国道沿いの総合病院へ患者が流れていく中、父が四十年守ってきた診療所を引き継いだ俺に、その病院の外科部長が統合を持ちかけてきた。「時代が変わったんだよ、原田先生」と鼻で笑うその言葉が、頭から離れなかった。そんな折、県の有力な医療財団の理事長から突然の手紙が届いた。経営支援の申し出だという。救いのように思えた。だが、ラウンジで差し出された条件は、とても信じられるものではなかった。「私の娘と結婚し…

国道沿いの総合病院へ患者が流れていく中、父が四十年守ってきた診療所を引き継いだ俺に、その病院の外科部長が統合を持ちかけてきた。「時代が変わったんだよ、原田先生」と鼻で笑うその言葉が、頭から離れなかった。そんな折、県の有力な医療財団の理事長から突然の手紙が届いた。経営支援の申し出だという。救いのように思えた。だが、ラウンジで差し出された条件は、とても信じられるものではなかった。「私の娘と結婚し...

ページの下まで赤い数字が並んでいる。俺は満年室を置いて椅子の背に寄りかかった。父の写真が本棚の上からこちらを見おろしている。葬儀を終えてからまだ二週間も経っていない。俺の名前は原田蒼太、四十二歳。この春から亡き父の後を継いで、原田診療所の院長になった。人口三千人ほどの山あいの村で、父は四十年にわたってこの診療所を守り続けてきた。夜中だろうが雪の日だろうが、呼ばれれば往診に飛び出していく。そんな父の背中を見て育った俺は、自然と医者を志した。東京の大学病院で十年働いたあと、戻ってきたのが三年前。父の体が思わしくないと聞いて、思い切って腰を据えたのだが、その父が先月急に逝ってしまった。これから一人でこの診療所を背負っていくのか。帳簿を閉じて、ため息がこぼれる。患者数は父の時代の半分以下に落ち込んでいる。子どもは減り、年寄りは大きな病院を選ぶ。国道沿いに新しくできた総合病院へ、患者は流れていった。

「蒼太先生、お茶でも飲みますか」

宮坂さんが湯呑みを片手に診察室へ入ってきた。宮坂洋子さん、五十五歳。父の時代から三十年、この診療所で看護師を務めている。

「ありがとうございます。宮坂さん、まだ帰ってなかったんですか」

「片付けを少し。先生、また帳簿ですか」

「ええ、見れば見るほど頭が痛くなりますよ」

宮坂さんは何も言わずに机の端へ湯呑みを置いた。その時、玄関のチャイムが鳴った。予約のない時間帯だ。

「先生、栗原先生がいらしています」

俺は思わず眉をひそめた。栗原徹、国道沿いの総合病院の外科部長だ。この半年で三度目になる。応接室に通すと、栗原はソファに深く腰を下ろして足を組んだ。

「いや、相変わらず古いね、ここは。先生がよくこれで続けてきたもんだ」

「父の時代はこれで十分だったんです」

「そう、時代だ。時代が変わったんだよ、原田先生」

栗原はいつもこの言い回しから入る。そして必ず同じ話に持っていく。

「単刀直入に言うよ。うちの病院と統合しないか。先生もここで一人で踏ん張る必要はない。設備も人員も、こっちが引き受ける」

「お話は以前にも伺いました」

「答えは決まったかね」

俺は答えなかった。統合という言葉の裏に何があるかは分かっている。看板は外され、診療所はサテライト扱いになる。父が四十年かけて築いた場所が、ただの出張所に変わってしまうのだ。

「悪い話じゃないんだ。先生だって楽になる。少し考えさせてください」

「悠長にしている時間はないと思うがね。来月も再来月も、赤字は止まらんよ」

栗原は鼻で笑って立ち上がった。ドアが閉まった後、俺は長い間ソファの背もたれを見つめていた。医者としても経営者としても、何ひとつ自信が持てない。父ならどうしただろう。その問いだけが頭の中をぐるぐる回っていた。

栗原が帰った翌週、違う風が届いた。差出人は朝倉医療財団理事長、朝倉敬一。名前は知っていた。県医学会で何度か講演を聞いたことがある。地方医療を熱心に支援していることで知られた人だ。なぜその人が俺に手紙を寄こすのか。封を開けると、短い一文だけが書かれていた。面会を希望する、と。

