「私をこの墓の土の中に埋めてくだされ」――その声を聞いた瞬間、私は凍りついた。夫の遺骨を納めたばかりの新しい墓のそばで、血まみれの老人が私の手を掴んでいた。背後では松明を持った男たちの足音が近づいていた。その朝までは、喪服を着た普通の嫁だった。夫が流行病で亡くなり、私は一人で田を耕し、仏間を守って生きてきた。義兄が「署名するだけでいい」と差し出した紙には、夫の没した年が書き換えられていた。「…

「私をこの墓の土の中に埋めてくだされ」――その声を聞いた瞬間、私は凍りついた。夫の遺骨を納めたばかりの新しい墓のそばで、血まみれの老人が私の手を掴んでいた。背後では松明を持った男たちの足音が近づいていた。その朝までは、喪服を着た普通の嫁だった。夫が流行病で亡くなり、私は一人で田を耕し、仏間を守って生きてきた。義兄が「署名するだけでいい」と差し出した紙には、夫の没した年が書き換えられていた。「...

「私をこの墓の土の中に埋めてくだされ」

その言葉を聞いた瞬間、雪は息が止まるかと思った。夫の遺骨を納めたばかりの、まだ新しい墓の傍らで、血まみれの老人が雪の手を掴んでいたのである。背後では松明を手にした男たちの足音が、刻々と近づいてきていた。

夫の墓に手を触れれば、雪はその日じゅうに盗人か、墓を汚した咎人になっていただろう。それでも老人の目は、死を目前にしても微かに揺れなかった。雪は震える手で墓の傍らの土を掘り返した。

あの夜、雪はまだ知らなかった。その老人が何者であるか、そしてこの選択が自分の人生をどう変えていくのかを。

物語は、その夜よりも少し前、諸島のある山里の村から始まる。

武蔵の猿村に旧家である宮竹の末の嫁として嫁いだ雪は、夫が亡くなってから、一人で仏間の前を守っていた。夫の巳一は、村の普請を気づかう仕事に出た先で流行病をもらい、戻ってから十日後に息を引き取った。嫁いでからわずか三年目のことであった。

初夜の夜、雪が知らぬ部屋で指先ばかりをもて遊んでいた時、先に口を開いたのは巳一の方だった。「怖くはないか。私もそなたと同じだけ胸が震えている」

その一言に雪の心がすっと軽くなったことを、今もよく覚えている。巳一は口数の少ない人だったが、畑仕事を終えて戻る夕方には、いつも真っ先に雪の顔色を伺う人でもあった。顔つきが優れなければ「何かあったのか」と尋ね、何もないと答えれば、ただ黙って隣に座り、手を握ってくれる。そういう人だった。

息を引き取るあの夜も、巳一は雪の手を離さぬまま、「すまない。一月もすれば戻ると言っておきながら、約束を果たせなかった」と最後の言葉を残した。その声は今も雪の耳に、はっきりと残っている。

雪には実家と呼べるものがなかった。幼い頃に両親を流行病でなくし、村外れに一人捨てられていたところを、薬草を摘んで暮らしていた老女に拾われて育てられた。老女は薬草を見分ける目が確かで、傷を手当てする指先も丁寧な人だった。雪はそのそばで、血止めの仕方や熱を下げる術を、見よう見まねで覚えていった。

その老女がいつも口にしていた言葉がある。「人を助ける時、その者が善人か悪人か、恩を返せる者かどうかを選り好みしているようでは、もう手遅れになる。今、自分にできることをするだけのことだ」

雪はその言葉を胸に刻んで生きてきた。十八になった年、その老女もこの世を去り、雪は仲人の手引きで宮竹に嫁いだのである。

巳一は本家から分けてもらった三反ほどの田を、夫婦の暮らしの元とした。親から譲られたものではなく、苦労と共に新しく夫婦のものとした田だった。巳一が世を去った後、雪はその田を自らの手で耕し、種を蒔いて生きてきた。春には代掻きをこらえ、田植えをし、夏には草取りをし、秋には鎌を手に稲を刈る。女一人の身で担うには重い仕事だったが、雪にとってその田はただの生計の手立てではなく、巳一が残した最後の痕跡だった。田を歩くたびに巳一が隣を歩いていた記憶が蘇り、雪はその仕事を厭うことがなかった。

ただし、田畑の管理は家の長男である巳兵が受け持っていた。代官へ届ける書き付けや年の手続きは女一人で進めるのが難しい事柄であり、雪もそれを当然のこととして受け入れていた。巳一が普請の途中で命を落としたため、村はその田に三年間の年貢免除を認めていた。その期限は、あと二月で切れることになっていた。巳一が息を引き取ってからすでに二年と少し、代官所が人別帳と年貢台帳を改めて調べるという触れが回る頃でもあった。

義兄の巳兵は、家の長男として巳一が死んでからというもの、家の切り盛りを一手に担っていた。表向きは厳めしい家督を演じていたが、内情は数年前から賭博の借金に苦しめられていた。巳兵は弟の田こそ自分のものではないが、その田から上がる実りと、免除されている年貢や諸役が家全体の暮らし向きに少なからぬ助けになっていることを、よく承知していた。宮竹の家として免除が切れれば、巳兵がその負担を引き受けねばならなかった。その上、これまで田の実りの一部をこっそり賭博の借金の返済に回していたこともあって、巳兵にとってはなおさら切実な事情であった。

雪はその詳しい事情を知らなかった。ただ、豪商に見知らぬ男たちが出入りし、巳兵が書き付けの束を布団の下に隠すのを、何度か見かけたことがあるだけであった。

その頃、借金取りの一人が豪商まで押しかけて巳兵を追い詰める出来事があった。雪は障子の隙間から、その声を漏れ聞いてしまった。

「今月のうちに返せぬなら、田を差し出すか。さもなくば賭博の一見を代官所に訴え出るぞ」
「もう少し、もう少しだけ待ってくれ。時期に返す当てができる」
「もう三度目ではないか。今度ばかりは知り合えぬ」

