「本気で結婚できると思ってたの?」その言葉が、しんと静まり返った式場のロビーに響き渡った。純白のはずのウェディングドレスは、肩の辺りと裾が無惨に破れていた。会場の真ん中で、姉さんがひとりぽつんと立っている。手には自分で選んだのだろう小さなブーケ。それだけを、迷子の子供のように握りしめていた。
周りには招かれた人たちが何十人もいた。けれど、誰ひとりとして姉さんにかけ寄ろうとはしない。それどころか、口元をハンカチで隠して、くすくすと笑っている人さえいた。
俺は会場の入り口で足を止めたまま、動けなかった。手にしていたスマートフォンが汗で滑り落ちそうになる。頭の中が真っ白になった。あの日、俺をたったひとりで育ててくれた人。自分の幸せを全部後回しにして、俺を一人前にしてくれた人。その人が、今、これ以上ないほど惨めな姿で晒し者にされている。だが、この日が止まっていた俺たち兄弟の時間を動かすことになるなんて、この時の俺はまだ思ってもいなかった。
俺の名前は三浦蓮。三十八歳で、リアンフーズホールディングスという会社の代表取締役を務めている。全国のスーパーやコンビニに惣菜と弁当を卸す、いわゆる中食の会社だ。従業員は四千人を超え、年商は二千億円を上回るまでになった。一代でここまで大きくしたと、人からは言われる。雑誌の取材も受けるし、テレビに顔が出ることもある。だが、そんな肩書きを並べてみたところで、俺という人間の中身は空っぽに近い。妻もいない、子供もいない。仕事だけが俺の人生だった。
俺には、たったひとりだけ家族がいる。十歳上の姉、三浦しおりだ。両親は早くに亡くなった。物心ついた頃には、俺の世界には姉さんしかいなかった。今日の俺があるのは、何もかもその姉さんのおかげなのだ。それなのに俺は、長い間、姉さんが本当はどれほどのものを俺に差し出してくれていたのか、何ひとつ分かっていなかった。
俺の会社の名前、リアンというのはフランス語で「絆」という意味だ。社員にも取引先にも、深い意味はないと言ってある。語感がいいからつけたと。けれど本当は違う。たったひとりの家族との絆。それを忘れないために、俺はこの名前を選んだのだ。そのことは誰にも話したことがない。姉さん本人にも、まだ言えずにいた。
会社では、俺は家族のことを一切話さない。社員も取引先も、俺のことを叩き上げの孤独な経営者だと思っている。それでいいと思っていた。姉さんのことを、こんな欲望の渦巻く世界に巻き込みたくなかったからだ。ただ、俺の財布の中には、一枚だけ古い写真が入っている。俺が小学校に上がった頃、姉さんとふたりで近所の写真館で撮ってもらった、一枚切りの写真だ。当時の俺たちには、それすら贅沢だった。色褪せた写真の中で、若い姉さんが俺の肩に手を置いて、はにかむように笑っている。
ひとつ、子供の頃から繰り返し聞かされてきた話がある。俺の学費のことだ。俺は地方の国立大学を出て、その後自分で会社を起こした。決して安くない学費も、最初に会社を作った時の資金も、全てお母さんが残してくれたお金で賄えたと、俺はずっと信じてきた。「お母さんはね、蓮のためにちゃんとお金を残してくれたの。生命保険と、それからおばあちゃんから受け継いだ土地だから。蓮はお金のことは何も心配しないで、好きな道に進みなさい」姉さんはいつもそう言っていた。俺はその言葉を一度も疑わなかった。
母が亡くなった後、俺たち兄弟を引き取ろうという親戚はいなかった。母の葬儀が終わって何日かしたある日、親戚が集まって俺たちの今後を話し合う場があった。俺はまだ八歳で、隣の部屋で膝を抱えていた。襖の向こうから大人たちの声が漏れてくる。「下の男の子はまだ小さいから、施設に入れるしかないだろう」「上の子は高校出てるんだから、ひとりで働いて生きていけるさ」施設という言葉の意味は、子供の俺にも分かった。姉さんと離れ離れになる。そういうことだ。
俺は怖くて、声も出せずに震えていた。その時だった。襖が勢いよく開いて、姉さんが部屋に飛び込んできた。そして、大人たちの真ん中で畳に両手をついて、深々と頭を下げたのだ。「蓮は私が育てます。施設になんて絶対に入れません。この子は私が責任を持って一人前にします。だから、どうか、どうかふたりを引き離さないでください」十八歳の女の子が、畳に額を擦りつけるようにして、何度も何度も頭を下げていた。こうして姉さんは、十八歳で八歳の弟の親になった。
大学に行きたいという夢があったことを、俺はずっと後になって知った。姉さんは成績が良くて、先生からも奨学金で進学する道を勧められていたらしい。けれど、その夢を姉さんはあの日、一言も口にしなかった。ただ「蓮は私が育てます」と、それだけを繰り返したのだ。
俺たちの新しい暮らしは、古い木造アパートの一室から始まった。引っ越して最初の夜のことを、俺はよく覚えている。慣れない部屋で、俺は母が恋しくて布団の中でしゃくり上げていた。すると、姉さんが隣の布団から俺の布団に入ってきて、ぎゅっと抱きしめてくれた。「蓮、寂しいね。お姉ちゃんも寂しいよ」姉さんも泣いていたけれど、その腕は俺を離すまいと力強かった。「でもね、蓮、お姉ちゃんがいるからね。これからはお姉ちゃんがお母さんの代わりにずっとそばにいるから。だからもう大丈夫」姉さんはその夜ずっと、俺の背中をトントンと叩きながら、子守唄を歌ってくれた。
最初の頃は、本当に何もかもが手探りだった。姉さんは料理だってろくにできなかった。最初に作ってくれた味噌汁はしょっぱくて、とても飲めたものではなかった。卵焼きは真っ黒に焦げていた。それでも姉さんは、料理の本を図書館で借りてきて、夜中にこっそり練習していた。半年もする頃には、姉さんの作るご飯は驚くほど美味しくなっていた。特に肉じゃが。あれだけは母が作ってくれたものにそっくりだった。「姉ちゃん、これお母さんの味だでしょ」「お姉ちゃん、お母さんのノート見ながら何回も練習したんだから」母は料理のレシピを一冊のノートに書き残していた。姉さんはそれを何度も開いては、母の味を再現しようとしていた。
姉さんは昼間、スーパーで働いた。夜は近所の定食屋の皿洗いに出た。それでも足りなくて、家では内職をしていた。母が残した古いミシンを踏んで、夜遅くまで誰かに頼まれた服の直しをしていた。眠れない夜、俺は布団の中でそのミシンの音をいつも聞いていた。あの音は、今でも俺の耳に残っている。あれは姉さんが俺を食べさせるために、自分の眠りを削っていた音だ。
冬は特に辛かった。うちのアパートにはろくな暖房がなかった。電気代を浮かせるために、姉さんは自分は厚着をして我慢し、俺にだけ古い電気ストーブを使わせた。ある朝、目を覚ますと、俺の布団の上に姉さんの上着がもう一枚かけられていた。寒くないようにと。その分、姉さんは薄着のまま震えながら台所に立っていたのだ。
俺が中学に上がる頃には、姉さんはスーパーの仕事を辞めて、駅前の小さな食堂で働くようになっていた。川原食堂という、夫婦でやっている定食屋の小さな店だ。俺はその頃になってようやく、自分の家がよその家とは違うということに気づき始めた。同級生は親に買ってもらった新しいゲーム機の話をしていた。週末には家族で出かけた話をしていた。俺の家には、そのどれもなかった。
一度、こんなことがあった。クラスの何人かが、俺のすり切れた靴を指差してからかってきたのだ。「貧乏だ」「親がいない」と。俺は言い返せずに、ただ俯いていた。そのことを姉さんはどこからか聞きつけたらしい。次の日、姉さんは仕事を半日休んで俺の学校へやってきた。そして、からかってきた子たちの前で、にっこり笑ってこう言ったのだ。「うちの蓮は世界で一番優しい子なの。お洋服が古くたって、心は誰よりもピカピカなんだから。だからよろしくね」怒るのでも責めるのでもなかった。ただ、まっすぐにそう言った。その日から、不思議と誰も俺をからかわなくなった。
