封筒を開いた瞬間、指先から感覚が消えた。紙が妙にしめっていて、汗なのか雨なのかもう分からなかった。十一月の午後、埼玉の古いアパートで、私はアイロンをかけていた。チャイムが鳴り、ドアを開けると誰もいない。足元に封筒が半分差し込まれていた。中身は貸付契約書だった。金額は千五百万円。連帯保証人の欄に、私の名前と実印が押されていた。三年前の日付。債務者は息子の修二。所在不明のため、私が全額返済する必…

封筒を開いた瞬間、指先から感覚が消えた。紙が妙にしめっていて、汗なのか雨なのかもう分からなかった。十一月の午後、埼玉の古いアパートで、私はアイロンをかけていた。チャイムが鳴り、ドアを開けると誰もいない。足元に封筒が半分差し込まれていた。中身は貸付契約書だった。金額は千五百万円。連帯保証人の欄に、私の名前と実印が押されていた。三年前の日付。債務者は息子の修二。所在不明のため、私が全額返済する必...

封筒を開いた瞬間、白本サブ郎の指先から感覚が消えた。紙が妙にしめっている。汗なのか雨なのか、もう分からなかった。ただの書類のはずだった。しかし目が追ううちに、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。六十六年生きてきて、こんな恐怖は初めてだった。

二〇二六年十一月。埼玉県の外れにある古いアパートの一室で、白本サブ郎は暮らしていた。最寄り駅から徒歩二十分。バスは一日に数本しかない。家賃は四万二千円。築三十四年のモルタル作りで、隣の住人がくしゃみをすれば響くような壁だった。

サブ郎は六十六歳になっていた。関東の物流会社で長年倉庫管理の管理職を務めてきた男だ。課長代理から課長、そして部長代理まで上り詰めたが、六十二歳の誕生日を迎えた翌週、早期退職の勧告が届いた。断ることもできた。しかし部下たちの顔を見ていられなかった。自分がいなければ彼らの昇進の道が塞がれる。そう思い込んでいた。

妻とは五年前に離婚した。帰りが遅く、休日も出社し、子育ての大半を妻に押し付けた。気がついた時には、二人の間に何の言葉もなくなっていた。息子の修二は離婚後、しばらく連絡を寄越したが、三年前を最後に音信不通になった。今どこにいるのかも知らない。

退職金と貯金を合わせて手元には五百万円ほどあった。しかし物価の上昇は容赦なかった。食料品、光熱費、医療費。全てが値上がりし、四年間でその大半が削られた。今の預金残高は二百八十万円を下回っていた。年金は月に十三万円ほどだが、家賃と生活費を引けば残るのは二万円足らずだ。腰の古傷も痛み、市販の痛み止めをいつも持ち歩いていた。病院には行かなかった。費用が惜しかったし、医者に見せて大事になれば、それはそれで厄介だと思っていた。

十一月の午後。サブ郎は窓際の小さな作業台の前に立ち、Yシャツにアイロンをかけていた。明日着るわけでもない。ただ手を動かしていないと落ち着かなかった。退職してから四年。一日の大半を無意味に過ごしている感覚が、彼を常に不安にさせていた。アイロンの横には、今日届いた求人雑誌が置いてあった。開けば自分がどんな仕事に応募できるか、直視しなければならない。それが嫌だった。

その時、玄関のチャイムが鳴った。電子音が二回短く響く。サブ郎はアイロンを置き、ドアを開けた。外に誰もいない。足元を見ると、ドアの隙間から分厚い封筒が半分差し込まれていた。送り主の名前はない。サブ郎の名前だけが黒いマジックで大きく書かれていた。文字は急いで書いたような歪みがある。

部屋に戻り、封筒を開けた。中から出てきたのは数枚の書類だった。貸付契約書と書いてあった。日付は三年前。金額の欄には千五百万円という数字が印刷されていた。そして連帯保証人の欄に、自分の名前があった。印鑑も押されている。実印だ。

