義母が離婚届をテーブルに置き、こう言い放った。「まゆ子さん、あなたには十分働いてもらったわ。この子は私たちが育てる。あなたはもう用済み。今日で離婚よ」腕の中の赤ん坊は、すやすやと眠っていた。3年間、私は黙って耐えてきた。義母の侮辱、夫の冷たさ、近所に撒かれた父への嘲笑。すべて知った上で、私はこの日を待っていた。離婚届にサインしながら、笑みがこぼれた。彼らは何も知らない。私が誰なのか、これから…

義母が離婚届をテーブルに置き、こう言い放った。「まゆ子さん、あなたには十分働いてもらったわ。この子は私たちが育てる。あなたはもう用済み。今日で離婚よ」腕の中の赤ん坊は、すやすやと眠っていた。3年間、私は黙って耐えてきた。義母の侮辱、夫の冷たさ、近所に撒かれた父への嘲笑。すべて知った上で、私はこの日を待っていた。離婚届にサインしながら、笑みがこぼれた。彼らは何も知らない。私が誰なのか、これから...

まゆ子さん、あなたには十分働いてもらったわ。この子は私たちが育てる。あなたはもう用済み。今日で離婚よ。

部屋が静かだった。義母の声だけが空気の中に残っている。腕の中の赤ん坊を見ると、目を閉じて眠っていた。小さな胸が規則正しく上下している。

彼らが懺悔するに値しない人たちで良かった。躊躇することなく徹底的に戦うことができる。

私は離婚届を手に取り、ペンを持つ。名前を書き、押印欄に判を押す時には、嬉しさで笑みがこぼれたほどだ。3年間ただ耐えてきたわけではない。全部分かった上でここまで来た。

離婚届にサインしたのは、私にとって終わりではなく始まりだった。あの人たちは何も知らない。これから自分たちがどんな地獄に落ちていくのかを。

私の名前は神谷まゆ子。36歳。駅から徒歩7分のインテリア雑貨店で週4日、パートとして働いている。店の名前はアトリエダーノ。木のぬくもりと白い壁と柔らかい光が混ざり合う、静かな空間だ。

仕事の内容は難しくない。開店前に店内を整え、商品の陳列を確認し、お客様を迎えて、必要があれば商品の説明をする。午後は在庫の補充と発注のチェック。閉店後に軽く掃除をして鍵を閉める。シフトは週4日、10時から17時まで。派手な仕事ではないが、私にはよく馴染んだ。

常連のお客様も少なくない。60代の女性で、月に1度は必ず訪れる方がいる。いつもリネンのコーナーで長い時間をかけ、迷ってまた迷って、最後は一番シンプルなものを選ぶ。その繰り返しがなんだか愛おしくて、私はその度に「今日もいいお天気でしたね」と声をかけた。お客様は少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑む。「ええ、本当にこういう日はここへ来たくなるんです」誰かの来たくなる場所の一部でいられることが、密かに誇らしかった。

夫の正司と結婚したのは3年前。きっかけは友人の誘いだった。一緒に行ってほしいという友人の付き添いで、半ば強引に連れ出されたお見合いパーティーが出会いの場である。正司は当時41歳で、33歳だった私よりも8歳年上。自分で会社を経営しているという。見た目は整っていて、スーツの着こなしも悪くない。ただ、口数が少なかった。「趣味は特にないですね」「子供は欲しいと思っています」そんな短い言葉を淡々と繰り返すばかり。愛想がいいとは言えない。それでも、その生真面目な雰囲気に誠実さを感じ、同時に語らない人だと思った。私はそういう人を昔から好ましく思う節がある。

その後、正司からの連絡は想像以上に早かった。パーティーの翌日にはメッセージが届き、翌々日には食事に誘われた。口数の少なさとは裏腹に、行動は早い。デートの場所も時間も全て正司が決める。私が何かを提案する間もなく、話はどんどん進んでいった。

「母さんが早く孫が欲しいって言ってるんだ。僕も40歳過ぎたからね。今までは仕事人間だったから、これからは家庭を大事にしたい」

それが正司からのプロポーズだった。出会いから半年後には婚約し、その翌年には入籍。振り返れば、あまりにも早かったと思う。だが、当時の私には流れに身を任せることが自然に感じられた。私も子供が欲しいと思っていた。誠実そうな人ときちんとした家庭を持てる。それ以上のことを深く考えなかった。

結婚してすぐ、義母の光子と顔を合わせるようになる。併設住宅の2階に住む義母は、毎日のように私たちの住む1階に降りてきた。最初の義母の印象は、気の強い人である。声が大きく、物の言い方がはっきりしていて、遠慮というものをあまり持ち合わせていない。それでも、悪い人ではないと思っていた。家の管理はきちんとしていて、近所付き合いも丁寧。食事の好みについても最初は気を使ってくれた。息子を大切にしているのはよく伝わったし、そういう母親を嫌いではなかった。慣れれば打ち解けるだろうと考えていた。

違和感を覚えたのは、入籍から2ヶ月ほど経った頃のこと。夕食後にお茶を飲みながら、たまたま実家の話題になった。義母は突然、私の父の職業について話し出す。

「お父さん、家具職人だものね。正司は立派に会社を経営しているというのに。古い家具工房なのよね。なんていうか、家の格が違うって感じかしら」

義母の言葉に、明らかな侮蔑を感じた。会ったこともない父を貶されたことに、深い悲しみを覚える。本当は結婚前に私の両親と会って欲しかったのだが、正司と義母がそれを拒否した。「君の家族に会っても、僕の会社にメリットはないから。時間の無駄だよ」そう言われた時は、何を聞かされているのか分からないほどだった。結局、両親への結婚の報告は、私が一人で実家に行って伝えた。夫が一緒に来なかったことに、両親は少し首をかしげながらも、私の結婚を喜んでくれた。

「まゆ子が幸せになるならいいのよ。万が一失敗したとしても、それはあなたの経験値になる。それに、私たちはいつまでもまゆ子の味方だから。安心して」

心強い言葉をもらい、私は両親に深く感謝の気持ちを込めて頭を下げた。不安はあるが、結婚を温かく認めてくれた両親のためにも、幸せになろうと心に決めた。

新婚生活は、常に義母の支配下にあった。「早く子供を見なさい。正司の会社の後継ぎになるのよ。絶対に男の子をね」息子の母親であれば当然の期待なのだろう。しかし、子供は授かりもの。義母の希望だけで叶うなら苦労はしない。なかなか子供が授からない私に、義母はいつもため息をついていた。「見た目がいいからすぐに子供ができると思ったんだけどね。もしも無理なら、さっさと正司を解放してあげてちょうだい」そう言って、時には夜中に夫婦の寝室を覗きに来ることもあった。正司は気にしていない様子で、「子供は黙っててもできる」というだけ。私は夫と義母の前で愛想笑いを浮かべながら、割り切れない気持ちを抱えていた。

雑貨店の仕事は、そんな日々の中で一つのよりどころだった。エプロンをつけて仕事台に向かうと、私は神谷の嫁でもなく、自分自身に戻れる気がした。大丈夫。やっていける。あの頃はまだそう信じていた。

結婚から4年目を迎えようとした頃、妊娠が発覚する。夫婦で産婦人科の診察室で告げられた言葉を、私はしばらく飲み込めなかった。先生が「おめでとうございます」と言い、エコー写真を手渡してくれる。小さな、まだ形もはっきりしない白い影がそこにあった。待合室に戻り、椅子に座って写真を見つめる。嬉しいとか怖いとか、そういう感情が一度にやってきて、どれが本物なのか分からなかった。ただ、この子をちゃんと産もうという気持ちだけは、くっきりと胸の中に残った。

夕飯の支度をしながら正司に伝える。「妊娠していたみたい」と告げると、正司はスマートフォンから顔を上げた。「そう、よかった」それだけだった。立ち上がるでも、こちらに近づいてくるでもなく、またすぐに画面へ視線を戻す。「よかった」という言葉自体は本心かもしれない。だが、その言葉の軽さがじわりと胸に滲んだ。

義母への報告は翌朝になった。夫が2階に上がって伝えたらしく、昼前に義母が直接部屋にやってきた。「ああ、やっとね」喜んではいるのだろう。孫を望んでいたのは知っていた。それでも、あの「やっと」という言葉の響きがどこか引っかかる。私は義母と向かい合ったまま、少しの間黙っていた。「男の子でしょうね。絶対に男の子を生みなさいよ」「まだ分かりません」と答えたが、義母はそれを許さない。「ダメ。男の子を生みなさい。これは命令よ」そう言って義母は2階へ戻っていった。「命令」という言葉に切凍る。万が一女の子が生まれたら、どうするつもりなのだろうか。

それからというもの、義母が1階に降りてくる頻度が増えた。今までは週に3、4回ほどだったのが、ほぼ毎日になった。最初は心配してくれているのだろうと思うようにしていた。しかし、家事を手伝ってくれるわけでもなく、食事を作るでもない。私を監視しているというニュアンスに近いと思う。「お腹の子に何かあったら、ただじゃ置きませんからね」その言葉に悪意があるとは思いたくなかった。孫を切望しているだけだと解釈してやり過ごす。