それでも俺は、惨めだとは思わなかった。姉さんがいつも笑っていたからだ。どんなに疲れていても、俺の前では姉さんは絶対に暗い顔を見せなかった。小学校の運動会の日も忘れられない。姉さんはその日だけは必ず仕事を休んでくれた。観客席の一番前で、誰よりも大きな声で俺の名前を叫んでいた。お昼には姉さんの作ったお弁当をふたりで食べた。他の家みたいに豪華なものは何もない。卵焼きとタコさんウィンナーとおにぎり。それだけの質素なお弁当だ。けれど、海苔は俺の好きなようにパリパリに巻いてあった。卵焼きはほんのり甘かった。「姉ちゃんの卵焼き、世界一うまい」「もう、大げさね。でもありがとう」照れたように笑う姉さんの顔は、秋の日差しの中で本当に綺麗だった。
中学三年の冬、俺は地元で一番の進学校を受験した。発表の日、俺の番号を見つけた瞬間、隣にいた姉さんが俺よりも先に声をあげた。「あった、蓮。あったよ。ほら、あんたの番号」姉さんは合格者の張り出された掲示板の前で、まるで自分が受かったかのように何度も飛び跳ねていた。その帰り道、姉さんは奮発してファミリーレストランに連れて行ってくれた。俺が一番高いハンバーグを頼むのを、姉さんはニコニコしながら見ていた。「姉ちゃんは頼まないの?」「お姉ちゃんはお腹いっぱいだから。蓮の食べてるのを見てるだけで十分」今思えば、姉さんは自分の分を節約していただけだったのだろう。
中学二年の時、俺は新聞配達のアルバイトを始めようとした。少しでも姉さんの助けになりたかったのだ。けれど、それを知った姉さんは、初めて俺を本気で叱った。「蓮の仕事は勉強よ。お金のことはお姉ちゃんが何とかする。あんたは自分の将来のことだけ考えてればいいの」「でも、姉ちゃんばっかり働いて、俺何もできないのが嫌なんだよ」「何もできないことなんてないわよ」姉さんは俺の頭にぽんと手を置いて、こう続けた。「蓮が元気でいてくれること。それがお姉ちゃんにとっては一番の助けなの。あんたがいてくれたら、お姉ちゃんはそれだけで頑張れるんだから」俺は結局、新聞配達を諦めた。その代わり、必死で勉強した。姉さんに楽をさせてやれる日が来るとしたら、それは俺がいい大学を出ていい仕事に着くことなのだと、子供なりに考えたのだ。
川原食堂には、よく顔を出す常連客がいた。シジさんという、無骨な大工さんだ。年は姉さんより少し上だった。仕事帰りにひとりで来ては、焼き魚定食を頼んで黙って食べて帰る。そういう人だった。シジさんは姉さんに優しかった。混んでいる時には自分から食器を下げてくれた。俺が食堂に夕飯を食べに行くと、シジさんはいつも自分の分の唐揚げをひとつ、俺の皿に乗せてくれた。「坊主、しっかり食って姉ちゃんを大事にしろよ」子供の俺の目から見ても、シジさんが姉さんのことを憎からず思っているのはなんとなく分かった。このふたりがいつか一緒になったら、姉さんも幸せになれるんじゃないか。子供心に俺はそんなことを思っていたけれど、その願いが叶うことは結局なかった。なぜそうならなかったのかを俺が知るのは、ずっと後のことだ。
俺が高校二年の冬のことだった。その日、俺はなんとなく胸騒ぎがして、まっすぐ家に帰った。アパートのドアを開けると、姉さんが玄関の上がり框に倒れていた。「姉ちゃん、おい、姉ちゃん」俺は慌てて駆け寄った。姉さんの顔は髪のように白く、額には脂汗が浮いていた。意識はあったけれど、立ち上がる力も残っていないようだった。救急車を呼ぼうとした俺の腕を、姉さんは弱々しく掴んだ。「だめ、救急車なんて、お金が…大丈夫だから、ちょっと休めば…」こんな時にまで、姉さんはお金の心配をしていた。俺はその手を振り払って、救急車を呼んだ。生まれて初めて、俺は姉さんの言うことを聞かなかった。
病院での診断は、過労と栄養失調だった。医者は呆れたような、痛ましいものを見るような顔で言った。「何年も無理を重ねた体だ。きちんと食べて休まなければ、本当に倒れて二度と起き上がれなくなる」詳しく話を聞いて、俺は言葉を失った。姉さんはここ数ヶ月、まともに食事を取っていなかったらしい。俺の弁当のおかずを少しでも良くするために、俺の参考書を一冊でも多く買うために、自分の食べる分を削っていたのだ。点滴につながれて眠る姉さんの腕は、驚くほど細かった。手の甲は水仕事で年中あかぎれだらけだった。爪は割れていた。まだ二十七歳の女性の手とは、とても思えなかった。
姉さんが入院している間、俺は生まれて初めて台所に立った。姉さんに少しでも栄養のあるものを食べさせたかったのだ。作ったおかゆはべちゃべちゃで、味噌汁は出汁の取り方も分からず、ただしょっぱいだけだった。それを病室に持っていくと、姉さんは一口食べてぷっと吹き出した。「何これ?ひどい味」そう言いながら、姉さんはそれを全部食べてくれた。「でも、世界で一番美味しいわ。蓮がお姉ちゃんのために作ってくれたんだもの」そう言って笑った姉さんの目には、また光るものが滲んでいた。
その夜、俺は心に刻んだ。いつか必ず立場を逆にする。姉さんに作ってもらうばかりじゃなく、俺が姉さんに美味しいものをお腹いっぱい食べさせてやれる人間になる。そう決めた俺は、翌朝、目を覚ました姉さんに告げた。「姉ちゃん、俺、高校やめる。働いて姉ちゃんを楽にさせる。もう姉ちゃんひとりに背負わせない」姉さんは点滴の針をつけたまま体を起こそうとして、今まで見たこともないほど厳しい顔で俺を見た。「何を言ってるの?絶対にだめ」「でも、このままじゃ姉ちゃんが死んじゃうよ。俺、姉ちゃんがいなくなったらどうすればいいんだよ」「いい?蓮、よく聞きなさい」姉さんは俺の手を両手でぎゅっと握った。その手は細いのに、驚くほど強かった。「お姉ちゃんがこんなに頑張ってきたのは、何のためだと思う?あんたを高校に行かせて、大学に行かせて、お姉ちゃんなんかよりずっといい人生を歩ませるためなのよ。それなのに、あんたがここで投げ出したら、お姉ちゃんのこれまでが全部無駄になっちゃう」姉さんの目から涙がこぼれた。「頼むから夢を諦めないで。お姉ちゃんの代わりにあんたが大きくなって。それがお姉ちゃんの夢なの。お願いだから、お姉ちゃんからその夢まで取り上げないで」俺は何も言えなくなった。姉さんにとって、俺が夢を諦めることは、自分の人生の全てを否定されることだったのだ。
「それにね、お金のことなら心配いらないの。前にも言ったでしょ?お母さんがちゃんと残してくれたお金があるんだから。だから蓮は自分のことだけ考えていればいいの」その言葉を、俺はまた信じてしまった。その時もし俺が一歩踏み込んで、「お母さんの遺産って本当にあるのか、通帳を見せてくれ」とそう言えていたら、きっと姉さんの嘘はそこでバレていただろう。けれど当時の俺はまだ高校生だった。姉さんの言葉を疑うなんてことはできるはずもなかった。姉さんは俺にとって、世界でたったひとりの信じられる大人だったのだから。
一年後、俺は地方の国立大学に合格した。合格通知を見せた時、姉さんは飛び上がって喜んだ。その夜、姉さんは赤飯を炊いてくれた。大学は家から通える場所ではなかったので、俺は一人暮らしをすることになった。入学金も授業料も一人暮らしの費用も、決して安くはない。俺がそれを心配すると、姉さんはいつものようにあっけらかんと言った。「言ったでしょ、お母さんが残してくれたお金があるって。だから大丈夫。蓮はお金のことなんて一切考えないで、思いっきり勉強しなさい」俺はその言葉を信じた。信じて、甘えた。