サブ郎は押入れから印鑑を取り出して確認した。肉の色、押し方の癖。それらは明らかに彼のものだった。次のページをめくると、債権譲渡通知書があった。新たな債権者は株式会社構造アセット。見覚えのない名前だ。最後のページに手書きのメモが挟んであった。

「ご連絡が遅れて申し訳ありません。ご子息の修二様が本契約の債務者です。現在所在不明のため、連帯保証人であるお父様に全額返済いただく必要があります」

サブ郎はしばらく動けなかった。書類を持つ手が震えていた。修二が自分の名前を使って金を借りた。しかも三年前に。自分は何も知らなかった。知らせなかったのではなく、知らせないために逃げたのだ。胃の奥から鋭い痛みが走り上がってきた。洗面所に走り込み、胃の中のものを吐いた。出てきたのは胃液だけだった。

翌朝、サブ郎は求人サイトを開いた。物流管理、シニア、埼玉と検索した。倉庫管理主任の募集があった。月給二十二万円。即座に応募したが、翌日には不採用の通知が来た。物流センターの監督職も、倉庫仕分けのリーダー職も、全て不採用だった。七日間で十箇所に応募し、返答が来たのは六箇所。全て不採用だった。

その日の夕方、電話が鳴った。構造アセットと名乗る男からだった。

「封筒はお受け取りになりましたでしょうか。今後の返済についてご相談したく連絡いたしました」

「私は直接関わった契約ではない」

「はい。ただ連帯保証人としてご署名が入っておりますので、法的な義務が生じております。ご子息の所在についてはこちらでも調査中ですが、現時点ではお父様にご対応いただくことになります」

その夜、サブ郎はなかなか眠れなかった。日付が変わる頃、突然ガラスが割れる音が響いた。窓ガラスが右上の角から斜めに割れ、床に破片が散らばっている。そして拳大の石が一つ転がり込んでいた。石に紙が巻かれていた。黒いマジックで「金を払え。出なければ次はお前の頭だ」と書いてあった。

サブ郎は割れた窓を新聞紙とガムテープで塞いだ。薄暗い台所の床に座ったまま、スマートフォンを手に取った。高齢者向け求人の広告が目に入った。「誰でも働ける高齢者大歓迎」。かつてはどうせ怪しい仕事だと思っていた。しかし今、指はその広告をタップしていた。名前と年齢と電話番号を入力し、送信した。

翌朝、SMSが届いていた。「昨夜はご登録ありがとうございます。本日のお仕事についてご説明したい件がございます。担当、神崎」。折り返し電話をかけると、若い男の声がした。

「倉庫での荷物の管理業務です。物流の経験者を特に求めておりまして。日払いで一万五千円を支払います。今夜、千葉の現場に来ていただければ詳細をご説明できます」

一晩で一万五千円。月に二十日働けば三十万円になる。サブ郎は「分かった」と言った。

待ち合わせは夜の十一時、千葉県内の交差点の角だった。黒いセダンが近づき、窓から三十代前半の男が顔を出した。目が笑っていない。紺色のスーツは安物ではなかった。

車に乗せられ、倉庫に着いた。天井が高く、蛍光灯が並ぶ広い空間だ。作業内容は「夜中の一時から四時の間に、外部の業者がトラック三台分の荷物を運び込む。その積み込み状況を確認し、表に入力するだけ」だった。バーコードリーダーを手に、サブ郎は黙々と作業をした。三日目には、読み取り順番を自分なりに最適化し、作業時間を四十分短縮した。

「シラスさんは本当に優秀ですね。管理職の経験は伊達じゃない」

神崎はそう言って話しかけてきた。物流業界はどう変わるのか。昔の倉庫管理はどうだったのか。サブ郎が答えると、神崎は真剣な顔で聞いた。その頷き方は、かつての部下に似ていた。

四日目の夜、三台目のトラックの荷物を確認している時だった。若い作業員が積み重ねた箱に体をぶつけ、一番上のダンボール箱が床に落ちた。蓋が開き、中身が転がり出た。スマートフォンだった。十台以上が一度に出てきた。画面のフィルムが剥がされているものがある。背面のロゴ部分が削られているものもある。さらに一台を手に取ると、本体側面の製造番号が何か硬いもので削り取られていた。作業員の男が無言で床の端末を拾い集めた。

