夫の声がスマートフォンから流れ出した瞬間、全身の血が引いていくのが分かった。
「うちの嫁は俺にベタ惚れだから、何でも言うこと聞くんだわ。親の遺産だろうが何だろうが、俺様のためならほいほい金を出すってわけ。ちょろいもんだろう。はははは。」
親友の里見から送られてきた録音データ。その中で夫の浩司は、同僚たちの前で私のことを、私の両親のことを、まるで可笑しな玩具のように笑いものにしていた。
怒りを通り越して、涙さえ出てこなかった。ただ、心の奥底で何かがぶつりと切れる音がした。
「ゆき子、大丈夫?」
電話の向こうで里見が心配そうに尋ねる。私は震える声でなんとか返事をした。
「ええ、大丈夫。里見、ありがとう。この録音、すごく助かったわ。」
夫が私を笑いものにしているその裏で、私は静かに、着々と準備を進めていた。そして運命の日、私の反撃の合図と共に、インターホンが鳴り響く。郵便配達員が届けたのは、彼の人生を終わらせる、地獄からの通知書だった。
私の名前はゆき子。見栄っ張りで自己中心的な夫・浩司を専業主婦として支え、穏やかな結婚生活を送っていた。
だが、浩司が最初からそんな人間だったわけではない。結婚当初の彼は、私のことを心から大切にしてくれる優しい人だった。「ゆき子を世界一にするから」が口癖で、記念日には必ず小さな花束を贈ってくれる、そんな人だった。
しかし数年前、彼が昇進し、羽振りのいい同僚たちと付き合うようになってから、様子は少しずつ変わっていった。「男の価値は車で決まる」なんて言葉を口にするようになり、私とのささやかな幸せよりも、他人からの評価ばかりを気にするようになったのだ。
私が彼の体を心配して手料理を作っても、「同僚は奥さんと高級フレンチに行ったらしいぞ。うちは貧乏臭いなあ」と深いため息をつく。夫婦の記念日にささやかなお祝いを提案しても、「そんなみみっちいことして何になる?恥ずかしいだけだ」と一蹴されるだけ。
私は何度も、昔のように二人で笑い合いたいと歩み寄ろうとした。しかしその度に彼の冷たい言葉に突き放され、私の心は少しずつ冷えていった。それでも心のどこかで、「夫婦とはこんなものだ」「いつかはあの優しかった頃の彼に戻るかもしれない」と信じていたのかもしれない。
最近は毎晩のように高級車の分厚いカタログを眺めてはため息をついていたが、それも男の夢なのだろうと、私は必死に自分に言い聞かせていた。
しかし、そんな私の最後の期待を裏切る事件が起きた。
ある日の夜、浩司は上機嫌で帰宅すると、私に一枚の契約書を突きつけてきた。
「ゆき子、ついに契約してきたぞ。これで俺も勝ち組だ。」
それは一千五百万円もする高級車の契約書だった。もちろん、私には一言の相談もない。
「あなた、私、免許も持ってないのよ。」
私がそう指摘すると、夫は一瞬言葉に詰まったが、すぐに悪びれもなくこう言ったのだ。
「そんなのどうでもいいんだよ。問題は金だ。お前、親から相続した土地があるだろう。その土地を売ればいい。」
その言葉に、私は冷静に反論しようと試みた。
「待って、あなた。あの土地は両親が私に残してくれた私の財産よ。将来のために、何かあった時のためにって……昔のあなたなら、もっとちゃんと話し合ってくれたはずよ。私たち、これからどうするの?」
しかし、そんな私の必死の訴えを、浩司は鼻で笑い飛ばした。
「はあ、話し合い?お前は専業主婦だろう。俺が稼いだ金で食わせてもらってる身分で、俺のやることに口出しするなよ。」
そして彼は、決定的な一言を冷たい表情で言い放った。