家を出る日、姉さんは駅のホームまで送ってくれた。電車のドアが閉まる間際まで、姉さんは笑顔で手を振っていたけれど、動き出した電車の窓から振り返ると、姉さんはもう手を振っていなかった。ひとりぼっちのホームで、口元を手で抑えて肩を震わせていた。大学に入ってからも、姉さんは毎月仕送りをしてくれた。それと一緒に必ず手紙が入っていた。「ちゃんと食べてる?」「風邪引いてない?」「無理しないでね」貧乏籤にびっしりと書かれた他愛ない言葉。けれど、その一枚一枚が俺の支えだった。仕送りの封筒は、いつも少しだけ膨らんでいた。中に姉さんのお手製の、欲しい模様のハンカチや布が入っていたからだ。
大学を出ると、俺は大手の食品会社に就職したけれど、三年でやめた。人に雇われているだけでは、姉さんに本当の意味で恩を返すことはできない。そう思ったのだ。俺は自分の会社を立ち上げることを決めた。中食、つまり出来合いの惣菜や弁当の分野だ。これからの時代、必ず伸びる。共働きの家庭が増え、一人暮らしの高齢者も増える。温かくて安くて栄養のある食事を手軽に届ける。それが俺のやりたいことだった。姉さんが俺のために毎日必死で作ってくれたあの温かいご飯。あれを世の中のお腹を空かせたみんなに届けたい。そういう思いも、どこかにあったのだと思う。
けれど、会社を作るにはまとまった元手がいる。当時二十五歳の俺に、そんな蓄えはなかった。銀行を回っても、実績のない若造に金を貸してくれるところなどどこにもなかった。俺が資金繰りに頭を抱えていると、姉さんから連絡が来た。「蓮、お金のことなら心配いらないわよ。お姉ちゃんの知り合いに、蓮の事業に出資してくれるっていう人がいるの」「そんな都合のいい話、本当にあるのか?怪しい相手じゃないだろうな」「失礼ね。ちゃんとした人よ。蓮の熱意を話したら、是非応援したいって。だからあんたは思いっきりやりたいことをやりなさい」こうして俺の手元には、会社を始めるのに十分な資金が用意された。俺はその出資者というのが誰なのか、一度も合わせてもらえなかった。姉さんは「向こうが表に出たくないって言ってるから」と言うばかりだった。おかしいとは思ったけれど、起業の準備に追われていた俺は深く考えなかった。
会社はゼロからのスタートだった。最初は俺を入れて社員三人。中古の厨房を借りて、毎晩翌日の弁当を仕込んだ。何度も潰れかけた。眠れない夜が何百回もあった。取引先に頭を下げ、断られ、それでもまた頭を下げた。会社を始めて三年目に、一番大きな危機が来た。ようやく取れた初めての大口の取引が、先方の都合で突然白紙になったのだ。仕入れた大量の食材が宙に浮いた。社員の給料も危なくなった。俺は初めて「もうダメかもしれない」と思った。その夜、誰にも言うつもりはなかったのに、気づけば姉さんに電話をかけていた。「姉ちゃん、俺、もう潰れるかもしれない。みんなに迷惑かけて、俺、社長なんて器じゃなかったんだ」「あんた、ご飯は食べた?」「は?」「こんな時に何を言うんだ」と思ったけれど、姉さんはいつもの調子で続けた。「お腹が空いてると、人間悪いことばかり考えちゃうのよ。だからまず何か温かいもの食べなさい。元気があれば、大抵のことはなんとかなるんだから」電話の向こうの変わらない声に、俺は不覚にも泣きそうになった。「大丈夫。蓮ならできる。お姉ちゃんは知ってるもの。あんたがどれだけ頑張ってきたか、神様はちゃんと見ててくれるから」その電話の後、俺はもう一度起き上がった。必死で新しい取引先を探した。何十社も回った。そして、ギリギリのところで一社がうちの弁当を扱ってくれることになった。会社は首の皮一枚で繋がった。あの時、姉さんの声がなければ、俺は本当に折れていたと思う。
会社を立ち上げて十年が過ぎた頃、俺の人生に大きな転機が訪れた。大手のコンビニチェーンとの全国規模の取引が決まったのだ。これで俺の会社リアンフーズは、業界でも名の知れた存在になった。年商は一気に千億円に迫る規模へと跳ね上がった。記者会見の日、会場には大勢のカメラマンが集まった。フラッシュを浴びながら壇上で俺は質問に答えたけれど、心ここにあらずだった。頭の中にはずっと、ある人の顔が浮かんでいた。姉さんにこの景色を見せたい。いや、見せるというよりも、伝えたい。あなたのおかげでここまで来られたと。
俺は会見が終わると、その足で姉さんのアパートへ向かった。築四十年のあの古いアパートだ。会社がどれだけ大きくなっても、姉さんは頑なに引っ越そうとしなかった。「姉ちゃん、俺、やったよ。大きな仕事が決まったんだ」「知ってるわよ。テレビでやってた。蓮が難しい言葉でスラスラ喋ってて、お姉ちゃんテレビの前で何回も巻き戻してみちゃった」姉さんは自分のことのように誇らしげに笑った。その時、棚の上の古いアルバムが目に入った。何気なく開いて、俺は息を飲んだ。そこには新聞や雑誌の切り抜きがびっしりと貼られていた。俺の会社が紹介された小さな記事。俺のインタビューが載った業界誌。テレビに映った俺を写真に撮ったものまであった。「姉ちゃん、これ…」「やだ、見ないでよ。お姉ちゃんの宝物なんだから」姉さんは恥ずかしそうにアルバムを取り上げた。「あんたの活躍が新聞に載るたびに、嬉しくってね。つい集めちゃうの。お姉ちゃんの自慢の弟だもの」俺の知らないところで、姉さんはずっと俺を見守り、誇りに思ってくれていた。
その夜、俺はずっと心に決めていたことを姉さんに切り出した。「姉ちゃん、今まで本当にありがとう。姉ちゃんがいなかったら、今の俺はいない。だからこれからは俺に恩返しをさせてほしい」俺は用意してきた封筒をテーブルの上に置いた。それは姉さんが一生かかっても使いきれないほどの金額だった。「これ、受け取ってくれ。それから、もう仕事もやめてもいい。新しいマンションも用意した。一番いい場所の一番いい部屋だ。これからは姉ちゃんが楽をする番だ。何不自由なく、好きなことだけして暮らしてほしいんだ」姉さんはその封筒をじっと見つめていた。そして、静かに首を横に振った。「気持ちはすごく嬉しい。本当よ。でも、受け取れないわ」「どうして。俺は姉ちゃんに楽をさせたくて、それだけのためにここまで頑張ってきたんだ。姉ちゃんにこれを受け取ってもらえないと、俺が頑張ってきた意味がなくなる」「うん。知ってる。ありがとう。蓮の気持ちは、痛いくらい分かってるの」姉さんは封筒をそっと俺の方へ押し戻し、優しく微笑んだ。「でもね、蓮。お姉ちゃんはもう、十分すぎるくらいもらってるのよ」「もらってる?俺は何も…」「うん。もらってるの。あんたがこんなに立派になってくれた。まっすぐ育って、人の役に立つ仕事をして、たくさんの人を笑顔にしてる。それをこうして近くで見られること。それがお姉ちゃんにとっては、何より大きなご褒美なの。お金もマンションもいらない。あんたが元気で幸せでいてくれたら、お姉ちゃんはそれで十分なのよ」俺はどうしても納得できなかった。姉さんは自分の青春も結婚も、全部俺のために諦めてきた。なのに、何の見返りも受け取ろうとしない。なぜ、こんなにも自分のことを後回しにできるのだろう。