サブ郎は何も言わずに自分の席に戻った。頭の中で、表の商品コードを辿った。SMはスマートフォンか。ELは電子機器か。PCはパソコンか。製造番号が削られた端末。荒い梱包。分割された行き先。深夜の搬入。全ての要素が一つの結論に向かっていた。ここは盗品の仕分け場だ。

サブ郎は席に戻ると、ノートパソコンの画面をスマートフォンのカメラで撮影した。落ちた箱の近くに残っていた端末も、誰も見ていない瞬間に撮った。管理職時代の習慣が体を動かしていた。記録を残す。証拠を確保する。それが自分を守る最初の一歩だ。

作業が終わり、サブ郎が入口の小さな扉に手をかけた時、後ろから神崎の声がした。

「シラスさん。少しよろしいですか。ご報告したいことがありまして」

振り返ると、神崎が二メートルほど後ろに立っていた。笑顔だった。しかし今夜の笑顔はこれまでのものと少し違った。余裕がありすぎる笑顔だった。

「シラスさんが代表取締役を務める法人の名義で、この倉庫は登録されています」

神崎はノートパソコンの画面を向けた。設立書類の代表取締役の欄に、白本三郎と印刷されていた。

「私はそんな書類にサインしていない」

「そうでしょうね。サインは必要なかったんです。シラスさんの個人情報は最初の登録フォームで十分でした。身元確認と本人情報があれば、あとは手続き上の問題だけです。専門の方にやっていただきました」

神崎はさらに封筒を取り出した。中には写真が数枚入っていた。自分のアパートの外観。郵便受けの名前部分。コンビニに入る自分の後ろ姿。日付が印字されている。つい三日前のものだ。

「シラスさんは今この倉庫の代表者です。ここで何が行われていたか、もしそれが問題になった時、責任を負うのは代表者ということになります。今後もこれまで通り仕事を続けてください。それだけでいいです」

さらに神崎は言った。

「スマートフォンの中身は、最初の日から確認させていただいています。遠隔で見られるアプリを、お茶のペットボトルを触った際に仕込ませていただきました」

駅まで送られ、サブ郎は電車に乗った。目を閉じた。頭の中が静かだった。怒りはあるが、もうあの熱さはない。冷えて塊りかけている。

それから三日が経った。サブ郎は神崎に言われた通り、また夜中に千葉の倉庫へ向かった。逃げる選択肢がないわけではない。しかし逃げた先に何があるのかを考えると、足が動かなかった。預金は二百八十万円を切っている。弁護士費用もない。倉庫の登記から自分の名前を消す方法も分からない。

その週の土曜日、午後の二時過ぎに電話が来た。知らない番号だったが、市外局番は都内の固定電話だった。

「シラスさん、ご無沙汰しております。月野です」

かつての部下だった。先週、電話をかけた時は「メールをください」と言ってすぐに切られたのだ。

「会社の代表番号です。少し直接お話ししたいことがありまして。実は弊社で運営顧問のポジションを検討しておりまして、シラスさんのような経験をお持ちの方に是非お力を借りしたいと思っています」

サブ郎は警戒した。しかし話を聞くだけにしようと思った。

指定された都内のカフェで、月野は深く頭を下げた。契約期間は一年。報酬は年間六百万円。先払い。月野の話し方は整理されていた。

「なぜ今、私に?」

「正直に言います。先週シラスさんから電話があった時、私はうまく対応できなかった。後で後悔しました。シラスさんには物流の仕事を基礎から教えていただいた。それは本当のことです。会社の規模が大きくなってきた。今改めてその経験を借りたいと思っています」

「先払い六百万というのはどういう形になる?」

「契約締結後、一括でお振り込みします。ただ一点だけ協力いただきたいことがあります。顧問契約には上位の法的責任担保が必要で、会社の規定上、外部の顧問には最初に保証預かり金として二百万円をお預けいただく形になっています。これは契約終了時に全額返還されます。あくまで書類上の担保です」

