「母さんにはお金出せないよ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の体は固まった。たったの五万円だ。親友の葬儀に必要な金を、息子に頼んだだけだった。なのに返ってきたのは笑い声だった。
まるで冗談でも聞いたかのように、息子は笑いながら言った。五万も出すなんて無理だよ、母さん。隣で嫁のさおりもくすくす笑っている。私の腕に冷たいものが流れ込んでいった。
三十一年間、工場で働き続けてきた。息子の大学費用に八百万円、マイホームの頭金に五百万円。結婚資金に新居の家具まで、すべて私が出してきた金だ。それなのに、たった五万円を笑われて断られた。
その夜、私は静かに荷物をまとめ始めた。もうこの家にいる理由はないと感じたからだ。
半月後、売られた家を前にした息子の絶叫が、私の耳に届くことになる。
私は堀内明美、二十三歳の時から工場で働いてきた。息子のかを産んだのは二十四歳。産休は三か月だけですぐに仕事に復帰した。誰かに頼る余裕などなかったからだ。月給は二十二万円。決して多くはない。それでもボーナスも含めて、すべてを息子のために使ってきた。
幼稚園から大学まで、教育費は総額一千万円。結婚する時には二百万円。新居の家具や家電で二百五十万円。合計で千三百五十万円。すべて私が工場で汗を流して稼いだ金だ。
かは優しい子だった。母さん、いつもありがとうと言ってくれる、本当に良い息子だった。
しかし変わったのは、さおりと結婚してからだ。二年前、同居が始まった。
最初は些細なことだった。
「お母さん、もう少し節約できませんか?」
さおりのその言葉にかも頷く。
「母さん、さおりの言う通りだよ」
電気代、食費、あらゆることに口を出されるようになっていった。私は困惑した。そんなに私は金を使っているのだろうか。でもまだこの時は気づいていなかった。本当の理不尽が、これから始まることに。
違和感は日々大きくなっていった。ある日、リビングでいつもの場所に座ろうとすると、さおりが慌てた声をかけてきた。
「お母さん、そこは座らないでください。かの席なので」
私は黙って立ち上がった。自分の家なのに、座る場所すら自由に選べない。食事の時間も変わった。
「お母さんは別の時間に食べてください。私たちの時間を大切にしたいので」
さおりの言葉にかは何も言わない。ただスマートフォンを見ている。私は自分の部屋で冷めた料理を一人で食べるようになった。この家で、私の居場所はどんどん狭くなっていった。
そして、さらに傷つく言葉を聞くことになる。
「お母さん、最近、物忘れ多くないですか? 認知症じゃないでしょうか?」
夕食後のリビングで、さおりが心配そうな顔で言った。かも頷く。
「確かにそうだね。母さん、病院行った方がいいかも」
私はまだ五十四歳だ。私の言葉を、二人は聞いていない。
料理を作っても文句を言われた。「お母さんの味付け古臭いです。もっと今風にできませんか?」着ている服も批判された。「その服、時代遅れじゃないですか? 恥ずかしいので外で着ないでください」
私は鏡を見るようになった。本当に私はそんなにおかしいのだろうか。自信が少しずつ削られていく。
ある日、さおりが提案してきた。
「お母さん、もう働かなくていいんじゃないですか?」
私は驚いた。
「でも、まだ五十四歳だし、体も元気だし」
「無理しないでください。もう若くないんですから」
さおりの言葉にかも同調する。
「母さん、そろそろ引退してゆっくりしたら」
私は必死に抵抗した。
「私の給料で生活費の半分を出してるのよ」
「私たちで何とかしますから、ご心配なく」
さおりはにこやかに言う。でもその目は笑っていない。この時、私は気づき始めていた。二人は私の給料が欲しいだけではないかと。
三十一年間、私は人のためにお金を惜しまなかった。困っている人がいれば、できる限りのことをしてきた。だから親友の葬儀には必ず行きたかった。香典や交通費で五万円が必要だった。
私は勇気を出して、かに頼んだ。
「か、ちょっと相談があるんだけど、五万円、貸してくれないかしら」
かは即座に答えた。
「え、五万円?」