後日、俺は姉さんを用意したマンションに連れて行った。高層階の見晴らしのいい部屋だった。「すごいわね。まるでテレビの中みたい」姉さんは窓の外に広がる景色を見て、ぽつりとため息をついた。「気に入っただろ?ここで暮らせばいい」けれど、姉さんはしばらくして静かに首を振った。「ありがとう。でも、お姉ちゃんにはここは広すぎるわ。ひとりでこんなところにいたら、寂しくて落ち着かないもの。お姉ちゃんはね、あの古いアパートで、あんたがふらっとご飯を食べに来てくれるのを待ってるくらいがちょうどいいの」俺は返す言葉がなかった。姉さんが欲しかったのは、立派な部屋でもお金でもなかった。ただ俺と過ごす、なんでもない時間。それだけだったのだ。なのに、その俺が仕事にかまけて、月に一度しか顔を出していなかった。
それから三年が過ぎた。俺の会社はさらに成長し、今では年商二千億円を超えるまでになっていた。相変わらず俺は仕事に追われる毎日を送っていた。ある日、姉さんから珍しく電話がかかってきた。声がいつもと違って、どこか弾んでいた。「あのね、蓮。お姉ちゃん、結婚しようと思ってるの」俺は一瞬、言葉を失った。受話器を持つ手が止まった。姉さんはもう四十八歳だった。今まで恋愛の話なんて、一度も聞いたことがなかった。それなのに、突然の結婚話。けれど次の瞬間、俺の胸に込み上げてきたのは純粋な喜びだった。「本当か?良かった。本当に良かった。姉ちゃん、ずっと願っていたことだったんだ」姉さんが自分のための幸せをようやく手に入れようとしている。誰かに守られて、大切にされて、女性としての幸せを掴もうとしている。これ以上嬉しいことはなかった。「相手はね、高野さんっていう立派な人なの。高野食品っていう食品会社の専務さんでね。優しくて、お姉ちゃんみたいなものにもよくしてくれるの」高野食品。その名前に、俺はかすかな引っかかりを覚えた。確か、うちの会社の取引先に同じ名前があったはずだ。だが、その時の俺は深く考えなかった。食品業界に高野という苗字の会社はいくつもある。よくある偶然だろうと。「こんな年になってお恥ずかしい話だけど、最後に一度くらい花嫁衣裳を着てみたいなって思っちゃってね」「恥ずかしくなんかない。姉ちゃんは誰よりも幸せになる権利がある。相手の人に、一度ちゃんと挨拶させてくれよ。俺が目いっぱいお祝いするから」「もちろん。落ち着いたら、ちゃんと紹介するから」電話を切った後、俺はしばらく窓の外を眺めていた。ようやく姉さんに本当の意味で恩を返せる日が来るかもしれない。盛大な結婚式を挙げてやろう。新居も何もかも、最高のものを用意してやろう。
だが、それから少しずつ、俺の中で小さな違和感が膨らんでいくことになる。まず、両家の顔合わせに俺は出席できなかった。ちょうどその時期、会社の最も大きな取引の更新がかかっていて、俺は身動きが取れなかった。「お仕事が一番大事だから、気にしないで。日取りはこっちで合わせるから」姉さんはそう言ってくれた。俺はその言葉に甘えてしまった。今でも悔んでいる。あの時、無理にでも時間を作って相手の家族に会っておくべきだったのだ。
たった一度だけ、俺は高野誠一という男と顔を合わせる機会があった。姉さんがしぶしぶ、という風に設けた短い食事の席だった。誠一はなるほど、見た目は悪くなかった。仕立てのいいスーツを着て、物腰も柔らかかった。「蓮さんのことは、しおりさんからいつも伺っています。立派な弟さんがいて、羨ましい限りです」隙のない笑顔だったけれど、俺はその笑顔の奥に何かこちらを値踏みするような冷たい光を感じ取った。長く商売をやってきた勘のようなものだ。握手をした手も、妙にひんやりとしていた。俺はその時確かに引っかかりを覚えた。この男は本当に姉さんを大事に思っているのだろうかと。だが、隣に座る姉さんが嬉しそうにしているのを見て、俺はその違和感を無理やり飲み込んだ。きっと気のせいだ。大事な姉を取られる弟の、つまらない嫉妬だろうと。
顔合わせの後、姉さんの様子が少しおかしくなった。電話の声に、以前のような弾みがなくなった。会いに行くと、明らかに痩せていた。頬がこけて、目の下には濃い隈ができていた。「姉ちゃん、ちゃんと食べてるか?なんだかやつれて見えるけど」「やだ。そんなことないわよ。結婚の準備でちょっと忙しいだけ」そう言って笑う姉さんの笑顔は、どこか無理をしているように見えた。それに、気になることがあった。姉さんがお金のことを口にするようになったのだ。「ねえ、蓮。お姉ちゃんのあの古いアパートとか、お母さんから引き継いだものとか、ああいうのって、まとまったらいくらくらいになるのかしらね」「急にどうしたんだ?金が必要なのか?だったら俺が…」「うん。なんでもないの。ちょっと気になっただけ。蓮には関係ないことだから」姉さんは慌てたように話をそらした。結婚式のこともそうだった。弟として、俺は当然式の費用くらいは持つつもりでいた。盛大に祝ってやりたいと。けれど、姉さんを通して伝えられた高野の家の返事は、紋切り型のものだった。「式のことは高野さんの方で全部取り仕切るからって。蓮はお仕事もお忙しいでしょうし、当日少し顔を出してくれるだけでいいって」「でも、姉ちゃんのたったひとりの弟だぞ。何もさせてもらえないのか?」「ごめんね。向こうにも向こうの都合があるみたいで」俺は納得できなかった。普通、嫁ぐ側の身内をこんなに遠ざけるものだろうか。まるで、俺という存在を最初から締め出そうとしているかのようだった。
もうひとつ、気づいたことがあった。ある日、姉さんのアパートを尋ねた時、部屋の隅にあったあるものが消えていたのだ。母の形見のあの古いミシン。姉さんが内職で俺の服を縫い、家計を支えてきた大事なミシン。それがなくなっていた。「姉ちゃん、ミシンはいつもそこにあったやつ…」「あ、あれね。古くなって動かなくなっちゃったから、処分したの」姉さんは目を合わせずにそう言った。俺は嫌な予感がした。あれだけ母の形見を大事にしていた姉さんが、簡単に手放すはずがない。きっと、お金に変えたのだ。胸がざわついたけれど、俺はそれ以上問い詰めることができなかった。
何度かそれとなく結婚相手のことを聞いてみたけれど、姉さんはのらりくらりとはぐらかすばかりだった。まるで、俺をその相手から遠ざけようとしているかのように。一度だけ、思い切って聞いたことがある。「姉ちゃん、あの高野って人、本当に信用できる相手なのか?何か困ってることがあるなら、俺に言ってくれよ」「大丈夫。心配いらないわ。お姉ちゃんの初めてのわがままなの。これくらい、ひとりでやり遂げたいのよ」わがまま。生まれてこの方、わがままなんてひとつも言ったことのない姉さんが、初めて口にしたその言葉。それが俺の追求を止めてしまった。けれど本当は違った。あれはわがままなんかじゃなかった。姉さんはただ必死で、俺を巻き込まないようにしていただけだった。