サブ郎は頭の中で数字を整理した。預金残高は約二百七十万円。二百万円を振り込めば残りは七十万円。しかし六百万円が入れば差し引き四百七十万円になる。構造アセットへの対応費用と弁護士費用を合わせても、ある程度動ける金額になる。しかし何かが引っかかった。外部顧問が担保を先に振り込むなどという形式は聞いたことがない。

「その規定の書類を見せてもらえるか」

月野はほんの一瞬、表情を動かした。サブ郎は見逃さなかった。

「もちろんです。今日は手元に持ってきていないので、後日メールでお送りします」

翌日、月野からメールが届いた。顧問契約書の雛形と、保証預かり金に関する社内規定の写しが添付されていた。規定は精査した。確かに外部顧問には保証金の預け入れを求めると書いてある。しかし、規定の制定が先月になっていた。先月に作られた規定を全顧問に適用しているのは、少し無理のある話だ。

それでも六百万円という金額の前で、判断が鈍っていた。焦りが判断を歪めている。それは自分でも分かっていた。木曜日の朝、サブ郎は通帳を出した。残高は二百七十三万八千円。振り込んだ後に残るのは七十三万円余りだ。しかし六百万円が入れば状況は変わる。そう自分に言い聞かせて、ATMで二百万円を振り込んだ。確認画面で気づいた。送金先は月野の個人口座だった。法人口座ではない。サブ郎の手が止まった。取り消すか、確定するか。その一秒が異様に長く感じた。確定ボタンを押した。

月曜日の朝、サブ郎は月野の会社があるビルに行った。八階建ての古いビル。五階の廊下で、会社名が書かれたプレートがあるべき場所に何もなかった。壁に、最近何かが剥がされた跡があった。ドアの鍵はかかっていた。管理人に尋ねると、「あそこは先週退去されましたよ。荷物を全部出されて、急でしたね」

サブ郎は廊下に立ったまま、体の中から力が抜けていく感覚を味わった。月野の番号に電話した。繋がらなかった。メールを確認すると、一通届いていた。

「シラスさん、今更怒っても無駄です。あなたが部下を潰して出世してきたことは、私以外にも知っています。毎週末の残業強制、休暇申請の拒否、査定での偏った評価。あなたの下で働いた人間が何人やめていったか覚えていますか。私もその一人です。今日の二百万円はその傷の一部の清算だと思ってください。警察に行きますか。どうぞご自由に。振り込みはあなたが自発的にされたものです。私からの強要は一切ありません。メールは全て保存してあります」

サブ郎はスマートフォンを下ろした。廊下の床に腰が落ちていた。反論しようとすれば、記憶が反論を拒否した。確かに自分は部下に厳しい管理職だった。残業を断る部下には圧力をかけた。休暇を申請しにくい雰囲気を作っていた。自分の業績のために部下の評価を操作したこともある。それが仕事の常識だと思っていた。

公園のベンチに座った。月野の行為はどう言いようとも詐欺だ。許せるものではない。しかし、許せないという感情と、自分にもあるという認識は、同時に存在できた。むしろその両方が同時に存在することの方が真実に近い気がした。

雨が降り始めた。サブ郎は傘を持っていなかった。小走りにはならず、普通の歩幅で歩いた。駅に着く頃には、スーツの肩が濡れていた。アパートに戻り、夕方までぼんやりと過ごした。

翌朝、構造アセットの池神から電話が来た。

「弁護士とのご相談は進みましたか?」

「まだだ。費用の準備ができていない」

「そうですか。弊社としてはできる限り丁寧に解決したいと思っています。ただこのままご連絡が取れない状況が続くようですと、法的手続きの申請に移らざるを得なくなります。口座の差し押さえ、場合によっては以前お勤めだった会社にもご連絡する場合があります」

電話を切った後、サブ郎は壁を見た。退職した会社に連絡が行く。それがどれほどの痛手になるか分からない。しかし、在職中に積み上げてきた評判というものがある。それが汚されることへの抵抗感が、体の奥にあった。