その声を聞いて、さおりがリビングから出てくる。
「お母さん、私たちにも生活がありますから」
かも続ける。
「母さんにお金は出せないよ。ごめん」
そして信じられないことに、二人は笑い始めた。
「五万も出すなんて無理だよ、母さん」
さおりも「ですよね」と笑っている。私の体から血の気が引いていく。一千万円の教育費、二百万円の結婚資金、百五十万円の家具代。これまで出してきた千三百五十万円が頭の中をぐるぐると回る。
それなのに、たった五万円。笑われながら断られた。
私は何も言えず、ただその場に立ち尽くした。笑い声だけが耳に残り続けた。
その夜、私は自分の部屋で一人、涙を流した。もう限界だった。我慢の糸が音を立てて切れていくのを感じた。三十年間、ずっと息子のために生きてきた。自分の楽しみは後回しにして、すべてをかに捧げてきた。それがこの報いか。
「五万も出すなんて無理だよ、母さん」
笑い声が何度も何度も頭の中で響く。私の中で何かが完全に壊れていった。もうこの家にいる理由はないと感じ始めていた。
五万円を断られた翌日のことだ。私はいつもより早く工場から帰宅した。体調が優れず、午後の休みをもらったのだ。
玄関のドアを静かに開ける。リビングから二人の声が聞こえてきた。私は足を止めた。何か聞いてはいけない話をしているような気がしたからだ。
「お母さんにお金貸さなくて正解だったよね」
さおりの声だ。
「うん。母さん、すぐ戻ってこないって言うし」
かの声が続く。私の心臓が早く打ち始めた。
「それにお母さんの給料入ってくるんだから、私たちがかす必要ないでしょ」
「そうだね。母さん、まだ働いてるんだし」
二人の会話はさらに続く。
「それより、この家だけど、将来的にはどうなるの?」さおりが尋ねる。
「相続で俺のものになるでしょう」かが答えた。
「早くそうなればいいのにね」
二人の笑い声がリビングから漏れてくる。
私はその場で立ち尽くした。膝が震えている。早くそうなればいい。それはつまり、私が早く死ねばいいということだ。息子と嫁は、私の死を待っていた。
手が震えて、玄関の壁に手をつく。呼吸がうまくできない。私は静かに玄関を出た。二人に気づかれないように、そっとドアを閉める。
近くの公園まで歩き、ベンチに座った。涙が止まらない。
私は生きている価値もないのだろうか。息子にとって、私はただの邪魔者なのだろうか。
頭の中でいろいろな記憶が流れていく。幼いかが笑顔で駆け寄ってきた日。「ママ大好き」。小学生のかが母の日にくれた手紙。「母さん、いつもありがとう。大きくなったら恩返しするね」高校生のかが受験勉強の合間に言った言葉。「母さんのおかげで勉強できる。絶対いい大学に入るから」大学生のかが就職が決まった時の笑顔。「母さん、絶対恩返しするから待っててね」結婚式の日、かが私に言った言葉。「母さん、これからもよろしくね。ずっと大切にするから」
あの優しかった息子は、どこへ行ってしまったのだろう。さおりと結婚してから、すべてが変わった。
私は公園のベンチで、暗くなるまで座り続けた。誰にも会いたくなかった。
夜、自分の部屋に戻った。二人は私の帰宅に気づいていないようだ。リビングでテレビを見て笑っている。
私は机の引き出しを開けた。通帳が何冊か入っている。三十一年間、こつこつと貯めてきた金だ。計算してみる。約千二百万円。決して多くはないが、これからを生きていくには十分な金額だ。
次に別の引き出しから書類を取り出した。不動産の権利書だ。
この家は私名義だった。かが二十五歳の時、私が購入したのだ。頭金は五百万円、ローンもすべて私が払い続けてきた。かは知らないかもしれない。この家が完全に私の財産だということを。
私は静かに微笑んだ。そうだ。この家は私のものだ。誰にも渡す義務はない。息子も嫁も、この事実を知らない。
「相続で俺のものになるでしょう」
かの言葉が頭の中で響く。でも、それは間違っている。私が生きている限り、この家は私のもの。そして、私がどうするかも私の自由だ。
机に向かい、ノートを開いた。やるべきことを、一つずつ書き出していく。
