「あなたじゃなきゃダメなの?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は耳を疑った。お見合い相手は、学生時代から俺を貧乏だと見下し続けてきた大企業の令嬢、神田だった。父の会社が倒産の危機に瀕している今、この結婚話は渡りに船だったが、俺にはどうしても受け入れられない理由があった。
俺の名前は宮本孝志。父が立ち上げた小さな部品工場、宮本自動車の後継だ。経営は火の車で、従業員は事務さん一人だけ。そんな中、神田からのお見合いの申し込みは、俺にとって屈辱以外の何ものでもなかった。
「お金のない君が断る理由なんてないでしょ」
神田は相変わらずだった。学生時代から、俺の汚れた手や質素な弁当を笑い者にしてきた。あの頃、いつも俺をかばってくれたのが咲だった。咲は俺の恋人で、もう6年前に亡くなった。今でも写真の中で笑っている。
お見合いの席で、俺は神田に言った。「どういうつもりだ?暇つぶしに俺を笑いに来たのか?」神田はじっと俺を見つめるだけだった。昔と変わらないその顔に、俺は腹が立った。
「借金だよ。お前の家と違って、うちはもう崖っぷちなんだ。結婚なんてできる身分じゃない」
そう言って背を向けた瞬間、神田が転んで俺の上に覆いかぶさってきた。そして、耳元で囁いた。「結婚しましょう、宮本君」
「は?何言ってるんだ?」
神田は真剣だった。「私、最近お見合いの話ばかりされるの。それをやめてもらうには結婚するしかないって気がついたの。だから、宮本君と結婚したいの」
「ふざけるな。俺にメリットなんてないだろ」
「メリットならあるわ。結婚すれば、うちの会社と契約して借金がなくなる。私はお金持ちで、今の宮本君は借金まみれだもの。これで結婚を拒む理由はないんじゃないかしら」
悔しいが、その通りだった。俺にはもう選択肢がなかった。会社を守るためには、この結婚に乗るしかなかった。腹をくくって返事をしようとした時、神田は少し顔を赤らめて、聞こえるか聞こえないかの声で言った。「あなたじゃなきゃダメなの?」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
こうして俺は、2度と関わらないと決めていた女性と結婚した。結婚してから、神田はレイと呼ばれるようになった。レイは世間知らずで、家事も何もできなかった。洗剤を大量に入れて何度も水洗いしたり、エプロンを裏返しに結んだり。最初はストレスでしかなかったが、レイはノートに必死にメモを取りながら、少しずつ覚えていった。
ある日、レイがコーヒーを淹れてくれた。インスタントではなく、ドリップで入れた本格的なものだった。豆は100gで2000円以上するブルーマウンテン。俺は呆れつつも、淹れ方を教えることにした。レイは目をキラキラさせて、メモを取りながら聞いていた。
「宮本君、コーヒーの香りがするわ」
エプロンの紐を解こうとした時、レイがそう言った。俺はレイの背後に回り、首の後ろから顔を出して、肩に顔を乗せた。息がレイの首に当たっている。レイは少し力が抜けたように、俺の方へ体重をかけてきた。
「私のこと、名前で呼んではくれないかしら」
「レイでいいか?」
「え、ありがとう。宮本君は、たかし君と呼んでいい?」
「それは、あまり慣れないからやめてくれ」
レイは寂しそうに「そう、やっぱりダメなのね」と呟いた。俺は聞こえないふりをした。
その後、レイは実家へ行くと言って出かけた。俺は家に残り、片付けていないダンボールを開けると、中から咲の写真が出てきた。卒業式に撮った写真だ。優しい笑顔のままの咲。俺は写真を眺めながら、昔のことを思い出していた。