姉さんの異変をこれ以上見過ごすわけにはいかなかった。俺は無理やり一日だけ予定を開けて、姉さんの周りのことを調べてみることにした。まず向かったのは、姉さんが長年働いていたあの川原食堂だ。店はまだ続いていたけれど、姉さんが世話になった老夫婦はとうに引退して、今は姉さんの古くからの友人だという、みすずさんという女性が切り盛りしていた。俺が名乗ると、みすずさんは驚いた顔をした。「あなたが蓮君。しおりからいつも聞いてるわ。立派になったって。それはもう自慢の弟だって」みすずさんは俺を奥の席に座らせ、お茶を出してくれたけれど、その表情はどこか曇っていた。俺が姉さんのことを切り出すと、みすずさんはしばらく迷った後、重い口を開いた。「蓮君、あなたに言うかどうか、ずっと迷ってたの。しおりには口止めされてたから。蓮には絶対に言わないでって」「何をですか?姉に何があったんですか?」「お金よ。よりによって、あの高野って家に、随分なお金を渡してるみたいなの」俺は息を飲んだ。みすずさんの話はこうだった。結婚の準備が進むにつれて、高野の家は姉さんに次々とお金を要求してきたという。両家の顔を揃えるための支度金、新居の費用、誠一さんの事業への援助。姉さんはコツコツと貯めてきた涙なしの貯金を全部はいた。それでも足りずに、あの古いアパートを引き払うことまで考えていたらしい。「なんで?なんで俺に言わないんだ?俺に言えば、金なんていくらだって…」「言えるわけないでしょ」みすずさんは、少し怒ったような、泣きそうな声で言った。「しおりはね、こう言ってたのよ。蓮はあんなに大きな会社の社長なんだ。私のことで、あの子の名前に傷がついたら困る。取引先に変な噂が立ったら、あの子の会社の何千人もの社員さんが迷惑するかもしれない。だから、これは私ひとりでなんとかするって」俺は言葉を失った。こんな時にまで、姉さんは俺のことを、俺の会社のことを守ろうとしていたのだ。自分が食い物にされているというのに。
みすずさんは目尻を拭いながら続けた。「しおりはね、自分のことになると、本当バカみたいにお人好しなの。昔からずっとそう。自分のことはいつも一番後回し。あの子の人生は、全部あなたのためにあったようなものよ」みすずさんはお茶を啜ってから、こんな話もしてくれた。「この前ね、しおりが珍しくお酒を飲んだの。そしたら、ぽろっとこぼしたのよ。私の人生って、何だったんだろうって。すぐにごめんごめん、変なこと言ってって笑ってたけど、あんなに弱気なしおり、私、初めて見た。あの子、本当は限界だったんだと思う。でも、あなたには絶対に言えなかったのよ。あなたに心配かけたくない。あなたの会社に迷惑をかけたくない。その一心で、全部ひとりで抱え込んで…バカよね、本当に」俺はテーブルの下で拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込んだ。
店を出ると、俺はもうひとり、会わなければならない人のことを思った。シジさんだ。シジさんは今も同じ町で、小さな工務店を営んでいた。突然訪ねてきた俺を見て、シジさんはすぐに誰だか分かったようだった。「おう、でっかくなったな」昔と変わらない、無骨な声だった。俺が姉さんの結婚のことを話すと、シジさんの顔がみるみる険しくなった。作業の手を止めて、長い間黙り込んだ。そして、ぽつりとこう言った。「俺はな、坊主、二十年前にしおりさんに結婚を申し込んだことがあるんだ」俺は自分の耳を疑った。「ちょうどお前が大学に行く頃だった。俺はしおりさんに惚れてた。あの人と家庭を持ちたかった。お前のことも一緒に、本当の家族として支えていく、そのつもりだった」「姉は…」「なんて、断られたよ」シジさんは寂しそうに笑った。「しおりさんはこう言ったんだ。蓮を一人前にするまでは、自分の幸せを考えるわけにはいかないんですって。あの子が一人立ちするまで、私はあの子の親でいなきゃいけないんですって。だから俺は引き下がった。あの人の覚悟を、邪魔しちゃいけないと思ってな。それからずっと、ひとり身さ」俺はその場に立ち尽くした。姉さんは、シジさんというあんなにも優しい人の手を、俺のために振り払っていたのだ。自分の幸せを丸ごと、俺のために投げ捨てて。俺がのうのうと大学に通っていたあの頃、姉さんはたったひとりで、自分の女としての幸せを諦めていた。「しおりさんを頼む。あの人は、幸せにならなきゃいけない人だ。これ以上、あの人が誰かのために自分をすり減らすのを見ていられねえんだ」シジさんのささくれだった手が震えていた。俺は深く頭を下げた。
その日、会社に戻ると、俺はすぐに秘書の霧谷を呼んだ。「高野食品について、徹底的に調べてくれ。会社の経営状態、それから専務の高野誠一という男の身辺だ。至急で頼む」数日後、霧谷が持ってきた報告書を見て、俺は愕然とした。高野食品。それはまさに、うちの会社が年間三百億円もの取引をしている、あの取引先だった。よくある同名の会社などではなかったのだ。今まさに契約更新の交渉をしている、その相手だった。俺は報告書を手にしたまま、しばらく声も出なかった。なんという皮肉だろう。姉さんを食い物にしようとしているその家。その一族が経営する会社の息の根を握っているのが、他でもないこの俺だったとは。高野の家は、姉さんの弟が誰なのかをまるで知らなかった。姉さんが決して俺のことを自慢げに語らなかったからだ。「弟は食品関係の会社で働いている」姉さんはいつも、そうとだけ言っていたらしい。本当のことを言えば、相手がお金目当てにすり寄ってくる。それを姉さんは恐れていたのかもしれない。
そして、その高野食品の経営は火の車だった。表向きは立派でも、内側はいくつもの不正に手を染めなければ回らないところまで来ていた。さらに、高野誠一という男には、過去に資産のある女性に近づいては金を引き出してきたという黒い影があった。婚約までこぎつけて、相手から金を引き出すだけ引き出すと、何やかんやと理由をつけて姿を消す。そういう手口を何度も繰り返してきたらしい。姉さんは、その毒牙にかけられようとしていた。俺はすぐに顧問弁護士の早見を呼んだ。報告書を見せると、早見は眼鏡の奥の目をすっと細めた。「これはひどいですね。高野食品の不正の方は、御社の品質監査の記録と突き合わせれば、契約解除の正当な理由として十分に通ります。むしろ、これを知って取引を続ける方が、御社の責任を問われかねません」「姉が騙し取られた金は?」「取り返しましょう。証拠は揃っています。結婚詐欺、それに不当な金銭の要求。相手がどれだけ言い逃れしようと、こちらにはこれだけの材料がある」早見は書類をとんとんと揃えた。「ただ、社長。ひとつだけ確認させてください。これは感情に任せて相手を潰すための動きではない。あくまで不正を正し、被害者を救うための正当な手続きです。そのことだけは、ぶれないように」「分かってる。俺が許せないのは不正だ。そして、その不正でたったひとりの家族が傷つけられたことだ」俺の声は、自分でも驚くほど低く、静かだった。
高野の家のことを調べるうちに、俺の中で、もうひとつずっと目をそらしてきた疑問が頭をもたげていた。姉さんが電話で口にしたあの言葉だ。「お母さんから引き継いだものとか、まとまったらいくらになるかしら」俺はふと思い出した。俺の学費も起業の資金も、全て「母さんが残してくれたお金」だと姉さんは言っていた。生命保険と、祖母から受け継いだ土地だと。俺は霧谷に、もうひとつ調べ物を頼んだ。実家の昔の土地の記録だ。合わせて、姉さんのこれまでのお金の流れも。出てきた事実は、俺の足元を根こそぎ崩すものだった。古い登記の記録。そこには、両親が残した土地が二十年前に売られたことが、はっきりと記されていた。相手の名前も、売った日付も。それは、俺が大学に入学したまさにその春だった。さらに、霧谷は言いにくそうにもう一枚の書類を差し出した。ある信用金庫の古い融資の記録。借り入れたのは、三浦しおり、つまり姉さんだ。金額は俺の大学四年分の学費と、起業の時の資金を合わせた額と、ぴったりと重なっていた。そして、その返済はまだ続いていた。毎月、決して多くない額が、姉さんの口座からコツコツと引き落とされていた。二十年間、一度も途切れることなく。
