ビリビリという鋭い音が、静まり返った朝の部屋に響き渡った。三年間、箪笥の奥で大切にしまわれていた紅紫色の絹の着物が、姑の手によって無残に引き裂かれていた。実家の母に会える、たった一日のために選んだ晴れ着だった。
ズタズタになった布切れを抱きしめて泣き崩れる嫁に、姑が投げつけたのは犬の匂いが染みついた古着だった。
「さあ、これに着替えるのだ」
姑は有無を言わさぬ声で命じた。その一言の裏に、誰も知らない秘密が隠されていた。なぜ、こんなことになったのか。全ては三年のある出来事から始まっていた。
嫁いでから三年の月日が流れていた。お里は隣村の海産問屋、大海へと嫁いできた。大海は代々、米や穀物を船で諸国へ運ぶ家であり、蔵には常に荷物が詰まれ、店先には奉公人たちが忙しく立ち働いていた。表向きは繁盛している商家であったが、その内情がどれほどのものか、若い嫁の身では詳しく知るよしもなかった。
近隣の商家からは、あれほどの財を持ちながら、あの内儀ほど気難しい女も珍しいと影口を叩かれることもしばしばあった。その三年は、お里にとって十年よりも長い歳月であった。姑は大海の内儀であり、村でも指折りのやり手の女でありながら、その気性は虎よりも恐ろしいと噂されていた。
姑がお里に向ける言葉は、いつも短く冷たかった。無駄口を叩くな。手を止めるな。文を縫い上げよ。優しい言葉をかけられたことなど、三年の間に一度もなかった。夜鍋の縫い物を仕上げても、几帳面な縫い目を間違いなく合わせても、姑は黙って頷くだけで、褒めることは決してなかった。
台所仕事一つにも、水の使い方から薪の組み方まで、姑の流儀が厳しく定められており、少しでも外れれば無言のまま睨まれるだけで済むこともあれば、やり直しを命じられることもあった。お里が一人で村外れの井戸端まで出かけようとすれば、必ず呼び止められ、今日の下仕事をつけようと命じられた。
ある時、お里が急ぎの用で一人のまま出かけようとすると、姑は店先から鋭く声を飛ばした。
「待て。供も連れずにどこへ行く」
お里が慌てて事情を説明しても、姑は取り合わず、下女が支度を整えるまでその場に立って待たせた。理由を尋ねても、姑はただ「文を縫い上げよ」と繰り返すばかりであった。井戸端では、近所の女房たちが大海の姑についてひそひそと噂話に興じることも珍しくなかった。
「あの家の嫁は苦労しているに違いない」
「あの女将さんは鬼のように厳しいと聞くから」
そんな声が、水を汲みに来たお里の耳にも何度となく届いた。お里はその度に何も言い返すことができなかった。噂は間違っていないと、自分自身も思っていたからである。海産問屋としての大海の格式は高く、蔵には常に米や穀物が積まれていたが、その格式に見合うだけの温かみはこの家のどこにも見当たらないと、村の誰もが影でそう言い合っていた。
お里は何度となく実家に帰りたいと母に宛てた文をしたためた。だが、その度に姑は取り合わなかった。「まだ早い。今は無理だ」と、短く言い含められるだけで、なぜダメなのか、何が早いのか、理由が語られたことは一度もなかった。ある年の盆には、近所の嫁たちが揃って里帰りに出かけるのを、お里は店先から見送るしかなかった。
お里は姑が自分を嫌っているのだと思うほかなかった。あるいは、実家の身分が大海に釣り合わぬと軽んじているのかもしれぬとさえ思った。ある日、お里は思い切って尋ねたことがあった。
「なぜ、帰らせてくださらないのですか」
姑は手にしていた長持から目を上げることもなく、「今はまだその時ではない」とだけ答えた。それ以上問い詰めることは、お里には許されなかった。
ある日など、お里が仕立てた裾の縫い目を、姑は黙って一目見るなり「ここが曲がっている」と指摘し、ほどいてやり直すよう命じたことがあった。お里の目には寸分の狂いも見えなかった。しかし口答えは許されず、深夜まで灯りの下で針を運び直した。翌朝、出来上がった布を改めた姑は、やはり黙って頷くのみで、どこが悪かったのか一言も語らなかった。お里にはその厳しさが、ただの意地悪としか思えなかった。
なぜ、姑はそこまでしてお里を縛りつけていたのか。その本当の理由を、この時のお里はまだ知るよしもなかった。
ある日の夕暮れ、大海の店先に諸国を回る海産問屋仲間の若い手代が立ち寄った。お里が座敷の掃除をしていると、手代が姑に向けてこう話しているのが耳に入った。
「このところ峠道で、物盗りに遭う旅の商人がいるという噂でございます。先日も隣国から下ってきた田舎の一行が、見事に荷物を奪われたとか」
手代の声は低く、店の奥にいた姑に向けられたものであった。姑は黙ってそろばんを引く手を止めなかったが、その眉がわずかに動いたのを、お里は見た。しばらくして、姑は短く一言尋ねた。