違和感を覚えたのは、ある平日の午後のことだ。アトリエダーノでの仕事を終え、駅から家へと歩いていた時、見慣れた後ろ姿が目に入った。義母だった。近所の奥さんと並んで、玄関先で立ち話をしている。距離があったので声は聞こえなかったが、私は咄嗟に足を止めた。義母は身振り手振りを交えながら何かを話していた。相手の奥さんが眉を潜め、小さく頷く。その表情が、単なる世間話をしている時のそれとはどこか違う気がする。近づくべきか迷ったが、足が動かなかった。理由は分からない。ただ、見てはいけないものを見ているような気がして、私は少し遠回りをして家に戻る。台所で水を飲み、気持ちを落ち着けていると、10分も経たないうちに義母がやってきた。「あら、帰ってたの?気づかなかったわ」いつもと変わらない顔だ。私も「今帰りました」と返して、エプロンを手に取った。先ほどの立ち話の何が引っかかったのか、自分でもうまく言語化できない。ただ、奥さんの眉の潜め方が、頭の隅に残り続けた。数日後、いつも朝の散歩で顔を合わせる向かいの奥さんが、目を合わせなくなった。挨拶は返してくる。だが、以前のように話が続くことがなくなった。偶然だろうか。気分が悪いのかもしれない。いくつかの理由を並べて、自分を納得させようとした。

決定的だったのは、その翌々日のこと。アトリエダーノでの仕事を終えた帰り道、いつもと違う路地を通る。遠回りにはなるが、金木犀の池があって、秋の時期だけそこを歩くのが好きだった。角を曲がった時、10メートルほど先に義母の姿が見えた。義母は私に気づいていない。近所に住む年配の女性と立ち話をしていた。以前とは別の女性だ。足音を立てないよう、私は自然と歩みを緩めた。義母の声が風に乗って届いた。

「それがね、うちの嫁のお父さんって、貧乏臭い小さな家具工房をやってる職人なの」

父の話だった。義母は眉間にしわを寄せて、語尾に力を入れながら話している。話し方には、前にも見たような悪意がこもっている。「会社でもない。ちゃんとした仕事でもない。もう恥ずかしいったら。うちの正司がどれだけ苦労して会社を大きくしてきたか。知り合いが恥ずかしいでしょ」相手の女性が眉を潜めながら相槌を打つ。「まゆ子さん自身も、なんというかちょっと変わってるのよね。妊娠してもパートを続けるって言いはるし、義母の言うことを聞かないし。本当に正司がかわいそうで」そこから先は聞けなかった。耳が勝手に音を遮断したようだった。私はゆっくりと来た道を引き返し、元の大通りへ出る。父の仕事が「ちゃんとした仕事でもない」と言われたのだと、少し遅れて理解した。朝から晩まで木と向き合い、一つの椅子に何日もかけて丁寧に削り続ける父の背中が頭の中に蘇る。その背中を、会ったこともない人間が笑い話のように近所へ撒いている。感情を整理する前に、ただ疲れたという感覚が全身に広がった。直帰する気分になれず、少し遠回りして帰宅する。家に帰ると、義母が一階に降りてきていた。「あら、帰ってたの」いつもと変わらない笑顔。しかし、気のせいではなく、その裏に侮蔑を感じる。私は「夕飯の支度をします」と返して、エプロンを手に取った。何かが変わっていた。ここ数週間で、確実に何かが変わっていた。それが何かは分かっていたけれど、認めたくなかった。

妊娠して3ヶ月が過ぎた頃、体の変化が顕著になってきた。朝起き上がると吐き気が込み上げる。台所に立つと、炒め物の油の匂いが鼻につく。これが悪阻というものなのだろう。それでも、アトリエダーノに出勤する日だけは、不思議と体が軽かった。けれど、家に戻るとまた空気が変わる。併設住宅の1階は物理的には独立しているのに、なぜか常に義母の気配がある。廊下に残る香水の匂い。台所に置かれた「差し入れ」という名の物。勝手に並べ替えられた洗面台の棚。善意と支配の境界がひどく曖昧な場所だった。

そんな頃、義母がパートの話を持ち出した。「ねえ、まゆ子さん。いつまであの仕事続けるつもり?妊婦がパートなんて体裁が悪いでしょ。さっさとやめなさい」夕食時のことだった。正司も同じテーブルに座っている。私は少し考えてから、穏やかに答えた。「体を動かしていた方がいいと先生にも言っていただいてますし、今のところ体調も問題ないので、もう少し続けようと思っています」義母の表情がわずかに固まった。「ああ、古い家具工房の娘だと、やっぱり考え方が違うわね。うちはちゃんとした家なんだから、見栄えってものがあるの」言葉が終わった後、テーブルに沈黙が落ちた。私は視線を手元に落とし、湯飲みを両手で包む。夫はフォローも肯定も何もない。ただ黙ってお茶を飲んでいた。父のことを持ち出されるたびに、胸の奥で小さな炎のようなものが灯る。怒りとも悲しみともつかない、くすぶるような感覚だ。それでも、私は何も言い返さなかった。言い返したところで何かが変わるわけではないと分かっていたから。

翌日、仕事帰りに母へ電話をかけた。歩きながら話すのが習慣で、駅から家までの7分間が母との時間になっている。「もしもし。母さん?」「まゆ子、どうしたの?珍しいわね。昼間に」「ちょっと声が聞きたくて。元気?」「元気よ。あなたは体、大丈夫?」落ち着いていて、少しだけ低くて、聞くと背筋が伸びるような声。子供の頃から、母の声には不思議な安定感があった。両親にはすでに妊娠の報告をしている。母も手放しで喜んでくれたのが嬉しい。母は手伝いに来てくれると言ったが、義母のこともある。「うん、大丈夫。あのね、向こうのお母さんが、パートをやめろって言うんだけど。どう思う?」「あなたはどうしたいの?やめたくないなら、それでいいじゃない」母の回答は明快だ。私の気持ちを先回りしてくれているように感じる。その後、短い沈黙があった。「大丈夫よ、まゆ子。お母さんは、あなたが元気でいてくれればそれでいいから」「うん。ありがとう」電話を切った後、私は立ち止まって空を見上げた。母の言葉がもう一度耳の中で鳴った。大丈夫。私には家族がいる。父と母と、そしてお腹の子も。私がこの子を何があっても守る。新しい決意が芽生えた瞬間だった。

妊娠5ヶ月を過ぎた頃から、正司が帰って来なくなった。最初は仕事が立て込んでいるとの連絡が来ていた。それが2日になり、3日になり、気づけば1週間のうちに顔を見せるのが一度きりという生活になっている。帰ってきた時の正司は疲れた顔をして、シャワーを浴び、食事を取り、翌朝には出ていく。お腹が目に見えて大きくなっているのに、正司はほとんど見ようとしない。視線が腹部に向くことはほぼなく、会話も必要最低限だ。私は何度か「最近どう?」と声をかけようとしてやめた。聞いたところで、帰ってくる言葉が目に見えていた。

大きくなる一方のお腹を抱えながら、一人で家事をこなす日々が続く。重心が前にずれるせいで、腰が悲鳴を上げる。台所に立つ時間が長くなると、足首の辺りがじんわりとむくんでくる。それでも、食事は作った。洗濯もした。掃除もできる範囲でこなした。誰かに頼める環境ではなかったからだ。夜が一番長く感じる。正司のいない1階は静かで、天井から時折、2階のテレビの音が漏れ聞こえた。義母が夜遅くまで起きているのだろう。その音を聞きながら、私は一人で布団に入った。お腹の重さを逃すように横向きに寝て、天井を見つめる。こういう夜に限って、子供はよく動いた。ポコポコと内側から押してくるような感覚に、私はそっと手を当てる。この子だけは、確かにここにいる。そう思うことで、なんとか朝まで眠った。

ある朝、目を覚ますと、隣の布団がなくなっていることに気づく。正司のものだけではない。部屋の隅に置いてあった正司の衣類も、デスクの上の私物も、綺麗に消えていた。廊下に出ると、義母が立っていた。「正司の部屋、2階に移したから。あなたも後期は一人の方がゆっくり休めるでしょ」言を待たさない口調。相談も確認もなく、夫婦の寝室が解体されていた。私は「分かりました」とだけ答える。意見を口にしたところで、何も変わらないことが分かっていたからだ。

近所との距離は、あれから少しずつ広がり続けていた。顔見知りと道であっても、視線が合う前にそらされる。挨拶をしても返しては来るが、言葉が続かない。以前は気軽に声をかけてきた近所の奥さんが、私の姿を見ると足を早める。原因はおそらく義母だろう。私や父の仕事の話を、近所で吹聴しているのだ。それらは事実が誇張された悪意によるものだ。けれど、私は何もしなかった。ただじわじわと、周囲との間に見えない壁が築かれていくのを感じていた。

