かず彦はにやりと笑った。そして、どこからか食べ終わた料理の皿を持ってくると、あろうことか、その残骸をあ子の頭に投げつけた。
その瞬間、妻の悲鳴が会場に響き渡った。
「何をするんだ!」
俺が抗議すると、かず彦は俺たちを見下すように笑った。
「夫婦揃って無能だな」
「なんだと?もう一度言ってみろ!」
俺が叫ぶと、かず彦は「無能同士でお似合いだなって言ったんだよ」と笑った。
俺の名前は新島悟る。50歳。普通の家庭に3人兄弟の末っ子として生まれた。手先が器用だった俺は美容専門学校を卒業し、美容師になった。若い頃はカリスマ美容師なんて言葉も流行っていたが、俺もそれなりに多忙な日々を送っていた。技術は早くから認められ、予約が取れないほどになった。それは、誰よりも練習を積み重ねて努力したからだと思う。素質がなかったとは言わないが、一流を目指すには並々ならぬ努力が必要だった。
その努力が実を結び、美容師3年目に出場したコンテストで優勝した。その時、ようやく自信がついた。
それからしばらく美容師として奮闘する中で、6歳年下の彩子と出会った。彼女は俺の働く美容院の系列店で働く美容師だった。系列合同の集まりで知り合い、交際に発展した。美容師は遊んでいると思われがちだが、俺は仕事で精一杯で、遊ぶ暇などなかった。しかし、彩子とは結婚を考えるようになり、32歳で結婚した。
その後、俺は新たな分野に挑戦するため、エステサロンの経営を学び始めた。美容師をやめたいわけではなかったが、美容業界で自分の領域を広げたかった。45歳の頃、運営会社の社長にエステサロンを持たせてほしいと頼んだ。社長は最初は「君にエステの店長が務まるのか」と良い返事をくれなかった。確かにエステでの勤務経験はなかったが、週5日は美容院で働き、残りの週2日はエステで実務を学んだ。こんな生活は妻の支えがなければできなかっただろう。
1年後、再び社長に願い出て、ようやくOKをもらえた。46歳で、美容院と同じ運営会社傘下のエステを開業することになった。
さて、運営会社の社長にはかず彦という35歳の息子がいる。かず彦は経理部で働いていて、現場には疎いらしい。俺は社長から写真で見せてもらったことがあり、顔は知っているが、かず彦本人は俺のことを知らないだろう。
エステが軌道に乗った年の秋、運営会社の創立20周年パーティーが開かれることになった。俺にも招待が届き、家族も同伴してよいと言われた。妻の彩子は元従業員でもあり、是非参加したいと楽しみにしていた。その日のためにドレスまで用意して心待ちにしていた。俺と結婚してからは家庭をしっかり支えてくれた彼女にも、いい気分転換になるだろうと思い、俺もパーティーを楽しみにしていた。
パーティーの日、俺と彩子はホテルの宴会場に到着した。会場にはすでに多くの人が集まり、賑わっていた。その雰囲気を見るだけで、俺の心はワクワクしてきた。
「今日は目一杯楽しもうな」
「そうね、お料理もたくさん食べたいわ」
彩子は微笑んだ。この時は、きっと楽しい時間が過ごせるものと思っていた。
社長の挨拶が終わり、食事の時間になると、俺たち夫婦は食べ物を取りに行った。料理の皿を両手に持ち、テーブルに戻ろうとすると、5人組の男たちがこちらに向かって歩いてくる。その中心にいた男には見覚えがあった。社長の息子、かず彦だ。
彼らはニヤニヤと嫌な笑顔を向けてきて、俺は不快に思った。絡まれるのではないかと警戒心を募らせた。かず彦は俺のことなど知らないはずだ。彼は美容業界に興味があるわけではなく、いずれはただ社長を継げばいいと思っているだけだと聞いたことがあった。取り巻きの連中も柄が良くなさそうだし、どうにかしてやり過ごしたいと思った。
しかし、そううまくは運ばないようだ。かず彦たちは俺と彩子の前に立ち止まり、「あんた、うちの社員か?」と聞いてきた。
俺が「傘下のエステの店長です」と教えると、かず彦は「え、そんなのにも招待状送ってるのか」と言った。それだけでなく、「また部外者が紛れ込んでんのかと思ったぜ」と爆笑した。取り巻きたちも追従して笑った。