「峠の警備は、近頃どうなっておるのか」
手代は「大番所の見回りも増えてはいるが、追いつかぬ様子です」と答えた。お里はそれが自分に関わりのある話だとは思いもよらなかった。ただの世間話として聞き流し、台所の方へと戻っていった。
その夜、お里は水を汲みに裏口へ出た帰り、蔵の前を通りかかった。すると姑が手燭を片手に、蔵の錠前を静かに外しているところであった。お里はとっさに物影に身を隠した。錠前の外れる音が、静まり返った夜の中に妙にはっきりと響いた。姑は蔵の中に入り、しばらくして小さな布袋を手にして出てきた。布袋はずしりと重そうで、持ち上げるたびに金属音がした。姑はそれを懐に大切そうにしまい込むと、辺りを伺うようにしてから、足早に家へと戻っていった。
お里の胸に、言いようのない不安が広がった。姑は何をあのように隠しておいでなのか。もしや、私にはまだ知らされていない何かがあるのではないか。台所の年配の下女にそれとなく訪ねてみたこともあったが、下女は「女将さんのことは、女将さんにしかわからぬよう」とだけ言って、それ以上は口をつぐんだ。
それからしばらくして、大海に出入りの薬売りが久しぶりに訪れた。年に一度か二度、諸国を回っては旅先の様子を土産話に持ち帰る、年のいった薬売りであった。姑は店の奥から出てきて、自ら薬売りを迎えた。二人は長座敷の奥で、しばらく何やら話し込んでいた。お里が茶を運んでいくと、薬売りが峠向こうの村の様子を語っているのが、切れ切れに耳に入った。
「今年の不作はどこも同じ。中でも峠向こうの村はことの他厳しく、家を手放すものも少なくないとか」
姑は黙って耳を傾けていたが、その顔から何を思っているのか、お里には読み取ることができなかった。お里は茶を置くと、それ以上のことは何も気に留めず、台所へと戻っていった。峠向こうの村といえば、それは自分の実家のある辺りではないかとふと思いはしたものの、まさか自分の実家のことが話題に上っているとは、この時のお里には思いもよらなかった。
それから数日、姑の様子はどこかいつもと違っていた。夜鍋の仕事もそこそこに切り上げ、代わりに一人で何かを縫いつけては、それを丁寧に折りたたんで箪笥にしまい込んでいるのをお里は何度か見かけた。ある日には、旅の行商人を呼び止め、峠向こうの在郷の米相場や村の暮らし向きについて、それとなく訪ねている様子もあった。姑はその答えを聞くたびに眉を潜めては黙り込んだ。お里にはその意味が分からなかったが、姑が何か思案を重ねているらしいことだけは感じ取れた。
数日後、待ちに待った知らせが届いた。里帰りの日が、ついに定まったのである。お里は畳に手をついて頭を下げた。
「姑様、この度の里帰りには、どうか実家の母に合わせてくださいませ。三年も顔を見ることが叶わず、恋しくてなりませぬ」
声をつまらせながら訴える嫁を見て、姑は煙管を火皿に打ち消した。長い沈黙が流れた。お里の胸は太鼓のように高鳴った。断られたらどうしよう。また何を言われるのではないか。あらゆる不安が押し寄せた。
「行きたければ、行くが良い」
姑の口からそう許しが降りた瞬間、お里は我が耳を疑った。だが、姑の言葉はそれだけでは終わらなかった。
「一つ、条件がある。道中、茶屋には決して寄るな。見知らぬ者から食べ物や水を受け取ってもならぬ。言いつけた通りにするのだぞ」
姑の声には、いつにない強さがあった。お里にはなぜそこまで念を押されるのか、見当もつかなかったが、ただ許しをいただけただけでもありがたく、涙を拭った。どのような条件でも従えると思えた。三年ぶりに母に会えるという思いに、胸が高鳴るばかりであった。
その夜遅く、お里は湯屋から上がった帰り、姑の部屋の前を通りかかった。中から、かたことかたことという物音が聞こえてきた。針仕事の音であった。日が暮れれば灯りさえ惜しむ姑が、一体何をそれほど熱心に縫っているのか。明かりは障子の隙間からほんのわずかに漏れているだけであった。お里が耳を澄ませていると、時折り、ちりんという小さな金属の音が混じるのに気づいた。針仕事の合間に、何か硬いものが触れ合うような音であった。かたことかたこと、ちりん。かたことかたこと、ちりん。その音はまるで何かの符牒のように、規則正しく繰り返されていた。
お里が思わず障子に近づいた。その途端、部屋の中の物音がぴたりと止んだ。お里が息を飲んで立ち尽くしていると、障子が音もなく開き、姑が顔を出した。その目は暗がりの中でも鋭く光っていた。
「何をしている。早く休め」