その夜、巳兵は客間に代官所の手代を一人呼び入れた。以前から袖の下をやり取りしてきた間柄であった。

「人別帳と年貢台帳の調べが目前と聞いた。あと二月で免除の期限が切れれば、私の分の諸役まで増えるはめになる」

手代が声を低めた。「手立てがないわけではございません。人別と年貢を別に扱う台帳は私の手を通ります。その台帳に記された巳一様の死亡の日付を一年ほど遅らせて書き改めれば、免除の三年の期限もそれだけ後ろにずれまする。ただし、それ相応の報酬はいただかねばなりませぬ」

巳兵の手が震えた。田の年貢がそのままのしかかれば借金を返す道はなく、返せなければ賭博の罪まで露見する。そう考えると、もはや後には引けなかった。「そうしてくれ。田の年貢を浮かせてから払おう」

手代が帰った後、巳兵は一人客間に座り、長い間行灯の火を見つめていた。「今回限りだ。表向きの帳尻を合わせるだけのことだと」自らに言い聞かせながら。

その夜、雪は仏間の板の間を拭きながら、壁越しにその話し声を耳にした。雑巾を握る手が凍りついた。死んだ夫の没した年を勝手に書き改めるという話が、こうも安易に交わされていることが、どうにも信じがたく思われた。巳一の葬儀もまだ上げていないというのに。

雪はその夜、位牌の前に長い間座っていた。夫が生きていたなら、この一見をどう思われただろうか。答えはすでに胸のうちにあった。巳一は偽りを何より嫌う人だったから。

数日後、巳兵は雪を客間に呼びつけた。部屋の中にはすでに一枚の紙と筆が用意されていた。巳兵の顔色は、ここ数日ですっかりやつれて見えた。

「お初どのがここへ座られよ。ここに署名するだけで良い。役所に巳一の死亡した日付を改めて確かめるだけのことだ」

雪は紙を見下ろした。巳一が息を引き取った日付が、実際よりも一年遅く記されていた。雪の手は震えたが、声は揺がなかった。

「兄上様、これは夫が亡くなった日付ではございませぬ。どうしてこのような偽りを代官所にあげようとなさるのですか。私は決して従えませぬ」

巳兵の顔がこわばった。「今、私に逆らうつもりか。あの田の免除が切れれば、私にも諸役がかかるのだぞ」
「それでもこれはなりませぬ。夫が世を去ったのは、私が喪服をまとったあの日です。その日付を書き改めることは、夫をもう一度殺すことにございます」

巳兵が拳で膳を叩きつけた。膳が揺れ、炭がこぼれた。畳の上に黒い炭が広がり、下書きはすっかり汚れてしまった。巳兵は腹を立て、その紙を握りつぶして火鉢に放り投げ、新しい紙を取りに体をそらせた。雪はその隙に板の間に落ちた紙を拾い上げた。

「兄上様、炭だけでも拭かねば、このままでは畳まで汚れてしまいます」

そう言いながら袖口で畳を拭くふりをして、雪は素早く日付と印の跡が残った部分を手のひらの中に隠した。巳兵は新しい紙を取りに気を取られ、その手の動きに気づかなかった。だが紙を懐にしまい終える寸前、巳兵がふとこちらへ視線を戻した。雪は息を止め、拾った紙を握りつぶすふりをしてやり過ごした。

「そんな紙は捨ておけ。書き直せば良いだけのことだ」

雪はくしゃくしゃになった紙の束を片付けるふりをして部屋を出た。袖の中に折り込んだその切れ端を、着物の襟の内側、喪服の裏地を継ぎ足した辺りに押し込んだ。なぜそうしたのか自分でも分からなかったが、いつかこれが証となるかもしれないという予感に突き動かされたのだった。

その夜、雪は実質に一人座り、袖の中の紙切れを何度も指先で確かめた。明かりを灯せば誰かに気づかれるやもしれぬと、暗がりの中でそっと着物の襟の裏地を探り、震える指でその紙を押し込んだ。廊下を歩く足音が近づくたびに身を強ばらせ、息を止めた。

同じ頃、巳兵は別の策を巡らせていた。家に代々伝わる印を納める古びた袋を一つこっそり中身を空にして、雪の風呂敷包みの下に忍ばせたのである。本物の印そのものは、自分の賭博の証文をしまう箱の奥深くに隠した。そして下女を一人呼び、含みを持たせた。

「明日の朝、皆の前で『昨夜若様が客間から出る時、袖の中に何かを隠して出ていくのを見た』と言え。そうすればお前とお前の母の年期を、縮めてやろう」

下女は怯えた顔で頷いた。主の命に逆らえる立場ではなく、年期を縮めるという言葉に心が揺れないはずもなかった。

その日は、よりによって巳一の墓を改葬する日にもあたっていた。巳兵がこの日を選んだのは決して偶然ではなかった。心を乱し、気の張り詰めた雪であれば、いざという時言い返す力も残っていまいと踏んでいたのである。墓の場所は水が溜まりやすい土地だったため、一族では以前からそのことが気にかかっていたが、その日の朝、家族たちは山裾の日当たりの良い場所に新しく塚を築いた。夜明け前から始まった作業だったため、雪も早朝から喪服を整えて出向き、泣きながらその様子を見守った。棺を新しく掘り起こし、遺骨を移すのを見守る身は穏やかではなかったが、それでも日当たりの良い場所に改めて落ち着くという事実に、いくらかの慰めを覚えていた。

作業を急いでいたためか、人足たちは棺を清めて塚の土を固めただけで、雨の気配に慌てて場を去っていった。塚の片側には、山水が流れ込まぬよう避けるための小さな溝が、まだ土で埋め切られぬまま残っていた。

同じ日の昼下がり、巳兵は「印がなくなった」という騒動を起こした。下女の偽りの証言と空の袋で雪を追い詰めたのも、その昼のことであった。日が傾く頃には一族の意向がまとまり、夕闇が降りる頃には雪は表門の外へと追い立てられた。

「今すぐこの家を出て行かれよ。盗みを働いた嫁など家に置いておけるものか。あなたも今後は、私が仕切るこの家で悔いせぬことを願うぞ」

雪は荷物をまとめる間もなく夜道へと追われた。着ていた喪服とわずかな着替えを風呂敷に包むのがやっとだった。着物の襟の内側には、昼に密かに拾い上げたあの紙切れが、そのまま入っていた。背後で門が閉まる音が聞こえた。その音は、まるで世界の全てが閉ざされる音のようだった。