俺は何も言えなかった。両親が残した土地は確かにあったけれど、それが売られたのは二十年前。ちょうど俺が大学に入ったあの年だった。売っていたお金は、決して大きな額ではなかった。そして、両親が残したのは財産だけではなかった。母が長い入院で作った医療費の借金。それも一緒に残されていた。生命保険など、ほとんどないに等しかった。では、俺の大学の費用は、一人暮らしの仕送りは、会社を作ったあのまとまった資金は、あれは一体どこから出ていたのか。答えは、ひとつしかなかった。全部、姉さんだったのだ。姉さんは両親の土地を売り、その借金を返し、それでも足りない分を自分の名前で借金をして工面していた。出資者などというのは、最初からいなかった。表に出られなかったのではない。出せる人など、存在しなかったのだ。姉さんは自分の稼ぎをギリギリまで切り詰めて、その借金を二十年かけてコツコツと返してきた。今も、まだ返し終わっていなかった。俺が夢だなんだと好きなことをやってこられたのは、会社を大きくして社長だと持て囃されてきたのは、その一切合切が、姉さんが自分の人生を切り売りして作ってくれた土台の上に乗っかっていただけだった。
その夜、俺はいても立ってもいられず、姉さんのアパートを尋ねた。姉さんは夜勤の焼き飯で、ちょうど出かけたところだった。俺は勝手に部屋に入った。古いタンスの一番下の引き出し。その奥に、それは変わらずしまわれていた。色褪せた母の形見の巾着袋。震える手でその中を開けた。入っていたのは、一通の古い手紙だった。封筒は長い年月ですっかり黄ばんでいた。何度も読み返したのだろう、折り目が柔らかくなっていた。俺はその手紙を開いた。母の丸っこい、優しい字が並んでいた。「しおりへ。お母さんはもう長くないみたいです。あなたにこんな重いものを背負わせて、本当にごめんね。蓮のこと、よろしくお願いします。でも、しおり、これだけは約束して。あなたはあなた自身の幸せを一番に生きなさい。蓮のために、あなたの人生を全部使ってしまわないで。あなたにはあなたの人生があります。好きな人と結ばれて、笑って幸せになる権利がちゃんとあるの。お母さんはあの世から、それだけを祈っています。しおり、あなたが笑っていてくれること。それがお母さんの一番の願いです」俺はその場に崩れ落ちた。母は姉さんに、自分の幸せを生きてほしいと願っていた。弟のために全てを犠牲にしないでほしいと、頼んでいた。それなのに姉さんは、母の願いに三十年背き続けてきたのだ。母のお願いを、たったひとつだけ聞かなかった。自分の幸せを後回しにし続けることで。全ては、俺のためだった。俺は声をあげて泣いた。子供の頃ですら、こんな風には泣かなかった。大の大人が、誰もいない部屋でひとりで、わあわあと泣いた。手紙を何度も何度も読み返した。読むたびに、姉さんのこれまでの人生が目の前に浮かんでくる。畳に額を擦りつけて俺を引き取ると言った十八歳の姉さん。ミシンを踏み続けた夜。あかぎれだらけの手。シジさんの差し出した手を、俺のために振り払ったその背中。姉さんはこの手紙を三十年間、肌見放さず持っていた。母の願いを知らないわけがなかった。それでも毎日この手紙を読み返しながら、姉さんは自分の幸せを後回しにし続けたのだ。母さんに申し訳ない。そう思い続けながら、それでも俺を選び続けた。
涙が枯れる頃、ようやく俺の腹は決まった。もう迷わない。姉さんをあの男から、あの家から必ず引き離す。そして、姉さんが奪われたものを、ひとつ残らず取り返す。それが俺にできる、たったひとつの本当の恩返しだ。これまで俺は姉さんにお金や家を押し付けることばかり考えていたけれど、姉さんが本当に俺にしてほしかったこと、それはきっと、こういう時にちゃんと駆けつけて、隣に立つこと。ただそれだけだったのだ。
結婚式の当日だった。その日は、あの高野食品との三百億円の契約更新の最終判断の日と重なっていた。俺は朝からその準備に追われていた。姉さんからは「身内だけのささやかな式だから、蓮は仕事を優先して」と言われていた。だが、俺はもう決めていた。判断は待たせる。何を置いても式に駆けつけ、姉さんをあの家から連れ戻す。そう思っていた、まさにその時だった。みすずさんから電話がかかってきた。「蓮君、大変なの。式にすぐ来て。しおりが、しおりがひどい目に遭って…」俺は全てを放り出して、車に飛び乗った。車を走らせながら、俺は秘書の霧谷と顧問弁護士の早見に、すぐ式場へ来るよう指示を飛ばした。高野の不正をまとめた資料も、全て持ってくるようにと。
式場についた俺が見たのは、あの忘れられない光景だった。広いロビーの真ん中で、姉さんがひとり立っていた。純白のはずのドレスは、肩と裾が無惨に破れていた。その周りを、招かれた高野の家の人間たちが取り囲み、くすくすと笑っていた。そして、その中心にいた年配の女性、誠一の母親の君江が、姉さんを見下ろしてこう言い放ったのだ。「本気で結婚できると思ってたの?あなたみたいな給食のおばさんが、うちみたいな家に入れるわけないでしょ。あなたのお金はありがたく使わせてもらったわ。でもね、それとこれとは別の話。誠一にはちゃんと釣り合いの取れたお相手がいるの。あなたはただの繋ぎよ。いい思い出になったでしょ」姉さんは何も言い返せずに、ただ俯いていた。その肩が、小さく震えていた。俺の背後で、みすずさんが声を押し殺して教えてくれた。「ひどいのよ。しおりが用意していた花嫁衣裳を、わざと汚れたものにすり替えて。それで転んだしおりを、寄ってたかって笑って。誠一って男は、最初から別の女の人と式を挙げるつもりだったの。しおりは、お金を引き出すための道具にされてたのよ」俺の頭の中で、何かが音を立てて切れた。だが、ここで取り乱してはいけない。俺はありったけの冷静さを掻き集めた。そして、ゆっくりとその輪の中へ歩み出た。「姉さん」俺の声に、姉さんがはっと顔をあげた。そして、俺を見るなり悲鳴のような声をあげた。「だめ、来ちゃだめ。お願いだから帰って。あんたがこんなところにいるのを見られたら…」こんな時でさえ、姉さんは俺の心配をしていた。俺は姉さんにそっと自分の上着をかけた。破れたドレスの肩を隠すように。高野の家の人間たちが、不審そうに俺を見ていた。君江が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「何?あなた、この人の身内?弟さんだったかしら?食品関係の会社で働いているんですって。まあ、せいぜいこういう時くらいしか役に立たないわよね」その時だった。会場の隅で、招待客のひとりが俺の顔を見て、さっと青ざめた。高野食品のメインバンクの支店長、沢田さんだった。彼は慌てて奥にいた誠一の父親、会長の元へ駆け寄り、何かを耳打ちした。高野の会長の顔から、みるみる血の気が引いていった。「君江、やめろ。その人は…」だが、もう遅かった。俺は懐から一枚の名刺を取り出し、君江の前に差し出した。「申し遅れました。リアンフーズホールディングス代表取締役の三浦蓮と申します。三浦しおりは、私の姉です」君江の表情が凍りついた。リアンフーズ。それは高野食品が、その経営の全てを首の皮一枚で繋いでいる最大の取引先。年間三百億円の発注で、高野食品を生かしている命綱そのものだった。「高野の会長。今日、判断予定だった三百億円の契約ですが」俺は会長をまっすぐに見据えていった。「あの契約は、即中止だ」会場が、しんと静まり返った。誠一が青い顔で駆け寄ってきた。「ま、待ってください。それは困ります。その契約がなくなったら、うちは…」「それはこちらのセリフだ」俺は霧谷から受け取った分厚い資料を、テーブルの上に叩きつけるように置いた。「本社の製品と偽った外国産の食材。書き換えられた消費期限。改ざんされた検査データ。うちの品質監査で、全て把握している。