義母のお茶会が増えたのも、ちょうどその頃からだ。週に1度か2度、義母が近所の顔見知りを呼んで、1階の居間でお茶を飲む。「ここでやった方が広いから」というのが義母の言い分で、私に断る余地はなかった。単に自分の家に人を招くと片付けが面倒なのだろう。義母の言い方はいつも決まっていた。「まゆ子さん、お茶の用意をしてちょうだい。ちゃんとしたお菓子もね」7ヶ月に差しかかっていたお腹に、動くたびに腰に重みが来る。それでも私は台所に立ち、お湯を沸かし、茶菓子を皿に並べた。客たちの前に湯飲みを置いて、静かに部屋の隅に控える。お茶会の間、私はほとんど声を発しない。必要な時だけ台所へ立ち、湯飲みを補充し、また隅に戻る。客たちは、私のことを家具の一部くらいに思っているかもしれない。それでも構わなかった。余計なことを言わず、波を立てず、今日をやり過ごす。それだけに集中していた。

ある日のお茶会で、義母が話し始めた。集まったのは近所の奥さんたち3人。皆、義母とは顔馴染みらしく、和やかな空気だ。「正司君の会社はどう?一時、会社が危ないって言ってたでしょ?」客の質問に、苦笑いを浮かべる義母。あまり言われたくないことだったのか、眉を潜めている。「亡くなった主人の遺産で起こした会社だから、余裕はあるのよ。それに、正司の会社は大きなところが出資してくれているから、安泰なの」「へえ。すごいじゃない。正司君の頑張りが認められたのね」客たちはこんな話が大好きだ。本当にすごいと思っているのかも怪しい。誰がどのくらい儲けているのか。自分より裕福なのか貧しいのか。常に自分と比較し、安心を得ようと必死だ。義母も客の話に反論するように強がった返事をし、正司の自慢を放り込む。「そうよ。正司は努力して今の地位にいるの。まゆ子さんのお父さんみたいな、貧しい家具職人とは訳が違うのよ」客の一人が「そんなこと言っちゃだめよ」と目を細めた。別の客も「正司君は立派ですもんね」と続く。義母は満足そうに胸を張り、湯飲みを口に運んだ。「正司君なら、どこかの素敵なご令嬢との縁談もあったでしょうに」「そうかもしれないわ。でも、出会いのタイミングもあるから仕方ないの」私は大きなお腹を抱えたまま、背筋を真っ直ぐにして座っていた。義母の視線がちらりとこちらへ向いた。「ねえ、まゆ子さん、聞いてるの?せっかくあなたの旦那様の話をしてあげているのに。もう少し関心したらどう?」客たちの視線が一斉に私に集まった。私は静かに「はい。正司さんはすごいですね」と返した。愛想もなく、抑揚もなく。義母の眉がわずかに寄った。「本当に愛のない嫁で、正司がかわいそうだわ。もしもこの先、正司が他の人と恋をしてしまったとしても、しょうがないと思うの。だって、この嫁といると正司が息苦しくていられないもの」客の一人が困ったような顔で笑い、もう一人は視線を茶碗に落とす。部屋に漂う沈黙の中で、私は膝の上で手を重ねた。爪が手のひらにわずかに食い込む。ここで言い返したとしても、義母は傷つかない。客たちの前で感情をさらけ出した私だけが、「やっぱり気難しい嫁だ」という証拠になる。そのことが、長い時間をかけて体に染み込んでいた。だから、私は黙ってやり過ごした。

正司が戻ってきたのは、それから数日後の夜のことだった。玄関の音で目が覚める。時計を見ると、深夜0時を過ぎていた。眠れていなかったのかもしれない。物音がするたびに意識が浮上してくる夜が、最近は続いていた。ゆっくり廊下を歩いてリビングへ向かう。正司はキッチンで水を飲んでいた。「お帰りなさい。久しぶりね。最近どう?」声をかけると、正司が振り返った。疲れているのか、目の下にうっすら影がある。私と目が合った瞬間、正司は小さく舌打ちをした。「問題ない。俺に話しかけるな」それだけ言って、廊下を曲がっていく。2階の義母が用意した部屋へ向かって、階段を登っていった。正司との間に残っているものが、もうほとんどないことを、この夜に確認した。結婚した時、思い描いていた家族の形は、今の一階にはどこにもない。あるのは、静かな部屋と重いお腹と、窓の外の街灯だけだ。お腹の中で子供が動いた。小さな確かな動きだった。私は窓から視線を外し、腹部にそっと手を当てた。大丈夫。私にはこの子がいる。

翌朝、アトリエダーノへ出勤した。お腹が前へ傾くようになってから、歩くペースが落ちた気がする。駅から店まで、以前は7分だったところが、今は10分以上かかる。それでも歩いた。このパートをやめるつもりはない。店に着くと、店長の宮下さんが入り口のところで待っていた。私の姿を見て、すぐに駆け寄ってくる。「神谷さん、今日も来てくれたんですね。無理しないでくださいよ」その言葉だけで、胸の奥がほどけた。心配してくれる人がいる。それだけで十分だ。「大丈夫です。動いていた方が気持ちも楽なので」店長は少し困ったような顔をしながらも、「じゃあ、重いものは全部私がやりますから」と言ってくれた。

午後、常連の女性客が来店した。「あら、まあ。お腹を見て。もう大きくなりましたね。もうすぐですか?」「2ヶ月後くらいです」「楽しみですね。元気な子が生まれるといいわね」義務も下心もない、ただの優しさ。私は「ありがとうございます」と返しながら、目が潤みそうになったので、瞬きでごまかした。泣く場所ではない。ここは私が自分でいられる場所だ。だからここでだけは、ちゃんとしていたかった。

出産予定日が近づいた頃、義母が1階に降りてきて言い出した。「まゆ子さん、そろそろ実家に帰りなさい。後期は実家でゆっくりするものよ」言葉を待たさない口調はいつも通りだ。「あなたの両親、どうせ暇なんでしょ。子供が生まれたら知らせてちょうだい」そう言う義母の声に、ぬくもりはない。私は息を吸って口を開いた。「あの、立ち合いはどうされるんでしょうか?」義母の表情が一瞬で変わった。「はあ?仕事で疲れている正司に、生まれるかも分からない出産に立ち合わせる気?正司も休みなさいよ。産むのはあなたの仕事でしょ」本当に孫を切望した人の言葉なのだろうか。こんなにも簡単に、産む側の人間を「仕事」と言い切れるものなのか。この人には言葉が通じないと悟った瞬間だった。翌日、私は荷物をまとめて実家へ戻った。重い体でタクシーへ乗る。父と母が玄関まで出てきて、私のお腹を見て嬉しそうに顔を見合わせた。父は何も言わずに荷物を受け取り、母は「お帰り」とだけ言った。それだけで、目の奥が熱くなる。実家は何も変わっていなかった。父の工房から漂う、木の削りくずの香りが風に乗って届いてくる。ここにいると、自分がどこに属しているのかを、体が思い出す気がした。

妊娠9ヶ月。陣痛は夜中に始まった。最初は鈍い痛みで、「眠れないな」という程度だった。それが30分おきになり、15分おきになり、やがて波が引く暇もなくなる。ずっと付き添ってくれた母が父を起こし、そのまま車を出してくれた。病院に着いたのは夜明け前で、父と母が両隣に座り、それぞれ無言で私の手を握っていた。12時間後、男の子が生まれた。分娩室で初めて聞いた鳴き声は、思っていたより力強かった。助産師さんが胸の上に乗せてくれた小さな体は、うっすらと湿っている。しかし、暖かくて、信じられないくらい軽かった。その子が鳴き声をあげるたびに、私の胸が震える。ずっとお腹にいたこの子を、今日まで守ることができた。涙が頬を伝う。拭く暇もなく、次の涙が落ちた。父が廊下で泣いている声が、ドア越しに聞こえる。母が優しく声をかけてくれた。「まゆ子、よく頑張ったわね」私は頷き、やっと笑うことができた。母も、私を産んでくれたのだろう。そう思うと、生まれた子供が一層愛おしくなった。

義母が病院にやってきたのは、出産の翌日のこと。正司の姿はない。義母は病室に入るなり、私への挨拶もなくベビーベッドへ近づいた。眠っている子を上から覗き込む。その目は、品物の品質を確かめるような、品定めするような目だった。「男の子な。よく頑張ったわね。でも、可愛いわね」ではなく、ただ確認しただけ。私は布団の上で上体を起こしたまま、義母を見る。義母は私には目もくれず、そのまま病室を後にした。

出産から2日後、やっと正司が病室に現れた。面会時間ギリギリだった。正司はベビーベッドを一瞥しただけで、我が子には触れようともしない。「母さんには聞いてたけど、男か。よかった」義母同様、私の方にはほとんど目を向けない。病院からの書類にサインをすると、用が済んだとばかりに帰って行った。