行く当てはなかった。実家と呼べるものは既に無く、薬草摘みの老女もこの世を去っていた。雪はただ歩き、また歩いた。門を出た瞬間から雪の頭にはただ一つの場所しか浮かんでいなかった。それはその朝、新しく築いた巳一の墓だった。せめて死者に最後の挨拶をしてからこの村を去ろうと思った。

夜が更けていった。山道には人影一つなく、三日月だけが細い道を照らしていた。諸島の夜風は肌を切るように冷たかった。墓の傍らにたどり着いた雪は、膝をついて塚を撫でた。土はまだ十分に固まっておらず、指先にひんやりと絡みついた。

「あなた様、私は巳一様の家を去ります。あなた様の名を守ろうとして、盗人にされてしまいました。それでも構いませぬ」

涙が溢れた。三年前、嫁いだあの日、巳一の恥ずかしそうな笑顔が蘇った。冬の風が襟元に忍び込んできたが、雪はその場を動くことができなかった。

その時だった。闇の中から低いうめき声が聞こえた。人の声だった。雪は声のする方へ顔を向けた。墓の下手、木々の間の闇の中に、人の形が倒れていた。白い髭に土と血がこびりついた老人だった。羽織はあちこち破れ、脇腹を抑えた指の間から黒みを帯びた血が滲み出ていた。

雪は驚いて駆け寄った。「お方様、しっかりなさってくださいませ。一体何があったのですか」

遠く山の下の方から男たちの声が聞こえてきた。「こっちだ」「盗人に違いない」

老人は残る力を振り絞り、雪の袖を掴んだ。「頼みがある。あの塚の傍らに、棺を埋めた溝があるはずだ。あの中にわしを横たえて、草と土で覆ってくれ。しばしの間で良い。どうかわしを助けてくれ」

雪は耳を疑った。「今、何をおっしゃっているのですか。夫の墓のすぐそばですのに」
「棺に触れるのではない。傍らに掘ってある空の溝だけだ。わしがあの者たちに捉えられれば、今夜この場で命を落とす。だがそなたがわしを隠してくれれば、わしは生き、そなたは罪を犯すことになる。どちらを選ぶかは、全てそなた次第だ」

松明の音がますます近づいていた。雪の頭にあの老女の言葉がよぎった。「善人か悪人か、恩を返せるかを選り好みしているようでは、もう手遅れになる」だが、その一瞬にも雪の心は二つに引き裂かれるようだった。夫の墓を守らねばならぬという思いと、目の前で死に行く者を見捨てられぬという思いが拮抗していた。

それでも雪は歯を食い縛った。「咎になるのなら、全ては私が受けまする。さあ、早く」

老人を助け起こし、溝の中に横たえた。棺には指一本触れぬよう注意を払いながら、塚の下手に掘られたその場所に老人の体を横向きに寝かせた。乾いた笹の茎を一本折り、口元に加えさせて息の通り道を作り、その上から土と枯れ葉を覆った。手が震えて土を掬うことすらままならなかったが、雪は歯を食い縛って手を動かした。

覆いを終えたその瞬間、松明を手にした男が三人、墓の傍らに現れた。雪は素早くその前に膝まづき、鳴き声を上げ始めた。

「ここで何をしておる」
「夫の墓に泣きに参りました」

男の一人が目を細め、塚の下手の土の盛り上がりを見た。「ここの土は、なぜこう柔らかいのだ」
「改葬したばかりの墓でございます。まだ手を入れておりませぬ。山水の水を埋めていたところです」

男が手にした棒の先で土の盛り上がりを突き始めた。一度、二度。棒の先が次第に深く食い込んでいった。雪は鳴き声を絞り出しながらも、心臓の音が喉元まで競り上がるのを感じていた。溝の中、老人の肩のすぐ脇まで棒が入り込み、その勢いで土が崩れて彼の顔の上に振りかかった。鼻と口に土が入るのを堪えて、老人の喉仏が動いた。血と土を飲み込みながら咳を堪える、その声なき悶えを雪は足の裏の震えではっきりと感じ取っていた。

もしここで老人が声を漏らせば、全てが終わる。雪は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、泣き声を一層高くした。

男がまさに棒をさらに深く突き入れようとした瞬間、雪はとっさに立ち上がり、その腕を掴んだ。「おやめくださいませ。それは私の夫の墓にございます。改葬してから一日も立たぬ新しい墓に手をかければ、一族が黙っておりませぬ」

男がはっとして手を止めた。傍らの別の男が低く言った。「無闇に騒ぎ立てるな。ここで揉めているのを誰かに見られたら、全てが台無しになる」

男たちはしばらく雪を睨みつけていたが、やがて背を向けた。足音が遠ざかり、松明の明かりも山の下へと消えていった。雪はそれでようやく膝の力が抜け、その場に座り込んだ。

老人は意識を失いかけていた。雪は老人を助け起こした。血みれの体を自分の肩にかけ、一歩ずつ山道を下りながら、雪は自分でも信じられぬ思いだった。つい半時前までは夫の墓の前で最後の別れを告げていた身であったのに、今は一人の見知らぬ老人の命を背負っている。

そう遠くない場所に、昔から見捨てられた小さな家があることを雪は知っていた。屋根は半ば朽ちているが、雨風だけはしのげる。雪は老人を支えてその家の中へと進みながら、足を止めなかった。

老人を横たえると、雪は沸かして冷ました水で傷口の土を洗い、清い布を幾重にも重ねて強く抑えた。さらに火を絶やさず、冷え切った老人の体を温めながら、薄い粥を少しずつ口に含ませた。老女に教わったのはそれだけであったが、老人が命を落とさずに持ちこたえたのは、傷が内臓にまで達していなかったことによるところが大きかった。

夜が更けるまで熱の上がり下がりを繰り返す老人の傍らを守り、雪は幾度となくその息遣いを確かめた。息が浅くなるたびに胸が痛み、また整うたびにようやく安堵の息をついた。