指定された日、俺は県庁所在地のホテルのラウンジへ足を運んだ。

「お忙しいところ申し訳ない。朝倉です」

「原田です。お招きありがとうございます」

朝倉はゆっくりと話し始めた。

「お父上のことは誠に残念でした。立派な町医者でいらした」

「恐れ入ります」

「単刀直入に申し上げます。原田診療所、私のところで経営支援をさせていただきたい」

俺は思わず顔を上げた。朝倉は続けた。

「設備の更新、人員の補充、運転資金、全て当方で引き受けます。看板はそのまま、院長も原田先生のままで結構です」

栗原の話とはまるで違った。これが本当なら、診療所は救われる。ただ、世の中にうまい話だけのものはない。

「条件は何でしょうか」

朝倉はわずかに目を伏せた。

「一つだけお願いがあります。私の娘と結婚していただきたい」

カップを持つ手が止まった。

「美緒と申します。三十八歳になります。医師です」

「理事長、それは」

「無茶な申し出だとは承知しております。ただ、私は娘を信頼できる人間の元に託したい。原田先生のお人柄は、いろいろな方から伺っております」

俺は何も言えなかった。朝倉はゆっくりと頭を下げた。

「即答は求めません。お返事は一週間後で結構です」

帰りの車中、ハンドルを握る手に力が入らなかった。政略結婚というものが、令和の時代にまだあるのか。馬鹿げていると思った。思ったが、診療所のことが頭から離れなかった。父の写真が目の裏に浮かんだ。ここを潰すという選択肢は、俺にはなかった。

一週間後、俺は朝倉に電話を入れた。

「お話、受けます。ただし、診療所のことは私のやり方でやらせていただきます」

電話の向こうで朝倉は短く「ありがとうございます」とだけ言った。入籍は驚くほどあっさり済んだ。式は身内だけ、祝宴もなし。

「そういう娘なんです」

朝倉は申し訳なさそうに言った。

迎えた当日、俺の家の玄関に立っていたのは、黒縁メガネをかけた女性だった。美緒、三十八歳。地味な髪を後ろで一つに束ねている。化粧の気配もほとんどない。

「朝倉美緒です。よろしくお願いいたします」

声は小さく、目はあまり合わなかった。

「原田蒼太です。こちらこそよろしく」

それきり、玄関での会話は終わった。荷物は段ボール十箱ほど。そのうち六箱が本だった。

新婚生活が始まって一週間が経った。美緒はほとんど喋らない。朝、台所で顔を合わせても軽く会釈するだけ。食事は黙々と取り、終わると自分の部屋に戻っていく。部屋からは何時間でも物音がしなかった。時々、ページをめくる音がするだけだ。

「研究室」

俺は心の中でそう呼んでいた。ある日、診療所から帰ってきて二階の廊下を通った時、美緒の部屋のドアが少しだけ開いていた。中を覗くつもりはなかった。ただ、本棚が目に入った。びっしりと並んだ背表紙、そのほとんどが英語とドイツ語だった。医学書、それも専門書ばかりだ。俺の知らない著者の名前も多かった。留学経験でもあるのだろう。その程度に流して、俺は階段を降りた。

翌日、診療所の昼休みに宮坂さんが小声で話しかけてきた。

「先生、奥様、お元気ですか」

「ええ、まあ。ほとんど顔も合わせませんがね」

「失礼ですけど、大丈夫でしょうか。あの、何と言いますか。ちょっとご様子が」

「地味な人なんですよ。研究熱心らしくて、部屋にこもってばかりで」

宮坂さんは湯呑みに目を落とした。

「先生がそうおっしゃるのなら、いいんですけれど」

俺は苦笑して診察室に戻った。正直に言えば、失望していた。理事長の娘と聞いて、勝手にどこか華やかな人を想像していた自分がいた。実際の美緒はまるで影のような女だった。

その夜、雨が降っていた。俺は診察室の片付けを終えて、白衣を脱ごうとしていた。時計は午後九時を回っている。電話が鳴ったのは、その瞬間だった。宮坂さんが受話器を持って変わった。