姑の声は普段よりもさらに冷たかった。お里は慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。振り返ると、障子はすでに固く閉ざされていた。お里は自室に戻ってからもしばらく寝つけなかった。あの音は何だったのか。なぜあれほど慌てて追い返されたのか。もしや、私を里帰りさせぬための何か仕掛けでもあるのだろうか。そんな疑いさえ一瞬頭をよぎった。だが、それと同時に、もしかすると姑も心のどこかで嫁のために何かを用意してくれているのかもしれないと、漠然と思う気持ちもあった。二つの思いの間で揺れながら、お里はようやく床に着いた。
翌朝、里帰りの日が明けた。お里は夜も明け切らぬうちに目を覚ました。胸が高鳴って、それ以上横になっていられなかったのである。お里はそっと箪笥を開けた。嫁入りの時に実家から持たされた紅紫色の絹の着物が、丁寧に畳まれてしまわれていた。三年の間、一度も袖を通したことのない着物であった。姑の目が怖くて着る気になれなかったのである。だが今日ばかりは違った。実家の母に、達者に暮らしている様子を見せたかった。お里はそっと絹の着物を取り出し、身にまとった。滑らかな布が肌に触れる感触は、久しく忘れていたものであった。帯を占める手にも自然と力がこもった。鏡の前に立つと、久しぶりに晴れやかな顔が映った。お里は髪を丁寧に結い上げ、簪をさした。母が見たら、どれほど喜ぶだろうか。鏡に映る自分に思わず微笑みかけていたお里は、その時まだ気づいていなかった。この浮き立つ心が、もうすぐ粉々に砕け散ることに。
まさにその瞬間であった。障子が荒々しく開き、姑が部屋に踏み込んできた。お里は驚いて鏡から目を離し、後ろを振り返った。姑の顔は険しく歪み、その眼差しは刃物のように鋭かった。
「なんという、不届きな真似をしているのか」
姑の怒声が部屋中に響き渡った。お里はその場に凍りついた。何が行けなかったのか、どこで見当違いをしたのか、見当もつかなかった。
「飢饉の折に絹の着物とは、近隣の妬みを買って石を投げられて死にたいのか」
姑は青筋を立ててお里に詰め寄った。避ける間もなく、姑の手が絹の襟元を掴んだ。ビリビリという鋭い音と共に、上等な布が引き裂かれた。お里の口から悲鳴が漏れた。姑はそこで止まらなかった。袖を引きちぎり、裾を裂きながら、三年間大切にしまってあった絹の着物を無残なほどに引き裂いていった。糸のほつれる音、布の裂ける音が、狭い部屋の中に幾重にも響いた。
「おやめください、姑様。どうかご勘弁を」
お里は畳に崩れ落ち、声を上げて泣いた。引き裂かれているのは着物ではなく、自分自身の心そのものであった。姑は何も語らず、ただ黙々と布を裂き続けた。理由も一言も語らなかった。その沈黙が、お里にはかえって恐ろしかった。まるで何か大きな覚悟を胸に秘めているかのような、張り詰めた沈黙であった。
姑はお里の様子に構う様子もなく、納戸の方へ大股で歩いていった。しばらくして、姑は何かを手にして戻ってきた。かび臭いような匂いが鼻をついた。お里が顔を上げると、それはひどく古びたぼろの着物であった。あちこちに穴が開き、汚れがこびりついた古着で、どこにでも使われていたのか、獣のような匂いまで漂っていた。
「さあ、これに着替えるのだ」
姑は有無を言わさぬ声で命じ、ぼろをお里の前に投げ捨てた。
「破れたところは、適当に縫っておいた。実家に行っても、達者に暮らしていると自慢話などせず、素直に戻ってくるのだぞ」
お里は信じられなかった。このような着物を着て、実家の母に会えというのか。このくずのようなぼろを着て、実家の門をくぐれというのか。お里の唇が震えた。
「姑様、どうしてこのような仕打ちをなさるのですか。三年ぶりに会う母の前で、私にこのような見すぼらしい姿をさせるおつもりですか」
だが、どれほど訴えても無駄であった。姑の顔は岩のように固く、その眼差しにわずかな揺らぎもなかった。お里は唇を噛みしめながら、震える手でぼろを拾い上げた。血の涙を流しながら、そのぼろを身にまとった。
ところが、不思議なことが起きた。古びてすり切れた薄い布のはずなのに、肩に乗せた途端、まるで石を背負ったかのような重みが伝わってきたのである。お里は驚いて襟元に手をやった。薄い布のはずなのに、なぜこれほど重いのか。何か硬く、ずっしりとしたものが着物のあちこちに隠されているようであった。お里は首をかしげた。昨夜聞いた、あの金属音が頭をよぎった。まさか、あの音と関わりがあるのだろうか。だが、姑の顔色をうかがっても、姑は何も言わず、部屋を出て行ってしまった。お里はぼろを着たまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