こんな会社と、これ以上取引を続けられると思うか?」誠一の顔が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまでの余裕の笑みは、跡形もなく消えていた。「そんな、蓮さん、待ってください。話せば分かります。私はしおりさんのことを、本当に…」すがりつこうとする誠一の手を、俺は静かに振り払った。「気安く姉の名前を呼ぶな」低い声だったけれど、誠一はびくっと肩を竦め、それ以上何も言えなくなった。「それから、高野誠一。あなたがこれまで何人もの女性から、結婚を餌に金を巻き上げてきたことも、調べはついている。今日ここに、私の顧問弁護士も来ている。姉から騙し取った金。そして、御社の不正については、これから法に乗っ取ってきっちりと責任を取ってもらう」俺の言葉に合わせて、弁護士の早見が静かに前へ出た。名刺を差し出された誠一の父、会長の額には、玉のような汗が吹き出していた。「ま、待って。これは何かの間違いよ。うちは何も悪いことなんて…」「間違いか。では、この改ざんされた検査データも、間違いだと?」俺が資料の一枚を突きつけると、君江は言葉を失った。招待客たちが、ざわざわと騒めき始めた。高野の家の顔を見せつけるために集められた取引先や地元の名士たち。その人々が、今や化けの皮が剥がれた一家を白い目で見ていた。さっきまでハンカチで口を隠して笑っていた女性たちも、気まずそうに目をそらしている。
その時、人だかりをかき分けて、ひとりの女性が姉さんに駆け寄った。姉さんに、俺を呼ぶよう知らせてくれたみすずさんだった。「しおり、大丈夫?もう大丈夫だからね」みすずさんは姉さんの破れたドレスを、自分の上着でさらに覆い隠した。そして、高野の家の人間たちをきっと睨みつけた。高野の家の人間たちは、もう誰も笑っていなかった。君江は、その場にへなと座り込んだ。俺は、姉さんの方を振り返った。姉さんは、信じられないというような顔で俺を見ていた。そして、必死で俺の腕にすがりついた。「蓮、だめよ。お願い。契約を切るなんて。あなたの会社の社員さんが困るでしょ。取引先を市場で切ったなんて知られたら、あなたが悪く言われる。私のことなんかで、あんたの会社を危なくしないで」こんな目に遭わされてもなお、姉さんは俺のことを案じていた。俺は姉さんの両肩を静かに掴んだ。「姉ちゃん。これは私情で会社を動かしているんじゃない。不正をしている取引先を切るのは、社長として当たり前の正しい判断だ。社員もお客さんも、それで守られる。だから何も心配いらない」それから、俺は言った。「それに、姉ちゃん。俺はもう、全部知ってるんだ」姉さんの目が見開かれた。「俺の学費も、起業のお金も、全部姉ちゃんが自分の人生を削って作ってくれたものだってこと。お母さんの遺産なんて、なかったってこと。シジさんのプロポーズを、俺のために断ったってこと。全部、知ってるんだ」姉さんの顔が、くしゃりと歪んだ。俺はポケットからあの母の手紙を取り出した。そして、姉さんの震える手に握らせた。「母さんは、姉ちゃんに言ってたじゃないか。自分の幸せを一番に生きなさいって。なのに姉ちゃんは、それだけ聞いてくれなかった。三十年間、ずっと。もういいんだよ。今度は俺が姉ちゃんを守る番だ。だから、もう自分の幸せを後回しにしないでくれ。頼むから」姉さんの目から、こらえていた涙が一気に溢れ出した。「蓮、蓮、ごめんね。ごめん」姉さんは母の手紙を胸に抱いて、子供のように泣きじゃくった。俺はそんな姉さんを、ただ強く抱きしめた。広い会場は、水を打ったように静まり返っていた。あれほど姉さんを笑っていた人々は、もう誰ひとり声を出さなかった。俺は泣きじゃくる姉さんの肩をそっと抱いて、立ち上がらせた。「姉ちゃん、帰ろう。こんなところ、もういる必要はない」姉さんは、こくりと頷いた。俺は姉さんを支えながら、ゆっくりと出口へ向かって歩き出した。みすずさんが、すぐ後ろに続く。早見が、最後の事務的な話を高野たちに告げているのが背中で聞こえた。招かれた客たちが、道を開けるように左右に別れていく。惨めに俯いてこの会場に立っていた姉さんが、今は弟に支えられて、まっすぐに前を向いて歩いている。それだけで、俺には十分だった。三十年。長すぎた三十年だった。ようやく、俺たちの止まっていた時間が動き出した気がした。
あの日から、高野の家は坂を転がり落ちるように、全てを失っていった。リアンフーズとの三百億円の契約が白紙になったことで、高野食品はあっという間に立ち行かなくなったのだ。それまで不正をしてまで隠してきた経営の傷が、一気に表に吹き出した。原産地偽装、検査データの改ざん。それらが明るみに出ると、他の取引先も次々と高野の食品から離れていった。会社はほどなくして、倒産した。姉さんがあれほど心配していた俺の会社のことは、何の問題もなかった。不正をしている取引先を切ったことは、むしろ世間から評価された。消費者の安全を第一に考える会社だと。新しい仕入れ先も、すぐに見つかった。リアンフーズは、これまで通り、いやこれまで以上に順調だった。社員たちは事情を知ると、口々に言ってくれた。「社長が身内のためにあそこまで本気になるなんて」「うちの社長は義理人情に熱い人だって、改めて惚れ直しました」姉さんを助けたことで、俺は何ひとつ失わなかった。それどころか、大切なものを取り戻したのだ。
高野誠一は、姉さんを含む複数の女性から金を騙し取っていたことの責任を問われることになった。顧問弁護士の早見が、きっちりと手を尽くしてくれた。姉さんが渡したお金は、最後の一円まで取り返した。それともうひとつ、俺は人をやって、姉さんがこっそり手放していた母の形見のミシンを探させた。質屋の片隅で、それは見つかった。買い戻すのに大した金はかからなかったけれど、俺にとってはどんな取引よりも大切な仕事だった。そのミシンを姉さんの部屋に運び込んだ時、姉さんはそれを見て口元を抑え、声もなく涙を流した。「手放したことを、ずっと悔んでいたの。ありがとう。お母さんに合わせる顔がなかったの。これでやっと…」あの古いミシンは、もう動かないかもしれない。それでも、姉さんにとっては亡き母と心を繋ぐ、掛け替えのない宝物だったのだ。
俺は、姉さんをあの古いアパートから連れ出した。さすがにもう、頑固を通すことはしなかった。姉さんは俺の用意した日当たりのいいマンションに移ってくれた。引っ越しの日、荷物は本当に少なかった。あの古いミシン。母の形見の巾着袋。そして、縁の塗装がはげた五百円の手鏡。それくらいのものだった。姉さんは新しい部屋の窓辺に、その手鏡を静かに置いた。「ねえ、蓮。お姉ちゃん、まだ信じられないの。自分のために、こんな広い部屋で暮らしていいなんて」「いいんだよ。当たり前のことなんだ。今まで姉ちゃんが我慢しすぎただけ」姉さんは少し照れたように笑った。その顔から、長い間張り付いていた苦労の影が、少しずつ薄れていくようだった。