そこに、レイが帰ってきた。スーパーの買い物袋を抱えて。「やっと1人でスーパーへ行けたの。ポイントカードも作れたわ」と嬉しそうに言うレイ。しかし、俺が写真を手にしているのを見ると、レイは何も言わずにドアを閉めようとした。
「おい、待てよ」
俺はレイの腕を掴んだ。レイは目を真っ赤にしていた。「咲は、私の生涯の親友だわ。本当に優しい子で、私も1度だって忘れたことないものなのに。なんでこんなに悲しいのかしら」
「レイ……」
「私はやっぱりダメね。たかし君は、いつまでも咲のものなんだわ」
そう言って、レイは部屋を出ていった。
それから、レイは家をよく開けるようになった。俺はどう接すればいいか分からなかった。ある日、レイから電話がかかってきた。泣き声だった。「おばあ様が、救急車で運ばれたの。私、何もできなくて……」
俺は仕事を放り出して、レイの実家へ走った。レイは門の前で今にも倒れそうな顔で立っていた。俺はレイを抱きしめ、背中を撫でながら「大丈夫だ」と言い続けた。
病院へ向かうため、車を出そうとしたが、エンジンがかからない。レイは「タクシーを呼んだ方がいいわ」と言ったが、俺は工具を手に取り、修理を始めた。「タクシーが来るより早く直してやるよ。一級自動車整備士を舐めるな」
エンジンを直し、病院へ向かうと、レイの祖母は右足の単純骨折で、手術は無事終わっていた。レイは泣きながら祖母の手を握っていた。俺はレイの涙を拭こうとして、作業着の袖で顔を汚してしまった。
「ああ、悪い。逆に汚しちまった」
すると、レイは車のミラーで自分の顔を確認し、笑いながら言った。「こういうことだったのね。どうしてあなたの顔や手が黒かったのか、ずっと気になっていたのよ。整備の汚れだったんだわ」
その笑顔を見て、何かが俺の中で溶けていく気がした。学生時代、レイの言葉は嫌味にしか聞こえなかった。でも、それはただの好奇心と、俺を知りたいという気持ちからだったのかもしれない。
「ごめんな、レイ」
その日、俺たちは初めてデートをした。スーパーで買い物をし、ファストフードでコーヒーを飲んだ。レイは何にでも驚いて、その度に笑い合った。この日々を続けていきたいと、俺は強く感じた。
翌朝、レイは家を出ていた。テーブルには、少し焦げた目玉焼きとハム、そして手紙が置いてあった。
「高へ。お弁当食べてくれたかしら?喜んでくれていたら嬉しいわ。私からのお礼の気持ちです。この1ヶ月、私に付き合ってくれてありがとう。強引なやり方をしてごめんなさい。私、どうしてもあなたが良かったの。いつか誰かと結婚しなければいけなくなる前に、あなたを知りたかった。たくさん知れて、私は満足です。会社のことは安心して。元々信用のある工場を探していたから、私たちの結婚は関係ないわ。幸せでした。ありがとう、宮本君」
俺は手紙を握りしめ、事務所を飛び出した。走りながら、レイのことを考えた。レイは俺のために、こんなことをしてくれたのか。俺はレイを追いかけた。
角を曲がった時、どさっと倒れ込む人影が見えた。レイだった。
「レイ!大丈夫か?」
レイは目を丸くしていた。俺が手紙を握りしめているのを見て、「読んでくれたのね」と言った。
「ああ、うまかった」
「良かったわ。唐揚げがお弁当に入りきらなくて、とても困ったの」
「さすがにあれは食べ応えがあったわ」
俺はレイの両肩を掴んだ。「宮本って呼ぶなよ。お前も宮本だろうが。なんで、やっと気持ちがはっきりしたのに、レイがいなくなったら意味ねえだろうが。もうお試しだの何だのいいんだよ。好きなんだ、お前が。レイ」
レイは俺の手を振り払い、距離を取った。「私はダメな人間なの。自分で決めたことなのに、あなたから咲の影が消えないことが辛かった。私も咲も、あなたが好きだった。でも、私は咲を応援したわ。悲しかったから。嫌われてしまった私と、優しい咲なら、咲の方が幸せになれる。そう言い聞かせて、自分の身を守ったの」
