞こえてきました。でも、もう振り返りません。
「嫌なら出てけ」――その言葉が、そっくりそのまま帰ってきただけです。
3ヶ月後、私は都心の高級マンションの最上階から東京の景色を眺めていました。
「望月様、お茶をお持ちしました」
使用人の田中さんが優雅にティーセットを運んできます。
「ありがとう、田中さん」
「今日もいいお天気ですね」
「本当に、清々しい朝だわ」
私は窓際のソファに座り、ゆったりとお茶を楽しみました。あの狭く暗い部屋とは雲泥の差です。
携帯電話が鳴りました。相原弁護士からです。
「望月様、ご報告があります」
「どうぞ」
「健二様夫婦の件ですが、予定通り先月末に退去されました」
「そう」
「現在はリエ様の実家に身を寄せているようです。リエ様の実家は小さな2DKのアパート。あの豪華な一軒家とは比べ物になりません」
「健二様の仕事は一般社員として働いていますが、かなり苦労されているようです。部長から一般社員への降格、プライドの高い健二様には相当な屈辱でしょう。収入も3分の1になり、生活は困窮しているとのことです」
「自業自得ね」
私は冷たく言いました。
「それから――」
相原弁護士が続けました。
「リエ様はパートを始められたそうです。ブランドバッグどころか、日々の生活費を稼ぐのに必死なようです」
「一度、健二様から連絡がありました。『もう一度会って謝りたい』と」
私は鼻で笑いました。
「断ったのでしょうね」
「はい。望月様のご指示通り、面会を拒否しました」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。
「失礼します」
田中さんがインターホンを確認します。
「望月様、はるな様という小さなお嬢様が――」
「はるなが?」
「1人でいらっしゃいました」
「通してください」
しばらくして、はるなが恐る恐る入ってきました。以前の生意気な態度はどこにもありません。
「おばあちゃん――」
「はるなちゃん、1人で来たの?」
「うん。ママには内緒」
はるなは俯きながら、小さな手紙を差し出しました。
「これ、おばあちゃんに」
手紙を開くと、たどたどしい文字で書かれていました。
「おばあちゃんへ。ごめんなさい。貧乏おばあちゃんなんて言ってごめんなさい。おばあちゃんは世界で一番すごい人でした。もう一度会いたいです。はるなより」
思わず目頭が熱くなりました。
「はるなちゃん、おばあちゃん、本当にごめんなさい」
はるなは泣き出しました。
「ママがね、『おばあちゃんはお金持ちだから優しくしなさい』って言ったの。でも、違うよね」
「違う?」
「おばあちゃんはお金持ちだからすごいんじゃない。優しくて強くて正しいからすごいの」
5歳の孫が必死に理解しようとしている姿に、心を打たれました。
「今、どんな生活してるの?」
「狭いお家で、ママはいつも泣いてる。パパも元気ない」
「そう」
「学校の友達にも『貧乏になった』って言われる」
皮肉なものです。私を貧乏呼ばわりしていた彼らが、今は本当に貧しい生活を送っている。
「はるなちゃん、おばあちゃんに会いたかった?」
「うん。毎日会いたかった」
「じゃあ、月に一度だけ会いましょうか」
はるなの目が輝きました。
「本当?」
「ただし、条件があるの」
私ははるなの目を見つめました。
「人をお金で判断しちゃだめ。貧乏でもお金持ちでも、みんな同じ人間なの」
「うん」
「それから、お母さんとお父さんの言うことだけじゃなくて、自分で考えること」
「分かった」
はるなを見送った後、私は一人考えていました。息子夫婦の失態を見て、溜飲は下がりました。「嫌なら出てけ」と言った人間が、自分たちが出て行くはめになった。これ以上の痛い結末はありません。
でも、はるなのような罪のない子供まで苦しむのは本意ではありません。
数日後、相原弁護士を通じて健二に連絡を取りました。
「条件付きで援助を考えてもいい」
電話の向こうで、健二が息を飲む音が聞こえました。
「本当ですか? 母さん?」
「条件を聞きなさい」
私は厳しく言いました。
「まず、はるなの教育費、月10万円を信託で設定します」
「それだけでも助かります」
「ただし、あなたたちは一切手をつけられません。はるなの教育にのみ使用されます」
「はい」
「それから――リエさんと離婚しなさい」
「え?」
健二が驚きの声を上げました。
「金銭目的で結婚し、金銭で人を判断する女性と一緒にいても、はるなのためになりません。でも、これが条件です。受け入れられないなら、援助はしません」
長い沈黙の後、健二が答えました。
「分かりました。考えさせてください」
その後、健二夫婦は激しく言い争い、結局離婚することになったと聞きました。リエは慰謝料も養育費も取れず、実家に戻ったそうです。
「人を金で判断した報いね」
私はつぶやきました。
今、私は本当に自由です。多くの資産があり、誰にも指図されず、誰からも軽視されることもない。時々、はるなが遊びに来ます。以前とは違い、礼儀正しく思いやりのある子に成長しています。
「おばあちゃん、小学校でね、友達が『お金持ちになりたい』って言ったの」
「そう」
「でも、私は言ったの。『それより正しい人になりたい』って」
「偉いわね、はるなちゃん」
「だって、おばあちゃんが教えてくれたもん」
健二もたまに手紙を送ってきます。
「母さん、あの時は本当に申し訳ありませんでした。金に目がくらみ、母さんの愛情を踏みにじりました。今は一人で暮らし、一からやり直しています。いつか母さんに認めてもらえる息子になれるよう、頑張ります」
認める日が来るかどうかは分かりません。でも、少なくとも気づいたことは評価できます。
私の物語はここで一区切りです。同居初日に「嫌なら出てけ」と言われ、年金を奪われそうになった老人が、実は5億円の資産家だった。そして、傲慢な息子夫婦に完璧な仕返しをした。
これは復讐ではありません。正義の実現です。人を軽視し、金だけで判断する者は、必ず自分も同じ目に遭います。これが世の中の真理なのです。
もしあなたも家族から理不尽な扱いを受けているなら、諦めないでください。あなたにも隠された力があるかもしれません。そして何より大切なのは、自分の尊厳を守ること。年を取っても、お金がなくても、人として尊重される権利があるのです。
私は今、本当に幸せです。真の勝利とは相手を打ち負かすことではなく、自分の尊厳を守り抜くことなのですから。