「お前の財産は、結婚したんだから、俺の財産でも当然だろ。ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと売る手続きしろよ。俺の成功のためなんだ。お前はそのサポートだけしてればいいんだよ。」
その一言で、私の心の中で何かが完全に砕け散った。私が必死に守ろうとしていた夫婦の思い出、そして最後の期待。あの優しかった頃の彼がいつか戻ってくるかもしれないという淡い希望。その全てが、この言葉で完全に跡形もなく消え去った。
私が愛した優しい浩司は、もうどこにもいなかった。目の前にいるのは、私の人生も私の財産も、全て自分の見栄のためにだけ利用しようとする冷酷な男。この瞬間、私の心に残っていた最後の愛情のかけらは、燃え盛る憎しみと、氷のように冷たい絶望へと完全に姿を変えた。
そして私は、静かに離婚と徹底的な復讐を決意したのだった。
その日から、私は従順な妻を演じることにした。
「あなた、土地の件だけど、不動産屋さんに相談してみる。」
私がそう切り出すと、浩司は待ってましたとばかりに嬉しそうな笑顔を見せた。
「話が分かるじゃないか。これでこそ俺の妻だ。さっさと手続き進めろよ。」
「ええ、進めるわ。あなたの破滅への道をね。」
私は心の中でそう呟き、静かに頷いた。私の同意を得たことで、浩司は完全に自分の思い通りになると信じ込んだのだろう。
「そうだ、土地を売るってんなら、手付け金代わりに、あり金でもよこせよ。これから高級車に乗る男が、みみっちい小遣いじゃ格好がつかないだろう。」
「でも、まだ売れたわけじゃ……」
私の反論を聞くや否や、彼は真っ赤になって怒鳴った。
「ああ、うるせえな。俺の金なんだから早くよこせ。」
そう言って、私が食費のために置いていた財布をひったくり、中身を全て抜き取っていった。
「三万か。少ねえな。しょうがねえ、この金は俺が使ってやるよ。」
その日から、彼の態度は日に日に傲慢になっていった。朝食の席につくなり、こう言い放つ。
「おい、土地の件はどうなってるんだ?まさか、まだ連絡してないなんてことないよな?」
「ええ、もちろん。今、査定をお願いしているところよ。」
私の言葉に、浩司は苛立たしげに舌打ちをした。
「ちっ、遅えな。俺を誰だと思ってるんだ?もっとテキパキやれよ。お前は俺の言うことだけ聞いてればいいんだよ。」
まるで私を下僕か何かのように顎で使う夫。ある日の夕食、私が心を込めて作った肉じゃがを見ると、浩司は箸で嫌そうにつつきながら、心底うんざりしたように言った。
「まだこんな貧乏料理作ってんのか。俺は稼いでるんだ。もっといいもん食わせろよ。」
以前の私なら傷ついていただろう。しかし今の私には、その言葉の一つ一つが復讐の炎を燃え上がらせる薪でしかなかった。
私の両親が残してくれた大事な土地。それを自分の見栄のために何の躊躇もなく売れと言い放つこの男を、私は絶対に許さない。
浩司の傲慢はそれだけでは終わらなかった。土地が売れると確信した彼は、まだ手元に一円も入ってきていないにも関わらず、狂ったような浪費を始めるのである。
ある日は、これ見よがしに高級腕時計の箱をテーブルに叩きつけた。
「どうだ、これ?課長の時計よりいいやつだ。これで俺の株も上がるってもんだ。まあ、お前みたいな女にはこの価値は分かんねえだろうけどな。」
その時計は、私が何ヶ月も節約して暮らす生活費の何倍もの値段がした。
「あなた、お金はどうしたの?」
私が恐る恐る尋ねると、浩司は鼻で笑った。
「心配すんな。もうすぐお前の土地を売った手付金が入るんだ。お前には関係ないことだ。」
またある日は、羽振りのいいブランドのスーツを着て帰ってきた。そのスーツからは、私の知らない甘い香水の匂いがした。