三日目の明け方、老人が目を開けた。「そなたがわしを助けてくれたのだな。何というこの恩、生涯忘れぬ」
「雪と申します」

老人はその日から少しずつ体を起こすようになった。ある日、木の枝で土の上に文字を描きながら言った。「この字は『人』という字だ。二人の人が互いに寄りかかっている形をしている。人はなぜ一人では立てず、互いに寄りかからねばならぬのでしょうか。一人でも立てぬわけではない。だが、寄りかかればいくらか楽になろう」

雪はその字を指先でなぞってみた。初めて筆を持つようなもので、線は歪んでいた。老人は傍らでじっと見ていたが、やがて枯れ枝を取り、雪の手の上にそっと重ねた。「こうして最後まで押し通すのだ。人が寄りかかる時も、中途半端に寄せるだけではいけない」

二人の手が共に土の上を動き、文字を描いた。その瞬間、二人ともしばし言葉を失った。いつからかこの古びた家の火のそばに、こうして並んで座ることが当たり前のように感じられるようになっていたのだと、二人とも同時に気づいたのである。まるで昔からの親子であったかのように。雪は恥ずかしそうに笑い、老人も困ったように釣られて笑った。

それから数日経ったある夜、老人が目を覚ますと、火のそばに雪が座っていた。老人の破れた着物を膝に広げ、針を動かしていた。狭い家の中に、糸を引く音と焚き木のはぜる音だけが静かに続いていた。老人はその後ろ姿をしばらく眺めていた。風を避けると言われるこの家が、その瞬間だけは初めて人の住む家のように感じられた。

「まだ休んでいなかったのか」
「お召し物がすっかり破れておりましたので、これだけでも繕っておかねば気が済みませぬ。手が開いておりますと、あれこれ思い巡らせてしまいますから、こうして何かをしている方が気が楽なのでございます」

老人はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに目を閉じ、その糸を引く音を聞きながら再び眠りについた。

老人はその夜、ふと低い声で言った。「わしには息子が一人いた。幼くして病に伏せたが、わしはその時も役目に追われ、家を開けていた。息子が息を引き取る時、そばにいてやれなかった。妻も先に世を去った。今、この世に残っているのは、わし一人だけだ」

雪はその言葉に何も答えることができなかった。ただ、静かに火に薪を足し、老人のそばに水の入った器を寄せただけであった。その沈黙は、どのような慰めの言葉よりも重かった。

数日後、雪は休む暇もなく水を汲み運び、寝る間も惜しんで働いた末に、体を壊して床に伏せた。額が火のように熱った。老人はまだ自分の体も癒えていなかったが、自ら粥を炊いて運んできた。

「そなたも人の子であろうに、どうして己の体をいたわらぬのだ。今日はどこにも出ず、ただ寝ておるが良い」

雪は布団の中で微かに笑った。親ほどの年の人にこうして介抱してもらうのは、いつぶりであろうかと思った。巳一が死んでからというもの、いや、もしかすると生まれてから初めてのことだったかもしれない。老人はぎこちない手付きで、額に濡れた布を乗せ、そばを離れなかった。

明け方、熱がわずかに下がると、老人はようやく安堵の息をつき、呟いた。「よかった、よかった」。雪は眠りの中でその声を聞きながら、不思議な安心と共に再び目を閉じた。

数日後、年配の下人が戸を叩いて訪れた。

「殿様」

その声に老人ははっと目を覚ました。徳助という、老人に三十年近く使えてきた従者だった。あの夜、老人と共に襲われて散り散りになり、三日三晩探し回った末に、ようやくこの場所を探し当てたのである。

「ご無事でございましたか。殿様」

雪はその呼び方に驚き、二人を交互に見た。老人は姿勢を正した。「そなたに隠していたことがある。わしは柳沢茂信という。かつて勘定奉行を務めていた。今は役目を解かれ、浪人の身だ。だが、公儀から密かに頼まれた仕事があった。近頃あちこちの村で、人別帳や年貢台帳が改ざんされ、年貢や諸役を抜かれる不正が増えているという訴えが幾度も上がってきた。わしはいくつかの村を密かに回り、怪しい書き付けを見分ける役目を任されたのだ」

雪は着物の襟の内側にある紙のことを思い出した。震える手でそれを取り出し、老人の前に差し出した。「これがその証となるかもしれませぬ。兄が役所に夫の没した年を一年遅らせて記すよう、私に署名を迫って渡した確認書の下書きにございます。私は拒み、その翌日、印を盗んだという濡れ衣を着せられました」

柳沢はその紙を受け取り、長い間眺めていた。「この筆跡の癖と印の跡は、わしが他の村で見た改ざんの書き付けとよく似ておる。そなたの義兄だな」

その時、徳助が懐から木の札を一つ取り出した。「殿様、あの夜襲われた場所から逃げる時、これを拾いました。町場の賭場で使われる札で、裏に焼印がございます。それに、逃げる途中一人が仲間にこう言うのも聞きました。『巳兵様が約束された残りの金は、仕事を終えた後に受け取ると』」

雪の顔から血の気が引いた。「巳兵様と申しますのは、私の兄のことですか」

柳沢と徳助と雪は、しばし言葉を失った。巳兵が代官所の手代と手を組んで書き付けを改ざんしたばかりか、人を雇って柳沢の命を奪おうとしたという事実が、これで明らかになったのである。

雪は自分の膝の上に置いた手を、ただじっと見つめていた。義兄がそこまでの悪事を働いていたとは、今の今まで思いもよらなかった。三年を共に暮らした家の中で、こうした闇が静かに息づいていたのだと思うと、背筋が冷たくなる思いだった。

柳沢はそんな雪の様子を見て、静かに言葉を添えた。「そなたを責めているのではない。人の心の底など、そばにいてもなかなか見えぬものだ。そなたが気づかなんだのは、恥ずべきことではない」

その一言に、雪はいくらか救われる思いをした。

あの夜の襲撃に至るまでには、巳兵の側にも引き返す機会が幾度かあったはずだった。老人がすでに巳一の書き付けを調べていると知った時、巳兵の恐れはついに人の命を奪う決意へと変わった。

その夜、巳兵は町場の賭場を訪ねた。賭博の借金を抱えていたそこにいた元締めが巳兵を見知って、密かに奥の間へ通した。部屋の中は薄暗く、汗と煙草が混ざり合った臭いが染みついていた。

