「父の葬儀ごときで会社を休むな。首にするぞ」
その言葉が耳に入った瞬間、俺はスマートフォンを握る手に力を込めていた。ベンチャー企業からこの大手に転職してきた俺は、エリート意識の強い上司の山田に、入社してからずっと馬鹿にされ続けていた。実力もないくせに権力だけは振りかざす、そんな男の暴言に耐えてきた。だが、父の葬儀の最中にまで電話をかけてきて、この仕打ちだ。
「わかりました。それでは、そのように社長にお伝えしますね」
その一言を残して、俺は電話を切った。
俺の名前は小野幸介。この春からこの大手企業でシステムエンジニアとして働き始めた。物づくりが好きだった俺はプログラミングの専門学校に進み、卒業後は地元のベンチャー企業に入社した。そこは人数が少なく、コードを書くだけでなく、ディレクターのアシスタントや採用業務まで、ありとあらゆる仕事を経験させてもらえた。ひたむきに働くうちに、その経験が買われて、今の会社への転職が決まった。
「小野さんのように幅広く業務に携わってきた方が来てくださると、本当に助かります。ぜひ腕を振るってくださいね」
面接の時、社長はそう言って笑ってくれた。俺も期待に応えようと、心から思っていた。
転職先は大規模な事業をいくつも持っているが、これまでシステム業務は外注していた。それを本格的に社内で扱うことになり、中途採用で多くのエンジニアが集められていた。
入社初日、自分のパソコンをセットアップしていると、隣の席の男性が話しかけてきた。
「小野さん、よろしくお願いしますね。僕は松原と言います。何か分からないことがあったら、ひとまず僕に聞いてください」
松原さんはまんまるとした顔をほがらかにほころばせて言った。彼は数年前からこの会社のシステム部門で働いていて、社内のことはほとんど何でも知っているらしい。
「ベンチャー出身ってすごいですよね。ポートフォリオも拝見したんですが、いろんな案件を担当されていたんですね」
「いえいえ、まだまだですよ」
「うちは最近本格的に始まったばかりだから、これから小野さんの意見もぜひ聞かせてもらいたいなあ」
そんなふうに和やかに話していると、背後から硬い靴音が聞こえてきた。
「松原さん、さっきから何をこそこそ話しているんですか?」
振り返ると、開発チームのチーフである山田さんが立っていた。細い目で俺たちを睨みつけている。
「疑問があるならチャットツールで話せばいいでしょう。そんな時間があるなら開発を進めてください」
「ああ、すみません。わかりました」
「小野さんも、担当の案件をメールで送りましたから、セットアップが済んだらメンバーに内容を聞いて進めてください」
「はい、かしこまりました」
山田さんは「君たちもこの会社の生産性を上げていかないとなりませんよ」と付け加えると、くるりと向きを変えて奥の自分のデスクに戻っていった。その周りにいた社員たちは、誰も何も言わなかった。
チャットツールの設定が完了すると、すぐに松原さんからダイレクトメッセージが届いた。
「さっきのことは気にしなくていいですよ。山田さんはいつもああで、すぐに人に当たりますから。周りも知らんぷりしてるんです」
山田さんは大企業の開発職を点々とし、数年前にこの会社の開発部門として採用された。しかし、事業部の事情から別部署に配属されてしまい、長らく開発業務ができなかったのだという。そして最近ようやく開発部に配属されたかと思うと、これまでの苦労を盾に幅を利かせ始めた。自分に従わない人間を敵視したり、若いエンジニアを捕まえては自分の苦労話を延々と聞かせたりする。周りはもううんざりしているらしい。
その午後、トイレの場所を探して廊下を歩いていると、井戸端会議をしている山田さんの姿が見えた。思わず耳をそば立てると、山田さんは松原さんの言った通り、ブツブツと文句を言っていた。
「あの小野ってやつ、本当に大丈夫なのか?ベンチャーなんて、ただ年の近い仲良し小僧の集まりだろ。実力がなかったから、そこしか入れなかったに決まってる」
腹が立った。だが、今ここで飛び出していけば余計な角を立ててしまう。それに、どこにでもこういう人間はいるものだ。下に見られているのは、必要以上に高く見積もられるよりは気が楽だとも思った。
よし、絶対に成功して、あの男を見返してやる。
それから俺は前より一層気を引き締めて、毎日勢力的に働き始めた。
入社してから早くも半年が過ぎた。俺は最近、取引先に常駐してシステム開発を進めている。本社に戻ってきたのは、実に数週間ぶりのことだった。
「山田さん、お疲れ様です。常駐中の交通費の申請は、どのように進めれば良いでしょうか?」
山田さんは嫌な顔をして、棒読みで答えた。
「私がエンジニアになった頃は、交通費なんてなくても仕事ができただけでありがたかったですがね」
「そうでしたか。でも、面接の際に、会社にて負担すると社長からお聞きしました」
「はあ、そうですか。じゃあ、社長に確認しないといけませんね。内線繋ぐので、デスクに戻ってください」
え、社長に内線?こんなことで?