「これで来週の接待もばっちりだ。部長も俺を見る目が変わるだろうぜ。」
「素敵なスーツね。香水も……」
私がそう言うと、浩司は私の着ている普段着を頭のてっぺんから爪先まで見下し、鼻で笑った。
「ああ、分かるか?一流の男は匂いから違うんだよ。お前に染みついた安っぽい洗剤の匂いとは大違いだな。」
私の心は、冷たく、そして静かに凍りついていくのだった。
そんな日々が続いていたある週末、一本の電話が鳴った。学生時代からの親友、里見からである。実は里見は浩司と同じ会社の同期で、浩司とは里見の紹介で知り合ったのだった。
「ゆき子、ごめん。急に……今、大丈夫?」
いつも明るい彼女の声が、なぜかひどく沈んでいた。
「里見、どうしたの?何かあった?」
私の問いかけに、里見はためらいがちに話し始めた。
「うん。私が何かあったわけじゃなくて、あのね、すごく言いにくいんだけど……」
電話の向こうで里見は言葉を濁していた。そして、意を決したようにこう続けた。
「昨日、会社近くの居酒屋で浩司さんのこと見かけたの。会社の同僚と一緒だったんだけど、その時の会話がどうしても気になって……」
里見は隣の席から聞こえてきた会話を、こっそり録音してくれていたのだ。
「ごめんね。盗み聞きなんて最低だって分かってるんだけど、でもゆき子のことが心配で……」
送られてきた音声データを、私は震える指で再生した。
「いやあ、浩司はいいよな。もうすぐ新車が来るんだろ。」
同僚らしき男性の声に、浩司の大きな笑い声がかぶさる。
「おうよ、一千五百万の最高級グレードだ。これで俺もエリートの仲間入りだよ。」
「それにしても、よくそんな金があったな。」
「ああ、うちの嫁に土地を売らせるんだよ。あいつ、俺にベタ惚れだからさ。何でも言うこと聞くんだわ。親の遺産だろうが何だろうが、俺様のためならほいほい差し出すってわけ。ちょろいもんだろう。はははは。」
下品な笑い声。私の全身から血の気が引いていくのが分かった。ベタ惚れ、ちょろい。彼は同僚たちの前で、私のことを、私の両親のことまで、こんな風に笑っていたとは。
怒りを通り越して、涙さえ出てこない。ただ心の奥底で、何かがぶつりと切れる音がした。
「ゆき子、大丈夫?」
私は非常に冷静な声で返事をした。
「ええ、大丈夫。里見、ありがとう。この録音、すごく助かったわ。」
里見は私を心配してくれたが、私はもう大丈夫だった。これで、ためらう理由は何一つなくなったのである。
そしてその日の夜、決定的な事実を私は目にすることになった。
浩司が酔ってリビングのソファで寝静まったのを確認し、私は彼のスマートフォンをそっと手に取った。パスコードは彼の誕生日。見栄っ張りで自己中心的な彼なら、そうに違いないと思っていた。案の定、ロックは簡単に解除された。
メッセージアプリを開くと、一番上に見慣れない名前があった。「ミホ」。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。そのトーク画面を開いた瞬間、私は息を飲んだ。
「浩司さん、お仕事お疲れ様。新車、もうすぐなんだよね。」
「ああ、もうすぐだ。納車されたら一番にミホを迎えに行くからな。」
そこには、吐き気を催すような甘ったるい会話の履歴が並んでいた。
「本当、嬉しい。でもそんな高い車、お金は大丈夫なの?奥さんに怒られない?」
「大丈夫だって。ゆき子の金だから気にすんな。あいつの土地を売れば一千五百万なんて余裕よ。」
「そっか。じゃあその車で、今度の週末、温泉旅行に連れてってね。」
「ゆき子の金だから気にすんな。」その一言が、私の目と心に焼きついて離れない。