不動産会社に連絡。新しい住居の確保。荷物の整理。銀行口座の変更。携帯電話の解約と新規契約。
冷静に、淡々と計画を立てていく。もう泣かない。涙を流す時間は終わった。私の中で、何かが完全に切り替わっていく。
これまでの私は、ずっと息子のために生きてきた。自分を犠牲にして、かの幸せだけを考えてきた。でも、もう違う。
「ありがとう、か。目を覚まさせてくれて」
私は小さくつぶやいた。三十年間の献身は、すべて無駄だった。千三百五十万円は、笑い声と共に消えた。ならば、私も自由に行こう。もう誰のためでもなく、自分のために。
その夜、私は一睡もできなかった。でも不思議と、体は軽く感じる。長い間背負ってきた重荷が、少しずつ降りていくようだった。明日から、新しい人生が始まる。息子も嫁も知らない、私だけの人生が。
窓の外を見ると、もう朝日が昇り始めていた。新しい一日の始まりだ。そして、新しい私の始まりでもあった。
翌朝、私はいつも通り工場に出勤した。でも心の中では、すでに決めている。もうこの生活は終わりにすると。
昼休み、工場の外から不動産会社に電話をかけた。
「この家を売却したいのですが、査定をお願いできますか?」
電話口の担当者は、すぐに日程を決めてくれた。
「明日お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。ただし午前中にお願いします。家族には内緒で進めたいので」
私の声は、驚くほど冷静だった。
翌日、約束通り不動産業者が来た。息子夫婦が仕事に出ている時間を狙った。担当者は家の中を丁寧に見て回る。立地、築年数、間取り、すべてをチェックしていった。
「奥様、この立地なら三千二百万円で即売できます」
その金額を聞いて、私は息を飲んだ。
「そんなに?」
「はい。駅も近いですし、周辺環境も良好です。すぐに買い手がつくと思いますよ」
頭の中で計算した。貯蓄の千二百万円と合わせれば、四千四百万円だ。五十四歳の私が一人で生きていくには、十分すぎる金額だった。
「では、お願いします」
私は迷わず答えた。担当者はその場で簡単な契約手続きを進めてくれた。
次に考えるべきは、新しい住まいだ。インターネットで物件を探した。条件は一つだけ。この町から遠く離れた場所。
海の見える町を見つけた。静かな港。賃貸マンションの二LDK。家賃は月八万円。写真を見ると、窓から青い海が広がっている。こんな景色を毎日見られるなら、どんなに幸せだろう。
すぐに不動産会社に連絡して、契約を進める。
「来週から入居可能です」
担当者の言葉に、私は安堵した。すべての準備が、思った以上にスムーズに進んでいく。
次は荷物の整理だ。息子夫婦が仕事に行っている間、少しずつ私のものをダンボールに詰めていった。服、本、思い出の品。長年の人生が、いくつもの箱に収まっていく。
かの写真もたくさんあった。幼稚園の入園式、小学校の運動会、中学の卒業式、高校の文化祭、大学の入学式。どの写真も、笑顔で写っている。私も、かも、本当に幸せそうだった。
あの頃には戻れないのね。写真を一枚一枚箱に入れていく。涙は出なかった。もう、すべて割り切っていたからだ。
週に二回、宅配便で荷物を新居に送る。息子夫婦は、まったく気づいていない。
ある日、親友の紀子に電話をした。
「紀子、ちょっと相談があるんだけど」
「どうしたの、明美」
私はすべてを話した。五万円を笑われて断られたこと。死を待つような会話を聞いてしまったこと。そして、家を売却することを決めたこと。
紀子は黙って聞いていた。そして、こう言ってくれる。
「明美、よく決断したわね」
「我慢の限界だったの。三十一年も働いて、千三百五十万円も出して、五万円すら貸さないなんて。そんな息子、もう息子じゃないわ」
紀子の言葉が、私の背中を押してくれた。
「私、間違ってないわよね?」
「当たり前よ。明美は十分すぎるほど頑張ったわ。もう自分のために生きなさい」
電話を切った後、私は心から安心した。味方がいる。それだけで、どれほど心強いことだろう。
念のため、弁護士にも相談した。
「この家は完全に私の財産です。売却しても問題ないでしょうか?」
弁護士は書類を確認して、はっきりと答えてくれた。