喜びで始まったはずの朝が、絶望へと変わっていた。母に会える高揚感はどこかへ消え、恥ずかしさと惨めさだけが胸を満たしていた。着替えねばと思いながらも体が思うように動かず、お里はしばらく畳の上に座り込んだままであった。
お里はぼろをまとったまま、裏口からそっと大海を出た。表門から出れば村の者の目に止まると思い、あえて人通りの少ない裏道を選んだのである。朝の日差しは柔らかく降り注いでいたが、お里の胸の内は真冬の湖のように凍りついていた。一歩進むたびに、ぼろの重みが肩に食い込んだ。この着物の中に、一体何が入っているのか。お里はつぶやきながら肩を回した。だが、今はそれを確かめている余裕などなかった。
道の半ばに、一軒の茶屋があった。旅の者たちが立ち寄り、しばし足を休める店であった。お里は喉の渇きを覚えたが、姑の言いつけを思い出し、決して立ち寄るまいと、店の前を足早に通り過ぎようとした。ふと見ると、縁台に旅装の男が二人、腰を下ろして道行く者たちを眺めていた。目つきの鋭い、旅人とは思えぬ二人組であった。一人は着物の合わせから、鈍く光る刀のようなものを覗かせていた。もう一人は道を行く旅人たちを、一人一人品定めするように見渡していた。裕福な身なりの者が通れば目で追い、粗末な身なりの者にはすぐに視線を外す。その繰り返しであった。お里が通りかかると、男たちの視線が彼女の方に向いた。お里は思わず身を縮め、俯いたまま歩を速めた。だが、男たちの目はお里のまとうぼろの汚れと赤錆びた染みを一瞥しただけですぐに、関心を失ったように別の方へと逸れていった。お里はその視線に、屈辱とも安堵ともつかぬ複雑な思いを抱いた。
ちょうどその頃、茶屋の縁台の反対側には、上等な羽織をまとい、大きな風呂敷包みを背負った田舎の商人らしき男が茶を飲み干し、腰を上げるところであった。男は懐から取り出した紙入れを何のためらいもなく開き、茶代を払った。紙入れの中には、何枚もの銭が覗いていた。その様子を、先の二人組が横目でかすかに見ていたのを、お里は見逃さなかった。田舎の商人は何も知らぬ様子で、軽やかな足取りで先に道を立っていった。
お里が茶屋を通り過ぎてしばらく行った頃、後方の林の方からくぐもった叫び声が一度、風に乗って聞こえてきた。お里は思わず足を止め、振り返った。姿は見えなかったが、何かただならぬことが起きたのは確かであった。しばらく息を潜めて様子を伺っていると、道の先の木の陰に、見覚えのある大きな風呂敷包みが一つ、投げ出されたように転がっているのが目に入った。先ほど茶屋で見た、あの田舎の商人のものに違いなかった。お里は体の震えが止まらぬまま、次の宿場まで急ぎ、そこで出会った土地の者に峠道の様子がおかしいと伝えた。その者は心得た様子で、すぐに近くの村役へ知らせに走っていった。
お里はそれを見届けると、震える足を踏みしめて再び先を急いだ。物盗りでさえ、これほど惨めな身なりの女には目もくれぬのだ。あの田舎の商人は身なりを整え、金を持っていることを隠しもせぬばかりに、あのような目にあった。哀れみとも悔しさともつかぬ思いが、胸の奥に重く沈んだ。今朝、姑がなぜあれほど厳しく絹の着物を引き裂いたのか。その理由の一端が、この時お里の胸の中でぼんやりと形を帯び始めていた。だが、それでもまだ、なぜこのぼろにこれほどの重みがあるのか、その確信にはたどり着かなかった。
歩を進めるごとに、ぼろの重みが増していくように感じられた。まるで誰かが背中に石を一つずつ積み上げていくかのようであった。汗が滝のように流れ、息が上がった。お里は道端の木陰に立ち止まり、息を整えようとした。紐が肩に食い込み、赤くなった跡が残るほどであった。なぜ、姑はこのような着物を着せたのか。逃げ出しでもするとでも思って、わざと粗末な恰好をさせたのだろうか。三年ぶりに実家へ帰るというのに、なぜよりによってこのような着物を着せて送り出したのか。恨みが次々と胸に湧いてきた。これまでの三年間、褒め言葉一つかけられたことがなかったこと。些細なことでやり直しを命じられたこと。理由も告げられぬまま里帰りを何度となく拒まれたこと。それら全てが、このぼろ着と共にお里の胸の内で一つの塊となって膨れ上がっていった。
道すがら、お里はいくつかの村を通り過ぎた。どの村も以前見た活気は失われ、田畑には枯れた作物が放置されたままになっていた。道端には痩せた子供が力なく座り込み、通り過ぎる旅人を虚ろな目で見送っていた。ある家の軒先では、老人が屋根から剥がした藁を鍋で煮ているのが見えた。別の村外れでは、空になった家の戸が風に揺れ、中を覗かせていた。井戸端に集まった女たちの顔にも、疲れと諦めの色が濃く浮かんでいた。お里は目を背けたい思いに駆られながらも、この不作が自分の実家にも及んでいるかもしれぬという不安を拭い去ることができなかった。