その日の夕方、神崎からSMSが届いた。「今週木曜日の夜も来てください。例の案件、少し変更があります」

木曜日の夜、サブ郎は倉庫に向かった。行かないという選択ができなかった。神崎の車に乗ると、いつも通りの穏やかな声で「お疲れ様です」と言われた。倉庫の中はいつもと少し様子が違った。机と椅子が増えていて、プロジェクターが天井からぶら下がっていた。

「今夜は作業ではなく、別の件でお話があります」

神崎はカラーのパンフレットの束を机に置いた。「高齢者安心生活サポート事業」と書いてある。

「来週の土曜日、この事業の説明会を開きます。シラスさんにはこの説明会でお話をしていただきたいのです。あなたは元物流会社の管理職で、退職後にこの事業に参加して生活が安定したという話をしてください。台本はこちらで用意します」

パンフレットを開くと、有料老人ホーム事業への投資募集という見出しがあった。利回りは年利十二パーセント。最低投資額は百万円。サブ郎は言った。

「これは詐欺だ」

「そんなことはありません。適正な投資案内です」

「年利十二パーセントの根拠が書かれていない。投資法人の登録番号もない。金融商品取引業者の免許も記載されていない」

神崎はしばらくサブ郎を見つめた。それから言った。

「そういう細かいことより、シラスさんの役割だけ聞いてください。十人参加させてくれたら、あなたの法人登記を解除します。書類の処理は私がやります。弁護士も使わずに済む。あなたはただ話すだけでいい」

サブ郎は台本を受け取った。「皆さんこんにちは。私はシラスと申します。長年物流会社で働いてきたものです。退職後、年金だけでは生活が苦しく、何か収入を補う方法を探していたところ、この事業と出会いました」。それ以上読めなかった。

「少し考えさせてくれ」

「今夜中に返事をください。来週の土曜日まで時間がないので」

アパートに戻ったのは朝の四時半だった。テーブルに台本を広げた。自分と同じ年代か、もっと上の人たちが、この説明会に来る。年金暮らしで将来の不安を抱えている。そこに自分ような元管理職の体験者が出てきて投資を勧める。百万円を出す人間が現れるかもしれない。その百万円は、年金からかき集めた老後の蓄えかもしれない。

一方で、法人登記が消えれば、神崎との関係を絶つ足がかりができる。書類から自分の名前が消えれば、倉庫の問題に巻き込まれる危険が減る。

土曜日の朝、サブ郎は神崎に電話した。「行く」。神崎は「分かりました。十二時に迎えに行きます」とだけ言った。

会場はホテルの二階にある会議室だった。五十人は入れる広さだ。一時になると、人が入ってきた。高齢者がほとんどだった。七十代か八十代に見える人もいる。白髪の女性、杖をついた男性、夫婦で来たらしい二人組。誰もが少し緊張した顔をしていた。

神崎がマイクを持って開会を告げた。事業概要の説明。スライドが投影され、数字が並んだ。「年利十二パーセント。三年間の保証。元本確保」。嘘だとサブ郎は思った。感情ではなく認識として、この数字は達成できない。元本確保の約束をする根拠がない。

「では、実際に参加されている方のお話をお聞きいただきます」

神崎がサブ郎の名前を呼んだ。サブ郎は演台に向かって歩いた。マイクを受け取った。台本の最初の一行を頭の中で確認した。口を開こうとした。その瞬間、前列の老夫人と目があった。七十代後半だろうか。細い体に紺色のカーディガンを着て、膝の上に小さなバッグを乗せ、両手でそれを握っていた。こちらを見る目は真剣だった。信じようとしている目だった。

沈黙があった。台本の言葉が頭の中で崩れ始めた。代わりに別のものが浮かんできた。自分がここに立っている理由。神崎に脅されているからだ。法人書類から名前を消してもらうためだ。目の前に座っている老夫婦はそれを知らない。知らないまま、この男の言葉を信じようとしている。