「巳兵様、この夜更けに何でございますか。借金を返しに来たわけではございませんね」
「人を探している。腕の立つ者たちを」

元締めが目を細めると、やがて心得たとばかりに頷いた。しばらくして、頬に傷のある男が一人入ってきた。目つきの冷たい男だった。男は部屋に入るなり、巳兵を上から下まで眺め回した。

「あの老いぼれが一人で村を回って、書き付けを嗅ぎ回っている。その者が持つ書物さえ奪い取れば良い。体には手をかけずとも良い」

男が歪んだ笑みを浮かべた。「書物だけ奪って大人しく帰してやったら、あの老いぼれは公儀に行って我らの顔を洗いざらい訴えるのではありませぬか。あなた様を名指ししたなら、どうなさいます」

長い沈黙が流れた。行灯の火が揺れる音だけが部屋を満たした。頭の中ではありとあらゆる算段が駆け巡っていた。ここで手を引くにはすでに深く踏み込みすぎており、かと言って人の命を奪えと口にすることはどうしてもできなかった。

しかし、結局のところ、田と己の先行きを前に、その迷いは長くは続かなかった。「生きて返してはならぬ」

男は頷き、手を差し出した。巳兵は懐からあらかじめ用意していた金の半分を取り出して渡した。残り半分は仕事が終わった後に受け取るという言葉とともに、巳兵は急いでその部屋を出た。歩きながら巳兵は自らに言い聞かせ続けた。他に道はなかったのだと。しかしその言葉がどれほど虚しい自己弁護であるかは、巳兵自身よく分かっていた。

一方、代官所の手代も文書に忍び込み、前後の記述まで書き直して証拠を消そうとした。帳簿の原本は焼き捨て、門番の村を守る所役には金品を渡して口を閉ざさせた。しかし、柳沢が生きていると知るや、手代は逃亡を決意するほど追い詰められていた。それでも帳簿を残したまま姿を消せば、かえって疑いを招く。そう考え、まだ拠点を離れられずにいたのである。

雪たちが山小屋で数日を過ごすうち、徳助が村へ出た時、代官所の手の者が巳兵の家の裏口へ忍び込むのを目にした。徳助は物陰に身を隠し耳を澄ませると、手代の震える声が聞こえた。

「柳沢が生きておるという噂がある。このままでは我ら二人とも終わりだ」
巳兵が低く言い放った。「まだ確かなことではない。だが山のどこかに潜んでいるなら、先に見つけねばならぬ」

徳助はその言葉を聞くや、急いで裏道を回り山小屋へと駆け戻った。柳沢はそれを聞き、重く頷いた。「やはりあの手代一人の一見ではなかった。役所の中にも手を組んだ者がいる以上、我らが役所にたどり着いても、その者が先に手を回す恐れがある。一層用心せねばならぬ」

雪はその話を聞きながら、胸のうちが複雑になった。義兄一人の過ちだけではなく、その過ちに加担して分け合う者が役所の中にいるという事実が、改めて重くのしかかった。この小さな村一つで起きたことではなく、もっと大きく根の深い病巣であるのかもしれぬという思いがよぎった。

それから数日後、徳助が村へ出た時、危うく巳兵と出会いそうになった。巳兵が自ら手勢を率いて山を探し回っていたのである。「この山のどこかに潜んでいるはずだ。見晴らしの良いあの高台も探せ。人里に寄りつかぬからと油断するな」

その言葉を聞いた瞬間、徳助の背筋を冷たい汗が伝った。徳助は急いで裏道を回り、山小屋へと駆け戻った。「殿様、お雪様、あの者が自らこの近辺を探しております。今夜のうちにでも、ここまで寄せてくるやもしれませぬ」

柳沢はまだ傷が癒えていなかったが、事の重大さを悟った。「このままでは我ら三人とも危うい。誂え直した帳簿の下書きとわしの書物を代官所に届けることが急務だ。ただし役所の手代が先に手を回すかもしれぬ故、剣差の役人に直に会う道を探さねばならぬ」

雪は荷をまとめながら心を引き締めた。ここまで来て、引き下がるわけにはいかない。小屋の中を最後に見回した雪の目に、それまで三人で囲んできた火のそばの場所が、ことの他強く焼きついて移った。

その夜、三人は荷をまとめて小屋を出た。空からは雨が降り出した。山道は滑りやすく暗かった。柳沢は幾歩も歩かぬうちに脇腹を押さえてうめいた。傷が再び開いたのであった。

「わしはもう、先に行けませぬ」
「殿様を置いては行けませぬ」

三人は谷川のほとりにたどり着いた。夜通しの雨で流れが激しくなっていた。柳沢が足を滑らせ、大きくよろめいた。懐に抱えていた書物が手からこぼれ落ち、流れに押し流され始めた。

「殿様、書物が」

雪は声を上げながら流れの中へ飛び込んだ。何度か流されながらもようやく書物を掴んだ。胸にしっかり抱えて流れを渡り返ったが、幾枚かはすでに水に濡れて文字が滲んでしまっていた。

遠くで犬の吠える声と共に、人々の叫び声が聞こえてきた。「そっちだ」「山の上へ向かったに違いない」

徳助が先に立ち、昔、木こりたちが通った細い抜け道へ二人を導いた。人の通わぬ道だったため、足元は濡れ落ち葉と泥ばかりだった。雨に打たれ、泥にまみれながら歩き続けるうち、雪はもはや寒さも痛みも感じなくなっていた。ただ前を行く柳沢の背中だけを見つめて、足を運び続けた。

三人は明け方になってようやく、町場の役所の前にたどり着いた。門番がみすぼらしい姿の三人を見て、立ちすくんだ。柳沢が懐から通行証を取り出した。薄い木の札に、公儀の印と共に、今回の調べのために特に刻まれた小さな印が一つあった。その印が何を意味するかは、この調べを命じた公儀の重臣と、それに従ってきた剣差の役人の側の者しか知らぬことであった。

「これを剣差のお役人様にお渡し願いたい。前の勘定奉行、柳沢茂がお目にかかりたいと」

門番がその札を持って中へ入ろうとした瞬間、たまたまその場に居合わせた代官所の手代が、その札をちらりと見て顔色を失った。彼は慌てて近寄り、門番の手から札を奪い取ろうとした。