「先生、消防からです。沢村さんとこの工君が国道で事故です。バイクで。容体は意識はあるそうですが、出血がひどいと。救急車、こっちに向かってます」

俺は白衣を着直し、処置室へ走った。近隣の総合病院までは車で四十分かかる。国道は雨で混んでいる。うちまでなら十分で着く。そういう判断だったのだろう。宮坂さんが点滴の準備を始めた。俺はガーゼと止血帯を確認しながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。外傷は専門じゃない。うちにはCTもない。輸血用の血液も最低限しか置いていない。

サイレンが近づいてきた。ストレッチャーが運び込まれた瞬間、空気が変わった。沢村工、二十五歳。村の青年団でいつも先頭に立っていた若者だ。その顔が紙のように白い。右の太腿から黒っぽい血がにじみ続けている。ズボンの布地がすでに血で重くなっている。血圧、八十の四十。意識レベル、呼びかけにやっと反応する程度。

「処置室へ。宮坂さん、ルート二本、急いで」

「はい」

工の唇がかすかに動いた。

「先生、俺、死ぬんすか」

「喋るな。大丈夫だ。必ず助ける」

口ではそう言いながら、俺の手は震えていた。太腿の傷口は深い。動脈がやられているのは、見ただけで分かった。抑えても抑えても、血が指の間から滲んでくる。

「先生、血圧、また下がってます。七十切ります」

「輸血、全開で。在庫は二パックしかありません」

二パック。この出血量に対して、紙コップ二杯ほどの輸血だ。頭の奥で栗原の顔がちらついた。搬送するか。今すぐ向こうの病院へ回すか。ただ、この血圧で四十分もつのか。途中で心臓が止まったら、誰が責任を取るのか。

「宮坂さん、栗原先生のところに連絡をしてください。受け入れの確認をお願いします」

「先生、搬送するんですか」

「いや、まだ決めていない。ただ、確認だけはしておかないと」

声が自分でも上ずっていた。決断ができない。医者として一番してはいけないことだった。宮坂さんが受話器を取ろうとした、その時だった。

処置室のドアが静かに開いた。入ってきたのは美緒だった。普段の地味なワンピースの上に、白衣を羽織っている。髪は後ろで束ねたまま、黒縁メガネの奥の目だけがいつもと違っていた。落ち着いていた。落ち着きすぎていた。

「失礼します。サイレンが聞こえたので」

「美緒さん、ここは」

「お手伝いさせてください」

そう言いながら、美緒はもう工の脇に立っていた。脈を取り、瞳孔を見て、傷口を一瞥する。その一連の動作に迷いがなかった。俺はとっさに場所を譲っていた。

「右大腿動脈損傷しています。鼠径部で枝の根元あたり。表面を抑えても止まりません」

「分かるのか」

「出血のリズムで分かります。あと、骨盤の位置に対して出血が内側によっています」

俺は言葉を失った。美緒は宮坂さんの方を見た。

「宮坂さん、生理食塩水をもう一本。あと、トラネキサム酸ありますか」

「あ、はい、あります」

「一グラム、急速静注でお願いします。それから、清潔な布、何でもいいのでたくさん用意してください」

「はい、すぐに持ってきます」

宮坂さんの動きが、別人のように早くなった。美緒は俺の方を向き、目を合わせて言った。

「蒼太さん、動脈の上流、ここを直接指で圧迫します。鼠径部のこの一点。私が止血する間、抑えていてください」

「俺が抑えるのか」

「はい。あなたの手が一番力が強いから」

俺は黙って頷き、彼女が示した一点に両手の親指を重ねて押し込んだ。ぐっ、と力の流れが指の下で止まる感触があった。美緒は手袋をはめ、傷口に手を入れた。ためらいはなかった。血の海の中から、彼女の指は迷わずある一点を探り当てた。

「ありました。これです」

「先生、これ、もしかして海外の止血法ですか」

「器具を使わず、まず指で押し当てて、組織ごと一時的に挟みます。完全な止血じゃないですけど、時間が稼げます」

美緒は鉗子を受け取り、傷の奥で何かを掴んだ。血の噴き出しが、すっと細くなった。俺は自分の指の下で血流の脈が落ち着いていくのを感じた。

「蒼太さん、ゆっくり力を抜いて」

「ああ、分かった」

「これで輸血を受け止められるだけの血圧は戻ります」

宮坂さんが息を飲むのが聞こえた。俺もそうだった。目の前にいるのは、本当に二階の部屋で本ばかり読んでいたあの無口な妻なのか。声に感情がない。ただ必要なことだけを、必要な順序で口にしている。それが医者としてどれほど難しいことか、俺は知っていた。知っていて、できなかった人間だった。