サブ郎は台本を持っていない方の手に移し、その紙を床に落とした。音は小さかった。しかし前列の人たちはそれを見た。マイクを口に近づけた。声が出た。自分の声だった。

「皆さん、今日はここに来ていただきありがとうございます。私は白本サブ郎と申します。ただし、今からお話しすることは、こちらが用意したものではありません。この説明会は投資詐欺です。年利十二パーセントという数字に根拠はありません。元本保障の裏付けもありません。百万円を預けた場合、返還される可能性は極めて低い。私はそれを知りながら、今日ここに呼ばれました。皆さんを信じさせる役目を負わされて、この壇上に上がりました。今すぐ帰ってください。何も契約しないでください」

会場が静まり返った。一瞬の完全な沈黙だった。神崎が動いた。壁際から演台に向かって歩いてくる。顔の表情が変わっていた。穏やかさは完全に消えていた。会場がざわめき始めた。前列の老夫婦が立ち上がり、出口の方を向いた。入口の方へ人が動き始めた。

神崎が演台に上がってきた。サブ郎の腕を掴もうとした。サブ郎はマイクを持ったまま後ろに下がった。

「やめろ」

神崎の右手が動き、Yシャツの胸元を掴んだ。引っ張られた。サブ郎は体の重心を低くしながら、掴まれたまま動かなかった。神崎の後ろから、受付にいた体格のいい男が駆けてきた。サブ郎の腕を後ろにひねり上げた。肩に激しい痛みが走った。声は出さなかった。

廊下に出た。男が腕を離した瞬間、サブ郎は壁に手をついて体勢を整えた。男の一人がサブ郎の腹を手のひらの縁で打った。息が詰まった。もう一人が背中を膝で打った。サブ郎は床に膝をついた。もう一発来た。今度は太ももの外側を蹴られた。足がしびれた。

「しばらく動けないでいろ」

神崎の足音が遠ざかっていった。サブ郎は片膝をついたまま、しばらくそのままでいた。腹の痛みが波のように引いては戻ってきた。動けないほどではない。ゆっくりと立ち上がり、会議室のドアを押した。中は空になっていた。椅子が乱れ、パンフレットが床に落ちている。演台の横に自分のバッグがあった。財布とスマートフォンは無事だった。

ホテルの外に出た。冷たい空気が顔に当たった。体が熱を持っていたから、その冷たさが気持ちよかった。踏み出した。どこへ向かうという目的はなかった。ただ、その場に立ち止まっていたくなかった。

歩きながら、起きたことを整理した。説明会で台本を捨て、高齢者たちに詐欺だと言った。神崎の部下に殴られた。法人登記の問題は解決していない。構造アセットの件も解決していない。預金は七十万円を切っている。何も解決していない。それなのに、体の中が静かだった。あの会議室で台本を床に落としてから、何かが変わった。それまでずっと続いていた圧迫感が、少し緩んだような感覚があった。

最寄りの駅まで歩き、電車に乗った。車内は混んでいた。吊り革に捕まって立っていると、打たれた脇腹が電車の揺れのたびに痛んだ。それでも座ろうという気になれなかった。座ったら眠ってしまいそうだった。

アパートに戻り、シャワーを浴びた。脇腹は赤くなっていた。背中は触ると熱を持っている。着替えを済ませ、インスタントのそばを食べた。食べながらスマートフォンを見た。着信はなかった。

翌朝、体の各所が昨日の続きを主張していた。それでもサブ郎は布団の中でしばらく天井を見ていた。薬を買いに行かなければと思い、駅前の薬局まで歩いた。薬を買い、隣のコンビニでおにぎりと缶コーヒーを買い、外のベンチに座って食べた。空を見上げた。雲が少しだけ流れている。

今の自分にできることを考えた。逃げるという選択肢はある。しかしどこへ行っても、構造アセットの債務はついてくる。戦うという選択肢もある。しかし何を持って戦うのか。弁護士がいない。証拠は断片的だ。スマートフォンに残した倉庫の写真は、神崎がアクセスできると言っていた。