「こちらへ渡せ。わしが直に確かめよう」

手代の手は目に見えて震えていた。その様子がかえって怪しく映った。雪はその顔色を見て直感した。この者こそ、徳助が目撃した巳兵と手を組んだあの手代に違いない、と。

ちょうど剣差の役人に従ってきた武士の一人がその騒ぎに気づいて近寄ってきた。彼は手代の手から札を奪い取るようにして受け取り、印を確かめた。「この印は、今回の調べのために公儀より下されたものだ。ところでそなたはこれを見たとたん、なぜそのように顔色を変えるのか」

手代は何も答えられず、後ずさった。「動くな。中に入って剣差様に申し上げる故、その場を離れるでないぞ」

間もなく中から知らせを聞いた剣差の役人が、自ら出てきた。みすぼらしい姿の三人を見て、その顔つきが見る間に変わった。「かつて勘定奉行を務められたお方が、このようなお姿で。いかがなさいました」

柳沢は腰を下ろす間もなく、濡れて滲んだ書物と雪が持っていた確認書の下書きを共に差し出した。「この村の書き付けの改ざんを探るうち、襲撃を受けた。この女がわしを二度救うてくれた。まずこれを改めていただき、役所にある人別帳、年貢台帳と照らし合わせていただきたい」

雪は襟元に手を当てた。そこにはもうあの紙切れはなかった。とっくに剣差の手に渡したからである。それでも夫の名を守った証が、失われずに済んだことを思うと、胸の奥には静かな安堵があった。

剣差の役人は直ちに柳沢を役所内の一室に移し、医者を呼ばせた。傷を改めた医者は「幸い急所は外れているが、数日の療養が必要だ」と告げた。剣差の役人は直ちに門番に人を使わし、帳簿の間を封鎖して誰も出入りできぬようにした。書き付けに手触れさせぬための処置だった。封印の紙に印を押して、帳簿の間に貼り付けながら、役人は低く言い渡した。「この中のものは、これより後、わし以外の誰も手を触れてはならぬ。触れたる者は、その罪も合わせて問う」

続いて役人は、年配の所役を呼び、巳一の死亡の名簿、人別と年貢を扱う台帳、そして巳兵が雪に署名を迫って差し出した確認書の下書きを並べさせた。巳一の死亡の名簿には巳一が死んだ日付が正しく記されていたが、年貢台帳にはそれより一年遅い日付に書き改められていた。所役が指先でその箇所を示した。「お役人様、ここの文字の色が他の箇所と微妙に違っております。後から書き足した跡にございます」

剣差の役人の眉が跳ね上がった。「これは決して軽い一見ではない。代官所の手代をまず切り離して調べよう」

手代は別室に引かれ、尋問を受けた。帳簿を守ると言っていた所役が、「彼が数日前の夜更けまで台帳をめくり続けていたのを見た」と証言すると、手代の顔色が揺らぎ始めた。そこへ外で巳兵が縄に引かれていく足音が聞こえると、手代の顔色は立ちどころに変わった。

剣差の役人は直ちに巳兵を役所へ引き立てるよう命じた。役人が踏み込んだ時、巳兵は荷造りの途中で捉えられた。引き立てられながらも、彼はなおも開き直って言い放った。「お役人様、この嫁という者が盗みを働いておきながら、逆に私を陥れておるのです」

剣差の役人はそれ以上問い詰めず、まず彼を牢に入れ、人を放って巳兵の屋敷を隈なく調べさせた。武士たちは客間から煮炊きの間まで探った。初めは目立ったものが現れず無駄骨かと思われたが、床下に隠された賭博の証文をしまう箱を見つけたところで、事は一変した。その箱の中から一族の本物の印が出てきて、その傍らには何枚もの賭博の証文と共に、見知らぬ者に渡したと思われる金の出所を記した小さな台帳まで出てきたのである。巳兵自らの筆だった。

武士の一人がその台帳を持ち込み、剣差の役人の前に広げた。「お役人様、これをご覧ください。見知らぬ名前の頭に、大きな金の額が出た日付が記されております。ちょうど殿様が襲撃された日近くでございます」「この名前も調べねばならぬ。町場の賭場を洗い、この者が何者か調べよう」

その日は日が暮れるまで、帳簿の照合と証言集めに時が費やされた。剣差の役人は翌朝改めて庭で対決の場を開くと申し渡し、初日の調べを終えた。

雪はその夜、役所に設けられた小さな部屋で、一睡もできぬまま夜を明かした。明日には全てが明らかになるかもしれない。あるいはまた別の壁にぶつかるかもしれない、という思いに眠りが訪れなかった。隣の部屋からは柳沢の低い咳の音が時折り聞こえ、雪はその音を聞きながら、自分がもう一人ではないのだと改めて悟った。

「雪よ、まだ眠っておらぬのか」外から低い声がした。
「はい。あの……まだ殿様とお呼びせねばなりませぬね」
柳沢が低く笑った。「明日には全て明らかになろう。心配でない。そなたが経てきたことを、一つ一つありのままに申し上げなさい」

雪はそれからしばらく寝返りを打ち続けた。明日、巳兵と顔を合わせねばならぬこと。これまでの悲しみを打ち明けねばならぬことが、恐ろしくないはずはなかった。だがそれと同時に、心のどこかに不思議な落ち着きも宿っていた。もう自分は一人ではないという事実が、その落ち着きの根っこだった。

翌朝、役所の庭に再び人々が集まった。一夜のうちに噂を聞きつけた村人たちも、門の外から首を伸ばして見守っていた。剣差の役人が座につくと、年配の所役が三つの書き付けを再び広げた。

「巳兵を引き立てよ」

役人が巳兵を庭へ引き立てた。一晩牢に囚われていた巳兵はやつれていたが、目つきだけは鋭さを失っていなかった。剣差の役人は三つの書き付けを巳兵の前に並べた。

「まず、没した年を偽り、公儀を欺いた罪を正す。巳一の死亡の名簿には、巳一が世を去った年が正しく記されておる。しかし年貢台帳には、それより一年遅く書き改められておる。これをそなたはどう思う」
巳兵は冷汗を流しながら答えた。「それは手代が過って書き写したまでのこと。私は存じませぬ」