こうして歩き続けるうち、遠くから烏の鳴き声が聞こえてきた。烏の声が、風に不吉に響き渡った。お里は胸が騒いだ。何か良くないことが起こるような、そんな予感がした。お里は再び足を速めた。実家の村が次第に近づいてきた。だが、近づくほどにお里の胸は重さを増していった。母がこの姿を見たら、どれほど嘆くだろうか。手紙には達者にしていると偽りの便りばかり送っていたのに、この着物を見れば胸を痛めるに違いない。母に心配をかけまいと、偽りを重ねてきたのである。それが今になって、このような見すぼらしい姿で現れれば、母はどれほど驚き悲しむだろうか。お里は実家に近づくほどに足取りが重くなった。一瞬、引き返したいとさえ思った。だが、足は一人でに前へと進んだ。三年の間恋い焦がれた母の顔が、目の前にちらついて離れなかったからである。
道の途中には、浅瀬を渡らねばならぬ小川があった。橋は先の大雨で流されたままになっており、旅人たちは裾をまくって水に入るほかなかった。お里はぼろの裾を膝までまくり上げ、恐る恐る水の中に足を踏み入れた。冷たい水が足首に絡みつき、着物の重みも相まって、一歩進むごとに体が傾ぎそうになった。川底の石は滑りやすく、水の流れも意外なほど速かった。足を取られ、あやうく転びかけたその時、通りがかった老人が手を差し伸べてくれた。
「危なっかしいの。その着物には何が入っておるのか」
老人は着物の重さに驚いた様子で尋ねた。お里はとっさに「薬を運んでいるだけでございます」と答え、老人に礼を言って先を急いだ。老人はそれ以上詮索することもなく「達者でな」と言い残して去っていった。
ついに実家の垣根が見えてきた。庭先の柿の木は覚えているままの姿で立っていたが、家そのものはひどく荒れ果てて見えた。屋根板は所々痛み、板塀も倒れかけていた。垣根越しに見える庭は、かつて母が丹精込めて手入れしていた花壇も、今は雑草に覆われていた。お里は戸口の前で足を止めた。肩がひどく痛んだ。この着物を脱ぎ捨てたい。お里は襟を引っ張りながら心の中で叫んだ。だが、姑の厳しい言いつけが恐ろしくて、そうすることはできなかった。お里は震える手で戸を叩いた。
「母上、お里でございます」
中からかすかな物音がして、戸がゆっくりと開いた。その瞬間、お里は目の前の姿に息を飲んだ。そこに立っていたのは、記憶の中の母の姿ではなかった。三年前、娘を嫁がせた時のあの丸みを帯びた温かな姿は、どこにもなかった。痩せ細った、骨ばかりの手。腰が曲がり、柱にすがってようやく立っているその姿であった。家の中に足を踏み入れると、囲炉裏は冷え切っており、灯りさえもともされぬままだった。米びつの蓋を開けると、そこにはわずかな米が残るばかりであった。棚の隅には、食べ慣れぬ野草の根や、薄く刻んだ干し大根のようなものが干してあった。冬をしのぐために使っていたはずの厚い布団は見当たらず、代わりに薄い蒲団が一枚、隅に畳んであるだけであった。壁際にあったはずの箪笥や長持も、いつの間にか姿を消していた。
お里は声を失った。母は力をなく笑い、「暗い顔をすることはない。しばらく続いた不作のせいだ」と呟いた。だが、その声には隠しきれぬ疲れが滲んでいた。互いの痩せた顔を見つめ合った瞬間、親子は言葉一つ交わさぬまま、その場に折れて泣き崩れた。お里は息を切らして母を抱きしめた。三年前は丸々として温かかった母の体は、今や骨と皮ばかりになっていた。着物越しに伝わるその軽さに、お里は声にならぬ悲鳴を上げそうになった。母もまた娘を抱きしめ、涙を流した。母の目に映る娘の姿は、息をのむほど痛ましかった。臭いの染みついたぼろをまとい、顔は涙と埃で汚れた娘の姿であった。
「ああ、我が娘、お里よ。達者に暮らしていると言っていたのに、これは一体どうしたことか」
母は娘の来ているぼろを見て胸を叩いた。お里は家の中を見回しながら、胸が潰れる思いであった。土間の隅に置かれた古い臼には埃が積もり、久しく使われた形跡がなかった。柱にかけられていたはずの父の形見の煙管も見当たらない。棚にはかつて幾つも並んでいた漆塗りの椀も、二つほどしか残されていなかった。母の様子に気づき、お里がそれとなく訪ねると、母は目を伏せて「去年の暮れに質に入れたのだ」と小さく答えた。
「近隣の者たちも、皆同じように苦しい思いをしている。恥じることではないのだ」
母は自らに言い聞かせるように繰り返した。お里は母の胸に顔を埋め、しばし言葉もなく泣き続けた。
ところが、ちょうどその時であった。ちりん、ちりんと、母が娘の背をさすっていると、妙な音が聞こえてきたのである。重みのある、それでいて軽やかな金属の音であった。母は泣くのをやめ、首をかしげた。お里は昨夜の記憶が蘇った。あの夜、姑の部屋から聞こえてきたのは、まさにこの音ではなかったか。