「レイ……」
「咲は悪くないのよ。咲は気がついていたの。私がカードを置いたってこと。だから、次の日話してくれたわ。あの日のあなたを救ったのは、咲に間違いないのだから」
「あのカードは、レイが置いたのか?」
「そうよ。咲は、あなたが落ち込んでた時、声をかけたかったけど、私にもあなたにも悪い気がして、できなかったの。だから、伝わるかも分からないカードを置いたの」
俺は全ての思い出が滲んでいくような気がした。レイは俺に背を向けて歩き出した。
「レイ!」
俺はレイの腕を引っ張り、前から力の限り抱きしめた。「あの日、俺が咲の写真を見ていた時、咲にさよならを言うつもりだったんだ。確かに忘れることはできないかもしれない。でも、俺はレイと生きていくって。レイじゃなきゃダメなんだよ」
レイは泣きながら、「私にまた色々教えてくれるかしら?」と聞いた。
「ああ、レイに教えることはまだまだあるからな」
風が吹き、レイの髪がなびいた。俺は髪を撫でながら、「夫婦だろ。たかしでいいさ」と言った。レイは笑いながら、「たかし」と呼んだ。俺はレイを思いっきり抱きしめた。
その日の晩御飯は、落として割れてしまった卵で巨大な卵焼きを作り、2人で笑いながら食べた。
数ヶ月後、親父の工場は借金の返済に目処が立ち、新しい従業員を雇えるまでになった。レイは社長秘書として働き始めた。俺たちは、咲の墓参りに行った。
「さき、こんにちは。今日は晴れてよかったわ」
咲の母親が現れ、手紙を渡してくれた。レイ宛ての手紙だった。
「レイちゃんへ。きっとお礼はたくさん伝えているだろうから、伝えられなかったことをここに書きます。直接言えなくてごめんね。たかし君のことです。私はずるい人間だった。レイちゃんも好きだって気がついていたのに、気にしないふりをしていました。その上、病気のことまで話して、ずるかったと思います。治らない怖さを支えて欲しいという思いの中に、きっとたかし君のことを諦めて欲しいと思っていたの。あのポストカードのこと、レイちゃんにはたかし君が持って帰っていたとしか伝えなかったね。私には分かっていたの。たかし君が私が置いたと勘違いしているって。レイちゃんが気持ちを込めたかきつを、自分の気持ちにすり替えてしまった。たかし君と付き合うことになった時、レイちゃんとても喜んでくれていたね。私が入院し出した時、いつも涙をこらえながらお見舞いに来てくれていたね。後悔です。どうして素直になれなかったんだろう。レイちゃん許してくれるかな?これもまたずるいね。レイちゃん、こんなことを今更言いながら、それでも親友でいたいと思う私を許してください。クラスのみんなもたかし君も知らないだろうけど、レイちゃんみたいに素直で真面目で、ちょっとドジで可愛らしい人はいません。たかし君にも知って欲しかったな。最後までわがままでごめんね。大好きよ。ありがとう」
レイは泣き出してしまった。俺はレイの背中をさすりながら、空に向かって思った。「さき、俺からもありがとう。ちゃんと伝わったよ。レイは大丈夫だから、安心してくれ。さようなら」
俺たちは手を繋ぎ、咲の元を後にした。帰り道、レイが言った。「帰ったらコーヒーを入れましょうか?」
「そうだな。ケーキでも買って帰るか」
「ああ、コーヒーは俺が入れるから」
「どうして?もう私もちゃんと入れられるわ」
「ちょっとなあ。お湯の温度もこだわらないとなんだよな」
すると、レイは突然立ち止まり、キラキラした目で俺を見つめた。「たかし、教えてほしいわ」
「さ、早く帰ろう」
少しだけ出ていた雲はすでにどこかへ行き、太陽が全てを照らし始めた。好奇心が先走ってこけそうになったレイを支え、2人で笑い合いながら、俺たちはまた歩き始めた。