ルックスは良いかず彦だが、なぜ俺にこんなことを言うのか理解に苦しむ。
「どうしてそんなことを言われなければいけないんですか?私は従業員の1人として参加しているだけですが」
俺が反論すると、かず彦は「うちの社員ならもっと優秀そうに見えると思っただけだ」と言ってまた笑った。
俺はそんなに無能そうに見えるのだろうか。すると、取り巻きの一人が「無能ですよね。どう見てもうちの社員とは思えませんよ」と言った。一体どんな見た目なら社員としての基準を満たせるというのだろう。かず彦たちの言うことは、まさに言いがかりに過ぎなかった。
かず彦は「その隣の女は嫁さんか?」と聞いてきた。
居心地悪そうにしながらも「そうですが」と答えると、かず彦はにやりと笑った。それから、どこからか食べ終わった料理の皿を持ってきたのだ。俺は彩子の前に出てガードしようとしたが、遅かった。あろうことか、彼はその皿に乗っていた残骸を彩子の頭に投げつけた。
その瞬間、妻の悲鳴が会場中に響き渡った。
「何をするんだ!」
俺が抗議すると、かず彦は俺たちを見ながら「夫婦揃って無能だな」と下卑た笑いを見せた。
「なんだと?もう一度言ってみろ!」
俺が叫ぶと、かず彦は「無能同士でお似合いだなって言ったんだよ」と笑った。
周囲の参加者たちはざわついていたが、俺は我慢ができなかった。彩子はショックを受けて、顔を青ざめさせ硬直してしまっている。せっかく楽しみにこの場に来たのに、かわいそうで仕方ない。
「ふざけるな。社長の御子息であろう方が、そんな風では会社の将来が不安ですね」
俺の言葉に、かず彦は「なんだ?俺のことを知ってるのか?有名人なんだな、俺って」と嘲笑した。
俺はさらに「私を怒らせたらどうなるか、知らないみたいですね」と告げた。真剣な目をしている俺に、かず彦や取り巻きたちは目を丸くした。
「お前ら、全員首だ」
俺が言い放つと、かず彦たち5人は大爆笑した。
「何を言ってるんだ、このおっさん。俺は社長の息子だぞ。首になんてできるわけがないだろ」
そう言うとかず彦たちは腹を抱えて笑った。
「そんなにおかしいなら、好きなだけ今のうちに笑うがいい。まあ、そのうち笑っていられなくなるかもしれないから、覚悟しておくんだな」
俺の言葉を聞いたかず彦は俺に近づいてきて、「お前こそ、この俺に生意気な口を聞いて後悔するなよ」と言った。どうせ父さんに言いつけてやるとでも言いたいのだろう。社長の息子だからと言って、生意気な口を聞いたのは一体どっちだというのだ。
そうしていると、かず彦たちの後ろから社長がやってきた。社長は相当不機嫌そうな顔をしている。きっと、せっかくのパーティーの場で騒動を起こしたことに怒っているのかもしれない。それなら俺にも責任があるのだろうか。
俺が「社長」と言ったことで、かず彦は振り向き、社長が来たことに気づいたらしい。社長の怒りを察知したのか、かず彦は顔面蒼白となり、「父さん」と言うのがやっとだった。
「一体何の騒ぎだ」
社長が一喝すると、かず彦は「こいつが俺たちを首だって言うんだ」と俺の方を指さした。
社長は「お前が何かしたんじゃないのか」と眉間にしわを刻みながら聞いた。
父親の問いに対して、かず彦は「何言ってるんだよ。俺はただ社員と親睦を図っていただけだよ」としらじらしく言い放った。
あの行為のどこが親睦を図っていたというのだ。きっと後でかず彦の悪事も明らかになるに違いない。
俺はここにいる気がせず、「俺たちはこれで失礼します」と言って、その場を後にした。社長は「ちょっと待ってくれ」と言っていたが、「すみません」と彩子の手を引き、会場を出た。
パーティー自体はそのまま続けられたらしいことを、帰宅後に会社の知人から聞いた。さらに社長からも電話が来て、とても謝られた。パーティーは滞りなく行われたが、その後、社長は俺たち夫婦をコケにした5人を呼び出したらしい。そして、俺たち夫婦に何をしたのかを詳細に聞き出したという。