私はこの男にとって、ただの金蔓でしかなかったのだ。私の愛情も、献身も、全て踏みにじられ、彼はその上で若い女と未来の計画を立てていた。
私が相続した土地を売った金で買った車で、浮気相手と温泉旅行に行く。ふざけるな。ふざけるな。
私はスマートフォンの画面を食い入るように見つめながら、静かに涙を流した。でもそれは悲しみの涙ではない。怒りと屈辱と、そして冷たい決意が入り混じった、復讐の誓いの涙だった。
私は全てのメッセージ履歴を自分のスマートフォンで撮影し、証拠として保存した。もう、あなたに情けをかける必要はないのだ。
ソファでいびきをかく夫の寝顔を、私は氷のように冷たい目で見下ろしていた。
そして、運命の日は、一本の電話によって幕を開けた。
リビングでテレビを見ていた浩司のスマートフォンが鳴った。
「おう、ディーラーからだ。納車日の連絡かな。」
画面を一瞥した彼は得意気に言いながら、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし。え?はい、はい……はあ?支払いがまだってどういうことですか?いや、だからもうすぐ入る予定で……最終通告?ふざけるな。こっちは客だぞ。」
電話の向こうの相手に怒鳴り散らしたかと思うと、浩司は乱暴にスマホをソファに叩きつけた。そして、血走った目で私を睨みつける。
「おい、ゆき子。どういうことだ?ディーラーから最終通告の電話があったぞ。土地の金はまだなのか?」
私は読んでいた本を静かに閉じ、ゆっくりと立ち上がった。この時をずっと待っていたのだ。
「ええ、土地は売ったわ。先週、無事に決済も終わって、お金も振り込まれたわよ。あなたが想像している以上の、いいお値段でね。」
「な、じゃあなんで払ってないんだ?さっさと振り込め。」
私は彼の言葉を静かに、しかしはっきりと拒絶した。
「嫌よ。」
私の拒絶に、浩司は一瞬言葉を失ったようだった。
「は?今、何て言った?」
「だから、嫌だと言ったの。そのお金は、あなたのためには一円足りとも使わないわ。」
私の冷静な態度に、浩司の怒りは頂点に達した様子だ。
「ふ、ふざけるな。お前、俺を誰だと思ってるんだ?俺の金だぞ。」
「いいえ、違うわ。あれは私の両親が残してくれた、私の資産よ。あなたの金ではないわ。」
彼はテーブルを拳で叩き、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「てめえ、俺に逆らう気か?誰のおかげで生活できてると思ってるんだ。」
「あら、生活費なら、あなたがブランドを買い漁っている間も、私が昔の貯金を切り崩して何とかしていたのよ。」
私は用意していた数々の証拠を、テーブルの上に一枚、また一枚と並べていった。まずは、彼が浪費したクレジットカードの明細書のコピー。
「この高級腕時計、このブランドスーツ。全て、土地を売ったお金を当てにして買ったものよね。」
次にスマートフォンを取り出し、録音を再生する。
「うちの嫁は俺にベタ惚れだからさ。ちょろいもんだろう。」
自分の下品な笑い声がリビングに響き渡ると、浩司の顔からさっと血の気が引いた。
「な、なんだそれは?」
「里見が録音してくれたの。あなたが同僚たちの前で、私のことをどう話していたか。よく分かったわ。」
そして私は最後の証拠を突きつける。彼のスマートフォンから撮影した、ミホとのメッセージのやり取りを印刷した紙の束だ。
「な、お前、俺のスマホ……。」
「ゆき子の金だから気にすんな。よくもそんなことが言えるわね。」
私は震える声で続けた。