血圧がゆっくり戻り始めた。七十、八十、九十。宮坂さんが読み上げる数字に、室内の空気が解けていく。ただ、安心するには早かった。数分後、突然モニターの音が変わった。

「先生、脈が飛びます。頻脈です」

「出血性ショックの反動です。ここを越えられるかどうかが勝負です」

工の顔からまた血の気が引いていく。

「しっかりしろ」

声が出ていた。美緒は冷静に薬剤の名前と量を宮坂さんに告げ続けた。

「アトロピン、〇・五ミリ。続けてボスミン、準備しておいてください。心臓マッサージの用意も」

「はい。すぐに」

俺は心臓マッサージの位置に手を構えた。ただ、その手が降りる前に、波形が戻った。一つ、二つ、規則的に。工の胸がゆっくり上下し始めた。

「戻りました。血圧、九十五の六十」

部屋の中の誰もしばらく動かなかった。美緒だけがもう次の処置に取りかかっていた。傷口を仮縫合し、包帯を巻く。その手つきは無駄が一切なかった。

その時、玄関の方から激しい足音が聞こえた。ドアを開けて飛び込んできたのは栗原だった。

「原田先生、患者は搬送の準備はできてるのか」

栗原はそこまで言って、処置台の脇に立つ美緒を見た。そして固まった。栗原の目が美緒の手元を追う。仮縫合の糸の運び方、結び目の位置、ガーゼの当て方。その一つ一つを確かめるように見ている。

「あなた、その止血、どこで覚えた」

美緒は顔を上げた。黒縁メガネの奥で、まっすぐに栗原を見返した。

「ボストンです。十年、向こうにおりました」

「ボストン。まさか、あなた、朝倉美緒先生か」

「はい。そうですが」

栗原の口が半分開いたまま止まった。

「原田先生、あんた、奥さんが何者か聞いてないのか」

「何者とは、どういうことです」

「数年前まで向こうの大学病院で『奇跡の診断医』と呼ばれてた人だ。原因不明の症例を何十例も解いてきた。日本に帰ってきたって聞いたが、まさかこんなところに」

俺は美緒を見た。その横顔は、いつも食卓で見ていた顔と同じだった。同じはずなのに、まるで別の人だった。二階の本棚に並んでいた英語とドイツ語の背表紙。ページをめくる夜更けの小さな音。それらが一本の線で繋がった気がした。

事故から三日後、工の意識はすっかり戻り、自分で水を飲めるようになっていた。母親は何度も俺と美緒に頭を下げた。

「先生、奥様、本当に、本当にありがとうございました」

栗原はその日のうちに、自分の病院から外科の応援を一人貸してくれた。統合の話は、口にしなくなった。帰り際、栗原は玄関で振り返って、ぽそりと言った。

「原田先生、大事な人をちゃんと見てやりなさい」

俺は頭を下げた。その意味は、もう分かっていた。

噂が広まるのは、村ではあっという間だ。翌週から診療所の電話が鳴り続けた。長く大きな病院に通っていた年寄りたちが戻ってきた。何年も顔を見ていなかった人が、薬手帳を握って待合室に座っている。腰の痛みを訴える農家の女性がこう言った。

「あんな若い人を助けた先生とこなら、安心だわ」

俺は曖昧に笑って、聴診器を当てた。宮坂さんの態度も、目に見えて変わった。以前は美緒のことを「奥様」と呼ぶ声に、どこかぎこちなさがあった。それが、いつの間にか医療者としての敬意のこもった響きに変わっていた。

