会議室のドアが開いた瞬間、男は俺の手から契約書を奪い取り、ビリビリに破り捨てた。「中卒の詐欺師は出て行け。この契約は白紙だ」二十七億円の契約が、床に散らばる紙切れに変わった。十年付き合いのある田村部長が青ざめて俺を見ている。俺は四十一歳、営業課長。中卒だが現場を十五年経験してきた。加藤と名乗る男は五年前、俺を「底辺」「詐欺師」と罵倒した人物だった。まさか再会がこんな形になるとは。俺は怒りを堪…

会議室のドアが開いた瞬間、男は俺の手から契約書を奪い取り、ビリビリに破り捨てた。「中卒の詐欺師は出て行け。この契約は白紙だ」二十七億円の契約が、床に散らばる紙切れに変わった。十年付き合いのある田村部長が青ざめて俺を見ている。俺は四十一歳、営業課長。中卒だが現場を十五年経験してきた。加藤と名乗る男は五年前、俺を「底辺」「詐欺師」と罵倒した人物だった。まさか再会がこんな形になるとは。俺は怒りを堪...

契約書をビリビリに破きながら、加藤と名乗る男が叫んだ。中卒の詐欺師は出て行け。この契約は白紙だ。俺はただ黙って、床に散らばる紙切れを見つめていた。腹は立ったが、ここで感情を爆発させても何も生まれない。十年来の付き合いがある田村部長が、青ざめた顔で俺を見ている。

俺の名前は石橋。四十一歳。業界で中堅クラスの精密機械メーカーで営業課長を務めている。中卒だが、十五年前に技術部へ異動し、現場を経験してきた。営業でありながら現場を熟知している人材として、周囲からそこそこ頼りにされていた。

俺が田村部長の会社を訪れたのは、完成した反動体検査装置の契約を交わすためだった。装置は計十台で総額二十七億円。昨今需要が急伸している反動体の品質管理には、高性能な検査装置が不可欠だ。田村部長の会社は本格的な製造を始めたばかりで、俺たちの装置を高く評価してくれていた。

田村部長は満面の笑顔で俺を迎え、契約書に目を通した。この人は大手企業の部長でありながら、中堅メーカーの俺にも気持ちよく接してくれる。長く付き合っていきたいと思える人物だった。

装置は計十台で総額二十七億円ですね。田村部長が言う。この点について理解してくれていた。契約は田村部長の会社の専務も承認済みで、我が社の技術力を高く評価しているという話だった。

装置が本格的に稼働して状況が落ち着いたら、一緒に飲みに行きませんか。奢りますよ。田村部長が笑う。俺も釣られて笑顔になった。

だが、その平和な空気は突然壊された。第三者が会議室に入ってきたのだ。迷惑そうな顔をして、俺たちを睨みつける男がいた。俺は利用予約をしているはずだが、部屋を間違えてないか。

田村部長が冷静に返す。加藤部長、この会議室は私の名前で予約を取っていますよ。

加藤。その名前を聞いて、俺の記憶が一気に蘇った。五年ぶりだ。

加藤さんは以前、大手メーカーで働いていた。田村部長の会社が外部から招集した新しい営業部長だという。五年前、俺が当時の加藤さんの会社に製品を売り込みに行った際、あちらの担当者として初めて会ったのだ。俺の説明を一通り聞いた加藤さんは、突然関係のない質問をしてきた。

ところで、あなたの学歴は?

恥ずかしながら、中卒です。当時、実家はシングルマザーの家庭で金に余裕がなかった。中学生のときに母が体を壊し、高校へ進学することもできなかった。俺を拾ってくれたのが今の会社だ。返しきれない恩がある。

しかし、加藤さんは中卒と聞いた瞬間、思いきり眉を寄せた。なんだ、底辺か。中卒って、よほどバカだったんだな。自分が何を売っているかすら理解していないだろう。この価格が適正だとでも思っているのか。こんなのは詐欺だ。詐欺。中卒のくせに詐欺をしようという度胸は、ある意味感心するがな。

俺は詐欺をするつもりはなかった。役に立つ商品を適正価格で紹介しただけだ。しかし加藤さんは罵倒を続け、しまいには追い払われた。無駄な時間を取らされたな。さっさと帰れ。

怒りと困惑の入り混じった複雑な感情を抱えて会社を後にしたあの日を、俺は忘れたことがなかった。

そして今、五年ぶりに加藤さんと再会した。あちらは俺のことを覚えていないらしい。しかし、田村部長を馬鹿にするような物言いを聞いて、嫌な記憶が一気に蘇ってきた。

あんたは確か製造の田村部長か。すまんな。現場の人間の顔は覚えてなくて。加藤さんの顔に、田村部長を軽蔑する感情が浮かんでいる。田村部長は一瞬だけむっとした顔になったが、すぐに笑顔で言い返した。

そうですか。では、ぜひ覚えて帰ってください。

今度は加藤さんが苛立ちを見せた。何か反撃のネタはないかと、視線がうろちょろと動く。そして、俺の手元にある契約書に視線が止まった。それは反動体の検査装置に関する契約書だ。加藤さんは俺の言葉も聞かず、無許可で契約書を手に取ると、パラパラと中身を確認し始めた。