「まったく問題ありません。書類を見る限り、完全にあなたの所有物です。売却はあなたの自由です」
「息子に相続させる義務はないんですね」
「もちろんです。財産をどう処分するかは、所有者の権利です」
法律的にも問題ないことが分かり、私の決意はさらに固まった。
数日後、不動産業者から連絡が入る。
「奥様、買い主が決まりました」
「本当ですか?」
「はい。二週間後に引き渡しとなります。それまでに退去の準備をお願いします」
「わかりました」
すべてが予定通りに進んでいく。私は工場にも退職届を出した。
「急で申し訳ありませんが、今月末で退職させていただきます」
上司は驚いていたが、三十一年間の勤務実績を考慮して、すぐに承諾してくれた。
「堀内さん、長い間お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。この工場で、私の人生の大半を過ごしてきた。楽しいことも、辛いことも、たくさんあった。でも、もう終わりだ。新しい人生が、私を待っている。
そして、家を出る日を金曜日の深夜に決めた。息子夫婦は週末、いつも遅くまで起きている。でも金曜の夜だけは、仕事の疲れで早く寝るのだ。
最後の荷物をまとめる。残すものは何もない。すべて新しい町に送った。テーブルの上に、一枚のメモを置く。
「さようなら」
それだけを書いた、短いメモだった。
午前二時。息子夫婦の寝室から、規則正しい寝息が聞こえてくる。私は最後にこの家を見回した。十年近く住んだ、思い出が詰まった家。でも、もうここは私の居場所ではない。
玄関のドアに手をかける。静かに、音を立てないようにドアを開けた。そして、振り返ることなく家を出る。
冷たい夜風が頬を撫でていく。新しい自由な人生の始まりだった。
翌朝、土曜日の午前九時。かとさおりが、いつものようにリビングに降りてきた。
「母さん、朝ご飯は?」
返事はない。いつもなら、この時間にはもう用意されているはずだ。二人は不思議そうに顔を見合わせた。これまで、私が朝食の準備をしなかったことは一度もない。
かが私の部屋のドアをノックする。
「母さん、入るよ」
返事を待たずにドアを開けた。その瞬間、かは言葉を失う。
部屋は空っぽだった。ベッドも、机も、タンスも、すべて何もない。まるで最初から誰も住んでいなかったかのような、がらんとした空間が広がっている。
「え、どういうこと?」
かは部屋の中を見回す。クローゼットを開けても、引き出しを開けても、何もない。
さおりも後ろから覗き込んだ。
「荷物が全部ない。お母さんのもの、何もないわ」
二人は慌ててリビングに戻る。そこで、テーブルの上に置かれた小さなメモを見つけた。白い紙に、たった一言だけが書かれている。
「さようなら」
それ以外、何の説明もない。
「まさか、家出したの?」さおりがつぶやく。声が震えていた。
「母さん、どこ行ったんだよ」
かは慌てて携帯電話を取り出し、私の番号にかける。呼び出し音の代わりに、冷たい音声が流れてきた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
「嘘だろ」
かは何度も何度もかけ直す。でも、同じ音声が繰り返されるだけだ。
「番号変えてる。本気で出ていったってこと」
さおりの顔がだんだん青ざめていく。
「でも、すぐ帰ってくるわよ。お母さん、行ったら来ないもの」
さおりは自分に言い聞かせるように言った。かも頷く。
「そうだよな。母さん、他に頼れる人いないし」
最初の数日、二人は楽観的だった。私がすぐに戻ってくると、信じて疑わなかったのだ。
しかし、私は戻らなかった。三日が過ぎ、一週間が経つ。生活費の問題が、徐々に表面化し始めた。
「お母さんの給料、入ってこないんだけど」
さおりが通帳を見ながら、不安そうに言う。
かは嫌な予感がして、私が働いていた工場に電話をかけた。
「あの、堀内明美のことですが、お伺いしたいのですが」
「堀内さんは、先月末で退職されましたよ」
電話口の声が明るく答える。
「退職? そんな、聞いてません」
「ご家族には伝えていなかったんですね。とても晴れやかな顔で退職されていましたよ」