「私の両親が汗水垂らして働いて守り抜いた土地、私に残してくれた大切なお金よ。それをあなたは、浮気相手との温泉旅行のために使おうとしていたのね。」
全ての証拠を突きつけられ、浩司は為す術もないようだった。言い訳の言葉を探すように、口をパクパクさせている。やがて、言い逃れができないと悟ったのか、彼は獣のような声をあげて私に掴みかかろうとした。
「よくも、よくも俺をコケにしてくれたな。俺の人生をめちゃくちゃにしやがって。」
その瞬間だった。ガチャリと鍵が開く音がして、玄関のドアが勢いよく開く。
「浩司さん、遅いから来ちゃった。車の話、どうなったの?」
甘ったるい声と共にリビングに現れたのは、浮気相手のミホだった。どうやら浩司は、私が家にいるにも関わらず、彼女に合鍵まで渡していたらしい。しかしリビングの異様な雰囲気に、ミホの顔が凍りつく。テーブルに散らばる書類、鬼の形相の浩司、そして氷のように冷たい目をした私。
浩司は、最悪のタイミングで現れたミホを見て顔面蒼白になった。そして、全ての怒りと責任を押し付けるかのように、彼女に怒鳴りつける。
「ミホ、お前のせいだぞ!お前があの車が欲しいとか、ブランドがどうとか言うから、こんなことになったんじゃないか!」
突然の罵声に、ミホもカチンと来た様子だ。
「はあ?何言ってんのよ。あんたが勝手に見栄張って買ったんでしょ。大体、このおばさん一人丸め込めないなんて、本当に使えない男ね。」
二人は見苦しい責任のなすり合いを始めた。
「なんだと、この泥棒猫が!」
「消え失せなさいよ、能無しはどっちよ!」
私はその滑稽な茶番を、静かに見つめていた。
「見苦しいわね。でも、あなたたちの茶番劇ももう終わりよ。」
私の静かな声に、二人ははっと我に返ったようにこちらを向く。その時だった。ピンポーン。間の抜けたインターホンの音。浩司の動きがぴたりと止まる。私が玄関に向かうと、そこに立っていたのは郵便配達員だった。
「ご苦労様です。」
私が受け取ったのは、二通の物々しい封筒。一つには「裁判所特別送達」、もう一つには「内容証明郵便」と赤字でスタンプが押されている。
リビングに戻り、その封筒を浩司の目の前に置いた。
「な、なんだこれは?」
「開けてみれば分かるわ。」
震える手で、浩司はまず内容証明郵便の封筒を破る。中から出てきた書類に目を通した彼の顔が、見る見るうちに蒼白になっていく。ミホも横からそれを覗き込み、ひっと短い悲鳴をあげた。
「それは、あなたが使っているカード会社からよ。私が事前に弁護士を通じて、あなたの浪費による財産侵害と、支払い能力を超えた利用について通告しておいたの。」
書類には、彼が今まで買い漁ったブランド品などの合計金額、三百八十七万円を一括で支払うようにという厳しい文言が並んでいた。
「さ、三百……うそだ……。」
浩司は、恐る恐るもう一通の特別送達を開ける。それは車のディーラーが起こした、ローン支払いを求める訴訟の通知だった。契約した一千五百万円の支払いが滞っているため、法的手続きに移行するという最終通告。
浩司はその場にへなへなと崩れ落ちた。
見栄とプライドのために契約した高級車。私のお金で手に入れるはずだった彼のステータス。その全てが、今や莫大な借金となって彼に牙を向いていた。
一千五百万円の車のローン、三百八十七万円のカードローン。合計約千九百万円。彼の年収をはるかに超える、絶望的な金額が彼の肩にのしかかった瞬間だった。
「ゆ、ゆき子、頼む、助けてくれ!俺が悪かった!」
さっきまでの威勢はどこへやら。彼は床に這いつくばって、私の足にすがりついてくる。私はそんな彼の姿を、氷のように冷たい目で見下ろした。
「助けないわ。自業自得よ。」