二十七億だと。おい、どういうことだ。加藤さんが俺に迫ってくる。

製造部門の設備投資で、経営会議で承認済みです。田村部長が冷静に返すが、加藤さんは無視した。俺の顔をじっと見つめ、その目が嫌な形に細くなる。

前、もしかして中卒の詐欺師か。

どうやら思い出したらしい。同時に、五年前に言われた罵倒を再び聞くはめになった。

少し前にお会いしたことはありますね。確か、ものすごい弱小企業だったよな。そんな会社に二十七億も払おうとするなんて。あんた、正気か。頭の病院に行ったほうがいいぞ。

俺の会社は弱小企業ではない。加藤さんの会社より規模は小さいが、業界ではそれなりの歴史と安定した地位を確保している。何か言い返そうと口を開いた瞬間、加藤さんはとんでもない行動に出た。

中卒の詐欺師は出て行け。この契約は白紙だ。

そう叫んだかと思うと、契約書をビリビリに破って床に捨てたのだ。俺と田村部長は目を丸くして、破られた契約書を見つめるしかなかった。

営業部長命令だ。契約はなし。分かったら、さっさと帰れ。

田村部長が声を荒げた。あなたにそんな権限はありません。この契約は経営会議で承認済みです。現場の人間が口を出すな。お前も早く出て行け。

加藤さんが軽く俺の肩を突いた。その瞬間、怒りが爆発しそうになるのを感じた。しかし、俺は堪えた。ここで感情的になっても、加藤さんが反省するわけではない。むしろ、冷静に動くべきだ。

分かりました。では、この契約はなかったことに。検査装置は他の会社に。そうですね、ライバル社にでも譲ります。

ま、待ってください。石橋さん。申し訳ありません。田村部長が慌てるが、俺は首を振った。

ここまでされたら、契約破棄をするしかありません。では、失礼します。

上は冷静さを保ったまま、俺は会議室を後にした。加藤さんは俺の対応に満足したようで、にやついた笑みを浮かべてこちらを見ていた。

翌日、俺は朝から部下のミスのフォローに追われていた。自分の仕事をする余裕もなく、車用スマホもずっと放置したままだった。ようやく一段落したタイミングで確認すると、田村部長の会社から百件以上の着信があった。このような鬼電は初めてだ。恐怖を感じつつ着信を確認していると、また電話がかかってきた。

もしもし。無視するわけにもいかず、電話に出ると耳をつんざく叫び声が聞こえてきた。

なんで電話に出なかったんだ。

その声は加藤さんだった。どうやら、昨日の契約破棄が大問題になったらしい。加藤さんは一気にトーンダウンした声で事情を話し始めた。契約の件を田村部長が上層部に報告したらしく、今朝出社したら専務に呼び出され、重要な契約を勝手に破棄したと問い詰められたのだ。

まさか、あんなに重要な契約だとは思わなかったんだ。まさか、今まで使ってた検査装置に異常が見つかって、不良品率がここ最近で一気に上がってたなんて知らなかったんだ。この状況を放置したら、大口の顧客を失う可能性があるなんて。

そうだろう。俺たちが納品する予定だった検査装置は、世界で三社しか作れない超高精度なものだ。国内で対応しているのはうちの会社だけ。しかも、加藤さんの会社はすぐに装置を必要としている。この事実を知っていたのは製造部のトップである田村部長と、製造装置の購入を承認した上層部だけだった。危機的状況を下手に広めれば、会社のブランドイメージが損なわれる可能性があるため、一部の社員しか知らされていなかったのだ。

だから、さっさと契約書を持ってこい。加藤さんが叫ぶ。

お断りします。

はあ? な、なんでだよ。

理由はいくつかある。まず、加藤さんの態度が気に入らない。特に理由もなく俺という取引相手を馬鹿にした結果がこの契約だ。なぜ俺が加藤さんの失態をフォローしなければならないのか。それに、俺は加藤さんのことが嫌いだった。嫌いな相手のために何かをしてやるほど、俺はお人よしではない。

そして何より、どうしても加藤さんの会社と契約できない理由があった。

昨日、検査装置はライバル社に譲りますと言いましたよね。十台すべてお譲りが決まっているので、そちらとは契約できません。

契約が破棄された直後、俺は加藤さんの会社のライバル企業に電話をかけていた。以前から我が社の装置に興味を持ってくれていた大手企業だ。担当者とはすでに連絡先を交換済みで、機会があればぜひ一緒に仕事をと事前に話をしてあった。おかげで話はスムーズに進み、今週中に契約締結をする予定で進めている。

お、お前、よりによってライバル社だと。うちから受けた恩を忘れたのか。非常識だぞ。

確かに恩はあるが、それは加藤さんではない。ご自身がしたことをお忘れですか? 契約書を破くなんて、非常識極まりない行動です。あなたには俺を非常識だと責める権利はありません。