電話を切ったかは、その場に座り込んだ。
「退職だって。母さん、仕事やめてた。嘘でしょ?」
「生活、どうするの?」
さおりの声が、だんだん大きくなっていく。これまで私の給料の十二万円が、生活費の半分近くを支えていた。それがなくなれば、二人の生活は到底成り立たない。
「俺の給料だけじゃ、この家に住み続けるのは無理だよ」
かは頭を抱える。
「お母さん、ひどすぎる。こんなの無責任よ」
さおりは怒りをぶつけるが、私はもうそこにいない。誰にも届かない怒りだ。
二週間が経った。日曜日の朝十時。玄関のチャイムが鳴る。
「はい」
かがドアを開けると、見知らぬ男性が立っていた。紺色のスーツを着た、五十代くらいの真面目そうな男性だ。
「失礼いたします。不動産会社の本田と申します」
「不動産会社?」
かは不思議そうに首をかしげる。営業かと思った。
本田と名乗る男性は、鞄から書類を取り出した。
「実は、この家は二週間前に売却されました」
「売却って、何の話ですか?」
かの顔から血の気が引いていく。
「元オーナーの堀内明美様が、この物件を売却されたのです」
「母さんが? そんな、この家は俺の」
かの声が震えている。
「いえ、権利書上は完全に明美様の所有でした。ですから、売却に何の問題もございません」
本田は淡々と事実だけを伝える。
「ちょっと待ってください。俺、何も聞いてないんですけど」
「それは明美様とご相談いただくしかございません。本日が正式な引き渡し日となっておりますので」
「引き渡し? しかも今日?」
かは信じられないという顔で本田を見つめた。
「はい。新しいオーナー様が、もうすぐいらっしゃいます」
その言葉を聞いて、さおりが叫ぶ。
「そんなの聞いてない。私たち、どこに住めばいいの?」
「申し訳ございませんが、本日中に退去していただく必要があります」
本田の表情は、少しも変わらない。
その時、また玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、三十代くらいの明るい雰囲気の夫婦が立っている。
「こんにちは。今日からここに住むことになりました、井上です」
新しいオーナーは、にこやかに挨拶をしてきた。
「すみません。早く出ていただけますか? 午後には引っ越し業者も来る予定なので」
かはようやく現実を理解する。本当に、家を追い出されるのだ。
二人は慌てて、最低限の荷物をまとめた。服と少しの生活用品だけだ。大きな家具は、すべて置いていくしかない。
「どうするの? どこに行くの?」
さおりが泣きそうな顔で尋ねる。
「とりあえず、ホテル」
かは震える手でスマートフォンを操作した。近くの安いビジネスホテルを、必死で探す。
その日のうちに、二人は家を出た。何年も住んだ家を、たった数時間で追い出されたのだ。
ホテルで一週間過ごした後、二人は格安のアパートを借りた。家賃五万円の、築四十年を超える古いアパートだ。前の家とは比べ物にならない、狭くて暗い部屋だった。
「お母さん、ひどすぎる。本当にひどすぎるわ」
さおりは何度も繰り返す。
「俺たち、これからどうやって生きていくんだよ」
かは頭を抱えた。通帳を確認する。貯金は、五十万円しかない。これまでほとんどの生活費を、私が負担していたからだ。二人は、私にどれほど依存していたのか、今になって気づいた。
「母さんに連絡を取らないと。何とかしてもらわないと」
かは必死に、私の新しい連絡先を探す。工場の同僚に、片っ端から電話をかけた。
「すみません。母の新しい連絡先を教えてもらえませんか?」
何人かに断られた後、ようやく一人の同僚が教えてくれた。
「堀内さん、元気そうだったわよ。新しい人生を楽しんでるって言ってた」
その言葉を聞いて、かは複雑な表情になった。
震える指で、教えてもらった番号を押す。呼び出し音が鳴る。一度、二度、三度。そして、電話が繋がった。
「はい」
私の声だ。でも、以前とはまったく違う。明るくて穏やかで、どこか幸せそうな声だった。
「母さん。母さんだよね?」
かは必死に叫ぶ。
「あら、か。何か用かしら?」