私は寝室から、あらかじめ荷造りしておいたスーツケースを持ってきた。そしてテーブルの上に一枚の紙を置く。私がすでに署名と捺印を済ませた、離婚届だ。
「離婚!?待ってくれ!」
私は彼の言葉を無視する。
「もう、あなたと話すことは何もないわ。」
私はスーツケースを引き、一度も振り返ることなく玄関のドアを開けた。外の空気は驚くほど新鮮で美味しかった。長年私を縛りつけていた重い鎖が、バラバラと崩れ落ちていくようだった。
自由になったのだ。
浩司はこれから、借金地獄の中で、最も嫌いな見栄の張れない惨めな生活を送ることになるだろう。
それから数ヶ月が過ぎた。私は弁護士を通じて正式に離婚を成立させ、相続した土地を売却した資金をもとに、新しいマンションで穏やかな生活を始めていた。
夫の顔色を伺う必要のない、静かで自由な毎日。朝、窓から差し込む光を浴びながら飲むコーヒーが、こんなにも美味しいなんて知らなかった。失われた時間を取り戻すように、私は自分のためだけに生きる喜びを噛みしめていた。
そんなある日の午後だった。穏やかな日常を破るように、インターホンの音が鳴った。宅配便の予定はない。嫌な予感を覚えながら、私はそっとドアの覗き穴を覗き込んだ。
そこに立っていたのは、変わり果てた浩司の姿だった。あの頃の良いブランドスーツはヨレヨレの安物のジャージに変わり、自信に満ちていた顔には無精髭が伸び、目だけは異様にぎらついている。あの頃の王様のような威厳は、どこにもなかった。
「どうして、ここが……」
恐怖で体が動かなくなる。しかし、ここで怯えていてはまたあの頃と同じ。私は意を決して、ドアチェーンをかけたまま、重い扉を少しだけ開けた。
「ゆき子、ゆき子、俺だ。」
ドアの隙間から、彼は必死に声をかけてくる。その声はかつての自信に満ちたものではなく、何かに追い詰められたような掠れた声だった。
「何の用かしら。あなたとはもう、何の関係もないはずよ。」
「頼む。中に入れてくれ。話を聞いてくれ。」
私はその申し出をきっぱりと拒絶した。
「嫌よ。話すことなんて、何もないわ。」
私がドアを閉めようとすると、浩司は隙間に必死に手をねじ込んでくる。そしてその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「ゆき子、俺が悪かった。本当に、俺が全て間違っていたんだ。」
彼はアスファルトに額を擦りつけ、みっともなく泣きじゃくり始めた。
「これから毎日借金取りに追われて、会社にも居場所がなくて、もうどこにも行くところがないんだ。頼む。もう一度、もう一度だけチャンスをくれ。今度こそお前を大切にするから。」
その姿はあまりにも惨めだった。しかし私の心は、不思議なくらい一ミリも動かない。彼はただ、自分の居場所がなくなったから、最後の逃げ場として私を頼ってきただけ。その魂胆は見えていた。
「今更、何を言っているの?散々私を見下して、裏切ってきたくせに。お断りよ。」
私が冷たく言い放った瞬間、浩司の態度が豹変した。さっきまでの惨めな表情が消え、憎しみに満ちたあの頃の顔に戻る。
「やっぱりお前のせいじゃないか!お前が俺を嵌めたんだろう!」
彼は憎しみを込めた目で私を睨みつけた。
「そうだよな。お前が全部仕組んだんだ。よくも俺の人生をめちゃくちゃにしてくれたな!」
彼は逆切れし、ガタガタとドアチェーンを揺らし始めた。
「こうなったら、お前の悪行を会社や友人に言いふらしてやる!お前だってただじゃ済まないからな!」
見苦しい脅迫。自分の過ちを認めず、全ての責任を私に押し付けようとする、彼の腐り切った本性である。その時だった。
「ちょっと、何やってんのよ!」