退院後は、そのまま実家で過ごすことにした。その間、正司からも義母からも、一度も連絡はない。赤ん坊の様子を聞くメッセージ一つ届かなかった。母は「焦らなくていい」と言い、父は毎日工房から戻るなり孫の顔を覗きに来た。「おお、可愛いな。まゆ子の生まれた頃にそっくりだ」目も開かない赤ん坊を見ながら、そう言って目を細める父。これが本当の孫を見る時の姿なのだろう。ある夜、食後を終えてリビングでくつろいでいた。父は赤ん坊の様子を見ながら、一緒に寝てしまったようだ。母と2人、テーブルを挟んで向かい合う。私はずっと胸に抱いていたある願望を、母に打ち明けた。「母さん、私、離婚しようと思う」それを聞いた母は、表情を変えずにこう言った。「それが真の意思なら、お母さんは背中を押す。ただ、それが今後どういう意味を持つのか、あなたは分かるわよね」私は頷いた。あの家での生活はもう十分だ。幸せになれると思った。彼らを愛そうと思った。正司にも義母にも、愛されるためにできる限りのことをしてきたつもりだ。だが、もういい。出産後の彼らの態度で、私の中の何かが音もなく壊れた。割れたものは元には戻らない。これで終わりだ。

1ヶ月が経ったある朝、私は正司と義母にメッセージを送った。「明日、家に戻ります」既読はついたけれど、返信はない。母はタクシーの前まで見送りをしてくれた。彼女は私が想像しているよりもずっと忙しい人だ。それでも、この1ヶ月は可能な限り私のそばにいてくれた。タクシーに乗り込む直前、母は笑顔で私の手をそっと握った。「行ってきます」そう言うと、母は大きく手を振った。「ここが、あなたの帰る場所だから」そう言ってくれている気がした。

家の前に立ったのは午前10時過ぎた頃。鍵を差し込んで扉を開けた瞬間、何かが違うと感じた。玄関に並んでいる靴が、見知らぬものばかりだ。廊下の先を見ると、カーテンが変わっている。壁にかかっていた時計も、棚に並んでいた小物も、全て見覚えのないものに入れ替わっている。1ヶ月で、この家は別の場所になっていた。赤ん坊を抱えたまま、慎重に中へ進む。リビングの家具も変わっている。ソファーの色も、テーブルの形も、壁に掛けられた小物も、全て見覚えがない。キッチンには、昨日まで誰かが使っていた気配があった。洗ったばかりの食器が水切りかごに立てかけられている。コンロの横に見覚えのない調味料が並んでいた。シンクの縁に、小さなハンドクリームが置かれている。私が使っていたものではない。誰かがここで生活をしている。それも、長い時間をかけて馴染んだように。寝室に入ると、大きなベッドがあった。ベビーベッドはどこにもない。私の使っていたタンスも箪笥も消えていた。代わりに、見知らぬ女性用の衣類がクローゼットの奥に掛けられている。まさかと思い、廊下の突き当りにある物置の扉を開いた。狭い空間に、見覚えのある荷物が詰め込まれている。私のタンス、化粧台、出産前に準備したベビーグッズの箱。全部、ここに押し込められていた。「ひどい」声に出てしまっていた。赤ん坊が腕の中で小さく身動ぎする。安心させるために、抱く手に力を込めた。その瞬間、玄関のドアが乱暴に開いた。「あら、勝手に入ったのかい。泥棒みたいだね」振り返ると、義母が立っていた。その隣に、見知らぬ女性がいる。40代だろうか。身なりは整っていて、髪も綺麗に整えられている。その女性は、私と目が合った瞬間、わずかに視線をそらした。私の心の中に、「やっぱりか」という言葉が浮かんだ。これまでの正司の行動を振り返ると、思い当たる節がいくつもある。義母は満面の笑みで、当然のように上がり込んでくる。女性も後に続いた。リビングのソファーに、義母と女性。向かい側に、私。見覚えのない新しいソファーは、座面が柔らかすぎて、座り心地が悪い。腕の中の赤ん坊が落ちないようにしっかり抱き直していると、義母が口を開いた。「紹介するわ。藤堂京子さん。正司の、まあ、長い付き合いの方よ」京子と名乗った女性は、そっと会釈した。義母の口元がじわりとほぐれていく。「正司とはね、大学からの仲なの。本当は、ずっと一緒になるはずだった2人なのよ。あなたと正司が出会う前からずっとね」私は黙ったまま、再び赤ん坊を抱き直して義母を見ていた。「つまりね、あなたの方が割り込んだ側とも言えるのよ。あなたが浮気相手と言っても過言ではないわね」笑いを含んだ声だ。正気の沙汰とは思えない発言である。結婚して、子供まで産んで、私が浮気相手だという。以前お茶会で義母が口にした言葉が頭に蘇る。「この先、正司が他の人と恋をしてしまったとしても、しょうがないと思うの」あれは予告だった。いや、既成事実への言い訳だろうか。正司が外に女性を作ることを、義母は最初から知っていた。京子がおもむろに口を開く。「私の代わりに産んでくださって、ありがとうございます」その言葉の意味を、私は一瞬のうちに理解した。この人は、私が産んだこの子を自分のものにするつもりなのだ。この部屋も、私がいない間にこの京子が整えたのだろう。インテリアも全て、この人の趣味でできているに違いない。義母がテーブルの上に1枚の紙を置いた。離婚届けだった。驚きはしなかった。この家に来ると決めた瞬間から、そんな気がしていた。むしろ、期待していたのかもしれない。いつの間にかリビングに現れた正司が、ソファーに座っていた。彼はこちらを見ず、床に視線を落としたまま動かない。

「まゆ子さん、あなたには十分働いてもらったわ。この子は私たちが育てる。あなたはもう用済み。今日で離婚よ」

部屋が静かだった。義母の声だけが空気の中に残っている。腕の中の赤ん坊を見ると、目を閉じて眠っていた。小さな胸が規則正しく上下している。「正司はね、正司の会社の2代目後になるのよ。あなたは実家にでも帰って、お父様の家具工房でも継ぎなさい。それとも、まだパートを続けるつもり?どっちにしたって、貧しい人生には変わりないわね」義母の言葉に、正司が笑いながら同調する。「ひょっとして、ずっと社長夫人でいられるとでも思ったのか。残念だったな。お前と俺じゃ、いろいろ格が違いすぎるんだ。恨むなら、貧しい家具職人の家に生まれた自分を恨むんだな」京子も笑っている。外見だけであれば上品な女性とも思われたが、そうでもないようだ。昔からの付き合いらしいが、既婚者と平気で関係を続けるくらいだ。上品な女性とは言えないだろう。彼らが懺悔するに値しない人たちでよかった。躊躇することなく、徹底的に戦うことができる。私は離婚届を手に取り、ペンを持つ。義母が「え?」と小さな声を出した。私はその場で、スラスラと記入した。名前を書き、押印欄に判を押す時には、嬉しさで笑みがこぼれたほどだ。「え、ちょっと、あっさりしすぎじゃない?もっと泣くとか、すがるとかしなさいよ」私は義母を見つめ、静かに言った。「お母さん、離婚させてくださり、ありがとうございます。おかげで今夜からは、よく眠れそうです」義母の口が開いたまま閉じなかった。赤ん坊を抱き直して、玄関へ向かう。背後で義母の声が追いかけてきた。「ちょっと、子供は置いてきなさい。その子は正司の子よ」振り返らず、扉を開けて外に出る。道路脇に、1台の車が止まっていた。母が手配してくれていた車だ。後部座席のドアを開けて、チャイルドシートに赤ん坊を先に乗せる。「ちょっと、まゆ子さん。まゆ子、待つんだ」乗り込む直前に、一度だけ振り返った。義母が門のところに立ち、不機嫌そうな顔でこちらを見ている。ただ、近所の目が気になるのか、それ以上は追ってこない。京子は玄関口から出てこなかった。「これから、ちゃんと話し合いましょう」それだけ言って、車のドアを閉めた。車が動き出す。窓の外に、併設住宅の屋根が流れていった。3年間、私が暮らした家だ。見えなくなるまで目で追おうとして、やめた。もう振り返る必要はない。膝の上の赤ん坊が小さな声をあげた。私はその頭にそっと手を当てる。温かい。このぬくもりだけが、この3年間で得たものの全てだ。終わった。いや、これからだ。3年間ただ耐えてきたわけではない。全部分かった上でここまで来た。離婚届にサインしたのは、私にとって終わりではなく始まりだった。あの人たちは何も知らない。これから自分たちがどんな地獄に落ちていくのかを。絶対に許さない。