冷静に言い返すと、加藤さんは再び言葉を失った。要件はこれで終わりですか? 忙しいので失礼します。おい、待て。加藤さんが何か叫んでいたが、無視して電話を切った。

それから一時間後、俺の元を訪ねてきたのは、冷や汗をかいている田村部長と、顔だけは知っている加藤さんの会社の専務だった。そして、二人に挟まれて顔面蒼白で震えている加藤さんがいた。

この度は、うちの加藤が本当に申し訳ございませんでした。田村から話はすべて聞いております。専務が深々と頭を下げる。

加藤部長を止められなかった。俺に責任があります。田村部長が俯く。

いえ、田村部長は悪くありませんよ。泣きそうになっている田村部長に、俺は優しく声をかけた。

専務が加藤さんを睨んだ。石橋さんに謝罪しろ。

俺と加藤さんの視線が交わった。お、申し訳ございませんでした。震える声で加藤さんが頭を下げる。

もう二度と、人を学歴で判断しないでください。俺はそれだけ言った。

加藤から聞いたのですが、契約はできないとのことで。詳しく話を伺ってもよろしいでしょうか? 専務の問いかけに、俺は素直に事情を伝えた。

そうですか。ご無理を承知でお願いします。どうか検査装置を、我が社にもお譲りいただけないでしょうか?

ここまで頼まれて、無理ですと断るのも忍びない。俺はある提案を専務に提示した。

完成品の十台はすでに売却先が決まっています。ですが、俺の方から事情を話して、何台か譲っていただくというのはどうでしょう?

そんなことが可能なのですか?

かなり無理を言うことになりますが、今から担当者の方に電話してみます。

早速電話をかけて事情を伝えると、一台上だけならという話になった。田村部長が考える。一台をフル稼働させれば、ギリギリ対応可能かと。しかし、長続きはしません。最低でも五台は欲しいところです。

そうか。石橋さん、金額は二倍出します。特急で新しい検査装置の作成をお願いしたいのですが。

そういうことならば、と俺は頷いた。何台かは順次納入させていただきます。

ありがとうございます。

改めて契約が締結され、専務と田村部長は安堵の息を吐いた。加藤さんも安心したような笑顔を浮かべているが、専務と田村部長は冷めた目を向けていた。

もう一つ、決めなければならないことがあります。加藤部長の処分についてです。専務が言う。

す、すみません。

すっとぼけた声をあげる加藤さんを無視し、専務は頷いた。そうだな。厳しい処罰を与えなければならない。

ちょ、ちょっと待ってくださいよ。加藤さんが慌てる。

俺も二人の話に割って入った。俺からもお願いします。加藤さんには散々迷惑をかけられました。正直、二度と関わりたくありません。

分かりました。取引先との取引業務には一切関わらせないようにします。おそらく異動処分になるので、本社の無関係な部署を選定するよう、役員たちに伝えておきましょう。

専務の返答に、俺はほっと胸を撫で下ろした。加藤さんは滝のような涙を流しながら専務にすがりつく。

専務、待ってください。問題は解決したじゃないですか。

ああ。だが、お前はまた同じことを繰り返すだろう。まったく反省していない様子だからな。

加藤さんは何度も首を横に振って否定するが、誰も彼を信じていなかった。

そういえば石橋さん。五年前に加藤さんと会ってたんですよね。その時も何かあったのでは? 田村部長が尋ねる。

ええ。この人のことを一度叱らないと、心の底から反省しないでしょう。短い付き合いですけど、それを確信するような出来事があったんですよ。

加藤さんは目を大きく見開き、はあはあと短い呼吸を繰り返した。いや、やめてくれ。頼む。もう二度とこんなことはしないから。

信用できません。大きな罰を受けてください。

情けない加藤さんの懇願に対し、俺は一切のためらいもなく言い放った。どうすることもできないと悟ったのだろう。加藤さんの震えは全身に広がり、足まで到達した。立っていられなくなったのか、近くにあった椅子に座り込んでしまった。

加藤さんはまともに動けなかったため、田村部長と専務が支えて会社を後にした。

それから一ヶ月後、田村部長からその後の顛末について電話で報告を受けた。

加藤部長は、庶務部に移動になりました。石橋さんの会社とは一切関わりのない部署です。

そうですか。それを聞いて安心しました。

庶務部は社歴の長い女性社員が多く在籍してまして、かなり癖の強い方ばかりなんですよ。今回の件は社内で噂になっていて、庶務部の女性社員たちが加藤部長の素行を叩き直してやると、気合いの入った指導をしているようです。

加藤部長は移動してまだ一週間ほどしか経っていないが、すでに満身創痍。見る影もなく痩せてしまったらしい。

まあ、登場の余地はないですね。呆れたような田村部長の声に、俺は笑って返した。

そうそう。検査装置の製造ですが、かなり順調ですよ。この調子なら、前倒しで納品できると思います。

本当ですか? 助かります。

田村部長の嬉しそうな声に、俺も釣られて明るい気分になった。これからも長く、いい付き合いを続けていきたいと思っている。

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