ふと思い出した。倉庫での最初の週、自分はいくつかのものを撮影していた。神崎のノートパソコンの画面。製造番号が削られた端末の写真。あのデータは今もスマートフォンの中にある。それに神崎とのSMSのやり取りも残っている。月野からのメールも。振り込みのレシートも財布の中に。

アパートに戻って一時間ほど経った頃、神崎から電話が来た。

「昨日は迷惑をかけました。今後の関係についてお話ししたいと思っています。直接会えますか?」

「考える」

サブ郎はそれだけ言って電話を切った。その夜、構造アセットの池神に電話した。

「連帯保証の書類に使われた私の印鑑証明。どこから取られたものか、把握しているか」

池神は少し間を置いた。

「確認が必要です」

「確認してくれ。私の名前で登録された印鑑証明の取得に、私は関与していない。それを書面で示せるかどうかで、今後の対応が変わる」

息子が父親の印鑑証明を正規の手続きで取得することはできない。本人確認が必要だからだ。つまり修二が使った印鑑証明は、何らかの不正な手段で入手されたものだ。それは構造アセットも知っているはずだ。その言葉を口にした時、扉の隙間が一ミリだけ広がったような感覚があった。

夜になって、サブ郎は机の前に座り、紙に書き出し始めた。左側の列に「持っているもの」。倉庫のスプレッドシートの写真。製造番号が削られた端末の写真。神崎とのSMSの記録。月野からのメール。振り込みのレシート。右側の列に「送る先」。一つ目は空白のままにした。二つ目も空白のままにした。

警察に行くという選択は、法人書類に自分の名前がある以上、まず自分が疑われる。新聞社やテレビ局という手はあるが、取り上げてもらえる保証はない。しかし、何もしないよりは動いた方がいい。それだけは確かだった。

翌朝、サブ郎は駅前のネットカフェに入った。三時間パックで千一百円。個室のパソコンから、写真とSMSの記録を自分のメールアドレスに転送し、保存した。それから、経済犯罪に関する情報提供の窓口と、大手新聞社の情報提供フォームを開いた。

書き始めた。管理職として報告書を書いていた時のやり方を思い出した。事実を先に書く。感情を入れない。時系列に沿って並べる。

「私は白本三郎。六十六歳です。埼玉県在住の無職です。以下の件について情報提供します」

神崎の倉庫の件を中心に書いた。雇われた経緯。作業内容。盗品と思われる電子機器を見た日。法人登記を無断で使われたこと。説明会への誘導。その後の暴力。一つずつ日付と場所を明記しながら。書き上げるのに一時間かかった。月野の件は別の文書にした。日付、金額、振り込み先、その後の経緯。レシートの写真も添付した。

警察の情報提供フォームを送信した。次に新聞社のフォームを送った。画面に「送信しました」という文字が現れた。サブ郎は画面を閉じた。手の甲で額を軽く抑えた。汗はかいていなかった。体は落ち着いていた。それが今自分にできる全部だった。

アパートに戻ると、神崎からのSMSが届いていた。「今週中に返事をください。昨日の電話の件です」サブ郎は返信した。「今週末に話せる。土曜日の昼、埼玉の駅前でどうか」。すぐに既読がついた。具体的な駅名と、駅前のチェーン店の喫茶店の名前を送った。神崎は「了解しました」と返してきた。

土曜日の昼、サブ郎は指定したカフェに十分前に着いた。窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。神崎は五分前に来た。黒いコートを着ていた。いつものスーツではない。

「先週の件は、こちらも行き過ぎた部分があった。あの二人には話をした」

謝罪ではなかった。事実の確認だった。

「法人書類の件は、こちらで処理します。シラスさんの名前を外す手続きを進める。時間はかかるがやる」

「なぜ今になって?」

神崎は少し目を落とし、それから戻した。

「先週の説明会で少し計算が狂った。警察が近くをうろついているという話もある。今は目立つことをするべきではない。それだけです」

理由は納得できた。神崎も今は静かにしたい。自分もそれを望んでいる。目的は違うが、同じだった。

「法人書類の処理が完了したら、書面で証明をもらいたい」

「分かった」

二人はコーヒーを飲み終え、店を出た。別々の方向に歩いた。握手もなかった。駅のホームで電車を待ちながら、サブ郎はベンチに座った。隣に若い母親が幼い子供を膝に乗せて座っていた。子供が母親の指を握って動かしている。サブ郎はその光景をただ見ていた。