「この音は、何であろうか」
母が娘の肩をそっと揺すってみた。すると、再びちりんという音がした。今度は一層明瞭に聞こえた。お里は驚いて、自分の着物を見下ろした。この着物の中に、何かある。お里は震える手でぼろの裏地を探った。外から見れば古びてすり切れた布であったが、裏を探ってみると、何か固くずっしりとしたものがあちこちに隠されていた。お里の指先が襟の縫い目をたどっていくと、小さな包みのようなものに触れた。
「母上、これをご覧くださいませ」
お里が襟の糸を丁寧にほどいていった。姑が昨夜、通し縫いしていたその場所であった。指先が震え、なかなか糸を捉えられなかったが、ようやく一目ほどいたところで糸がほけると、中から光るものが姿を現した。
「これは、小判ではないか」
母の目が大きく見開かれた。お里の手のひらに、ずっしりとした小判が一枚転がり出たのである。日の光を受けて輝く小判を目にした瞬間、二人は言葉を失った。お里は慌てて着物の他の部分も探ってみた。袖口、裾、腰紐。着物のあちこちから、同じ感触が伝わってきた。お里は急いで着物の裏地をほどいていった。一両、二両、三両。あちこちから小判が転がり出た。母は畳の上に転がる小判を震える手で一枚一枚拾い集め、数えていった。片袖だけで五両、腰の部分に十両、襟にまた五両。数えるほどに、母の声は一層震えた。
「これほどの金を、一体どうやって」
呆然としながら、お里は三つの記憶を同時に思い返した。夜更けに聞いた、あの金属音。蔵の前で見た、姑が懐にしまい込んでいた布袋。そして茶屋で見た、あの二人組の男たちが自分には一瞥もくれずに視線をそらした、あの様子。三つの光景が頭の中で一本の糸のように繋がっていった。あの夜の針仕事は、この小判を縫い込む音だったのだ。蔵から持ち出された布袋は、この小判の元だったのだ。そして、あのぼろの姿だからこそ、自分は物盗りの目に留まらなかったのだ。絹の着物を身にまとっていれば、今頃は自分があの悲劇に巻き込まれていたかもしれない。あれほど重かった理由。石を背負ったように肩にのしかかっていた理由。それが、まさにこれであったのだ。手にした小判の重みが、これまでの三年間の重みと不思議と重なって感じられた。だが、まだなぜ姑がこれほどのことをしたのか、その確信は分からなかった。お里の手が着物の裏を探るうち、小さな紙切れに触れた。くしゃくしゃに折りたたまれた文であった。
母はその小判の山を前に、「これは姑様がこさえたものならば、私が受け取るわけにはいかぬ」と固く首を横に振った。震える指先で小判を押し戻そうとする母の手を、お里は慌てて押しとめた。
「母上、どうか早まらないでくださいませ。まずは、この文をお読みください」
お里は震える手でその文を開いた。そこには、姑の筆跡でびっしりと書き綴られた文字があった。お里は文を読み始めた。
「お里よ。この文を読んでいるということは、お前が無事に実家へ着いたということであろう。まずはそのことを何より安堵している。お前にぼろを着せたことを恨んではならぬ。全て理由あってのことなのだから。お前には黙っていたが、峠向こうのお前の実家がこの度の不作でひどく難渋していると、出入りの薬売りから聞き及んだ」
お里は、あの日薬売りが訪れた光景を思い出した。あの時、姑と薬売りが長座敷の奥で話し込んでいたのは、まさにこのことだったのだ。
「そのままにしておくことなど、私にはできなかった。だが、金銭を人手に託して届けさせるわけにはいかなかった。物盗りに金を持たせておれば、道中で奪われるは必定。かといって堂々と届ければ、それで一目を引く。誰も疑わぬ形で、誰にも気づかれぬままに届ける。その方法をずっと考えていた。行き着いた答えがこれだ。ぼろの着物に金銭を縫い込んで運ばせる。それだけのことだ」
お里は、あの晩蔵の前で見た光景が、思った通りであったことを確かめた。姑が懐にしまい込んでいたあの布袋こそが、この小判の一部だったのだ。
「お前の母は、気位の高いお方と聞いている。ただ小判を差し出しても、決してお受け取りにはなるまい。それ故、こうするのだ。姑にきつく当たられてぼろを着せられてきましたが、着物の中に小判が縫い込まれていたのです。姑が是非とも母上に差し上げるようにと申しました。そう言うのだ」
お里が文を読み進めると、もう一枚別の紙切れが挟まれていることに気づいた。町の米屋の名が記された、一枚の書き付けであった。
「この店の主は古くから付き合いがある。この書き付けを見せれば、値で買い叩かれることはないはずだ」