社長は、かず彦が俺の妻の頭にゴミを投げつけたことを知り、大いに激怒した。
「このままだと、お前に継がせるわけにはいかんぞ」
社長がそう言うと、自動的に継げると思っていたかず彦は「そんなこと言わないでくれよ」とすがりついたらしい。さらに社長は、俺が社長と懇意にしていて、会社の大株主であることを教えた。それを聞いたかず彦たちは、驚きに目を見開いていたという。
「お前がそんなことをするとは思わなかったぞ」
社長は頭を抱えた。
「明日、覚悟しておきなさい」
社長の言葉に、かず彦たちは肩をすくめて「はい」と言っていたらしい。
そして、俺は社長から翌日に会社に来るように言われた。言われた通りに社長室を訪れると、そこにはすでにかず彦やその取り巻きたちが集まっていた。分かっていたことだが、昨日のことについての話となるのだろう。
皆が揃うと、社長は「パーティーで騒動を起こしたのは問題だな」と言って、かず彦たちに睨みを利かせた。
すると、かず彦は「騒動って言ったって、あれはこいつが生意気なのがいけないんだ」と言い、俺に人差し指を向けてきた。
「こら、人様に指を向けるんじゃない」
社長が一喝すると、かず彦は面白くなさそうな顔をした。
立て続けに社長はかず彦たちに向かってこう言った。
「おまけに新島君の奥さんにゴミを投げつけるなんて。私の息子とは思えん行為だぞ」
今にも社長の張り手が飛びそうな勢いだ。
これに対して、かず彦は「むしゃくしゃしてたから、うら晴らしがしたかったんだよ」と言い訳をした。つまり、俺たち夫婦はうさ晴らしのターゲットになったということか。確かにむしゃくしゃすることもあるだろう。しかし、その発散先を無関係の人間に向けるのはありえない。
「バカもんが。やって良いことと悪いことくらいわからんのか」
社長が一喝した。かず彦はまだ言い訳を続けた。
「だってさ、こいつ脳なしに見えたんだもん。仕方ないだろ」
かず彦の言葉に、社長はさらに切れた。
「何を言っておるか。新島君はな、コンテストで優勝したほどのスタイリストでな、我が社の顔とも言うべき人材なんだぞ」
俺はサロンでアートディレクターを務めていた。店舗のコンセプトやヘアスタイルの方向性を決めることができる。オーナーあるいは経営者と同じような立場だった。
社長の言葉を聞いたかず彦は、「え、でもあの女は何でもないだろ」と聞いた。
「新島君の奥さんか。彼女も以前にうちの美容院で働いていたんだ」
彩子のことを聞いたかず彦は、「なんだ、ただの美容師じゃないか」と少し小馬鹿にしたように言った。
「ただの美容師じゃない。新島君と結婚して退職したが、その時は惜しまれるほどのトップスタイリストだった」
言葉の根も出ないのか、かず彦は何も言えないようだ。取り巻きたちも顔を青ざめさせている。
社長は「新島君はこの者たちに解雇を言い渡したんだったか」と聞いてきた。
「そうです」
俺が言うと、社長は「うむ」と頷いた。
「では、新島君の言う通りにすることとしよう」
社長のその言葉に、俺も含めて皆が驚いた。かず彦や取り巻きたちが「えっ」と口を揃えると、社長は「我が社にはいらないよ。明日から来なくていい」とキッパリと言った。
「ちょっと待ってくれよ。おふざけが過ぎただけだろ。俺の社長の座はどうなるんだよ」
かず彦は焦ったが、社長は厳しい目を息子に向けた。
「何を言っているんだ?お前のような奴に社長の座を譲れると思ってるのか?」
社長の息子だからその地位を思い描いていたのかもしれないが、人様を見下すような人間に継がせるわけにはいかないと社長は言う。
社長の思いを聞いたかず彦は、絶望して「そんな…」とがっくり肩を落とした。
また、社長は「それと、他の4人も」と言った。社長の言葉に、取り巻きたちもビクッとなり身を震わせた。
「新島君の言う通りに解雇すること。決定事項だ」