高い声がマンションの廊下に響き渡った。声の方を見ると、そこに立っていたのは派手な服を着た若い女、ミホだ。
「ミホ!?なんで、お前がここに……」
「あんたがこそこそ出かけるから、後をつけてきたのよ。やっぱりこの女に泣きつきに来てたわけね。情けない。」
どうやらミホは、浩司の最後の頼みの綱が私であることを見越して、後をつけてきたらしい。浩司は愛人であるミホにまでこんな惨めな姿を見られたことで、顔を真っ赤にした。
「うるさい!お前のせいでもあるんだぞ!お前があの車を欲しがったり、ブランドを狙ったりするから!」
「はあ?あんたが勝手に見栄張って買ったんでしょ?人のせいにしないでよ、この能無し!」
マンションの廊下で、二人は見苦しい言い争いを始める。近所の人が何事かとドアを開けて、遠巻きにこちらを見ていた。
「でも、残念ね。その茶番も、もう終わりよ。」
私はゆっくりとスマートフォンを取り出した。私のその落ち着き払った態度が、逆に二人のヒステリーを煽ったようだった。
「なんだ、その態度は?スマホなんか見てる余裕があるのか?」
「ええ、あるわよ。あなたたちに見せたいものがあるの。」
私はあるSNSのグループ画面をスクリーンショットで保存した画像を開き、その画面をドアの隙間から彼らに向けた。それは、私の友達の里見を含めた、浩司の同僚が何人も参加しているグループのトーク画面のスクショ画像だった。
「な、なんだこれ?」
画面には、彼の同僚たちのメッセージが並んでいる。
「なあ、知ってるか?浩司のやつ、最近やばいらしいぜ。」
「ああ、知ってる知ってる。何でも、奥さんの遺産で一千五百万の車買おうとして、奥さんに逃げられたんだってな。」
「マジかよ。あいつ、飲み会じゃ『嫁は俺にベタ惚れ』とか言って調子乗ってたのに。ダサすぎだろ。」
「まさに、女の金で生きるダサい男の見本だな。」
「本当それ。元々、仕事もできないくせに、デカい顔してただけだしな。」
スクショ画像を見ると、出るわ出るわ。浩司を嘲笑する言葉のオンパレード。彼が必死に築き上げてきた「できる男」という虚像。それが無惨にも崩れ去った。
浩司の顔から、見る見るうちに色が消えていく。彼は信じられないというように、スマホの画面と私の顔を交互に見て、わなわなと震えていた。
「驚いた?あなたが知らないうちに、あなたの本当の評価はもう、みんなに知れ渡っているのよ。」
浩司は信じられないとばかりに首を振る。
「なんで……誰が、こんなこと……」
「里見に協力してもらったの。この同僚たちとのスクショ画像もね。私が家を出た後、里見が何人かの信頼できる友人に持ちかけてくれたの。『浩司さんが大変なことになったみたいで、心配で』ってね。そして友人たちに、事の経緯を丁寧に説明したの。浩司が浮気相手のミホのために私の土地を売らせて車を買おうとしたこと。そしてそれが失敗して、莫大な借金を背負ったこと。その話に、決定的な証拠として添えたのが、あの録音データだったのよ。」
「うちの嫁は俺にベタ惚れだからさ。ちょろいもんだろ。」
自分の声で語られる、妻への侮辱。その証拠はあっという間に友人から友人へと広まっていった。誰も浩司の味方をする者はいなかった。
見栄とプライドが命だった彼にとって、影で笑い者にされ、「能無しの男」だと見下されること。それはお金を失うことよりも、何よりも耐え難い屈辱のはずだった。
「そ、そんな……嘘だ。」
彼は力なくその場にへたり込む。自分が信じていた世界が、足元から崩れ去ったのだ。
それまで浩司を知っていたミホも、彼が完全に終わったことを悟ると、私に媚びるような視線を向けた。