お里はその書き付けを見つめながら、姑がただ思いつきで金銭を用意したのではなく、何日も前から母のために何もかも整えていたことを悟った。文の終わりには、こう記されていた。
「お里よ。私にも若い頃、この土地が飢饉に見舞われたことがあった。あの年、私はまだ十四であった。弟は飢えのあまり弱り続け、母は自らの分の飯を私に与え、自分は水ばかりを口にしていた。近隣に助けを求めても、皆が同じように困窮しており、誰も余分な米など持ち合わせていなかった。あの時の、何もできずに座り込んでいるしかなかった無力さを、私は生涯忘れることができない。それはそうと、お前の母が難渋していると耳にした時、あの苦しみだけはもう誰にも味合わせたくないと思わずにはいられなかった。私がお前を愛していないと思っていたか。不器用ゆえにこのような形になっただけで、お前は私にとって掛け替えのない子である。道中、くれぐれも気をつけて。そして母には、この姑が深く頭を下げていたと伝えておくれ」
お里は文を読み終えると、しばらく声も出せずにいた。これまで三年もの間、恐ろしいとしか思えなかった姑の一挙手一投足が、まるで違う意味を帯びて胸に迫ってきた。あの冷たい声も、あの厳しい眼差しも、全てはこの一枚の文に込められた思いの、いわば裏返しであったのだ。夜な夜な温めていた言葉。見知らぬ者から食べ物を受け取るなと命じたあの日の言葉。絹の着物を情け容赦なく引き裂いたあの手。全てが、娘を守るための精一杯の手立てだったのだ。ぼろは世間の目を欺くための仮の姿であり、その中の小判は飢えに苦しむ人々を救うための命の綱であった。姑はお里を苛んでいたのではなく、この身を削る思いで、ただ黙って誰にも気づかれぬように、嫁の実家を支え続けていたのである。
お里は文を読み終えると涙を拭い、母の手を取った。
「母上、お聞きください。姑にきつく当たられ、このようなぼろを着せられてまいりましたが、着物の中に小判が縫い込まれていたのです。姑が是非とも母上に差し上げるようにと申しました」
お里が文にあった通りの言葉を口にすると、母のこわばっていた顔がわずかに緩んだ。
「そういうことであれば」
母はようやく小判に手を伸ばした。それでもなお「この恩は必ずお返しせねば」とつぶやく母に、お里は静かに首を振った。
「母上、まずはご自分の体をお大事になさってくださいませ。それが何よりの恩返しでございます。母上、早く町へ出ましょう。この金で米を買い、薬を求めねばなりません」
お里は母の手を取って立ち上がらせた。二人は書き付けを手に、町の米問屋へと向かった。店先には米を求める人々が列をなしており、店が値段を吊り上げているのか、あちこちで不満の声が聞こえた。列に並ぶ者たちの中には、わずかな銭を握りしめ、何とか一升でも分けてもらえぬかと頭を下げている年寄りの姿もあった。お里が番頭に書き付けを差し出すと、番頭は文字を確かめ、わずかに目を見開いた。
「これは、大海の女将さんの書き付けでございますね。お待ちください」
番頭はそう言うと、奥から主人らしき初老の男を連れて戻ってきた。主人は書き付けにじっと目を通すと、深く頷いた。
「姑殿には長年世話になっている。他の客とは別に、裏の蔵から上質の米をお分けいたしましょう」
そう言って、店の者に人目につかぬよう裏口から米俵を運ばせた。お里は、姑がこの店の主人といつからこのような繋がりを持っていたのかと、驚きを禁じえなかった。お里は薬種屋にも立ち寄り、体力を補う薬草を求めた。目先の一度きりの施しで終わらせるわけにはいかない。次の収穫までをどうにかしのげるだけの量を買い求めた。
家に着くと、お里は母を支えながら部屋へと運び込んだ。囲炉裏に火を起こし、米を洗って飯を炊いた。炊きたての飯からは香ばしい匂いが漂った。母はその匂いをかぎながら、また涙をこぼした。この匂いをかぐのは、一体何ヶ月ぶりであろうか。母が飯を一口すくうと、目を閉じてゆっくりと噛みしめた。その姿を見て、お里は胸が詰まる思いであった。
母は飯を食べ終えると、娘の手をしっかりと握った。
「お里よ。お前はいいお方に恵まれたのだ。あのような姑様に恵まれたのだから。戻ったら、姑様に孝行を尽くしなさい。決して恨んだり、辛く思ったりしてはならぬ。表向きは恐ろしく冷たく見えても、その内にはお前を大切に思う心があるのだから」
お里はこれまで三年の間、姑にどれほど辛く当たられてきたかを、ぽつりぽつりと母に語った。理由も告げられぬまま里帰りを拒まれ続けたこと。些細なことで叱られたこと。優しい言葉一つかけられたことがなかったこと。母は黙って耳を傾けていたが、やがて静かに口を開いた。
「お里よ。私も昔、姑様に使えたことがある。あの頃はただ辛いとしか思えなかったが、今になって思えば、あれもまたこの家を守るためであったのかもしれぬと思うことがある。人にはそれぞれの事情があり、それぞれの不器用さがあるものだ」