それからの姉さんは、少しずつ変わっていった。あんなに堅物だったのに、俺が「たまには自分のために何か買えよ」と言うと、初めて自分用の柔らかなカーディガンを買ったりした。長年行ってみたかったという温泉にも、連れて行った。電車の窓から景色を眺める姉さんは、まるで子供のようにはしゃいでいた。「お姉ちゃん、こんなにのんびりしていいのかしら。なんだか悪いことしてるみたいで、落ち着かないわ」「いいんだよ。今までの分、これからいっぱい楽しめばいい」給食の仕事も、無理のない範囲で続けることにした。それが姉さんの生きがいだったからだ。ただ、もう体を壊すほど無理をすることはなくなった。お互いに、ふたりで食事をしている時、姉さんがぽつりと言った。「ずっと黙っててごめんね。お母さんの遺産の話も、出資の話も、全部嘘ついて。あんたに余計な気を使わせたくなくて」「謝るのは俺の方だよ。気づいてあげられなくて、ごめん。姉ちゃんにこんなに背負わせて」「うん。お姉ちゃんは、後悔なんてひとつもないの。ただね」姉さんは少し間を置いて続けた。「こうやって、あんたとゆっくりご飯を食べられるなんて。お姉ちゃん、夢みたい。これだけでも、十分すぎるくらい幸せよ」その言葉に、嘘はなかった。俺たちは長い遠回りをして、ようやく当たり前の兄弟の時間を取り戻しつつあった。
それからしばらくして、俺はシジさんを姉さんのところへ連れて行った。二十年ぶりに顔を合わせたふたりは、最初お互いに何も言えずにいた。気まずそうに目をそらして。けれど、その横顔には確かに、若い頃の面影が残っていた。先に口を開いたのは、シジさんの方だった。「しおりさん、あんた、ずっとひとりで頑張ってきたんだな。俺は何も力になれなくて、すまなかった」「そんな、シジさんは何も悪くないわ。断ったのは、私だもの」「いや、俺がもっとしつこく食い下がってりゃよかったんだ。あんたを、ひとりにしちまった」姉さんの目が、潤んだ。シジさんは、ぽつりとこう続けた。唐揚げを俺の皿に乗せてくれたあの頃と同じ、無骨な声で。「なあ、しおりさん。今度こそ、俺にあんたを支えさせてくれないか?蓮君ももう、立派になった。あんたが自分の幸せを考えても、いい頃だろう」俺は気を利かせて、その場を離れた。後で、シジさんがこう言ったのを覚えている。「あの人の手が、昔よりもっとゴツゴツしてた。それを見たら、俺はもうたまらなくなっちまってな。しおりさんをもう一度幸せにしたい。今度こそ、隣で支えさせてほしい」シジさんは不器用に、けれどまっすぐに、姉さんにその気持ちを伝えたそうだ。
あれから二年が過ぎた。柔らかな春の日差しが、小さな教会のステンドグラスを通して注いでいた。その日、姉さんは五十歳にして、もう一度ウェディングドレスを着た。今度のドレスは、どこも破れてなどいなかった。真っ白で、姉さんによく似合っていた。隣には、緊張で顔を真っ赤にしたシジさんが立っていた。招待客はごくわずかだった。みすずさんと、川原食堂の常連だった人たち。シジさんの工務店の仲間。そして、俺。大きな式ではなかったけれど、そこにいる全員が心からふたりを祝福していた。あの、見せかけだけの冷たい式とは、何もかもが違った。牧師の前で、シジさんは緊張で声を上ずらせていた。「俺は、あ、いや、私は、しおりさんを一生大事にします。もう二度と、この人に寂しい思いはさせません。この人が笑って過ごせるように、残りの人生を全部使います」ぎこちない、不器用な誓いだったけれど、その一言一言がまっすぐで、その場にいた全員の胸を打った。みすずさんは、もうぼろぼろと泣いていた。誓いの言葉の後、姉さんはこらえきれずに涙をこぼした。シジさんがその涙を、大きな手で不器用に拭った。俺は一番後ろの席で、その光景を眺めていた。姉ちゃんは、やっと自分の幸せを生き始めたよ。あの手紙の願いが、三十年と二年の時を超えて、ようやく叶ったのだ。
ささやかな披露宴は、川原食堂を貸し切って開かれた。姉さんが長年働いてきた、思い出の場所だ。俺は弟として、短い挨拶をした。大勢の前で話すのは仕事で慣れているはずなのに、その時ばかりは、声が震えた。「姉は、私の親代わりでした。自分の青春も夢も、全部私のために捧げてくれた人です。今日、その姉がようやく自分のための幸せを掴みました。シジさん、どうか、どうか姉をよろしくお願いします」深く頭を下げた俺に、シジさんは力強く頷いてくれた。集まった人たちは、みんな姉さんがどれだけ苦労してきたかを知っている人たちだった。だからこそ、その幸せを心から喜んでくれた。あちこちで、すすり泣く声が聞こえた。式の後、姉さんが俺のところへやってきた。「蓮、今日は本当にありがとう。あんたがいなかったら、お姉ちゃん、今日という日を迎えられなかった」「礼を言うのは、俺の方だよ。姉ちゃん、今まで本当にありがとう。そして、ごめん。何も気づかなくて」「もういいの。その話は」姉さんは優しく首を振った。俺はずっと言えずにいたことを、この日ようやく口にした。「姉ちゃん、俺の会社の名前、リアンって言うんだ。あれ、フランス語で絆って意味なんだよ。俺と姉ちゃんの絆。それを忘れないようにつけたんだ。姉ちゃんがいてくれたから、俺はここまで来られた。あの名前は、姉ちゃんへの感謝の印なんだ」姉さんは目をまん丸にして、それからまた泣き出してしまった。「もう、なんでそういうこと、早く言わないのよ」泣きながら、笑っていた。その笑顔は、俺が生まれて初めて見るような、何の影もない晴れやかな笑顔だった。
姉さんは今、シジさんとふたりで穏やかに暮らしている。シジさんの工務店を手伝いながら、時々近所の子供たちに手作りのお菓子を振る舞っているらしい。あの五百円の手鏡は、今も姉さんの家の箪笥の上に置いてある。先日、俺はふたりの住む小さな家を尋ねた。シジさんが自分の手で丁寧に建て直したという、木の香りのする家だ。縁側で、姉さんとシジさんが並んでお茶を飲んでいた。庭では、シジさんが植えたという小さな花が揺れていた。「あら、蓮。いらっしゃい。今、お茶入れるわね」他愛もない、穏やかな風景だったけれど、その何でもなさこそが、姉さんが三十年かけてようやくたどり着いた場所なのだ。帰りは、シジさんが玄関先まで見送りに来てくれた。そして、ぽつりと言った。「蓮君。しおりさんは、俺が必ず笑顔にする。だから、お前はお前の家族を大事にしろ」俺は、深く頷いた。この人になら、安心して姉さんを任せられる。心から、そう思えた。
俺はと言うと、あの一件の後、少しだけ生き方を変えた。仕事一辺倒だった毎日を見直した。会社は、信頼できる役員たちに少しずつ任せるようにした。俺はずっと、立ち止まることが怖かったのだ。立ち止まったら、姉さんに恩を返せないまま終わってしまう気がして。けれど、姉さんが幸せそうに笑うのを見て、俺はようやく肩の力を抜くことができた。そして、俺にも隣を歩いてくれる人ができた。仕事ばかりだった俺がずっとそばにいてくれた人。辛抱強く、俺を待っていてくれた人だった。来年には、俺も父親になる。その報告をした時の姉さんの喜びようは、すごかった。電話の向こうで、またわあわあと泣いていた。「よかった。本当に良かった。蓮にも、やっと自分の家族ができるのね。赤ちゃんが生まれたら、お姉ちゃんに抱っこさせてね。たくさん美味しいもの作ってあげるんだから」電話の向こうのその弾んだ声に、俺は胸がいっぱいになった。姉さんはそれを聞いて、自分のことのように喜んでくれた。「よかった。蓮が笑っててくれること。それがお姉ちゃんの一番の幸せなんだから。あんたが笑ってれば、それでいい」姉さんのその言葉は、昔と何ひとつ変わっていなかった。けれど、今は俺もこう言い返すことができる。「姉ちゃんが笑っていれば、俺もそれでいいんだ」と。ああ、ふたりの兄弟だった。両親を早くに亡くして、寄り添うように生きてきた。長い間、姉さんが一方的に与えてくれるばかりの関係だったけれど、今は違う。俺たちはようやく、お互いを支える本当の家族になれた気がする。人生は長い。途中でひどい目に遭うこともある。それでも最後に、大切な人と笑い合えるなら。その人の本当の幸せを守ることができたなら。それだけで、生きてきた意味はあったのだと、俺は思う。