剣差の役人が雪に向かって尋ねた。「そなたは巳一の没した年を、どうしてそれほど確かに存じておるのか」
雪は答えた。「兄が私に署名を迫って差し出した書き付けは、すでにお役人様がお手元に置いておられましょう。筆跡と印の跡をご覧いただければお分かりでございましょう。また、共に普請に出た者の一人にお尋ねいただければ、私の喪服の日付と同じ日であるはずでございます」

剣差の役人はあらかじめ呼んでおいた巳一の普請仲間を前に進ませた。その者は、帳簿に記された日付と同じ日に巳一が息を引き取ったと証言した。共に普請に出て、帰る道中で巳一の最期を見取った者だった。その日の様子を淡々と語るその言葉に、雪は再び目頭が熱くなった。

年配の所役が最後に巳一の死亡の名簿と確認書の下書きの筆跡を突き合わせ、付け加えた。「この下書きの字は、私が常々見ておる役所の手代の手にございます。間違いございませぬ」

続いて剣差の役人は、雪を盗人と陥れた一件と、手代を買収した一件を合わせて正した。
「そなたは印を盗んでおらぬと、どうして確信できるのか」
「私の風呂敷包みからは、印を納めていた空の袋だけが出てまいりました。盗んだ品そのものは出てこなかったのでございます。また、あの朝私を訴え出た下女が、ことの他見えた顔で急いで話を終えたことが不審でございました」

剣差の役人が、巳兵の家の賭博の証文をしまう箱から見つかってきた本物の印を庭に差し出させた。巳兵の顔から血の気が引いた。「こ、これは何者かが私を陥れようと入れておいたものにございます」
「では、その方の賭博の証文をしまう箱の鍵は、誰が持っていたのか」

剣差の役人が鋭く問うと、巳兵は何も答えられなかった。その箱の鍵は、巳兵自身の他に誰も持っていなかったからである。

怯えた下女が庭の隅から引き出され、震える声で白状した。「は、若様の指図にございます。年期を縮めてくださるとおっしゃられて、偽りを申しました」

続いて手代も、帳簿を守る諸役への証言と巳兵の金の台帳を突きつけられ、ついに観念した。「もう申し訳ございませぬ。巳兵様の言われるまま、年貢台帳の日付を書き改めました。その報酬として金を受け取りました。役所に残していた書き直し後の確認書も、私が焼き捨てました」

剣差の役人の声が冷たくなった。「言われるままにしたという言葉が、役人としての道を捨てた罪を軽くすることはない」

最後に、巳兵が柳沢の命を奪おうとした罪を正す時が来た。「徳助を前に呼べ」

徳助が進み出て、あの夜襲われた場で耳にした言葉と、拾った木の札を語った。剣差の役人はすでにその札の焼印を手がかりに、町場の賭場を調べさせていた。賭場の元締めが呼び出され、証言した。「巳兵様が数日前の夜更けにお見えになり、人を探して欲しいとおっしゃられました。頬に傷のある男をご紹介いたしました。確かにこの目で見ております」

続いて、頬に傷のある男が縄をかれたまま引き出された。逃げようとして町場の外れで捉えられた者だった。元締めの証言と木の札、巳兵の金の台帳が並べて示されると、男はついに口を開いた。巳兵を睨みつけながら低く言った。「巳兵様があの老いぼれを片付けようと決まりました。『生きて返してはならぬ』とはっきり言われました」

巳兵はそこで完全に崩れ落ちた。膝が折れ、地面に座り込んだ。「もう申し訳ございませぬ。田の借金に追われて、そのようなことをいたしました。初めはただ日付を書き直すだけで済むと思うておりました。それが次第に事が大きくなり、田を失えば返す道がなくなると思い、あのようなことをいたしました」

剣差の役人が、それまで積み上げられた証拠の全てを一瞥してから巳兵に向き直った。「死んだ弟の没した年を偽って国を欺き、罪なき嫁を盗人と陥れ、役人を買収した上、人を放って命を奪おうとした。この罪の数々が隠れなく明らかになったからには、これを書き付けに残し上げる。正式な裁きは上のご判断を待たねばならぬが、それまで巳兵と役所の手代、それにあの傷のある男は牢に止め置く」

そして剣差の役人は雪の方へ向き直った。その声は先ほどまでの厳しさとは打って変わって、穏やかなものだった。「そなたはもう、何も恥じることはない。面を上げよ」

役人が巳兵と手代、頬に傷のある男を引き立てていった。役所の庭の外では、この知らせを聞いた村人たちが一人、また一人と集まり始めていた。初めは水を打ったように静まり返っていたが、次第にざわめきが戻ってきた。一人の老婆が雪の手を握り、目に涙を浮かべた。

「私は前々から、お前がそのようなことをする者ではないと分かっておったよ。ただ、声を上げてやれなかったのがすまんだ」

雪はその手を握り返し、首を振った。「よろしいのです。今、こうして分かっていただければ、それで十分にございます」

人の心とは、恐れの前ではたやすく縮こまってしまうものだと、雪もよく分かっていた。老婆は雪の手を何度もさすってから、その場を去っていった。

数日後、雪は剣差の役人から使わされた者に付き添われ、宮竹に戻った。巳一の位牌と幾片かの遺品を引き取るためだった。門をくぐった瞬間、見慣れたはずの庭がひどく他人の家のように感じられた。一族の年長者たちは雪と目を合わせるなり、罰が悪そうに俯いた。かつて彼女の側に立ってやれなかったことを恥じ、そっと場を離れる者もあった。

雪はそうした視線に構わず、何も言わずに仏間に入り、巳一の位牌を両手で丁重に捧げ持った。三年を過ごしたこの部屋を最後に見回しながら、雪はここでの日々がもう完全に終わったのだと感じた。部屋の隅に置かれた小さな箪笥も、布団も、見慣れているはずなのに、もう自分とは関わりのない品のように思われた。