実家に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。タクシーを降りると、秋の空気が頬を撫でる。実家の門の前に立つと、玄関の扉が内側から開いた。「お帰りなさい」母はエプロンをつけたまま、まずは赤ん坊に視線を向けて、それから私の顔を見た。何も言わなくても、全部分かる表情だった。私はバッグの中から1枚の紙を取り出して、母に渡す。「これ、サインしてきたわ」母は離婚届を受け取り、さっと目を通した。動揺も驚きも表に出さない。この人はいつもそうだ。感情を外に出さないのではなく、内側で全てを受け止めてから行動する人。子供の頃からずっと、そういう母だった。「分かった。これは私が役所に出してくるわ。あなたは休んでなさい」「うん。ありがとう」長い説明も、涙ながらの愚痴もない。それが逆にありがたかった。今の私には、道草より行動の方がずっと必要だった。母はエプロンを外しながら奥へ戻り、私は赤ん坊を抱いたままリビングへ向かう。ソファーに腰を下ろすと、全身から力が抜けていく感じがした。実家のソファーは古い。座面がへたっていて、少し右に傾いている。それでも、体がゆっくりと沈んでいく感覚が心地よかった。義母が用意したあの新しいソファーは、見た目は整っていたが、なぜか体に馴染まない。座るたびに、自分がその場所に属していないことを思い知らされるような感触だった。ここは違う。この古びた感触が、私の体を知っている。子供の頃、父がここに座って新聞を読んでいた。母が隣でお茶を飲んでいた。私はその足元に転がって本を読んでいた。何十年も前の記憶が、この感触の中に詰まっている。赤ん坊が腕の中で小さく息をしている。部屋には、父が工房から帰る前の静けさがあった。柱時計の針の音だけが、規則正しく刻まれている。窓の外では、風が椎の木の葉を揺らしていた。目を閉じると、先日の母との会話が蘇ってきた。あれは退院して間もない夜のこと。父が赤ん坊と一緒にうとうとしている隣で、母と2人でテーブルを挟んで座る。私はずっと胸の奥に押し込めていた言葉を、ようやく口にした。「母さん、私、離婚しようと思う」母は驚いた様子もなく、ただ黙って私を見ていた。「それが真の意思なら、お母さんは背中を押す。ただ、それが今後どういう意味を持つのか、あなたは分かるわよね」私は頷いた。全部分かっていた。正司に女の気配があることは、ずっと前から気づいていたのだ。帰宅が減り始めた頃から、何かが変わっていた。週に1度深夜に戻ってくる正司の上着に、知らない香水の匂いがついている。義母の香水とは違う。甘くて重い匂い。最初は気のせいかと思った。2度目は偶然かもしれないと思った。3度目以降は、もう考えないようにした。妊娠中の私には、向き合う余裕がなかった。正司との間に残っているものが少ないことは、最初から分かっていた。それでも、生まれてくるこの子のために、できる限り波風を立てずにいようとした。子供さえ無事に生めば、次のことを考えられる。そう自分に言い聞かせながら、重くなるお腹を抱えて、毎日をやり過ごしてきた。まさか私が実家に戻っている1ヶ月の間に、あの家に女性を住ませているとは思っていなかったが、家具もカーテンも入れ替えて、私の荷物を物置に押し込んで。それほどまでにあの2人は目がくらんでいたのか。義母はその全てを知った上で、昨日もあんなふうに笑っていたのだ。結婚してから3年間、私は何も知らない嫁を演じてきた。義母の言葉を聞き流し、正司の冷たさに耐え、近所からの視線に傷つきながら。だが、何も知らなかったわけではない。ただ知っていても、動かなかっただけだ。動くべき時は、今だ。赤ん坊が小さく声をあげる。私は目を開けて、その顔を見た。丸い頬に、うっすらと赤みが残っている。眠るたびに少しずつ、表情が変わっていく気がした。この子には、父親の面影があった。それでも、嫌だとは思わなかった。この子は私の子だ。誰が何と言おうと、それは変わらない。部屋の隅を見ると、赤ん坊の布団が畳の上に敷かれている。母が用意してくれていたものだ。柔らかい綿の布団に、清潔なカバーがかかっている。シーツには、小さな熊のような刺繍が並んでいた。いつの間に用意したのだろう。母は昔から、言葉より先に手が動く人だった。私は立ち上がり、そこにそっと赤ん坊を寝かせる。頭を支えながら、ゆっくりと布団の上に下ろす。寝かせた瞬間、少し眉を潜めたが、すぐに表情が緩んだ。丸い頬に、指の腹でそっと触れる。柔らかくて、温かい。この感触だけは、3年間で唯一、疑いのない本物だった。この子は絶対に渡さない。それだけが今の私の全てだ。そして、それは揺らぐことのない決意だった。

翌日の午前中、仕事中の母から電話が入った。数コール目で取ると、母の声が聞こえた。外にいるのか、風の音が混じっている。「離婚届は提出して、無事に受理されたわ。あと、例の手続きも進めたから」「ありがとう、母さん」短い通話だが、その数秒の言葉の中に、必要なことは全て詰まっていた。母が動いてくれている。それだけで、心が安定する。電話を切って窓の外を見た。秋晴れの空に、薄い雲がゆっくりと流れていく。穏やかな午前中だった。父の工房から、カンナを引く音が聞こえてくる。木と向き合う父の時間は、どんなことがあっても変わらない。その音を聞きながら、私は赤ん坊の隣にそっと座っていた。「嵐の前の静けさ」という言葉が頭をよぎった。あちらでは、今、何かが大きく動いているはずだ。だが、ここは穏やかだ。この居心地の良さが、今の自分にとって何より心強かった。

その日の午後、父の工房は休みだった。赤ん坊を父に預けて、私はあの家へ向かう。離婚届が受理されたことを伝えるためと、残してきた荷物を取り戻すためだ。バスを降りて、見慣れた住宅街を歩く。以前は、この道を毎日のように歩いた。パートの帰り道。重いお腹を抱えながら、一歩一歩確かめるように歩いた道だ。今日は体が軽かった。お腹の重さも、義母の気配も、正司の冷たさも感じない。家の前に着き、インターホンを押すと、普段より長い間があった。中から、バタバタと動き回る音がする。誰かが慌ただしく動いている気配だ。やがて、声が聞こえてきた。「お母さん、少し落ち着いてください」「落ち着いてなんかいられませんか」やり取りがドア越しに漏れ聞こえてくる。義母の声は、昨日とは別人のように上ずっている。私はインターホンの前で、黙って聞いていた。玄関が開くと、そこに立っていたのは京子だった。私の顔を見ると、露骨に嫌そうな顔をする。赤ん坊を抱いていないことが分かると、吐き捨てるように口を開いた。「何の用ですか?」警戒心の塊のような表情。私はそんな彼女の心境に気づかないふりをして、のほほんと話を進める。「荷物を取りに来たの。それと、離婚届が受理されたから、その報告に」京子は一瞬、目を伏せた。昨日の余裕はどこかへ消えている。口元に力が入っており、笑顔を作ろうとして作れていない。「わざわざ、ありがとうございます。ちょっと、今、お母さんが……」言葉が途切れた。家の中に目をやると、義母がソファーの脇に立って、スマートフォンを耳に当てていた。髪が乱れている。いつも隙のない身なりを保っているあの義母が、部屋着のまま、髪も整えずにいる。昨日、満面の笑みで「用済み」と言っていたあの義母が。「正司、さっきの話、本当なの?会社は大丈夫なんでしょうね。私たちの生活も守られるんでしょうね」声が裏返っていた。もはや発狂と言っていいほどに、叫ぶような声だ。電話口の向こうから正司の声が漏れているが、内容は聞き取れない。義母の手が、わずかに震えている。京子が困り果てた顔で、こちらを向く。「よく分からないんですが、正司の会社の出資者が撤退したとかなんとか」私は黙って聞いていた。ただ、義母の様子を静かに見ている。義母がソファーに崩れ落ちるように座った。スマートフォンを膝の上に置いて、両手で顔を覆っている。あれほど自信に満ちていた人の姿とは、到底同じ人物とは思えなかった。昨日の今日で、何がこの人をここまで変えたのか。私には、およその見当がついている。「なんだか大変そうだから、荷物はまた今度にするわ」それだけ言って、踵を返す。背後で義母の声が漏れ聞こえたが、振り返らなかった。扉が閉まる音と一緒に、騒がしい気配が遠ざかっていく。路地に出ると、澄んだ空気が肺に入ってきた。私はしばらく、そのまま立っていた。急ぐ必要はない。ここからは、こちらの時間だ。

その夜、スマートフォンが鳴り止まなかった。義母からの着信が7回。正司からが5回。一度も出なかった。画面を伏せて、赤ん坊の隣に座る。着信音が鳴るたびに、部屋の空気が少しだけ張り詰めた。それでも、私は動かなかった。出る理由が、どこにもないからだ。着信が途切れると、今度はメッセージが届き始める。『早く赤ん坊を返しなさい。黙って子供を渡せ』謝罪も反省も説明もなく、命令だけが画面を次々と埋めていく。この後に及んでも、この人たちは変わらない。私はメッセージを一通ずつ読んで、スマートフォンを置いた。赤ん坊が眠っている。小さな胸が、規則正しく上下している。隣の部屋から、父が工房の戸締まりをする音が聞こえてきた。台所では、母が夕飯の後片付けをしている。水の音と、食器が触れ合う音が聞こえてくる。「この音だ」と思った。生活の音。当たり前に、誰かがそこにいるという音。3年間、神谷の家では一度も聞かなかった音が、ここにはある。父が廊下を通り、ふと、部屋の口で止まった。部屋の中を覗き込み、眠る赤ん坊を見て、小さく目を細めた。何も言わずに、また廊下へ消えていく。それだけのことが、胸に染みた。木を削って家具を作って、それで家族を守ってきた人だ。貧乏な工房と笑われた人の手が作ったものが、今、この家のあちこちにある。廊下の棚も、台所の椅子も、この部屋の小さなサイドテーブルも、全部、父の仕事だ。義母は、その価値をとうとう最後まで知らなかった。私はスマートフォンをもう一度手に取り、メッセージはまだ届き続けている。私はそれを読まずに、伏せた。この子を渡すつもりは、最初から一切ない。そして、これで終わりにするつもりも、当然ない。決着をつける時が来た。あの人たちが知らないことを、これから一つずつ教えていく番だ。