俺が驚いているうちに、山田さんはすぐに内線をかけ、あっさりとつないでしまった。俺は慌てて受話器を取る。
「社長、お忙しいところすみません」
「なんだ、これから大事な用があるというのに。緊急の業務だと聞いたが、手短に頼むぞ」
「いえ、緊急の内容ではございません。交通費の申請を」
「交通費?そんなの山田が聞いてくれればいいだろう。彼が緊急の報告があると言うから、取り次いだのに。人の時間を何だと思ってるんだ?」
「いえ、申し訳ございません」
電話の傍らでちらりと向こうを見ると、山田さんはもういなかった。山田さんが事を大きくしすぎたせいで、思わぬ大目玉を食らってしまった。
「山田さん、小野さんが叱られるように、わざと取り次いだんだなあ」
松原さんに愚痴を聞いてもらって、なんとか気持ちを収めた。しかし、これをきっかけに、山田さんはやたらと俺につっかかってくるようになった。
社長には翌日直接謝罪して事なきを得たが、大事にならなかったことが山田さんには面白くなかったのだろう。挨拶をしても返事はない。仕事中も、休憩に行くふりをしながら、何かと俺の画面を監視されている気がした。ある時は閉まっていた書類がデスクの上に散乱していたり、文房具がなくなったりもした。
「うわ、汚いデスクだなあ。仕事ができないのが丸分かりだ。部屋もさぞ汚いんだろうなあ」
山田さんが毎回、鬼の首を取ったかのように騒ぐので、職場の雰囲気も次第に悪くなっていく。今日も俺の書いたコードのレビューをしながら、彼は捲し立て始めた。
「こんな読めないコードを書いたのは誰だよ。ベンチャーでバリバリやってたんじゃなかったのか?」
「ですが、これはこういう仕様で……」
「証人でも立てるのか?そんなこと聞いてないんだよ。ごちゃごちゃわけのわからないことを言って、自分の行動が説明できないくらいなら、書類の片付けでもやってろよ」
そういった具合で、案件は一向に進まなかった。
そんな時、山田さんの案件でトラブルが発生した。オフィスは朝から騒がしく、現場は状況の確認に追われている。
山田さんが汗を流しながら、チームのメンバーに告げた。
「この案件には小野君も携わっている。従って、彼も客先に謝罪に行かなければいけない」
「え、僕は最後の部分の修正をしただけですが」
「それが携わっていると言うんだ。つべこべ言わずについてこい」
仕方なく取引先についていくと、なんと山田さんはクライアントの前で、自分のミスを俺に押し付けた。
「この度は、私の監督不行き届きのせいで、誠に申し訳ありませんでした」
俺は連日のことで疲れ果てて、もう怒る気力も残っていなかった。
帰社後、スマートフォンを開くと、不在着信が溜まっている。宛先は妻からだった。
「あなた、今どこにいるの?すぐに病院に来て」
それから、何があったかはよく覚えていない。ただ医者の見解を淡々と聞いて、家に帰って、機械的に連絡を繰り返した。そして今、俺は父の棺の前で立ち尽くしている。
「パパ?」
娘が俺の袖を引っ張っても、会場の人が何か確認事項を持ってきても、何もかも遠くの出来事に感じられた。
「この度は誠に痛み入ります。生前、お父様には本当にお世話になったんです」
「そうですか。来てくださって、父も喜んでいます。ありがとうございます」
通夜には多くの人間が駆けつけ、花を手向けてくれた。俺は喪主として、悲しむ暇もないくらい忙しく、どこかぼんやりと過ぎていった。
もともと入退院を繰り返していた父は、昨晩、容態が急変したのだ。いつもなら定時後に病院に向かうのだが、昨日だけは違っていた。
翌朝、携帯電話が鳴った。山田さんからだった。
こんな時にも、山田さんの声を聞かなければいけないのかと思うと、うんざりした。だが、出なければ出ないで面倒なことになるのが分かっていたので、仕方なく通話ボタンを押した。
「おい、あの、お前、今何をやってんだ?」
山田さんは朝から、ねっとりとした声で続ける。
「ですから、連絡しました通り、今日は父の葬儀で……」
俺が答える気力もないまま言うと、山田さんは鬼のごとく朝から当たり散らした。
「はあ?お前の休みのせいで、周りに迷惑をかけているのが分からないのか?じじいの葬儀ごときで仕事なんか休むな。首にするぞ」