私は冷静に、まるで他人に話すように答えた。
「何かって? あのさ、家、売ったの?」
「ええ、私の家だもの」
「そんな、俺たち住むとこないんだよ」
かの声は、半分泣いている。
「あら、それは大変ね」
私は他人事のように答える。
「でも、私には関係ないことよ」
「母さん、お願いだ。俺たち、どうすればいい?」
かは懇願した。声が震えている。
「か、覚えてる?」
私はゆっくり、一言一言を噛みしめるように言う。
「『母さんにお金は出せないよ』って、笑いながら言ったこと」
電話の向こうで、かが息を飲む音が聞こえた。
「あ、あれは……五万も出すなんて無理だよって」
「私、よく覚えてるわ」
「ごめん。本当にごめん。あの時は……」
かは泣き始めた。大人の男が、泣じゃくって泣いている。
「ごめんなさいで済むなら、私の今までは何だったの?」
私の声は、氷のように冷たく響いた。
「あなたたち、言ったわよね。『私たちで何とかします』って」
かは何も言えない。確かに、そう言った。
「だから、ご自分たちで何とかしてください」
「母さん、待って」
「さようなら、か。もう二度と連絡しないでね」
私は静かに、でも確実に電話を切った。
海の見える窓辺で、私は深呼吸をする。胸の奥が少しだけ痛んだ。でも、後悔はない。これで良かったのだ。これで、やっと本当の自由を手に入れたのだ。
電話を切った私は、窓の外を見つめる。青い海が朝日を受けて輝いていた。波の音が、心地よく聞こえてくる。ここは海の見える町。私の新しい人生が始まった場所だ。
引っ越してから三か月が経った。毎朝、この景色を見ながらコーヒーを飲む。こんなに穏やかな朝を迎えられるなんて、以前は想像もできなかった。
週に三回、近くの陶芸教室に通っている。
「明美さん、今日も素敵な作品ですね」
先生が褒めてくれる。初めて作った湯飲みは、歪んでいた。でも、自分の手で何かを作り上げる喜びを知った。ヨガ教室にも通い始める。体が軽くなって、気持ちも前向きになっていく。
「明美さん、今日はランチ一緒にどうですか?」
教室で知り合った友人が、声をかけてくれた。
「ええ、喜んで」
私は笑顔で答える。新しい友人たちとの時間は、とても楽しいものだ。過去のことを知らない人たちと、ただ今を楽しむ。それだけで、こんなにも心が軽くなる。
月に一度は、温泉旅行にも行くようになった。一人で旅行をするなんて、これまでの人生では考えられなかったことだ。でも今は、誰に気を使うこともなく、自由に行きたい場所に行ける。経済的な心配もない。家の売却代金三千二百万円と貯蓄千二百万円を合わせて、四千四百万円の資産がある。月々の生活費は十五万円程度。家賃を含めても、十分すぎるほどの余裕がある。
ある日、紀子から電話がかかってきた。
「明美、聞いた? か君たち、大変みたいよ」
「何を?」
「家賃五万円のアパートに住んでるらしいわ」
紀子の声には、少し笑いが混じっている。
「そう」
私は短く答えた。
「さおりさん、パートに出てるらしいわよ。か君の給料だけじゃ足りないから」
「二人で頑張ればいいわ」
私の声は冷静だ。
「か君、すごく後悔してるらしいわよ。明美のこと、毎日のように話してるって」
「今更ね。もう遅いわ」
心の中に、わずかな痛みが走る。でも、それだけだ。
「明美、本当にいいの?」
紀子が心配そうに尋ねる。
「ええ、私、もう何も感じないの。ただ自由で幸せよ」
電話を切った後、私は海を見つめた。後悔はない。これで良かったのだ。
五万円を笑って拒否した息子は、三千二百万円の家を失った。これが因果応報というものだ。悪いことをした人には、必ず報いが来る。そして、正しいことを続けた人には、必ず幸せが訪れる。
今、私は本当に自由で、本当に幸せだ。誰にも縛られず、誰にも気を使わず、ただ自分のために生きている。五十四歳からの新しい人生。遅すぎることなんて、何もなかった。
窓の外では、今日も海が輝いている。夕暮れ時、私は海辺を散歩する。波が足元に寄せては、また引いていく。その繰り返しが、心を落ち着かせてくれた。
海に沈む夕日を見ながら、私は静かに微笑んだ。新しい人生の、最高の始まりだ。