その時、座敷の隅からあの下女がおずおずと近づいてきた。あれ以来、後ろめたそうな顔で雪を避け続けていた娘だった。

「お方様、死んでお詫び申し上げます。年期を縮めるという言葉に目が眩み、偽りを申しました。どうか私を許してくださいませ」

雪はその娘の顔を長い間見つめた。恐れと後ろめたさに震える幼い顔だった。年もまだ十五か十六といったところであろう。「私も、逆らえば居場所を失う怖さを知っております。お前がどれほど怖かったか、分かりますよ」

下女は言葉を失い、涙を落とした。「お方様、誠に申し訳ございませぬ。あの夜偽りを申した時、手がどれほど震えたか知れませぬ」

役所へ戻る道すがら、雪は剣差の役人を訪ね、静かに願い出た。「お役人様、あの下女は主の命に逆らえず、そうしたまでのことにございます。どうか、その罪を軽くお計らいくださいませ」

剣差の役人は驚いた面持ちで雪を見た。「そなたを盗人と陥れた者を、許すと申すのか」
「許すというよりは、私もまた人の命に抑えつけられ、どうにもならなかった身であることを、知っているからでございます」

剣差の役人はその言葉に頷き、下女の罪を軽く扱うと約束した。

その後、柳沢茂信は体を休めながら、しばらくこの村に留まった。雪は巳一の田の傍らにある小さな藁葺きの家に、改めて住まいを構えた。田は正しい手続きを経て雪の手に戻ったが、その家には相変わらず雪独りだった。庭の井戸端にも、台所の竈の前にも、共にいる者はいなかった。雪は毎日柳沢の療養する部屋を訪ねては、傷を見舞い、薬湯を煎じて差し上げた。そうして日が傾く頃にはまたあの小さな家に戻って、一人で膳を整える日々だった。

ある日、ちょうど見舞いに訪れた雪に、柳沢がふと尋ねた。「今日の夕餉は、何を食べたのか。一人でか」

雪は答える代わりに、微かに笑って見せた。その笑顔が、かえって柳沢の胸を重くした。彼はその夜、長い間眠れなかった。盗人の濡れ衣は晴れ、田も取り戻したが、この娘には未だに帰るべき家族も、共に膳を囲む者もいない。その事実が、どうにも心に引っかかっていたのである。

幾晩か一人思い悩んでいた柳沢は、ある夜、徳助にそれとなく訪ねた。「徳よ、そなたはどう思う。雪を娘として迎えるというのは」

徳助は顔をほころばせて答えた。「殿様、私は前々からそう思うておりました。この家に温かみが戻ったのは、お雪様のおかげにございます。殿様も以前よりずっと、穏やかなご様子でいらっしゃいます」

柳沢は腕を組みながら、行灯の火をじっと見つめた。「そうか。そなたの目にも、そう映っておったか」
「もちろんにございます。あのお方が参られてから、殿様がお笑いになるのを幾度も見かけました」

その言葉に、柳沢はようやく心を決めた。長い間のうちに抱いていた思いが、確信に変わった瞬間だった。

数日後、雪が柳沢の療養する部屋へお茶を進めに参った。柳沢は長い間言葉がなく、火鉢の炭が時折りぱちりと燃える音だけが静かに響いていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。

「雪よ。願いがある。息子は幼くして亡くし、妻も先に世を去った。あの山で土を掘ったそなたの手を見て、わしは思ったのだ。そなたが今も巳一の妻であることは、奪わぬ。その名を守ったまま、わしの娘になってはくれぬか。ただ、わしがそなたのそばにいたいだけのことだ」

雪はその場に膝をついた。喉が詰まって、言葉が出なかった。雪の胸に、自分を拾った老女の背中と、早くに逝った巳一の笑顔が浮かんだ。どちらももう呼びかけても、答えてはくれない。だが、今目の前には、自分を娘と呼びたいという人がいる。

「お父上様」

その言葉が、思わず口をついて出た。生まれて初めて口にする言葉だった。柳沢の目元が赤くなった。腕を組んで涙を隠そうとしていたが、雪にはそれが見えた。

数日後、雪は柳沢と共に、再び巳一の墓を訪れた。柳沢は杖をつきながら山道を登り、一言も口を利かなかった。墓の前にたどり着くと、柳沢は先に拝礼をした。

「そなたの妻を、養女とすることにした。恨みには思わんでくれ。そなたの妻としての名は、そのまま守り続けさせる。そなたがその心を守り抜いてくれたおかげで、わしは今この場に立っておる。死者の名を借りて生ける者を救うたのだから、この墓はわしにとって、二度目の生を与えてくれた場所も同然だ」

雪はその傍らで静かに涙を拭った。巳一の塚を撫でながら、心のうちで呟いた。「あなた様、私はもう一人ではございませぬ。お父上様と呼べる方ができましたが、あなた様の妻という名は、変わりなく持ち続けて生きてまいります。あなた様もきっと、喜んでくださいますでしょう」

その日の夕餉、柳沢は手ずから味噌汁をこしらえた。慣れぬ手つきで、具も粗末なものだった。汁は少し塩辛かったが、雪にはその塩辛さがかえって涙ましいほど温かく感じられた。

「塩辛くはないか。久しぶりにこさえたゆえ。手が慣れずにな」
「いいえ。お父上様。誠に美味しゅうございます」
「返すものなど何もない。そなたがあの夜、わしを助けてくれたように、わしも今日そなたを助けたまでのことだ。世に巻いた心というものは、こうして戻ってくるものらしい」

その言葉に、二人は静かに互いを見つめ合い、微笑んだ。窓の外からは夕暮れの光が、柔らかく差し込んでいた。

翌年の春、庭の梅の木に花が満開となった。雪はその木の下で、お父上様と呼ぶ人と並んで座り、陽を浴びていた。徳助が庭を掃きながら用事をこなす音、時折り格好良く聞こえる鳥のさえずりが、穏やかに溶け合っていた。

盗人と呼ばれ、行く当てもなく道を歩いたあの日から。雪が本当に求めていたものは、豪華な屋敷でも、身分でもなかった。ただ、同じ膳を囲み、自分の名を呼んでくれる人が一人いることだった。風に舞う梅の花びらを眺めながら、雪は静かに微笑んだ。

初めて帰る家を得たのである。

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