ある日、昼休みに宮坂さんが小さな紙包みを持ってきた。

「先生、これ、奥様に渡していただけますか」

「何ですか、これは」

「私、奥様のこと、最初失礼なことを思ってしまっていました。地味な人だなんて。あの夜、そばで見ていて、自分が恥ずかしくなって」

俺は包みを受け取りながら苦笑した。

「恥ずかしいのは、私の方ですよ。一緒に暮らしていて、何ひとつ気づかなかった」

「先生、それはまずいじゃないですか」

「父がね、よく言ってたんです。人を肩書きで見るな。目で見ろ、って。耳が痛いですよ」

夕方、俺は診察室の椅子に深く座り直した。父の写真が本棚の上からこちらを見ている。その表情が、なぜか以前より穏やかに見えた気がした。

数字も少しずつ変わり始めていた。赤字が先月より少なくなっている。設備の更新計画も、朝倉理事長から正式な書類が届いた。新型のエコー、心電図、レントゲン。父が三十年前に揃えたものが、ようやく入れ替わる。ただ俺は、その書類を見ながらずっと別のことを考えていた。二階の部屋で今夜もページをめくる音がしている、その人のことだった。

その夜、俺は二階に上がった。ドアをノックする手が、少しだけ震えた。

「どうぞ」

中に入ると、美緒は机に向かって英語の論文を読んでいた。

「少し、いいかな」

「はい」

向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。何から話せばいいか分からなかった。美緒は本を閉じ、こちらに体を向けた。黒縁メガネの奥の目が、静かに俺を待っていた。

「ずっと聞きたかったことがあるんだ。なぜ最初から言わなかったんだ。ボストンのことも、何の専門だったかも」

美緒はしばらく黙っていた。

「向こうにいた頃、私のところにはたくさんの患者さんが来ました。原因の分からない病気の方ばかりです。私はその謎を解くのが好きでした。解けると感謝されました。新聞に載ったこともあります」

「ああ、栗原先生もそう言ってた」

「ただ、ある日気づいたんです。患者さんは私という人間を見ていない。『奇跡の診断医』という肩書きを見ていたんです。私が間違えると、その肩書きにふさわしくないと言われました。私自身を必要としてくれている人は、どこにいるんだろうと思いました」

スタンドの光の中で、美緒の指がわずかに動いた。

「日本に帰ってきて、父に言ったんです。もう誰も私を知らない場所で、ただの医者として働きたいって。父はずっと探してくれていました。私を人として迎えてくれる場所を」

「それで、ここに」

「父から原田先生のことを聞きました。亡くなったお父様の後を継いで、村の人たちのために踏ん張っている方がいる。経営は苦しいけど、お金のために統合の話を飲むことはしない人だと」

朝倉理事長のあの日の声が、耳の奥で甦った。

「最初、ご迷惑だと思いました。政略結婚なんて、令和の時代に。でも、お会いして診療所を見せていただいて分かったんです。あなたが守ろうとしているのは、建物じゃなくて、ここに通ってくる人たちの暮らしなんだって。それは、私がボストンで失った一番大事なものでした」

「美緒さん」

「だから黙っていました。最初から口に出したら、また同じことになる。あなたに、朝倉美緒ではなく、ただの妻として置いてもらえる場所が、ここだけだと思ったんです」

俺は頭を下げた。

「すまなかった。地味な人だとか、何のために結婚したんだろうと、心の中で何度も思った。あなたのことを、何ひとつ見ていなかった」

「いいえ。見ないでいてくれて、ありがとうございました。おかげで、私はここで息ができました」

俺は顔を上げた。美緒は微笑んでいた。

翌日、宮坂さんが持ってきた和菓子を開けた。最中だった。美緒は一口ほうばって、目を細めた。

「おいしい」

「宮坂さんからです。あなたにと」

「あら、そうなんですか」

そう言って、美緒は黒縁メガネに手をかけた。レンズの内側が湯気で曇っていた。

「ごめんなさい。ちょっと」

ゆっくりと眼鏡を外した。机の上に、と音を立てて置かれた。俺は息を飲んだ。眼鏡の下にあったのは、長いまつ毛と真っすぐな鼻筋と、思いがけないほど大きな瞳だった。整いすぎている。

「ずっと隠していたんですが、それも。眼鏡は元々必要なんです。ただ、向こうにいた頃のものより、少し地味なものを選んでいました」

俺は笑った。

「美緒さん、一つお願いがあるんだ」

「はい。何ですか」

「この診療所を、一緒に守ってほしい。経営支援のためじゃない。あなたがここで必要だからだ。俺一人じゃ、父の場所を守りきれない。あなたと二人なら、やれる気がする」

美緒はゆっくりと頷いた。

「はい。私の場所も、もうここですから」

窓の外で、秋の虫が鳴いていた。九月の終わりの、よく冷えた夜だった。

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