かず彦たちが首になるのは、俺たち夫婦のことだけが原因じゃないらしい。彼らは経理部で大した仕事もしていないのに、社長の息子一味だということで幅を利かせていたようだ。経理部長もなかなか口を出せなかったのだという。その日の朝に経理部長に社長が問いただしたところ、かず彦たちの素行が明らかになった。彼らから嫌がらせをされていた社員が他にもいたのだ。彼らが首になるのは、そうしたことも理由となったのだ。
かず彦は「じゃあ、次期社長はどうなるんだ」と社長に聞いてきた。この後に及んでそんなことを聞くとは、どういう神経をしているんだろう。
「心配するな。お前がいなくても、優秀な社員はうちの社には五万といる」
それを聞いたかず彦は、分かりやすく肩を落として項垂れた。
「それより、お前たちは新島君に謝ることを忘れておらんか」
社長が厳しく言う。そうだ。本当なら彩子に直接謝ってほしいものだ。
かず彦たち5人は俺に「すみませんでした」と頭を下げた。
その日のうちに、正式にかず彦たちは解雇された。経理部で一気に人員が減ったため、人事部では経理部の補充をかけることになったそうだ。でも、評判の悪い5人組が抜けたことで、経理部内の空気は良くなったという。
かず彦はなかなか次の職が見つからないらしかったが、やっと警備の仕事を見つけたらしい。他の取り巻きだった社員たちについては、行方が分からない。
警備員となったかず彦は、真面目に仕事に向き合っているようだ。俺が店長をしているエステ店の近くにあるビルに配置されているらしく、近所の飲食店で昼食を取る姿を何度か見た。反省しているのかは不明だが、以前に比べて印象が丸くなった気がする。
そして、俺は数年後のある日、運営会社の社長から本社に呼び出しを受けた。普段は呼ばれることはあまりないから、一体何があったんだろうと思った。
社長室を訪れると、社長は笑顔で俺を迎えた。その表情を見て、悪い話ではなさそうだと思い、俺は安堵した。
「お久しぶりです」
俺が言うと、社長は「うん」と言って着席を促した。
「今度、専務が退任することを知っているな」
もちろん、それは俺も伝え聞いている。専務は俺が就職した頃にはすでに会社で働いていて、社長の右腕のような存在だったが、体調が思わしくないらしく、惜しまれつつ退任するらしい。
「そこでだ。君に本社の専務を継いでほしいんだ」
社長の言葉に、俺は大いに驚いた。俺はこれまで本社の運営自体に関わることは考えてもいなかったから。
「私には無理です」
俺が言うと、社長は首を横に振った。
「できるかできないかは、やってみないと分からないだろう。君ならできると思っているから、声をかけたんだ」
突然のことで、俺は思考が追いつかない。戸惑う俺に、社長は「将来を見据えてのことだよ」とも言った。
社長の言葉に、俺はますます戸惑ってしまった。将来を見据えてとは、一体どういった意味なのだろうか。
意味を問うと、社長は「君に経営について学んでもらえば、会社を任せる用意があるということだ」と笑顔で言った。つまり、俺がしっかりとした経営者になれれば、会社を継ぐかもしれないということだ。
俺は最後まで現場の人間として働いていくものと考えていた。店舗にいて接客などをしている方が俺の肌に合っていると思っていたし、店舗の仕事が好きだった。しかし、俺も年齢を重ねてきたし、そろそろ第3のステップに進んでも良いかとも思えてくる。
考えた末、俺は専務に就任することを受け入れた。そして、翌年の春から正式に専務として本社で働き始めた。エステは信頼できる部下に任せた。
現場にいる頃とは仕事内容が全く違うし、慣れるまでは相当に時間がかかった。社長にも迷惑をかけてしまった面があると思う。しかし、俺が長年に渡り働いてきた美容業界の柱である本社がどのように運営されているのか知れたし、やりがいも感じられる。
それから5年後、社長は早期リタイアをすることになった。そして、社長の後を俺が継ぐことになった。
社長は「君が社長になれば、ネームバリューで宣伝効果は抜群なはずだ」と言っていた。将来を見据えていると言っていたことを、社長は果たしてくれたというのだ。
会社を引っ張っていく立場になってしまった俺だが、これからも奢ることなく仕事に励んでいきたいと思う。