「葬儀ごときって……」
「それだから、ベンチャーで仲良しごっこをしていたやつはダメなんだ。本当に使えないやつだな」
その時、自分の何かが切れる音がした。
「とにかく急いで会社に来い。今すぐだ」
「山田さんの意見はよくわかりました。このことは、社長にも伝えますね」
「んだと。それは一体どういう……」
「山田さんこそ、大丈夫ですか?会長の葬儀をすっぽかして。役員の方々は、皆さん参列してくださっていますよ」
「は?会長?おい、さっきから何を言って……」
「それでは、お忙しいので失礼します」
山田さんが返事をする前に、携帯電話を切った。すると娘が心配そうに声をかけてきた。
「パパ……」
「大丈夫だよ」
娘の頭を撫でて、俺は喪主としての重責を果たすため、葬儀会場へ向かった。
翌日、俺は急遽社長に呼び出された。社長室に向かうと、そこには顔を青くした山田さんが待っていた。
「幸介君、すまないね。急に呼び出して」
「いえ。それで、どのようなご用でしょうか?」
「昨日の葬儀についてだよ。君の父上、つまりはうちの会長の葬儀に、山田君の姿が見えなかったので、どういうわけだと問いただしたんだ。そしたら……」
社長が難しい顔をして山田さんを見る。すると山田さんは俺をちらちらと見ながら、ボソボソと言った。
「それは、その、小野さんの連絡が原因で……」
どうやら俺が連絡をしなかったせいで、会長の葬儀に行けなかったと言っているらしい。さらに山田さんは俺を指さして続けた。
「それに、私は案件やシステムの構築で頭がいっぱいで、彼には再三伝えるよう言ったのですが」
俺は子供じみた言い訳に、ため息が出そうになるのをこらえた。たまりかねて、俺は社長にことの次第を説明した。
「父、会長の葬儀については、社内ツールでも周知しましたし、他の方はその連絡を確認して出席したと聞いています。松原さんにも口頭で再度連絡してもらいました。聞いていないとおっしゃるなら、松原さんをお呼びしましょうか?」
山田さんの顔が歪んだ。
「それに、私が声をかけようとすれば、山田さんは『話す時間があるなら開発を進めろ』の一点張りで、話を少しも聞いてくれませんでした。だから、松原さんに連絡を頼んだんです。人の時間を取っているのは、山田さんの方じゃないですか?」
「山田君、これは一体どういうことだね?この前の交通費のことだって、幸介君と意見が食い違ってばかりじゃないか」
「い、いや、違いますよ。私はただ、小野さんに大企業のやり方を教えていただけで、気に障った彼が私を落とし入れようとしたんです。彼は小さなベンチャーから来たもんですから、どうもやり方がなっていないというか……」
「ほう。どういうことだね」
「だから、ベンチャー企業なんて、仲のいいメンバーでやっているところでしょ。この歴史あるうちのやり方には合わないから、私が育てないとという責任感で、案件の謝罪に彼を同行させたんです」
「仲のいいメンバーでやっているところか」
社長が苦虫を噛みつぶしたような顔で呟いたが、言い訳に懸命になっている山田さんは気づかなかったらしい。山田さんはヒートアップして続けた。
「彼はそれがハラスメントに思えたんでしょうか。昨日、私に口頭で嘘の日程を伝えてきたんです。私は本当にショックで、すぐ彼に連絡したんですが、その時彼は家族の葬儀がどうとかで、私の言葉に耳を貸さないんです。最後には、捨てゼリフまで始めて。私は彼の身勝手さを指摘しました。すると彼は急に怒り出して、社長に私を告発するとまで言って脅してきた。被害を受けたのは私の方ですよ」
「山田君」
社長の声が、部屋に静かに響いた。
「何か勘違いをしているようだが、ここは今でこそ大手と呼ばれているが、元々は私と、幸介君のお父上である会長と、二人で始めたベンチャー企業だよ」
「え」
山田さんが驚きで固まった。社長が大きなため息をつく。
「この会社も、かつてはベンチャーと呼ばれていた。最初は、なんとか借りることのできたビルの一室で、会長と必死に働いたものだ」