翌日から、アトリエダーノに復帰した。産後の体はまだ完全には戻っていない。それでも、あの木の香りの中に戻ってきた時、肺の奥まで空気が入ってくる感じがした。3ヶ月ぶりの店内は、何も変わっていなかった。棚の配置も、奥のサイドテーブルも、リネンコーナーの並びも、全部そのままだ。変わっていないのに、前より少しだけ大切に見える。ここが私の場所だったのだと、改めて感じた。店長の宮下さんが、入り口で待っていた。私の姿を見て、それから腕の中の赤ん坊に視線を移して、目を細める。「神谷さん、お帰りなさい。あら、可愛い」赤ん坊は眠っていた。長いまつ毛が頬に影を作っている。この子の名前は、日向と名付けた。日の当たる場所で育ってほしいという願いを込めた名前だ。父が「いい名前だ」と言って、その夜だけで何度繰り返しただろう。工房から帰るたびに、日向の顔を覗き込み、「日向、日向」と呼びかけていた。「店に連れてきてしまって、すみません」「とんでもない。実はね。こちらへ来て」宮下さんが店の奥に案内してくれた先には、小さなベビーベッドが置かれていた。無垢のシンプルなベッド。節の目が美しい木材を使っていて、角が丁寧に丸く削られている。どこかで見たことのある手仕事だった。「本部からもらってるから、安心してね。ここに寝かせながら働いてくれればいいから」胸の奥に、温かいものが広がる。「本部」という言葉が頭の中で反響する。それは、つまり、そういうことだ。私は「ありがとうございます」と言って、深く頭を下げた。

日向はよく寝る子だった。仕事中に泣き出すことはほとんどなく、目を覚ましても、きょろきょろと天井を見上げているだけだ。午後に抱っこして店の中を歩くと、棚の前で立ち止まってじっと木目を見ている。木が好きなのだろうか。父の血が流れているからかもしれないと思って、おかしくなった。常連のお客様が日向に気づいて、「まあ、可愛い」と顔をほころばせた。日向は、誰に対しても同じような、柔らかで落ち着いた顔をしている。この子は、人の気配に安心する子らしい。賑やかな声の中でも、平然と眠れる。それがなんだか誇らしかった。

実家に帰ると、母の姿はなく、父がテレビの前でのんびりしていた。「おお、帰ったか。今日は父さんが夕ご飯を作るからな」そう言って立ち上がり、台所へ向かう。エプロンをつける手つきが、なぜか板についている。いつからこんなに慣れたのだろうと思ったが、よく考えたら、昔からそうだった。母が残業で遅くなる日は、父が食事を用意してくれる。子供の頃は、それが当たり前のことだと思っていた。父が台所に立つのも、母が夜遅く帰ってくるのも、どちらも普通のことだと。結婚して初めて分かった。当たり前ではなかったのだ。私は恵まれていた。義母は、毎日のように言っていた。「あなたのお父さんみたいな工房では」「貧乏な職人の家の出では」と。その言葉の意味が、今なら別の角度から見える。義母が言いたかったのは、父の仕事の欠陥ではなく、父がいる家庭の形への、根拠のない軽蔑だったのかもしれない。正司の家にも、何かしらの事情はあるだろう。義父を早くに亡くして、正司が会社を起こして、義母が一人で息子を支えてきた。その苦労は、本物だったに違いない。だからと言って、やって良いことと悪いことはある。子供が生まれた途端に浮気相手を家に招き入れて、私の荷物を物置に押し込んだ。そして、私を「用済み」と笑い、日向を「渡せ」と命令する。その言葉たちに、愛情は1グラムもなかった。正司も義母も、日向の顔を一度も見ようとしないのが、その証拠である。生まれた子を愛しているのではなく、何かの目的のために必要としているだけだ。そんな人たちに、日向は何があっても渡さない。

母が帰宅したのは、21時を過ぎた頃だった。疲れているはずだが、玄関を開けた顔に疲労の色はない。廊下に入るなり、眠っている日向に視線が吸い寄せられる。抱っこしようと近づいて、ふっと止まった。母は一度、洗面所へ向かい、手を洗ってから戻ってきた。それからようやく、日向の頬に指先を触れさせた。その顔が、柔らかく解けていく。「仕事、どうだった?」「楽しかったよ。ベビーベッド、ありがとう」母は少し目を細めて笑い、否定はしなかった。あのベビーベッドが、誰の手配によるものか。もう、言葉にする必要がない。父が用意した夕飯を、3人で食べた。彼の料理はいつも素朴だ。出汁の効いた味噌汁と、焼き魚と、ほうれん草のおひたし。品数は少ないが、全部、ちゃんと美味しい。義母がお茶会で出していた菓子より、ずっと良かった。食後、日向の隣でうととし始めた父を横目に、母が数枚の書類を差し出してきた。受け取って、目を通す。数行読んだところで、手が止まった。胸の中に、様々な感情が一度に来て、どれが本物なのか分からなくなる。「母さん、忙しいのに調べてくれたの?」「私はあなたのお母さんよ。あなたが幸せになるためなら、時間は惜しくないわ」そう言って、今度は1枚の名刺を差し出した。「この弁護士さんにも、話を通してあるから」名刺を受け取る手が、わずかに震える。泣きそうになって、こらえた。泣く場面ではない。これは、「戦う準備が整った」という話だ。日向が眠りながら、小さく声をあげた。父がぼんやりした目で日向を見て、また目を閉じる。台所から、水の滴る音が聞こえた。これで、始められる。

その夜も、義母からの着信が続いていた。何度目の呼び出し音の後、私は電話に出た。「はい、まゆ子です」「やっと出た。どうして電話に出ないの?本当にダメな嫁だね」もう嫁ではないが、指摘する気にもなれなかった。「今度の土曜に、うちに来なさい。子供も連れてくるのよ。ちゃんと話し合うから」あちらから仕掛けてきたのは、好都合だ。「分かりました」短く答えて、電話を切る。土曜日まで、数日ある。準備をする時間は、十分にあった。

土曜日の朝、日向に着替えをさせた。白いロンパースに、薄い水色のカーディガン。母が買ってくれたものだ。日向は着替えの間も大人しくしていて、私が袖を通すたびに、興味深そうに自分の手を見ていた。小さな拳が、空中でゆっくりと開いたり閉じたりしている。準備を終えて、鞄を確認した。母から預かった書類、弁護士の名刺、ボイスレコーダー。全部、揃っている。深呼吸をして、日向を抱き上げる。「おはよう、日向」日向が私の顔を見上げた。小さく口を動かすが、言葉はまだ出てこない。それでも、何かを伝えようとしている。「大丈夫。あなたのお母さんは、ちゃんとやるから」そう心の中で言って、玄関を出た。