母の言葉には、長年の暮らしの中で培われた静かな重みがあった。お里は頷いた。今ならば、分かる気がした。
日が西に傾く頃、お里は母に暇を告げねばならなかった。日がくれる前に、大海へと戻らねばならなかったからである。母は戸口まで出て、娘を見送った。
「道中、気をつけて行きなさい。そして、姑様にはこの姑が深く頭を下げていたと伝えておくれ」
「お里よ。正直に申せば、小判など受け取れぬと思っていた。だが、姑様のご心を知った今は、素直に受け取ることこそがあの方への何よりの御礼だと思うようになった。人の情けを意地を張って拒むことの方が、かえって相手の心を踏みにじることもあるのだと、この年になって初めて知った気がする」
お里は母をしっかりと抱きしめた。朝には悲しみで抱きしめたのに、今は感謝の思いで抱きしめていた。お里は母の腕から離れ、家を歩き始めた。
帰り道、お里は先ほど通った茶屋の前を再び通りかかった。縁台はすでに空であったが、道端の木の陰に、先ほど見た田舎の商人の忘れ物か、破れた笠が一つ落ちているのが目に留まった。お里は足を止め、しばらくそれを見つめた。あの二人組の男は、今も峠のどこかに潜んでいるのかもしれない。だが、今のお里には恐れよりも、静かな誇りの方が勝っていた。物盗りでさえ目もくれなかったこの見すぼらしい身なり。それこそが、母を救う金銭を守り抜いた盾であったのだ。あの時、悔しさに呟いた言葉が、今では誇らしい響きを持って胸に甦った。お里は静かに一礼し、再び歩き出した。
夜になって大海に着いた時、案の定、姑は表門の外に立っていた。お里の姿を見るなり、姑はすぐに背を向けて奥へと入っていった。だが、お里は見た。背を向けたその時、姑の目元がほんのりと赤く濡れていたことを。お里は部屋に戻ると、しばらくためらった後、姑の部屋の前に膝をついた。
「姑様、ただ今戻りました。実家の母が、姑様に深く頭を下げていたと申しておりました」
障子越しに、姑の短い声が返ってきた。
「戻ったなら、早く着替えなさい。その匂いが廊下にまで届いておる」
お里はその言葉に、以前ならば涙を流していたであろう。だが、今は違った。お里は静かに微笑み、ぼろを丁寧に脱ぐと、糸をほどいた部分をそのままに、両手で捧げるようにしてもう一度障子の前に膝をついた。
「姑様、この着物は、私が自らの手で仕立て直させていただきます」
お里はそう告げた。しばし、障子の向こうから物音一つしなかった。お里が諦めて立ち上がろうとしたその時、障子がわずかに開いた。隙間から覗いた姑の顔は、いつもと変わらぬ無表情を保っていたが、その目元は確かに赤く晴れていた。
「好きにするがよい」
姑はそれだけ言うと、着物を受け取ることもせず、障子を静かに閉じた。だが、その一言には、これまで聞いたことのないわずかな柔らかさが滲んでいるのを、お里は聞き逃さなかった。障子が閉まった後も、お里はしばらくその場を動くことができなかった。何年も氷のように冷たいと思い込んでいたあの人の内に、これほどまでの真心が秘められていたとは。そして今この瞬間、姑もまた部屋の中で何かをこらえているであろうこと。お里は静かに一礼し、己の部屋へと戻っていった。
翌朝、お里が目を覚ますと、枕元にあのぼろの着物が置かれていた。昨夜破れた部分には、すでに丁寧な直しが入れられていた。針目は几帳面で、まるで時間をかけて心を込めて縫われたことが一目で分かった。傍らには針と糸、そして一枚の清潔な布が添えられていた。お里はそれを見つめ、静かに頬を伝う涙を拭った。誰も愛しているとは言わなかった。それでも、その一針一針が、言葉よりも雄弁に語っていた。
それから幾つかの月日が流れた。姑の勘であの朝のことが改めて語られることは一度もなかった。だが、姑の物言いは相変わらずそっけないままでも、時折り実家の様子をさりげなく訪ねるようになった。母の暮らし向きが落ち着いたと聞けば、姑は黙って頷き、それきり何も言わなかった。翌年の秋の頃には、誰に言われるでもなくお里が自ら米俵を実家へ届けたいと申し出ると、姑は何も言わずにただ頷いた。以前であれば、今日の仕事つけもせずに一人で出かけることなど決して許されなかったはずであった。だが、その時、姑はただお里の後ろ姿を見送っただけであった。その頷き一つに、その沈黙一つに、以前とは違う何かが宿っているのを、お里は感じ取るようになっていた。
あのぼろの着物は、大海の箪笥の奥深くに大切にしまわれ続けたという。見た目は世にも珍しいほど見すぼらしい古着でありながら、その内にはこの世で最も深い真心が縫い込まれていたのである。