「あ、あの、奥様。私もこの男に騙されてたんです。」
私はそんな彼女を軽蔑した目で見つめ、一言だけ告げる。
「あなたにも、後日弁護士から慰謝料請求の通知が届くから、楽しみにしていてちょうだい。」
ミホは「ひっ」と短い悲鳴をあげ、顔面蒼白になると、雲の子を散らすように逃げていった。
一人残された浩司は、顔をくしゃくしゃにして再び私に謝罪を始める。
「ゆき子様、どうか、どうかお許しを。もうしませんから。」
「あなた、お金よりもプライドが大事な人だったわよね。その大事なプライドは、もうズタズタよ。」
私は弁護士の名前を告げ、冷たく言い放った。
「これ以上、私や私の周りの人間に付きまとうなら、今度はどうなるか分かっているでしょう。弁護士を通じて、正式に接近禁止の申し立てをします。そして、これまでの暴言や精神的苦痛に対する、高額な慰謝料請求も行います。そうなれば、あなたは社会的に完全に終わるわ。それでもいいの?」
法的な措置、そしてさらなる金銭的要求。その言葉は、彼の心をへし折るのに十分すぎるほどの威力を持っていた。浩司は顔面蒼白のまま、何も言えずにただ首を横に振るだけだった。やがて彼は幽霊のようにフラフラと立ち上がると、一度もこちらを振り返ることなく、力なく去っていった。
その背中は、かつての傲慢な王様の姿ではなく、全てを失った惨めな男のものだった。
私はドアを閉め、鍵をかけ、大きく息を吐く。これで本当に、全てが終わったのだ。
私の復讐は、ただ彼からお金を奪うことではなかった。彼が最も大切にし、拠り所にしていたものを、根こそぎ奪い去ること。それこそが、本当の復讐だったのである。
あれから浩司が私の前に現れることは、二度となかった。共通の友人だった里見から、彼のその後の話を少しだけ聞く。
浩司はあの後、すぐに会社での立場を失ったらしい。彼の悪行はあっという間に社内中に広まり、誰からも相手にされず、腫れ物のように扱われる日々。プライドの高い彼がそんな環境に耐えられるはずもなく、結局自ら会社を辞めていったそうだ。もちろん、彼を雇ってくれるようなまともな会社は見つからなかった。友人たちも、彼の元から去っていったのだとか。
相手だったミホも、浩司がお金を持っていないと知るや、あっさりと彼を捨てて別の男に乗り換えたらしい。今では莫大な借金の返済に追われながら、古いアパートの一室で、たった一人、惨めな生活を送っていると聞いた。
彼が何よりもこだわっていた見栄も、プライドも、ステータスも、もうどこにもない。自業自得という言葉が、これほど似合う結末もないだろう。
一方、私はと言うと、あの重苦しい家から解放され、今は自分のためだけの穏やかで自由な人生を歩んでいる。両親が残してくれた土地を売却したお金を元手に、セキュリティのしっかりしたマンションに引っ越し、ずっと挑戦してみたかったことを始めた。
まずは、自動車の教習所に通い始めたのだ。浩司に「お前には無理だ」と馬鹿にされ、諦めていた運転免許。来月には、自分の運転で里見と温泉旅行に行く計画を立てている。あの男が浮気相手と行こうとしていた汚れた計画とは違う。私と、私の大切な友人との、新しい門出を祝う旅である。
今になって心から思う。理不尽な仕打ちに対する本当の復讐とは、相手からお金を奪うことでも、不幸を願うことでもない。相手が最も大切にしている価値観、あの男の場合は見栄とプライドだったけれど、それを根こそぎ奪い去り、自分の人生を輝かせることなのだと。
もう二度と、誰かの見栄のために自分を犠牲にしたりはしない。私の人生は、私のものだ。
窓の外に広がる青空を見上げながら、私は晴れやかな気持ちで、新しい一歩を踏み出すのだった。