電車が来た。乗り込んで扉の横の席に座った。電車が動き始め、窓の外に十一月の景色が流れる。サブ郎はぼんやりと外を見ながら、北海道のことを考えた。生まれ故郷の函館の近くの小さな港。十八歳で上京して、それからずっと関東にいた。四十年以上経つ。帰りたいとは思わなかった。ただ、あそこはまだあるのだろうかと考えた。

最寄り駅から二十分歩いてアパートに戻った。鍵を開け、電気をつけた。緑茶を入れてテーブルに座った。湯が冷めていくのを待ちながら、スマートフォンを確認した。着信なし。メッセージなし。今夜は静かだった。明日何が起きるかは分からない。構造アセットがどう動くか。神崎が約束を守るか。情報提供がどこかに届いているか。分からないことだらけの中で、今夜できることは何もない。それは焦りとしてではなく、ただの事実として受け入れられた。

夕飯は昨日炊いた白米に卵を乗せて食べた。醤油を少し垂らした。それだけだったが、ちゃんと食べた。食べてから、ワイシャツを出してアイロンをかけた。明日着るわけではない。ただ何もしていないと体が落ち着かなかった。一枚、二枚と仕上げていくうちに、自分の状態を確認しようとした。怖いか。怖くないと言えば嘘になる。しかし先週ほどの怖さではない。怒りはある。しかし行き場のない怒りは、どこかに収まっていた。悲しみというより、長い疲れがあった。修二が消えたことへの疲れ。妻との別れへの疲れ。退職してからの四年間の疲れ。それらが重なって、今の自分の状態を作っていた。

布団に入ったのは十一時だった。目を閉じた。眠りに落ちる前、サブ郎はふと一つのことを考えた。この一ヶ月で、自分は何を失って何を得たのか。失ったものは明確だった。二百万円。神崎への信頼という幻想。月野の恩義という錯覚。自分は誰かの役に立てるという感覚。得たものは何か。それは言葉にしにくかった。ただ一つだけ確かなことがあった。説明会で台本を落としたあの瞬間、自分は誰かのために何かをした。その誰かは、あの老夫婦のような顔をした、名前も知らない人間だ。結果として何かが変わったわけではない。しかし、あの瞬間だけは、自分以外の誰かのことを考えて行動した。それはこの一ヶ月の中で、初めてのことだったかもしれない。眠気が来た。意識が薄くなった。

翌朝、七時に目が覚めた。昨日より早い。台所で水を飲んだ。外は晴れていた。新聞紙の隙間から細い光が入ってきた。白い光だった。痛み止めを飲んだ。昨日買ったものだ。二週間分ある。コーヒーを作りながらスマートフォンを確認した。着信なし。メッセージなし。

コーヒーを持ってテーブルに座った。窓の方を向いた。新聞紙の貼られた窓だ。そこからの光は細いが、今朝は明るかった。今日何をするか。特に予定はない。構造アセットから返事が来るかもしれない。神崎からの連絡も、今日すぐに来るとは思えない。ただの一日だった。何もない。ただの月曜日だった。それが今は、それでいいと思えた。全部が解決したわけではない。何も終わっていない。しかし、今日一日はここにいる。それだけのことが、以前とは少し違う重さを持っていた。

コーヒーを飲み終えた。カップを洗うために立ち上がりながら、サブ郎は窓の方ををもう一度見た。新聞紙の向こうに今日の空がある。冬の晴れた空だ。見えないが、そこにあることは分かった。水道の蛇口をひねった。水が出た。カップを洗った。水の冷たさが指先に広がった。また一日が始まった。

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