あの家の前に立ち、インターホンを押す。しばらく間があって、玄関が開いた。立っていたのは、京子だった。私の顔を見ると、何も言わず、無言でリビングへ通す。リビングには、正司と義母が並んで座っていた。「ちゃんと連れてきたわね」そう言いながら、日向の顔を一切見ようとしない。正司も同様だ。日向を「渡せ」と言い続けてきた人たちが、目の前にいる日向に視線一つ向けない。その矛盾が、全てを物語っている。この人たちにとって、日向は人ではなく、カードなのだ。全員がソファーに座り、短い沈黙が落ちた。口を切ったのは、義母である。「今日は、その子を置いて行ってもらうわよ」私が答える前に、京子が静かに口を開いた。「私が、子供を産めない体質なんです。だから、その子を私にください」その言葉の重さは、理解できる。子供を望んでも叶わない苦しさは、本人にしか分からないものだ。それを正面から聞いて、胸が痛まなかったと言えば、嘘になる。だが、答えは変わらない。「お気持ちは分かります。でも、この子は物ではありません。はい、どうぞ、というわけにはいかないんです」義母の眉が上がった。「前に言ったでしょ。あなたが浮気相手みたいなものなの。この2人は、あなたが会うずっと前から付き合ってるんだもの。あなたが邪魔者なのよ。分かるかしら?」それを正しいことのように話す。不思議な人だと思う。怒りより、呆れが先に来た。「それじゃあ、どうして私と結婚したの?正司、あなたが答えて」正司は面倒くさそうな顔をして、視線を落とす。義母がすかさず割り込む。「正司、あなたは何も言わなくていいわよ。これは、私たちの問題でもあります。正司、答えて」3回目の言葉で、正司が観念したように、うつむいた。ポツポツと、床に向かって口を開く。「あの、だって、母さんがそうしろって言ったから……」亡くなった義父の遺産で起こした会社が、長い間軌道に乗れなかったこと。そのために、長年付き合ってきた京子と結婚することを、ずっと躊躇していたこと。正司は、義母に言われるままだったのだと、静かな声で言った。「とりあえず、他の適当な女と結婚して、子供だけ産んでもらえって、母さんが言ったんだ。結婚して、子供だけもらえばいいだろって話になって。だから、お前と結婚した」部屋に、重い沈黙が落ちた。やはり、そういうことだったのか。怒りは湧いてこない。最初から愛などなかったのだと、改めて確認しただけだ。結婚前から、どこかで感じていたことである。正司の猛烈なアプローチが、最初から少し不自然だった。プロポーズの言葉にも、「母さんが孫を欲しいと言っている」が入っていた。結婚後、なぜ義母がこれほどまでに私の行動を監視していたのか。妊娠した瞬間から、まるでスイッチが切り替わるように正司が帰ってこなくなったことも。全部が、今日、はっきりと繋がった。むしろ、はっきり聞けてよかったとさえ思った。霞みがかかったまま終わるより、ずっといい。「でも、それなら、子供がいなくても、最初から京子さんと結婚すればよかったじゃない。どうして、それをしなかったの?」素朴な疑問だった。3人とも、口をつぐんでしまう。義母は視線をそらし、正司は床を見たまま。京子だけが、わずかに唇を噛んでいる。その沈黙が、答えだった。いつまで待っても言葉が出ないので、私から話を進めることにした。「京子さんのご両親に、孫の顔を見せてくれたら出資するとでも、言われましたか?」3人の顔色が、一斉に変わる。「どうして、それを……」「ある筋からの情報です」義母の目が、ぎょろりと動く。つまり、京子の両親は、彼女が子供を産めないことを知らないのだろう。知っていれば、親だったら、そんな条件は出さないはずである。京子には、親に子供が産めないと言えない理由があるのだ。すぐ子供を作って解決することもできたのに、離婚まで3年もかかった。その理由は、結婚直後に正司の会社が思ったよりも軌道に乗ったからじゃないですか。以前に義母が口にしていた言葉を思い出す。お茶会で、客たちに自慢げに語っていたあの話だ。「大きな会社が出資してくれているから、安泰なの」と。あの時、私は何も言わず、ただ聞いていた。その出資者がいたから、京子さんのご両親に頼らずとも、会社を経営できた。だから、急がなかったんですね。でも、その出資者が急に撤退した。そこで慌てて、子供を渡せと言い始めた。そういうことですね。否定の言葉が、誰の口からも出てこない。出てこないこと自体が、答えだった。おそらく、もう少し時間があれば、子供は後からゆっくり引き取ればいいと考えていたのだろう。ところが、大口出資者の撤退で計画が狂った。だから、逆上して、電話をかけてきたのだ。日向への愛情からではなく、追い詰められた焦りから。それが、はっきり見えた。「結論から言います。あなた方に、この子を渡すことはできません」鞄から、母に預かった書類を取り出して、テーブルに置く。義母が書類に目を落とした。次の瞬間、顔色が変わった。それは、正司の不貞の記録だった。日付と、相手の名前と、証拠の写真。しかも、相手は1人ではない。京子の名前もあった。そして、それ以外にも、複数の女性の名前が並んでいた。義母が最初に書類を手に取り、目を通す。顔色が変わるのを、私は見ていた。次に書類が正司の手に渡り、正司がそれをテーブルに置いた。手が、わずかに震えていた。京子の表情が、一瞬だけ、苦渋に歪んだ。その後はすぐに無表情に戻ったが、あの一瞬の揺らぎは、確かに見えた。知らなかったのかもしれない。あるいは、知っていて、見ないふりをしてきたのだろうか。京子のことを、私はよく知らない。この3年間、ずっと影にいた人だ。ただ、今日この場で初めて、京子もまた、何かに傷ついている人間なのかもしれないと思った。だからと言って、私がすることが変わるわけではない。京子は、正司と義母の側に座ったまま、動かなかった。その選択が何を意味するのか、私には関知しないことだ。「どんなに不純な動機でも、婚姻関係がある以上、不貞は不貞です。正司。そして、京子さん。私はあなた方に、慰謝料を請求します」正司と京子の顔が、歪んだ。反論はしてこない。覚悟していなかったわけではないのだろう。私は話を続ける。「それと、お母さん。あなたには、継続的に精神的な苦痛を与えられたとして、こちらも慰謝料を請求させていただきます」「何が精神的苦痛ですか。証拠なんてないでしょ」「あります。ある時期から、ボイスレコーダーで音声を録音していました。お母さんが近所の方に、父や私の悪口を言っていた日から、ずっと」義母の顔が、一瞬にして強張った。唇が震えている。「今日のこの会話も、全て録音しています。証拠は、すでに弁護士の手元にあります」「そんな……」正司が立ち上がった。声を荒らげようとした瞬間、私は続けた。「それから、不貞の事実がある場合、親権の判断において不利に働くことを、ご存知ですか?」沈黙が、部屋を覆った。3人の顔に、焦りの色が広がっていく。義母が叫ぶように言った。「だって、貧しい家庭のあなたに、子供を育てられるわけがないでしょ。子供さえもらえば、京子の親から出資してもらえるのだから、経済的には正司の方が安定するに決まってる」大口の出資者から撤退されたことが、よほど応えているのだろう。義母の目が、血走っていた。先頃まで上品ぶっていた人間の顔が、今は鬼のように剥き出しになっている。余裕が、むしろ哀れだった。「だって、もしかしたら、その出資者も戻ってくるかもしれないじゃない。だから、どうしても、その子が必要なの。そうすれば、全部うまくいく」義母が立ち上がり、日向に向かって手を伸ばした。強引に奪おうとしている。私は咄嗟に、日向を守った。その瞬間、正司のスマートフォンが鳴った。正司が画面を見て、目を見開く。顔色が変わるのが、見て取れた。「え?ノーディアカンパニーの会長が、うちに来るって?」「ノーディアは、大口出資者の?」「あら、良かった。戻ってくると言ったでしょ。きっと、その話よ」義母の顔に、一瞬で笑みが戻った。先ほどまでの血走った目が消えて、また、体裁を整えた義母の顔に切り替わる。「こっちで出資の話がまとまったら、そんな子供は、いらないわ。正司と京子さんと私で、幸せに暮らすから。あなたは、もう帰りなさい」私は何も言わず、日向を抱き直した。義母の顔は、先ほどまでの混乱が嘘のように整えられている。口紅を引き直したわけでも、髪を直したわけでもないのに、なぜかそう見えた。状況に反応する時、この人はこれほど素早く切り替わる。3年間、何度もその切り替えを見てきた。リビングに、重い静けさが広がった。K京子は窓の外を見ている。正司は膝の上で手を組んで、どこかを見ていた。義母は背筋を伸ばして、扉の方を向いている。どこか期待に満ちた、異様な空気だった。10分後、玄関のチャイムが鳴った。義母が先導して、扉を開ける。外には、1人の女性が、付き添いの男性を従えて立っていた。彼女は黒のスーツを着て、背筋がまっすぐに伸びている。髪は短くまとめられ、視線に揺らぎがない。そこに立っているだけで、場の空気が引き締まるような雰囲気だ。私は、その横顔をじっと見ていた。義母が反射的に腰を折った。「ようこそ、いらっしゃいました。どうぞ、どうぞ。狭いところですが」正司も釣られるように頭を下げる。女性はリビングに入り、室内を一瞥した。私と目があった。その目が、ほんのわずかに細くなった。「ちょっと、あんた。そのソファーからどきなさい。お客様が座るんだから」義母が私に言った。私は、動かなかった。義母が力づくで、どかそうとしてきた。日向を抱いているというのに。女性の視線が、正司に向く。それだけで、正司の手が止まった。義母が女性に向かって、媚びるように続ける。「すみません。この女は、息子の別れた嫁なんです。未練がましく、荷物を無理矢理取りに来ているところで。本当に、節操のない人間というのはいるんですね。今すぐ追い出しますので、少々お待ちください」女性は何も言わず、ただ義母を見ている。義母は笑顔を保ちながら、その視線に少しずつ、居心地が悪くなっているようだ。正司が愛想笑いを作りながら口を開いた。「本日お越しいただいたのは、出資再開のお話でよろしいでしょうか?撤退は、しないんですよね。じゃあ、このまま継続で」女性は短くため息をついた。「私がここに来たのは、出資の話ではありません」義母と正司が、同時に固まった。場の空気が、一気に変わる。「娘を、迎えに来たんです」沈黙が落ちた。娘。その言葉が、部屋の空気の中でゆっくりと広がった。「え?」女性の視線が、私に向いた。「帰るわよ、まゆ子」義母の顔が、ゆっくりと変わっていった。私を見て、女性を見て、また私を見る。何度か繰り返して、ようやく言葉が出た。「ま、まさか。あなた、この女の、え、母親?」松下初と申します。ノーディアカンパニーで、会長を務めております。正司の顔から、血の気が引いた。義母が椅子の肘掛けを掴む。京子だけが、静かに目を伏せた。「正司さん。あなたに、伺いたいことがあります。3年前、弊社が御社に出資を決めた経緯を、ご存知ですか?」正司は、答えられなかった。「娘から連絡を受けたからです。夫の会社が苦しいと。力を貸して欲しいと。まゆ子が、あなたのために頭を下げてきた。だから、出資を決めました」義母の口が開く。しかし、声が出なかった。「娘が、出産後すぐに離婚を迫られたと聞いた時、契約の条件を確認しました。出資者の家族が、当社との関係を損なう行為をした場合、即時解約。今回は、その条件に該当すると判断しました」「そんな……、そんな条件!」「契約書の8ページ、第12条です。サインされたのは、あなた自身ですよ」正司の顔に、じわじわと青みが広がっていく。確認しなかった自分を責めているのか。それとも、今更後悔しているのか。どちらにしても、遅すぎた。義母が震える声で言った。「そんなこと、聞いてない」「説明を受ける機会は、十分にありました。確認しなかったのは、ご自身の責任ですよ。それから、まゆ子が働いていたアトリエダーノは、ノーディアの直営店です。3年間、まゆ子はノーディアの一員として働いていました」義母の体が、小さく揺れた。私は母の会社の直営店で、パートをしていたのだ。だから、あのベビーベッドも、母の計らいだとすぐに分かった。「まゆ子のパートが、体裁が悪いとおっしゃっていたようですね。どの口で、それを言ったのか、私には理解できません」「そんなの、知らなかったわよ。知ってたら」「知っていれば、態度が違ったと。それは、人間性の問題ではなく、打算の問題ということですね」義母がたじろぐ。返す言葉がなかったようだ。部屋に沈黙が落ちた。正司は床を見ている。義母は口を開きかけて、また閉じた。何か言い訳を探しているのだろうが、どこにも見当たらないのだろう。3年間かけて積み上げてきたことは、今日、この場所で、全部ひっくり返っていた。