そうして社長は、自身の若かりし頃と父のことを語り始めた。父は懸命な人だった。上に熱く、しがらみを嫌い、何より物づくりを愛していた。社長とも何度も喧嘩したが、安酒を片手に何度も朝まで話をしたのだそうだ。ベンチャー企業と馬鹿にされないよう、父は自分にも他人にも厳しかった。優秀な部下を何人も育て、今、そのうちの何人かは新しい会社を立ち上げるだけでなく、海外で活躍したりもしているのだそうだ。
「当時は金もなく、何ひとつ余裕もなかったが、夢だけはずっと持っていた。今もそうだが、私は会長と働いていたあの時が一番楽しかったんだ。君も、彼と同じ道を選んだんだね」
社長が俺を見て微笑む。
「人の縁とは不思議なものだな。山田君、ベンチャーも悪くないものだよ。君のように会社にぶら下がり、他人の足を引っ張るだけの人間がいないからね。正直なところ、今すぐにでも解雇したいが、君にはまだやることが残っている。きちんと調査をした上で、処分は後日通達するから、仕事に戻りなさい」
山田さんは何も言わないまま、背中を丸めておぼおぼと部屋を出ていった。
社長と二人きりになった時、社長は創業時の写真を見せてくれた。
「彼は、仕事の合間によく君のことを話していたんだ。いつもデスクに写真を飾っていてな。君の近況を、細かく聞かされていたよ」
写真の中の父は、社長と肩を組んで笑っていた。今の自分と比べてしまって、俺は思わず苦笑する。
「きっと、僕のことは手のかかる息子だと言っていたと思います。事実、俺は父には何度も叱られていた」
「何を言うんだ。あいつは『絶対にやれる』って、いつも嬉しそうに話してたよ」
社長は続けた。
「それに、あんなに素晴らしい葬儀をして、今も一人のエンジニアとして立派に働いているんだ。息子を持つ父親として、これほど誇らしいことはない。彼もきっと喜んでいるよ」
気づけば、俺は涙を流していた。葬儀の時は、一粒も流れなかったのに。
「幸介君、彼のことは、私と君でずっと忘れないでいよう。そして、これからもこの会社のために、私と共に頑張ってくれ」
「はい、よろしくお願いします」
社長と俺は、硬い握手をかわした。
その後、山田さんは本格的に調査された。調査の中で、俺以外のメンバーからの証言もあり、山田さんの行いは会社全体に知られることとなった。恥をかかされた山田さんは、ある日、会社から荷物を抱えて逃げ出してしまい、今はどこで何をしているかも分からない。
そして数ヶ月後、俺は常駐先から本社に戻り、開発チームのチーフとなった。
「小野くん、新規のシステム案件、新人のコードレビューを頼むよ」
「わかりました」
かつて山田さんがいたデスクに座りながら、俺は社長と父のことを思い出した。
「僕は特別、父と仲が良かったわけではない。むしろ幼い頃、父は俺にとってとても怖い存在だった」
幼い頃に母をなくし、毎日ふき込んで泣いていた俺を、ある日父は慰めるどころか叱りつけた。
「男がめそめそ泣くんじゃない」
家にいることも少なかったため、俺は叔母の家で育てられた。だが小学生の時、クリスマスの夜、俺がベッドで寝ていると、部屋に誰かが侵入してきた。泥棒だ。俺はとっさにそう思い、ぎゅっと目をつぶった。叔母を呼ぼうかと思ったが、怖くて声が出ない。翌朝起きてみると、そこにはラッピングされた立方体の箱があった。ああ、サンタクロースだ。きっと前から欲しかったゲーム機を持ってきてくれたんだ。
クリスマスを忘れていた俺は、慌てて包装をめくると、それはゲーム機ではなかった。立方体の正体は、辞書だったのだ。それも国語辞典ではなく、プログラムコードと、それに対する説明が細かくびっしりと書かれているものだった。
褒められるより叱られる方が多く、俺は父の笑顔をあまり見たことがなかった。しかし、視点を変えれば、父は俺を子供扱いせず、小さいうちから一人の男として、一人のエンジニアとして尊重してくれていたのだ。父が多くの部下を持ち、仕事や会社を愛して生きてきたんだと知り、俺は父を改めて誇らしく思った。
「小野さん、面接の時間になりました。お願いします」
「ああ、ありがとう。今行くよ」
履歴書とパソコンを持って、俺は会議室に向かう準備を進める。
「行ってくるよ」
俺のデスクには、娘の写真と、社長にもらったもう一枚の写真が置かれている。そこには、まだ会社を創業したばかりの、俺と同い年の父が笑っている。