母が一度、室内を見渡した。その目が、部屋の隅の荷物にも、見知らぬ家具にも、何ひとつ動揺することなく流れていく。全部、分かった上で、ここに来ている。彼女は、いつもそうだ。「最後に、一つだけ。まゆ子の父は、30年近くノーディアに家具を納めている職人です。業界では、知らない人のない名前ですが。どうやら、主人を『貧しい職人だの』『貧乏な工房だの』とおっしゃっていたそうで。しかも、ご近所に吹聴したとか」義母の顔が、みるみる赤くなっていた。「他人の仕事を、会ったこともない人間に、笑い話として撒いて回る。そういうことをする人間が、日向の祖母になるべきではないと、私は考えています」義母は、何も言えなかった。正司が、震える声で口を開いた。「あ、あの、もしも、まゆ子さんさえよければ、復縁というか、その」義母も続く。「そ、そうですよ。私たち、あなたのことを誤解していたの。ノーディアの会長が、まさかあなたのお母さんだとは思わなかっただけ。もう一度、やり直せるんじゃないかしらねえ」予想していた言葉だった。むしろ、言わない方がおかしい。この人たちは、そういう人たちなのだから。ただ、ここまであからさまだと、怒りより呆れが先に来る。「誤解していた」という言葉が、何を指しているのかを考えた。私の何を誤解していたのか。3年間、義母がしてきたことを振り返る。近所への噂。父への侮辱。お茶会でのあの言葉。寝室の解体。どれも「誤解」とは呼べない。全部分かって、やっていたことだ。ノーディアの会長が母だと知ったから、復縁したい。それは、誤解の訂正ではなく、単なる打算の表明だ。部屋の隅で、京子がゆっくりと立ち上がった。その顔には、怒りとも諦めともつかない、複雑な色がある。自分が知らなかった複数の女性の名前。義母が今口にした「やり直し」という言葉。何に怒っているのか、何に疲れたのか。その全部が一度に来たような顔だった。京子は、何も言わず、荷物を持って廊下へ出た。正司が「京子さん!」と呼んだが、足音は止まらない。玄関の扉が、静かに閉まる音がした。「ちょっと、京子さん。ちょっと!」慌てふためく義母を横目に、私は立ち上がる。日向を抱き直して、義母と正司を見た。「復縁は、お断りします」2人が、同時にこちらを向いた。「誤解していたから変わる。事情を知ったから、やり直したくなる。それは、私への気持ちではなく、ノーディアへの気持ちです。そんな理由でやり直せるほど、私は安くありません」「だ、でも、会社が!正司の会社が!」「正司さんの会社のことは、正司さんが考えてください。私には、もう関係のないことです」義母が、最後の抵抗のように叫んだ。「人脈を使って、あなたのお父さんの工房への発注を止めることだってできるのよ。そうなってもいいの?」母が、一歩前に出た。「工房への発注は、部下が直接行っています。松下さん。あなたに、それを止める権限はありません」義母の口が、開いたまま閉じなかった。私は、母の隣に並んだ。日向が、腕の中で小さく声をあげる。「最後に、一つだけ言わせてください。父の仕事を笑い話にして、近所に吹聴されたこと。私は、一生許しません。私の両親は、素晴らしい人たちです。私は、この両親の娘でよかった。心から、言えます」義母も、正司も、もう何も言わなかった。正司は、がっくりと膝を折り、頭を抱えた。義母も、涙を流しながら、顔をくしゃくしゃにする。私は背を向け、母と並んで玄関へ向かう。外に出ると、秋の風が頬を撫でた。併設住宅の屋根が、午後の光を受けて静かに立っている。「ここに、3年間いたのだ」と、今更実感した。長かったような、あっという間だったような。どちらでも良かった。足元の路地に、銀杏の葉が1枚落ちている。黄色く乾いた、小さな葉。踏まないようにして、その横を歩く。母が、隣を歩いている。言葉は、いらなかった。歩きながら、ふと思った。3年前、この道を初めて歩いた時、私は何を思っていただろう。新しい生活が始まるという、緊張と期待が確かにあった気がする。あの頃の自分に、今日のことを話したとしても、信じないだろう。だが、今の私は、ここにいる。日向を腕に抱いて、母の隣を歩いている。日向が目を覚まして、きょろきょろと空を見上げている。薄い水色の空に、白い雲がゆっくりと流れていた。日向の目が、雲を追っている。綺麗な目だと思った。

「母さん」「何?」「ありがとう」母は少し間を置いて、「どういたしまして」と言った。照れているのか、少しだけ顔をそらす。日向が、私と母の顔を見比べるようにして、口の端をわずかに上げた。笑ったのか、それとも気のせいか。釣られて、私たちも笑った。

その後の決着は、思っていたよりも早くついた。正司の不貞の証拠と、義母の継続的な嫌がらせの記録は、弁護士の手によって整理された。録音データの中には、お茶会での発言も、近所への誹謗中傷も、全て入っている。正司と京子への慰謝料請求、義母への精神的苦痛に対する損害賠償請求は、いずれも認められた。親権は、私に渡った。正司側の弁護士が経済的安定を主張しようとしたが、ノーディアカンパニー会長を祖母に持つ日向の養育環境に、裁判所は問題を見出せなかったという。加えて、母のサポート体制や、実家での養育環境も評価され、争うまでもなかった。

離婚から数ヶ月後、正司の会社は、事実上の経営破綻を迎える。ノーディアからの出資が絶え、京子の両親からの支援も得られなかった。その理由は、シンプルである。京子が、子供を産めない体質であることが、ついに両親に知れたのだ。京子が若い頃から男性関係が派手だったことは、ごく一部の人間しか知らなかった。その代償が、体に残っていたことを。京子は、長い間、誰にも言えずにいたらしい。また、過去の生活習慣や体調の影響で、婦人科系のトラブルを抱えたのだという。両親に知られれば、過去の素行がバレる上、出資の話が壊れる。正司との関係も終わる。そう思って、ずっと隠し続けてきた。しかし、全てが崩れた後、京子の口から真実が漏れた。両親は激怒し、出資は白紙になったという。正司と義母は、頼みの綱を2本同時に失った。義母は、息子の会社が潰れた後、狭いアパートへ引っ越した。近所への自慢話も、お茶会も、もうできない。3年間かけて丁寧に撒いてきた噂は、やがて自分自身へと帰ってくる。「神谷さんの奥さん、ひどい人だったらしい」という話が、広がっていった。正司と京子は、その後しばらくして別れたと聞いた。2人を繋いでいたものが、何だったのか。今となっては、分からない。

日向が1歳になった春。私たちは、父の工房の近くに小さな家を借りた。アトリエダーノへの出勤は、週4日のまま変わらない。今は、店長補佐という肩書きがついた。宮下さんが「神谷さんがいないと困るから」と言ってくれた日のことを、今でも覚えている。あの日、少しだけ泣きそうになって、日向の頭に顔を埋めてごまかした。日向は、よく笑う子になった。工房から帰ってきた父が抱き上げると、声を上げて笑う。その笑い声が、家中に広がる。父は毎回「日向、日向」と名前を呼びながら抱きしめ、母に「またデレデレして」と呆れられている。それが、いつもの夕方の光景だ。母は相変わらず忙しい。それでも、週に1度は必ず、日向の顔を見に来る。来るたびに「また大きくなった」と言って、日向の手を握る。日向はその度に、母の顔をじっと見上げる。2人の間に流れる空気が穏やかで、私は少し離れたところから、それを眺めるのが好きだった。ある夕方、父の作った椅子に腰かけて、日向に絵本を読んでいると、窓から夕日が差し込んできた。大きなオレンジ色の光が、部屋の中をゆっくりと染めていく。日向が、光の中に手を伸ばした。私は、今、本当に幸せだ。

Thumbnail